文学

門を出れば我も行く人秋のくれ(与謝蕪村)

  平成161115

  芭蕉の生誕から、約100年後の世は連歌形式の俳諧は下火になった。俳人たちのほとんどが、おのれの思いを発句のみで表現しようとした。中でも、俳人であると同時に画家でもあった与謝蕪村は、絵画的な光り溢れた数多くの発句を残した。芭蕉の思想性を表に出す句に対し、蕪村の発句は沸きあがるイメージを言語により喚起することに成功したと云われている。なにやら、私の理解できない世界のようだ。

  [見にしむや亡妻の櫛を閨(ねや)に踏]

  [畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ]

[みじか夜や毛むしの上に露の玉]

  [白露や茨の棘にひとつづつ]

[渋柿の花ちる里と成りにけり]

特に注釈の必要としない簡単明瞭な内容を表した句で、読み返すほどに、一幅の絵画が脳裏に現れてくるそれぞれの句である。いいかたをかえれば、思わず空を見上げたくなるような味わいのある句だと誰もが思うはずだ。きっと。

与謝蕪村は享保元年(1716年)摂津国(兵庫県南東部)に生まれた。この年は、八代将軍吉宗の治政が始まる年で、芭蕉没後23年目に当たる。当時の享保俳壇は、俗化の一途を辿る時期でもあった。蕪村幼少の頃の記録はなく謎に包まれているが、かなりの財産家の出で、幼少時の環境が俳句と絵画的才能を育んだとの説がある。

享保17年(1732年)に江戸に出て、その翌年の享保18年に蕪村の句が初見される。

[哀れなる花見は死出の山路哉] 西鳥(蕪村の初期の号)

元文3年(1738年)23歳で[巴人(宗阿)]の門に入り[宰町]と号を改める。この年に、蕪村の絵が始めて世に出る。蕪村の下絵を版職人が版木にはり、彫り起こした版木で押した版画という形での絵であった。

師匠の巴人[夜半亭一世]が寛保266歳で他界してから、蕪村は「いささか故ありて」江戸を去り、約十年間東国を放浪した。松島、平泉、象潟、出羽、津軽外カ浜への陸奥旅行は宝暦元年(1751年)36歳で京に戻るまで続く。この間、蕪村はおびただしい句と画をものにする。

京には蕪村より7つ年上の池大雅が、己の画風を確立して活動していた。蕪村の京での生活は居心地の良いものではなく、

[中々にひとりあれはそ月と友]の心境であった。

宝暦4年(1754年)丹後宮津の見性寺に滞在する。この地で句、画の毎日を過ごし、宝暦7年(1757年)に再び京に戻り、蕪村の文字通りの画、句ともに黄金時代を迎える。

[はしたてを先にふらせて行秋ぞ]

名を成し経済的にも安定した蕪村は、妻を得て子を生す。この頃の蕪村は48歳で、この時期にはおびただしい屏風絵を描いている。

  明和7年(1770年)[夜半亭二世]を継承し宗匠の列に加わり、俳諧中興の主導力となる。

画は「我に師なし」というように独学で、大雅と並ぶ南画の一家をなした。

  蕪村は天命3年(1783年)1224日に68歳で死去した。

  [門を出れば我も行く人秋のくれ]

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おくのほそ道と松尾芭蕉

平成191111

[月日は百代(ハクタイ)の過客(クワカク)にして、行きかふ年もまた旅人なり]は、俳人松尾芭蕉[おくのほそ道]の冒頭部分の一節である。月日は遠き時の果てから来た客人であり、いま過ぎる年もくる年もまた旅人である。と、云っているようである。この、おくのほそ道は芭蕉46歳の春から秋にかけて歩いた陸奥、北陸地方への150日間、600里に及ぶ旅の紀行文である。

芭蕉は1644年に伊賀上野に松尾与左衛門の次男として生を受ける。21歳のときに発句2首を「佐夜中山集」に残す。その内の1句が、伊賀上野駅前に句碑が建つ[月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿]である。これが、芭蕉の公に記された最初の発句であった。その後、29歳まで伊賀上野で俳諧に精を出し、俳諧の師匠をめざして江戸にのぼる。この年1672年の翌年に、市川団十郎が江戸で歌舞伎を始めた記念すべき年となる。

その後の芭蕉の16年間は、江戸と伊賀上野を行き来するなかでの多くの俳諧人との交流、旅を基にした[野ざらし紀行][鹿島紀行][笈の小文][更科紀行]等を世に出し、俳諧での地位を不動のものにしていく。

おくのほそ道の旅には、弟子の曾良が一緒について行く。当時の俳諧では誰もが認める芭蕉の陸奥への旅を、円満円滑に計るのが曾良の役目だった。すでに俳諧で不動の地位を築いた芭蕉には、彼に教えをうけた弟子や孫弟子達が様々な地に根付いていた。さらに、あの当時の地方文化人は、侘び寂びの境地を確立した芭蕉を崇拝していたことで、行く先々へ曾良が便りするだけで、この旅のそれぞれの地での滞在、その他の便宜を得ていたものと考えられる。

芭蕉はこの旅以外の幾度もの旅でも、伊賀上野、江戸、近江、嵯峨のそれぞれの庵での日常の生活にお金の匂いが一切しないことは、芭蕉を影から支える複数の金持ちの粋人がいたことになる。旅にあっては、各地方の裕福な粋人が芭蕉の面倒を見たことは、容易に想像できるのである。それらの裕福な粋人と、金銭面の取り交わしをしたのが曾良ではなかったか。

河合曾良は芭蕉より5つ年下である。本名は岩波庄右衛門正字(マサタカ)で、伊勢長嶋藩に仕えていた。そのあと浪人となり、江戸へ上って芭蕉の弟子になる。曾良もまた[深川八貧]の一人で、世俗から距離を置き己を風月花鳥の世界に溶け込ませる強靭な精神を持つことで、芭蕉が最も信頼した弟子の一人である。

道横にそれるが、[貧交行]という杜甫の詩がある。七言古詩の漢詩だから、当然に七つの漢字を一行とする4行の漢字の羅列である。返り点もない漢字の羅列を観ても意味などわかるはずはなく、解説書をひもとくと「掌を上に向ければ雲となり、反対に下を向ければ雨となるほど、この世の人の心は変わりやすく軽薄な人間が多い。貧しい下積みのおりから変わらぬ友情を育んだ昔の二人の偉人を今でも私は忘れない。しかし、今の人は友情など泥のように棄て去って己が為だけに生きている」の意味が含まれているという。

[深川八貧]は、この杜甫の詩にならい芭蕉庵で門人7人(曾良、依水、苔翠、泥芹、夕菊、友五、路通)と[]をテーマとして句を読んだとされている。

曾良は地誌(それぞれの地方の行事)や神道(古来よりの宗教的な作法)に特に才のある教養人で、芭蕉と共に幕府の御庭番を生業としていたという説もある。そうであれば面白いのではあるが、この説はいまだかって何人にも証明できない単なる仮説である。

曾良が芭蕉と奥の細道の旅に出たのが、41歳である。この旅のそれぞれの地で、曾良も芭蕉に劣らぬ数々の名句を後世に残した。

西行から500年後の元禄2年(1689年)旧暦327日、千住を出発して奥への旅が始まった。奥州街道を北上して、日光、那須湯元など寄り道をしながら福島県に足を踏み入れ、420日に泊まったのが旗宿である。白河市旗宿は白河関跡のあるところだが、芭蕉と曾良は白河市の白坂から大きく曲がり、歌枕で名高い白河関跡にたちよったのである。

[卯の花をかざしに関の晴れ着かな]曾良の句である。

421日矢吹で一泊し、422日から7日も須賀川に滞在する。須賀川には相楽等窮という有力者の俳人がいて、連句の席を開いたりしたからであろう。

[風流の初めや奥の田植歌]

[世の人の見付けぬ花や軒の栗]芭蕉が須賀川で詠んだ句である。

須賀川を429日に出立し、乙字ケ滝を見て守山宿経由で郡山泊りだが、奥の細道の本文には郡山に宿泊したことすら書かれていない。曾良随行日記に[日の入り前、郡山に到りて宿す。宿むさかりし]と、ある。まともな宿屋もない当時の郡山は、取るに足らぬ村の一つだったのであろう。

郡山の宿を翌日51日(旧暦日時であるので、調子が狂う)に出立。日和田町の浅香山あたりで花かつみを捜し損ねた後に二本松の黒塚の岩屋をちょっと覗き、福島に泊まる。曾良随行日記に、この日の宿を[宿きれい也]とある。ほかにも記録することはあるだろうに、なんとも宿にこだわる曾良なのである。この日は約50Kmの距離を歩いたことになる。

52日に宿を出て阿武隈川を船で越え、もぢ摺り石をみる。

[早苗とる手もとや昔しのぶ摺り]芭蕉の句である。

瀬ノ上から飯塚(現在の飯坂)に入り、佐藤庄司の城跡横の寺による。この寺には弁慶の笈と義経の太刀が宝として納められていたという。

[笈(オイ)も太刀も五月に飾れ紙幟]芭蕉の句である。

佐藤庄司の城跡のある飯塚は、義経の忠臣の佐藤継信・忠信兄弟の故郷である。平泉にいた義経が頼朝の挙兵を知り、頼朝の許に馳せ参ずる途中で福島の佐藤庄司の許にたち寄る。この折に、武勇の誉れ高きこの地の豪族佐藤庄司の息子の佐藤継信、忠信兄弟は義経の家臣となり鎌倉へ同行する。兄の佐藤継幸は、八島の合戦のおり義経を庇い平家の武将の矢に当たり戦死。弟の佐藤忠信は、頼朝に追われることになった義経が吉野山に通りかかったおりに僧兵の攻めに合ったが、自ら志願してそれを防いだ。その後に追い詰められ、忠信は自刃して果てた。

芭蕉はこの日飯塚(飯坂)に泊るが、宿が凄まじいものであった。温泉があるので風呂に入ってから宿を借りたが、土間に筵を敷いたところに案内された。燈火がないために囲炉裏の火明かりで寝床を作り横になったが、夜半に雷がなり土砂降りになった。雨漏りがひどく眠るどころではなく夜明けになるのを待ち早々に出立し、宮城県の白石を目指す。

その後石巻、平泉まで北上し、日本海側の酒田へ。敦賀を経て岐阜県南西部の都市[大垣]で旅は終わる。かくして、150日間、旅程600里(2,400Km)の旅が終わった。

  暇な人がいて、この旅の二人の宿泊、食事その他の経費を、現在のお金に換算すると100万円と割り出した。16,666円となるが、交通費は徒歩なので0として計算されている。また、2,400Km150日で移動すると単純計算で一日15Kmとなるが、移動しないで知人宅に逗留していた分がある。実際には一日50Kmもの距離を歩いた日がある。

元禄7年(16941012日午後4時ごろ芭蕉は死去した。大阪の花屋仁左衛門の屋敷奥で、多くの門人に看取られての51歳の生涯であった。死因は、句会の席に出された食事での茸の食中毒ということになっている。

門人達は夜ひそかに芭蕉の遺体に着物を着せ、長櫃におさめて川舟に乗せた。遺体は14日に粟津の義仲寺に安置され、知らせたわけではないのに会葬する人は300人となった。

生前の108日、門人にかきとめさせた句[旅に病んで夢は枯野をかけ廻る]が辞世の句となった。

芭蕉が西行の足跡を辿り奥への道に分け入ったと同じく、後年、蕪村や一茶が芭蕉の足跡を辿り、この道を進んでいった。

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蛙と草野心平

                                                                                                                                     平成19118

  [月蝕と花火序詩]

    蛙よ

    口笛を吹いて

    寂しい月蝕をよべ

    花火をかこんで

    青い冷酒を傾けよう

蛙の詩人、富士山の詩人と呼ばれた草野心平は、明治36年(1903年)福島県いわき市小川町に生まれた。16歳で上京するまで小川町で暮らし、上京後に慶応義塾普通3年へ編入学。18歳で上海に渡り英語をマスターし嶺南大学へ入学。この当時、16歳で夭折した兄民平の残したノートに書き連ねられた詩に誘発され詩作に没頭する。と、詩集の巻末の略歴に書かれていた。

大正1422歳のころ、宮沢賢治などの詩人達との交流が始まる。高村光太郎のアトリエを訪ねたのもこの頃である。のちに心平の出した詩集[第百階級]の序文に、光太郎は書いている。[彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。それになり切る程通俗ではない。又なり切らないほど疎(ウト)んじてはいない。真実はもっとはなれたところに炯炯(ケイケイ)として立っている]

    夜おそく湯槽にからだをひたしていると

    処女のまるみをもったあでやかな月が

    窓から流れ込んで

    なやましく やわらかに からみつく

草野心平の詩を読むと、人間全体が好きになる。心平がいう人間とは、宇宙も動物も植物も、風も水も、石ころさえもが含まれる。

[魚だって人間なんだ]

    たらふくエサをやればいいといふもんぢやあない。

    二日も三日もイサをやらないのもいけない。

    向こうの身になって。

    たまにはキャベツやコーンフリーもいい。

    向こうの好き嫌ひも考えること。

魚だって人間なんだ。

草野心平は昭和63年(198885歳で亡くなられた。急性心不全が原因の死であった。私は、いつもよからぬ事を考え、それを発言するがために人から嫌われている。この機会にいってしまいたい。人間が亡くなる原因は心不全以外にないのである。何らかの理由があり、心臓が止まるから、死ぬのである。本来活発に収縮を繰り返し、身体全域に血液を送ることに専念していることが心臓の正全(セイゼン)な姿であり、その働きを放棄した状態が不全なのである。医者はウンザリした顔で死にそうな人の手首を弱く握り脈の止まるのを待つ。その手を離し、準備していた聴診器を音の聞こえないことを祈りながら胸のあたりに当てる。そして、一呼吸を置き[御臨終です]というのである。たまにミスジャッジで生き返ることはあるが、それはそれで、めでたいミスなのである。

  それはともかくとして、85歳でなくなられた草野心平の死は残念ではあるが、人の平均寿命から推し量ると大往生の部類に入る。そこまで生きられたことで尊敬に値するばかりか、読むことにより心が豊かになり、読むことにより生命の尊さに心が高鳴り、読むことにより死さえも尊敬に値するものだと教えてくれる何千編の詩を現世に残されての御他界を聞いたとき、古本屋でしか買ったことがない氏の詩集の横に並べようと思い、新刊書を売る書店で[草野心平詩集 自問他問]を買った記憶が蘇る。

草野心平の詩に、陽気な婆さん蛙が、他界寸前にお礼の言葉を述べるものがある。勿論、この大自然に対する御礼の言葉である。

[婆さん蛙のミミミの挨拶]

    地球さま。

    永いことお世話さまでした。

    さようならで御座います。

    ありがとう御座いました。

    さようならで御座います。

    さようなら。

  草野心平が生きた地球という天体にたいする感謝の気持ちは、計算の上に空けられた行と行の間に満ち溢れている。多くの言葉を吐けば良いというわけじゃあない。程々から、さらに半分を削り、さらに4割引した言葉の列が、氏の文学なのだと考えた。それは、多くの人々の苦悩を救った。

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銀杏の葉とゲーテ

                                                                                              平成19113

銀杏の葉(ゲーテ作 井上正蔵訳)

これは はるばると遠いくにから

わたしの庭に移された木の葉です

この葉には 賢者の心をゆすぶる

ふかい意味がふくまれています

これは もともと一枚の葉が

裂かれて二枚の葉になったのでしょうか

それとも 二枚の葉が相手を見つけ

一枚になったのでしょうか

こうした問いに答えられる

本当の意味がどうやらわかってきました

わたしの歌を読んであなたはお気づきになりませんか

わたしも一枚でありながら あなたとむすばれた二枚の葉であることが

これは、ドイツの詩人ゲーテが恋人マリアンネに、古城の庭に落ちていた銀杏の葉を添いて贈った詩である。ゲーテ66歳の時であった。

[ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ]は、1749年ドイツのフランクフルトに生まれた。帝室顧問官の父と市長の娘だった母を持つ裕福な家庭で厳格な教育をうけ、父の意向もあり16歳で法律を学ぶために大学に入る。大学では法律よりも文学や美術に目を移し、甘美な詩作に明け暮れる不規則な生活の末に健康を損ねて帰郷する。しかし、1年半後に別の大学で法律、医学、自然科学に関する知識収集に力を入れた。この頃出合った5つ年上のヘルダーとの交流がゲーテの文学者としての底辺を形成したようだ。のちに哲学者、文学者となるヘルダーは、永くゲーテとの交流を続けた。

1774年発表の[若きヴェルテルの悩み]で文壇での名声を得たゲーテは、この後の10年を政治家として活躍する。政治の実務に疲れたゲーテは1786年イタリアに赴き、再び芸術家として再生を果たす。「政治家を10年続けて平気で暮らせる人間は、正常のモラルの持ち主ではない」などとは口には出さなかったろうが、そのときのゲーテは心の中ではそれに近いことを考えたに違いない。洋の東西の別なく、政治化には良い人もいるが、そのほとんどは極悪非道の人間である。

墓碑銘(ゲーテ作 高橋健二訳)

少年のころは、打ちとけず、反抗的で、

青年のころは、高慢で、御しにくく、

おとなになっては、実行にはげみ、

老人となっては、気がるで、気まぐれ

君の墓石にこう記されるだろう。

たしかにそのことが、人間であったあかしなのだから。

  183283歳でこの世を去るまでに、ゲーテの残した膨大な詩篇と小説、戯曲は、今でも多くの少年、少女、そして多くの青年の愛読書になっている。また、老人が目を細めてページをめくる時、かっての思い出が、どのページからも生き生きと湧き出してくる書物でもある

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