酒について

徳川家康の酒の肴

平成20104

  戦乱の世に信長、秀吉と続いた新体制づくりを受け継ぎ、幕藩制を布くことに成功したのが家康である。この徳川幕府を頂点とした統一国家は、以後264年保たれる。

  一般的日本人は判官贔屓の傾向が強く、途中で挫折した人に対して理屈ぬきで深い同情を寄せる。その結果、功を成し、名を上げたものに対して非常に点が辛い。家康は、何事によらず信長、秀吉と比較されては、けなされることが多かった。

考えてみると、いつの世の為政者も批判の対象にならなかった者はいないし、その者にしても、部下や国民を心底から好いていたわけではない。底知れず品位の落ちる論法ではあるが、一般的個人であっても何らかの意味で他人の批判を受け、自分自身もまた、自分以外の周囲の人々に絶えず批判的な視線をあてている。突き詰めれば、誰も信用できないのだ。こんな世のなかでは、玄関外へ客を見送るときでも、玄関ドアは確りと施錠しなければならない。

  後世の人が家康を忍耐力の強い人間に見ているが、乱世を生き抜くためには、その他の選択肢がなかったようにも思われる。自藩の安泰を第一義として長生きしたことにより、総ての幸運が家康の許にころがり込んできた、という見方もできる。

信長、秀吉が健在のころからの我慢比べの習慣からか、家康はおもだった重臣の意見を尊重し、おのおのの考えで充分に議論させて事を決めていた。それぞれの重臣達には、主君の信頼を得ているという安心感があり、戦国時代と徳川幕政時代を通して謀反や裏切りが少なかった。家康はそれらの家臣団に報えるために、徳川氏親族大名を親藩、関が原以前からの家臣を譜代大名、関が原以後の家臣を外様大名と呼び、徳川氏中心に幕府運営に当たらせた。

信長が杵で搗き秀吉が丹念に我が手でこねあげた湯気が立ち昇る天下餅は、1600年の関が原の後に家康の手中に転がり込んだ。1603年江戸に幕府が布かれることで徳川家は磐石のものとなり、1615年大阪夏の陣により豊臣家そのものも完全に姿を消した。奇しくも、秀吉が織田家からもぎ取った方法で、豊臣家から徳川家へ政権が移されたのだった。

徳川家康は、天文11年(1542年)1226日に、三河国岡崎城主松平広忠の嫡子(幼名竹千代)として生れる。松平広忠は政略的な理由で妻を離縁したことより、竹千代2歳のおり継母が代わりに入る。

その頃から、尾張の織田信秀(信長の父)が三河国にさかんにチョッカイを出してくるので、松平広忠は今川家に援軍を依頼した。この援軍要請の代償に今川家が松平家に要求した人質が、竹千代である。ところが、ところが、人質として駿河の今川家へむかう途中で、継母の父(義祖父)が義孫である竹千代を織田信秀に売り払ってしまった。

今川家に送られるはずの6歳の竹千代は、周囲の人々の想定外の出来事として、尾張織田家の人質となってしまった。1534年(天文3年)5月生れで8歳年上の織田信長と竹千代は顔を合わせ、信長の後から山野を駆け回る付き合いをした。

竹千代8歳のおり、まだ織田家人質中に父親松平広忠が死ぬ。この時期に、織田信秀の長子織田信広の居城を攻めた今川義元は、信広を殺さずに人質とする。今川家の人質交換の申し出を受け、織田信秀は竹千代を今川家に渡し、息子信広を取り戻した。

竹千代は、それから10余年の人質生活を今川方で送ることになる。人質中の弘治3年(1557年)1月に、今川義元の姪、後の築山殿を娶る。

  永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、元服して竹千代から元康と名を改め、今川軍の先鋒隊として従軍していた。今川義元が討たれた時刻の元康は、先鋒隊のつとめとして、ずっと先の大高城のあたりで小競り合い中であった。

今川義元の死の知らせで今川全軍は駿河方面に退却していくが、元康一行は岡崎城のちかくで物陰にかくれた。今川軍最後の一人が峠の向こうに消えたころに這い出してきて、12年ぶりに自分の城である岡崎城に入いった。

  その後の元康は、織田家や今川家に喰い荒らされた三河国内の平定に専念する。三河国を整えるために、まず、信長に同盟を申し入れる。美濃や近江への攻略を目指していた信長が永禄5年(1562年)清洲城で攻守同盟を結んだのは、自分にとっても大きなメリットがあったからである。戦国時代としては異例のことに、この清洲同盟は、信長が本能寺で倒れるまで一度も破棄されることがなかった。織田家、松平家のこのあたりは、秀吉と違い、何代も続いた大名としての品格が滲みでた部分であろう。

  永禄6年(1563年)7月、今川家との決別とともに義元から押し付けられた[]を棄て松平家康と改めた。そして、三河を平定した永禄9年(1566年)12月に自らを徳川家康と名乗る。

  家康は、立場上から公式の場での酒はほどほどに口にしている。飲みすぎることが無いばかりか、酒席に長く座っていることも好まなかったようだ。酒に対する家康の考えは、非生産的な行為の最たるものと思っていたふしがある。

食事なども、贅沢なものより質素なものを好んだ。しかし、雪の下から掘り起こしたウドの芽を所望したり、銘酒製造時に出る酒粕使用の海魚の粕漬けを好んだり、肴に対するこだわりも持っていた。家康75歳での死の原因は、鯛のテンプラの食中毒という説もあるので、単に質素だけとはいい切れないところがある。もっとも、当時の世界での長者番付上位の人でもあるので、当然といいば当然の所産ではある。

徳川家康は、生涯を通し酒の醍醐味を知らずに一生を過ごした人かもしれない。その代償に、日本国の隅々まで彼の意思が浸透していった。

1616年、家康は75歳でなくなった。以後の徳川幕府は、1867264年間の幕を閉じ、明治の世に移行する。

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豊臣秀吉の酒

平成20924

  羽柴秀吉にとって、主君織田信長が明智光秀に討たれたことにより、天下人へのチャンスが降ってきた。信長が本能寺で自刃した時には、秀吉は彼の命による重大な合戦さなかにあった。しぶとく反抗し続ける敵に対し、気を長く持った水攻めにより最後の勝利を信じていたのだ。

高松城攻めの羽柴秀吉が、天正10年(1582年)62日の本能寺の変を知るのは、彼の側近長谷川宗仁からの書状が届く63日晩である。秀吉は誰はばからぬ、大泣きをする。他人がどう見ようが、それはうれし泣きであった。横にいた黒田官兵衛は重々しく「それにしても、殿は天の加護を得られたわけでござる」という。顔を覆っていた手の指の間から、秀吉の目が官兵衛の顔をうかがった。己の心中を見透かされたと思い、ドキッとしたのだ。

即刻開らいた重臣達との軍議で、対陣している毛利勢が信長の死を知る前に講和を結ぶという結論に達した。64日朝、黒田官兵衛が毛利勢陣営に赴き講和話をまとめた。

翌日の5日はそのまま動かず。毛利勢の追撃なしと見ると6日には全軍を動かし、6月7日には一気に80kmを行軍し姫路城に帰った。秀吉側の歩兵は走り疲れて死ぬ者や、脱落する者が続出したといわれる[中国大返し]の始まりである。

秀吉の次の行動は、姫路城にある全部の金銀を傘下部将に分け与え、全部の米を足軽に分け与えた。自らは頭をまるめて信長の弔い合戦という形を整えて、613日山崎の合戦に間に合うように25,000の兵が200Km5日で移動したのだ。この信じられない移動速度の秘密は、甲冑や武器弾薬は別働隊が運び、褌ひとつの身軽な兵はひたすら走りつづけたことにある。

  羽柴秀吉は、自分の頭脳と行動力には絶大な自信を持っていた。だが、最高峰に近づくにしたがって、自分の容姿についての貫禄のなさを嘆かずにはいられなかった。背が低く、頭は禿げ上がり、奥目で鼻が低く、口元は乱喰い歯でところどころ欠けていた。

  彼は自分の貫禄のなさはもとより、誰がどのような陰口を叩いているかも承知していた。なりあがり者の自分に対する織田家譜代の家臣団の態度は、事あるごとに不愉快でもあった。それらの人々をいなしたり脅したりした末に、強力な不満分子とは合戦も辞さず連戦連勝で制圧していった。

その後も秀吉の機知に富んだアイデアにより、周囲の戦国大名たちを次々と傘下におさめていった。2~3のしぶといやつらもいたが、秀吉の権力が増大していくに従い、それらも次第に自分の動きがニッチもサッチも立ち行かなくなっていった。当時の秀吉の底力は、これ以上反抗すれば、怒涛のような騎馬武者が山野の果てから押し寄せる夢を毎夜見なければならいほどに強大なものであった。

  秀吉が最後の締めくくりとして全国の諸大名に心服を誓わせたのは、聚楽第に後陽成天皇を迎えることにより、自分の権力を見せ付けたときである。

  聚楽第に後陽成天皇を迎えた折の酒宴では、しきたり通り大杯を順繰りに一同に廻された。その一巡を[一献]と呼び、その席では7献まで廻されたが、この席での秀吉は最初の一献で上気し、後は適当にごまかしたとのことである。秀吉の場合、傍にいる女性次第で酒がはずむことがあっても、真から酒好きではなかったようである。

女性の方は、正室北政所(寧々)の他に主だった側室を14人即座に数えることができる。どれも容姿端麗で教養も高く、おそらくは、ときおり毛筆で和歌などをしたためていたのでは、などと、勝手に想像した。

  側室:淀殿 (茶々)織田信長の妹お市の方の娘。

  側室:加賀殿(摩阿)前田利家の娘。

側室:松の丸殿(京極 龍子)夫が秀吉軍に殺されたあとにお世話になる。

  側室:三の丸殿 信長の六女。

側室:三条殿(とら)会津藩主蒲生氏郷の妹。

側室:姫路殿 秀吉が姫路城にいた当時の側室。

側室:広沢局 名護屋城主の娘 秀吉(56歳当時)最後の側室。

側室:月桂院(嶋女)足利喜連川頼住の娘。側室の化粧料として3,800石を貰う。

側室:甲斐姫 武蔵国忍城主成田氏家の娘。

側室:南の局 鳥取城主 山名豊国の娘。

側室:香の前(お種の方)秀吉と伊達政宗の家臣の茂庭綱元と賭け碁をして秀吉が負け、茂庭に下賜(カシ)された側室で、茂庭の元へ移動の途中に正宗の子を孕んだ。まったく、いい加減な人達だ。

側室:南殿 秀吉の近江長浜時代の側室。

側室:備前殿(おふく)五大老の一人で岡山城主宇喜多秀家の母。正式な側室ではない。

秀吉は、主君の子供であろうと、家来の奥方であろうと、かっての盟友の子供だろうと、美形には見境の無い人だった。この他にも、当然に、記録されていない多くの女性がいたはずだ。

このように、歴史のところどころを振り返るとき、なぜか、現代の各国大統領や宰相の粒が小さく見えるときがある。

  秀吉の後半生は、茶の湯に強く惹かれていく。茶道への憬れは、千利休を傍らにおきその道を極めたことでもうかがい知ることができる。しかし、最後に利休に切腹を強要したことに、何の意味があったものやら。現代にはびこる千利休物語は理屈ばかりがくどく、その辺のところがさっぱり理解できない。

豊臣秀吉の居城、大阪城のどこかに次の一文が掲げられていたらしい。

  「飲める者は相応に飲め、しかし、飲めない者が強いて付き合い酒に酔うことはない」

  ここに一筆書き加えるならば、当然「運転前には絶対飲むな!」だろう。

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織田信長と明智光秀と酒

平成20921

世にいう戦国時代は、[応仁の乱(1467年)]が発端で始まった。そもそもは、将軍足利義政の後継者問題がこじれ、東軍(将軍派)と西軍(反将軍派)とに別れ、日本全土を巻き込み10年間に及ぶ争いとなったものである。この乱による国土荒廃と治安悪化により、足利将軍の権威は失墜の一途をたどる。我にもチャンスありとふんだ全国津々浦々の豪族、大名、小名が見果てぬ夢に向かい突き進んだ結果を戦国時代と呼んだ。

織田信長は、1534年(天文3年)5月、智勇に優れ[尾張の虎]として豪勇を馳せた織田信秀の3男として尾張那古野城に生まれた。

うつけ者と噂された織田信長少年の天才性をいち早く認めたのは、父信秀であった。15513月、流行病により42歳で急死した父親織田信秀 は、信長18歳で家督を継ぐためのレールを引いて置くという先見の明をも持っていた。

信長の尾張内の統一、桶狭間の合戦以後の政治的軍事的手腕は、科学的合理性にもとづくものであった。昔ながらの合戦術を絶えず改良して作戦の近代化を図り、次々と他国を制圧していく姿は革命児そのものであり、混沌の世に送りつけられた時を司る神の申し子であった。だが、織田信長の天才が故の非情な決断力と行動力に対し、その頃から織田家臣団の中にも危惧を抱くものは多かった。

  織田信長の戦国トーナメント戦への実質的デビューは、永禄3年(1560年)桶狭間で今川義元を破ったときであろう。

駿河、遠江、三河三国の太守である今川義元は、上洛の道筋にある尾張を踏みにじるために軍を進めていた。阻止しようとする織田信長軍は、農家の年寄りを引き出しても5千の軍を揃えるのがやっとだった。

この時の信長方将兵の誰一人として、今川軍に勝てると思っている者はいなかったのだ。しかし、誰一人として敵に内通する者も戦線離脱する者もいなかったことは、当時としては驚異に値する事でもあった。おそらく、信長に対しての未知数的な魅力を誰もが抱いていたのかも知れない。「死なば諸とも」「生きていいればメッケ物」というような心境だったのであろうか。

この信長ストーリの詳細は、小説、映画、芝居、テレビにより、ウンザリするほど繰り返されている。主人公がメキメキ頭角をあらわしていくスペクタル・アクション・サムライムービーは、いつの世でも受け入れられ易い素材であった。

織田信長の時代を読む卓越した才能と己に有利に働く幸運がなければ、歴史的空間に忘れ去られるその他大勢の脇役でしかなかった。さしずめ、NHK大河ドラマでの2月の第3日曜日ごろの放映分中ほどで、弟が率いる弓部隊が放った矢の雨を身体に受け、ヤマアラシの毛皮のような最後をとげて、以後は時々の回想シーンに顔を出す程度であったであろう。

  桶狭間の戦いでの勝利は全国の武将連の度肝を抜く事件であり、大多数を占める民衆に信長の名前を刻み込む特大のニュースとなった。我こそはと自分の道を模索していた戦国大名たちも「ナンダー! コリャー!」と尾張方向に眼を向けたのだった。

  信長の非凡さは、桶狭間の合戦の2年後に結んだ徳川家康との同盟にある。この同盟により、自国を取り囲むあまたの戦国大名を外側から牽制することに成功したのだ。このあと信長は本格的に自分の描いた計画を実行に移していく。永禄10年(1567年)に斉藤道三の孫に当たる斉藤竜興を滅ぼし、岐阜城の主となったことで天下取の一歩を踏み出す。

  当時の日本を訪れたポルトガル宣教師ルイス・フロイトの著書[日本史]の中には、1569年に織田信長に会った印象をこう述べている。

「身長170Cmほどの長身痩躯で髭は少なく、その声は500m先からでも聞こえるほどかん高く、武技を好む粗野な性格であった。また、正義や慈悲の行いを好むことと、傲慢で名誉を尊ぶ心をあわせ持ってもいた。ことが起れば決断力に富み戦術は巧みで、従来の規律を無視し、部下の進言に従うことはほとんどなかった。部下の前では酒は飲まず、周囲の人々からは異常なほどの畏敬うけていた」

実際の織田信長は、酒は非常に強かったようだ。当時の天皇や将軍との宴では、かなりの量を口にしたとのことである。大部分の大人がそうであるように、彼もまた、酒を殺して飲めるタイプだったのだろう。ただし、戦陣においては、一切酒を口にしなかったそうだ。かの桶狭間で、思い上がった今川勢の酒宴の最中に奇襲をかけて義元を打ち取ったことが、逆に彼の教訓になっていたのであろう。

それは、部下たちの酒宴でも気を許すことはなく、自分は余り飲まないように心がけ、部下にはとことん飲ませるのが好きであった。彼は、相手を酔わせておいて本心や下心などを観察することの好きな、酒飲みにとって最もいやなタイプの人間でもある。幸いなことには、気を許しての酒席での悪意のない言動を、さも会社に対して悪意を持っているかのように、上役に報告されることだけはなかった。報告しようにも、当時の彼には上役はいなかったのである。

  織田信長の短気な性格も、また有名である。酒宴の席で、自分が飲めといった相手が飲まないと、すぐに機嫌を悪くする。

  信長の家臣の一人に下戸(ゲコ)で有名な明智光秀という部将がいた。彼は、室町幕府第13代将軍足利義輝に信任の厚い朝倉義景に仕えていたが、縁あって信長の禄をはむことになった人物である。以来、仕事の上では信長の信頼を裏切ることのない完璧に近いものであった。だが、酒の席での信長の無理難題は、明智光秀に向けられる場合が多かったのである。

  イジメられっ子の明智光秀は、傘下部将連の力強い勧めもあり、全軍の先頭に立ち信長の投宿先本能寺に駒をすすめることになった。本能寺内に就寝中の信長は、周囲を揺るがすどよめきで眼を醒まし事の重大さを知る。信長は「是非に及ばず」と云ったというが、「なんで光秀が・・・」と思ったことであろう。

織田信長は、火を放った本能寺の奥で自らの身体に刀を突き入れた。1582(天正10)織田信長48歳の生涯はあっけなく終わった。信長の遺体が発見されなかったことから、さまざまな憶測がはびこり現在にいたっている。実地検証が甘いからである。

  信長譜代の家臣団を別にすれば、明智光秀と豊臣秀吉の有能さは拮抗するものであった。ただし、計算ずくめとも思われる大らかさを持つ秀吉とは異なり、光秀の性格は融通が利かなかった。並外れた頭脳と統率力を持って一度は天下を手にしたかに見えたが、真面目さが災いしてか戦国時代の時流に即しなかった。ここでも、詰が甘かった。

  信長の死から12日後の山崎の合戦で豊臣秀吉に破れ、生まれ故郷に逃れる途中で土民の持つ泥の付いた竹槍に刺し連ねられ殺害される。1582年(天正10年)、明智光秀56歳のことであった。

武士と生まれたからには天下人の夢を抱かない者はいなかったであろう。だが、光秀の場合は、主に対し直接手を加えたことで、一般大衆の印象は良くはなかった。そして、後世まで「3日天下」などと不名誉な言葉がつきまとうことになった。蔭で光秀をそのように仕向けたのは、秀吉だとも、家康だとも、疑う者は沢山いた。

見方にもよるが、さまざまな階層に悪いやつらは満遍なく張り付いている。中の下程度の悪者は、事件を起こしテレビカメラを向けられると、決まって自分の掌でレンズを覆い隠す仕草をする。これらは小物だ。いつの時代にも本当に悪い奴らは別にいる。

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上杉謙信と武田信玄の酒

平成20年9月20

  越後の龍と呼ばれた戦国武将上杉謙信は、享禄3年(1530年)越後守護代長尾為景の4男として春日山城に生れる。病弱の兄晴景より家督を譲られ、19歳で春日山城主になった長尾影虎は、北条氏に追いかけられ越後まで逃げてきた関東管領の上杉憲政から、匿ってくれた御礼に関東管領職を譲られ、上杉姓を名のるようになった。

  この上杉謙信は、戦国大名の中では横綱クラスの酒豪で、配下の部将を一堂に集めての酒盛りには、ことのほかエネルギーを費やしたらしい。多数の部将には惜しみなく酒を勧めるが、この席での謙信はごく形式的に34合飲むにとどめたようだ。謙信の酒はこの後から始まる。酒が強く、話の面白い部将を数人引き連れ、別室で盛大な二次会を催すのが常であった。

  二次会に使用される杯はたっぷり5合は入るしろもので、この大きさの5個ばかりの杯がやり取りされる様は、酒の入った池で水浴びしているようなものであった。ちなみに、5合入る杯の大きさは、盛りの多さで定評のあるラーメン屋のドンブリぐらいはあったはずである。

酒好きの謙信の日頃は、一人で縁側に座り吹き込む風を肴に酒を楽しむ事が多かった。いつの場合にも、謙信は肴をとらず酒だけを飲んだ。肴もつままずの大酒は、どのような頑強な身体でもボオロボロに壊してしまうのにはもってこいの飲みかたのように思われる。

天正6年(1578年)3月、謙信は49歳で春日山城の厠で死んでいる。用便中の死因は、脳卒中であった。一説には、信長が放った忍に、厠の下から槍で刺殺されたというのがある。どちらにしても、締まらない話である。

  上杉謙信の死は、彼の廻りで目障りな動きをしている新参者の織田信長を討ち果たすための出陣準備が万事整ったやさきのことであった。

謙信が計画した上洛を開始すれば、越中(富山県)、加賀(石川県)、越前(福井県北部)、近江(滋賀県)の道を進む。信長のいる尾張はこのルート上にあるので、一戦は避けられないのである。

たとえれば、パートの奥様連中を急がせて小さな電気部品を製造する中小企業経営者の織田信長の力では、超薄型ワイド画面デジタル液晶テレビを量産している日本有数の電子機器メーカーの総帥上杉謙信には、太刀打ちできなかったのは明白である。そこには、資本力の違いのほかに、人間的品格の違いなどもあったことだろう。

話は横道にそれるが、川中島の戦いの折に謙信が武田陣営奥深く単騎で乗り入れ、武田信玄に一太刀あびせたという故事は、どうも酒が入っていての無謀な行動と思われるふしがある。

時には相手に塩を贈ったりしながらの、上杉謙信と武田信玄の5度に渡る川中島での格調高い戦も、後の豊臣秀吉にかかっては「はかのいかない戦いばかりする二人だった」といわしめたのいだから、墓の中の二人は顔を見合わせて、武士道の行方に危機を感じたことであろう。

  上杉謙信の好敵手であった武田信玄の酒についてのイピソードは、あまり残されてはいない。当時の武将として誉れ高い信玄が酒を口にしなかったとはいい難く、おそらくは、自国の山野に自生する山菜をおかずにした食事をしながらの、晩酌程度の飲みかただったのであろう。すこし想像をたくましくすると、その御膳の上には、岩魚や山女の塩焼きなどもあったかも知れない。あれは、私の好物だ。

  武田信玄の酒についての記述が無い代わりに、女性関係では甚だ忙しい人であった。信玄の御相手をたてまつった女性の名を並べるだけで、ゆうに1時間はかかってしまう。武田信玄の場合は酒に重きをおかず、もっぱら女性に対する探究心が旺盛であったのであろう。そのことだけでも、極めて有能な男だったことが伺われる。

こんなことをいっては、みもふたもないが、酒を飲む度に喧嘩ばかりしているような人は、馬鹿ばっかりないのである。

それはともかくとして、謙信が書いたとされる辞世の句が、死後に発見されている。

[極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし]

と、なんのことか判らないもう一つがある。

[一期の栄 一杯の酒

四十九年 一酔の間

生を知らず また死をしらず

歳月ただこれ 夢中のごとし]

  便所での用便中、下から槍で刺されて死んだ男が、辞世の句が書けるのだろうか。

そんな事もあり、もう一つ歴史を信用出来ずにいる、私である。

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インカ帝国の酒 [チーチャ]

平成20911

  12世紀ごろ、南米アンデス山脈ペルーのクスコ盆地ちかくに住んでいたケチエア族が、他の部族を次々に制圧しながら、あれよあれよという間に一大帝国を築いた。これが、インカ文明である。

インカ帝国の全盛時の国土は、アンデス山脈に沿って北から南へ4,000Kmもあった。ちなみに、その面積は100万㎢で人口は2,000万人だったとの記録がある。帝国の首都は現在のペルーのクスコ周辺で、南はボリビヤ、チリー、アルゼンチンまでにも及び、北はエクアドルの全域とコロンビアの一部にまで支配力が及んでいた。首都クスコから全領土に伸びる総長4000Kmの街道上には、短時間で情報が行き来する伝令方式が確立され、国中のニュースと各地方の特産物が王のもとに届けられたのである。

  インカ帝国は、太陽神を主神とする宇宙崇拝に基づく一大宗教国家である。400年以上つづいた帝国の各帝王たちは、自らを[神の御子(ミコ)]だといってはばからなかった。他のどの文明を見ても例外はなく、宗教と酒は切っても切れない関係にあり、インカ帝国の太陽神を奉る神事にも、酒は不可欠であった。

  インカ帝国内では、上は皇帝から下は農民まで[チーチャ]という酒を口にしていた。農民の場合は当然自家製のものであったろうが、皇帝や高級官僚の飲むものは、神殿の一廓にある[処女の宮殿]の聖処女たちによって造られた。このチーチャという酒はトウモロコシが原料のビールのようなもので、その製法は単純にして簡単なものである。

  ひとつ、ここで、手っ取り早く造ってみよう。

①まず、茹でたトウモロコシを口で噛み、良く唾液と混ぜ合わせ壷に吐きためる。

②適当な量になったら水を加えてかきまわし、弱い火であたためる。

③適当な温度になったものを、ただ放置しておく。

④すぐに醗酵は開始され、24時間ぐらいでビール状のものができる。

⑤ここでグットこらえて、8日間ぐらいじっとして手を出さずにいてから飲むと、待っただけの御褒美として、一番おいしいチーチャに出会いる。

  500年前のチーチャは、アンデスのペルー奥地のケロ地区では、現在でも飲まれている。このケロ地区の住民は、インカ皇帝とその貴族の子孫だといわれており、住民もそのことを充分に意識してか、時々岩山を眺めては物思いに耽る演技などをする。彼らは、あくまでも誇り高く、少しも進歩の無いことにも気付かないで、昔とほとんど変わらない生活をつづけている。そして彼らは、リャーマという羊に似た家畜と一緒に、アンデス山脈の標高4,500mから1,500mの間を季節により移動する生活に満足を覚えている。現在の彼らの口にするチーチャは、インカ帝国時代のそれとは多少異なる。

  物にはついでということもある。こちらの方もつくってみよう。

①屋内に湿らしたワラを敷きつめ、トウモロコシの種をまく。

②トウモロコシは1週間ほどで発芽し、モヤシができ上がる。

③このモヤシを石のマナイタにのせ、手頃な石の塊でキチガイのように忙しく叩き潰し、粉末にする。

④粉になったものを湯の中に入れて2週間くらいすると、規則正しい間隔で気泡が表面に昇り弾けるてくる。ここまで待つと、アルコール7%ぐらいの酒ができる。多少の酸味があるが、何回か口にするごとに馴れてきて、最後には癖になってくる。

  古今アンデスのチーチャ製法の違いは、昔はトウモロコシを口で噛み唾液の中のアミラーゼという酵素で糖化させていたが、現在はモヤシから造った葡萄糖に空中の酵素を付着させ醗酵させたのである。理屈はそうなのだが、その意味となると、私にはトンとわからない。

  インカ帝国の総人口の約10%が皇帝一族を含む貴族階級であった。残る90%が兵役義務を持たされた農民である。一般の家庭で食されるチーチャ造りは、その家の主婦と娘の仕事であった。だが、皇帝の居住する首都クスコの宮殿で消費されるチーチャは、[アクリャ・ワシ(処女の宮殿)]に居住する、全国から選りすぐった美女の唾液により造られた。

  アクリャ・ワシで造られるチーチャは、太陽神に供えられることを第一の目的とした。皇帝が日常たしなむ酒もこれで、帝国内の貴族達を招集しての会議後のお国自慢をする席に出されるのも、このチーチャであった。温和な顔で貴族たちに酒を勧める皇帝の頭脳は、自分に対する貴族たちの不満などを嗅ぎ分けるのに、さぞや忙しかったのではないかと推察できる。

  アクリャ・ワシに居住する[アクヤクーナ]と呼ばれる美女団の主な仕事がチーチャ造りであったが、その他の宮殿内での宗教儀式用の物品の製造もまた、彼女等の仕事であった。

  アクヤクーナはインカ帝国の公用語にまでなっている言葉で、語源は古代ペルーの原住民のケッチャ語で[選ばれた処女]の意味をもつ。彼女たちが選ばれたのちに所定の教育をされる過程は、整然と遂行されるように制度化されていたようだ。

  インカ帝国の全領土の各地方には、数年おきに首都クスコの中央政府から巡察使がまわってくる。地方での巡察使の数多い業務の一つに、10歳前後の少女の中から特に美しく身体の丈夫そうな者を選りすぐり、その地方にある処女の宮殿に送り込む仕事があった。そこに入ることは名誉なこととされ、少女たちも親たちも反対や抵抗するものは皆無であった。現代の日本国でなら、さしずめ宝塚音楽学校への入学か、実力のある芸能プロダクションにスカウトされたようなものなのであろう。

  インカ帝国内の各地域に常設されている処女の宮殿に送り込まれた美少女たちは、それから4年間にわたり、機織、料理、チーチャ造り、行儀作法、神事作法等をみっちり教育される。当時の南米に住む民族の15歳前後の女性は、我が国の20歳ぐらいの身体と落着きを持っていたと思われるので、彼女たちの教育課程が終了するころには、才色兼備な淑やかな女性となっていた。

  美少女たちが4年間の教育により最高の教養と美を兼ね備える聖処女集団となった時点で、第二のフルイにかけられる。地方の処女の宮殿での優等生だけが首都クスコの処女の宮殿[アクリャ・ワシ]に送り込まれる。この太陽の処女の宮殿内定員は必ずしも一定ではなく、常時700人前後に保たれていたという。

ここでのアクヤクーナの仕事は、以下の3つである。

①太陽神に捧げる聖酒チーチャを醸す作業

②儀式用の織物を織る作業

③太陽神にひたすらつかえる

  実は、三つ目の「太陽神につかえる」ことが、インカ帝国の根底を支えていたのだ。

  太陽神につかえることとは、神の御子である皇帝に身も心も投げ出すことでもあった。つまり、[アクリャ・ワシ]は、男子禁制で皇帝のハレムの意味が濃厚であった。これだけなら、我々はインカ皇帝の好色な日々を想像して、なんと不道徳な!なんと横暴な!なんと羨ましいことか!などと、一応は憤慨するところだが、我々の夢想とインカ皇帝の考えには相当な開きがあった。インカ帝国でのアクリャ・ワシ(処女の宮殿)制度の真意は、日々拡大する国土を監督統治する貴族の増産にあったのだ。

  インカ帝国の役人は貴族でなければならなかった。統治する役人の数が広がり続ける国土の面積に追いつかなかった。なぜかというと、貴族の正妻からの息子だけでは、需要を満たさなかったのである。そこで、初代皇帝は、戦功のあった貴族や国家の為に功績を残した貴族に対して、ハレムの中の聖処女を恩賞の一部として、功績の大きさに比例して与えられたのである。そのことは、その後に継承されて制度化されていった。

  電気がまだ発明されていなかったインカ帝国内にはテレビもラジオもなく、夜間営業レストランもスナックバーもなく、市民文化センターでの夜間コンサートもない夜は長かった。そこにもってきて、アンデス山脈の山頂付近の建物の上には、またたく星屑がひしめく銀河が横たわっている。いやがおうにも、若い美女を相手の生産性は効率の良いものであったと想像される。

インカ文明が3000m以上ものアンデス山脈山頂付近に発生したのは、気象的な問題に起因していたという。南米の太平洋岸平野部は降雨量が少ないために農耕は発達しなかった。反対にアンデス山脈の高原地帯には海から吹き上げる風で霧が発生し、この霧雨により地表に水分が蓄えられる。水が蓄えられることにより、高山でありなが作物栽培に適していたのである。アンデス原産の野菜の中には、ジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどがある。平行して高山牧畜なども盛んで、大勢の人口を維持できた。生産性が高いところに、文明は発生する。

  インカ帝国は君主制国家で、王や官僚は世襲制であった。この貴族の考え方は「庶民に知識は必要ない」で、それぞれの役務に必要な部分だけの知識が教えられ、他の情報は最小限に抑えられた。あの、高度な文明の恩恵は、一握りの貴族階級だけに許されたものであった。

  1500年代ごろになると、コロンブスを筆頭とした国営海賊団が海原の果てを目指し、太古から他民族が生活している土地に上陸しては、眼を覆うばかりの狼藉の数々を繰り広げる大航海時代が始まった。スペインのフランシスコ・ピサロが、インカ帝国を蹂躙したのもこの時代である。

  手勢数100人を率いたピサロは、時のインカ王アタワルパを言葉巧みに招きよせ、1533年に後頭部にピストルの弾を3発ほど撃ち込み処刑してしまった。贅沢三昧で足腰の退化したインカ官僚はジャングルの奥に逃げ込み、国土防衛意識の希薄な一般庶民は、さながら野生の七面鳥狩りのように、スペインの無法者集団の射撃の的になってしまった。首都クスコはスペイン軍に簡単に制圧され、インカ帝国は滅亡した。けれども、インカの酒チーチャの製法は現代まで残された。

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家庭で出来る簡単なウィスキー造り

平成2097

  ウィスキー発祥の地はアイルランドで、それより少し遅れた17世紀の初めにスコットランドでも造られるようになったというのが歴史上の定説となっているのだが、本当のところは誰にもわからない。困ったことに、今でもアイルランドとスコットランドの両方が「ウィスキーを最初に造ったのは俺たちだ」といって一歩も譲らない。

  なにに付いてもいえることだが、論争がすでに起っている緊迫した渦中におかれた場合の第三者が心がけなければならないことは、特に双方の間からどうしても逃げることができないときに限り、相手かまわず相槌を打ち続けることであろう。アイルランドとスコットランドのこの論争にしても、どちらが先でも私は一向にかまわない。ただし、見栄っ張りの中国などが「本当は、我が国で造ったものをアイルランドの漂流者が密かに製法を持ち帰り、それを基に自国で生産したのだ」などといった場合だけは、「それは違うだろう!」と大声でいわねばならない。彼の国は、自国内で生産された冷凍餃子に有害物質が含まれていたことが発覚しても、一応は、「輸出先国内に入ってから故意に薬物が添加された」と、ほとんどの責任を他に転嫁してはばからない国である。そのような国が、あの素晴らしいスコッチを造り出すわけがない。彼らが造るのは、せいぜい老酒あたりまでだろう。しかし待てよ。あの老酒だけは、酒として充分にスコッチに拮抗している。この歳になってからは、物事を偏見や先入観で判断してはならないのかもしれない。

  「ウィスキー発祥の地は我がアイルランドだという根拠は、歴然と存在する。1172年に、イングランドのヘンリー2世の軍隊がこの地に上陸したとき、我々の祖先はすでに、大麦を醗酵した酒を蒸留した強烈なやつを飲んでいた」といいはる。アイルランド側のいいぶんは、自分たちの祖先から受け継がれてきた、たぐいまれなる記憶力が基盤となっているように見える。

  「我がスコットランドには、ウィスキー造りが確実になされていたことを示す記録が厳然と存在する」と、スコットランド側は物的証拠をかかげる。

  1494年のスコットランド大蔵省の記録に[修道士ジョン・コーにアクア・ヴィテ(スピリッツ)を造るためモルト(大麦の麦芽)を与えた・・ウンヌン]とある。

  1497年にスコットランド王ジェームス四世がダンディー港(スコットランド中央のテサイド州都の港)に着いたときに、土地の床屋が自家製のウィスキーを王に献上し、その味が気に入り、床屋に7シリング(1シリングはポンドの120)の金を贈る。

  1644年、スコットランド議会はウィスキー購入者に、1パィントに付き2シリングの税を課すと決定。

  以上の2者の論争では、記録としての物的証拠があるためにスコットランドに有利と思われる。しかし、言語学の分野から見るとアイルランド側が有利になってくる。それは、ウィスキーの語源からの論証である。ウィスキーという言葉は、ゲール語(アイルランドのケルト語の古語)の[ウシュク・ベーハー(生命の水)]に起源をもつといわれている。[ウシュク・ベーハー][ウスケボ]と変化し、その後に[ウィスキー]になったといわれているからだ。

  ウィスキー造りの工程は、大きく分けると製麦、糖化、醗酵、蒸留、熟成で、説明書を読む限り至極簡単にウィスキーは製造可能である。始まったらそのことに最低10年間没頭できる根気さへあれば、誰にでもできるように思える。

とりあえず、モルト・ウィスキーを造ってみよう。

①まず、原料である二条大麦の栽培から始めなければならない。春に種をまき、8月から9月に収穫することになる。有り余るお金があり比較的に労働が嫌いな人は、どこかの農家に依頼する契約栽培方式をとればよい。秋に収穫した麦は、最低2ケ月は保管しなければならない。どういうわけか収穫したばかりの麦は、発芽しない。

②つぎに、二条大麦を水に浸して麦芽を作らなければならない。スーパーの野菜売場にある[モヤシ]は大豆の芽であるが、他の穀類も水に浸して温度管理さいすればモヤシはつくれる。必要なものは、二条大麦から発芽させた奴である。

  適当な水の漏らない大き目の容器をみつけて、麦を水に浸す。漬け過ぎるとフヤケてしまうので、浸してはあげて乾燥し、また浸すことを3回ぐらい繰り返す。手抜きの癖のある人は2回ぐらいでもかまわないが、当然発芽率は低くなる。

  麦からは最初に根が出る。その後に芽が出始めるので、綺麗に清掃をしたコンクリート床に広げ、発芽の均等化をはかるために撹拌しなければならない。これは、赤ちゃんのお風呂時のような慎重さが必要である。これは、あくまでも力を抜き、体全体の各部に注意力を集中させての作業となる。

③発芽後13日ぐらいしたら、あらかじめ準備しておいた乾燥容器に入れ、下からピート(泥炭)とコークスの粉をブレンドしたものを燃やして乾燥させる。これは、ほうって置くと麦の実の養分を使い切るまで伸びつづけるので、麦芽の成長を止める意味と、ピートの煙により麦芽を燻し、出来上がったウィスキーの風味をつくるための目的を併せ持つ。

④乾燥した麦芽を粉砕して、準備しておいたステンレス製の容器に入れて熱湯を加えて撹拌した混合液が63度になるように管理する。こうすれば、たぶん酵素の力で澱粉が麦芽糖に分解して糖液ができるはずだ。

⑤分離した糖液を取り出し約20℃ぐらいに冷却したものに、イースト菌(酵母)を加え、別の容器に移し醗酵させる。この醗酵により、アルコール7%前後の醸造酒ができる。ここまでの工程は、ほぼビールの製造工程と同じである。ビールの場合は、喉を心地よく刺激する、あの苦味の成分を加えるためにホップが添加されるだけである。ウィスキー造りに不安を感じたり、蒸留器の準備が間に合わないような時は、自家製ビールに変更するする手もある。お互いに気は楽になる。

⑥さて、できた醸造酒を蒸留するわけであるが、趣味のウィスキー造りといえども、こと蒸留に関しては格別の注意が必要である。ここでは、世界最高級ウィスキーを生産している、スコットランドの蒸留方法を述べ、できるところだけを取り入れて趣味のウィスキー造りをつづけてみたい。

  話は大きくなるが、スコッチ・ウィスキーのメーカー[バランタイン社]の紋章は、蒸留器のポットスチルの絵である。このポットスチルを簡単に説明すると、醗酵した液体を煮詰める釜の上に被せる巨大な管楽器のホルンのような分部をいう。アルコール分は最初に気化するが、その気体を受け止め冷却して液体に戻し、他の容器に排出する装置である。ウィスキー業界では様々な種類のスチルが使用されている。背高のものや低いもの、ずんぐりのものや細い胴体のものとさまざまである。ポットスチルは銅製が基本であるので、さまざまな資料をあつめて設計図を書き上げ、小型のものの製作を街の製缶工場に事前発注しておく必要がある。

  ウィスキーのあの比類ないフレーバー(口に入れたときに感じる香りと風味)が、どこからやってくるかについての疑問は、今だに、未解決といわれている。

  麦が関与して、ピートの量も影響し、水の質と性格も無視できないが、誰もがおおむね認めている要因は、手づくりの銅製スチル(蒸留器)の大きさと形である。

  昔から「ネックが長いほどウィスキーが軽くなる」といわれている。理屈はアルコールを含んだ蒸気に含まれる油脂成分その他が、ネックの上部で凝縮する前に釜本体に戻されるので、より純粋なアルコールが得られるという訳である。

  スコットランドで最も歴史のある[バルブレア蒸留所]はずんぐり型スチルを使っているが、どうして、万人がこよなく愛する良質のモルトができるのだろう。

「ウィスキーの個性は蒸留の純粋さにより決まるのではなく、蒸留液に含まれる天然の不純物によって決まる」というのが答であるが、最初からこれらのものを期待するわけにはいかない。

  作業がここまで進んでしまったので、蒸留された無色透明な酒を一応[ニューポット]と専門用語で呼んでみよう。

⑦ニューポットに加水し、貯蔵熟成のためにアルコール63%前後に調整してオーク樽に詰める。スコッチ・ウィスキーの場合は、中古の樽を使用する場合が多い。ラム酒樽、バーボン樽、シュリー樽等で、樽にしみ込んだ他の酒の力を利用して香りや風味を加えるのが目的なのであろう。趣味のウィスキー造りの場合は、特に贅沢はいわないで、あり合わせのものを使用すればよい。ただし、味噌樽や醤油樽はあまりお勧めはできない。

  スコッチ・ウィスキーの場合は、最低3年貯蔵が義務付けられている。市販されているのは8年以上の貯蔵品が多い。貯蔵期間中に年に3%くらいの自然蒸発があり、それを[天使の分け前]と呼んでいるようだ。くそ真面目な顔をした英国人は、ときどき味なことをいう。

  この後、バッテング(異なる個性の原種と原種を合わせての個性の統一)、ブレンド(他の工程で造られたグレン・ウィスキーと合わせての味の調整)、後熟された後に濾過、瓶詰と工程はつづくが、そこまでの心配は要らないように思える。

  ここまで来ると、あの香りとコクを秘めたウィスキーが、素人の手でできるとは思いがたい。どうせ、この文書を最後まで読み進めた人はいないと思うので、特に、誰かに対して恐縮に感じたり、お詫びの言葉を使用することもないだろう。

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ブランデーグラス内に舞う妖精

平成2092

  ブランデーという言葉の広い意味は[果物を原料とした醸造酒を蒸留した酒]となるが、その語源は[焼いたワイン(ヴァン・ブリュレ)]からで、一般的には葡萄を原料としたワインを蒸留した酒をいう。古くは78世紀のスペインで、ワインを蒸留した強いやつを飲んでいたという形跡がある。

  ブランデーのアルコール分は45%前後であるが、ブランデーグラスに室温のブランデーを少量入れてストレートで嗜むのが一般的である。勿論「生(キ)でやらなければならない」ということはなく、オン・ザ・ロック、水割り、ソーダ割り等でも一向に差し支えない。ただ、ストレートが、ブランデーの香を楽しむには一番の飲みかただというだけである。

  優雅な雰囲気でブランデーを楽しんでいる人々を映画の画面で観たことがあったが、彼等の手にあったのは、極端に細い足の上部に球形に近い胴体を乗せ、その最上部に大きく開いた口をもつグラスであった。この大きなグラスの底に、申し訳がたたないほど少量の琥珀色の液体を沈め、グラス縁に口を近づけると向こう側の縁がかぶさるように鼻に近づき、葡萄畑の豊饒な香りが流れるような設計になっているようである。

  これらの男の仕草は堂に入ったもので、グラスの細い足の部分を中指と薬指ではさみ、グラスの球形の底を下から包み込むように持っている。グラスをゆっくりと鼻先に移動するや一時停止し、鼻の付いている顔のほうを横に2度ほど振り、その香りを楽しんでいる様子だった。イライラしながらなおも見つめつづけていると、グラスから口に移されたほんの数滴の液体を直ぐに飲み込むわけではなく、なにやら口の中のあちこちにゆっくり移動し、充分に温まり、かつ唾液が程よく混入されたものを喉の奥に流し込んだようだっだ。正面に向けている男の瞳はあくまでも理知的で、グラスを支えている5本の指はしなやかで繊細であったことで、このシーンへの反感は極限に達したことが思いだされる。

  フランス南部のボルドー地方やコニャック市周辺のシャラント地方一帯では、シーザーのガリア征服のかなり以前から葡萄の産地として知れ渡っていたが、このローマ人がこの地に来てから本格的なワイン造りが定着したといわれている。

  初めてローマ人がこの地方に来てから千数百年後の13世紀には、この地方のワインはイギリス宮廷に輸出されまでに成長している。どの時代でも旨い話に飛びつく人は多く、葡萄畑を拡張する農家や、他の作物畑に葡萄の苗を植える人が急増する。その結果、17世紀初頭には葡萄生産量が超過剰になってきた。その反動で、ワインの国内の需要は頂点に達し、これ以上の需要を追求すれば、二日酔いのために昼間職場に出る男がいなくなってしまうところまで来た。ワイン業者の頼みのつなの輸出の伸びも停滞したままという最悪の状況に陥り、フランス国内の大量のワインは行き場を失ってしまった。

  時もときの1630年、コニャック市に住む腕の良い内科医が消毒用のアルコールの慢性的不足に腹をたて、台所の隅に無造作に横たわっているワインを蒸留し、不純物の少ないアルコール抽出に成功する。この画期的大発見により、患者の傷の消毒や手術箇所の消毒薬に事かかなくなったばかりか、仕事の終わった彼自身の疲れを癒す分もタップリと残されていた。これがブランデー誕生の秘話である。

  このような行為が現代の日本国で起った場合には薬事法その他の何らかの法律に抵触し、税務署や保健所や、警察と自衛隊のような国家機関が動き出すだろう。日本国家機関は動いても危険が無いと見極めると、とにかく行動は早い。しかし、1630年のフランスではなにも起らず、たまたま仕事前の景気付けにヒッカケタ消毒薬のききめで、切らなくても良い盲腸を一個切落とした程度の些細な失敗で済んだようだ。もともと役に立たない盲腸がなくなっても誰も異議申し立てはしないが、これが悪くも無い子宮や、いたって元気に鼓動している心臓などを無断で摘出されればタダではすまないことを、その当時の医者も充分に知っていたきらいはある。

  話を元に戻し、ワインを蒸留するだけで絶対に腐ることのない酒ができるという発明を当時のワイン業者が喜ばぬはずはなく、蒸留所にむかうオーク製樽を満載した荷車の列は、蓋の閉め忘れた砂糖壷を発見した蟻集団の列のごとく何処までもつづいた。酒の中の新参者ブランデーは1677年には商業ペースで製造されるようになり、オランダ、イギリスへの輸出も年々増えつづけたという。

  大きな外貨を稼ぎ出すブランデーに感激した時のフランス王ルイ14世は、「何人たるを問わず、葡萄酒以外の物質からのスピリット(酒精)製造を禁ずる」と勅命を下した。一見何の変哲も無い言葉も権力者により法文化されると、重々しい鎧をまとい路地裏まで浸透してくる。密造ウイスキー業者などは、自分の商品の値上がりが予想される利点はあるにしても、ギロチン台に押さえつけられ自分の首が胴体から離れて砂利道を転がって行くことを想像したりすれば、とても暗い気持ちになったことが予想された。何はともあれ、ブランデーはこの時、フランス国民栄誉賞を獲得したのだった。

  ブランデーが始めて商品化されたのはフランスのコニャック市周辺のシャラント地方で、この地はフランス南西部のワイン名産地ボルドー地方の北に位置する。

  ボルドーワインが世界一の名声を獲得しているのに比して、コニャック市周辺のワインは酸味が強すぎ、きわめて評判の良くないものであった。だが、ワインとして二流品以下であったものも、それを蒸留してブランデーに生まれ変わったときには、味も香りも天下一品のものとなった。またまたフランス国王は、このコニャック市周辺地域産以外のブランデーをコニャックと呼ぶことを厳しく禁じている。なにしろ、あのヴェルサイユ宮殿を建設するほどの絶大な力を持つ人なので、その他の禁止令を食前食後をとわず発しつづけたという。

  コニャックの原料である葡萄の品種には[ユニ・ブラン]が用いられ、伝統的な銅製の蒸留器[ポットスチル]を使用した単式蒸留を2回行い、アルコール70%程度の精留分を、フランス国内産オーク材樽に最低2年以上熟成させ、その後に水で45%前後に薄めて製品化する。ブランデー独特の色付けには、砂糖や葡萄糖を熱処理して作る[カラメル]を添加する場合が多い。

  ブランデーには、酒蔵に入ってから蔵出しするまでの年数により、確固たる階級序列が存在する。無条件ではないにしても、古ければ古いほど格が上がっていく年功序列制のようなものである。

  どこで造られるブランデーでも、その階級のつけ方はコニャックにならっているようだ。

  階級表示は、

[V(非常に)]

[S(極上)]

[O(古い)]

[P(自然の色が出た)]

[X(特別)]

等と、言葉の頭文字の組み合わせにより表記される。貯蔵期間がごく若いものは星のマークの個数をラベルに表示されるようである。この場合は星ひとつが約1.5年の貯蔵期間に相当し、星3の表示であれば貯蔵期間5年前後ということになる。

  コニャック品質格付表示は、概ね以下の貯蔵年数を表しているようである。

[VO]   10年前後のもので「ヒジョーに古いもの」

[VSO]  15年から20年ものは「コトノホカに古いもので、味もソレナリである」

[VSOP]  25年から30年は「カナリ古く、品質もジョウジョウで水以外の添加物は含まない」

[XO]   40年から45年は「特別に古いもので、保証のしようもない」

[ナポレオン]    65年から100年貯蔵された物に冠される。

[エキストラ]   「特別の」という本来の意味で使用され、一般的に70年以上の物をいう。

    我々が見たり手にしたりするブランデーは、ひとつの樽から抜き取られたモルトが瓶詰されるわけではない。前記の階級により、味や香りの一定化をはかる必要があるために、必ず二つ以上の樽からのモルトをブレンドすることになる。したがって貯蔵年数は必ずしも当てにはできないが、少なくとブレンドする複数の樽の内の一つは、規定の年数に達しているものと信じるしかない。どの工程も一般の人の見ていないところで進められるのだから、なおさらである。信じるしかない。

  1800年代にヨーロッパの大部分を支配したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの悩みは、子供ができないことであった。せっかく世襲皇帝制を定めたのに、かんじんの跡取り息子がいないのでは大変にこまる。

  1811年のある日、ヨーロッパの空に青白く尾を引くハレー彗星が現れた。当時は不吉の前兆とされる彗星の出現の心配をよそに、ナポレオン妃ジョセフィーヌに男子出産というおめでたがおこる。また、この年の葡萄が空前の豊作で、ナポレオンの喜びは何倍にも増幅された。

  以前から彗星の現れた年のワインを[コメット・ワイン]と呼び珍重されてきた。このワインを蒸留したブランデーを[ナポレオン2世誕生]にあやかり、特に[ナポレオン・ブランデー]と呼ぶようになったという。今の世で1811年物のナポレオンとなると、変質的マニアの酒蔵の奥に1本か2本秘蔵されている程度であろう。おそらく、その持ち主は、197年も経過した酒の封印をどのような理由で開けるかで、大いに悩むことは確実だ。現在市販されているナポレオンは、この1811年産とはまったく関係なく、高級ブランデーの便宜的表示法として使用されているにすぎない。

  戦後の日本に初めて入ってきたナポレオンが、たまたま[クルボアジェ社]のナポレオンで黒くくすんだ瓶に詰められていたので、これが唯一のナポレオンだと思いこんでいたのは私だけではなかったようだ。本当は酒造メーカーの数だけ、さまざまな瓶に詰められたナポレオンが存在していることを、つい最近知った。

  フランスにはコニャックと並び賞される[アルマニッャク・ブランデー]がある。フランス南西部のボルドー地方の南に位置するピレネー山脈近くのアルマニャック地方で造られる一定の規格以上のブランデーである。このアルマニッャク地方は石灰質の土壌を持ち、葡萄の品種としては[ユニ・ブラン][フォル・ブランシュ]等が大勢を占めている。

  収穫後に醗酵されたワインは、どういうわけか331日までに連続式蒸留器を用いて1回で蒸留される。それをオーク材の樽で熟成された後に、香りや味の調整のためにブレンドされる。1回の蒸留だけなので、元となるワインの成分のかなりの分部がブランデー内に残され、コニャックより香りが強く味も重いという。コニャックの都会的趣に対比されて「田舎のブランデー」等と呼ばれる場合があるようだ。これは、素朴な味という意味で、決して田舎を見下しているわけではない。

  ブランデーは葡萄が原料となるものばかりではない。フランスにはリンゴが原料の[カルバドス]といブランデーの名品がある。フランス北部ノルマンディの一部をカルバドス地方と呼ぶが、この地方ではリンゴ酒を蒸留した[アップル・ブランデー]の名産地として有名で、他のものと区別して[カルバドス]と呼び特に珍重されている。

  面白いのは、多くのメーカーが、[ポム・プリゾニエール(閉じ込められた林檎)]という商品を出していることである。字のごとく、瓶の口より大きい林檎を、丸ごと瓶内に漬け込まれたブランデーで、春先の小さな林檎果実時期から瓶をかぶせて、瓶の中で林檎を成長させる以外に作りようのないものである。日本には、四角形のメロンを育てたり、切り口が四角形の竹竿を生産したりする人がいるが、奇抜なことを考える人は昔のフランスにもいたようである。このような人々の様々な発想を見聞きするにつけ、この世に生れ来て良かったと心底から思う。そして、鏡に己の姿を映したときに、気付くのが少し遅かったようにも感じるのである。

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酒は神代の昔から

平成20510

  米を原料とする日本酒がいつから造られたかを知るのには、稲作技術がいつごろ日本に入ってきたかを知る必要がある。また、稲作が入る以前の穀物酒の有無も確認する必要がでてくるが、これらのことを知ったり確認したりする必要があるかというと、そんなものどこにもない。

縄文人(前10000年前後~)が野生の葡萄を原料とした酒を飲んでいたと思われるふしがある。当時の出土土器の底に葡萄の種がこびり付いているところから、葡萄酒を飲んでいたと確信した者がいた。なぜかというと、当時の原野に我が物顔で繁茂していた山葡萄を食料にしないはずはなく、土器などに貯蔵した葡萄の実が醗酵するのには、さほどの時間はかからなかったであろう。かび臭い葡萄の醗酵液を最初に口にした古代人は勇気のある人物である。そのかび臭い匂も、慣れてくると魅惑的香りと感じられるようになり、ノドゴシを通る時の感覚、飲んだあとの高揚感などを考えると、古代人が飲酒の習慣性を持つたことが容易に想像できる。稲作が入ってきたのはこのような時期で、縄文末期(前2500年~)の出来事であった。

順序としては、稲作が入ってくる以前に、東南アジアから焼畑農耕が入ってきた。焼畑農耕とは、自然の草木が茂る原野に火を放ち、地表を剥き出しにした後に地表に穀物の種を埋め込み、成長して結実したものを収穫するという原始農耕である。当時の農業は芋類のほかは稗等の雑穀の栽培が主で、その土地の地味が無くなるまで栽培は繰り返され、土が作物を育てる力がなくなると他の土地に移り住む半定住の生活であった。古代の日本の地に焼畑農耕伝播の事実があるのなら、当然、当時の東南アジアに存在した穀類酒[粒酒]が入ってきたはずである。

貯蔵中の雑穀類が、雨水などに浸され自然の酵母と結びつき自然発酵に至ることがあったと想像される。この原始的な酒を[粒酒]とよび、穀物酒の原型といわれている。現在に残る東南アジアの粒酒は麹型で、穀類を粒状で醗酵させ粒状で飲む。飲むというより、箸を使用して食べるのである。粒酒の製造法は蒸した穀物と麹を密閉した容器に入れて糖化をまち、醗酵を始めたら食べごろというわけである。

  通説では、米を原料とした日本での酒の始まりは弥生期からである。ただし、弥生期に酒があったと想像される物証が発掘されただけで、記録としては何も残されてはいない。一方、自民族に都合の良いものだけを選んで、砂糖をまぶしながら記録に残すことに生甲斐を持つ中国では、今から5000年前には穀物を原料とした酒があったと記している。

  酒について、日本の文献に始めて顔を覗かせるのが、またまた[古事記][日本書紀]である。この二つの書物を総称して[記紀]と呼ぶと知ったのはつい最近である。古事記が編纂された時期は712年で、日本書紀が720年だと言われていることも知った。これは、古墳時代末期から6世紀までのあいだにかかれた書物だという。どちらも酒が登場するくだりは、須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する場面である。

  日本神話の最初のくだりには、やたらに神の名前が並べられていてきりがない。神の名や地名が揃いも揃って後代の当て字のようで、これらを正確に発音できるのは神官以外にはいないだろう。それはそれとして、慣れてくるに従って、どこの国の神話もその内容には引きこまれることが多い。特に日本神話の場合、夫婦の神が登場して国造りを初めるあたりから話はおもしろくなってくる。

  イザナギとイザナミの男女の神が高天原(タカマガハラ)に降り、国造りにとりかかった最初の作業は夫婦の交わりをすることだった。日本国土が存在しない有史以前のことで、だれもいたしたことのない行為をしなければならない2神は途方にくれた。

  イザナギとイザナミは建国の使命から事を始めたものの、見当はずれの作業をくり返すだけで体力だけが消耗していった。そのとき、2神が横たわるそばの草むらから1羽のセキレイが急ぎ足で出てきて周囲を歩き始めた。リズミカルに上下に尾を振るセキレイのセクシーな動きを見て、イザナギはハタとイザナミの膝をうった。イザナギのアイデアでめでたく夫婦の和合は成功し、その後はすっかりクセになってしまった。この最初の交合でイザナミは懐妊し、本州を生んだ。神様の妊娠期間は人間より短く数十分で、お腹の空く間を惜しんで生産に励み、沖縄諸島から北方領土の島々まで生み続けた。この中には日韓間でもめている竹島を生んだのもイザナミで、従って、竹島は間違いなく日本の国土である。イザナミは北海道のような大物も生んだが、このおりには、その形状ゆえに難産だった。

  国生みを滞りなくすませたイザナギとイザナミは、その後の日本神話に出てくる主役級の神々の出産にとりかかった。この頃になると2神の行為から堅苦しい義務感等が払拭され、娯楽の要素なども取り入れられた歓喜を交えての生産体制に変化していった。娯楽性が加味された行為は昼も夜もつづけられ、多くの神々を産み落としたが、最後の火ノ神の出産時にイザナミはその産器に大やけどして死んでしまった。

  イザナギとイザナミの子供の中にスサノウノミコトという神がいる。彼は情緒的に不安定な神で、常識とかエチケットとかに縁がなく、絶えず様々な問題を起こす神であった。原因はわからないが、その昔タカマガハラでスサノウノミコトが起こした事件は今でも神々の語りぐさになっている。

  あるとき前触れもなく突然怒り狂ったスサノウノミコトは神々の水田を踏みにじり、もっとも聖なる神殿内にウンコをしたのだ。彼の行動はさらにエスカレートし、生きている馬の皮を剥ぎハタオリの御殿に投げ込んでしまった。

  この狼藉にはアマテラスオオミカミ(天照大神)も切れてしまい、アマノイワト(天岩戸)に閉じこもってしまったので、世の中が真っ暗になった。当時の神々の人口は八百万体でヤオヨロズノ神々と呼ばれていたが、この総会での判決は、原因をつくったスサノウノミコトの髭と両手両足の生爪を特性のペンチで抜きとり、タカマガハラよりの永久追放という政治性の強いものであつた。一方、アマテラスオオミカミを洞窟から引き出さなければ、この世は闇だ。ヤオヨロズノ神々が立案した作戦は以下の通りである。

[良質の砂鉄を精錬して大鏡を造るとともに、聖歌隊と美人ダンサーを選び特訓することから始まった。まず岩戸の前で盛大に焚き火をし、大樽を伏せた上で腰紐だけのダンサーが足を踏み鳴らしてフラメンコを踊った。樽の上での踊は身体に腰紐一本だけの裸で、即興性の強いリズムを踏むたびにオッパイは烈しく上下に揺れ動き、ときどき片足を大きく振り上げたりするものだから、八百万の神も興奮のあまり大声でわめきながらのスタンデングコールが続出するほどであった。

  洞窟の中には「私がいなければ闇夜のはずなのに、何事が起こったのだろう?」と不思議に思ったアマテラスオオミカミがいた。岩戸をチョットダケ開けて見た。岩戸前担当の女神は「あなたが姿を隠したので、別の神が現れたたのです」といい「別の神とは、この神です」と、大鏡をアマテラスオオミカミに向けた。鏡に映る自分の顔をよく見ようと戸を大きく開いたところを待ち構えていた力持ちの神に引きだされ、後ろの戸は固く閉じられてしまった。そして、またもとの明るい世界がもどった]なにか辻褄が合わない部分が多くでてくる物語ではあるが、どこの国の神話も似たりよったりなので、気にするひつようはない。とにかく、めでたい!

  一方、神々の国から永久追放になったスサノウノミコトは、人間界の出雲国に降りた。ここの民衆はヤマタノオロチ(八岐大蛇)に苦しめられていた。スサノウノミコトは住民に酒を造らせ、オロチに飲ませて酔ったところを56個の輪切りにして退治した。以後のスサノウノミコトは、その地の娘を嫁にして幸せに暮したとのことである。とにかく、めでたい!

  ヤマタノオロチ(八岐大蛇)が飲まされた神話上での酒は、[アマタコノミ(衆果)をもって酒八瓶を醸した]と書かれていることから、果物を口で噛んだあとに瓶の中に吐き出して醸造したものと思える。記紀が編纂された時代の酒は、穀物を炊き上げて口の唾液と混ぜてから壷に吐きためて醗酵させたようだ。

  古事記に載っている[酒楽(サケホガイ)の歌]には、以下のように歌われている。

[この御酒(ミキ)を、醸(カ)みけむ人はその鼓(ツズミ)、臼に立てて歌いつつ、醸(カ)みけれかも舞ひつつ、口醸(クチカ)みけるかも]

口に出して読み上げると、気が違ったと思われるような言葉であるが、集団での酒造りのひとこまを表現している。

  中国の[魏志東夷伝]の中では、「酒を造るときに口噛み作業をする役は、汚れなき女性として、処女があてられる」とある。酒は古来から宗教儀式とともに伝承され、最初に出来た酒は神棚に供えられたに違いない。

  それにしても、若い美女の口で噛まれた穀物を醗酵させるのはよい。これが、髪に櫛を入れたことのついぞない口臭のする中年男の口で噛まれたものだったら、飲酒をしたいと思う古代人の数は10分の1にも満たなかったであろう。

この口噛み酒は、麹カビを利用して酒をつくるようになる奈良朝まで続けられる。

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明るい声での乾杯と街裏での一人酒

平成20429

  この人間社会において人並みのお付き合いをしようと考えた場合、酒宴の場に出る機会はかなりの数におよぶ。一日の仕事が終わっての仲間同士の居酒屋での一杯は、さしたる金額を酒食に費やすわけではないが、日曜祭日を除く毎日となるとその回数は膨大なものになる。しかし、これに飽きるということがないから不思議だ。気の合う仲間との語らいは、千金に値する。

同僚、友人との「チョット一杯」とは別の酒宴も大切なお付き合いである。勤務先の新年会、新入社員の歓迎会、退職者の送別会、準退職者である転勤する者の送別会、春の花見、社員旅行先での宴会、たまたま勤務会社の代表取締役に順番が廻ってきての叙勲祝、販売促進期間の打ち上げ、洒落た同僚が主催するホームパーティー、毎年の暮れに声がかかる数回の忘年会、勤務先関係だけでもこの通りである。その他は、卒業した各学校の同窓会、同級会。縁戚関係での冠婚葬祭への出席と、お付合が広く人望が大きい人になると年間休日数より多い人もいる。

  多くの場合、宴会の式次第によると、3番目か4番目に[乾杯の儀式]がある。乾杯の音頭の指名を受けた者が誰に教えられた訳ではないのに、主催者、或いは主賓者と、出席している方々総ての今後の健康と幸運を祈念した形をとり、乾杯となる。その場で指名された者は、親父や先輩や同僚の今までの数限りなき事例があるからか、どの人の場合でも信じらないくらいの透き通る声で、その役目を果たす。

  乾杯の儀式の折、杯を持った右手を肩からまっすぐに伸ばす意味は、西欧の騎士道に起因している。この動作は、「自分の身体の何処にも武器は隠していないので、安心して寛いでくれ」という意味を相手に示すことから始まったといわれている。

  英語の乾杯に当たる言葉「トースト」は17世紀に始めて使われた。当時、酒の風味を整えるために、ワインの中に香料やトーストにしたパンを加える習慣があったらしい。その後の18世紀に、酒を飲む前に誰かの健康を祈る乾杯の儀式が確立されたようである。

  日本での最初の乾杯は、安政元年(1854年)に交わされた日英和親条約協定のあと、その中の通商約款補足のために来日したエンギン伯と幕府の条約委員との会談のときであった。エンギン伯一行と井上信濃守他5人の幕府側条約委員との会談のあと晩餐の席に着く。食事のあとエルギン伯が提案した。

「イギリスでは元首の健康を祝し杯を交わす習慣があるので、ここでもそうしたいのだが・・・」

幕府側は始めての経験なので、ただ黙っていた。そのとき信濃守が立ち上がり「カンパイ!」と叫びグラスの酒を飲み乾して即着席した。彼の唐突な行動により、イギリス側も幕府側も大笑いとなる。このことで重々しい空気は和やかさに変わり、日英入り乱れての会話が弾んだということである。その後「乾杯!」の叫び声は、男どもが酒を飲む席にまたたくまに浸透していった。

乾杯に当たる言葉はどの国にもあり、そしてどの国の男どもも他人の健康を祈るが故に、自分自身の健康を害しているのが実状である。

「チアーズー」は、一般的なアメリカの乾杯に当たるが、イギリス、カナダ、オーストラリア、アイルランド、ナイジェリア、南アメリカらの英語圏での庶民的な乾杯の意で、日本の大衆酒場[養老の滝]とか[八犬伝]とかに当たるイギリスのパブやアメリカのバーなどで、だれかれなしにグラスをブッツケ合うたびに発せられる。その頻度は多く、喧しいくらいだ。

「オコレ・マルナー」アメリカのハワイ州で乾杯の意で使われるもで、ハワイの先住民族の言葉らしい。

「スコール」ノルィー、スウェーデン。

「キャピス」フィンランド。

「プロジット」オーストリア。

「イスイアン」ギリシャ。

「フィーサヘィタック」エジプト。

「レ・ハ・イム」イスライル。

「ムバラック」インド。

「シェレフェ」トルコ。

「タトウ・タトウ」ニュージーランド。

「サルー」スペイン、メキシコ、コスタリカ、アルゼンチン、エクアドル、パラグアイ。

「サンテ」フランス。

「サルーテ」または「チンチン」イタリア。

「アバァートルサンテ」フランス、セネガル、カメールン、チェニジア。

「サウジ」ブラジル。

「プロースト」ベルギー、ドイツ。 *「プロージット」

「チャイヨー」タイ。

「ナ・ズダローヴィエ」ロシア

「カンペイ」中国。

「コンベ」韓国。

「カーンリー」ベトナム。

と続くが、どの国にとっても酒を介しての集まりごとをしようとする場合の反対者は少なく、その談合は直ぐに成立する。発起人が親の敵であろうが一応は酒席に出て酒を酌み交わす。その次の日が、先日申し込まれた決闘の日であっても、酒席を乱すようなことはしなかった。それが男の嗜みである。

  大勢の人が集まっての酒宴とは対照的に、一人静かに飲む酒もある。幾度となく演歌の題材となった悲しい酒、やるせない酒の世界である。男でも女でも永く生き続けると、何もかも投げ出したくなるような出来事に遭遇することが1度や5度はある。

  街裏

私はいまでも

一人きりになってさびしい街裏をたずねてゆく

そこで静かに酒をのむ

誰にも知られないじめじめした小路の奥で

ひとり座ったなりで

野に置かれたように長い時間をおくる

雨のときはぬかるみにかげをおとして

ぬかるみを拾い歩きして

うすぐらく

路次のおくをたずねてゆく

そこで私はがりがりと何かたべている

むりに子供のくちへおしこむような食べものが私に強ひられる

そして酒をのむ

いろいろな人間の心がそこに座っている時みなうきあがってくる

  これは、昭和初期に暗い詩を量産した室生犀星という人の詩である。酒は本来このようにして飲むものかもしれない。そうでないにしろ、じっくりと酒と二人で語り明かすという場をもって、悲しみを乗り越えた時代はあった。それがなくなってから、私のなかに思いやりの精神がうすれてきたように感じられる。

  そして、この豊かに物が溢れる世界では、もはや街裏そのものが消滅してしまっている。

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ワインの簡単な造りかたと一気飲み[ワイン考 其の弐]

平成20420

ワインがどのように造られるのかなどと考えたこともないが、ワインを知るためにはその醸造法を知るのが早道である。ワインの造りかたを一口でいいば、収穫した葡萄の実をすりつぶし酵母を加え、醗酵したものを樽に移し熟成させる。これだけである。

  詳しく話せば永くなる。葡萄畑からの収穫により開始されるワイン醸造の工程は、一般的には以下の通りである。

①葡萄畑での葡萄の実の収穫

収穫の時期は国により異なるが、概ね9月から11月にかけてとなる。フランスやイタリアのワイン用葡萄の木は日本の葡萄棚のようなものではなく、人間の身長ほどの葡萄株という表現があっているように思う。むかし観たフランス映画の中では、収穫期には近隣の国や自国の地方からの季節労働者が雇われ、葡萄房を腰に下げた篭に摘み採る役目と、それを大篭で集めて運搬する役目とに分かれて作業を進める。葡萄房を摘み取る役目は女性が多く、それを大篭で集荷する役目は屈強の若者の役目となる。映画のなかでは必ず娘と若者とのロマンスに発展するか、娘と雇い主との間にあやまちがおき、子供を宿した娘が自国に帰り出産、数年後にその子が父親に会いに来たりして思いがけないストリーに発展するのである。

②破砕(ハサイ)処理工程

醸造所に運ばれた葡萄の実は、破砕機にかけられ潰される。この工程では葡萄房の軸の部分が取り除かれる。

③醗酵工程

赤ワインは、潰してできた果汁を果皮と一緒に醗酵タンクに移し、白ワインの場合は潰した果汁をさらに圧搾機にかけ、果皮を取り除いた果汁だけを醗酵タンクに移す。

葡萄の果汁は酵母の働きで醗酵し、含まれている糖分がアルコールと炭酸ガスに分解される。この醗酵期間は約10日~20日間ぐらいである。赤ワインの場合、醗酵の終ったあとに絞り機にかけられ果皮やその他の不純物が取り除かれ、生前が葡萄であったことが想像もできない形で肥料や家畜の飼料にまわされる。ワインになるのは、片一方の絞られた液体のほうである。

④熟成工程

   醗酵の終った若いワインは樽やタンクに移され熟成される。この熟成期間中にワイン本来の熟成香が生まれ、ワインの味にも深みが増すことになる。醗酵樽や醗酵タンクの底には澱が沈殿する。時々沈殿した澱の部分を取り除き、この後の貯蔵中に味が濁らないようにしなければならない。この澱は醗酵の進行中に形成される不要なもので、成分はタンニン、酒石、役目の終った酵母の死骸などである。熟成樽に移された後には何度も何度も澱引きがなされ、そのたびに新しい樽に移しかえられる。

⑤ビン熟工程

  樽で熟成されたワインはビン詰めされたあとコルクの栓で塞がれ、暗く静かで涼しい貯蔵庫に寝かされる。ビンの中でも熟成は続けられ、味は人間の好む方向に変化し続ける。人間の好まない方向に変化することもあるが、この場合を腐敗と呼び忌み嫌われる。

  ワインを含む醸造酒は、醗酵がどんどん進んでいくと最後は酢になってしまう。むかしむかしのワインは、熱い夏には2日ぐらいで酢になってしまったという。それを防ぐための思考錯誤から、現在のワインの醸造技術と熟成技術、そして保存法が確立されたのであろう。

ずっと昔の人が考えた醗酵を停止させる方法は次の通りである。

   (イ)深い穴倉を作り、外気温を遮断することで低温を保ち、醗酵を抑えた。

(ロ)ワインのビンを水や氷で冷やし、醗酵を抑えた。

(ハ)ワインに熱を加え、醗酵菌を殺菌することで解消した。

(ニ)ワイン醗酵途中でブランデーを混入させ、アルコール分を高めことにより醗酵菌の働きを停止させた。

(ホ)悪くなりそうなワインを総て飲み干し、その心配から開放された。

  現在では、温度管理できる貯蔵庫が市販されている。それでも管理面に気を許すと、ワインはいつでも泥水に変身してしまうことは、昔も今も変わらない。

  ワインボトルの底は、土饅頭型に中心が高くなっている。このボトルの上げ底形状とコルク栓の発明は、同じ17世紀の末の産物である。特にコルク栓の発明は画期的で、これ以前のボトルワインは古くなれば腐敗してしまい、年代物の酒に熟成することなどできなかった。コルク栓の役目は、通気性のあるコルクの特性を生かし、ボトルを斜めに倒すことによりボトル内ワインを呼吸させるところにある。コルク栓とボトル内のワインの間に空間ができると酸化してしまうので、横のものを縦にしなければすまない性格の人がワイン貯蔵庫に近づかないように監視人を置く必要があった。

  コルク栓の特性によりボトルに詰められたワインは、ボトル内でも熟成は進行している。熟成中のワインは絶えず不純物の澱を作り続け、底に沈殿していく。当初のボトルは日本酒の四合ビンと同じく底が平だった。平らな底に沈殿した澱は、短距離の移動でも全体に散らばりワインの味を台無しにしてしまう。味にうるさい人が考え出したのが土饅頭型の上げ底である。沈んでいった澱は上げ底スロープを滑り落ち底の周辺に集結し、ボトルを多少揺らしたからといってワインの上方に舞い上がることがなくなった。

  現代の日本国内では、ワインは家庭の奥深くまで浸透してきている。若い御夫婦がワインの銘柄を選ぶのに永い時間をかけて話合っている姿を、酒の専門店などで見かける。遠目にもワイン通と見受けられるが、通は通として認めてさしあげますから、どうか、買い物をする間は握り合った手を離してもらいたい。見ている当方の顔が赤くなってしまうからである。

  現代の溢れるばかりの贅沢な物質に囲まれている日本国では、世界中のどんな商品でも手にはいらないものはない。世界中のワインを手にすることができるばかりか、望むなら、拳銃や自動小銃、核弾頭搭載のミサイルまで手にはいるという。私は、本物のトカレフが大人の玩具屋で売られているという話を聞いたことがある。まあ、これらの例外的商品の場合、価格の上で折り合いがつけば密かに持ってみたいような気はする。

  すでに優雅な私生活の中でワインを楽しんでおられる方は別として、今まではビールや日本酒やチュウハイを楽しんできた人の中にも突然、僭越にもワインに興味をもたれるような人もいないとも限らない。これらの人を対象に、ワインの取り扱いに付き知っていることと、知らない分部を知っているかのように述べると以下のようになる。ただし、私自身は黴臭いワインなど大嫌いなので、かなり、説得力には欠ける。

①ワインボトルの扱いで最も大切な点は、高価なワインを大量に購入した場合のボトルの管理と保存法である。保存にはボトルのコルク栓に内部のワインが触る角度に傾けられる棚を作りそこに並べ、なにより、その中身を口にするのを一定期間待つゆとりを持てる人間になることである。しかし、四合入ワインが500円から800円のものである場合は特に難しく考えずに、気を楽にして渦巻状の栓抜きを突きたてても、そのマナーに異論を唱える者はいない。

②酒は光と熱を嫌うが、ワインは特にその傾向が強い。特にお客様に自慢したいクラスのワインを保存するなら、今すぐスコップを手に持ち地下室を増設しなくてはならない。地下室は薄暗いだけでは目的を果たさないから、自然温度管理ができない場合はエアコンの設備も必要になる。カッコーを付けるのには、それなりの出費を覚悟しなければならない。

③ワインのボトルを強く揺らせると、底に沈殿していた微少の澱を全体に拡散させ、豊穣が売り物の味をだいなしにする。ワインの輸入業者は、船便輸入したワインを、陸揚げ後4ケ月から6ケ月ぐらいの間、寝かせてから市場に出すという。彼らは、客からお金を戴いて商品を渡すのだから、そのくらいの注意義務が課せられて当然である。

  これまた古い話で恐縮なのだが、アメリカが物の道理をわきまえない女性議員どもの言葉がもとで、禁酒法時代に突入したのは1920年(大正9年)であった。この禁酒法は、アルコール飲料の製造・販売・運搬・輸出入を禁止した法律で、密造・密売などが続出したため1933年に廃止された有史上最大の悪法である。

  法律で酒を飲むことを禁止する噂を聞いたアメリカ国民は、何を考えただろう。彼らは、われさきにと走りだした。行き先はドラックストア・デパート・セブンイレブンで、酒の売っているところは酒愛好家であふれた。それぞれの客の眼は、消防自動車のボデーカラーのように充血し、長蛇の列に割り込み体列を乱した小学校の教頭先生に、教会の牧師先生が腕まくりで抗議しているほどのありさまであった。

  禁酒法が発布されてしばらくすると、一般家庭の洋服箪笥奥の酒も底をついてくる。[飲む酒がなくなったから飲まないでいる]ことができないのが万国共通の酒愛好家である。当然、闇で酒を売る店に足を運ぶ。闇値は高い。金の無い大部分の人は、酒を自分で造れないかと考えるのは当然の成り行きであった。かくてウイスキーを造るための道具が家庭内に持ち込まれ、風呂場のような空間を占領していった。この趣味の酒造りは隆盛を極め、家庭用蒸留器を公然と売りまくり財を築いた人もいたが、何時の世でも要領の悪い奴は臭い飯を食った。

  大都会のもぐり酒場の数は雪達磨のように増えていき、禁酒法が布かれる前の数倍にもなっていた。この、もぐり酒場に搬入される酒の量は膨大なもので、国内の密造酒だけでは到底まにあわなかった。また、非衛生な環境で造られる国内の密造酒に飽き足らない上流階級の呑兵衛用には国外の高級な酒を密輸する以外にはなく、イタリヤ系アメリカンのアル・カポネやラッキー・ルチアノの活躍した業界が急成長を遂げることになる。彼らは、考え付く限りのアイデアを屈指して国外からの酒を運び入れ、酒と麻薬と売春の3点セットを売ることにより、国家予算を凌駕するほどの利益を上げることになった。

  当時のアメリカの世情はきわめて不安定な時期で、失業率は高く、エンゲル係数は200%に跳ね上がるほどであった。このような世情の中では、良い服を着て光る靴を履いて生きる華やかさに憧れる若者たちが少なくはなかった。一大成長産業のマフィア組織への就職もまた、公平で厳正な関門をくぐりぬけなければならない。この採用基準の主なものは*目上の者への絶対服従*会社の金をネコババしない*自分の稼ぎから所定の金額を上役へ上納できる実力*上役の奥方に手を出さない。という、至極一般的なものであった。ただし、その違反者への罰則の点に多少の違いが見られた。一般社会では職場から追放されるだけですむのだが、彼らの業界では生物界から追放されるのである。

禁酒法時代の初頭、アメリカという巨大市場を失ったフランスのワイン業者は大混乱に陥った。市場崩壊の対策のために深く深く考えたが決定的な解決策は無く、フランス国内やアメリカ以外の国への需要の拡大を図ることに全力を投入した。

考え出されたのは[ワインのグレードアップキャンペーン]であった。このキャンペーンの趣旨は、一般大衆が日常的な飲みものとして無意識に飲まれていたワインを伝統的文化として見直そうというのもので、それまではワインの専門家や一部の通人で語られていたワインに関する奥深い情報をより広い層に提供しようというものである。起死回生のキャンペーンは大成功をおさめ、世界中のレストランや家庭の食卓でワインに関する知識をひけらかすワインスノブを創り上げた。彼らは、急にワインの銘柄や製造年代にこだわり、ワインのマナーなどにもうるさいくらいの流儀を主張するのを待たなければならないで、酒の入ったグラスを手に持っているものの、最初の一杯が胃袋の底に到達するのにかなりの時間を要するよいうになった。例えは悪いが、蛇の生殺し状態であるわけだ。

  どのような酒の種類にも伝統的な飲みかたはあるが、そのこだわりのために、その酒について説明されるのには我慢がならない。また、自意識過剰人間に、無言でのマナーの強制をされたくもない。ワインも、たかが酒なのである。酒は、放屁などをしながら気楽にやるのが一番うまい。

  古くからワインは、食事の味を引き立てる役目を担ってきたといわれるが、大きな皿にほんの少し料理を載せて目の前に置かれるフランス料理には閉口する。周囲の人が食べ始めたので急いで一口に飲み込んで、また次の料理を延々と待つ苦痛。もう食べるものを出さないのだと諦めかけた頃に、また大きな皿に少しの料理が出てくる。ナメているとしか思われないウエーターの慇懃無礼がまかり通るフラン料理での会食。その料理の持ち味を最高に味わうためにワインを飲むというが、あんな物が料理であるものか。2日分の10時と3時のオヤツを、これ以上遅くはならない限界で並べるだけではないか。あんな場所に二度と行くものか。

  ワインには赤と白とロゼとシャンペンの4種類があることを、結婚披露宴の引き出物を点検していて、紙袋の底にあった小短冊を見て知った。また、それにはワインがどのような料理に向いているか等が記載されていた。赤は肉料理、白は魚料理、ロゼは中間でどちらにも合うと書かれているが、主に手持ちの赤と白が切れた場合に、しかたなしに飲むものらしい。

  飲むワインの温度も通の人たちの話題に上るものらしい。ものの本によると、シャンペンと辛口の白ワインは5度~8度の間だという。また、甘口の白ワインやロゼは2度~5度が良いという。赤ワインは10度~12度と高い温度だが、これはワインの香やコクを楽しむためらしい。私の食卓に名のあるシャトー物やビンテージ物のワインが置かれることはまずないので温度にこだわること自体が滑稽だと思っている。しかし目安としては、サウナ風呂に入っていなければの話だが、赤ワインは今いる室温と同じぐらいがよい。白ワインとロゼは、飲む1時間ぐらい前に冷蔵庫に入れたものがよいとされている。

  赤ワインはその筋の人が高級だと認めたものほど高い温度で飲まれているようだ。ブルゴーニュ物が15度~17度に対し、ボルドーのシャトー物は16~18度で飲まれるようだが、勿論私には縁のない話である。ドダイ、こんな話し自体を真面目に考えているわけではない。

  もし、ワイン通をめざそうとするなら、夕闇迫る頃にタクシーでレストランを目指しフランス料理やイタリヤ料理にたびたび足を運ばなければならない。食事の間は口元に笑みを絶やさず周囲の話を聞き、自分が発言する前にはナプキンで優雅に口元を拭き、つばの飛ばないように小声で話さなければならないだろう。そして、フォークとナイフを床に落とさないように食物を口に運んだ後に赤い液体を少し口に含み、真剣な顔に戻り口のなかのワインを飲み干し、手に持ったグラスに眼を移し和やかな目に戻る事を繰り返さなければならない。その道の通になるのには、これらのことを自分の一般的なライフスタイル内に取り込まなければならないのだ。

  ワインなど飲まなくても日本には清酒があり、世界水準に達したビールがあるではないか。また、国産ウィスキーだってテレビのコマーシャルを見た限りではそれぞれのメーカーが世界一だといっている。こんなにうまい酒が溢れている日本国で、なんでワインを飲まなければならないのだろう。

  1977年(昭和52年)ロンドンの競売で1806年(皇帝ナポレオン1世即位後2年後)ものの[シャトー・ラフイット・ロットシールド]14,442ドルで落札された記録がある。正確に日本円に換算する術は持ち合わせていないが、単純に平成175月半ばのレートの108円で計算しても1,559,736円である。日本国の江戸時代のレートは知らないが、現在の価値観に照らせば1ドル240円が妥当だろういう人もいるので、倍以上の金額になる。この一年後の1978年アメリカのアトランタでの競売では、1864年ものラフイットが18,000ドルで落札され、記録が更新された。何が悲しくて4合ビン葡萄液にこのような値段が付くのか、西洋人の感性には大きな疑問が持たれるところだ。

  かなり昔になるがジョウジ・チャキリスとナタリ・ウット主演のミュージカル[ウェスト・サイド物語]が一斉を風靡したことがある。かなり昔のことではあるが、このウェスト・サイド物語に使われる歌の作曲をした人が[レナード・S・バーンスタイン]という音楽家である。一芸に秀でるものは、他の分野でも特異な才能を発揮することは歴史が証明している。バーンスタインのエッセーにシャトー・ラフィットについてかかれたものがある。ニューヨーク・フィルハーモニーの桂冠指揮者だったことのあるバーンスタインが、14年前に手に入れた1961年もののシャトー・ラフイット・ロットシールド1ケースについての文章である。

  ワイン業者が「飲み頃になるまで当店で預かる」という約束でバーンスタインは、ラフイット1ケース96ドルで手に入れ、そのまま、その酒蔵に預けた。そのことを忘れた頃のある日、ワイン業者から1通の手紙が舞い込む。手紙の内容は「当店で御預かりしている貴殿のワインは、当店で責任の持ちかねる価格となっております。即刻お引取りくださいますようお願い致します」で、預けた当時のワイン業者の主人は昨年亡くなり、今はその息子が主人の座にあった。14年の年月は、ラフイット1ケースを1,200ドルの酒にしてしまったのである。12本で1,200ドルなら、1100ドル。ワイングラス1杯が10ドル。ほんの一口で79セント。いつもの調子のクイットイッパイが1ドル98セントにつく計算となる。

  バーンスタインは、困り果てた末に「先代の御主人が私のワインを預かるときに、飲み頃になるまで預かるということだった。私のワインは、まだ飲み頃には達していないとの結論に達した。したがって、貴殿の父親と私との約束である飲み頃になるまでは、貴殿が預かる義務があるのではないか」と、ワイン業者二世に対し穏やかな申し入れをする。この申し入れを酒蔵の新しい主人は受け入れてくれたが、バーンスタインは、その後のワイン相場の値上がりに一喜一憂するはめになった。

この内容の文書をバーンスタインが書いたのは1973年である。当然のこととして今のレートと異なるので、日本円に換算した金額には差があるだろうが、カビ臭い葡萄液にそんな値段をつけるのは狂気の沙汰であろう。この世は、昔かからズッーと、気の違った人の集まりではなかったのかと、疑うことが時々ある。

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