不動産

簡略は爽やかさにつうずる

平成191231

競売にかけられたその家は、90年以上前に建てられた農家住宅であった。家の持主は3年前に亡くなった。彼の死亡時の年齢は80歳前半だった。

彼は、大正の世に大農家の総領として生れた。その家の広大な田畑はたくさんの小作人が耕し、何千町歩の山林は数人の山番が管理していた。子守の背中で幼年期を過ごし、幼い彼が足を踏み鳴らして泣けば、手に入らぬ物はなかった。

昭和16年末に戦争が始まり、昭和20年に終わった。青年に達した彼を待っていたのは、その後の農地改革の嵐。田畑のほとんどは小作人にゆずり渡された。少しの農地と、広大な山林がその家に残された。

彼は、専業農家として懸命に働き、2人の子供を最高学府まで進ませた。趣味の政治が発展し、本人自身が選挙に乗り出し土地を売り続けながら戦い続けた。往年の彼は村長を何期も務めた古強者だった。

当時の彼の趣味は車だった。納屋の前には農業用の軽トラがあり、納屋の奥には外国製の愛車が23本の藁屑をボンネットの上にのせて休んでいた。当時の彼は、気に入った車をとりあえず購入し、あきれば返却すればすむという考えだった。営業マンは、まだ残されている土地の価値を知り、声がかかれば嬉々として納車に応じた。

  晩年、売る土地も底をつき、自宅とその底地を担保に高金利の金を借りた。借りた金を返さなければ、やがて差押を受ける。持病を抱えていた彼は、予定していたようにある日亡くなった。

  街に家を持つ2人の息子が顔を出し、簡単な葬儀を執り行なった。香典の束の中には、死者の死を悼む香典と共に、生前の借金の肩代わりをした者の請求書が入っていたものが12通あった。それらは息子達への報告のための文書であり、返済を強要する文書ではなかった。

息子も奥様も相続を放棄した。最後まで一緒だった奥様は、彼の位牌だけを胸に息子の家に入った。

無人となったその家には、ごみの山が残された。ごみも含めた家屋敷は、国の機関が処分した。一円も残らず、一円も不足せず、すっきりとした収支が整った。

生涯に通し、彼は他人の下で仕事をしたことがなかった。

亡くなった彼の家の中で、事件が起きたわけではない。

家族の誰かが、貧苦に耐えられず自らの命を絶ったわけでもない。

子供には、それに合った教育の機会を与え、自立する術が与えられた。

そして彼は、親から頂戴した物と自分で蓄えた少しの物を全部使い切った。

誰からも憎まれもせず、誰からも軽蔑もされず、彼は3年前に天に昇った。

彼のための会葬者は、372人であった。

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