茶の話

茶嶺4 仙人になった顔真卿(ガンシンケイ)

201234

 周文や雪舟の山水画をのぞくと、雄大な深山の奥にポツリと家が建ち、その周囲や窓の中に小さな人間が観える。川の流れを辿れば舟上で釣りをしている者や網を拡げている者がいる。川岸の柳の根方で一人釣り糸をたれ、渦巻く水面に踊る浮を眼で追う人がいる。山裾の岩棚への狭い石段を悠然と登る人がいて、その道の外れにある東屋には、対岸の絶壁上方からの千丈の滝を眺めている老人がいる。この人たちは、どのような人なのだろうか。また、山水画のなかのどの山荘も、切立つ岩山の根元や中腹に建ち、注意深く眼を凝らせば、その部屋の奥にも小さく人の形が描きこまれている。山水画の題材は、古い中国の風景なのだろうか。それにしても、どの山荘の宅地周辺も険い崖地で、河川のほとりに建つ家屋は水嵩があがれば濁流に巻きこまれる危険を孕んでいる。おそらく、これらの家屋総ては、現在の市町村の建築指導課が崖条令や地盤面の危険性を盾に、絶対に確認許可を出さないようなところに建っているように思えるてならない。

 老眼鏡をつけて、さらに天眼鏡ごしに覗くと、建物内外に小さく姿を見せる人影が着けている衣装は、昔むかしに教科書のなかの挿絵で観た、儒家開祖の孔子が着ていたような袖口が広過ぎるゆったりとした着物だ。それらが窓から川を眺めたり、奥のほうで書籍をめくったりしているわけだが、このような山奥で気楽に日々を過ごしている人種は何を糧に生きているのだろうという思いが湧き上がってくる。

 世にあるどのような様式の絵画でも、風景画となれば実際に存在するものを紙に写すものだが、山水画の場合は必ずしもそれに当てはまらないようにみてとれる。絶壁から谷側に張り出した巨大な岩棚の上に住宅があったり、少なからぬ水量の谷川を跨ぐように石灯篭の足のようなアーチ型で立ち上がる基礎を持つ中国風の寺院のようなものがあったりする画面は、日本古来の合掌造りの住宅のような落着きと安定性とが同居している。屹立している万丈の山々、深く切立つ千尋の谷。あまりにも出来すぎている。広い中国には想像を絶する名峰の連なりがあることは聞き及ぶことだが、画面を覆うこれらの景色が現実の世界に存在するわけはないと、いつも考えている。実際に存在している風景もあるかも知れないが、多くの場合は、先人が描いた様式型があり、雲のたなびく様々な山岳モデルがあり、山肌に這う様々な樹木を描いたカタログがあり、丸みのある様々な岩石、山々の裾を洗う様々河川などを組み合わせ、筆を持つ画人が、あらかじめ約束された法則にそって画布の上に再構築しているとしか思えない。

 書を開くと、古来からの山水画は、神仙(ある種の神通力を持つ不老不死の仙人)や霊獣(龍、鳳凰、麒麟のような霊妙な動物)の棲みかとしての深山を山水画として表現したのは、遠く秦漢時代からだという。特に、山東省大安市にある泰山での封禅(ホウゼン=帝王の即位を天地に知らせ、天下泰平を感謝する儀式)などもあり、民衆の山岳信仰が山水画成立の元となっているようだ。そして4世紀には、霊地である名山を描いた山水画の鑑賞が盛んになっていたとある。当初の画法は、人物を山より大きく描き、樹木は櫛(クシ)の歯のような表現だったといわれる。しかし、中国内で述べつ勃発していた戦乱により、当初の絵画表現法の壁画のほとんどが破壊されて、唐代の山水画で現存する物は少ないといわれている。

 北宋時代になってからの山水画は、巨大な自然に微小な人事を強調したもが圧倒的に多い。そして南宋時代には、絵の中の人物が周囲の山や水を鑑賞しているような設定のものが多くなった。自然の深淵を強調するためか、画面の一部に山岳を配して大きな空白部分を残したような技法もこのころに見られたという。

 元時代(14世紀)には、専門の絵師ではなく文人の制作による山水画が発展成長した。元末には、それらの中から大家と呼ばれる者が数人でて、[アマチア画家が学ぶべき山水画様式]なども作品化された。そのなかには心象風景としての山水画などもでて、後世に大きな影響を及ぼした。この後の明時代には、南宋時代の画風を継承した画家が出現して北京宮廷に奉仕し、[浙派]などの流派を形成していく。また、官僚予備軍や学者の蘇州出身者が[呉派]を結成したともいわれている。明、清時代を通して大量の山水画が制作されたが、17世紀までは変化に富む作品が多かったが、その後から20世紀までは、特色が伴わない停滞期となった。これらを振り返ってみれば、中国山水画のスタート地点に神仙が背伸びして、小さく、ゆっくりと、手招きしているように思われてしかたない。

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 唐時代の6代皇帝[玄宗(685762年)]は、[安禄山の乱]を機に756年に帝位を7代皇帝[粛宗(シュクソウ=711762年)]に譲り隠居した。そもそもこの[安禄山の乱]は、[玄宗]のお気に入りの地方長官[安禄山]が、権力争の相手[揚国忠(楊貴妃の一族)]755年に宰相に就任したのを快く思わず、反乱に及んだものだ。安禄山は15万の兵をひきつ洛陽を落とし、翌756年に自分勝手に大燕皇帝を名乗ると帝都長安に攻めのぼったことに始まる。

 [玄宗]側の正規軍司令官の武闘派将軍[高仙芝(コウセンシ=?755年)]を、[辺令誠]という者の換言で敵前逃亡の罪に陥れて処刑してしまった後だった。残った者にはろくな者がおらず、[玄宗][楊貴妃][揚国忠]らは蜀(四川)へ少数の兵をつれ都落ちした。負け戦となると一般兵士は強気になるらしく、「お前が馬鹿だから負けたんだ」と宰相の[揚国忠]を殺してしまった。「そもそも、この原因を作ったのは[楊貴妃]だ」と兵たちが玄宗につめより、「彼女の始末は自分でやれ」といった。仕方なく宦官の[高力士]に彼女を殺害させる。あの民族が殺しを始めると、見境なく徹底的に実行するのが常で、司令官の陰口をいった張本人の[辺令誠]も殺された。

 一方、長安を占領した安禄山は、まもなく大病を患い失明すると、やけになったのか元々そういう遺伝性でも持っていたのか凶暴化し、それが日ごとに激しくなっていった。安禄山の息子[安慶緒(アンケイショ=?759]は、躊躇せず父を殺した。[安禄山]の席に[安慶緒]が座ってから直ぐに唐の反撃が始まると、彼は単身長安を逃げ出してしまった。反乱軍の指揮権は[安慶緒]の配下の[史思明]が引き継いだ。唐の7代目[粛宗]もまた利口ではなく、自力では自信が持てないとウイグル族の力を借りて反乱軍を鎮圧した。長安を取り戻したことは誠に結構なことだったが、ウイグル族には長い期間に渡りその時の戦費をむしりとられることになった。最後に反乱軍の指揮を引受けた[史思明]も自分の息子に殺され、殺した息子は部下に殺された。ここでやっと[安禄山の乱=安史の乱]が終結した。中国は今と同じく、昔も、電卓を持って死者を数えなくてはならないほど危険なところだったようだ。

 その後の[玄宗]は、皇帝の座を粛宗に譲り上皇となり、757年に奪還された長安に戻った。しかし、帝位にあるとき可愛がった宦官の[高力士]に計られ幽閉同然に隔離される。彼は失意の内に78歳で病死した。[高力士]は、[玄宗]のやむにやまれぬ命令による楊貴妃殺害犯でもあったが、長安に戻った朝廷内の時流をよく観たつもりか玄宗を幽閉同然にまでしたことで、己の発言力を弱めることにもなった。何のことはなく、彼もまた、自分の部下だった[李輔国]に草深い田舎に追放されてしまった。2年後に玄宗に呼び戻されての長安への帰路に[玄宗]の死を知り驚いたのか、硬直したあと血を吐いて死んだ。

 [玄宗]の息子の[粛宗]もまた、よほどの根性なしだったのか、父親の亡くなった13日後に死んでしまった。彼は一応、父玄宗のあとを受け積極的に仕事に打ち込んだのだが、自分の妻の[張皇后]と、宦官の[李輔国]とが権力争いを始めるありさまをみて、どうせ自分の思い通りにならないと思ったのか、強度の鬱症状になったらしい。強すぎる奥様の犠牲者は、いつ世でも御主人ということになった。

 この宮廷内では、[張皇后]が息子の[代宗][李輔国]を頭とする宦官一派の誅殺を命じたが、[代宗]が実行することをためれっているうちに、[李輔国]側が先手を打ち[張皇后]を殺してしまった。その後、[李輔国]もまた[代宗]の命令で別の宦官に誅殺されることになるが、この実行犯の宦官[元振]もまたいいタマで、陰では皇帝を馬鹿にしてかかる表面イエスマンで、やりたい放題に口をだしたために[代宗]の力は弱まるばかりだった。

 一応、以上が、以下の物語の背景となる中国の唐王朝の大よその社会情勢である。

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 唐時代の書の大家に[顔真卿(ガンシンケイ)709~786]という有能な武将であり文官でもある人物がいた。709年(景龍3年)に長安で生まれた[顔真卿]の本(モト)をただせば、孔子十哲の一人[顔回(ガンカイ)=孔子の弟子随一の秀才]の末裔である。彼は不正や怠慢を嫌うあまり天子であろうと宰相であろうと直言することで、わずらわしく思う上役から7度に渡り左遷されたつわものである。

 顔真卿は、若年から学、詩、書に優れた才能を持ち、734年(開元22年)25歳の若さで[科挙(カキョ)=官史登用資格試験]に挑み[進士(科挙の合格者)=ちなみにその合格率7000]となった。任官後は、様々な役職を歴任したが、753年(天宝12年)時の宰相[揚国忠(ヨウコクチュウ=楊貴妃の従兄弟)]にうとまれ[平原郡の太守(郡長官)]に左遷された。

 [顔真卿(ガンシンケイ)]の名が全国に知れ渡ったのは、755年に安録山が河北で叛旗をかかげ洛陽に向け兵を進めたときだった。[安禄山]の進む沿線の郡太守の殆どが降伏したのに、平原郡太守[顔真卿]と、従兄の常山郡太守[顔杲卿(ガンコウケイ)]だけが朝廷側の旗をかかげて善戦した。配下の役人連中がコロコロ敵に寝返りを打つさまを観て、気弱になっていた[玄宗][顔真卿]の不動の忠誠に狂喜した。従兄弟の常山郡太守[顔杲卿]は力尽きて捕らえられたが、[安録山]の面前でその叛意をののしったあまり殺害された。その後も[顔真卿]だけは抵抗を続けたが、こらえきれずに、757年(至徳2年)に平原郡を放棄して[鳳翔(ホウショウ)]にある皇太子[後の粛宗(シュクソウ)]の許に走った。[顔真卿]は、悲劇的英雄ともてはやされている従兄弟の[顔杲卿(ガンコウケイ)]への同情票などもあったのか自身も英雄とあがめられ、仮朝廷だったとはいい、中央の法務大臣に復帰した。なおこの年、朝廷側は洛陽と長安を取り戻している。

 法務大臣としての[顔真卿(ガンシケイ)]の裁定は厳しく、国防次官が酒気を帯びで入朝したこと、閣僚の一人が正式な朝廷の会議で静粛を乱した(大声で騒いだ)ことを弾劾したため、二人とも左遷されることになった。また、[粛宗]の長男が長安修復のために鳳翔を発つときに、所定の場所で乗馬する前に侍従長が乗馬した。これを弾劾した[顔真卿]に対し、[粛宗]は「朕の子はいつもしきたりを重んじているので失策はなかったが、侍従長は年老いて足も不自由なので、今回は勘弁してやってくれ」と、苦笑いしてから弾劾書を差し戻している。[顔真卿]が生涯を通して重んじたのは礼儀作法である。酒気帯び参内は言語道断。宮中の席に着いたら騒ぐな。古来からのしきたりを軽んじるな。行在所である地方官庁を臨時宮殿にしたもので万事粗末な雰囲気だっただけに、立居振舞えもゾンザイで、文書、行事なども簡略化されていたはずである。[顔真卿]は「こんな非常の際だからこそ、よけい気持ちを引き締めなければならない」と考えたのだろう。鳳翔における[顔真卿]の姿勢は、「豪華な場所で茶を飲むのではなく、粗末な狭いところで茶を飲む。それだけに礼にかなう振舞いをしなければならない」という陸羽の喫茶の道につうじている。礼体の弛緩は、あらゆる部分での崩壊をうながすおそれがある。国の体制や政治にかかわることだけではない。一個の人間の人格が破壊される危険がひめられているからだ。しかし現実は、彼の綱紀粛正の厳しさを息苦しく感じた宰相の差配などで、758[顔真卿]は蒲州(山西省)太守に左遷された。

 敬遠されての[顔真卿]の地方勤務も、2年で中央復帰がかなった。760年(乾元3年)2月、左遷前より1階級下の法務次官として中央に呼び戻されたのだ。だが、半年もたたないうちに、また蓬州(四川)に飛ばされた。これは、[粛宗]に信任の厚い宦官(カンガン)の[季輔国]に憎まれたからであった。というのは、退位して長安の西門にある[興慶宮]にいる上皇[玄宗]の許に、その西門をとおる廷臣が挨拶によることが多かった。なかには[玄宗]に復帰を勧める輩もいないではないと考えた[季輔国]は、上皇[玄宗]を外部と接触できない[太極宮]に隔離してしまった。[季輔国]のそんな思いをよそに[顔真卿]は、百官を引きつれて上皇[玄宗]のご機嫌伺いをしたのである。朝廷内の実権を握っていた[季輔国]が不快に思ったのは当然で、「こんな男は自分のためにはならない」と見切りをつけ、蓬州(四川)の地へ左遷してしまったわけである。

 [顔真卿]は、762年(宝応元年)12月大蔵次官として、またまた中央に復帰した。そして、またもや法相まで登り詰めたが、復帰4年後に、こんどは宰相のと対立して、またまた地方に飛ばされた。世は[粛宗]の次の[代宗]の時代になっていて、[代宗]の寵臣[元載]は「全ての上奏文は各部局の長官から、宰相を通じて奏聞すべきである」とした。都合の悪いものは握りつぶせるからである。当然のように顔真卿は反対した。彼は峡州(湖北)に飛ばされ、そのあと吉州、撫州を経て湖州刺史(シシ=地方長官)となったのである。

 [顔真卿]が湖州の刺史(シシ=州長官)に任命されたのが772年(大暦7年)9月で、着任は次の年773年正月で、彼は65歳になっていた。彼は56歳で当時の法相となり、時の宰相[元載(ゲンサイ)]を追求して左遷され、地方にあっても転勤の連続で10年の歳月を過ごしている。中央返り咲きの野心もないではなかったが、歳も歳なので「草深い田舎での悠々自適の生活もいいかもな・・」と思う気持ちがあったともうかがわれた。

 [顔真卿]は、この湖州の地にあった陸羽(茶聖で著述家)や皎然(僧侶、詩人、著述家)や張志和(詩人、著述家)らと意気投合し、互いに文化人として認め合う交友がはじめられた。唐代の州の刺史(シシ=長官)の任務は、現在の日本の役人同様、公私の区別は薄かったのだろう。おそらく、その任務のなかには、高名な隠士や文士に類する文化人を保護することも含まれていたのかもしれない。当時の陸羽は、自著の[茶経]10年前に出しているので、当時の文化人でもある[顔真卿]もそれを読んでいたと思われる。着任早々、陸羽の隠棲所[三癸亭(サンキテイ)]を建てたのは、以前から茶人陸羽に対して敬意を持っていたと考えるのが自然である。[顔真卿]は、茶の理想と自分の文化的理想が一致していると感じ取ったからであろう。[陸羽]もまた、自分が造りあげた喫茶文化の体系のなかに、過去に見聞きしていた[顔真卿]の人格的影響が組み入れられていたのかもしれない。

 [顔真卿(ガンシケイ)]は、武人としても知れ渡っていたが、書家としての名声もまた高かった。彼は、古今の文献から佳句を収集し韻別に分類する[韻海鏡原]360巻を、76人の学者、文人が6年がかりで編纂するという事業計画をおこした。これは、結果的に地方の文人隠士に固定した収入が約束され、陸羽も皎然もこれに参画している。彼等は[韻海鏡原]編纂の打合わちせと称し、原寸大の山水画の中で会飲し、詩の応酬を楽しんだことであろう。いくたびも、いくたびも。

 [陸羽][皎然][張志和]らの気心の知れた同士で[杼山(チョサン)]に山遊し、参加できなかった[顔真卿]のために、その山に咲く[青桂花(キンモクセイの一種か?][顔真卿]に贈っている。杼山には[皎然]の寺があり、[顔真卿]が私財を投じて建てた陸羽の隠棲所もあった。[陸羽][韻海鏡原]編纂という定職の他に、住居まで提供されていたのである。

 [韻海鏡源]の編纂は、[顔真卿]の若かりしころからの宿願で、湖州に赴任するまでに膨大な資料収集がなされていたことであろう。この整理段階で数十名の文士が集められていた。[顔真卿]が中央再復帰するに当たって、文士連が集い東渓に舟を浮かべて、これまた原寸大の山水画の中での送別会が催された。編纂業務のために従事した文士のなかには遠方から招聘された者もいて、業務完了とともに別れなければならなかったのだ。

 編集委員会が解散しただけではなく、[顔真卿]も湖州を去らなければならなくなった。そもそも[顔真卿]16年前、中央を去った原因である宰相[元載]が誅殺されたことにより障害がなくなったためである。これは、日増しに宰相[元載]の専横がつのり、[代宗]まで彼を不快に思うようになったからである。権力に陶酔している人は、この自分の権力が何によって就けられたか、わからなきなってしまうらしい。反逆罪で逮捕された[元載]と妻子、その一味ことごとくが、777年(大暦12年)3月に処刑されている。

 [顔真卿]777年(大暦12年)9月に、またしても刑部尚書(法相)に任命され湖州を去ることになった。この時、彼は69歳になっていた。波乱万丈の顔真卿にとって、6年間の湖州での[陸羽][皎然][張志和]らとの交友は、最も幸せな時期だったことであろう。[陶淵明(トウエンメイ=365427年 詩人)]が、官職に登用されたのちに故郷で隠遁の生活を始め、晴耕雨読のなかで思索にふけるさまを理想としていた[顔真卿]だったが、実際の田園閑居は果たせず、陸羽や皎然などと過ごした湖州時代が、彼の理想には一番近かったようだ。

 [玄宗]以来、[粛宗][代宗][徳宗]と皇帝が代わり、この間に宰相も[元載][崔祐甫][楊炎][廬杞]と代わっていった。中央復帰後の[顔真卿]は、[楊炎]にも嫌われて閑職の太子少師(皇太子の御守役)にまわされた。つぎの宰相の[廬杞]は、洛陽で[安禄山]に殺された御史中丞(地方長官の監督役)[廬奕]の子だった。[廬杞]は、74歳になっている[顔真卿]に「節度使(軍事・行政を司る地方長官)になってもらいたいが、いかがか」と問う。節度使は地方勤務だが権限も収入もよいので、先輩にたいする好意の部分もあった。ところがである。歳もとったことで田舎には行きたくなく、さればといって引退するきにもなれない[顔真卿]は、「父君が[御史中丞]だった時に[安禄山]に殺され、その首が平原の私のところに送られてきたとき、私は父君の汚れた顔を舌で舐め取って清めました。どうかその功に免じて、地方任官だけは許して欲しい」と嘆願した。[廬杞]はびっくりして席を下りて[顔真卿]を拝礼して、太子大師に昇進させた。しかし、事あるごとに自分の父親の話しをされたのでは[かなわん、な」と思ったことだろう。時を同じくして、[李希烈]が反乱を起こして汝州を落とし洛陽に迫っていた。783年(建中元年)正月に、[徳宗]から反乱軍の対応を相談された[廬杞]は、[李希烈]を説得する使者に75歳になる[顔真卿]を指名する。

 この乱の原因は、763年の安禄山の乱のために国土が疲弊し朝廷の権威に陰りがさし、朝廷内の宦官の力が宰相を凌ぐようになってしまったことと、各地に配した節度使たちが力を蓄え軍閥化していたことにある。淮西の[李希烈]もその一人で、[天下都元帥・大尉・建興王]と自らを名乗り、唐朝からの独立を宣言したのだ。財政難に陥っている唐朝は討伐隊を送ることもできず[顔真卿]を特使として送り出したのだった。乱を起こした本人に「馬鹿なことはやめなさい」という役目は非常な危険を伴うことだった。[顔真卿]を知り抜いている[李希烈]は「この国の宰相にならないか」と申し入れるが、[顔真卿]が聞き入れるわけもなく、汝州から蔡州に移され幽閉されてしまった。785[顔真卿]77歳で殺害される。

 786年に[李希烈]を、部下の[陳仙奇]が殺して唐朝に帰順した[顔真卿]の遺骸は長安に届けられ、[徳宗]は政務を5日間休みこれを悲しんだ。[徳宗]は、[顔真卿]が使者として発つ前に[廬杞]を説得して白紙に戻すことができたはずだ。死んでからの大泣きは、まったく空々しい限りだと皆が思った。何を考えて皇帝などをやっているものやら。

 顔真卿の棺をひらくと遺骸は生けるがごとくで、彼は死んでから仙人になったと語り継がれている。

 中国古来の民間宗教から発した道教での[仙人]は、仙境に暮らす不老不死の人をさす。基本的には不老不死が原則の仙人だが、自分の死後死体を尸解(シカイ=仙術を用い肉体を残し魂だけが抜けだす)し、肉体を消滅させて仙人となる[尸解仙(シカイセン)]もある。別に、衆人の中で昇天して仙人になる[天仙]、地中に隠れる[地仙]などがあるが、ここにも、この世同様に民主的な平等の原則はなく[尸解仙]が一番下の位になっていた。

 仙人は、高山の上や仙島、天上にある仙境に住む。仙境とは、俗界を離れた静かで清浄な理想郷をさし、中国の東海に[蓬莱(ホウライ)][方丈(ホウジョウ)][瀛州(エイシュウ)]3つの仙島(三島)があるといわれる。仙人がいるところ。あるいは、そこに行けば仙人同様になれる聖地を桃源郷と呼ぶ。

 私は、顔真卿の一生を羨ましいと思うことがあっても、「可哀相だ」とか、「付いていない人だ」とは、考えもしない。7度の左遷の度に、一定期間がすぎると「ただいま!」なんていう言葉と一緒に飄々と姿を現し、「そこが悪い!」、「あそこが汚い!」などと捲くし立てる大久保彦剤門の可愛らしさを持っている御仁だと思っている。亡くなってから仙人の道を辿られるとは、死してもまた新たな人生設計を持った堅実な性格の御仁だと思っている。機会があったら、仙人となる秘訣など御教授願いたいと思っているくらいである。

    (*陳瞬臣著[茶の話]を読んで。)

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茶嶺3[抹茶紀行]

201228

 「今の相撲取りは、酒(日本酒)を飲まずにウィスキーやブランデーばかり飲んでいる。相撲取りは酒を飲まなければ、お客様を惚れ惚れとさせる肌の色を造れない。相撲取りは相撲取りらしい肢体を土俵上で示すのもサービスの一つだ。体力維持と技の向上のための必死の稽古も大切だが、この世界に受け継がれてきた日常的な食習慣なども無視してはならない」大相撲第45代横綱[初代若乃花]1962年に引退し、1976年(昭和63年)~1992年(平成3年)の相撲協会理事長時代に、相撲界の風潮に苦言ともおもわれる言葉をもらしたことがある。厳しい相撲界で苦しい修行に耐え抜いた外国出身の優秀力士の台頭は賞賛に値するものだが、平成の世に入り平成24年初場所までに在位した日本出身の横綱は5人で、貴乃花が2002年(平成14年)2月に引退して以来、日本出身横綱は出現していない。また、日本出身力士の優勝は20061月場所の栃東の優勝以来36場所にわたり影をひそめている。国際色豊かな力士が土俵上で繰り広げる取り組みも魅力溢れるものだが、同民族が培ってきた相撲取り魂が小さく縮んでいく昨今の流れを見ていると、テレビ前面空間に霞のような、そこはかとした哀愁が漂ってくるのである。武士の情けとしての星の貸し借りは昔からあったのだから、ファンとしても、そんなに悪いこととは思っていない。警察官や検察官や宗教法人内部の人々や、世界中の有名大学の法学部の教授連中も味わっている賭博の痺れるような魅力を、日本古来の花札賭博が最も似合う相撲取りに「やめろ!」と押さえ込むという行為は間違いである。国や地方自治体が胴元になり大規模に運営している競馬、競輪がある以上、些細な楽しみの良否を問うべきではない。むしろ、ラスベガスやモナコやマカオに出かけて大負けをしている日本人が絶えないのなら、国営の総合賭博場を列島太平洋沿岸に、間隔をとり5箇所ほど早急にオープンすべきである。なにをどれだけ賭けようと、人間は自己責任の範囲内で生きているのだ。自分のことを棚に挙げていうのだが、相撲取りが十両にあがるのも、幕内にあがるのも、三役にあがってそれを維持するのも、安定した成績を積みあげて大関にあがるのも、2回連続で優勝してそれなりの人格も磨き上げて横綱を締めるのも、繰り返す稽古によって身心を鍛え、稽古によって反射神経を身につけて絶対の自分だけの攻撃と護りの型を身につけることに尽きるようだ。身につけた型を磨きこむのも、さらに厳しい連続した稽古であろう。そして、武士の情けを実践しても、野球の得点を賭けの対象にしようが、相撲ファンの前では全身全霊からの謙虚さの演出は必用であろう。どうも、自分でなにをいっているか、ほとんど判らなくなってきた。

 ダイコンの漬物と、焼秋刀魚をおかずにして、ナメコと豆腐の味噌汁をすすり、米の飯を喰っていた子供のころの幸せな夕餉のときを懐かしく思い浮かべることがある。食事のあとで飲む熱すぎるお茶が、なんと旨かったことか。こんな懐古趣味は、私ばかりかと思っていたら、知人の一人も同じようなことを話していた。3度の食事の後や、午前10時ごろと午後3時ごろに熱い茶を飲むのは日本人ばかりと思っていたら、イギリスを含めたヨーロッパの国々でも同じ習慣があるという。もっとも彼らが飲む茶が紅茶だという違いはある。冷たくなった茶は、お年寄りが食事の続編として口にする7種類もの病院お勧めの錠剤を飲むとき以外は歓迎されないものである。脳味噌が乾いてしまうほどの真夏でも、熱い茶は万人に喜ばれる飲料である。冷たい飲料が氾濫している現在ではあるが、冷たくなくてはならないのはウィスキーのオンザロックとビールぐらいで、その他の冷えた飲料が身体に悪影響を及ぼさないはずはない。消化器官を冷やすことは、その機能を低下させ、嵩じれば総合病院の待合ホールで延々と順番待ちをする常連になりさがってしまうだろう。

 「緑茶、抹茶、烏龍茶、紅茶の違いはなんなのだろう」と時々考えていたが、たいした問題ではないので、疑問におもうのをその都度忘れていた。

 [緑茶]の定義は[摘み取った茶葉を加熱処理して発酵を停止させたもの。もしくは、それに湯を注ぎ、精分を抽出した飲料をいう。日本では、日本茶と同意に使用されている]となる。厳密には、煎茶(センチャ)、ほうじ茶、抹茶なども緑茶であり、発酵を止めるために茶葉を蒸している。または、発酵止めに釜炒りの方法をとる銘柄もある。上記の蒸すと炒るとの他の発酵止め方法としては、火に炙る、日光に晒す、などもある。

 日本での緑茶の種類は、

[抹茶(挽茶→茶道に使用)] 碾茶(茶葉を蒸したものを乾燥したもの)を石臼で挽き微小な粉末にしたもの。[濃茶(黒味を帯びた濃緑色)][薄茶(鮮やかな青緑色)]がある。茶道での濃茶は、茶杓(サシャク)3杯の抹茶を少量の湯で練りあげるように点てる。薄茶の場合は、茶杓1杯の抹茶に柄杓(ヒシャク)半分の湯を茶筅で撹拌して点てる。

[粉抹茶]は、抽出した液体をフリーズドライ(真空凍結乾燥)した粉末と、茶葉そのものを粉末にしたものがある。抹茶より粗い粉末で、ティーパッグや御菓子の材料にする。

[煎茶→煎茶道の材料にする] [玉露(福岡県八女市で多く生産される)]もその一つで、狭義の[煎茶]は最も一般的な茶をいう。

 [烏龍茶]は、「茶葉の発酵途中で過熱した半発酵のもの」

 [紅茶]とは「摘み取った茶葉を発酵させ、さらに揉み込み完全発酵させた茶葉。もしくは、それをポットに入れ、沸騰した湯を注ぎ抽出した飲料」をいう。茶の発酵は微生物の力を借りたものではなく、茶葉に含まれている酵素による酵素発酵である。紅茶はヨーロッパで広く飲用され、特にアイルランドでは朝昼晩のほか午前と午後のティータイム時には、カップを持ったほうの小指を立てて飲むようである。

 陳瞬臣著の[茶の話]によると、雲南省(ラオス、ベトナム等の国境に近い中国南部)のある地方に取材で行ったおり、茶樹の枝を手折り火にさっと炙り、それを熱湯に投げ入れ煮たてたもをの御馳走になったとのことである。戴いた陳氏も、さぞや野趣のある豪快な茶の飲みかただと思ったことであろう。味のほうは、「口に含むと、なんとなく茶のような味がする」程度のものだったとの感想であった。そもそも、人間が茶の味を覚えたのは、このようなところからだと想像できる。また、雲南からラオス、ビルマ北部では、野菜のように茶を食べる習慣もあるという。

 中国の三国時代(中国内に魏、蜀、呉の三人の皇帝が成立していた220280年)以前は、茶葉をそのまま煮て飲んでいる。ただし、茶葉は天日に干し、貯蔵できるように加工されていた。魏晋南北朝時代(280589年)以降には[餅茶(ヘイチャ)]という、乾燥した茶葉を圧搾して固形にするのが一般的であった。飲む時はこれを斫(キ)り刻んだあとに、炒(イ)ったり煬(アブ)ったりしてから臼で搗(ツ)いて粉にした。つまりは、末茶にしたわけである。茶葉を煮て飲む方法も続いていたが、7世紀の隋(ズイ=581~618年)唐(618年~907年)以後は末茶が主流になった。[茶経(チャキョウ)]を編んだ陸羽が飲んでいたのは、おもに末茶で、これが日本の茶道の原型でもあろう。

 陸羽の[茶経]には茶の種類として、[觕茶(ソチャ)][散茶][末茶][餅茶(ヘイチャ)]4つを上げている。

1、[觕茶(ソチャ)]の觕は「粗」の意味で、「くず茶」のこと。

2、[散茶]固形茶に対する葉茶をいい、觕茶より上質のもの。

3、[末茶]は、餅茶を臼で搗(ツ)いて粉にし缶に蓄えたもの。ただし、茶葉を直接粉にしたものもあった。日本では[抹茶]とか[挽き茶]とよんでいる。

4、[餅茶(ヘイチャ)]は乾燥茶葉を圧搾固形にしたもの。

 明(ミン=13681644年)の代になってからの[団茶]という固形茶は、陸羽の生きた唐代のものより贅(ゼイ)をつくしたものだった。唐代の固形茶[餅茶]は搗いて粉にして固めたものだが、[研膏茶(ケンコウチャ)]という北宋(9601126年)代の固形茶は、茶葉を研って粉にしてあるので、より細かい粉末になる。この粉になったものを固形化するのに、竜の鋳型の銀板で圧えて固形化したものを[竜団]とよんだ。蒸した茶葉を[膏(コウ)]といい、これを研って粉にしたのが[研膏茶]である。

 宋(北宋9601126年・南宋11271279年)は繊細さが尊(タット)ばれた時代である。宋の歴代皇帝のいずれもが一流の文化人で、特に北宋末期の[徽宗(キソウ)]は、画家としても書家としても超一流の人物だった。したがって、宮廷には洗練された趣味人が集い、彼らの舌は茶の味に敏感であった。彼らの欲求を満たすために、つぎからつぎに上等の茶がつくられ、福建で固形にした表面が蠟のようにすべすべした[蠟面茶(ロウメンチャ)]が朝廷に進貢された。さらにこれを超える[竜鳳茶(リュウホウチャ)]が、福建の茶産地の特別な地を選び[北苑]と名づけられたところで作られた。北苑では、朝廷への献上茶だけを栽培し、竜と鳳の型にいれて団茶にした。[竜鳳茶][竜茶]は天子に献上され、天子から親王(シンノウ=嫡出の皇子)や長主(天子の姉妹)と、執政に下賜(カシ)された。その他の皇族や重臣たちに下賜されるのが[鳳茶]である。さらに、竜鳳茶より高級な団茶が出現した。宋の書の4大家の一人[蔡襄(サイジョウ=10121067]が福建の租税運輸官時代に創製して献上した[小竜団]を、[仁宗]がいたくお気に召された。

 蔡襄は福建の出身で豊富な産地知識を持っていた。福建から中央の職に転じたときに、仁宗より茶についての下問をうけた。彼がその内容をまとめたのが[茶録(1051年頃でた茶書)]である。仁宗は小竜団をこよなく愛し、宰相級の家臣にも下賜(カシ)しなかった。一度だけの例外は、2つの政治最高機関の8人に対し2個下賜したことがあった。4人で1個であるから1個を4等分に切断して持ち帰ったのだろう。そんな高価な物を持ち帰っても家臣たちが削って茶を点てるわけではなく、家宝として飾っておき知人の訪問を受けたときなど手に触らせたりして自慢したに違いない。権威ある帝から下賜され、飾っておくだけの置物は茶とはよべない。茶は飲むものであるから、そんなものを陸羽は一番嫌っていた。今から40年も前の話だが、ブランデーの銘柄でナポレオンというものをどなたかに贈られて、封も切らずに永くサイドボードに飾っていた人物がいたが、そのボトルと人物ともに、尊敬することはできなかった。よく私も、そんなことまで覚えていたものである。

 家宝になるような小竜団だったが、元豊年間(10781085年)にできた[蜜雲竜]に首位を奪われた。さらに、徽宗(キソウ=10821135年)の大観年間(1107~1110年)に[御苑玉芽][万寿竜芽][無比寿芽]3つの茶が作られ蜜雲竜の上にランクされた。ついで宣和2年(1120年)に、転運使(唐・宋代の地方官名―物資運輸業務を司った)の[鄭可簡(テイカカン)]により[新竜園勝雪]が作られ、最上位にランクされた。これは、厳選された熟芽の上皮をはいで、芯の一筋だけを残し、これを清水につけ、白い銀の線のようにしたものを材料にしている。聞くだけで、素晴らしい味だろうと思うが、これはチットやりすぎだと関係者がいったという。茶には小芽、中芽、白合、烏帯とがあり、小芽は非常に小さく鷹の爪のようである。歳貢中最初につくられる[竜園勝雪]は、この小芽を用いる。まず蒸熱して、それを水盆の中に浸し、わずか針のように小さな蕊(ズイ)だけほじりだして造るそうだ。

 靖康元年(1126年)女真族(満州族)の金が、宋の首都[開封]を陥し、欽宗と退位していた父の徽宗を北地へ連れ去り、宋王朝は滅びる。欽宗の弟[趙構]が南に逃れ、杭州に首都をおく[南宋11271279]として再建した。北半分をとられ、淮河(ワイガ=淮水ともいう)以南を保つのみとなった南宋と区別して、これまでの宋を北宋とよんだ。

 北宋滅亡の原因は、保守派と革新派との党争が国家活力を弱めた原因の一つだった。争いは国家財政の逼迫(ヒッパク)をまねき、この逼迫は朝廷の贅沢も原因の一つとなる。茶の品質を追い求めて、金に糸目をつけぬ姿勢が亡国につながったのである。それは、陸羽のいう倹徳のおしえにそむいた報いであると、陸羽ファンが毒づいた。

 []という字の意味は大量に貨物のことなので、[茶綱]とは献上茶を大量に運ぶことをいう。北宋末期の[]の評判が悪かったのは[花石綱]のためである。中国は南の豊富な物資を北に運び、全体のバランスをとっていた。食料や必需品になっていた民衆が消費する茶などもその中に含まれていた。小竜団のような極上品は全体からいいば微量である。[茶綱]といっても大部分は庶民用の廉価なものだ。ところが、芸術家皇帝の徽宗(キソウ)は、黄河圏の首都開封で、江南の風物を楽しもうとした。北方にない江南の名木、名花、奇岩、珍岩などを大量に運搬させたのが[花石綱]であった。奇岩で最も珍重されたのが、かって陸羽たちがほとりに住んだ太湖の水底からとれる[太湖石]であった。ダイナマイトもクレーン車もない時代に水底の岩石の切り取り引き上げは、いかばかりだったか。この非生産的な労力は民間人の手になるものだ。茶の芽の上皮を剥ぎ取る作業での労働は、太湖石採取に劣るものではなかった。[]は宮廷御用達なので、運搬道中に威張り散らしたという。この[]のお通りには民衆は大いに迷惑を被った。[水滸伝(中国13681644年の明代に書かれた歴史伝奇小説)]の物語は、このような時代を背景にしている。南宋になってからは首都は杭州だったことと、北宋の常識はずれの消費指向を見知っていたので、なにごとによらず、慎重な行政が続いた。

 中国に末茶がすたれた原因は、明の初代皇帝[洪武帝(コウブテイ=13281398年)]1391年(洪武24年)に団茶の進貢をやめて、葉茶にすることに改めたことにある。団茶は手間暇がかかるもので人民の労力を省くために廃止した。素朴主義者の洪武帝の趣味にも合わなかったともいわれている。

 宇治市は京都府の南部に位置し、鎌倉時代前期から現在に到るまでブランド緑茶生産地としての名を維持してきた。現在の宇治市を中心とした抹茶生産工程のあらましは、次のとおりである。

 1、新芽が伸びる4月下旬から茶園に[よしず]を拡げ、10日間にわたり木漏れ日程度に日光を緩く遮る。その後は[よしず]の上に何回にも分けて[わらふり]と呼ばれる作業のワラで均等に覆っていく。新芽は日光を遮ることで光の方向に薄く伸びながら葉緑素を蓄え、鮮やかな緑になっていく。この過程で、旨味の素になるアミノ酸が蓄積されることになる。新芽は、20日以上に渡り、直射日光と霜の害を防ぎながら育てる。

 2、日光遮断育成のために薄く成長した茶葉の茶摘は、5月中旬から人間の手によって進められる。抹茶原料となる[碾茶(テンチャ)]用茶葉の収穫は、特に一番茶を年一回だけとして、品質の管理をしている。

 3、摘まれた茶葉は強力な蒸気で蒸しあげる。これは茶に含まれるビタミンCを分解してしまう酸化酵素の働きを抑え、発酵を止めるための作業である。

 4、蒸された茶葉は、ほごしながら散らす機械にかけられ水分が取り除かれ、乾燥炉の中で乾燥される。この段階の茶葉を[碾茶(テンチャ)の荒茶]という。

 5、乾燥された荒茶は、茶箱に密閉されて冷蔵保存され、そこから必要分だけ出庫されて次の精選加工工程にまわされる。

 6、出庫された荒茶は均等の大きさに切断され、唐箕(トウミ)の風の力で茎や葉脈を採り除く。選別された柔らかい葉肉を[ねり]という仕上げ乾燥をすることより茶独特の香りが強化される。この段階の茶葉は静電気を帯びていることを利用して、高圧電器選別機で混入している古葉や藁くずを取り除く。

 7、出来上がった[碾茶(テンチャ)=抹茶原料]は検査工程にかけられ、外観、味、香り、水色、かす色をみきわめられる。

 8、様々な視点からの構成要因をチェックされた碾茶は、品質の均等化を図るためのブレンドがなされる。

 9、ブレンドされた碾茶は、石臼で時間をかけて木目細かに挽かれる。化学万能の世でも、ミクロの単位の粒子を得る石臼を超える機械は、いまだかって造られていない。

 日本に茶を伝えたのは、770年に27歳で渡唐した平安初期の僧侶[永忠(ヨウチュウ)743~816]だと、定説になっている。それまで遣唐使や日本からの留学生が帰国の際に、唐からの御土産程度に茶を持ち帰り、家族や友人に試飲させた、だろうことは十分に想像される。だが、在唐35年にも及ぶ永忠は、喫茶の習慣を含めた先進国である唐の文化を日本に紹介することを真剣に考え、茶樹の種子や苗木を携えて帰国したのである。

 62歳の永忠(ヨウチュウ)は、805年(延暦24年)に[空海][最澄]が渡唐した折の[遣唐大使の藤原葛野麻呂(フジハラノカドノマル=奈良・平安時代の貴族)]が役目を果たし帰国する船に便乗して帰国している。この同じ船で[最澄(サイチョウ=日本天台宗開祖767822年)]も帰国したが、[空海(クウカイ=弘法大師として知られる真言宗の開祖774834年)]は長安にとどまっている。永忠の帰国前には、31歳の空海に35年の在唐生活を語り、様々な助言などを含め語り明かしたことであろう。

 永忠(ヨウチュウ)が帰国した805年は、唐年号で貞元最後の年で、茶聖といわれている茶経著者の陸羽が死去した年だった。そこには、[倹徳の茶]がいきいきと息吹く時代があった。平安時代の[日本後紀(平安初期に編まれ、840年に完成した勅撰史記)]には、「嵯峨天皇が梵釈寺大僧都[永忠]から、中国唐伝来の団茶を奉納された」との記述がある。この頃の茶の傾向は、ごくうすいものを口にしていた。この喫茶の習慣がこうじた平安時代の貴族は、お茶の産地銘柄を当てる闘茶のような遊びをする華やいだものであった。

 永忠が持ち込んだ茶は、平安朝の宮廷人の間に浸透して日本国土に定着したかに見えたが、喫茶の習慣は宮廷内より一歩も外には出ず、一般庶民には縁の薄いものだった。そのうちに、菅原道真(平安貴族で政治家で、今でも学問神として崇められいる。845~903年)の進言などにより遣唐使制度そのものが廃止され、唐風のしきたりは次第に日本から消滅していった。いつしか、基盤の弱かった宮廷貴族茶は廃れていった。

 その後の中国内の茶も大きく変わり、北宋の歴代皇帝の茶に対する飽くなき追求は、[新竜園勝雪]を頂点とする絶品の数々を生んだ。この茶に対する過剰な追求は、陸羽の謳った「心を清め、質素、倹約を旨とする」の倹徳の精神はどこにもなかった。驕り高ぶった宮廷内の悪しき習慣は、北宋を滅亡へと導いていった。[栄西]は、このような時勢の南宋に渡り、茶の産地の[浙江(セッコウ=東シナ海沿岸の省)]の諸寺を訪ねたのだ。

 南宋には、北宋滅亡への反省があったからだろうが、北宋代には多数の茶書がだされたが南宋代に入ると茶書は一つも見られなかった。唐代の険徳の精神まで戻ったとも思われないが、社会経済万事にわたり慎重な行政が続いた。栄西は控えめになった南宋の茶を、それも素朴をたっとぶ禅寺の飲み方を会得して日本に帰った。日本で茶が下火になった時期は、北宋の狂乱期にあたっていた。それをやり過ごすようにして、栄西がたおやかで深みのある茶を日本に持ち込んだのである。すでに、この時期に仏教は庶民に浸透していたので、かっての平安期の茶のように貴族間での一時の華美な流行と異なり、広く深く根をのばして定着したのだ。

 [栄西(ヨウサイ=臨済宗の開祖11411215]2度に渡るの渡宋(南宋期)の2回目は、後鳥羽天皇の1187年(文治3年)から5年間であった。永忠らが持ち込んだ茶樹をもとにした日本の茶園が荒れていたこの時期に、栄西が新しい茶の種子や苗木を持ち帰ったのである。平安初期の永忠(ヨウチュウ)の帰国から、源頼朝が鎌倉幕府を開く前年に栄西(ヨウサイ)が帰国するまで、実に386年が経過していた。宋代の中国に渡り禅宗を学んだ[栄西(ヨウサイ)]は、帰国後の1191年(建久2年)にその教えを広め、日本臨済宗の開祖となっている。鎌倉時代の[喫茶養生記(1214年に栄西が編んだ我が国最古の茶書)]に「栄西(ヨウサイ)、源実朝(頼朝の子で、12歳で鎌倉幕府第三代征夷大将軍)に抹茶を献じる」とあり、禅宗寺院に[茶礼(サレイ=茶の湯の作法)]が定着していたことをうかがい知ることができる。それは、日本茶道の祖といわれる[南浦紹明(ナンボジョウミョウ)鎌倉後期の臨済宗の禅僧]が、宋代(1260年)の中国から茶道具と共に茶会の作法なども取り寄せるなどして、主人と客との精神的な交流を重視した華やかな茶の湯に発展していった。

 室町・北山文化時代(足利3代将軍時1358~1408年)には、足利将軍の[会所=身分差を気にせず、皇族、公卿、殿上人、僧、同朋衆(ドウボウシュウ=将軍のそばで絵師など芸能に当たった者)などが集う場所]では、唐絵、花瓶、香炉、文房具が飾られ、会所では懐石(食事+酒+茶)が振舞われた。華やかな上層階級だけの茶会であった。

 室町・東山文化時代(足利8代将軍時14361490年)には、会所は同朋衆により、座敷飾り、唐絵・唐者の管理・鑑定・連歌等が行われ、同朋衆の中から[能阿弥][芸阿弥][相阿弥]が登場し、会所を通じ[唐物荘厳の茶(美術品の鑑賞をかねた茶会?)]が大成された。

 一方、この時代の[村田珠光(ムラタジュコウ1422~1502年、浄土宗の僧侶)]が、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求した結果、侘び茶の基盤を築いた。今まで公家や武家や寺社などの大広間の会所で行われていた茶会から、珠光創出の4畳半まで縮小された茶室での無言の会話の世界へ移行していった。その弟子である古市澄胤(フルイチチョウイン)による淋間茶湯(風呂+茶の湯)、武野紹鴎(タケノジョウオウ)による和歌の思想による和風化も追求され、さらに紹鴎の弟子[千利休][侘び茶]を大成し、草庵を1畳半茶室まで深化させた。そこでは、「花は花のように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心をつけけよ」という、自然に逆らわず、万物すべてを慈しみの対象とする深い精神の会話がなされたのであろう。この時代の巷にも、社寺門前のような大衆が集う場所に茶売りが登場するなど、庶民への一服一銭(路傍の茶)の茶売りが始まった。それは庶民の住む一戸一戸に茶の文化が浸透するきっかけとなった。

 安土桃山時代(織田信長京都上洛1568年~豊臣秀吉死去1598年の時代)の[会所の茶]は、信長、秀吉による同盟者や配下の武将を集めての政道の茶となり、古田織部の[織部茶碗]や小堀遠州[きれいさび]などの[大名茶]になっていった。一方での禁中では、後水尾天皇による[禁中の茶(茶の湯+遊宴)]が始まり、常習院宮(皇族が宮廷や私邸に集う?)による[茶の湯]の伝承が行なわれていた。他方、千家の[侘び茶]は子孫に伝承され、千宗左(表千家)、千宗室(裏千家)、千宗守(武者小路千家)となって、現在まで伝承されている。

 江戸時代(徳川家康が征夷大将軍になった1603年~明治時代に移る1868年)には、裏千家において[侘び茶]の手前作法として[七次式]が創案され、その作法は後世まで伝承された。七事式とは侘び茶の手順で、[茶かふき][廻り炭][廻り花][炭座][花月][一二三][員茶]で、それぞれに厳しい様式があてられているようである。

 一方、織部、遠州、などの系譜をもつ大名茶が、片桐石州により4代将軍家綱へ献茶されたが、このころになると利休の[侘び茶]にたちかえる傾向なども見られる。そして、松平不味(松江藩7代藩主で江戸時代有数の茶人)の[古今名物類聚(茶の湯名物道具の書)]を経て、井伊直弼(江戸時代末期の彦根藩藩主)著[茶湯一会集]に到達した。茶書である茶湯一会集には、茶道の理念である一瞬、一瞬を大切にするという意の[一期一会]を通し、客と主人の心構えをあらわしている。

 明治時代(18681912年)には、明治維新により茶の湯などを含めた日本伝統文化が否定されて衰退していったが、千家の侘び茶は力強い家元制度のもとに伝承されていた。一方大名茶と禁中茶は、政界財界の裕福な人たちによる[数寄者の茶]として統合された。現在の世に、西の光悦会、東の大師会としてつづいているようだ。数寄者の意味は、社会的に名を成した裕福な[趣味人]と、中小企業経営者タイプのそこそこの金持の[道楽者]とに分けられる。

 大正時代(19121926年)には、千家の侘び茶は学校茶道を展開し、女性の茶の湯として定着した。これは、和ダンスに収納されていた和服の着用機会を増やした。一方、数寄者の茶は、岡倉天心(明治期に活躍した文人で思想家)の[The book of TEA(茶の本)-1906]により、米国ニューヨークの上層階級に紹介され[茶の湯]の国際展開がはじまった。

 昭和時代(19261989年)には、女性の嗜みの一つとして、[茶の湯]が大衆化して今日に到っている。花嫁修業の一環としての茶の湯だったが、夫になった人が奥様の茶の湯を口にしたという話は、ついぞ聞いたことがない。

 平成時代(1989年~)には、村興し、町興しのために市町村がこじ付け開催する、観光イベントのために、テント張りのなかで点てた抹茶をふるまう光景が特に目に付くようになった。事前に茶の予約券を求めて椅子に座って待っていると、テント奥の茶釜前に座った横幅のある着物姿の60代の妙齢な女性が茶の湯作法どおりのしぐさで茶を点てる。スーパーの瀬戸物コーナーに並んでいる茶碗とは雰囲気の異なる抹茶茶碗を持った別の女性が、椅子に座った客の前に静々と運んでくる。客は茶碗を両手で持ち、底のほうの申しわけ程度の分量の濁り水を口に含むのである。この場合の茶の湯は茶の歴史のどの点前にも当てはまらず、主催者へのお義理の、気のすすまないお点前と、他方の客としても侘びや寂とはかけ離れた、単なる時間つぶしだった。

 これを[お互いさまの茶の湯]と命名する。

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茶嶺2[陸羽の茶経]

201223

 現世の自称進歩的な家庭では、急須や湯呑みのような茶道具の備えがない割合が多いと聞く。喉が渇いたら夫婦子供がうちそろって、ペットボトルをラッパ飲みして渇きをいやす。家庭内には冷蔵庫と炊飯器と電子レンジとポットが備わっていて、冷凍食品を電子レンジで解凍してから暖め、スーパーのプラスチック容器ごとテーブルに並べる。インスタント味噌汁や、各種インスタントスープが食器棚一杯に詰め込まれている。スープに具が少なすぎるのが気になる時には、ポテトチップスを掌で砕いて投げ込むと結構歯ごたえのあるジャガイモの微塵切りのようになるらしい。味噌汁を味わう機会は奥様の実家にいったときだけだ。したがって、包丁や俎板や瀬戸物雑器はなにもない。実にシンプルな文化生活のひとコマだ。まもなく、この社会から[日常茶飯事]という熟語は消滅し、それ以後は[日常即席飯事]とでもなるのだろうか。

 スーパーやコンビニの商品ケースの中には、ネジ蓋付きプラスチック製ペットボトルに入った緑茶や烏龍茶の種類が増える一方だ。酒のメーカーや食品メーカーが供給元になっているのは頷けるが、電機メーカーや住宅メーカーや農機具メーカーや原子力メーカーまでもが手を染めているのはなぜだろう。運転中に昼食の時間がないときなど、コンビニに駆け込んでおにぎりを買うときは、必ず茶のボトルをセットのごとくレジに差し出す。なるほど、米の飯には茶以外は似合わない。多くの製造元で造るボトル茶は、順調に消費されているようである。

 茶樹の原産地は中国南部の四川省と福建省の山奥で、そこには太古から20mにも育つ自然木があったようだ。4000年も昔のことなので断言はできないが、初めは飢饉のときなどに柔らかそうな茶葉を鍋にぶち込みぐつぐつと煮て食用にしたと想像できる。灰汁(アク)抜きのために何度も煮汁を捨て、新たな水に換えて煮込んだあとに塩ででも味を調えたのかも知れない。お腹が空きすぎたあまり半分白目になっている家族に、今まで捨てていた茶の煮汁を、とりあえず飲ませてみた賢い奥様が現われたと、仮に想像してみた。しかし、まず、それを飲んだ者の身体に悪影響がないかどうかを試さなければならない。奥様はためらわずに、最近とみに物忘れの激しくなった舅の前に煮汁の入った素焼きの碗を置いた。早めに起きた次の日の朝、死んだように寝床に横たわる舅の身体を恐る恐る覗いていた奥様は、長めの薪で舅の横腹を突いてみた。舅は小さく寝返りをうって己の生存を証明した。どうゆうわけか前日は寝床に入っても眼が爛々と輝きだして眠ることができず、本格的な眠りにはいったのが白々と夜が明け始めた時刻だった。その時代にはまだ発見証明されていなかったカフェインによる覚醒作用が働いたのであろう。

 安心した奥様は、その日の朝食から煮汁を薄めて家族の数だけ食卓に添えたが、生まれて半年の夜泣の激しい3男坊には与えなかった。もうそんなに先はないと思っていた舅が飲んでいるのを見た姑も、7人家族の世帯主の夫も、共にお代わりまでしたのだ。1ヶ月が過ぎたころには周囲のお年寄りも興味をしめして茶の煮汁を飲み始め、この荒削りな野生の味の改善法を積極的に模索した。一人の男が茶葉を鍋に入れる前に枝についたまま炎で炙ってから煮た。その男の煮た茶汁は、喉越しのまろやかさと、熟れたグミのような風味が備わっていたので、瞬く間にその村の全戸に普及した。その男は2年任期の村長に推薦され、以来、無投票の4期目の任期満了の5日前に老衰でなくなった。61歳の厄年だった。

 [陸羽(リクウ=733804年)]1232年前の建中元年(780年)に著わした[茶経(チャキョウ]は、「茶は南方の嘉木(カボク)なり」の言葉から始まっている。嘉木(カボク)とは、「美しい木」、「価値のある木」、「非常に有用な木」などの意味をもっているが、茶樹は温暖な気候を好むので中国南部の福建省や雲南省あたりが現在でも最大産地となっている。茶樹の日本での最北端は福島県最南端の東白川郡矢祭町だと認識している。この矢祭町に5年ほど前の晩秋に立ち寄ったときに、陽当りの良い南斜面に何列にも重なった生垣状のもを眼にしたので尋ねると「茶の木だ」と教えられたので間違えない。私はそのとき初めて茶樹を見た。日本の茶の産地の静岡県あたりの茶園は茶畑という表現がピッタリくるが、中国の四川省や雲南省の茶園の茶樹は、一人の両手では廻りきれないほどの幹の太さで、樹高は6mを超えるものもあるというので、茶の森林と形容すべきものであろう。

 陸羽の生きた中国の唐時代は安禄山の乱などもあり、玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃が756年に殺害されたりしている頃である。当時23歳前後の陸羽は、地元で起こった安禄山の乱の戦火を逃れて江南に逃げ、4年後に呉興(現在の浙興省)に移り他界するまでの44年間を過ごしている。建中元年(780年)に最古の茶書[茶経(チャキョウ]を著したのは48歳前後だったはずだ。捨て子の陸羽の生まれた年が不明なので、前後とか約とかを数字の前後につけているわけである。

 最古の茶書[茶経]103巻からなり、以下の項目について何のことだかさっぱり判らないように表記されている。

[一之源] 茶の起源について。

[二之具] 製茶に使う道具について。

[三之造] 製茶工程について。

[四之器] 茶を点てる茶器について。

[五之煮] 茶の点て方、水と火の良否について。

[六之飲] 飲料について。茶関連の主要人物。当時の茶の種類。悪しき飲み方。

[七之時] 茶経以前の茶に関する書物について。

[八之出] 茶の産地、産地の優劣について。

[九之略] 略式の茶の作法について。

[十之図] 茶席には図解入りの茶経を軸にして掛けておくべきこと。

 [茶経の内容]としては、オリジナルは当然のこととして漢文で書いてある。漢字の羅列の中には常用漢字でないものも多数混じり、悪くいいば時代遅れの字、謙虚に表現するならば自分の手に負えない字で書かれてある。どの漢字もこれ以上線と点を増やせば線同士がくっいてしまう。これを太く削った硬度B鉛筆で書いたりしたら、大きな黒い染みを一個造ることになるだけではないか。こんな厄介なものを拾い出してたのでは手間ひまばかりかかるので、自分の知っている数少ない漢字だけで綴る方式の現代語もどきで表現する。従って、格調と品位に欠ける低級なものになるのは致し方ないことである。

 [一之源]  [茶樹は中国南方の優れものの木である。樹高は60Cm3mぐらいまでが一般的だが、四川省南部から湖北省南部に到る山間部の野生のパンダが棲むような山奥には、二人の大人が手を廻しても、一人の右手の中指と、もう一人の左手の中指の間に10Cm前後の隙間ができるほどの大木もある。人々は、その木の枝をナタで豪快に切り落としてから茶葉を摘むのだ。茶樹の幹は日本でいう苦茶(ニガチャ)という木に似ていて、葉は梔子(クチナシ)の葉に似ている。茶樹の花は白バラのようで、そこに稔る実は棕櫚(シュロ)の実に似ている。実と枝をつなぐ蔕(ヘタ)は丁香(チョウジ)のそれに似ていて、根は胡桃(クルミ)の根に似ている。

 茶樹にとり最も適した土壌は、古生層の水成岩の岩盤が風雨に晒されて崩れかかったようなところで、ゴビの砂漠から風に運ばれた黄土が露出しているような土地はあまり良くない。茶樹の種子を撒いて発芽したものから苗木を作ろうと思っても、または野生の枝を挿し木したり移植しよう思っても、それを根ずかさせるのには高い知識と技術が必用である。それでも種子から育てたいといいだす僭越な希望者には一つだけアドバイスする。たとえば、瓜の種をまくような慎重な方法で管理育成すうるのなら、撒いた種子の3%ぐらいの確立で、3年ぐらいで茶葉を摘むことができるだろう。たとえ全滅したとしても、子供や奥様の過失だと喚きちらさない潔ぎよい精神の持主だけが、茶を作る資格があるのだ。来年はキット成功するだろう。

 品質は野生の茶樹の葉が最上品である。人間の手が加わり過ぎる日本の静岡県内茶農家のものはかなり劣る。京都嵐山あたりの土産物店で売っている茶は信用してはならない。そこで、珍しさのあまり小壷に入った玉露を買ったが、自宅で味わってみたがタンニンの渋さが強かったので失望させられた。急須に高温の湯を注いだせいかも知れないので、販売元へのクレームの電話をこらえたのは正解だった。

 野生の茶樹でも栽培されている茶樹でも、陽の当たる崖の陰にできる林のなかで、葉の色が紫のものが最上級とされる。単に濃い緑のものは次の等級に入る。茶葉の形は筍のようものが上で、道を通る人に見境いなく吼えかかる雑種犬の歯磨きもしたことないような黄色い犬歯のような形は、どの場合でも最悪の品質となる。また、葉が内側に巻いてあるようなものが上質とされ、化粧のりの悪い中高年の奥様連中の肌のように延びきった茶葉は最悪品である(出典―キミマロ)。茶葉には日照も重要な条件で、日陰の山や谷底にはえたものは採るに値しない。そんなものを採って飲もうものなら口のなかや、食道や、胃や十二指腸あたり一面が凝りとどこおり、内臓全体に癌細胞がしこりと共にひろがっていくだろう。茶には以上のような効用と弊害を及ぼす性質がある。生産者に感謝しながら茶の風味を楽しむゆとりを持ち、この飽食の時にあっても人間社会を冷静に見極めて、スーパーやデパートの安売り日に駆け込んで、不必用な物を買い物籠に入れないような強い精神の持主こそ、茶を嗜むにあたいする人物である。

 茶の効用を具体的にいいば、お隣どうしの奥様が原発事故にかかわる放射線量に関しての話をしたあと、その実行犯の無責任さに激昂してたために熱がでて無性に喉がかわいたとき。また、スーパーの売り場隅の壁際に置いてある石焼き芋の大き目のやつを買い、それを一人で食べきって胸やけがおこったとき。または、家庭の収支簿に今日一日の数字記載を始めると必ず起こる頭痛のとき。そして、厳冬の季節に、暖房の効いた市町村施設の村民コーナーに備付けの小説を閉館まで読んでいたために眼がかすんだとき。さらに、普段トイレに行くときだけしか自分の脚を使わないのに、新聞記事にあおられ紅葉の名所に出かけ、3Kmにもおよぶ湖の周囲を急ぎ足で一周した後で手足がだるくなり、間節がガクガクした時などに。あまり安すぎない茶をわずか5口もすすれば、新聞の一面全部を使い宣伝している鮫脂の錠剤を呑んだときのように、また、テレビ画面でイチローが勧めているユンケルを飲んだ時のような効果がジワリ!、ジワリ!、と顕われて、やがて前記の諸病が回復するだろう。しかし、茶摘の時期を誤ったり、勝手に組合員の預金を引下ろしてパチンコに注ぎ込んだとの噂のある農協職員の指導で生産された茶や、野草や枯葉の混じった茶を飲めば、総合病院のどの科にいっても、とりあえず胃薬5日分をだされるくらいの重病におちいるだろう。

 茶が災いとなるのは、ちょうど薬用人参の品質のみたてを誤るのと似ている。最高級の人参は北部中国の山西省長治市で採れ、中級品は韓国で採れ、極悪品質は北朝鮮で採れることは誰もが知っている。茶もまた、茶に適さない寒冷地の中国北部で採れるものなども出回っているが、そんな粗悪品は薬用にならないばかりか、万病のもととなるのが関の山なのである。ましてや、茶葉に似ているソバナのような偽物などが出回っているが、そんな物を服用したとしたら、病原菌の培養器具と化した人体に住む、あまた病気の一つとして治すことはできないであろう。]

 [二之具] 製茶に使う道具[茶摘みから始まり、売り出すがための製品にするための製造道具一式を説明をしている。必用に応じて、次の三之造のところに表記する。]

 [三之造] 製茶工程[ここでの製茶法は一般家庭用のそれではなく、陸羽が模索完成した最高級の茶の製造法だと思われる。

 [茶摘] 茶葉の収穫は太陽暦の35月ころで、最高級の筍(タケノコ)形の茶葉が採れる茶樹は、石灰岩や砂岩が風化したような土壌にはえている。芽の長さは12cm15Cmで、その形は蕨(ワラビ)が初めて芽を伸ばした形に似ている。茶の芽は葉の叢(ム)らがる上に出て、35芽ぐらい固まっているので、そのように抜きんでた枝を選んで採る。茶摘は、朝霧を踏むような早朝から始めるが、雨の日やくもり空の日には休んだほうがよい。

 [殺青(サッセイ=青味をとおる)と揉捻(ジュウネン=茶葉を揉みしばく)] 摘まれた茶葉を竈(カマド)に刃釜(ハガマ=鍔つきの鍋釜)をかけ、素焼きの蒸篭(セイロウ)で蒸し、柔らくなった茶葉を臼にいれて杵で搗(ツ)きあげる。

 [成形] [承(ショウ)]という木か石製の台の上に布巾を敷いたところに[規(キ)]という型を置き、型に搗きあがった餅状の茶葉を詰めて形を造る。成形には相当の圧力が必要なので、動かないように[]の半分を土に埋めて固定する。[]という型はさまざまな形のものがあり、厚手の絹の布巾は一回ごとに取り替えて餅状の茶の水分をとる。

 [乾燥] 成形後の固形茶を、竹の葉を網代に編んだものを二本の竹の間に張った筵(ムシロ)に並べ天日乾燥する。次に固形茶に穴を開けて竹の串を通し、[]という半地下の乾燥炉の中で炭火で最終乾燥をする。

 [保存、熟成] 乾燥された固形茶は[]という保存箱に入れ、木製の枠に竹で編んだ壁に紙を張り密閉して、熱い灰を入れた火桶で温度管理して熟成を待つ。地方によっては、梅雨時に火を焚いて湿度を追い出すところもあるが、乾燥した固形茶の熟成にかかわることなので、とりわけ慎重な作業となる。

 上記の製法で出来上がったものは[蒸青緑茶][固形茶]と呼ばれるが、表面が粗く茶葉の痕跡を留めているものか、茶葉の痕跡の見えない[落雁(ラクガン)状]のものかまでは、茶経の文面から汲み取ることはできない。なお、出来上がった固形茶の等級を8階級に分けて、その一つ一つをこと細かく記載されているが、非常に難しく旧式な漢字を使用して、さらに難しい表現法なので何のことやらわからないので、パス。

 辛うじて、ウエーブサイト[中国茶講座][光と黒さで凸凹しているものを嘉という人は、鑑定のうまくない人である。皺と黄とで凸凹をもって佳というものは、鑑定をするべきでない人である。もし以上に挙げた条件をみな嘉とし、またみな不嘉とする人は鑑定の上手な人である。その理由は、精分を外に出しているものは光があり、精分を内に含んでいるものは皺があり、一晩経ってから作ったものは黒く、その日の内に出来上がったものは黄色であり、蒸して押さえることで凸凹が少なくなり、緩めると凸凹になる。これらのことは茶でも他の草木の葉でも同じである。突き詰めれば、茶の良否は口伝(クデン)による他にはないのかもしれない]とあった。

 上記の記述では、固形茶の良否は外見からでは判断できず、それぞれの状況に立ち個々の製品を見て判断する以外に方法がない。結局のところ、茶は飲んでみて一番うまいと思ったものが一等賞で、値段や銘柄にまどわされてはならない。] 私に限っていいば、急須に茶葉を思い切り放り込み、熱くない湯を時間をかけて注ぎ、湯呑み茶碗の縁から3分の2ほど注がれた茶を一番うまいと思っている。

 [四之器] 茶器 [湯を沸かすためのカマドに始まり、釜、湯をかき回す箸、湯を汲み上げる柄杓、水を入れる容器などの、茶を点てる道具が列挙されているが、その一つ一つの道具名が画数の多い字なので面倒になり、パス。] 

 [五之煮] 茶の煮だし方、水と火の良否 [茶葉のあぶり方は、風の強い日には炎が上って均等な乾燥ができないから、その動く炎に差し出してはならない。茶葉を火に近づけて度々裏表を返していると蝦蟇(ガマ)の背中のような色合いになる。その頃合を見計らい15Cmほど火から離し、板状の茶を巻いてはほごしてあぶり続ける。火で乾燥した餅茶なら気が熟したらやめ、日で干したものなら柔らかくなったらあぶるのをやめる。最初から葉が新しい場合は、蒸して熱いうちに搗(ツ)き始めると、茶葉が爛(タダ)れてたようになっても牙(ガ=牙状の葉)の形や笋(シュン=タケノコ状の葉)の形はそのまま残る。たとい力自慢の人が普通の杵より重いものでついたとしても、牙や笋を爛れさすことはできない。これをあぶると、その節が乳児の力の抜いた腕のようになるので、熱いうちに紙の袋に入れて茶の精分の散越を防ぐ。粉末にするのは冷えてからであるが、上等な粉末は米粉のようで、品質の落ちる粉は菱の実のような凝りがある。

 茶の釜煎(カマイ)りに使う火は炭火が一番である。ただし、一度使った生臭いものや油でよごれた炭はよろしくない。炭の次によいのはクヌギやナラの硬い薪である。薪の場合は、特に柔らかい材質の木や樹脂を多く含んだ針葉樹や、古い家具や解体現場から持ってきた放射性物質が付着した材木を燃やすなどは、もってのほかである。

 水は山の水が一番で、次に川の水で、井戸の水はその次にくる。山の水のなかでも、途絶えることのない泉の水が一番で、綺麗な石に囲まれた池から緩やかに流れ出る水も良い。大量に落ちたぎり急流を駆け下るような水を永く飲んでいるのはよろしくない。こんなものを永く飲み続ければ、おそらく首の病気にかかってしまうだろう。

 複数の谷間から流れ込んで溜まっている水は、それぞれが清流だったとしても捌け口がないわけだから、4月から10月末までは飲まないほうがよい。そんなところには竜が棲みついて水中に毒を残している恐れがある。これを飲もうと思うのなら、溜まっている水の堰(セキ)を開いて溜まり水を空にして、新しく湧き出す水を汲みとるようにしなければならない。河の水を使う時には人家から遠く離れた水を汲み、井戸水は多くの人が頻繁に汲み上げているところなら安心できる。

 水を火にかけて時間がたつと沸き始めるが、魚の目のような気泡が立ちのぼり微かな音がしてくる。このあたりが湯の沸く一段階あたりである。釜の内側に沿って忙しく真玉白玉が立ちつづけるのが二段階である。沸き立つ波が音を立てるようになれば第三段階であり、それよりあとは水が悪戯に老化の道をたどり、飲むに耐えなくなる。

 第一段階の沸き始めに水の分量にあわせて、味を調えるために塩を入れる。

 第二段階の沸き加減を見きわめたら2合ほどの湯を汲み出しておいてから、竹で作った混ぜ棒で釜の湯の中心をくるくるとかき回しておいて、計った茶の粉末を中心に落とす。しばらくすると湯の威勢が波の飛沫をはねるようになるので、先に汲んでおいた湯を釜に戻して湯の威勢を沈める。これが湯の精華を壊さないための点(タ)てかたである。

 沫(マツ)と餑(ホツ)とは湯の華のことだが、湯の華の薄いものを沫(マツ)といい、厚いものを餑(ホツ)といい、細かで軽いものは花という。花は、あたかも棗(ナツメ)の花がふわふわと円い池の水面に漂うようであり、河の淵や渚に青い水草が初めてはいでてきたようでもあり、晴れ渡った爽やかな空にうかぶ鱗雲のようでもある。沫(マツ)は、緑の苔が水辺に浮んでいるようであり、菊の花びらが杯のなかや膳の上に降りかかったようでもある。餑(ホツ)のほうは、よどんだ水を煮て湧き上がるときに、湯の華も沫も共に重なるように白々と雪が積もったようでもある。このことを、ある詩人が「煥々(アカアカ)と積もる雪の如し、輝かし春の花房のごとし」と詠んでいる。

 釜の水が沸き立ったころ、湯の表面が黒い雲母のようになってきたら、それを掬い上げて捨てる。試しにそれを飲んでみることもよいかもしれないが、それは本当の茶の味ではない。最高の湯は、何にものにも比類しないほど旨いのである。それをさめないようにとっておき、湯の精華をはぐくみ沸きかたを促すときに利用することもある。 最初の一碗から二碗、三碗と続けても、第四、第五碗以外は、よほど喉の渇いたとき意外は飲むべきではない。大よそ一升の水を沸かし、汲んで五碗に分けるのがよろしかろう。もし十人もが一同に集うようなことがあれば、炉のほうを2つにすればよいわけである。茶碗を渡されたら熱いうちに飲み干すべきだ。重苦しく濁りがちな部分は下のほうに溜まりやすく、精英な部分は上に浮き上がってくる。一たん冷めかけた茶には、精英な部分が消えうせてしまう。そんなものを飲んだとしても、なんの足しにもならない。茶の性質をズバリといいば、倹(ケン=むだや贅沢をしない)ということになるだろう。たっぷりと広くいきわたるべきではない。たっぷりと飲めば味はうすくなる。一碗をなみなみと満たして飲めば、その半分を啜っても味はうすくなる。そしてそれが沢山あるときはなおさらのことである。茶の色は浅黄色である。その香りは美しいと表現するにたりる。その味は甘かったり苦かったりするのはよろしくなく、飲み口は苦くとも喉越しで甘さを味わうのが茶というものである。]

[六之飲] 飲料。茶関連の主要人物。茶の種類。悪しき飲み方。[翼のあるものは天(アマ)かけて、体毛あるもの(けもの)は地上を走り、口先三寸で生きるもの(人間)は絶えず言葉を発する。これらの生物はみな天地の間に生まれ飲みくいして今をいきている。そして、なにかを飲むという行為も源は遠くにあるのだ。喉の渇きをとめるのにはおも湯を飲み、憂いや怒りを静めるのには酒を呑み、眠気を払うには茶を飲んできた。

 茶が飲料に供されるようになったのは、神農氏(シンノウウジ=紀元前2740年ごろ120歳まで生きた古代中国の伝説の皇帝)に始まり、魯(ロ)の周公により世間に広まった。斉の晏嬰(アンエイ=紀元前550年頃の斉に生きた、身長140Cmで国家采配を振るった宰相で、狐の毛皮の一チョランの衣服を30年間着続けたという伝説的倹約家)や、漢の世の揚雄(ヨウユウ=紀元前10年前後の前漢末期の文人)や、呉の韋曜(イヨウ=270年ごろの呉(ゴ)の政治家で儒学者)や、晋の帳載(チョウサイ=南北朝時代の西晋の詩人)なども皆な茶を愛飲した。かくて時移るにそって広く各戸にも染みとおり、特に唐朝になってからは盛んにもてはやされるようになった。

 茶を飲むといっても、粗茶(ソチャ=荒茶のことで、摘んだ茶葉を蒸して乾燥したものをいい、茶の茎や粉や硬葉の混じった くず茶)、散茶(サンチャ=形茶に対する葉茶をいい粗茶よりは上等のもの)、末茶(マッチャ= 餅茶を臼で搗(ツ)いて粉にし缶に蓄えたもの。ただし、茶葉を直接粉にしたものもあった。日本では[抹茶][挽き茶]とよんでいる)、餅茶(ヘイチャ=乾燥茶葉を蒸してから圧搾固形にしたもの)などの種類があって、それらを切ったり、炒ったり、臼でついたりりしたものを瓶や缶にたくわえて、必用分量を湯を注いで飲むものをイン茶という。ときには、葱(ネギ)や棗(ナツメ)や柑橘類の皮、その他を混ぜて煮て飲料にする風習が今も続いているが、そのようなものはどぶに捨てる雨水に等しいものだが、一向にやめようとはしない。困ったものである。

 天が万物をつくり育むのは、すべてそれぞれがこの世に必要だからだ。人間に知恵があるといっても、たかだか占い箸をジャラジャラもじって易占いをするぐらいではないか。身を覆うのは確りとした家で、身に着ける衣服は精緻にできている。飽きるほどある飲食物で味の追求にも怠りはない。しかし茶を飲むのには九難があるのだ。即ち、一難が製造、二難が鑑別、三難が茶器、四難が火、五難が水、六難が炒り加減、七難が粉末、八難が煎じ方、九難が飲み方と、最後まで難はついてくる。

 曇りの日に茶を摘んだり、夜焙(ホウ)じたりするのは製法にかなってはいない。茶を噛んで味をみたり、匂いをかいだりしするのは鑑定法にかなってはいない。なまぐさい鍋や釜や水を入れる缶などは茶器ではない。油じみた薪やかまどにのこる炭は、火とはいいない。早瀬や溜まり水は、水ではない。表面だけ火が通り内部が生では、炙ったとはいいない。藍色(アイイロ)の塵や、暗い紺色の粉は抹茶ではない。まごまごした手順や、慌しいくかき回す動作は、煎じるというものではない。興味本意に夏に初めて、冬になろうとしたころ止めるのでは、茶の道を覗いたとはいい難い。

 もし珍しい茶で新しく香りの高いものを点てたときは三碗、それに次ぐときは五碗。もし座の客が五人ならば三碗を使い、七人なら五碗、もし六人以上ならば碗の数を決めない。ただ一人だ欠けた時にはそのままにして、その欠いた一人分により、茶の意味深長な味を補うことになる。]

 [七之時] 茶経以前の茶に関する書物。茶に関することが載っている書名をもって、延々とさかのぼって説明している。切りがないので、記載しない。

 [八之出] 茶の産地。産地の優劣。陸羽が知る限りの茶の産地を延々と並べて、等級をつけている。上記七の理由で、パス。

 [九之略] 略式の茶の作法。[茶を難しく考えないで、製茶の七つ道具を使わないで立てることもある。野の寺や、山の茶園に茶を摘み、蒸し、搗き、火にかけて炙って乾きさえしたら、とりわけ道具にこだわることはない。そして煮る容器を石を並べた上におけば、かならずしも竈(カマド)は要らない。涸れた薪や、有り合わせの釜などを持ちえるなら、とくに茶器などを準備することもなかろう。もし、泉の真前にいたり、谷川の岸に座を構えたりした時には、水を汲み置く一切の茶器も必要ない。その時の一座が五客以下なら茶の旨みを充分に堪能することができ、茶を漉(コ)す道具などもいらない。必用に迫られて藤つるに頼ってよじ登ったり、木の根をたぐって崖を踏み越えて、洞窟を潜って進むような場合には、山の入口あたりで火にかざして粉末にしたものを、紙に包んだり箱にいれたりして持ち帰れば、粉末にする臼などもいらないことになる。ただし、都のお城の中や、王侯の邸宅ないでの茶席では、茶器のどれが欠けても客に対しての礼に反する。]

 [十之図] 茶席には茶経を軸にして掛けておくべき。[絹地の六幅ぐらいの大きさの白い布地に、一から九までを図面のように書きとめ茶席の隅にでも掛けておけば、茶に関する全ての項目が一目でわかるだろう。この備えがあれば、茶経の始めから終わりまで理解することができるであろう。]

[茶経の解読について]

 中国の国土面積964K㎡のなかでの5000年間の潮流に揺られて、多くの国が勃興して消えていった。茶聖陸羽が編んだ1232年前の茶経という書物のなかの地名などは、当然のことに現在の地名と異なり、時代ごとの地方朝廷や中央朝廷が、必ずしも同じ文字を使用したのではない。今に残るそれぞれの漢字の誕生は、日曜日の夕ぐれどきに始まるテレビ番組[笑点]の一コーナーで、メンバーの発想から産まれる奇抜な当字と変わらないだろう。古代中国文字は筆数が多い上に複雑な意味が込められているのは、既存の字に別の意味の字を節制なく添え過ぎた結果による(と、思う)。ある中国古典の複数の解説本に眼を通すと、ところどころに解読できない字がでてくるらしく、自分のあるだけの知識を屈指して推理したものを「・・だろう」と、自信なげに記載している。字の解釈上で、同じ結論に達する人と、そうでない人とがでる。こつこつと時間をかけて、楔形文字で書かれたハンムラビ法典の解読に携わった一人ジャン・ボテロ(アッシリア学研究者)らの功績を聞くにつけ、古代文字の解読は動植物化石を基にして、数十億年前の生物の姿を復元する作業と同じように思える。どちらにしても、素晴らしい夢の世界に代わりはない。

 茶経の著者である陸羽は、現在の中国湖南省天門市で、3歳くらいのときに捨てられたのを禅寺の僧侶に拾われて育てられた。そのころの仏門では茶を飲む習慣があったようで、陸羽を育てた僧侶も特に茶に詳しい人だった。陸羽に茶の入れ方を指導したところ、またたくまに腕を上げ、寺主催の茶会の段取りをまかせられるまでなった。育て親は、ときおり宮廷に顔を出すほどの知識人で、並外れた陸羽の聡明さに仏門に帰依させようとはかったが、彼はキッパリと儒学の世界に進むみたい旨を伝える。僧侶はなおも説得に当たったが、9歳の陸羽の大弁論は僧侶を怒らせてしまうことになった。以後の陸羽には、あらゆる雑役苦役が科せられた。苦役のあいまに独学を続け知識の蓄積は順調だったが、僧侶の指示があったのか先輩寺男に暴力を振るわれるようになる。貴重な時間を雑用に費やすことに耐え切れずに12歳の陸羽は禅寺から逃げ出した。

 寺院から出た陸羽は芝居一座に飛び込んだ。陸羽の顔はお世辞にも美男子とは呼べず、重度のドモリの癖もあったことから三枚目の役ばかりだった。いつしか台本の執筆と舞台監督まで兼任するようになり、劇団員の信頼を得るようになる。1年後に地方長官の李斉物に出会った。李斉物は、政争の渦中のまっただなかにあり、反対勢力にはかられて地方長官に左遷されたのだ。さらに、政敵の放った刺客に命を狙われるような時期で、それらの緊張をほごすための陸羽の一座の芝居見物であった。陸羽の素質を認めた李斉物は、高名な先生の塾に紹介し、学費負担を申し出た。陸羽は李斉物の精神的な緊張をほぐすために、心を込めた茶でもてなした。

 752年(天保11年)、元文部省長官で左遷され競陸にきた[崔國輔]と知りあい、両者は対等の付き合いで文学やお茶の話をして長い時を過ごした。この崔國輔とは終身の友となった。755年に安史之乱が起こり、陸羽も南に逃げた。陸羽がたどり着いたのは土壌や気候に恵まれた[江南]で、名茶を産する茶どころであった。

 当時の雲南省のある地方の茶の出し方は、茶の木の枝を手折り火にさっと炙り、それを熱湯に投げ入れ煮たてたもをの飲むという豪快なものだという。中国の三国時代以前は、茶葉をそのまま煮て飲んでいる。ただし、茶葉は天日に干し、貯蔵できるように加工されてはいた。

 魏晋以降は[餅茶(ヘイチャ)]といい、乾燥した茶葉を圧搾して固形にするのが一般的であった。飲む時はこれを斫(キ)り刻んだあとに、炒(イ)ったり煬(アブ)ったりしてから臼で搗(ツ)いて末茶にした。茶葉を煮て飲む方法も続いてはいただろうが、7世紀の隋唐以後は末茶が主流だったので、陸羽が飲んでいたのも末茶だったと思われる。

 唐宋代には末茶が主流だったが、現代の中国には末茶はない。しかし茶文化の輸入元である日本には、確りと残されている。その他でも、中国で消滅したものを数えると、日本に残っているものは沢山あるようだ。茶聖陸羽は804年に没しているが、その険徳の精神だけは1208年後のこの日本の、ごく限られた人々に受け継がれているにとおどまるようである。

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茶嶺1[茶の原産地]

2012126

 仕事や、他の最低のお付き合いの一環として、他人の家を訪問することは誰にでもある。その訪問が必ずしも歓迎されない家だとしても、いかなければいかないで互いの心情的状況がより悪化しかねないような場合もあるようだ。なるべく玄関先で所用がたりるにこしたことはないが、何回も頭のなかで復習した話の内容によっては、すすめられれば靴を脱いで楓の上り框に最初の一歩を踏み上げることもある。

 たいがいの家庭には、訪問客に茶をだす習慣が根づいている。寒い季節には、茶を注ぐ前に白湯(サユ)で茶碗を温めておき、次に注ぐ茶が急激に冷めないような心のこもったもてなしに出会うときなどは、それを戴く前から身体が暖まってくるような気持ちにさせられる。そんな時の茶は、適温で茶のエキスが程よい加減のまろやかさもっていて、茶碗の縁から10m/m前後下の絶妙な位置に湖面がある。

 以前、知人との茶談義のおりに、沸騰してから10分も経過したようなやかんの弦(ツル)の部分に雑巾を被せて、そこから煙の立ちのぼるまま急須に入れ、茶をなみなみと注がれた茶碗を出された経験談を聞いたことがある。私は聞きながら想像した。薄での磁器製茶碗にグラグラと沸騰した気泡混じりの湯で茶を点てたときには、3つの茶碗のうち2つまでが茶碗の外側と内側の温度差に耐え切れず弾けとぶ光景を頭に描いたのである。さらに、そんな温度の茶を飲んだとしたら、きっと唇が最初に火傷をおい、次に口の内側の粘膜と舌の表面がシャブシャブの鍋で5分間泳がした米沢牛のように白く変色するところまで思いがはしり、急いで首を2回ほど振り自分の想像力をオフにした。茶は、親の敵討ちの道具に利用するのではなく、少なくとも、もてなしの心を装い、自分の考えを気づかれないように対座した人に勧めるべきである。

 [茶は南方の嘉木(カボク=美しい木)なり]は、中国の建中元年(780年)に[陸羽(リクウ)]が著わした[茶経(チャキョウ]という古い書物のなかの巻頭の言葉である。茶経は三巻十章からなり、茶の原産地、品質、効用、茶摘みと製茶方法、煎じ方、飲み方、茶の道具にまでわたる、当時の茶文化の専門書のようなものである。この当時の日本は、貴族文化華やかしき時代の平安遷都(794年)の14年前の宝亀11年であった。

 [茶経]を書いた唐代の文筆家[陸羽(リクウ=733805年)]3歳くらいのときに、現在の中国湖北省天門市(武漢の西70Km)に捨てられ、竟陸竜蓋(リョウガイ)寺[智積(チシャク)禅師]に拾われて育てられた。そのころの僧侶を含めた文化人の間に茶を飲む習慣があったようである。陸羽は、もの心つく頃から寺男たちの仕事内容を眼にしていて、主の智積禅師のために茶を煮る先輩たちのやりかたなども見ていたことだろう。禅寺[竜蓋寺]での陸羽もまた、食べるためには仕事をしなければならない。おそらく、茶の煮かたを誰かに習ったのではなく、自然に覚えたのだ。竜蓋寺の智積禅師のために茶を煮たて、茶会の席では給仕もつとめた。茶会の席に集まる人々は陸羽にとり別世界の住人であり、子供にとっては眩しくもあったことであろう。

 育て親の[智積禅師]は、ときおり宮廷に顔を出すほどの知識人で、早くに並外れた陸羽の聡明さに気づき学問を仕込もうと思った。陸羽は九歳から学問を始めた。上流社会の子弟であれば遅すぎる歳だが、当初は寺男にするつもりだった智積が、陸羽を僧侶の道を歩ませようと考えたようだ。だが陸羽は独学で儒に傾き、仏法に対し反抗的になっていた。

 仏門にいた陸羽は、師が催す度重なる茶会の裏方を務めているうちに、大勢の儒家の弁論を見聞きして別の世界のあることを知っていたので、その世界へ進むことを伝える。智積は長い時間説得に当たったが、9歳の陸羽の仏教と儒家についての大弁論により、師の言葉にことごとく反論して怒らせてしまう。この時の陸羽は「儒家の世界に3つの孝行があり、その1つに自分の跡継ぎをつくることが親孝行です。妻を娶ることを禁じられている仏教の世界で、それが果たせますか」とまくし立てた。以後の[陸羽]には、あらゆる雑役苦役が科せられるも、ますます勉学に励んでいった。最後には寺の先輩寺男の暴力をも受けるようになる。

 自分の貴重な時間を寺院の雑用に費やすことの愚をさとり、12歳の陸羽は逃亡をはかった。智積禅師の恩義に報えることができなかったことには悔恨の情が湧きあがる陸羽は、師を恨みに思ったことは一度もなかった。寺院から出た陸羽は芝居一座に飛び込んだが、[陸羽]の顔はマアマアよりかなり落ちたレベルで、ドモリの癖もあったことから主役級の役はもらえず三枚目ばかりだった。この世界でも陸羽の勤勉さは変わらず、どんな雑用も、どんな役も拒まず演じた。後には彼のユーモアのセンスで台本の執筆と舞台監督まで任され、劇団仲間の信頼を得るようになる。

 1年後の陸羽に幸運が訪れたのは、地方長官の[李斉物(リセイブツ)]に出会ったことに始まる。李斉物は都で相当の実力者であったが、陰湿な政争の犠牲になり地方長官に左遷された。そればかりか政敵にいつ刺客を放たれるかわからない時期で、それらの緊張を癒すための芝居見物であった。ひと目で二十歳前の陸羽の隠された素質を見抜いた[李斉物]は、火門山の[鄒夫子(スウフシ)]という先生に紹介し、その学費の負担をも申し出た。陸羽もまた、疎外されこの地に赴任してきた李斉物の心情を察し、自分で選んで点てた茶で心を込めてもてなした。この唐の時代から茶は喉を潤すだけのものではなく、既に高い嗜好性を持っていたようだ。

 そして天保11年(752年)に陸羽は、元文部省長官から左遷され競陸にきた[崔國輔(サイコクホ)]と知りあう。文人としての両者は対等の付き合いをとおし、文学やお茶の話しで長い時を過ごした。この崔國輔と陸羽とは、終身の友となる。

 陸羽は当時から役人になりたいとは思わず、今のままの自由人をのぞんでいた。誰に断わることなく行きたいところに自由に旅立てることを望んでいたのだ。ただし彼は、この当時から他人といったん約束したことは、必ず守った。

 755年に安史之乱(安禄山の乱)が起こり、大量の戦争難民の群れに混じり陸羽も南に逃げた。宮廷では、この乱の直前まで、楊貴妃の寵愛が続き、楊貴妃の姉3人も国夫人の称号を受ける陽一族の我が世の春であった。宰相となった楊貴妃の従兄弟を嫌った軍人[安禄山]が反乱を起こし正規軍を破ったのである。陸羽がたどり着いたのは土壌や気候に恵まれた[江南]で、後に名茶の数々を生み出す茶どころであった。陸羽が[茶経]を編んだのはこの土地でだと思われる。[茶経]の大前提は、「茶は、[精行倹徳之人]すなわち、『品行端正で倹約の美徳をもつ人』のような人物にこそふさわしい飲み物である」と謳ったのである。

 「漢方は二千五百年。茶は四千年」という言葉が中国にある。世界の医術を圧巻して久しい漢方薬の歴史は二千五百年ほどだが、喫茶の習慣は四千年前の中国に存在したと、いっているわけである。単に渇きを癒す為に茶を飲んだのはない。喉が渇けば井戸や泉の水を汲んで飲めばよいのであって、人々が喫茶に傾いていったのは、手間のかかる喫茶をとおして何んらかの満足感をかないてくれたからだだろう。人々の生活のなかい定着した嗜好は、研鑽の過程を経て文化にまで高まっていったのだ。

 今まで茶の原産地については諸説があったようだが、なにかといいば「白髪三千丈」などと気の遠くなるほどの数値を放言してきた中国にあっても、「茶樹が始めて発見されたのは[雲南省と四川省とに近い山の中]だと思う」というような謙虚な表現での主張が受け入れられつつある。

 紀元前1050年、周の[武王][太公望]を軍師として[殷(イン)]を滅ぼしたが、武王は征伐出陣の直前に西方から馳せ参じた将兵のねぎらいのために「戈(ホコ)をさしあげよ!」と各地方の部族名を呼びかけるくだりがある。このなかで四川から参戦した[蜀(ショク)]は「茶を武王に貢じた」とある。つまり、紀元前1050年代の四川では喫茶の習慣があったということで、山野には野生の茶樹があり、それを育成栽培する技術があったことになる。直接には周の武王によって滅んだ殷は、諸王族の過度の飲酒が原因で弱体化し、滅亡したことになっている。現在博物館などで殷の遺物を見た人に聞くと、ほとんどが青銅器の酒器ばっかりだったといっていた。身に覚えのある者はギクリとするところである。茶樹の原産地を厳密にいいば、中国の西南地区の四川と雲南にまたがる一帯ということになる。

 後漢の政治家の末裔で、直木賞作家の陳舜臣(1924年生)著[茶の話]によると、茶をあらわす漢字の変遷や、どの時代の漢詩から茶という文字が載せられているかなどにより、茶の歴史が追求されている。

 []という文字の使用は陸羽(リクウ=733805年)の生きた時代かららしく、それ以前は[荼(ト)][茗(メイ)]などが茶樹を現す字として使われていたようである。陸羽が茶の体系化に手をそめたということは、この時代に茶文化の萌芽期が過ぎて成熟期にさしかかったからで、茶は[荼(ト)][茗(メイ)]という字の間借りから、やっと[]という戸建の字を手に入れたもようである。

 喫茶の風習は、茶の原産地に近い[四川地方]に発祥普及して[長江]沿いに至り、茶樹栽培に適した江南地方に広がっていったと思われる。そして南方の人に茶の習慣が広まったとしても、北方に普及するまでは時間がかかったものと思われる。その後の政局の安定と民生の充実があり、全国的に普及するにつれて[]という文字も全国区となりえたのだろう。それが整ったのが陸羽の時代である。

 []が初めて文章の中にでてくるのは、[王褒]が書いた[僮約(ドウヤク]という文章だといわれている。「前漢(紀元前206~紀元前8年)の世に[王褒(オウホウ)]という文人がいた。彼が紀元前59年に著した[文選(モンゼン)=周代から梁までの千年間ぐらいの代表文学760編を網羅した詩文集で、日本の清少納言等の宮廷人の愛読書でもあった]に、自分の詩を2編収録した詩人でもある。しかし彼は、茶についての記載のある自分の文章[僮約(ドウヤク)]を文選には載せなかった。人間が茶を飲んだという、はっきりとした最古の文献なのだが、そんな重要なものだとは、彼自身が気づかなかったからである。[王褒(オウホウ)][僮約(ドウヤク)]は、タイトル通り[=使用人]との契約書で、使用人は『次の項目にある仕事をしなければならない』と列挙したものである。王褒は益州(四川省)に住み、地方長官の推薦で都に招かれるほどの人物だが、僮約を書くにいたったなりゆきは、後に文官となる人物としての格調には、ほど遠いものであった。。

 [王褒がまだ書生であったころ、故郷から成都(四川盆地の西に位置する四川省の省都)に出て、未亡人である楊恵宅に下宿していた時期があった。その家には彼女の生前の夫が買った便了(ベンリョウ)という奴隷がいた。王褒がその奴隷に酒を買ってくるよう命じると、「私は亡き御主人に『墓の手入れだけをすればよい』という約束で買われました。亡き主人との約束がある以上、ほかの男のために酒を買うことはできかねます」と拒まれた。王褒は大変に怒って、「それならこちらにも考えがある」と未亡人から便了を買取った。そして自分に横柄な態度をとった奴隷を懲らしめるために、厳しい服務規約を文書化した[僮約]を彼に科した。その内容は、早朝に起床させての内外の清掃に始まり、食後の皿洗い、そのあと寝るまでの間に百種類の仕事が書き連ねられてあった。その中には井戸掘りや家の警備まで含まれ、いいつけにそむけば鞭打ち百回というものであった。便了は大変に後悔して、「あの時に素直に酒を買いに行くべきだった」というところで終わっている。]

 この文章のなかで便了が押し付けられた仕事に、食事の前後に「荼(ト)を烹(ニ)る」と、犬を連れて鵞鳥を売りながら「武陽で[荼(ト)]を買う」とあるので、少なくとも、この時代から喫茶の習慣があったことが証明される。この故事は、宋代初期に編纂された百科事典のような[太平御覧(タイヘイギョラン)]の契約書という項に入っているという。「これが契約書であったかどうかが疑問である。金銭で売買できる奴隷なら取り決めなど不要だろうし、酷使して疲労死した場合は主人の損になるだけである。これは一種の戯文で、文章の名手王褒が作成したのだろう」と陳舜臣氏は[茶の話]のなかでいっている。

 なるほど、これが偽作でなく実際の話だとしたら、[僮約]は無抵抗の奴隷を虐(イジ)めぬくという、鼻持ちならないの文書であるといわざるをえない。むしろ便了は、亡き主人に対しての忠僕の鏡として褒めてやらなければならない。書生の身にありながら昼間から酒を買い、未亡人と酒盛りを始めることのほうが公序良俗に反している。そんな阿呆が、後に文章力を持って宮廷に仕えるほどに出世するのなら、もと元とんだ喰らわせ者である。そのことはともかく、神爵3年(紀元前59年)の日付のある[僮約]の出た時代の四川地方では、少なくとも喫茶の風習があったことがわかり、これが、茶が文献に載った初めとなる。

 中国の茶樹は、日本の静岡県の茶畑とは趣がかなり違ってくる。茶木の原産地は、雲南省と四川省に近い山間部だといわれているが、雲南省孟海県の南糯山(ナンジュザン)は、この地方最古の栽培型茶樹と広い茶畑があるところとして知られている。村落は標高1600mの山中にあり、頂上から麓まで樹齢200年前後の茶畑が広がっている。この仙人が5百人ほど住んでいるのではないかと思われるほど広大な風景のなかに、樹齢800年を超えた[茶樹王]とよばれる一株がある。目の高さの苔のむす幹の直径が109Cm、樹高5.48mで、標高1800mにある茶樹王の梢には3家族の木の霊が住みついていて、茶葉の陰から人間界を見下ろしているのである。このような茶の大木は雲南省内に30本確認されているそうで、家の廻りの垣根に毛の生えたような静岡県の茶畑を思い浮かべると、軍備に力を注いでいる今の中国人とは、茶の話をしないほうがよいようだ。あの人たちとは、尖閣諸島全部の領有権は我が国にあるという話しをすべきなのだ。あくまでも毅然として。そして断固として。

 日常茶飯事を「ニチジョウチャハンジ」と読んでしまうことが日常茶飯事(ニチジョウサハンジ)になっているのだが、この言葉がいつ頃できたのかさだかではない。少なくとも陸羽(リクウ=733805年)が世に出た時代には、茶は特権階級のもので、下層階級までは浸透していなかったと思われる。陸羽が捨て子として竜蓋(リョウガイ)寺の[智積(チシャク)禅師]に拾われ、仏寺の中に育ったということが茶の運命にとって重要な意味を持つことになった。南方の嘉木である茶は、唐代では仏門と深くかかわりを持っていたのである。

 現代では、金満家が酒を呑みすぎて身上(シンショウ)がたちいかなくなった例はまずない。どんな高価な酒を飲んでも、酒屋から買って飲む分にはたかが知れている。もっとも、瞬きをすれば空中に飛び上がるほどの付けまつ毛をして、マジックペンで目玉スレスレに囲むアイシャドーした女性の傍で飲むだけならまだしも、店の終ってから部屋に誘われ、自分が先になって歩き始めるような体質の紳士の場合は例外である。酒を飲むことの他におこなったことの代償はさまざまだが、際限なくプレゼントをねだられることが多いようだ。図々しい方も中にはいて、車をねだられる場合もあるだろう。彼女たちは、人の心理的欠点を嗅ぎ分けることと、人の財布の中身を推理する名人である。家族に内緒の口座を持っている人の場合には、それは瞬く間に残高が少なくなってゆき、他人の金や勤務先の金は自分のために存在すると考えやすい温床がはぐくまれて、身上(シンショウ)はもとより、何もかもが吹っ飛ぶ。この場合には、切っ掛けが飲酒であっても、その後は己の意志薄弱が原因である。早くから「掃き溜めには鶴はいない」の意味を理解すべきなのだ。

 旨い茶を飲みたいために身上(シンショウ)をつぶした人が中国にいる。ある山の、どの斜面の、どの高さあたりの、ある特定の木の、ある部分の茶葉、それも摘む日、時間、気候などの条件を言い出せば切りがない。そんな茶を飲みたいといえば、値段のつけよがない。こんなものを[無価之宝(水や空気や景観のように価値を決めることができない貴重なもの)]という。それを欲しければ、売り手の言い値で買取るしかない。全人類の98%をしめる欲深な売主のいい値とは、当然のように天井がないのである。中国の古典に、茶に懲りすぎて無一文になったこの旦那は、ある大店の茶商に引き取られた。彼のきき茶は正確で茶の等級を決める抜群の味覚が具わっていたので、茶商家にとってなくてはならない人となった。ところで、くだんのきき茶名人を[茶人]とよべるだろうか。陸羽の[茶経(チャキョウ)]には、茶を飲むのにふさわしい人は[精行倹徳之人]といっている。少なくとも、茶におぼれ、家を傾け、家族と親類に迷惑をかけた行為を[精行(世の中の仕組みに長けている)]とはいわない。また、[倹徳(質素な暮らしの倹約家)]の人とは呼べるわけがない。彼は単にきき茶のエキスパートでしかない。陸羽が茶の相手に選ぶ人は、このような人ではないのだ。

 陸羽は自伝で、自分を取り立てて叡智の世界へ導びいてくれた人は、[李斉物(リセイブツ)][崔國輔(サイコクホ)]だといっている。そして、友人としてはただ一人[釈皎然(シャクコウネン)]を上げている。それは、皎然が真の茶人であったからである。陸羽が皎然と会ったのは、安録山のおり[竟陵(キョウリョウ)]から[呉興(現、浙江省の太湖の南岸)]に移住して、太湖にそそぐ苕渓(チョウケイ)のほとりに結んだ庵(イオリ)のなかであった。

 安録山の乱で[玄宗]が退位して[]に逃れ[粛宗(キョウソウ)]が即位したが、粛宗の弟の[永王璘(エイオウリン)]が南京付近で勤皇(天子のために忠誠をつくす)の兵を挙げた。もともとこの異母兄弟は仲が悪く、粛宗が玄宗を追って蜀へ行けといったのに永王璘が命令に従わないので反乱軍として討手を差し向けた。この反乱軍の幕僚として[李白]がいて、討手が詩人の[高適(コウテキ)]であった。75612月、高適は安陸に兵を集めた。安陸は陸羽の故郷の竟陵(ケイリョウ=現在の湖北省天文県)の近くであり、その近辺はさぞや騒がしいことになったことであろう。戦争が始まるというので陸羽の故郷の竟陵住民が避難のための大移動をはじめた。当時30歳前後の陸羽は、もともと捨子なので実家があるわけでなく、個人財産もなかったので身軽に避難できたことだろう。このときの避難先の[呉興]で隠棲を始めて70歳まで生きた彼は、故郷で過ごした期間より長く住んだことになる。

 後の世の詩人(裴迪(ハイテキ=五代後梁の武将)の作だという、陸羽をしのぶ五言律詩(ゴゴンリッシ=5言の句が8句の漢詩)がある。

[竟陵西塔寺陸羽茶泉] 

竟陵西塔寺、蹤跡尚空虚

不獨支公住、曾經陸羽居

草堂荒産蛤、茶井冷生魚

一汲清冷水、高風味有餘

 詩人到陸羽故居的西塔寺、見寺院一片荒涼、十分感慨。結句明寫茶泉之「清冷」實讃茶人之高風、韻味濃重。

[読み]

[竟陵の西塔の寺の陸羽の茶の泉]

竟陵(ケイリョウ)の西塔寺、蹤跡(ショウセキ)尚(ナ)お空虚

独(ヒト)り支公の住みしのみならず、曾經(カツ)て陸羽の居なりき。

草堂荒て蛤を産み、茶井冷えて魚を生ず。

一たび清冷の水を汲めば、高風 味は余り有り。

[解釈]

[竟陵の西塔の寺の陸羽の茶の泉]

 「竟陵の西塔寺には過ってさまざまな人が住んだと聞くが、今は荒れ果てた建物の残骸が残るのみだ。

ここには支公(支謙という後漢の高僧のあざな)が住んだだけではなく、かっては陸羽が住んでいた建物でもある。

 (陸羽が智積禅師に育てられたところが竜蓋寺で、そこを飛び出して住んだのが[西塔寺]である。)だが今は草ぶきの堂の到る所に虫が這い回るほど荒れはて、陸羽が茶を煮るのに使った[茶泉]を覗くと、何処から泳ぎよったのか清流に棲むす魚が泳いでいた。

湧き出る冷たい泉の水を手で汲んで口に含むと、陸羽が用いた名水は今も同じく、華麗な風味が口中にひろがった。」

 竟陵の西塔寺に[陸羽の茶泉]と云われる遺跡ができたのは、陸羽が茶聖と伝説化されてからであろう。

 陸羽が茶人として大成したのは、安録山の乱という動乱のための逃避行した先の湖州で[皎然(コウネン)]と出合ったからである。陸羽は皎然との付き合いを[緇素(シソ=僧侶の黒衣と常人の白衣)忘年(ボウネン=年の差に拘らない)之交(コウ=まじわり)]といっている。陸羽のほうが、かなり年下だ。

 皎然の十代前の祖先に、南朝宋の詩人で政治家でもあった[謝霊運(シャレイウン385433年)]がいる。彼は中国の詩歌に自然美を持ち込んだ人で、こよなく山水を愛した。僧籍にあった皎然も、十代前の謝霊運に似て文章に優れ、[釈門の偉器]といわれたが、謝霊運の性格とは正反対であった。謝霊運は贅沢で[性奢豪、車服鮮麗]と記されるほどで、自分の地位にいつも不満を持っていた。その性格が過多で有ったために非業の死をとげている。皎然は[宋書][南史]のような歴史書に登場するような先祖のことを知っていたので、自身をよく修めた倹徳の人であった。[宋高僧伝]のなかで、皎然と陸羽の心の繋がりを[莫逆(バクギャク=心に逆らうところなし)の交]とある。陸羽は皎然のなかに、茶の理想とする倹徳を認めたのだろう。

 ある年の重陽(チョウヨウ=5節句の一つで陰暦99日)に、皎然と陸羽とが僧院で茶を飲んだ。その時をうたった皎然の五言絶句の詩に[九日、陸処士羽と茶を飲む]がある。

[九日与陸処士羽飲茶] 皎然

九日山僧院

東籬菊也黄

俗人多泛酒

誰解助茶香

[読み]

[九日 陸処士羽と茶を飲む]

九日 山僧院

東籬(トウリ=東のかきね)菊也(マ)た黄なり

俗人 多く酒に泛(ウカ)ぶ

誰か解せん茶香を助(マ)すを

[解釈]

 この人里はなれた僧院の東の垣根には、黄色に開いた菊がある。

 重陽(99日)には菊の花びらを酒に浮かべる風習がある。

 菊の花びらを茶に浮かべても豊穣な香りがする。

 このことを知っているのは誰もいないが、われらだけが風雅な香りをたのしんでいる。

[]タイトルの「陸処士羽」というのは陸羽のことで、陸羽は皇太子の役所の官職に任命されたのに就任しなかった。仕官の資格があるのに出仕しない人を[処士]といい、この肩書きを姓と名の間に挟むのが中国のしきたりである。 

 この詩の二人こそ、[莫逆(バクギャク)の交]であり、[緇素(シソ)忘年(ボウネン)之交(ノコウ)]であろう。当時の文人が詩を送られた場合は、必ずお返しの詩を贈るのが儀礼の一つで、陸羽も当然多くの詩を書いたことだろう。しかし陸羽の詩で現在に残されているのは、たった1編だけである。当時、文学論をしたためるほどの詩歌の理論家である皎然にくらべて、陸羽の詩はかなり遜色があったのであろう。

 湖州では陸羽は皎然のほかに[張志和]という隠者と親交があった。彼は16歳で明経科(科挙の試験のなかで、進士科より科目が一つ少ない試験)に及第した逸材で、一度仕官したが直ぐに引退し、[煙波釣徒]と自称して、山水を描くことを得意としていた。酒宴をもようし太鼓と笛で囃子たてたなかで、筆をひとなめしてまたたくまに山水を書き上げたといわれている。[漁父(ギョホ)の歌]の形式の詞は張志和にはじまる。

[漁父歌] 張志和

西寒山前白鷺飛

桃花流水鱖魚肥

青葉篛笠緑蓑衣

斜風細雨不須歸

[読み]

[漁父歌] 張志和

西寒山の前に白鷺飛び

桃花流水 鱖魚(ケツギョ)肥(コ)ゆ

青き篛(ジャク=若竹)の笠 緑の蓑衣(ミノ)

斜風 細雨 帰るを須(モチ)いず

[解説]

ここから見える西寒山の前を白鷺が飛び交っている。

前を流れる水の上には桃の花が流れ、水面に鱖魚(ケツギョ=65Cm程の淡水魚)が跳ねる。

この季節にはいつも若竹で編んだ笠をつけ、雨露をしのぐ蓑(ミノ)きて小雨にけぶる山を見る。

私は風が吹こうと雨にうたれようが、あの策謀の渦巻く官界へ帰るつもりはない。

 古来より中国の山深い川のほとりに庵を結び、気のいい仲間を招き寄せたり訪問したして、昼間から酒を呑んだり、茶を喫したりしている隠者は、生活の糧は何処で得ていたのであろうか。皎然のような坊さんは教団の一員でもあるので、檀家や本山よりの還付があっただろう。いざとなれば、雲水姿で門に立ち食を乞うこともできた。張志和の実家はかなり裕福な家柄で、自分の舎弟のために実家の跡取り長男が家を建てたりしている。とりあえず、必用があれば実家に連絡すれば金は届けてくれただろう。

 捨て子だった陸羽の場合はどうだろうか。友達がいても、何日もそこで寄宿していれば時には嫌な顔もされるだろう。何もしないで食べていけるとは、おかしな話である。茶の指南がそんなに金になるとも思えないので、陸羽の住居には常時良い茶の蓄えがあったと思われる。茶を自分で飲んだだけでは金にはならない。茶の価値の判る知人に茶を贈り、その見返りに生活必需品を手に入れていたのだろう。陸羽の日常は、良い茶を集めることだったはずだ。

 現存する唯一の陸羽作の詩[会稽東小山]には、

月色寒湖剡渓(エンケイ)に入り

青猨(エン)叫び断ゆ緑林の西

昔人已(スデ)に東流を逐(オ)いて去り

空しく見る年年江草斉(ヒト)しきを

 剡渓(エンケイ)は天台から流れて杭州湾にそそぐ曹娥江の上流の景色の豊かな地で、陸羽は度々行っていた。

 また、剡渓は若い杜甫も遊んだところで、晋代に戴逵(タイキ=326396年、東晋代の画家で文人)という隠逸の人が住んでいた地で、この人を昔人とさしたのだ。そして剡渓は名茶の産地の一つである。陸羽は住んでいる湖州からかなり離れている剡渓の山道奥まで、茶を求めて踏み込んでいたのだ。

 陸羽は誇り高い人物である。倹徳(ケントク=倹約の徳)の支えになっていたものは、プライドであろう。生活は楽ではなく、安定性がうすかったはずだ。陸羽が自伝を書いた10年後に、湖州の新しい刺史(州の長官)として[顔真卿(ガンシケイ)709~786]が任命されてきた。彼は安録山の乱のとき勤皇の義軍を挙げた人で、書家としての名声も高かった。彼は地方志[韻海鏡原(古今の文献から佳句を収集し韻別に分類するもので、清代に76人学者が8年がかりで編纂した)]360巻という大著作を計画し、地方の文人隠士に固定した収入を得られるように計った。陸羽も皎然もこれに参画した。

 顔真卿が湖州の刺史(州の長官)に任命されたのが大暦7年(772年)9月で、着任は次の年の正月で65歳であった。彼は56歳で当時の法相になり爵位をうけ、いかなる者に対しても厳しく弾劾するタイプの閣僚で、時の宰相[元載(ゲンサイ)]を追求しすぎて左遷されたのだ。中央返り咲きの野心もないではなかったが、歳も歳なので「悠々自適の生活もいいかもな・・」と思う気持ちもあったのだろう。波乱万丈の顔真卿にとっての湖州での5年間を陸羽、皎然、張志和との交友をしたことが最も幸せな時期だったことだろう。彼らは[韻海鏡原]編纂の打ち合わせと称し、会飲して詩の応酬を楽しんだはずだ。

 陸羽が皎然、張志和ら気心の知れた同士で[杼山(チョサン)]に遊びにいき、参加できなかった顔真卿のために、その山に咲く[青桂花(キンモクセイの一種か?]を顔真卿に贈っている。杼山には皎然の寺があり、顔真卿が私財を投じて建てた陸羽の隠棲所もあったよだ。陸羽は[韻海鏡原]編纂という定職の他に、住居まで提供されたことになる。唐代の地方長官の行政は、現在のような公私の厳重な区別はなかったのだろう。恐らく、州の刺史(シシ=長官)の任務のなかには、高名な隠士や文士に類する文化人を保護することも含まれていたのだろう。隠士や義人が自分の行政圏内で窮死でもすれば面目が立たなかったはずだ。

 当時の陸羽は、自著の[茶経]10年前に出しているので、当時の文化人である顔真卿もそれを読んでいたはずである。着任早々、隠棲所[三癸亭(サンキテイ)]を建てたのは、以前から茶人陸羽に対して敬意を持っていたのだろう。

 [顔真卿(ガンシケイ)709~786]の名は全国に知れ渡っていた。安録山が河北で叛旗をかかげ洛陽に向け兵を進めたとき、その沿線の地方長官の殆どが降伏した。この状況下でも、平原の太守顔真卿と従兄の常山太守[顔杲卿(ガンコウケイ)]は勤皇の旗をかかげた。従兄の常山太守の顔杲卿のほうは力尽きて捕らえられたが、安録山の前に引き出されてもその叛意をののしりつづけて殺された。顔真卿だけが抵抗を続けていたが翌年には平原を放棄し、[鳳翔(ホウショウ)]にある玄宗の皇太子だった[粛宗(シュクソウ)]の許に走った。顔真卿は、顔杲卿の悲劇の同情なども混じり国民的英雄として讃えられることになった。

 安録山の乱以前に 鳳翔にある中央官庁の行在所(アンザイショ=地方にある仮の御所)で、今でいう[法相と検事総長]を兼ねていた顔真卿の人気が高かったのは、常に権臣側と対立し、そこに妥協のなかったことにある。それも半年ぐらいで地方長官に左遷されたのは、顔真卿の宰相連中に対する正義感溢れる発言が嫌われたからである。

 なるほど中央官庁での顔真卿の裁定は厳しく、国防次官が酒気を帯びで入朝したこと、閣僚の一人が正式な朝廷の会議で静粛を乱したことを弾劾したため二人とも左遷されてしまった。また、粛宗の長男が長安修復のために鳳翔を発つときに所定の場所で乗馬する前に、侍従長が乗馬してしまった。これを弾劾した顔真卿に対し、粛宗は「朕の子はいつもしきたりを重んじているので失策はなかったが、侍従長は年老いて足も不自由なので、今回は勘弁してやってくれ」と弾劾書を差し戻した。

 顔真卿が重んじたのは礼儀作法である。酒気帯び参内。宮中の席に着いたら騒ぐな。古来からの仕来りを軽んじるな。行在所であるから地方官庁を臨時宮殿にしたもので万事粗末な雰囲気だっただけに、立居振舞えもゾンザイで、文書、行事なども簡略化されていたはずである。顔真卿は「こんな非常の際だから、よけい気持ちを引き締めなければならない」と考えたのだろう。

 鳳翔における顔真卿の姿勢は、「豪華な場所で茶を飲むのではない。粗末な狭いところで茶を飲む。それだけに礼にかなう振舞いをしなければならない」という喫茶の道につうじている。どの世界にあっても、礼体の弛緩は、あらゆる部分での崩壊をうながすおそれがある。国の体制や政治にかかわることだけではない。一個の人間の人格が破壊される危険が秘められているのだ。

 敬遠されての顔真卿の地方勤務も2年で中央復帰がなる。乾元3年(760年)2月、左遷前より1階級下がった法務次官として中央に呼び戻された。だが半年ぐらいで、また蓬州(四川)に飛ばされた。これは、粛宗に信任の厚い宦官(カンガン)の[季輔国]に憎まれたからである。これは、退位して長安の西門にある[興慶宮]にいる上皇玄宗の許に、その西門をとおる廷臣が挨拶に詣でることが多かった。なかには玄宗に復帰を勧める輩もいないではないと考えた季輔国は、玄宗を外部と接触できない[太極宮]に隔離してしまった。季輔国のそんな思いをよそに顔真卿は、百官を引きいて玄宗のご機嫌伺いをした。季輔国自分のためにはならない男と見切りをつけ、早々に左遷してしまったというわけである。

 宝応元年(762年)12月、顔真卿は大蔵次官として中央にまた復帰し、またもや法相まで登り詰めた。この4年後に宰相と対立して、またまた地方に飛ばされた。世は粛宗の次の[代宗]の時代で、その寵臣[元載]は「全ての上奏文は各部局の長官から、宰相を通じて奏聞すべきである」とした。都合の悪いものは握りつぶせるからである。顔真卿は、一応それも反対した。彼は峡州(湖北)に飛ばされ、そのあと吉州、撫州を経て湖州刺史となり陸羽たちとの交流が始まったのである。

 陸羽、皎然、張志和との5年間の交友のあとの大暦12年(777年)に宰相の元載は処刑され、顔真卿はまた中央に戻った。思いば、峡州にとばされてから11年の地方勤のすえの69歳であった。彼は8年後の77歳のおり反乱軍への勅使とし敵陣へのりこんで、そこで非業の最期をとげる。まったく、忙しい人生もあったものである。

 陸羽、皎然、張志和、顔真卿らが山深い山峡の谷川のほとりの庵(イオリ)に集い、茶を喫しながら詩想を練るゆるやかな時を共有するさまを想像するとき、かくのごとくが本当の友人同士なのかと、考えさせられる。一生を通して心を許せる友人は一人か二人であろう。それに比べて、ときにつれての恩人のかずのなんと多いことか。

*陳舜臣著「茶の話」を読んで。

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