美術 絵画

ヴィーナスの誕生とパーンの恐怖

平成20622

  紀元前1500年ごろから古代ギリシャの諸民族により語りつがれ、紀元前900年頃から文字としてまとめられるギリシャ神話は、当時から音楽、絵画、演劇の題材としてくり返し取り上げられ現代に至っている。古代ギリシャの神々が当初から人間の身体と心を持ち、その感情も行動も極めて人間的なものから、当時の人々の日常生活での感情や行為などが取り込まれて出来あがったのが神話の世界だと思った。

  意地悪く考えると、神々相互が複雑に入組む性愛模様や、残酷極まりない殺戮をともなう裏切りや、きわめてハードな家庭内暴力を内容とする物語だと知るにつけ、当時の一般社会でも同様の感情や行為が横行していたと思わざるを得ない。

  どの民族の神話でも例外はなく、神々の王である主神は、奥様以外の女性にこまめに手をだすようだ。女性の形と機能をそなえていれば、あらゆる手段を屈指して目的を果たす。奥様は奥様で、夫の浮気の相手に執拗な復讐をくりかえし、この浮気の果実である子供の将来につながる芽を摘んでしまう。そして「夫がやりたいようにやるのなら私も」と男漁りに励むのである。

  どの民族に伝わる神話でも共通しているのが、国生みの部分である。ビックバンに始まる宇宙の誕生と同じく、何も無い混沌の状態から原初の神が出現し昼と夜を創り、空と大地を創る。原初の神は別の神々を生み、それらが人間や動物や植物を創っていく。

  ギリシャ神話での2代目王クロノスは、将来の自分の地位を危うくする要因を、あらゆるシミュレーションを屈指して追求した。その結果、最大の競争相手と予想される自分の子供が生れるたびに、自分の体内に飲み込んでしまった。母の機転で、最後に生んだ子供の代わりに産着に包んだ石を夫に差し出し、この子だけが難をのがれた。その末子が成人してから父親に下剤を飲ませた。兄弟は飲まれた順序の逆から再度神々の世界に戻ることが出来た。力を合わせた兄弟は、実の父から神々社会の政権を奪い取る。末子のゼウスを始めてするオリンポスの神々への政権交代に関する数々の作戦は、時代が下がった現代にまで引き継がれ、政治の世界や、指定暴力団内部や大小の企業内や、公立私立のそれぞれの病院内部や、保育所や幼稚園、小中髙(専門学校、職業訓練校を含む)大や大学院の学校内部や、各国家機関内部の権力抗争に反映されてきた。しかし、武器性能や科学の進歩があったにもかかわらず、そのバリエーションに進歩の跡が認められないのが原状である。

  ギリシャ神話での世界の始まりは、まずカオス(混沌)があり、その次にガイア(大地)とウラノス(天空)、ポントス(大海)その他が生れた。

  ウラノス(天空)がガイア(大地)に覆いかぶさったので、クロノスとレア夫婦の他に多数のティタン神族が生れた。

クロノスとレア夫婦の間に生れたのがオリンポスの神々のゼウス(主神)、ポセイドン(海洋神)、ハデス(冥界神)、ヘラ(ゼウスの姉、ゼウスの妻でもある結婚の女神)、デメテル(ゼウスの姉、農業の女神)、ヘスティア(ゼウスの姉、家庭生活の守護神)の兄弟神である。

彫刻[ミロのヴィーナス]や、画家のサンドロ・ボッティチェリ、アレクサンドル・カバネル等の絵画[ヴィーナスの誕生]で馴染みあるヴィーナスは、ギリシャ名をアプロディテという。この恋愛の神ヴィーナスは、なんと、息子クロノスに切落とされたウラノスの陰部が海に落ちた衝撃の泡の中から生まれている。なにも、そんなところから生まれなくとも、恋愛の神としての登場のしかたは別にあったと思うのだが、昔も手抜きする人間は少なくなかったのだろう。

  ギリシャ神話の二代目王であるウラノスにも、息子クロノスに陰部を鎌で切落とされるだけの理由はあった。クロノスはウラノスを父、ガイアを母として生れたティタン親族の末子である。かねてから猜疑心の強いウラノスは、自分の息子たちに王位を奪われることを警戒していた。特に息子の怪力巨人と一眼巨人を恐れ、ガイア(大地)のお腹の中へ押し戻してしまった。お腹の中へ二人もの巨大な息子を押し戻されたガイアの苦しみは強く、こんな馬鹿夫をそのままにしては置けないと思った。この母は、残った息子たちと自分の夫を倒すための談合を持った。恐れおののく兄弟の中で、末子のクロノスが「私がやりましょう」と母に申し出た。

夜になる前から母の寝室にかくれていたクロノスは、いつものように当然のように母の上に這いあがる父をしばらく観察した後に、その一物を鎌で掻ききってしまった。それからのクロノスの行動は素早く、転がっている父の男根を滑り防止のイボイボ付きゴム手袋の手で握り、海の中に投げ込んだ。男根は二三度海面をジャンプした後に海底に沈み、白い泡が周囲に湧きあがりヴィーナスが誕生したのである。屈辱のために身を隠した先王の椅子に座ったのがクロノスである。このクロノスもまた、自分の子供たちであるオリンポスの神々に戦いを挑まれ、末子のゼウスにその王位を奪われるのである。

  男根が投げ込まれた海の泡から生れた絶世の美女神ヴィーナスの夫は、頭髪が薄く、斜視で鼻が低く、唇が厚く、お腹は出っ張り、畳針のような胸毛をもち、その上にビッコの足には年齢不詳の水虫の巣窟がある、ほとんど救いようのない容姿の鍛冶屋の神ヘパイストスである。このヘパイストスの策略により彼の妻にされてしまった彼女だったが、絵画に描かれた理想の女性としてのヴィーナス像とは裏腹に、大変な一面を持っていた。神々の世界では知らぬ神のいない尻軽女で、軍神アレスを浮気の相手に選んで眼も覆うばかりの狼藉の数々を繰りひろげたのだ。

ゼウスの子アレスは父に良く似た身持ちの悪い息子で、方々の女神にモーションをかけては数多くの女神と浮名を流した。その方面では父のゼウスは業界一なのだが、自分に似た息子をことのほか嫌い、神々社会での重要な地位につける事はなかった。このアレスとヴィーナスとの行為中に網でベッドにくくりつけた夫のヘパイストスは、あろうことか、その現場に大勢の神々を導き入れて二人の醜態をさらし神とした。中にはアレスを責める神もいたが、内心それを羨む神も少なくなかったという。神でも人間でも、物腰や顔色だけで本当の考えは判断できないということは、今始まったことではない。決して隣人を疑っていると悟られてはならないが、自宅のドアや窓の鍵のかけ忘れの無いようにはしなければならない。

そんな仕打ちにもめげずにアレスとヴィーナスの間にはエロスを含め4人の子が出来た。神々の世界では、浮気でできる子供でも特に周囲から後ろ指をさされることはなく、神々の社会で、それなりの役目が与えられる。

  彫が深く目鼻立ちが整って、金髪の巻き毛を持つ多くのヴィーナスの浮気相手の中に混じって、実用的な性欲絶倫のパーンがいた。性欲旺盛な恋愛の神にはときおり、姿かたちにこだわることなく、実質的持続力とパワーを秘めたパーンを必要としたのだろう。

  牧羊神パーンは、羊飼いと羊そのものを監視する神である。父は神々の伝令役ヘルメスで母はニンフ(妖精)だと云われている。パーンは羊の足と尻と角をもち、シューリンクスという笛の名手である。あるときアポロンの弦に挑戦し負けたが、その判定の不満をだれかれなしにぶつけた。周囲の出来事には対しては比較的温厚なアポロンも、自分のことを他人が謙遜することには我慢ができず、パーンの耳をロバの耳に変えてしまった。羊の毛が密生している頭に2本の角を生やし、両足は羊の足で、その上にロバの耳にされたのだから異様な姿になる。そこに持ってきて、ファルス(男性器)を屹立させた姿で描かれることの多い無類の性豪ときている。こんな身体的特色を具えてはいるが、男女間の行いには確りとだらしなく、野山に住むニンフ(妖精)と見れば誰かれなく追いかけまわし、その確立は高く当初の目的を果たす。こんな彼を嫌ったニンフの多くは、木や草に姿を変えて難を逃れるが、自らも元の姿に戻れなくなってしまうのだ。本当に、罪作りな神といわなければならない。

  牧羊神パーンにはもう一つ、この地上に生きる動物にとり迷惑な分部があった。

突発的な不安や恐怖により混乱した心理状態をパニックと呼ぶが、語源はギリシャ神話の[パーンの恐怖]から来ている。家畜の群れが突然騒ぎ出したり集団で逃げ出したりする現象は、家畜の感情を揺り動かすパーンの力だと信じられていた。その後に、動物や人間の集団を襲う恐慌状況をパニックと呼ばれるようになり、広義には個々の人間の恐慌状況や心理状態も含むようになった。

  歴史上では集団的恐慌状況に巻き込まれての大惨事を引き起こした例は数え切れないが、パニックにも利点が無いわけではない。目前の火災や事故寸前の状況から信じられない速さで遠ざかることが出来る場合がそうである。火事場から逃げ出すのに、85Kgもある金庫を片手で引きずり出す力を奥様が持つことも一種のパニックの利点である。しかしこの場合だけは、厳密には、女性特有の欲望の部分も混じっているとも考えられる。

  パニックに陥りにくい環境もあるようだ。まず、生き残りの可能性の無い場合には起こりにくいという。過去の大規模な航空機事故の場合には死亡した全員が冷静さを保ち、墜落し機体が地上に激突する瞬間まで家族への遺言を書き続けていた者もいたという。充分に訓練された集団もまたパニックには陥りにくい。軍隊のような組織の真の目的は、敵となる人間を抹殺することにある。戦争末期の極限状況下でそれらに陥ることはあっただろうが、指揮官が健在で指揮系統が健全に機能していれば、どのような状況下でもストレスは軽減され、たいていの危機を脱するという。敵と味方が入り乱れる戦場の軍隊がパニックに陥っていたのでは、あぶなくて戦争どころではない。精神的に異常をきたした機銃射手が後ろを向き、その引き金を引くようなことになったのでは、味方同士の戦闘に発展しかねない。

  パニックはある種の恐怖心が原因でおこる状況である。[恐怖]の定義は、「現実や想像上の危険、または類似するリスクに対する強い生物学的な感覚」となる。「恐怖心が極限まで高まり、追い詰められた鼠が猫に反撃を開始する」と、よくいわれる。人間も同じである。やくざや、自分の役目を勘違いしている警官に不当に追い詰められれば、月に一度の町内の共同清掃に欠かさず出席する一般的人間であっも、命をかけて戦うこともある。人気の無い場所でやくざに絡まれ、恐怖のあまり押し戻したら、そのやくざは倒れて石の階段の角に後頭部を打ち動かなくなった。彼は考えた。これをネタに家庭や職場におでましになられ、医療費の請求をされたとしたら今後の人生が台無しになる。彼は、まだ息をして時おり悶えているやくざの口と鼻を動かなくなるまで押さえた。

  通常の人間を含む動物に、恐怖心を持たないものはない。恐怖心は、正常に生きる生物の最大の武器でもある。言葉を変えれば、恐怖心の無い者は精神の破綻者である。闇雲に危険の方向に駆け出してゆき「さー、殺せ!」と、云い続ける者もたまにはいるが、その希望をかなえる人は誰もいない。ボランテア活動に参加しなくとも、現在のところでは罰則の規定がないからだと思う。

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何処やらに鶴(タズ)の声きく霞かな(村上勝美彫刻展)

平成20530

  福島県須賀川市[増賀画廊]で、平成20524~平成2061日まで開催されている[村上勝美彫刻展]のパンフレットには、瘠せて背の高い男が粗末な筒衣を羽織って立つ写真が載っている。

その右肩に、

  [何処やらに鶴(タズ)の声きく霞かな]

の、井月の俳句が無造作に記されていた。

このパンフレットに写る古代ギリシャの哲人風の男が井月の像だとは記載されていないが、平成20525日に会場を訪れ、居並ぶ鉄を素材にした彫刻の数々の前に立つと、そこに流れているのは正に詫びと寂びが空間に漂う俳句の世界のように感じられた。

井月(セイゲツ)という詩人の姿は、写真にも絵にも残されていない。この井月像は、井月の文章のみから創り上げた村上氏独自の空想による作品である。

井月は、安政5年(1858)前後に長野県南部の伊那に姿を現し、その後の30年間をこの地で生きた謎の俳人である。ひとところに定住するのではなく、知り合いの家を泊まりあるいたり野宿したりして、一定地域を放浪徘徊しながら1700以上の俳句を残している。

37歳前後で伊那にきた井月は、以後定職をもたなかった。そして、歳をとるにしたがって乞食同然の風体には研きがかかり、家も家族も持たずの自由人として生きた男として知られている。着たきりスズメの彼の不潔さは[虱問屋]と人に嫌われ、彼がとぼとぼ歩けば「乞食井月」と子供らに囃やされ石を投げられることもあった。それらの事には一切無頓着で、石があたり血を流した顔のまま平然と遠ざかる風のような人物であったという。

井月は最後まで自分の過去についてはなにも話さなかったが、元は長岡藩士との噂があり、生涯を通しオーソドックスな句作に徹し、達筆な書なども数多く残している。井月は一度も自分の姓を口に出したこはなかった。今でも苗字なしの、ただの[井月]なのである。彼の俳句の数々に接すると、それ以上のことを詮索することは神への冒涜だとも感じられる孤高の姿がそこにある。

芥川龍之介が井月の句集に寄せた跋文に「この、せち辛い近世にも、かう云う人物があったと云う事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしめる力がある。」と、ある。

  [翌日(アス)しらぬ身の楽しみや花に酒(井月)]

  [転寝(ゴロネ)した腕のしびれや春の雨(井月)]

  稀代の俳人井月に心酔した山頭火は、井月の墓を訪れて酒を墓石に注いでいる。

  [お墓したしく酒をそそぐ(山頭火)]

  [墓なでさすりつつはるばるまいりました(山頭火)]

村上勝美氏の手に成る種田山頭火という詩人の立像は、眼鏡をかけ帽子を被りマントを羽織った姿の老人だった。ややもすると、後ろ姿が印象に強い山頭火を、あえて横向きの立像に仕立て、瘠せた50代半ばの横顔で捉えている。瘠せた横顔には悲壮感は無く、なにやら風の一部になり流されている身体がそこにあった。

  山頭火は明治15年から昭和14年までの57年間を生きた俳人である。大学にあり文学を志すも精神を病み、帰省して家業の造酒屋を手伝いながら俳句に親しむ。その後に、父親の放蕩と自身の酒癖の為に酒屋は破産した。妻子をつれて別の商売に手を出すが巧くいかず、離婚し東京へのぼる。その後、弟と父は自殺。大正14年の関東大震災のおりには、離婚した妻と子の許に逃げ帰る。自殺未遂をおこし、ある寺の寺男となる。大正15年にこの寺を雲水姿で出て、以来、西日本を旅し句作を続ける。昭和14年松山市で死んだ。

  山頭火は、季語を含めない自由律俳句(必ずしも575ではない)の俳人として、尾崎放哉と並び称される。

  [てふてふひらひらいらかをこえた(山頭火)]

  [あるけばかっこういそげばかっこう(山頭火)]

  [あまだれのおともとしとった(山頭火)]

  [うしろすがたのしぐれてゆくか(山頭火)]

  山頭火の雲水姿の写真を思い描きながら上記の句を数度口ずさむと、彼はゆっくりと動き始め、枯野の彼方に遠ざかっていく。

  尾崎放哉(ホウサイ)は明治18年に鳥取県のある町の裁判所書記官の3男として生まれ、後に東京帝国大学法学科を卒業している。卒業後生命保険会社に就職したが、何らかの事情で大正10年にクビになる。その後の俳句三昧の生活のはてに、ときには行き倒れたりして、ある寺の寺男となる。その後に小豆島に渡り41歳で亡くなった。山頭火が旅を続けながら句を詠む[]なら、放哉の句は無情感、洒脱味を感じさせる[]の世界だと云われているが、正直な話、私にはその違を判別できないでいる。

  [咳をしても一人(放哉)]

  [いれものがないので両手でうける(放哉)]

  [肉がやせてくる太い骨である(放哉)]

  云われてみれば、上記は無情感のかたまりのような句に違いない。

村上勝美氏の手に成る彫刻は、氏の独自な価値観を基準にした先人たちを題材としている。画家、俳人、茶道、武道の世界からの精神を具象化し、透き通る像を捏ねあげる。あるいは、無象化し何も描かずに空間として残す。したがって、村上勝美氏の手に成る彫刻は、どれもこれも隙間だらけの物体となる。これらの作品群を覗くと、こまかな隙間を通して向こう側に風の道筋があり、見る者の視線や思考もそこを通過して、その奥の空間に吸い込まれて行く。

  村上氏はこれらの空間の説明を「三十本の輻(カヤ=車輪のスポーク)が一つの轂(コシキ=車輪の中心の丸いドラム)に集まって[車輪全体の役目を]はたしている。この轂の中心の空間がなければ車輪は機能は果たさない。また、陶磁器や鍋釜は粘土や金属で出来ているが、実際に役目を果たすのは、液体や固体を静止し煮炊きをする内側の空間である。住宅は基礎を打ち、壁を築き、屋根を葺き、全体に内外装を施すが、実際に使用するのは壁や柱や床板と天井板に囲まれた空間である。つまり、何かがあることによって利益をもたらされる何もない分部が[その根本]で働きを遂げているからだ。と、考える」と話す。

私は、氏のこの話しを聞いてから一週間あまりそのことを考えているが、いまだに氏の云わんとしていることに辿りついていない。難しいことを考えると、私の頭は決まって痛くなる。

  [手のひらに塩水すくい海つくる(勝美)]

  [雪の朝きたる雀らに年賀米(勝美)]

  [老木の根本にそっと水差す(勝美)]

  村上勝美氏の芸術性は他の大多数の人が認めるところなので、私が知ったかぶりをする必要はない。ただ、氏の脇に立ち、氏と会話するとき、60代の後半に突入している私が、父母の生前の故郷に帰ったような満ちたりた気持に浸る。不思議な人物もいるものである。

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ピカソの絵を理解できる人は何処にいるのか

                                                          平成20510

  平成2053日、桜の花を見に福島県耶麻郡北塩原村に行った。我が郡山市近郊にも桜の名所は数え切れないほどあるが、仕事と重なり上を見上げることもなかった。約10日前に桜前線は北へ移動しているが、標高の高い裏磐梯(北塩原村桧原湖周辺)が見ごろと予想をつけた。途中、表磐梯(猪苗代町)の桜名所のとある堤防にたちよったが、今まさに散りいく瞬間で、桜の枝々が川風にゆすられ何億枚の花弁が吹雪のように流れていた。車を降り、花弁の絨毯に恐る恐る立ち、花弁のシャワーに身をさらした連れが、感激したような溜息を漏らした。

山肌のところどころに山桜花が混じるのを眺めながら登っていくと、私が睨んだ通り、そこかしこのソメイヨシノが満開であった。時期はずれの桜見物もまた格別の感激を呼ぶ。

  帰路にたちよった諸橋近代美術館では[ダリ・ピカソ展]が開催されていた。同じスペインの2大巨匠であるピカソとダリの年齢差は23歳である。1881年生れのピカソが年上であり、この二人を並べる場合には当然[ピカソ・ダリ展]としなければならないのだが、御存知の通り諸橋近代美術館は開設当時からダリの作品を展示するために建設されたようなものである。従って、ダリの名を先にしたのだろうが、どちらもすでにあの世の住人なので、ピカソがダリに対し異議をとなえるはずはないと、主催者はたかをくくったのだろ。

  ピカソは、最初からあの超抽象的な画風を用いて絵を描いていたわけではない。3歳のころにペンで描いた絵は、しかも、動物も人間も識別できるような絵であり、14歳時の石膏像のデッサンはその物の姿を忠実に模写し、それは台座のひび割れや、石膏が凝固する際に出来る小さなピンフォールにいたるまで再現されている。

ピカソの父もまた画家で、学校勤務で生徒にデッサンなどを教えていていた。趣味として鳩の絵を描くことが多かったが、13歳のピカソに自分の描き残した鳩の足の部分を完成させるように頼んだ。ピカソの描いた鳩の足は、まるで生きていて動きはじめるのではないかと思われるほどリアルな出来で、それ以来、ピカソの父親が自分で絵筆を握ることはなかったという。

  1911年ピカソがパリに出た30歳のころからキュビスムの世界に入っていく。私も初めて聞いた[キュビスム]とは、対象を複数の角度から幾何学的に分解し再構成する技法である。早くいいば、3角を二つ重ねて目玉をランダムに4つか5つ書き込むあのピカソの絵のようなことらしいが、私には到底理解できる世界ではない。

今回の諸橋美術館に展示されていた[アトリエの女]の前で、この絵の中のどこかにいるであろう女の姿を約25分間かけて捜したが、最後まで女を特定することはできなかった。「対象を複数の角度から幾何学的に分解し再構成する技法」で絵を描くというこは、訳のわからない角の多い箱と、やたらに交差する曲線をかき、数多く出来た不等形の細かいエリアを思いつく限りの異なる絵の具で塗り潰していくものらしい。

  この技法を用いるようになったピカソは、朝と昼と夜にそれぞれ異なる絵を完成させたという。ピカソの絵を見ていると、もしかしたら未完成ではないかと疑りたくなる物がほとんどである。きっと、ピカソが絵の制作に入り、途中で来客がきて絵筆を傍らに置いた時が完成のときなのだ。来客が帰り、次にそこに現れるときは別のキャンバスを手にして座り、また四角と三角を無造作に書き始めるのだろう。

  ピカソが生涯にモデルとして表現した女性は10人以上といわれている。その中には、最初の妻[オルグ]、若い恋人[マリー]、画家の[フランソワーズ]、最後の妻[ジャクリーヌ]等も含まれている。

  最初の妻オルグの「私の顔を何が描いてあるかはっきり分かるように描いてほしい」という願いを受けて描いた[母子像(子供を抱く女)]は、辛うじてオルグに抱かれた息子のポールが人間として表現されている。ギャラリートークを受け持った学芸員がこの絵を評して「妻と息子へのピカソの暖かい視線が感じられる」といったが、その男が本当にそのように感じられたかを疑わしく思った。私は、人の話を受け入れることのできる素直さを身に付けねばならないのだろうか。

  パブロ・ピカソは、1881年(明治14年)1025日スペインで、美術教師の息子として生れた。15歳の時にバルセロナ美術工芸展に出品した絵画が高く評価され、次作では県展で金賞を受賞する。けれども、一時期のピカソの描く絵は、暗く沈んだ貧困や人間の死を題材としたものが続いた。

  その後に移り住んだパリでの他の画家との交流が出来てきてからの画風は明るくなり、さらに恋人ができてからの色調は暖かく軽いものに変化していく。キュビスムの世界を知ってからのピカソは、現在に残るピカソの絵を描き続け、驚いたことに高く売れるばかりか、美術的な評価が高いという人まで現われた。

  朝夕晩と一日3枚の絵を描くということは、理屈としては1週間に21枚もの絵を完成させるということである。それらのどれもが高価な取引の対象になるのなら、誰でもあのような絵を描けばよいと思うのだが、別の者が描いた絵はさほどの価値を生まないから不思議だ。凡人には見つけ出すことのできない別の美の女神が、ピカソの絵の蔭に隠れているのであろうか。

  私は児童画を鑑賞するのが楽しく、よくそのような絵が展示されている会場に出向く。人間としてスタートしたばかりの幼児期に描く絵は生き生きとした光を放つ。正直にいって、大の大人が描く抽象画は難し過ぎて苦手なのである。なにかそれらしきものは見えるのだが、それを理解するのにエネルギーの総てを費やすことは疲れるばかりだ。良い絵画とは、その前を通る人を立ち止まらせ、振り向かせる力を持つものをいう。私の好む絵画は、芸術的に高い物である必要はないのだ。

  もし、ピカソが描くような人間が実在して前方から歩いてきたら、私は、もと来た道に一目散に駆け出し決して止まることはないだろ。

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時空を駆ける画家[仲裕行]

平成2055

  平成20420日は日曜日だった。どうゆう訳か日曜日だと平日より早く眼を醒ます。超歴史的な時間の涯にある小学生の頃からの習慣ともいえる。日曜日に早く眼を醒まして何かをするわけではない。日曜日は月曜日や木曜日よりは好きだというだけである。

この420日の日曜日午後、不思議な世界へ足を踏み入れた。外出した帰路、以前1度立ち寄ったことのある、福島県郡山市所在の[郷さくら美術館]の駐車場にポンコツ車を乗りいれたことにはじまる。

郷さくら美術館内ロビーでは、[日本画の新鋭 仲裕行画伯のギャリリートーク]なるものが始まったばかりだった。前から3列目の椅子が空いていたので、そこに座った。

椅子に座ってから間もなく、仲裕行氏の巧みな話術、道を極めた確かな知識、どの芸術家にも共通する優しい思いやり、芸術を通して磨きあげられた人間性のなかに引き込まれてしまった。

  眼の前で日本画壇についての話をしている仲裕行氏は、日本画壇の最高峰[平山郁夫]に師事した日本画家で、敦煌莫髙窟壁画模写のために中国奥地に行き来するうちに、中国奥地の少数民族に興味を持ち、それを題材にした絵を発表している画家であることを知った。

館内4ケ所に分散された展示室内各作品前での本人のトークによると、

[夢明]は、たまたま中国奥地の少数民族の結婚式の現場に出会い、「花嫁の姿を見せてくれと」依頼したが、新郎以外に花嫁の姿を見せない風習で、仲氏が観た卓上の花嫁衣裳と、花嫁の母親と妹の顔と姿から、家の奥に潜む花嫁の容姿を想像して描いたという。民族衣装の衣服を着けた細面の気品溢れた少女の姿が薄闇のなかに浮かんでいる幻想的な世界がそこにあった。

[西域の調べ]は、仲氏が買い求めた古い民族楽器の音を想像しているときに、何処からか楽器の音色が聞こえてきた。その音色を聞き想像の中から描いた親子で、椅子に座った母親が日本の三味線に似た木製の楽器を爪弾いている。その母の傍に立つ8歳ぐらいの少女が聞きいっての、母親から音曲を伝授されている姿に見える。この絵も、周囲を闇とし、二人の親子だけに光を当てた幻想の世界となっている。爪弾く弦の素朴な音色が、画面奥から聞こえてくるような絵である。

[樹下爽風]は、普段着の村娘の姿を描いたのだという。野良着の胸上のあたりに二重の金属のアクセサリーをつけている。石の階段に座り縫い物の手を休めて斜め左側を見ている少女の姿で、仲裕行氏の少数民族に向けられる姿勢がうかがわれる清純な少女の表情がそこにあった。

[旅立ち]は、希望に燃える少年が、広い世界を目指して自分の生れた村を囲む峠を越えて行く姿を絵にしている。以前その村を訪れた時に逢った少年の姿を借りて、その少年に対する仲氏の願望の絵だという。つまり、少年はその村を出て広い世界で活躍しているかもしれないし、あるいは、在りし日の少年は、峠の内側で伝統を守りつづけて生きているかも知れないのだ。

  [銀舞祭]は、少数民族の集団見合いでの銀の飾りを付けた少女の列を描いている。それぞれの少女たちの衣服に付けられた銀の飾りが、歩く度に互いに触れあい、澄んだ音色を発するという。

  仲裕行氏の、この絵の前でのトークを再現すると、以下の情景が展開される。

「夕方になると、広場に置かれた一つの太鼓の単調な音の周りに小さな輪が出来た。

頭上に金色の冠をのせ、着衣に縫い付けられた無数の揺れる銀飾。

銀は隣の銀に触れ微かな音を発する。

静かに歩く少女らの歩調で銀と銀が擦れ合う音は、

少女たちの心の囁きに聞こえる。

少女の数が増すにつれて銀の囁きは、

それぞれの意思を伝える明解な言葉までたかまる。

次第に増える少女の列が幾十にも広がり、

天空に溢れる銀の輝きは壮大な音の滝となる。

少女の銀の舞いを取り囲むせ青年の群れ、

近郷近在の若者の総てがここに集った。

この集いは集団的見合いの宴だ。

単調な太鼓の音はなおもつづく。

取り澄まし歩み続けれ少女が付けている銀の飾りは、

少女が生れて以来、何年も何年もかかり父が買い集めた物だ。

銀の飾りの総てを身体に付けての、社交界へのデビューだった。

父と母の誇りを受け継ぎ、

少女は慎ましやかかに自分を表現する。

素晴らしい未来の旦那様に出会えるこの日に。」

  仲裕行という男は、何という優しい心をもつ人だろう。彼の絵の前に立つと、辺境の地の果てに在る桃源郷に迷い込んだ気持ちにさせられる。これらは、時空を超えた彼方にある、神話の世界へのいざないの絵画だった。

私は偶然に立ち寄った[郷さくら美術館]で彼の話術にふれ、彼の絵の前に立ち、それらの絵の中に踏み込んだ。そして、絵のなかの登場人物との心の触れあいを果たした。

時には、涙をこらえながら。

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ロダンの[考える人]は何を考えていたか

平成2031

  昔から物忘れは非常に良かった。電話で用件を聞き、それをメモしないうちに次の電話に出て話をする。前の電話の内容は勿論、相手の名前さえ忘れている。その事をひたすら思い出そうと、めまぐるしく考えているうちに、後の方の電話内容も相手の名前も忘れている。これでは、通常の社会生活に事欠く。自衛策として以前に取っておいた膨大なメモの山の電話交信記録から人物を割り出し、前の電話の内容をそれとなくカマをかけてもう一度話させる。今度は、目の前で自爆テロが起こり自分の足が火達磨になろうとも、確りと話の内容のメモを取る。その電話が終われば、火の海になりつつある危険なところからは急いで遠ざかる。なにも現実の火災が起こらなくとも、それぞれの人間の頭脳内には、火災や地震や津波に匹敵する危険が常時育まれ続けていることを知っているので、何処からでも、まず、逃げることを第一に考えている。

  ロダンの彫刻の中に[考える人]がある。あんなに深刻に考えるべきことが作者のロダンにはあったのかと、小さい時から漠然と考えていた。最近、彫刻の[考える人]は、考えているのではなく、あるものを「見つめている」ということがわかった。

  1840年フランス生まれのフランスワ=オーギュスト=ルネ・ロダンは、1880年にフランス国立美術館建設に先立ち、そこに飾るモニュメント製作を依頼された。モニュメントのテーマとしてロダンが選んだのが、1265年から1321年まで生きたイタリア最大の詩人ダンテ・アリギエーリの叙事詩[神曲]の地獄篇の歌にある地獄の入口にあるであろう[地獄の門]であった。

  [神曲の地獄篇]の物語では、作者のダンテが物語の中に主人公として登場し、名脇役の古代ローマの詩人ウェルギリウスに先導され地獄巡りをする内容であった。それは、[地獄の門]の上に記された、門そのものが一人称で語る詩文から始まる。

    私の下を通れば憂いの都につづく

    私の下を通れば永遠の苦しみにつづく

    私の下を通る者はみな滅亡へとつづく

    この世界の作り主は正しい行いを好み

    公平で慈しみをもって物事を決定した

    それらの者への愛情からこの門を作った

    これは永遠の門としてここにあり

    永遠と呼ぶものはこの門のほかにはない

    私の下を通る者は一切の望みを捨てよ

と、いうような感じで、地獄の門が得意げにつぶやく言葉であった。

  ダンテの地獄の門を題材としたロダンの彫刻では、門の入口から中へ入る大勢の地獄行きの該当者(正確には、死んだ人の大部分の人が該当するばかりか、生きている全部の人が該当する)を、ドアの上の台に座った審判係りが見おろしているものだった。この左足の大腿に右ひじを付き、小指を立てた右掌で顎を支えている人物のみを独立させてものが[考える人]というわけである。考えてもいない者に対する最初のネーミングは[詩想を練るダンテ]だった。これでは死んでしまったダンテの名の無断使用で著作権侵害の問題をはらむので、この彫刻を発表する時点では単に[詩人]ということした。しかし、この彫刻の鋳造を担当したリュディエという人が「詩人がこんなにも人前で深刻に物事に悩んでいたのでは、この人が書いた詩文はよほど難しいものと疑われてしまう。その結果、難しい文章は便秘の原因になるという理由で詩集の売行きは落ちる。それは、詩人に対する営業妨害になる。たかが金属の塊が考えていようがいまいが、さも考えているような格好なのだから[考える人]でよいではないか。異議があるのならこれをもう一度トオロカシてしまうぞ!」というと、彫刻の題名のための周囲の騒ぎにウンザリとしていた本人は、「素晴らしい!それにしよう!」といったので、これに決まった。

  物事を深く考えたからといって、必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。要は適当と思われるあたりで決断を下すべきである。そして、私の重度の健忘症は、幼児期の栄養バランス不調が原因となっていると、私なりに決断を下した。

  フランスワ=オーギュスト=ルネ・ロダンという長い名前の彫刻家は1840年(天保11年)11月に、フランス警視庁の書記官の息子としてパリの下町で生れた。14歳で工業系の学校の入るが、強度の近視で黒板に書かれた字が見えず、黒板に書かれた数字の小数点の位置を読み取れずに成績は中の下にとどまっていた。その後に、2歳年上の姉の援助により美術系の学校に入り、その上の国立美術学校入学試験に臨むが、三度受け三度とも落ちるパーフェクトを達成し入学を断念した。その後は学校を頼らず、学校も彼を頼らない関係を保ち、ルネサンス時のミケランジェロの作品を見てそれを真似たりしながら独学で彫刻を続けた。

  美男美女がワンサカいるフランスのパリに住んでいながら、1864年にロダンが製作したのが[鼻のつぶれた男]だった。ボクシングのチャンピオン挑戦者のスパーリングパートナーを専門に続けている不遇のボクサーのように見事につぶれた鼻を持った男の像は、当時のフランスでは受け入れてもらいなかった。この酷評で気分を害したロダンは、その後12年間作品を発表しなかった。いったい、その間はなにをして日々の糧を得ていたのやら、そんな仕事があるのなら紹介して欲しいと真剣に思ったものだ。なんとも、なさけない話だが。

  イタリアでミケランジェロの本物の作品を見た34歳のロダンは、前の[鼻のつぶれた男]発表から12年の沈黙を破り[青銅時代]を発表した。若い等身大の男性裸体立像[青銅時代]は、右腕を上げて掌を頭おき顔は中空に向けて、身体の隅々の筋肉が躍動しているリアルさゆえに、「直接人体を型にしたのではないか」との噂がたった。なるほど、男性の静かな時のリアルな生殖器も再現されているとはいい、ロダンはその疑いにはかなり憤慨したが、12年前より大人の分別が備わっていたために、実在の人間よりもかなり大き目の彫刻を新たに造るという冷静さを持ち合わせていた。男子の生殖器なども同比率で再現されていたこともあり、ロダンの彫刻家としての名声が確立され、以後の多忙な人生を歩むことになった。

カミーユ・クローデル(1864~1943)はロダンの弟子であり、助手であり、24歳年下の愛人でもあった女性彫刻家である。二人の芸術については、互いに影響を及ぼしあい作品に取り組んでいたようだが、ロダン作と思われていた作品がカミーユの作で、その反対の場合も多々あったようである。ロダンの大作[地獄の門][カレーの市民]の成作時にはカミーュが助手として参加し、一般的な助手の仕事である人物の手の部分や足の部分を製作したらしい。

平成185月に福島県立美術館で、50点余の彫刻を並べた[カミーュ・クローデル展]を見る機会があった。[ワルツ]に代表される一連のブロンズ製の彫刻には、絶えず流動している現実の時間のなかでの人の姿の一断面を見事に捉えているものが多かった。

[分別盛り]というカミーュ・クローデルの最高傑作といわれる彫刻は、年老いた女性に引きずられるように歩く男性の手を握った若い女性の手が、まさに離れようとした瞬間の一こまである。ロダンと24歳の差のあるカミーュとの恋愛関係は周知の事実であったが、ロダンには青年のころから内縁関係にあったローズ・ブーレという女性がいた。二人の女性の間を揺れ動くロダンもまた苦しい思いをしたであろうが、ロダンの子を宿した歳若いカミーュの苦しみには想像を絶するものがあったことだろう。結婚をせまるカミーュに対して躊躇し続けるロダンを見るに付け、自分の未来への希望を失っていくカミーュはロダンと別れることを決断する。[分別盛り]は、そのような時期の作品であろうか。その後のカミーュの作品はロダンの模倣だと批評され、カミーュの精神は蝕まれてゆく。真実は、当時のカミーュの才能は絶頂期で、一方、世間的名声を得たロダンの才能は枯渇していった時期のようである。この時期あたりから、カミーュのアイデアをロダンが勝手に発表していたのではないかとの疑問が後世まで伝えられている。

カミーュは酒に溺れて精神の障害に陥り、後年、この世を去るまで精神病院で暮した。1943年カミーュは79歳の生涯を閉じた。ロダンの死から26年後だった。

1917年、ロダン77歳のときに73歳のローズとの結婚の手続きをした。その16日後にローズはなくなり、その9ケ月後の1117日にロダンはこの世を去った。

「パリのもう一人の妻に会いたい」が、ロダンの最後の言葉となったという。

  3人がどのように生きたかは、正確には誰にも判らない。しかし、この登場人物の中でロダンが造った地獄の門を通った人は誰もいなかった。精一杯生きた人は、地獄には行かないものなのである。

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室井東志生展鑑賞譜

平成20226

H18-8-17記)

  私の誕生日は8月の半ばで、この日は必ず毎年来る。しかし自分の誕生日をだれかに祝ってもらった記憶はない。自分の誕生日を自分自身も気付きもしないまま通過し、過ぎ去ってしまってから誕生日を振り返るだけだ。今までの職場では御盆が明けた817日から仕事が始まることが多かった。渋滞に巻き込まれての遠出の運転、調子に乗ってのリミットオーバーの飲酒、出されるものを全部胃に納めた気の弱さ、散々な目にあった夏休み明けが私の誕生日だった。自分が気付かずにいるものを、誰が気付いてくれる。例外は、以前誕生日に信号無視で捕まった白バイの警官に、おめでとうといわれた。

  今年の誕生日は特別な誕生日である。長年かけ金を払い続けた生命保険の期間限定特約保障額が無効になり、事故死した場合の割増保証や病気での入院保証金の支払いなどもなくなるのがこの日であった。元を取るためには今年の誕生日以前に死ねばよかったのだが、生きるに従ってやりたい事が多くなってくるので、とくに腹もたたなかった。考えてみれば、生命保険金は自分では使うことができない金なのだ。あまり特約有効期間に拘る必要もないだろう。

  配偶者に誘われて美術展会場に足を伸ばすのが、我が家の一般的休日の過ごし方だ。この日は、私が美術展に行きたいとダダをこねた。この朝見た新聞に福島県南会津郡下郷町出身の画家[室井東志生展]の記事を見たからである。うすい百貨店で開催されている同展覧会は今日平成18817日が最終日となっている。

  会場に着いたのは3時前で、あでやかな衣装を身に着けた年配の女性や上着を粋に着こなした年配の男性とのカップル。それとほぼ同数の成年男女の軽快な半袖シャツ姿が眼に入った。室井画伯の名は記憶していたが、どのような絵を描く画家か思い出せなないまま会場に入った。会場で作品の前に立つと、昔どこかで見たような絵が数点見られた。どこかの美術館か二年に一度廻ってく福島県立美術館での日展で見たのかもしれない。

数多い静物や動物の絵の連なる中に、過去の日展に出展した大作が陣取っている。特にフラメンコダンサーの長嶺ヤスコ氏が、自分の分身である猫達と静かに時の流れを楽しんでいる姿が描かれた作品もそのひとつである。かなりの老齢であるはずの彼女の衣服の下に隠された身体の筋肉には無駄がなく、寛ぎの体勢からすぐにでもダンスのステップに移行できる黒豹の瞬発力が秘められているよにも見えた。

  歌舞伎の名女形である坂東玉三郎像には、あやしの美を追求する作者の感性がうかがわれる。坂東玉三郎という男性の身体を通し、女性本来の美を表現しているようにも思えるのだが、私の見当は外れているのかもしれない。他の数多くの古都京都の街角の舞妓像にも、やっぱり玉三郎の影が宿っている。

  会場の中間まで進んだ時、ほっとする作品が面前一杯に現れた。柳屋小さん師匠の生前の姿である。これは[悠(ゆう)]という作品だと思うが、思い違いかもしれない。師匠のスイカのように丸い顔に知的な二つの眼が付いていて、意思の強さを表すしまった口元、鼻だけが上を向き鼻の穴がこちらをにらんでいるおなじみの顔である。この絵の中での師匠の姿は、寄席の仕事を終えて湯につかり、旅館か自宅の居間で寛いでいる姿であろう。どのくらい深い寛ぎかということは、その足を見みればわかる。和服をゆったりと身に着けた小さん師匠が藤椅子に身を横たえ、足台に右足を乗せて足裏を見せている。左足は右足のクロ節7Cm上に軽く乗せ、これまた足裏を正面に見せている。まるい顔から緊張が失せ、身体の何処にも力が入っていない寛ぎの体勢。スキだらけで隙がない。剣道の達人で、落語の名人だからこそ身に付いた自然体なのであろう。

  落語界には三游派と柳派の二大勢力があり、名跡[柳家小さん]は柳派の総帥の看板である。本名小林盛夫の五代目柳家小さんは、大正4年(191512日に長野県に生れた。

昭和8年(1933)四代目柳家小さんに入門,口座名[栗之助]。

昭和14年(1939)二つ目昇進、[柳家小きん]。

昭和22年(1947)真打昇進、[柳家小さん治]襲名。

昭和25年(1950)五代目[柳家小さん]襲名。

昭和47年(1972)社団法人落語協会会長就任~平成8年(1995731日までつづく。

平成7年(1995531 落語界初の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。

平成14年(2002516 心不全で死去(享年87歳)

以上が柳家小さんが他界するまでの概略であるが、孫弟子まで含めると60余人の大所帯の頭領である87歳の大往生であった。

「心卑しき者、噺家になるべからず」と自分を律してきた柳家小さんの出囃子は[序の舞]である。北辰一刀流7段、剣道の達人の高座は、熊さん、八さん、ご隠居さんが顔を出す長屋ものを得意とした。柳家小さんはこっけい噺の名人で、笑っているうちにやがて悲しくなる噺が多い。落語家が扇子を道具に見立てて絶妙な技を使うが、特に柳家こさんの[時そば]等で見せる扇子を箸代わりにそばやうどんを食べる粋なしぐさは真に迫っていた。

  会津に住む親しい知人は小学校教員時代からの美術指導を退職後も続け、77歳(H18現在)の今年も自身の表現法である版画で、年二回の個展を開催している。この知人が出した自伝の巻末スナップ写真の中に室井画伯の姿を見つけた。会津出身の版画の大家[斉藤清先生]の文化功労賞祝賀会の会場でのスナップであったが、この知人と一緒に室井画伯も写っていることから深い親近感を持った。

室井東志生画伯は福島県南会津郡下郷町に昭和10年に生れた。

昭和33 洋画家[橋本明治]に師事

  昭和35 日展に[緑韻]が発入選、以来連続入選

  昭和42 法隆寺壁画再現模写に従事

  平成11 増上寺天井絵[双鶴]制作

  平成16 [青曄]で第6回日展内閣総理大臣賞受賞

  現在、日展評議員の一人である。

  思えば、密かに敬愛する斉藤清画伯の姿を眼にしたのも、この知人の個展会場でだった。10年以上前の斉藤清画伯は、よく後輩の個展会場に来て永い時間絵の前に立っていたという。巨人の後を歩く者にとり、己の作品を展示した会場に斉藤画伯が出向いてくれだけで、自信を深めていったのかも知れない。気取らず、気さくに、ゆっくりと絵の前を移動する姿からは、綿帽子をかぶった冬の民家から抜け出してきたような素朴な薫がただよってきた。

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広重の東海道はどこへつづく

平成20223

  昨年(H19)の9月に郡山市立美術館での[歌川広重2大街道浮世絵展]に出かけた折に購入した展示作品カタログをパラパラめくった。他に何もやることがないので、美術館へはよく足を運ぶ。郡山市立美術館の場合、ある一定の年齢から入場料が無料なので、ある一定の年齢に達して以来、足を向ける回数も多くなった。この浅ましい根性を隠すために、展示作品は静かに観るようにこころがけている。

  [広重二大街道浮世絵展]は、天宝4年(1833)江戸の浮世絵界に売出し中の歌川広重が発表した[東海道五拾三次][木曾街道六拾九次]の全作品を一堂に集めたものであった。東海道五拾三次は江戸の日本橋から京都三條大橋までの53宿駅の風景画をシリーズ化した街道絵である。百円ライターが普及する前の小型マッチ箱に印刷された広重の風景画を思い出される方がおられれば、それが55枚の宿駅街道絵の一枚である。

  [東海道五拾三次]とは、慶長5年(1600)関ヶ原で勝った家康が、天下統一の一環として五街道の整備に着手したことに始まる。この次の年に、東海道には宿駅伝馬制という街道に沿って53の宿場を設けることが定められた。これは、幕府の書類輸送や幕府役人および大名が江戸から目的地へ移動するときの運搬の円滑化が目的であった。それぞれの宿駅荷役人足の輸送範囲は次の宿場を越えることはできず、京都までは53回継ぎ替えすることになり、53次という言葉となる。

  広重と同時代に生きた十辺舎一九の[東海道中膝栗毛]の中には、当時の東海道筋の風習や、人々の言葉や服装が盛り込まれている。この、自分の膝を栗毛の馬にたとえての伊勢参りに出た弥次さん喜多さんの物語では、お江戸日本橋七つ(AM4時)発ちで歩きはじめ、最初の泊りは5つめの宿駅の戸塚(横浜市戸塚区)である。そこから40Kmを歩いた二日目は9つ目の宿駅の小田原、次の日は急な登坂を30Kmも歩き箱根の宿にいた。

  二人は江戸から43番目の四日市(三重県四日市市)までの387.8Km12日間で踏破している。一日平均32.3Kmとなる。この先の東海道日永追分で弥次さん喜多さんは左の伊勢参宮街道にそれるが、東海道は44番目の石薬師から53番目の大津(滋賀県大津市)につづき、京都三條大橋で終点となる。日本橋から489.9Kmの道程を14日間で歩ききるのが一般的な旅程だったようだ。

  広重の浮世絵による東海道53次の55枚(最初の日本橋、最後の京都三條大橋の2枚数えられる)の風景画には、11代将軍徳川家斉(イエナリ)時代の世相が良く反映され、様々な階層の人物が描き加えられている。これは、当時の旅行に行きたくても現実の旅ができなかった多数の庶民間で大ヒットした連作物浮世絵となった。人々は蕎麦一杯の価格での宿場の浮世絵を順序良く手にし、己の空想の旅を楽しんだのだろう。

  東海道は江戸幕府が整備した五街道の一つで、他の中仙道(木曾街道)、日光街道、奥州街道、甲州街道を含めても一番往来のあった街道である。それぞれの道には名前が付いているが、どの道も経路をたどればどこかでは接続しているようである。これらの道は有史以前から道として使用されていたもので、その上に改良が加えられつづけて現在の道になっているものがほとんどだ。その意味では、我々が毎日踏みしめて行く道は、過去から現在、そして未来へとつづく時空を渡る道だともいえる。

  [道のはじまり]という藤田富士夫先生の文章を眼にしたことがある。山岳に住む動物は皆それぞれの道をもっている。目的を達成するための歩きやすいところを何度も通ると、草や木が踏み倒されて[けもの道]が大地に刻まれる。旧石器時代(15,000年前)前後の人々は、目的の動物を狩るために、動物を撲殺または刺殺する道具を携えてそれぞれのけもの道を追った。人々の他に、肉食動物もまた同じ道を通り獲物を追う。同じ道を何度も通るとけもの道が人間に都合の良い[踏み分け道]に昇格する。最初の道はこのようにはじまった。

  旧石器時代の人々の行動半径は100Kmにも及ぶことが証明されている。獲物を殺傷する斧やヤジリやナイフの出土品から、その材料の産地までの距離をはかるとその距離となるらしい。石斧や石のナイフは硬い材質でなければならないので、その素材を得るために100Kmも移動した根拠を突き止めたのだから偉い。もしグウタラな石器人がいて、自分の家に玄関先に転がっている細工しやすい軟らかい石で簡単にナイフを造り上げ、目を離した隙に乳幼児がそれを口にして齧り粉々になるようなものなら、ドダイ狩の道具にはならないのだ。そんな者は、発情期の雄猪の右の牙で膝の横を刺し連ねられるのがオチである。

  縄文時代(約10,000年前)になると狩猟だけではなく、山の幸(ドングリ、栃の実、栗、クルミ、葡萄、コクワ)の採集の時代が来る。狩猟に頼らずに植物性の食料を蓄えて、不毛の冬期に備える知恵を得ていた。どの時期に、どの山に行けばどのような木の実が採れるかを熟知していたのである。住居の近くに栗林を管理する種族も出現したということは、農耕への過渡期に差しかかっていたのだろう。

  狩や採集の時代の道は、山の山麓部では谷あいを登り、海抜が高くなるにつけて尾根筋を通る。登り切った最高位には幾つかのヤマへの踏み分け道の尾根道がつづく。自然発生的な[狩道]である。狩猟採取人の生活領域はホームベースを中心に半径10Km(歩行時間にして2時間)が目安で、それを超えると経済効率が低下するのでホームベースそのものを移動する。これらの圏内の道は、踏み分け道から発展整備された[]であり、その先に人の通る[]が発生したものと思われる。縄文時代には、日常生活の行動範囲領域が明確になり、またそれを超えての遠隔交易が発達した。海から内陸部へ至る海産物と塩の道、その道は逆方向からは木の実や獣肉の道ともなる[大道]へと発展していったと記されている。

   古今東西を通し、権力者は道を整備する。ローマ帝国、マヤ帝国、インカ帝国、イジプト帝国のように、己の力を誇示するための軍隊の移動が主な理由だが、交易の用に供することも考えてのことだ。しかし、基本的には獣道から発展した踏み分け道を修正した大道の上に、さらなる修復を重ねたにすぎない。幾度かの遷都により、それを中心に道路は整備される。幕府が代わればその居城を中心に古い道は重要な意味を持ち、さらなる修復整備が重なられる。家康の5街道整備もまた、古い道の再整備にすぎない。家康の自己防衛策として、それらの街道の利便性を無視して、非高率的な制約といえるトラップを埋め込んである地点もある。大井川に橋を造らず、船渡しもせず、手間隙のかかる人足渡し以外許可しなかったり、関所を設け「出女と入鉄砲」を警戒したりしたのは、諸大名が兵を興し江戸に攻め込むことを警戒したからにすぎない。

  歌川広重は寛政9年(1797)に火消同心安藤家に生れた。13歳で家督を継ぎ、27歳で同心職を退役するまで絵描きと職務とを両立させた変り種である。40も年上の[富嶽36]で有名な葛飾北斎とも親交があり、あとには海を渡り、ゴッホやその他の印象派画家たちに大きな影響を及ぼしている。

  広重の描いた道は、どの時代の道にも通じて、どの土地の道にもつながっている。

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アンカーの絵に宿るアルプスのハイジたち

平成20220

  知人に誘われて郡山市立美術館のアンカー展に行った。平成20210日(日)午後は快晴だったが季節柄、車外は肌寒く感じられた。高台の駐車場から階段を下りると美術館の正面玄関まで屋根付きの歩道があり、その道の中間右側まで美術館の付属部分の建物が続いていて講演会場や映写会場の関連施設が入っている。そして駐車場寄りの一番端に軽食と喫茶のできるレストランがある。コーヒーの味はほどほどだが、ケースに並べられたショートケーキは、どれを注文しても後悔するようなものに出会ったことはない。

  アルベール・アンカーは、19世紀のスイスで写実主義を貫いた国民的画家であるが、日本ではあまり知られていない。私も会場でアンカーの絵を見るまでは、名前はもとより彼が画家だということも知らなかった。

  展示されているほとんどが、アンカーの故郷であるスイス中央部のインス村の1860年代から1890年代初めまでの子供たちや、それを優しい視線で見守る老人たちが描かれている。

  今回のアンカー展パンフレットに印刷されている[少女と二匹の猫]の実物の絵の前に立ったとき、身体の奥から込み上げてくるものがあった。少女の胸と両腕の中に抱かれた二匹の子猫の安心しきった表情、この二匹の子猫を慈しむ聖母のようなまなざしをもつ少女の姿に、画家アンカーが表現したいことが凝縮されているように思えた。その画家の思いは、膝の上に眠る孫を見下ろすおじいさんの眼差しに、離乳期の孫の口元にスープをはこぶおばあちゃんの指先にも滲み出ている。アルプスの澄み渡る青空の下にはぐくまれたハイジの世界を、過酷な人生の中での束の間の安らぎの瞬間を、会場を訪れた誰もが感じた。それは厳寒の季節の中で、ホッ、ホッと暖かな炭火に手をかざすような満足感であった。

  [アルプスの少女ハイジ]の物語は、スイスのアルプスの麓の保養地バート・ラガーツ(オーストリアとの国境に近い町)の叔母さんに連れられたハイジが、おじいさんの住むアルプスの中腹に連れられてくるところから始まる。父母を亡くしたハイジは母の妹のデーゼ叔母さんに育てられていたのだが、ドイツのフランクフルトから避暑に来たゼーゼマン氏に真面目な仕事ぶりを認められたデーゼ叔母さんは、自宅での家政婦に雇われることになった。ドイツの仕事先までハイジを連れて行くことができないので、アルプスの奥で一人暮しをしている偏屈な父親(ハイジのおじいさん)の元に預けられることになった。ハイジはおじいさんの犬とも仲良しになり、羊飼いの少年と友達になり、おじいさんにいろいろなことを教えてもらいながら、成長していく。そして、アルプスの暮らしが楽しいことばかりでないことを学んでいく。

  アルプスの少女ハイジの舞台になったところは、スイス東南部のアルプス山岳地帯の一部、グラウビュンデン州の谷間を見下ろす土地という設定になっている。スイスの6割以上がアルプスに属するが、人口の3分の2以上がアルプス以外の低い土地で暮しているという現実は、アルプスの過酷な生活を多数の人々が敬遠しているということであろう。

オーストリアを東の端とし、スロベニア、イタリア、スイス、リヒテンシュタイン、ドイツ、フランスに至る長さ1,200Km(日本の本州の長さぐらい)のアルプス山脈の中間あたりにスイスの国がある。スイスは、アルプスに連なる4000m級の山が最も多い国でもある。日本で一番高い山は3776mの富士山だが、この富士山をスイスに持っていくと125番目に高い山となるにすぎない。高ければよいというわけではないが、スイス国内のアルプス山系には3000m以上の峯が980ある。このスイスという国を地球儀上で探すと、スイスの最南端は日本の最北端の宗谷岬よりも北に位置している。スイスが誇るアルプスのスケールと寒さは、福島県の裏磐梯ごときの半端なものではないことをいいたかった。

アルベール・アンカーは[ハイジ]の著者ヨハンナ・シュビーリと同時代に生きた人だが、二人の間にはどのような接点もなく終わっている。けれども、この二人の芸術に対する考え方は驚くほど似ていたといわれている。

「芸術派とは何か」という問いに、学生のころのアンカーが答えた。

「まず想像力で理想を創り出し、その理想を人々が理解できるように表現しなければならない」と。

  福島県郡山市近郊に住んでいる人の中で、土曜や日曜日の時間を持て余ししている人や、休日の自宅で何時までも起きてこない若夫婦に気兼ねをして家を出て、買い物の予定もないデパートに向う年配の御夫婦がいたら、是非、郡山市立美術館へ行くことをお勧めする。アンカーの描いたアルプスの少女や少年達の姿を観れば、自分が育てた息子や娘の昔を思い出して、今年になって始めて温和な表情の配偶者の顔を観ることができることを請合う。不幸にも、そのような感情に浸れなくても、美術館つづきのレストランの片隅で、声を落として嫁の悪口をいうことも、それはそれでストレスの解消にはなる。

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サルバドール・ダリの館(再)

平成20217

H19-10-27

猪苗代町から裏磐梯高原へ登ると、五色沼入口手前反対側に諸橋近代美術館がある。これは、平成15年に他界した故諸橋廷蔵が20余年にわたり収集した絵画・彫刻を、一般公開する目的で平成11年(1999年)に開設した美術館である。

  裏磐梯入口の緑の中に忽然と姿を現した近代的な外観の建物内部には、スペインを代表する芸術家サルバドール・ダリの絵画・彫刻・版画が中心に常設展示されている。

サルバドール・ダリは1904年に生まれ1989年に没した天才的画家であり彫刻家でもある。その幻想的画風のファンは多いが、「偏執狂が日夜見続ける悪夢の世界だ」などと、彼を認めない人も多い。ダリの作品が私の嗜好に合致することなどもあり、折にふれ裏磐梯に足を運ぶ。そして、帰宅した日の夜は決まって悪い夢を見る。これはサルバドール・ダリの一部を潜在的感覚で理解できたことの証だと思っているが、見当はずれの自己満足かもしれない。

のちのダリが回顧する。自分の彫刻と絵画は、精神分析学の創始者ジグムント・フロイトに共鳴するあまり、[意識化の夢や幻想の世界を写実的手法で表現した]となる。23点のダリの作品タイトルを読み作品を30分も眺めていると、おぼろげながら作者の意図が見えてくるものもある。全然意味が解らないものはガイドブックの説明書を読んだあと、さらに眺め続けると、「たぶんこうなのではないか」と思えるものが数点追加される。そこまでしても意味のわからない作品は多いが、わからなくとも恥と思うことはない。それらの作品につきダリ本人に尋ねたとしても、両手を広げて肩をすくめるしぐさをするだけのような気がする。

[宇宙象]というダリの彫刻は、昆虫のような長い足の象が半透明四角錐を背負っている。不思議なことに、伸ばしたコウロギの細長い足に支えられた象の姿かたちに、無限の安定感がある。美術館の出口付近売店でこの絵葉書を買い自分の部屋に飾って、部屋一杯にあふれる光の時間帯にじっくりと観る。少なくとも、酒を飲みすぎた作者が溶けた金属をぶちまけたら偶然にこの作品が生まれた、わけではないらしいことがわかった。

ダリの彫刻には、人間の身体にやたらと引き出しを付けた作品が多い。整理整頓の苦手な人がダリの周囲にいて、その人に対し、家の内外を片付けるように暗示した作品ではないかと思う。このことは、美術館の展示室隅の椅子から私の行動を極めて懐疑的に監視している学芸委員の一人に聞いてみたいと思っている。きっと、私の思いとは違う答が返ってくるはずだ。

身体に風穴を空けたブロンズ像も多い。人間のお腹の辺りに風通しの良い穴が空いていて、そこから向こう側の景色が観えたりしたら腰を抜かしてしまうところだが、ダリは日常的な習慣の中で人間の身体を通して向う側を見ていた人でもあるらしい。

ダリの絵画や彫刻の中に登場するものに変形した時計がある。プラスチック製の時計を弱い炎のバーナーで文字盤の裏のほうから根気良く炙れば、あのような時計が出来るのではと考えた。ひん曲がった長短2本の針が動くことはないので、見ていて妙に落ち着く時計ではある。常々思うのだが、時間などが存在するから面倒なことから逃れないのだ。ダリ本人が「カマンベールチーズを食べている時に頭の中に涌いてきたアイデアである」と話したと、書物に書いてあるのを眼にしたことがある。

  ダリ作品は好みにあってはいるが特別美術を好きなわけではなく、気晴らしのドライブコース上に美術館があるから入館する。それでも入場料は支払うわけで、元がとれるぐらいじっくりと鑑賞してくる。ある時に、展示作品の増減があったり、位置が変わることに気づいた。おそらく、ときどきは展示するテーマを決め、それにしたがい地下の倉庫から作品を出したり引っ込めたりしているのだろう。そのときには、ついでに額縁の裏に住み着いた蜘蛛の巣を払ったりもするのだろうと、余計なことまで考えた。定期的に全館の展示作品は変わるが、ダリの彫刻作品はほぼ同じところにあるように思える。

諸橋近代美術館はダリの作品を多数所蔵していることで有名だが、別の画家の作品をも所蔵している。その、展示品の中にはルノアール、セザンヌ、シュガール、ピカソ等の作品も各数点並べられている。それはそれで美術的価値は高いというが、それらにはあまり興味はない。

私は今日も、原色の景色の中で様々の動物が動きまわる夢をみるだろう。具体的には、さまざまなものに執拗に追いかけられ、今まさにそれらの餌食になる瞬間に眼をさまし「夢でよかった」と安心する、あれである。

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モズと宮本武蔵(再)

平成20216

H19-11-4

かなり以前になるが、テレビ番組で[小さな狩人モズ]という映像を観たことがある。モズは全長20㎝前後の鳥で、鉤型の嘴で捕らえた小動物を決して逃がさない。そして、昆虫や鰌、蛙、蜥蜴といった生きのいい小動物を捕らえることに長けている。獲物を捕らえるという本能は、目の前に獲物が現れれば反射的に飛び掛るという行動につながるらしく、満腹のときでも獲物を捕ることがある。そんなときの獲物を、木の枝や樹木の棘に刺し連ねておく[速贄(ハヤニエ)]の習性を持つのがモズである。

肉食である隼や鷲や鷹のような大型肉食鳥は、足の爪と筋肉が異常に発達しており獲物を掴み殺すほどの力がある。その点モズは、敏捷さを売りものにしている小型の肉食鳥である。彼らには餌を鷲掴みにし、悠々と食事をするほどの脚力はない。外敵から身を護る必要上、食事中でもいつでも飛び発てるように、尖った木の枝や樹木の棘にバッタや鰌や蛙を突き刺すことにより固定し、そこから肉をむしりとっての食事となる。満腹の場合は獲物を枝に刺したままにし、その場所を忘れることも多いらしい。

昔からの山水画に代表される墨絵は、花鳥風月が題材になる場合が多い。描線を極端に省略し、墨の濃淡を微妙に変えての表現は無限で、人々の心を深く取り込む。

ある程度の成功をおさめた60代前半の人などは、床の間に飾った山水を背に御客を応対し、その掛け軸にお客の眼が行くように微妙に座る位置を調整したりする。中国旅行に行ったおりに手に入れた掛け軸を自慢したいが、口に出すことをはばかるだけの理性は残されてはいる年齢なのである。床の間の墨絵は、吹き荒れる吹雪のなかの裸木に鋭い眼光の鷹がとまっている図柄であった。

剣豪の誉れ高い宮本武蔵の晩年は、茶道、刀鍛冶、鍔作、書や絵画の道にも深く足を踏み入れ、武蔵作のそれぞれの分野の逸品は現代まで残されている。中でも武蔵の墨絵には、剣の道を極めた者の緊張感が画面いっぱいにみなぎるものが多い。彼の絵の中で万人が認める[枯木鳴鵙図(コボクメイゲキズ)]という73㎝×29㎝の絵がある。

[枯木鳴鵙図]は、晩秋の野に葉を落とした細長い樹木の先にモズがとまり、地面か水面にある小動物に向かい飛立とうとしている姿を描いた絵である。自然界の小さな剣豪のモズの姿を借りて、宮本武蔵自身の姿を表現したとしか云いようがないほどの気迫漂う墨絵である。

宮本武蔵は、1584年に現在の兵庫県に生まれた。160017歳のときに関が原の戦に西軍として参戦し、敗退後の放浪の末に武芸者の道に入ったといわれる。その4年後の21歳のおりには京都の剣の名門吉岡一門をことごとに葬り去ったことで、剣の道を極めんとする武芸者の世界で武蔵の名が知られるようになる。161229歳のとき巌流島で小倉藩剣術師範の佐々木小次郎と戦い、これに勝つ。古くからの芝居や映画では、巌流島での小次郎との勝負の後に小船で去っていくところで終わっているが、武蔵の生涯はここまででやっと半分なのである。武蔵の一撃で即死したと語られている佐々木小次郎は、その後に蘇生している。息を吹きかえした小次郎は、当時の小倉藩主細川忠興の命令により細川家藩士数名に惨殺されたようである。信長、秀吉、家康に仕えた歴戦のつわものである細川忠興は、自藩の剣術指南役が名もない牢人ふぜいに負けてしまっただけでも不名誉なことなのに、死んだと思った小次郎が息を吹きかえして生きながらいることには我慢がならなかったのであろう。

一藩の剣術指南役に戦を挑んで勝った武蔵にとっても、試合後の生命の危険は充分にあった。細川忠興が勝者である武蔵に優勝杯を準備したとしたら、勝者武蔵の首を飾る杯であったはずである。武蔵が試合場に乗ってきた小船は、試合が終わるまで岩陰にか隠れていた。すべて打ち合わせ通り、観る者が意外な決着に呆然としている短い時間に小船が近づき、それに乗って一目散に沖に漕ぎ出したのである。小次郎と小倉藩の立会人の心を乱すための大幅な遅刻は、試合に確実に勝つための作戦と同時に、その場を逃げ出すための作戦をも含まれていたのであろう。

1614年、武蔵31歳のおりに大阪冬の陣に出陣し、翌年の大阪夏の陣にも西軍として出陣している。1637年の54歳の武蔵は、豊前(ブゼン)藩主小笠原忠真軍の指揮官として登用された養子宮本伊織の補佐役として島原の乱にも出陣している。1640年の武蔵57歳のおり、豊前藩主小笠原忠真の義兄である肥後熊本藩主細川忠利の客分として迎えられた。細川忠利は佐々木小次郎との試合当時の小倉藩主細川忠興の子であるからややこしい。 58歳の武蔵はここで兵法35ケ条を、そして60歳で五輪の書を書き始め62歳で完結する。書き終わったころには、武蔵の身体には病魔が宿っていた。死期を悟った武蔵は、最後に独行道を書き記し1645年(正保2年)519日永遠の眠りにつく。

[独行道]

1、世間の道に背くことはしない

2、何事によらず依怙地な心をもたない

   3、身体に楽な方法を選ばない

  4、一生を通し欲心をもたない

  5、自分が良かれと思い何かをなし場合には後悔をしない

  6、善悪につき他をねたまない

  7、どのような場合でも別れを悲しまない

  8、自分や他に起こったことに対し人を恨むことや他人のせいにしない

  9、自分に恋慕の思いはない

10、物事に対し風流や贅沢な好みには知ることをしない

11、自分の住む家にこだわるこころをもたない

12、自分の身体のために美食を好まない

13、自分の身辺での物事に対し恐れたり嫌ったりいない

14、骨董品や風流な物をほしいと思わない

15、武具や刀は別だが、遊興風流はたしなまない

16、必要とあればどのような時でも死を恐れない

17、将来の為に金や財産を蓄えることを考えない

18、神仏を深く信仰するが神仏に対し願い事をしない

19、いつどのような場合でも兵法の道を離れない

  武蔵の[枯木鳴鵙図]の絵の中に、モズがとまっている細長い木の約50㎝下に黙々と上方へ進む芋虫がいる。このモズは、数秒後に自分の足上を通過していく芋虫を無視し、身動きさえしないのではなかろうか。

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棟方志功の軍艦マーチ

平成20127

驚いても オドロキきれない

喜んでも ヨロコビきれない

悲しんでも カナシミきれない

愛しても アイシきれない

  世界に名を馳せた版画家棟方志功が、美の世界を表現した言葉である。

  およそ絵のことなど、なんにも知らない私だが、棟方志功のそれぞれの絵を観つめると、やがて、徐々に、楽しい世界に足を踏み入れることになる。棟方志功が描いた数多い仏様たちは、みんな棟方志功の顔に観えてくる。彼が[みみずく]の集団を描けば人間的な[みみずく]になり、棟方志功と同じような強度の近視眼鏡をかけているような[みみずく]がそこに出現する。彼の心のなかにあるキャンバス上に、彼の心の手で女性を描けば、どの被写体も、分け隔てなく、慈悲溢れる菩薩様にも観音様にもなる。しかも、嬉しいことに、それらの女神の総ては、太陽の光の中に裸身をされけ出している。それらの裸身は、少年が夢想する母親の、この世で一番尊敬に値する神々しい裸身であった。さらに良く観察すると、棟方志功の手に成る[板画(ハンガ)]も、[大和画(ヤマトエ)]も、風景も、彼の柔らかい感性のナイフで掘り起こされた[文字]などの全部が、もじゃもじゃ頭の下にぶらさがっている強度の近眼鏡の奥で笑っている志功自身の顔に観えてくる。

  棟方志功は明治36年(1903)青森市に生きた刀鍛冶屋の15人兄弟の第6子、3男坊として生れた。大正10年(1921年)18歳のときに、雑誌に載ったフィンセント・ファン・ゴッホの[ひまわり]の絵を観るなり「わだば、ゴッホになる」といった。そのあとも人と顔を合わせる度に「ゴッホ・ゴッホ」というものだから「棟方の息子は、たちの悪い風邪にかかったようだ」などと、陰口されたりもした。

  大正13年(192421歳のとき、裁判所の弁護士控室にくる、口だけが達者で猜疑心の塊のような弁護士連中に御茶を出す仕事を投げ打って上京、本郷弓町の下宿に住み、今では懐かしい南京虫に悩まされた。それでも、昭和3年(192825歳で第9回帝展(日展の前身)に出した油絵[雑園]が入選する。さらに、それでも、油絵に限界を感じていた時期に宇都宮で高校教師をしていた川上澄生の版画[はつ夏の風]を見て、版画の世界に入る。昭和5年同郷の赤城チヤと結婚、その後に第5回国画会展に出した版画[群蝶]が入選し、「奥様の、陰の御指導の賜だ!」などと陰口をいう人もいたが、[陰の力]という意味を理解できないままの志功であった。

  昭和11年(193633歳で国画会展に出した版画[大和し美し(やまとしうるわし)]が機となり、民芸活動をしていた陶芸家[河井寛次郎]らと知り合い、以後の交流がうまれる。昭和12年、版画[華厳譜]を発表し版画に宗教色が現れてくる。そして、昭和13年版画[善知鳥]が帝展特選に入る。

  昭和21年(19461月に陶芸家[河井寛次郎]の新作陶磁器展が大阪高島屋で開かれた。河井を師とあおぐ棟方志功は、その個展会場に画仙紙6枚大の宗教色の強い版画を贈った。

以下は、棟方志功から贈られた作品に対しての、河井寛次郎返礼の詩文である。

[何トイフケダカイ無礼ダ(文節順序無断変更)]

近業六枚続キノ大幅ミタ

アレハ何ダ

何ト言フアレハ狼藉ナ仕事ダ

何ト言フ不逞ナ表現ダ

何トイフマバユイ労働ダ

世界ヘノ何トイフコレハ新シイ喜ダ

獣物ノ何トイフ素晴ラシサダ

人間ノ何トイフ高貴サダ

何トイフ無茶苦茶ナ美術ダ

今想ヒ出スダニ血ガ湧ク勇ミダス

何トイフケダカイ無礼ダ

何トイフカグワシキインチキダ

君ハ此頃横行スル追ハギヨリヒドイ

人間ノ着物ヲハグドコロカ身グルミトッテ行ク強盗ダ

タマシヒダケ残シテ置イテ行ク強盗ダ

君ノ様ナ強盗ガ出来テ来ナイト人間ハ自分ノ一番大事ナモノニ気ガ付カナノダ

君ノコノスベテハ何トイフ腹ノ立ツ素晴ラシイウソナノダ

ベラボーメ何トイフ畜生ノ神様ガタノ世界ダ

  河井寛次郎は明治23年から昭和41年まで生きた陶芸家で、彫刻や書、詩、随筆と何でもこなし、どれも一流の域に達した人である。また、文化勲章、人間国宝、芸術院会員などに推挙されたが、どれも辞退した人である。骨があるというか・・・、偏屈というか・・・、到底凡人には理解し難いが、少なくとも味のある湯飲み茶碗を作る名人ではあった。

  師と仰ぐ人に褒めに褒められた棟方志功という人は、どうゆうわけか版木を彫っているとき軍艦マーチを口ずさんでいたという。仕事をしている志功の写真は、極度の近視をカバーするための防弾ガラスのような眼鏡をかけた顔を、製作中の版木に擦り付ける姿勢のものが多い。なんとはなしに、棟方志功の写真をのぞきながら軍艦マーチを口ずさむと、写真のなかでの志功が持つナイフがリズムカルに動いてくるように錯覚した。

  昭和50年(1975)棟方志功は72歳で死去した。彼の作品をメーンとして展示する美術館は多い。それらを、棟方志功のド近視眼鏡の心を持ち、ボツボツと廻りたいと思っている。

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山下清と歩く汽車道

                                      平成2016

  昔むかし、山下清という天才画家いた。彼の生前の業績は、映画やテレビや舞台での物語として紹介されているが、物語はあくまでも[語り]で、必ずしも本当のことだけで構築されているわけではない。このことは、一昨年(平成18年)夏、郡山市民美術館での山下清展を観たおりに購入した展示作品カタログの解説欄に眼を通したときに、改めて核心するにいたった。

  山下清は関東大震災の前年の大正11年(1922年)に東京都台東区に生れる。震災で新潟県に移住した3歳のときに極度の消化不良となる。3ケ月後に病は完治するが、生涯に渡り離れることのなかった言語障害が残された。昭和3年の6歳のとき家族は東京に戻る。10歳で父を亡くしたころから言語障害が理由での、いじめにあうようになる。方々の学校に移るが、無意識の残虐性を持つ少年は何処にでもいた。

  昭和9年(1934年)山下清12歳の時に入園した千葉県市川市の養護施設[八幡学園]で、貼り絵と出合い絵画的才能が目覚める。

昭和12年、15歳のとき、早稲田大学内で八幡学園児童の貼り絵展が開催された。そこで始めて、山下清の作品が美術関係者に注目される。

昭和14年、17歳のとき、銀座画廊[清樹社]で開催された個展で大きな反響をよぶ。

  昭和15年(1940年)18歳から21歳まで関東地方内外の放浪の旅に出る。徴兵検査を免れる目的だったという。帰宅後、母につれられ徴兵検査を受けるが不合格、兵役免除となる。

  昭和28年(1953年)31歳、東洋のゴッホの存在を知ったアメリカのグラフ雑誌[ライフ]の特派員が、放浪中の山下清を捜し始めた。これに朝日新聞社までが調子にのり、新聞やラジオまで入り混じる大騒ぎを展開した。山下清がのんびりと日本の最南端に近いところ歩いていると、清の似顔絵を見たことのある売店のおばさんに呼び止められた。新聞に「山下清、鹿児島で発見される」と掲載される。そして、この15年の放浪生活を綴った[放浪日記]が東京タイムに掲載されることになった。

  昭和33年(1958年)36歳、東宝映画[裸の大将(小林桂樹主演)]が封切られる。

  昭和38年(1963年)41歳、京都南座[裸の大将(主演芦屋雁之助)]特別公演。

  昭和46年(1971年)49歳、712日早朝「今年の花火は何処で見ようかな」を最後に永眠。

  これが、日本のゴッホと云われた天才画家山下清の、49年間の生涯だった。12歳で良き師にめぐり合い、貼り絵という自己表現法を手にしてからの波乱の人生は、他の多くの人々の心を引き寄せることになる。山下清本人にとっても、誠の心で接してくれる人々との交流は、概ね、幸せな49年間だったように感じられる。

  昭和9年八幡学園でのよき師に勧められた貼り絵で、12歳の孤独な山下清少年が表現したのは自分の友であり分身でも有る昆虫達の姿であった。飛び出す寸前の足長蜂、いちばん綺麗な虫と思っている羽根を広げた蝶々、木にしがみ付いて鳴いている蝉、草陰で暖かい燈を点滅させる蛍、空中を自由に飛翔する蜻蛉、どれをとっても瑞瑞しい少年の思いがあふれ出ている。それらが、かつて少年だった大人たちの胸を熱くさせるのかも知れない。当時の山下清を知る師はいう「清の帽子や机の中に入れた虫が紙の上に表現され、清はこれと遊んでいるようで、その姿は美しくさえあった」と。

当時の放浪の旅では絵を描くための写生は一度もせず、旅から帰ってからの八幡学園や母親の住む自宅での作品製作が総てであった。言語障害というハンディを持つ山下清の記憶力は驚異的で、字画の多い漢字を一度観ただけで正確に書くことができた。旅の間に見てきた様々な心に残る風物は抜群の記憶力で頭の中に格納され、学園や自宅に帰ってから正確な構図として取り出し、あの作品群に生まれかわったのであろう。

後年、貼り絵の延長上に油彩画や版画、ペン画などの作品も多い。陶器や磁器への絵付けなどへも興味を示し、皿や壷の曲面を有効に使う皿絵なるものも描く。

当時も今も、フェルトペンを使用してのペン画では失敗は許されない。誤った線を引き直すことができないがゆえに、他の画家が敬遠する分野であった。だが、山下清の過去に見た風物への記憶力に裏打ちされた頭の中の構図は、いとも簡単に、そして正確にフェルトペン先から紙の上に載せる事ができるのであった。

  山下清は強い自我の持ち主である。最初の学園からの脱出は徴兵検査を受けるのを嫌ってのものである。一部の作品の中では、意地悪人間や悪人には彼独自の仕返しをしているように見える場合がある。けれども、虫たちや同じ境遇の友人達が登場する作品からは、深い思いやりの心があふれ出ている。

恩師の勧めで放浪の記録を文章にする際に、句読点や終止点を指導されても「人が話をする時に[]とか[]とかいわない。おれは人が話をするままにかく」と、生涯そのやりかたを曲げなかった。

「俺は毎日汽車道を歩いているので都合によってたまに道を歩く時もあるのです俺がどうして汽車道ばっかり歩いているかというと駅と駅との間を歩くには道を歩くと初めての道だから右へ曲がる道だの左へ曲がる道だの突き当たる道だの十字路の道があってどの道を通っていけばこの次の駅に行けるか分からないのです」

実に大らかな美しい文体ではないか。文字を一つ一つゆっくりと眼で追うと、山下清と一緒に、下駄履きで汽車道を歩いているような気分にさせられる。

  人間としての山下清のクライは、兵隊の位になおすと、誰もが認めざるをえない大将だったのです。

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