七月七日のほしのまばたき(故 K・M氏に)
平成20年3月16日
福島県南部の西白河郡のある村に名物村長がいる。I村の面積は35.40K㎡で、平成20年2月1日現在の人口は6,712人であるが、この人口は少しずつ増加しているような雰囲気をただよわせている村である。
平成19年(2007年)12月22日のニュースで、この村の[H・K村長が12月16日に同村の自宅から歩き始めて、東京銀座までを4日間で歩き通した]と報じられた。H・K村長のこの長距離散歩の決行の理由が記事の主題となっていた。それは、実質公債費比率30%と財政難に苦しむ同村再建の決意としての行為だという。
200Kmに及ぶ徒歩での踏破は「厳しい立場に置かれた自身への自覚として」とのことだが、H・K村長の本当の思いは、危機状態を脱却する為に真剣に取り組んでいることを村民に知って戴くことで、村民一人一人の結束をはかることにあったのだろう。そして、近隣市町村の方々にも全国の方々にも、I村の素晴らしさを知っていただくことにあったように思われる。
H・K村長(61歳)の歩行ペースは、19日、20日、21日の3日間は平均60Km、22日の午後に銀座到着している。これは、ヤラセ番組と異なり、補助者なしの完全一人歩きであった。コースはかなり違うが、以前(1689年)東京方面から歩いた松尾芭蕉の奥の細道行脚では、2,400Kmに150日間をかけている。単純な計算では、芭蕉の一日の歩行は16Kmとなる。芭蕉はH・K村長より問題意識に欠けていたもようで、方々の景色を前にしては長々とした一服ばかりで、旅の途中に知人宅があれば2週間も泊り込む始末であった。これらのミチクサのロスタイムを差し引くと、芭蕉も一日50Kmもの距離を歩いた日もあったようだ。当時と現在との道路整備状況を考慮すると、ほぼ同じ体力であるように思える。違いは、当時の芭蕉よりH・K村長は10歳年上であることだ。
総務省という御役所には、年度ごとの全国市町村の決算書集計という仕事があるらしい。各自治体の歳入出の差から翌年度への繰越金を差し引いた実質収支を算出するとの事だが、具体的にどういう事かとなると、私には到底理解し難い分野だ。地方自治体も一般家庭と同じく、入る金よりも出る金が多ければ家計簿は赤字となるということはわかる。この赤字部分が、都道府県が5%、市町村が20%を超えた場合には財政再建団体の適用を受け、総務省コントロール下に置かれことになるという。ということは、地方自治体独自の事業ができないばかりか、役場事務で使う鉛筆1本買うにも「握りにキャップをつなぎ、根本まで使い切るように!」などとの制約を受けることになるらしい。
そもそもこの村が苦境に立たされた原因は、前村長時代に遡ったところにあった。同村ではバブル初期の1984(昭和59年)に400区画の宅地分譲を手がけて大成功を収めた経緯があるが、それに味をしめた前村長が平成5年にまたもやニュータウン構想を打ち立てた。よせばよいものを20億の造成費を投入し着工、その工事は完成したがバブルも崩壊していた。日本中の開発を得意としていた民間企業の中で特に読みの浅い者は軒並み倒産に追い込まれたが、地方自治体が倒産することはまれで、どうにもならい状況に陥っただけであった。それは、財布の中に一銭の金もない状態で、その代わりに金庫の中には借用書の山がある状態で次の村政担当者に渡されることになる。
2000年(平成12年)からの村政担当H・K村長が財政内容を調査すると、上記の他に誘致のあてが外れた工業団地の造成、地方自治法に抵触する法外な借金などを合計すると68億円の借金があることが判明したという。これでは、総務省の管理下におかれる財政再建団体に該当するばかりか、なお2個分強の余りがでる。村議会とH・K村長は総務省の管理下に入るのを拒否し、自主的財政再建計画を立てた。再建案は、この状況を5ケ年で立て直すというもので、「県からの借入れで6割を返済、TN台ニュータウンの全区画完売を目指し全職員販売員として取り組む」とのH・K村長の発表後に即スタートした。
I村役場の建物年齢は不詳である。かなりのあばら家で、玄関のドアが一回で開けばラッキーな人で、その日に宝くじを買うことを職員から勧められる。廊下は反り返ったムク板のウグイス張りで、一歩ごとに違った鳥が鳴く。職員はワンフロアに机を集めて事務に懸命であるが、旧式の床板の水平に欠陥があるのか机と机の合わせ目に段差が生じている。段差のための隙間にボールペンでも落ちたのか「小さな音がときどき聞こえたりする」と、村民の一人が気の毒そうに話していた。
村長室はかろうじてあるにはある。それは、小会議室の隅に机を置くだけの部屋で、過っては白い漆喰壁だったあたりに歴代村長の写真が、無造作に並べられている。「村舎を整備するのは一番後にします。まず、人様に借りた金を返すのが先決だと思っています」が、村議会の方針だという。
都会から来た御客様がこの役場に入ると、眼を輝かせるという。まさに子供の頃にお爺ちゃんと一緒に行った生れ故郷の役場が冷凍保存されていたと錯覚するらしい。帰るときには例外なく、役場の玄関をバックに写真を撮っていく。それを友人に見せて、自慢したいのだ。風の強い日に倒壊の心配のない近代的村舎建築の予定は、いまのところ皆無である。この頃大流行の近隣市町村との合併の話もあったが「苦しいから合併したと思われるのは住民のプライドを傷つける。財政再建を果たし、その問題は改めて考える」との、これまた村議会の方針であった。
I村が造成販売した分譲地[TN台ニュータウン]は開発面積16ヘクタール、総区画数197区画で、売り出し当初から苦戦を強いられていた。そこに突如として始まったのが、麦藁帽子をかぶり腰に手ぬぐいブラ下げたH・K村長の元での、休日返上の役場職員の販売営業活動である。
[クレヨンしんちゃん]のごとく純粋で偽りの影もない瞳を持つH・K村長の発案には、だれものが同調した。地元住民の手弁当での販売活動補助協力。先に入村した住民の自宅をオープンハウスとして開放しての先住者の暮らしぶり紹介という官民一体の活動が展開された。
年間を通して、関東圏の一般客を無料バスでお連れしての[稲刈り体験]、[芋堀大会]、[芋煮会]、[夏祭りの開催]等のイベントの中心にあるのが、お客様とTN台ニュータウンの住人が自主参加して建てたログハウスの販売事務所兼集会所である。これは、同村内に住むログハウスメーカの代表者K・M氏の好意による材料支給と、ログ材の加工指導により完成したものであると聞く。この小さなログハウスは、地域住民とTN台ニュータウンを訪れる御客様の安らぎの場として、いまも愛され続けている。
K・M氏は、建築業と不動産業との広範囲な活動を展開している企業の代表取締役で、広告のエキスパート、イベントのエキスパート、販促のエキスパートの親しい友人に声をかけて、H・K村長の応援者となりTN台ニュータウン販売促進のための協力を惜しまなかった人物である。毎土曜と日曜は、TN台ニュータウンの現地でのボランティアに始終するかたわら、購入済御客様や移住希望者を集めての村民主催の各種イベントの開催には積極的に参加してホスト役をこなしていた。特に各種イベントの立案と準備と実行には非凡なセンスを持ち、その静かで力強い人柄に引かれて同村内に住み着いた人は多い。
K・M氏は、平成19年5月のなかばに入院した。様々の組織の役員を兼ねての企業経営の激務に病魔が忍び寄り、氏の身体を蝕んでいたのだった。K・M氏は平成19年7月7日の夕暮れに、満天に横たわる銀河のほとりに光る星の一つとなった。50億年前に誕生した銀河系のなかで、たった53歳の小さな星がまたたき始めたのだった。
2ケ月後のH・K村長のブログ記事に、I村在住彫刻家M氏と連れだってレストラン[銀河のほとり]で食事をしたことが載っていた。錆びついた鉄くずの中から力強い魂と優しく暖かいい思いやりに満ちた作品をうみつづけてきたM氏は、亡くなったK・M氏の人生の師であり親友でもあった。そして、私人としてのH・K村長もまた、同村の未来を夢見る村民の一人で、K・M氏とは志を同じくする友だったのであろう。
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