平成19年11月11日
[月日は百代(ハクタイ)の過客(クワカク)にして、行きかふ年もまた旅人なり]は、俳人松尾芭蕉[おくのほそ道]の冒頭部分の一節である。月日は遠き時の果てから来た客人であり、いま過ぎる年もくる年もまた旅人である。と、云っているようである。この、おくのほそ道は芭蕉46歳の春から秋にかけて歩いた陸奥、北陸地方への150日間、600里に及ぶ旅の紀行文である。
芭蕉は1644年に伊賀上野に松尾与左衛門の次男として生を受ける。21歳のときに発句2首を「佐夜中山集」に残す。その内の1句が、伊賀上野駅前に句碑が建つ[月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿]である。これが、芭蕉の公に記された最初の発句であった。その後、29歳まで伊賀上野で俳諧に精を出し、俳諧の師匠をめざして江戸にのぼる。この年1672年の翌年に、市川団十郎が江戸で歌舞伎を始めた記念すべき年となる。
その後の芭蕉の16年間は、江戸と伊賀上野を行き来するなかでの多くの俳諧人との交流、旅を基にした[野ざらし紀行][鹿島紀行][笈の小文][更科紀行]等を世に出し、俳諧での地位を不動のものにしていく。
おくのほそ道の旅には、弟子の曾良が一緒について行く。当時の俳諧では誰もが認める芭蕉の陸奥への旅を、円満円滑に計るのが曾良の役目だった。すでに俳諧で不動の地位を築いた芭蕉には、彼に教えをうけた弟子や孫弟子達が様々な地に根付いていた。さらに、あの当時の地方文化人は、侘び寂びの境地を確立した芭蕉を崇拝していたことで、行く先々へ曾良が便りするだけで、この旅のそれぞれの地での滞在、その他の便宜を得ていたものと考えられる。
芭蕉はこの旅以外の幾度もの旅でも、伊賀上野、江戸、近江、嵯峨のそれぞれの庵での日常の生活にお金の匂いが一切しないことは、芭蕉を影から支える複数の金持ちの粋人がいたことになる。旅にあっては、各地方の裕福な粋人が芭蕉の面倒を見たことは、容易に想像できるのである。それらの裕福な粋人と、金銭面の取り交わしをしたのが曾良ではなかったか。
河合曾良は芭蕉より5つ年下である。本名は岩波庄右衛門正字(マサタカ)で、伊勢長嶋藩に仕えていた。そのあと浪人となり、江戸へ上って芭蕉の弟子になる。曾良もまた[深川八貧]の一人で、世俗から距離を置き己を風月花鳥の世界に溶け込ませる強靭な精神を持つことで、芭蕉が最も信頼した弟子の一人である。
道横にそれるが、[貧交行]という杜甫の詩がある。七言古詩の漢詩だから、当然に七つの漢字を一行とする4行の漢字の羅列である。返り点もない漢字の羅列を観ても意味などわかるはずはなく、解説書をひもとくと「掌を上に向ければ雲となり、反対に下を向ければ雨となるほど、この世の人の心は変わりやすく軽薄な人間が多い。貧しい下積みのおりから変わらぬ友情を育んだ昔の二人の偉人を今でも私は忘れない。しかし、今の人は友情など泥のように棄て去って己が為だけに生きている」の意味が含まれているという。
[深川八貧]は、この杜甫の詩にならい芭蕉庵で門人7人(曾良、依水、苔翠、泥芹、夕菊、友五、路通)と[貧]をテーマとして句を読んだとされている。
曾良は地誌(それぞれの地方の行事)や神道(古来よりの宗教的な作法)に特に才のある教養人で、芭蕉と共に幕府の御庭番を生業としていたという説もある。そうであれば面白いのではあるが、この説はいまだかって何人にも証明できない単なる仮説である。
曾良が芭蕉と奥の細道の旅に出たのが、41歳である。この旅のそれぞれの地で、曾良も芭蕉に劣らぬ数々の名句を後世に残した。
西行から500年後の元禄2年(1689年)旧暦3月27日、千住を出発して奥への旅が始まった。奥州街道を北上して、日光、那須湯元など寄り道をしながら福島県に足を踏み入れ、4月20日に泊まったのが旗宿である。白河市旗宿は白河関跡のあるところだが、芭蕉と曾良は白河市の白坂から大きく曲がり、歌枕で名高い白河関跡にたちよったのである。
[卯の花をかざしに関の晴れ着かな]曾良の句である。
4月21日矢吹で一泊し、4月22日から7日も須賀川に滞在する。須賀川には相楽等窮という有力者の俳人がいて、連句の席を開いたりしたからであろう。
[風流の初めや奥の田植歌]
[世の人の見付けぬ花や軒の栗]芭蕉が須賀川で詠んだ句である。
須賀川を4月29日に出立し、乙字ケ滝を見て守山宿経由で郡山泊りだが、奥の細道の本文には郡山に宿泊したことすら書かれていない。曾良随行日記に[日の入り前、郡山に到りて宿す。宿むさかりし]と、ある。まともな宿屋もない当時の郡山は、取るに足らぬ村の一つだったのであろう。
郡山の宿を翌日5月1日(旧暦日時であるので、調子が狂う)に出立。日和田町の浅香山あたりで花かつみを捜し損ねた後に二本松の黒塚の岩屋をちょっと覗き、福島に泊まる。曾良随行日記に、この日の宿を[宿きれい也]とある。ほかにも記録することはあるだろうに、なんとも宿にこだわる曾良なのである。この日は約50Kmの距離を歩いたことになる。
5月2日に宿を出て阿武隈川を船で越え、もぢ摺り石をみる。
[早苗とる手もとや昔しのぶ摺り]芭蕉の句である。
瀬ノ上から飯塚(現在の飯坂)に入り、佐藤庄司の城跡横の寺による。この寺には弁慶の笈と義経の太刀が宝として納められていたという。
[笈(オイ)も太刀も五月に飾れ紙幟]芭蕉の句である。
佐藤庄司の城跡のある飯塚は、義経の忠臣の佐藤継信・忠信兄弟の故郷である。平泉にいた義経が頼朝の挙兵を知り、頼朝の許に馳せ参ずる途中で福島の佐藤庄司の許にたち寄る。この折に、武勇の誉れ高きこの地の豪族佐藤庄司の息子の佐藤継信、忠信兄弟は義経の家臣となり鎌倉へ同行する。兄の佐藤継幸は、八島の合戦のおり義経を庇い平家の武将の矢に当たり戦死。弟の佐藤忠信は、頼朝に追われることになった義経が吉野山に通りかかったおりに僧兵の攻めに合ったが、自ら志願してそれを防いだ。その後に追い詰められ、忠信は自刃して果てた。
芭蕉はこの日飯塚(飯坂)に泊るが、宿が凄まじいものであった。温泉があるので風呂に入ってから宿を借りたが、土間に筵を敷いたところに案内された。燈火がないために囲炉裏の火明かりで寝床を作り横になったが、夜半に雷がなり土砂降りになった。雨漏りがひどく眠るどころではなく夜明けになるのを待ち早々に出立し、宮城県の白石を目指す。
その後石巻、平泉まで北上し、日本海側の酒田へ。敦賀を経て岐阜県南西部の都市[大垣]で旅は終わる。かくして、150日間、旅程600里(2,400Km)の旅が終わった。
暇な人がいて、この旅の二人の宿泊、食事その他の経費を、現在のお金に換算すると100万円と割り出した。1日6,666円となるが、交通費は徒歩なので0として計算されている。また、2,400Kmを150日で移動すると単純計算で一日15Kmとなるが、移動しないで知人宅に逗留していた分がある。実際には一日50Kmもの距離を歩いた日がある。
元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ芭蕉は死去した。大阪の花屋仁左衛門の屋敷奥で、多くの門人に看取られての51歳の生涯であった。死因は、句会の席に出された食事での茸の食中毒ということになっている。
門人達は夜ひそかに芭蕉の遺体に着物を着せ、長櫃におさめて川舟に乗せた。遺体は14日に粟津の義仲寺に安置され、知らせたわけではないのに会葬する人は300人となった。
生前の10月8日、門人にかきとめさせた句[旅に病んで夢は枯野をかけ廻る]が辞世の句となった。
芭蕉が西行の足跡を辿り奥への道に分け入ったと同じく、後年、蕪村や一茶が芭蕉の足跡を辿り、この道を進んでいった。
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