茶嶺4 仙人になった顔真卿(ガンシンケイ)
2012年3月4日
周文や雪舟の山水画をのぞくと、雄大な深山の奥にポツリと家が建ち、その周囲や窓の中に小さな人間が観える。川の流れを辿れば舟上で釣りをしている者や網を拡げている者がいる。川岸の柳の根方で一人釣り糸をたれ、渦巻く水面に踊る浮を眼で追う人がいる。山裾の岩棚への狭い石段を悠然と登る人がいて、その道の外れにある東屋には、対岸の絶壁上方からの千丈の滝を眺めている老人がいる。この人たちは、どのような人なのだろうか。また、山水画のなかのどの山荘も、切立つ岩山の根元や中腹に建ち、注意深く眼を凝らせば、その部屋の奥にも小さく人の形が描きこまれている。山水画の題材は、古い中国の風景なのだろうか。それにしても、どの山荘の宅地周辺も険い崖地で、河川のほとりに建つ家屋は水嵩があがれば濁流に巻きこまれる危険を孕んでいる。おそらく、これらの家屋総ては、現在の市町村の建築指導課が崖条令や地盤面の危険性を盾に、絶対に確認許可を出さないようなところに建っているように思えるてならない。
老眼鏡をつけて、さらに天眼鏡ごしに覗くと、建物内外に小さく姿を見せる人影が着けている衣装は、昔むかしに教科書のなかの挿絵で観た、儒家開祖の孔子が着ていたような袖口が広過ぎるゆったりとした着物だ。それらが窓から川を眺めたり、奥のほうで書籍をめくったりしているわけだが、このような山奥で気楽に日々を過ごしている人種は何を糧に生きているのだろうという思いが湧き上がってくる。
世にあるどのような様式の絵画でも、風景画となれば実際に存在するものを紙に写すものだが、山水画の場合は必ずしもそれに当てはまらないようにみてとれる。絶壁から谷側に張り出した巨大な岩棚の上に住宅があったり、少なからぬ水量の谷川を跨ぐように石灯篭の足のようなアーチ型で立ち上がる基礎を持つ中国風の寺院のようなものがあったりする画面は、日本古来の合掌造りの住宅のような落着きと安定性とが同居している。屹立している万丈の山々、深く切立つ千尋の谷。あまりにも出来すぎている。広い中国には想像を絶する名峰の連なりがあることは聞き及ぶことだが、画面を覆うこれらの景色が現実の世界に存在するわけはないと、いつも考えている。実際に存在している風景もあるかも知れないが、多くの場合は、先人が描いた様式型があり、雲のたなびく様々な山岳モデルがあり、山肌に這う様々な樹木を描いたカタログがあり、丸みのある様々な岩石、山々の裾を洗う様々河川などを組み合わせ、筆を持つ画人が、あらかじめ約束された法則にそって画布の上に再構築しているとしか思えない。
書を開くと、古来からの山水画は、神仙(ある種の神通力を持つ不老不死の仙人)や霊獣(龍、鳳凰、麒麟のような霊妙な動物)の棲みかとしての深山を山水画として表現したのは、遠く秦漢時代からだという。特に、山東省大安市にある泰山での封禅(ホウゼン=帝王の即位を天地に知らせ、天下泰平を感謝する儀式)などもあり、民衆の山岳信仰が山水画成立の元となっているようだ。そして4世紀には、霊地である名山を描いた山水画の鑑賞が盛んになっていたとある。当初の画法は、人物を山より大きく描き、樹木は櫛(クシ)の歯のような表現だったといわれる。しかし、中国内で述べつ勃発していた戦乱により、当初の絵画表現法の壁画のほとんどが破壊されて、唐代の山水画で現存する物は少ないといわれている。
北宋時代になってからの山水画は、巨大な自然に微小な人事を強調したもが圧倒的に多い。そして南宋時代には、絵の中の人物が周囲の山や水を鑑賞しているような設定のものが多くなった。自然の深淵を強調するためか、画面の一部に山岳を配して大きな空白部分を残したような技法もこのころに見られたという。
元時代(14世紀)には、専門の絵師ではなく文人の制作による山水画が発展成長した。元末には、それらの中から大家と呼ばれる者が数人でて、[アマチア画家が学ぶべき山水画様式]なども作品化された。そのなかには心象風景としての山水画などもでて、後世に大きな影響を及ぼした。この後の明時代には、南宋時代の画風を継承した画家が出現して北京宮廷に奉仕し、[浙派]などの流派を形成していく。また、官僚予備軍や学者の蘇州出身者が[呉派]を結成したともいわれている。明、清時代を通して大量の山水画が制作されたが、17世紀までは変化に富む作品が多かったが、その後から20世紀までは、特色が伴わない停滞期となった。これらを振り返ってみれば、中国山水画のスタート地点に神仙が背伸びして、小さく、ゆっくりと、手招きしているように思われてしかたない。
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唐時代の6代皇帝[玄宗(685~762年)]は、[安禄山の乱]を機に756年に帝位を7代皇帝[粛宗(シュクソウ=711~762年)]に譲り隠居した。そもそもこの[安禄山の乱]は、[玄宗]のお気に入りの地方長官[安禄山]が、権力争の相手[揚国忠(楊貴妃の一族)]が755年に宰相に就任したのを快く思わず、反乱に及んだものだ。安禄山は15万の兵をひきつ洛陽を落とし、翌756年に自分勝手に大燕皇帝を名乗ると帝都長安に攻めのぼったことに始まる。
[玄宗]側の正規軍司令官の武闘派将軍[高仙芝(コウセンシ=?~755年)]を、[辺令誠]という者の換言で敵前逃亡の罪に陥れて処刑してしまった後だった。残った者にはろくな者がおらず、[玄宗]、[楊貴妃]、[揚国忠]らは蜀(四川)へ少数の兵をつれ都落ちした。負け戦となると一般兵士は強気になるらしく、「お前が馬鹿だから負けたんだ」と宰相の[揚国忠]を殺してしまった。「そもそも、この原因を作ったのは[楊貴妃]だ」と兵たちが玄宗につめより、「彼女の始末は自分でやれ」といった。仕方なく宦官の[高力士]に彼女を殺害させる。あの民族が殺しを始めると、見境なく徹底的に実行するのが常で、司令官の陰口をいった張本人の[辺令誠]も殺された。
一方、長安を占領した安禄山は、まもなく大病を患い失明すると、やけになったのか元々そういう遺伝性でも持っていたのか凶暴化し、それが日ごとに激しくなっていった。安禄山の息子[安慶緒(アンケイショ=?~759)]は、躊躇せず父を殺した。[安禄山]の席に[安慶緒]が座ってから直ぐに唐の反撃が始まると、彼は単身長安を逃げ出してしまった。反乱軍の指揮権は[安慶緒]の配下の[史思明]が引き継いだ。唐の7代目[粛宗]もまた利口ではなく、自力では自信が持てないとウイグル族の力を借りて反乱軍を鎮圧した。長安を取り戻したことは誠に結構なことだったが、ウイグル族には長い期間に渡りその時の戦費をむしりとられることになった。最後に反乱軍の指揮を引受けた[史思明]も自分の息子に殺され、殺した息子は部下に殺された。ここでやっと[安禄山の乱=安史の乱]が終結した。中国は今と同じく、昔も、電卓を持って死者を数えなくてはならないほど危険なところだったようだ。
その後の[玄宗]は、皇帝の座を粛宗に譲り上皇となり、757年に奪還された長安に戻った。しかし、帝位にあるとき可愛がった宦官の[高力士]に計られ幽閉同然に隔離される。彼は失意の内に78歳で病死した。[高力士]は、[玄宗]のやむにやまれぬ命令による楊貴妃殺害犯でもあったが、長安に戻った朝廷内の時流をよく観たつもりか玄宗を幽閉同然にまでしたことで、己の発言力を弱めることにもなった。何のことはなく、彼もまた、自分の部下だった[李輔国]に草深い田舎に追放されてしまった。2年後に玄宗に呼び戻されての長安への帰路に[玄宗]の死を知り驚いたのか、硬直したあと血を吐いて死んだ。
[玄宗]の息子の[粛宗]もまた、よほどの根性なしだったのか、父親の亡くなった13日後に死んでしまった。彼は一応、父玄宗のあとを受け積極的に仕事に打ち込んだのだが、自分の妻の[張皇后]と、宦官の[李輔国]とが権力争いを始めるありさまをみて、どうせ自分の思い通りにならないと思ったのか、強度の鬱症状になったらしい。強すぎる奥様の犠牲者は、いつ世でも御主人ということになった。
この宮廷内では、[張皇后]が息子の[代宗]に[李輔国]を頭とする宦官一派の誅殺を命じたが、[代宗]が実行することをためれっているうちに、[李輔国]側が先手を打ち[張皇后]を殺してしまった。その後、[李輔国]もまた[代宗]の命令で別の宦官に誅殺されることになるが、この実行犯の宦官[元振]もまたいいタマで、陰では皇帝を馬鹿にしてかかる表面イエスマンで、やりたい放題に口をだしたために[代宗]の力は弱まるばかりだった。
一応、以上が、以下の物語の背景となる中国の唐王朝の大よその社会情勢である。
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唐時代の書の大家に[顔真卿(ガンシンケイ)709~786年]という有能な武将であり文官でもある人物がいた。709年(景龍3年)に長安で生まれた[顔真卿]の本(モト)をただせば、孔子十哲の一人[顔回(ガンカイ)=孔子の弟子随一の秀才]の末裔である。彼は不正や怠慢を嫌うあまり天子であろうと宰相であろうと直言することで、わずらわしく思う上役から7度に渡り左遷されたつわものである。
顔真卿は、若年から学、詩、書に優れた才能を持ち、734年(開元22年)25歳の若さで[科挙(カキョ)=官史登用資格試験]に挑み[進士(科挙の合格者)=ちなみにその合格率7000倍]となった。任官後は、様々な役職を歴任したが、753年(天宝12年)時の宰相[揚国忠(ヨウコクチュウ=楊貴妃の従兄弟)]にうとまれ[平原郡の太守(郡長官)]に左遷された。
[顔真卿(ガンシンケイ)]の名が全国に知れ渡ったのは、755年に安録山が河北で叛旗をかかげ洛陽に向け兵を進めたときだった。[安禄山]の進む沿線の郡太守の殆どが降伏したのに、平原郡太守[顔真卿]と、従兄の常山郡太守[顔杲卿(ガンコウケイ)]だけが朝廷側の旗をかかげて善戦した。配下の役人連中がコロコロ敵に寝返りを打つさまを観て、気弱になっていた[玄宗]が[顔真卿]の不動の忠誠に狂喜した。従兄弟の常山郡太守[顔杲卿]は力尽きて捕らえられたが、[安録山]の面前でその叛意をののしったあまり殺害された。その後も[顔真卿]だけは抵抗を続けたが、こらえきれずに、757年(至徳2年)に平原郡を放棄して[鳳翔(ホウショウ)]にある皇太子[後の粛宗(シュクソウ)]の許に走った。[顔真卿]は、悲劇的英雄ともてはやされている従兄弟の[顔杲卿(ガンコウケイ)]への同情票などもあったのか自身も英雄とあがめられ、仮朝廷だったとはいい、中央の法務大臣に復帰した。なおこの年、朝廷側は洛陽と長安を取り戻している。
法務大臣としての[顔真卿(ガンシケイ)]の裁定は厳しく、国防次官が酒気を帯びで入朝したこと、閣僚の一人が正式な朝廷の会議で静粛を乱した(大声で騒いだ)ことを弾劾したため、二人とも左遷されることになった。また、[粛宗]の長男が長安修復のために鳳翔を発つときに、所定の場所で乗馬する前に侍従長が乗馬した。これを弾劾した[顔真卿]に対し、[粛宗]は「朕の子はいつもしきたりを重んじているので失策はなかったが、侍従長は年老いて足も不自由なので、今回は勘弁してやってくれ」と、苦笑いしてから弾劾書を差し戻している。[顔真卿]が生涯を通して重んじたのは礼儀作法である。酒気帯び参内は言語道断。宮中の席に着いたら騒ぐな。古来からのしきたりを軽んじるな。行在所である地方官庁を臨時宮殿にしたもので万事粗末な雰囲気だっただけに、立居振舞えもゾンザイで、文書、行事なども簡略化されていたはずである。[顔真卿]は「こんな非常の際だからこそ、よけい気持ちを引き締めなければならない」と考えたのだろう。鳳翔における[顔真卿]の姿勢は、「豪華な場所で茶を飲むのではなく、粗末な狭いところで茶を飲む。それだけに礼にかなう振舞いをしなければならない」という陸羽の喫茶の道につうじている。礼体の弛緩は、あらゆる部分での崩壊をうながすおそれがある。国の体制や政治にかかわることだけではない。一個の人間の人格が破壊される危険がひめられているからだ。しかし現実は、彼の綱紀粛正の厳しさを息苦しく感じた宰相の差配などで、758年[顔真卿]は蒲州(山西省)太守に左遷された。
敬遠されての[顔真卿]の地方勤務も、2年で中央復帰がかなった。760年(乾元3年)2月、左遷前より1階級下の法務次官として中央に呼び戻されたのだ。だが、半年もたたないうちに、また蓬州(四川)に飛ばされた。これは、[粛宗]に信任の厚い宦官(カンガン)の[季輔国]に憎まれたからであった。というのは、退位して長安の西門にある[興慶宮]にいる上皇[玄宗]の許に、その西門をとおる廷臣が挨拶によることが多かった。なかには[玄宗]に復帰を勧める輩もいないではないと考えた[季輔国]は、上皇[玄宗]を外部と接触できない[太極宮]に隔離してしまった。[季輔国]のそんな思いをよそに[顔真卿]は、百官を引きつれて上皇[玄宗]のご機嫌伺いをしたのである。朝廷内の実権を握っていた[季輔国]が不快に思ったのは当然で、「こんな男は自分のためにはならない」と見切りをつけ、蓬州(四川)の地へ左遷してしまったわけである。
[顔真卿]は、762年(宝応元年)12月大蔵次官として、またまた中央に復帰した。そして、またもや法相まで登り詰めたが、復帰4年後に、こんどは宰相のと対立して、またまた地方に飛ばされた。世は[粛宗]の次の[代宗]の時代になっていて、[代宗]の寵臣[元載]は「全ての上奏文は各部局の長官から、宰相を通じて奏聞すべきである」とした。都合の悪いものは握りつぶせるからである。当然のように顔真卿は反対した。彼は峡州(湖北)に飛ばされ、そのあと吉州、撫州を経て湖州刺史(シシ=地方長官)となったのである。
[顔真卿]が湖州の刺史(シシ=州長官)に任命されたのが772年(大暦7年)9月で、着任は次の年773年正月で、彼は65歳になっていた。彼は56歳で当時の法相となり、時の宰相[元載(ゲンサイ)]を追求して左遷され、地方にあっても転勤の連続で10年の歳月を過ごしている。中央返り咲きの野心もないではなかったが、歳も歳なので「草深い田舎での悠々自適の生活もいいかもな・・」と思う気持ちがあったともうかがわれた。
[顔真卿]は、この湖州の地にあった陸羽(茶聖で著述家)や皎然(僧侶、詩人、著述家)や張志和(詩人、著述家)らと意気投合し、互いに文化人として認め合う交友がはじめられた。唐代の州の刺史(シシ=長官)の任務は、現在の日本の役人同様、公私の区別は薄かったのだろう。おそらく、その任務のなかには、高名な隠士や文士に類する文化人を保護することも含まれていたのかもしれない。当時の陸羽は、自著の[茶経]を10年前に出しているので、当時の文化人でもある[顔真卿]もそれを読んでいたと思われる。着任早々、陸羽の隠棲所[三癸亭(サンキテイ)]を建てたのは、以前から茶人陸羽に対して敬意を持っていたと考えるのが自然である。[顔真卿]は、茶の理想と自分の文化的理想が一致していると感じ取ったからであろう。[陸羽]もまた、自分が造りあげた喫茶文化の体系のなかに、過去に見聞きしていた[顔真卿]の人格的影響が組み入れられていたのかもしれない。
[顔真卿(ガンシケイ)]は、武人としても知れ渡っていたが、書家としての名声もまた高かった。彼は、古今の文献から佳句を収集し韻別に分類する[韻海鏡原]360巻を、76人の学者、文人が6年がかりで編纂するという事業計画をおこした。これは、結果的に地方の文人隠士に固定した収入が約束され、陸羽も皎然もこれに参画している。彼等は[韻海鏡原]編纂の打合わちせと称し、原寸大の山水画の中で会飲し、詩の応酬を楽しんだことであろう。いくたびも、いくたびも。
[陸羽]が[皎然]や[張志和]らの気心の知れた同士で[杼山(チョサン)]に山遊し、参加できなかった[顔真卿]のために、その山に咲く[青桂花(キンモクセイの一種か?)]を[顔真卿]に贈っている。杼山には[皎然]の寺があり、[顔真卿]が私財を投じて建てた陸羽の隠棲所もあった。[陸羽]は[韻海鏡原]編纂という定職の他に、住居まで提供されていたのである。
[韻海鏡源]の編纂は、[顔真卿]の若かりしころからの宿願で、湖州に赴任するまでに膨大な資料収集がなされていたことであろう。この整理段階で数十名の文士が集められていた。[顔真卿]が中央再復帰するに当たって、文士連が集い東渓に舟を浮かべて、これまた原寸大の山水画の中での送別会が催された。編纂業務のために従事した文士のなかには遠方から招聘された者もいて、業務完了とともに別れなければならなかったのだ。
編集委員会が解散しただけではなく、[顔真卿]も湖州を去らなければならなくなった。そもそも[顔真卿]が16年前、中央を去った原因である宰相[元載]が誅殺されたことにより障害がなくなったためである。これは、日増しに宰相[元載]の専横がつのり、[代宗]まで彼を不快に思うようになったからである。権力に陶酔している人は、この自分の権力が何によって就けられたか、わからなきなってしまうらしい。反逆罪で逮捕された[元載]と妻子、その一味ことごとくが、777年(大暦12年)3月に処刑されている。
[顔真卿]は777年(大暦12年)9月に、またしても刑部尚書(法相)に任命され湖州を去ることになった。この時、彼は69歳になっていた。波乱万丈の顔真卿にとって、6年間の湖州での[陸羽]、[皎然]、[張志和]らとの交友は、最も幸せな時期だったことであろう。[陶淵明(トウエンメイ=365~427年 詩人)]が、官職に登用されたのちに故郷で隠遁の生活を始め、晴耕雨読のなかで思索にふけるさまを理想としていた[顔真卿]だったが、実際の田園閑居は果たせず、陸羽や皎然などと過ごした湖州時代が、彼の理想には一番近かったようだ。
[玄宗]以来、[粛宗]、[代宗]、[徳宗]と皇帝が代わり、この間に宰相も[元載]、[崔祐甫]、[楊炎]、[廬杞]と代わっていった。中央復帰後の[顔真卿]は、[楊炎]にも嫌われて閑職の太子少師(皇太子の御守役)にまわされた。つぎの宰相の[廬杞]は、洛陽で[安禄山]に殺された御史中丞(地方長官の監督役)[廬奕]の子だった。[廬杞]は、74歳になっている[顔真卿]に「節度使(軍事・行政を司る地方長官)になってもらいたいが、いかがか」と問う。節度使は地方勤務だが権限も収入もよいので、先輩にたいする好意の部分もあった。ところがである。歳もとったことで田舎には行きたくなく、さればといって引退するきにもなれない[顔真卿]は、「父君が[御史中丞]だった時に[安禄山]に殺され、その首が平原の私のところに送られてきたとき、私は父君の汚れた顔を舌で舐め取って清めました。どうかその功に免じて、地方任官だけは許して欲しい」と嘆願した。[廬杞]はびっくりして席を下りて[顔真卿]を拝礼して、太子大師に昇進させた。しかし、事あるごとに自分の父親の話しをされたのでは[かなわん、な」と思ったことだろう。時を同じくして、[李希烈]が反乱を起こして汝州を落とし洛陽に迫っていた。783年(建中元年)正月に、[徳宗]から反乱軍の対応を相談された[廬杞]は、[李希烈]を説得する使者に75歳になる[顔真卿]を指名する。
この乱の原因は、763年の安禄山の乱のために国土が疲弊し朝廷の権威に陰りがさし、朝廷内の宦官の力が宰相を凌ぐようになってしまったことと、各地に配した節度使たちが力を蓄え軍閥化していたことにある。淮西の[李希烈]もその一人で、[天下都元帥・大尉・建興王]と自らを名乗り、唐朝からの独立を宣言したのだ。財政難に陥っている唐朝は討伐隊を送ることもできず[顔真卿]を特使として送り出したのだった。乱を起こした本人に「馬鹿なことはやめなさい」という役目は非常な危険を伴うことだった。[顔真卿]を知り抜いている[李希烈]は「この国の宰相にならないか」と申し入れるが、[顔真卿]が聞き入れるわけもなく、汝州から蔡州に移され幽閉されてしまった。785年[顔真卿]は77歳で殺害される。
786年に[李希烈]を、部下の[陳仙奇]が殺して唐朝に帰順した。[顔真卿]の遺骸は長安に届けられ、[徳宗]は政務を5日間休みこれを悲しんだ。[徳宗]は、[顔真卿]が使者として発つ前に[廬杞]を説得して白紙に戻すことができたはずだ。死んでからの大泣きは、まったく空々しい限りだと皆が思った。何を考えて皇帝などをやっているものやら。
顔真卿の棺をひらくと遺骸は生けるがごとくで、彼は死んでから仙人になったと語り継がれている。
中国古来の民間宗教から発した道教での[仙人]は、仙境に暮らす不老不死の人をさす。基本的には不老不死が原則の仙人だが、自分の死後死体を尸解(シカイ=仙術を用い肉体を残し魂だけが抜けだす)し、肉体を消滅させて仙人となる[尸解仙(シカイセン)]もある。別に、衆人の中で昇天して仙人になる[天仙]、地中に隠れる[地仙]などがあるが、ここにも、この世同様に民主的な平等の原則はなく[尸解仙]が一番下の位になっていた。
仙人は、高山の上や仙島、天上にある仙境に住む。仙境とは、俗界を離れた静かで清浄な理想郷をさし、中国の東海に[蓬莱(ホウライ)]、[方丈(ホウジョウ)]、[瀛州(エイシュウ)]の3つの仙島(三島)があるといわれる。仙人がいるところ。あるいは、そこに行けば仙人同様になれる聖地を桃源郷と呼ぶ。
私は、顔真卿の一生を羨ましいと思うことがあっても、「可哀相だ」とか、「付いていない人だ」とは、考えもしない。7度の左遷の度に、一定期間がすぎると「ただいま!」なんていう言葉と一緒に飄々と姿を現し、「そこが悪い!」、「あそこが汚い!」などと捲くし立てる大久保彦剤門の可愛らしさを持っている御仁だと思っている。亡くなってから仙人の道を辿られるとは、死してもまた新たな人生設計を持った堅実な性格の御仁だと思っている。機会があったら、仙人となる秘訣など御教授願いたいと思っているくらいである。
(*陳瞬臣著[茶の話]を読んで。)
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