音楽

平成20年6月5日列車内でのジャズ

平成2068

  平成2065AM8:54に郡山駅から東北新幹線登列車に乗り、身分相応の自由席に座った。上野の東京国立博物館での薬師寺展に展示される日光菩薩像と月光菩薩像の拝観が目的の10余年ぶりの上京である。日頃から仏教や仏像に興味があるわけではなく、この両像が揃って薬師寺外に出るのは初めての事と、重ねて、この平成20325日からの東京展示が、3日後の68日までで閉展となるとのことで、大勢の人が押し寄せている映像が流されたことで野次馬根性に火が付いた結果の行動であった。最も、火が付いたのは私の連れ合いの方であったが、特に反対する理由も無かったので後ろについて行った。

  最近列車に乗る機会はまったくなかったので、豪華な座席を始めて見る。そこに座り眼の前のマガジンラックにあった[トランヴィール086]という雑誌を手にした。表紙に書かれた[東北、ジャズに酔う旅]の文字が眼に入ったからである。ページをめくると、スナップ用にサックスをくわえた渡辺貞夫氏の幸せそうな姿があった。渡辺貞夫氏は[ナベサダ]の愛称を持つ今年75歳になるアルト・サックス奏者の現役ジャズメンで、50代から80代の人間なら音楽に興味がない人でも記憶の底に名前と顔が残されている人物で、割と人見知りする私でも知っていた。

  [トランヴィール086]内の記事は、渡辺貞夫氏と岩手県一関市にあるジャズ喫茶[ベイシー]店主の菅原正二氏との対談がメーンで、即興性と意外性を持つジャズ演奏に関する臨場感溢れるトーク内容は、ジャズのことなどトンとわからない私でさえ引き込まれてしまった。「むかし大都市のいたるところにあった[ジャズ喫茶]は店を閉じ、今や、遠い東北の地に深くその根を張り生きつづけている多くの個性豊かな店が残っているのが救いである」との記述に眼を注がれたからである。

  「春は東北ツアーの季節」と75歳のアルト・サックス奏者渡辺貞夫氏がいえば、「貞夫さんが来なければ東北の桜は開かない」と菅原正二氏が話しを継ぐ。

岩手県一関市にあるジャズ喫茶[ベイシー]は、若き日にドラムを叩いていた菅原正二氏の店である。店名[ベイシー]は、アーチスト時代の氏と親交があった今は亡きジャズピアニスト[カウント・ベイシー]の名が由来である。

カウント・ベイシーは明治37年(1904)に生まれ、昭和59年(198479歳で亡くなったアメリカのジャズピアニストで、同時代のグレン・ミラー、ベニー・グッドマン等と共にスウィングジャズのビックバンド奏者として広く知られたジャズ界の巨星である。

カウント・ベイシーをはじめ、古き良き時代のジャズプレーヤの演奏になる涎の垂れそうな菅原氏所蔵レコードは50,000枚以上、店に出ているものだけで10,000枚とのことである。菅原氏特製スピーカーから出る音を聞くために、全国の音キチガイとジャズファンが新幹線、在来線、自家用車、場合によっては徒歩で[ベイシー]をめざして来る。そして、この店の居心地を愛する一流ジャズ奏者が、定期的に訪れては思い思いのライブを開き自分でも楽しむための場所だという。

  渡辺貞夫氏のベイシーでのステージは、自分の立つ位置の間際まで聴衆を詰めさせる。それが、小さな会場での聴衆と一体感を持つジャズの演奏にはベストな条件だからだという。目の前に厳しい顔をした人がいれば、なんとか自分たちの雰囲気を持ち、その人の好い顔を引き出してやりたいのがジャズ奏者だともいい切る。

  菅原氏は「聴衆に居心地のいい場所を提供し、ミュージシャンそれぞれのメッセージを伝える場としての店をいつも心がけている」という。氏は日常生活でもジャズ的な状況を求め、タイミングを重視するという。いいタイミングで自分の前にお茶が出て、自分の前においしいものが出てきて気持ちが盛り上がっていくという状況を大切にしたいともいう。日常生活がタイミングよく進行すると、ジャズをやったような爽快感に浸れるからだ。この延長を、御客様の前に提供するのが自分の役目だといった。

  渡辺氏は「仕事をしてくれるな」とメンバーにいうそうだ。仕事をしている音ってつまらない。ハプニングがあり、それに反応し合うのが面白いのだ。何かが起きなければジャズをやる意味が無い。また、聴衆も努力は必要だともいう。好きな曲が始まったら、自然に微笑むとか、少し感性が旺盛な人なら眼を輝かせるとかを自然に表せれば張り合いが出てくる。ジャズの場合、演奏が良かったら曲の途中でも拍手をして良い。いい音を出した時の拍手は、ミュージシャンをどこまでも乗せる効果がある。しかし、手拍子は困る。音楽に手拍子をすることは非常に難しいことで、ビシッと決まる手拍子を打てる人は、いまだかっていなかった。手拍子はその道の一流のプレーヤーの楽器演奏に匹敵する音感が必要なのだ。

演奏する場所に馴れると、その場所の特性を知ることになるので、音が良くなっていく。時間の過ぎるのが早いのでミュージシャンは音楽をハプニングしていくと、渡辺氏は続ける。氏の笑顔が、雑誌の中から私に向けられるような快感が涌く。

渡辺貞夫は昭和8年(1933)栃木県宇都宮市に生まれ、地元の工業高校を卒業後に東京に出て、クラブの従業員の職につく。当時の楽しみは米軍クラブ[フォーリナス]の表に立ち、屋内からのジャズ演奏を聴くことであった。その後に自室に飛んで帰り、タオルを詰めたサックスを取り出し、さっき聞いたフレーズを試みる毎日であった。

  昭和28年(195320歳の折に秋吉敏子率いる[コージー・カルテット]に入り、2年後にジャズピアノの先駆者秋吉がアメリカに渡ると22歳でバンドリーダーとなる。以後、[モダンジャズの父]といわれた天才的アルト・サックス奏者[チャーリー・パーカー]を原点としたサックス奏法は現在まで変わらず、それは、老若男女を交えた多くのファンを持つ。

  菅原氏は、ライブの問合せの電話で「何時から、何時までですか?」と聞かれると「あなた次第です!」と答えるそうである。「あなたがおいでになった時に始まり、あなたがお帰りになるときまで続きます」と云いたかったのだと思った。

  およそ音楽に縁の無い絶対音感ならぬ絶対音痴の持主の私でも、はるばる列車に揺られて[ベイシー]という喫茶店を訪ねたくなるような記事内容であった。

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ねむの木に寄り添う貴婦人たち

平成20320

  ねむの木という植物の葉は、[披針形の小葉多数から成る大形の羽状複葉である]と辞典に載っている。わかり易く云うと[平たく細長く先のほうがとがり元のほうがやや広い複数の葉が連なり、一つの羽根のように扇状に広がっている葉]ということになる。これでもわからないのなら[落語家が高座に持ち込む扇子の紙の部分を全部むしり取った後の竹製骨格のような形の葉]となる。これでもイメージが固まらないというのなら、もう、これ以上考えるには及ばない。このことは、それほど重要なことはないからである。

ねむの木はマメ科の落葉高木で庭木などにも植栽されているが、その説明に手間隙かかる葉ッパが、夜間になると扇子を閉じたようにひとかたまりになる就眠運動をする。つまり、[おネムりになる木]ということからの命名だと思う。

  私が20歳半ばのころに[ねむの木の子守歌]という歌を聴いた記憶がある。誰が歌ったかは思いだせなけれど、うっすらと、その歌詞のところどころが残っていた。暇を持て余していたので、調べてみたら以下のような詩だった。

[ねむの木の子守歌]

ねんねの ねむのき ねむりのき

そっとゆすった そのえだに

とおいむかしの よのしらべ

ねんねの ねむのき こもりうた

うすくれないの はなのさく

ねむのこかげで ふときいた

ちいさなささやき ねむのこえ

ねんね ねんねと うたってた

ふるさとのよの ねむのきは

きょうもうたって いるでしょか

あのひのよるの ささやきを

ねむのき ねむのき こもりうた

  美智子皇后殿下が聖心女子院髙等科のおりに書かれた詩[ねむの木の子守歌]に、秋篠宮殿下の御誕生を御祝いして山本正美氏の手で曲がつけられた。秋篠宮殿下がお生まれになられたのは昭和40年である。浩宮皇太子殿下はその折に5歳になられている。そして現在、皇太子殿下の第一子愛子様は6歳になられた。[ねむの木の子守歌]は、このお年頃にある世界中の子供の寝顔に一番似合う詩だと思った。天皇家という特殊な世界の中にも親子、孫と祖父母の情に変わりないものと思える。様々な制約があるがゆえに、それらの感情はより強いものになっているはずである。どうぞ、私たちに御遠慮なさらずに、もっともっと御家族での御交流を多く持たれればよいと誰もが思っている。

  [ねむの木の子守歌]は、昭和412月レコード化された。この折に美智子皇后殿下は、この歌詞著作権を日本肢体不自由児協会に対し贈られた。

  曲を付けられた山本正美女史は、オーケストラ指揮者の山本直純氏の奥様である。この山本直純氏は、[オーケストラがやって来た]というテレビ番組で、浴衣に下駄履き姿でタクトを振り、洒落のわからぬNHKのお偉方の感情を逆撫でした男であった。氏が出演したチョコレートコマーシャルの「大きいことは良いことだ!」は一世を風靡すると共に、若年層糖尿病患者を量産する役目をも果たした。

  1968年(昭和43年)に肢体不自由児の社会福祉施設[ねむの木学園]が、静岡県御前崎市に発足した。園長、理事長を兼務しているのが、宮城まり子女史である。

  宮城まり子女史は語る。「手足にハンディキャップを持ち、精神に遅れを持つ子供が、小学校、中学校に通うことが免除される就学猶予という法の元に学校に行かなくてもいい事を知りました。小中学校は義務教育ではないのですか。国の義務が放棄されていることは許せないことだと思いました。そして、そのような子供たちが自由に学べる家をつくろうと思ったのです」

この義務感旺盛な宮城まり子女史は、歌手であり、女優であり、映画監督であり、事業家でもある。

  彼女は1927年(昭和2年)に母子家庭に生まれ、少女時代に母と弟と死別している。

  1950年(昭和25年―23歳)[恋はお荷物]でレコードデビューしたがさっぱり売れず、1953年(昭和28年―26歳)にうたった[毒けしや、いらんかネ]がヒットし [宮城まり子]の名が知れ渡る。そして、1955年(昭和30年―28歳)での[ガード下の靴磨き]では爆発的な大ヒットを飛ばした。

  映画界に転進した宮城まり子女史は、1958年(昭和33年―31歳)に[12月のあいつ]で芸術祭賞、1959年(昭和39年―37歳)のときの[宮城まり子自叙伝]ではテアトロン賞を受賞した。

1968年(昭和43年―41歳)に肢体不自由児の社会福祉施設[ねむの木学園]を発足する。この時期を前後してタレント業は休眠状態に入る。

1974年(昭和49年―47歳)記録映画[ねむの木の詩]を製作、監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。

  宮城まり子女史は、数々の賞を受賞したから注目されたのではない。自分の人生を投げ打っての奉仕の精神があるから一種の憬れが醸成され、その精神事業に参加できる喜びを得るために名を明かすことのない大勢の応援者があるのだと思った。

宮城まり子女史は昭和30年代当時すでに、[ガード下の靴磨き]という歌声で苦境にあった人々を泥沼の世界から救い出している。もの悲しすぎる応援歌ではあったが「苦しいのは自分だけではない。頑張らなくちゃ!」と、聞く者を奮い立たせてくれる歌であった。彼女の両方の頬っぺたの大きい笑窪と共に、中学生であった自分をほろ苦く思い出した。

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コンドルはどこをめざす (再)

平成20228

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  1964年(昭和39年)ごろのアメリカの地で人気の高かった [サイモンとガーファンクル]という 二人組の歌手がいた。彼らのヒット曲の中にあったのが[エル コンドル パサ(コンドルが飛んで行く)]である。旧いペール民謡を編曲したものに独自の歌詞をつけたもので、インカ帝国の末裔であるインディオの心情を「一羽のコンドルが夕陽にてらされる岩山に飛んで行く」という言葉のなかに謳いあげたものである。

  体長1mをゆうに超えるコンドルが両翼を広げると3mにもなる。現存の鳥類ではダチョウの次に大きい鳥で、南米アンデスの高山に棲息する。コンドルが食料としているのは動物の死骸で、腹腔の中に首を入れ内臓を引き出すためか頭部に毛が生えていない。大空を堂々と飛翔している姿とは裏腹に、行儀の悪い食事をするのがコンドルなのである。

コンドルはそれぞれ単独行動により獲物を捜すが、動物の死骸などを見付けると上空で大きな円を描いて飛び、遠くの仲間に獲物の位置を知らせる。そして、獲物は仲間を集めてから皆で分け合う。子育ては夫婦共同で、子供が巣立つ頃になると仲間の子供を集めての飛行訓練係りのオスが出現する。コンドルは巨体を空中に浮かすのに両翼の力だけでは持ち上げることができず、垂直に切り立った岩山に発生する上昇気流を利用して空中に舞い上がる。コンドルがインカの帝国の神聖な神として崇められていたのは、あの悠々と大空を飛翔する姿に憧れを持たれてのことではないだろうか。その姿は、憬れに値する優雅なものだ。

  インカ帝国の興ったのは1200年ごろであった。南米大陸の太平洋岸のほぼ全域を制したケチエア族も当初は一部族に過ぎなかったが、対抗する他部族との戦に勝利を収めたことをきっかけにまたたく間に一大帝国を築いてしまった。そして、首都クスコから全領土に伸びる総長4000Kmに及ぶ街道が建設されていた。この道路上には驚くほど早い伝令方式が確立され、国中のニュースと各地方の特産物が王のもとに届けられたのである。

  ペルーのインカ文明にしろ、メキシコのマヤ文明にしろ、なぜあんな3000m以上もの山頂付近に発生したのか不思議に思っていたが、それは気象的な問題に起因していたという。南米の太平洋岸平野部には降雨量が少ないために農耕には適さない。それとは反対にアンデス山脈の高原地帯は、海から吹き上げる風で霧が発生する。この霧雨のために地表に水分が蓄えられて作物栽培に適していたのである。アンデス原産の野菜の中にはジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどがある。農耕と平行してのリャマ、アルパカによる高山牧畜などもあり、大勢の人口を維持できた。人が集まり、継続的な生活ができるところに文明は興るようである。

  インカ帝国は君主制国家で、王や官僚は世襲制であった。これらの貴族は「庶民に知識は必要ない」という考えで、それぞれの役務に必要な部分だけの知識が教えられ、それ以上の情報を得ることを禁止されていた。あのように高度な文明の恩恵は、一握りの貴族階級だけに許されたものであった。

  1500年代ごろには、コロンブスのようなそれぞれの国営海賊団が多数海に漕ぎ出し、太古から他民族が生活している土地に上陸しては勝手に新大陸発見などをした大航海時代が始まる。野心満々のフランシスコ・ピサロというスペイン人が、黄金郷の噂高いインカ帝国を目指したのもこの時代である。手勢数百人を率いたピサロは、インカ王のアタワルパを言葉巧みに騙した末に1533年に処刑してしまった。贅沢になれ足腰が退化したインカ官僚は一目散にジャングルの奥に逃げ込み、国土を守るという意識の薄い一般庶民はスペイン兵士の射撃の的になる以外にどうすることもできなかった。かくて首都クスコはスペイン軍の無血入城という結果となり、有事における危機管理の甘さが露呈した。スペイン国営海賊のピサロは、あっという間にインカ帝国の金銀財宝を奪いつくすことにより帝国滅亡に追い込んだ男である。その後ピサロは、戦利品の分配をめぐる仲間内での争いがもとで、後頭部を打ち抜かれて暗殺されてしまった。1980年代のバブル経済下での、あらゆる土地を売りつくした日本国内不動産業者のように、それぞれの強国が、やりたい放題のことをやりとおしたのが世界史の真実である。

  1970年前後だったと思うが、宝塚歌劇団出身人気歌手の越路吹雪の歌をよく聴いた。シャンソンを独自の歌唱法で聞かせてくれる彼女は、世の男性ばかりか、自分を上流階層だと信じて疑わないおばさん連中にまで強い支持を受けていた。宝塚歌劇団を同時退団した岩谷時子という友を得ての彼女の活動は多忙なもので、コンサート、ミュージカル舞台、テレビ、ラジオ、映画に大活躍であった。岩谷時子は天性の詩人で、越路吹雪の唄う歌の作詞と外国製の歌詞翻訳をうけもつ傍ら、誰にもできない越路吹雪の親友という役割をも果たした人である。

  越路吹雪が唄う岩谷時子の翻訳によるコンドルは飛んで行くの歌詞は、37年たった今でも鮮明に憶えている。

    カタツムリよりスズメが、いいなー

もしも、なれるものなら

    釘よりもハンマーが、いいなー

もしも、なれるものなら

    遠い国に行きたい

船で行きたい

    人はみな土に縛られて

なくのだ

悲しさに

  越路吹雪は昭和55117日に亡くなった。面長な顔一杯の笑みを人々の胸に残して、別の世界に旅立った。

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映画「第三の男」とチター演奏

平成20114

  先日、郡山市に住む知人が、中央図書館3階の視聴覚センタ-で映画[第三の男]を見てきたといった。私も図書館に出向くことがあるが、[視聴覚センタ-]とは耳や眼の不自由な方々の訓練施設だとばかり思っていた。実際には、学校教育および社会教育における視聴覚教育振興のための拠点施設だそうだ。これだけでは意味がわからないので「その心は?」と問うと、「ホールや教室があり、市民が勉強の一環として様々な資料(教材)を観たり触ったりできるほか、演劇活動の舞台提供、演劇、ショー、映画の鑑賞等もできる場所だ」とのこと。市民映画会利用者のリクエストによる[世界の名作シリーズ第一弾]と銘打ち、平成20110日に[第三の男]の上映となったらしい。

  この郡山市在住の知人への無遠慮な質問による無知を大いに恥ずべきところだが、私はあまり気にしてはいない。この知人は、私が住む住居に以前から在住している私の配偶者でもあるので、私の無知さ加減はとっくの昔にばれているからだ。

  映画[第三の男]は、イギリスの作家グレアム・グリーンの原作をイギリスのアカデミー監督賞受賞のキャロル・リードが演出したスリラーである。主演はジョセフ・コットンで、重要な主役の一人として名優オーソン・ウェルズが物語の中心に位置している。そして、イギリス将校として渋いトレヴァー・ハワード他の芸達者が脇をかためている。

  第二次大戦後のオーストリア首都ウィーンは、勝利した連合軍側の力関係から米英仏ソの4分割統治下にあった。大戦の傷跡が何処にも見えるウィーンに、アメリカの売れない作家ホリーが下り立つ。ウィーンに住む友人のハリーに依頼されての訪問であったが、ハリーはすでに交通事故死していた。その死を不審に思ったホリーは、生前のハリーの身辺の調査をはじめる。親友のハリーは、闇薬品を不正に扱う悪人として官憲に追われていたことを知る。そして、その事故処理をした者が二人のはずが、事故現場には3人の人間がいたとの目撃者が現れる。つまり、第三の男がいたことを知る。調査を続ける内に死んだはずのハリーが姿をあらわす。官憲の眼を欺くための偽装工作だと知るホリーは、自首することをさとすが、また闇の世界へ戻っていくハリー。やがて官憲に追い詰められて死んでいったハリーの2度目の葬儀がなされる。葬儀に立ち会ったホリーは、死んだ親友の恋人を慰めようと墓地の外で待つが、眼もくれずに一人遠ざかる後姿を、ただ見送るだけだった。

  主演の[ジョゼフ・コットン]は、1905年から1994年(平成6年)まで生きたアメリカ人俳優である。当初演劇関係のジャーナリストだったが、俳優を志して1930年ブロードウェイデビュー、そこでオーソン・ウェルズの劇団に参加し、ウェルズ監督[市民ケーン]で映画デビュー。以来、シャルル・ポワイエ、イングリッド・バーグマン主演[ガス燈]、ジェニファー・ジョーンズ、グレゴリー・ペック主演[白昼の決闘]他の多くのハリウッド作品に出演する。

  1915年から1985年(昭和60年)まで生きた[オーソン・ウェルズ]は万人が認める天才である。ウィスコンシン州に育った子供時代の彼は、はやくも、詩、漫画、演劇に才能を発揮している。イリノイ州の自由な校風の学校に入ったが、肥満児の彼はいじめの対象になった。数人のガキ大将からいじめを受けた彼はトイレに駆け込み、赤ペンキで顔を塗り込め、大怪我を装いよろめきながら姿を現す。ガキ大将連中は蒼白な顔で大慌てして、以後は彼をいじめる者はなくなった。このころから構内での演劇活動では、おもにシェークスピア劇の主役を演じ続けた。

  16歳(1931年)でアイルランドの有名な劇場の脇役で舞台デビューした彼は、3年後の19歳にはアメリカに戻りラジオドラマのディレクターとなっている。その後に女優で社交界の花形バージニアと結婚する。

  1936年世界恐慌後の不況の中で、アメリカ政府発案の演劇人救済と大衆への演劇供給を目的とした連邦劇場計画では、21歳のウェルズがニューヨーク市ハーレム地区の俳優、スタッフ集団の演出家として赴任し、[シェークスピアのマクベス]の舞台を19世紀初頭ハイチの王宮に移して演出する。舞台批評家や演劇通にはかなりの中傷を受けたが、公演は大成功となる。

  19381030日に放送したラジオドラマ[火星人来襲]は、イギリスのSF作家ハーバード・ジョージ・ウェルズの小説[宇宙戦争]の翻訳劇だが、舞台を当時のアメリカに置きかえた臨時ニュースの形で始め、その後をウェルズが演じる目撃者による回想を、ドキュメンタリー形式で放送された。このウェルズの迫真の演技を、本物のニュースと間違えた視聴者が大パニックを引き起こした。

  映画[第三の男]のストリー進行の各場面で、周囲の雰囲気、人物の心理の陰や陽を絶妙に表現しているのが、ハープを単純化したようなチターという楽器で奏でる [ハリー・ライムのテーマ]という曲である。時には大きな期待感を軽快に、時には絶望の深淵を物悲しく、チター奏者のアントーン・カラスは表現した。

  30本の伴奏用の弦と6本前後の旋律用の弦と共鳴部分を持つ箱型のチターという楽器は、16世紀にスイスあたりで作られたという。その後に、ドイツ、イタリア、オーストリアに広がり形も進化していった。

  アントーン・カラスは、1906年(明治39年)から1985年(昭和60年)まで生きたオ-ストリアのチター奏者であり作曲家でもある。彼は12歳頃からチターの演奏を始め、15歳の時には居酒屋でのチター演奏家として自活していた。第二次大戦の前後を通して、酒場でのチター演奏の薄給により妻と3人の子供を養っていたという。1948年(昭和23年)ウィーンの酒場で演奏中に映画監督キャロル・リードの眼に触れ、[第三の男]の音楽担当に抜擢された。映画のヒットに伴い[ハリーライムのテーマ]も世界中に広がり、「この映画の主演者はこの音楽だ」などもいわれ、作曲者アントーン・カラスは英国王室で演奏した。そしてローマ教皇の前でも演奏をする。

細かいことではあるが、英国皇室とバチカンはアントーン・カラスを我が膝元に招きよせてまで、なぜ、第三の男のテーマ曲を演奏させたのか。なぜ、自分でレコードを買ってそれを鑑賞しなかったのか。英国皇室にもバチカンにもある程度の敬意を持っているつもりだが、その二者が飛びぬけて偉い集団だと思っているわけではない。こと芸術に関しては誰もが平等でありたいものだ。私にはこの三者のどことも利害関係はないが、ふとこのように思った。

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ビング・クロスビーとホワイト・クリスマス

平成19123

今年もクリスマスまで、あと3週間と迫った。街のいたるところからクリスマスソングが流れ、いたるところに小さな電球がチカチカト瞬いている。成人以後の20年ぐらいは、酒を飲む理由の一つとなる日ではあったが、イエス・キリストの誕生日を特に意識したことはない。けれども、親族にクリスチャン一家がいる関係であろうか、キリスト教に関わる人々とごく短いお話をさせて戴くことはある。その人達の会話の端々に、社会全般にむけられる奥の深い思いやりのようなものを感じたのは、一度や二度ではなかったように思える。

クリスマスキャロルの名曲[聖しこの夜]を知らない人は少ない。[東の国より]も多くの人に口ずさまれている。この聖歌は、東の国から来た二人の博士が、星に導かれてキリストが生まれた厩に来て、救い主の誕生を祝う内容だったと思う。そして[諸人こぞりて]の、キリスト誕生を祝う人々の力強い喜びの曲が、その後のクリスマスを祝う曲の原点となったのでは、などと考える。とは申せ、生来の知ったかぶりからの発想で、別に根拠があるわけでもなんでもない。

クリスマスソングのなかにも知名度のたかい曲は多い。[赤鼻のトナカイ][サンタが街にやってくる]などを聞くと、なぜか心がおどってくる。周囲にだれも居なければ、ステップを踏み靴底でリズムを取りたいところだ。それらとは異なり、静かに天空から流れるような[ホワイト・クリスマス]には、心を含む身体そのものが洗われるような思いがする。[ホワイト・クリスマス]といいば、なんといっても[ビング・クロスビー]であろう。

ビング・クロスビーは1901年にワシントン州で生まれ、1930年以降1950年代にかけて爆発的な人気のあったエンターテイナーである。彼は1930[キングオブ・ジャズ]で、コーラス歌手として映画デビューし、1944年の[わが道を行く]ではアカデミー主演男優賞に輝いている。この年あたりから、ボブ・ホープとの掛け合い漫才風の映画[珍道中シリーズ]等に出演し、そのことごとくをヒットさせた。彼が「私は歌い手ではない。語り手なのだ」というように、静かに、力を入れないで自然に発声する優しい低音による歌唱法は、その後に続くフランク・シナトラ、ディーン・マーティンらに影響を及ぼしたといわれる。

1964年シナトラ一家の映画[七人の愚連隊]に招かれた61歳のビング・クロスビーは、働き盛りのフランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デーヴィスJr、ピーター・ローフォード、ピーター・フォークら総てを喰ってしまった。

映画[ホワイト・クリスマス]の主題歌[ホワイト・クリスマス]が、クロスビーの永遠の持歌となったが、当時のこの映画の筋書きは以下の通りである。

1944年、人気歌手ボブ(ビング・クロスビー)、芸人フィル(ダニー・ケイ)の所属する陸軍第151部隊は前線でクリスマスを迎えるが、みんなが尊敬する部隊長が転任と決まっていたので寂しいものとなった。やがて戦争が終り除隊したボブとフィルは舞台で成功を収めるが、さらにチィームを強化しようと、ナイトクラブに出演中のベテー(ローズマリー・クルーニー)とジュデー(ブェラ・エレン)をスキーにさそった。二人をチームに引き込もうと思う魂胆からである。

一行がのり込んだバーモント州のスキー場には雪がなく、宿泊予定のガラ空きホテルのオーナーが以前の部隊長だった。部隊長のためにホテルでショーを計画、ボブに呼び集められた芸人が集まってきた。以前の部隊長には内緒で、テレビから旧第151舞台の将兵にホテルに来るよう呼びかけた。クリスマスの当日、軍服姿の部下達が部隊長と対面する。おりから降り出した雪の中にホワイト・クリスマスショーの幕はあげられた。二組の男女が抱き合って、ハッピーインドとなるのがミュージカルのセオリー通りであったが、理屈はともかく、幸せな気分にひたれるハッピーインドの物語がよい。悲劇は、自分が主人公の実生活のなかで進行しているのだから、他人が作った悲劇にお金と時間をかけて観る必要はないのである。

  ビロードの声と共に、ビング・クロスビーは1977年にこの世を去った。たった76歳での早すぎる旅立ちであった。

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鰊(ニシン)と石狩挽歌

平成191121

何年前になるかテレビのドキュメンタリー番組[ニシンのわく海]を観たことがおもいだされる。カナダの入り江に押し寄せる画面一杯のニシンの群れが、まさに海中に出現した銀河のようだったからだ。

2万年前には一面氷河に覆われていたカナダの地は、氷河の巨大な重量の移動による力で地表が剥ぎ取られ、複雑な大小の入江が形成されている。ニシンは、早春のある日、産卵のために大挙してこの地に押し寄せてくる。その数10億余匹。子孫を残すために集結するニシンをまちかまえているトド、アシカ、そして獰猛な人間ども。大空には、大小の肉食鳥類が群れをなし旋廻している。これらのそれぞれの天敵とニシンとの死闘が、いま始まるのだ。

  現代カナダでのニシン漁は、大きく二つの方法にわけられる。刺網(ギルネット)方式は大きなヘラ状の網がニシンの群れに割り込み、ニシンをすくい上げる漁法である。巻網(セイン)方式はニシンの群れを巻き込むように取り込む漁法である。この二つの漁法にも一長一短があり、前者は体型が均一したニシンを捕獲することに適すが、収穫量を伸ばすことはできない。また、後者は大量の収穫をのぞめるが、ニシンの大きさが不均一となる。

  カナダでのニシン収穫のほとんどは、その体内にあるカズノコを日本への輸出用とする目的で成り立っているように感じられる。カナダの5年前(02年)のニシンの漁獲は約2.9万トンで、約4.1千トンのカズノコが生産されている。

  カナダで漁獲されたニシンは、まず原卵が採取される。このカズノコが日本へ輸入されまでの工程は、概ね以下のような道をたどる。

1、 カナダ政府がフィッシャ一マン(漁師)に漁獲割を当て、漁の時期を指定する。

2、フィッシャ一マンがカナダ政府にライセンス料を支払い、漁をして漁獲量を報告する。

3、フィッシャ一マンは、カナダ国内のパッカー(加工業者)へニシンを売る。

4、パッカーは、ニシンの体内から原卵を作り日本国北海道の留萌加工場に送る。そこで加工された原卵が我々の眼にするカズノコとなり、個々の家庭の食卓、全国の居酒屋のカウンターに載せられる。

  ニシンはアイヌ語で[カド]という。カドの卵はカドの子、これが転じて[カズノコ]となったらしい。多少、コジ付けの感があるが、特に気にすることもないだろう。

  日本国のニシン漁の歴史をさかのぼれば、日本国原住民のアイヌ民族が始めたことは疑う余地はない。しかし、記録となると江戸時代始めからのものしか残されていない。北海道を蝦夷地とよび幕府が松前藩を興し統治したことにより、奥地へ奥地へと追いやられたアイヌ民族の生活は悲惨なものとなったが、そのことはニシンの話の合間に語るべきことではないとおもう。

時代は一挙にさがった明治期の北海道に、[一網千両]と呼ばれたニシン漁大旋風が巻き起こった。一網で10トンのニシンの売値はさておき、最盛期には100万トンの漁獲量だったとのことで、網元の手に入る収入は、約カナリの金額であったとおもわれる。その証拠に、各地の網元の建てる[ニシン御殿]の建築費は、明治時代の金で15万円だったといわれる。現在の貨幣価値に換算する術をもたないが、同時代に建造された[帝国ホテル]の建築費が15万円であったというから、なおさら解りにくくなってきた。

  時代が一挙にさがる昭和29年以降は、ニシンの姿が北海道の沿岸から姿を消す。原因はいろいろ取りざたされるが、突き詰めれば人間どもの自分勝手な様々な所業に集約されるはずだ。

  1975年(昭和50年)石狩挽歌なる歌が大流行となる。なかにし礼作詞、浜圭介作曲、北原ミレイ歌のものが、つい先ごろまでは、居酒屋で歌われるカラオケ曲目のベストテンに入っていた。近頃は、あんな騒々しいカラオケそのものに興味を持つ者もいないので、音痴の私は助かっている。

[石狩挽歌]

ゴメ(ウミネコ)が鳴くから ニシンが来ると

赤いつっぽ(筒袖=綿入れ半纏)の ヤン衆(東北地方からの出稼ぎ漁師)がさわぐ

雪に埋もれた 番屋の隅で

わたしゃ 夜通し 飯を炊く

あれからニシンは どこへ行ったやら

破れた網は 問い刺し網か

今じゃ 浜辺で オンボロロ オンボロボロロー

沖を通は 笠戸丸(かさとまる)

わたしゃ涙で にしん曇りの空をみる

燃えろ篝火 朝里の浜(小樽市にある)に

海は銀色 ニシンの色よ

ソーラン節に 頬染めながら

わたしゃ大漁の網を曳く

あれからニシンは どこへ行ったやら

オタモイ岬(石狩湾内にある)の ニシン御殿も

今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロ

かわらぬものは 古代文字

わたしゃ涙で 娘盛りの 夢を見る

  この歌詞は、暗く、寂しく、ただやるせないだけで、将来への希望のかけらもみあたらない。職場の上役に仕事上のミスを執拗に責められた若者が、底なしの孤独の渕へ漕ぎ出すのには、もってこいの良い歌だと思う。

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旅姿三人男と次郎長

平成191117

  むかしディック・ミネという歌手がいた。明治41年(1908)生まれというから、手帳の最後に付いている年齢早見表から、まもなく削除される年代である。昭和9年(1934)に[ダイナ]でデビューしたジャズ歌手で、その後たて続けにヒット曲をだし、平成3年(1991610日他界するまでの83年間の生涯を通し、レーコードに収められた曲は1,000曲を超える。旅姿三人男も戦前に出された彼の持歌の一つである。

  ディック・ミネがヒットを飛ばした旅姿三人男の歌謡曲に登場する3人の男は、清水次郎長の子分の大政、小政、森の石松で、この三人三様の人物を通し男の心意気を歌ったものである。発売当時の重苦しい時代の中で、この歌が持てはやされたのは云うまでもない。

  粋な子分を大勢持つ清水次郎長親分は実在の人物で、1820年(文政3年)に今の清水市に生まれ、太く短く生きることを目標に18歳でヤクザになった男である。25歳のとき彼が仕切った組み同士の喧嘩の仲裁でのあざやかな手際が、この渡世人業界の隅々まで広まることとなった。噂はうわさを呼び、次郎長の門を潜る喰詰め者が多くなり、その中で、ヤクザ業界で通用するセンスを持つものだけが子分の列に加わっていった。この業界でのセンスとは、上の者の命令への絶対服従、喧嘩には業界の威信をかけて臨む、博打の負けは脅して取り戻す、弱い者に喰いついてトコトン搾り取れ、というようなヤクザ業界マニュアルをいつでも徹底できることを指す。街道一の大親分になった全盛時の子分は数え切れないが、中でも次郎長が心を許したのが清水28人衆であった。

  大政、小政、増川仙右エ門、大瀬の半五郎、法印の大五郎、追分の三五郎、桶屋の吉五郎、大野の鶴吉、問屋場の大熊、お相撲の常、三保の松五郎、伊達の五郎、小松村の七五郎、関東の丑五郎、田中の敬次郎、辻の勝五郎、四日市の敬太郎、舞阪の富五郎、寺津の勘三郎、國定の金五郎、吉良の勘藏、伊勢の鳥羽熊、清水の岡吉、興津の盛之助、小川の勝五郎、由比の松五郎、吉良の仁吉、そして森の石松の28人である。

  小政の本名は山本政五郎という。5尺(150Cm)ちょっとの身体に3尺(90cm)の長脇差を腰にし、眼にもとまらぬ居合の名人で[清水一家の狂犬]と呼ばれた男である。抜群の喧嘩度胸と刀の腕で、清水一家の鉄砲玉の役目を果たしていたように思われる。それとは別に、気の荒い性格の中に純情な分部などもあり、渡世内では彼を慕う者が多かった。

  大政の名も政五郎である。小政より歳も身体の大きいことからの命名だっのであろうか。大政は文字通り次郎長の一の子分で、別に一家を構える親分なのである。いわば、清水一家直系の大政組の組長で、親分の声がかかれば子分を引き連れ全員集合ということになる。時が移り、明治の世に次郎長は様々な事業を興したが、それら開拓事業等の陣頭指揮に立ったのが大政であった。

森の石松は大酒呑みの馬鹿であった。呑まなければ良い男なのだが昼間でも飲む。先に記載した28人衆の名前の記載順序は、広沢寅蔵の浪曲で有名な三十石船内で、石松と相席した男が語る次郎長の子分を強い順から並べたものであるが、この男が最後に思い出したのが森の石松である。これは喧嘩が強い順ではなく、人間的強さの順序だったのであろう。

石松三十石船のシーンは、次郎長親分の代参での金毘羅様詣でへと続く。金毘羅まいりの途中で清水一家の縁の方々から次郎長の亡妻への香典を預かっていたが、これを狙った都鳥の騙し討ちに遭い石松は死亡する。この石松の敵の都鳥は、翌年次郎長に討ち果たされた。森の石松は馬鹿ではあったが、周囲の人々から慕われた、愛すべき馬鹿だったようである。

[旅姿三人男(作詞 宮本旅人 作曲 鈴木哲夫 ディック・ミネ)]の歌詞はこうである。

清水港の名物は お茶の香と男伊達

見たか聞いたか あの啖呵

粋な小政の 粋な小政の 旅姿

富士の高嶺の白雪が 解けて流れる真清水で

男磨いた 勇肌

なんで大政 なんで大政 国を売る

腕と度胸じゃ負けないが 人情絡めばついほろり

見えぬ片目に 出る涙

森の石松 森の石松 よい男

男清水の次郎長は 愛しい女房を振り分けて

那賀の長旅那賀の國

富士が見送る 富士が見送る 茶の香り

  なんとも調子の良い歌詞である。ディック・ミネが歌ったこの歌の歌碑が、今でも静岡県のどこかにあるはずだ。

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[私を野球に連れてって]と野球観戦

                                                                                           平成191113

  地上波テレビでのメジャーリーグ実況放映件数は年々増え続けている。日本人メジャーリーガの数が増え続けることもあり、国内野球ファンの目が海の向う岸での日本人選手の活躍に向けられることはいかんともし難い。必然的に各テレビ局は好カードの試合放映権のために莫大な円を支払うことになる。テレビに飽き足らない連中は、現地球場での現場観戦の為に観光会社の組む観戦ツアーを利用するようである。なんともうらやましい限りである。

私が海外に最後に行ったのは、10余年前のサイパン島である。それも、現地入国の際に暴力団扱えをされるは、ホテルに泊まれば同室の者にイビキが強烈だと嫌味をいあわれるは、食事は縦横無尽の筋が90%も含む巨大ステーキにより便秘に陥り、観光どころではなかったのだ。それに比べて、今の若い者の贅沢さ加減にはあきれ果ててしまう。たかが野球見物だけのために飛行機に乗りヤンキースタジアムに直行するとは、何という罰当たりか!、この歳まで働き通した私が、どうしてそこに行けないのか!、一度に多くのことを考えると、いつも支離滅裂の状態になってしまう私なのである。

  暇があっても金のない者はテレビで応援するしか方法はないようである。しかし、テレビでひいきチームを声援し、または相手チームをヤジリ飛ばしている絶対多数のファンがいるからこそ、この野球界の繁栄があるのだ。ぞ!

大リーグのどの試合でも共通するが、試合中の7回裏の攻撃前に観客全員が立ち上がって、ある歌をうたう場面である。それは、球場がはじけんばかりの大楽唱となる。アメリカ映画でのなかでは度々おめにかかったシーンではあるが、テレビ画面とはいい自分がリアルタイムでメジャーリーグを観戦していることに、単純にも胸が熱くなったりもする。この場面で歌われるのが[私を野球につれてって]である。

[私を野球に連れてって(テイクミアウトザボーゲム)]2番(球場ではこの部分のみを歌う)の歌詞はこうである。

私を野球に連れてください

(テイクミアウトザボーゲム/)

大勢の仲間のいるところに連れて行ってください

(テークミアウトザクラーゥ/)

大好きなピーナッツとクラッカージャックを私の手に渡して

(バイミサン/ピーナッツァン/クラッカージャックス/)

私はここから離れて家になんか帰りたくない

(アーイドン/ケーフアイ/ネーバァゲッバッレッミ/)

さあ皆でホームチームの応援をするのよ

(ルールッ/ルフォーザ/ホームチーム)

もし私のチームが勝たなかったら悲しいけれど

(ゼードンウィン/イッツァスェーム/)

ワン、ツー、スリーストライクでアウトが

(フォーイッツ/ワン!/トゥー!/スリーストライクスユーアー/)

昔ながらの野球ゲームなのだから

(ゥアッザ/オー/ボール/ゲーム/)

観客全員は、この歌5行目歌詞のホームチームの部分に、各自のひいきチーム名を挿入してうたっている。また、最後から2行前のワン!ツゥー!スリーストライクのとき、右手の指を一本、二本、三本と立てて表現している人が多かったことに気づく。

[私を野球に連れてって]は、1949年(昭和24年)の同名のミュージカル映画のなかで歌われた。主演はフランク・シナトラとジン・ケリーで、その後の人生で悪の匂いが漂うシナトラと品行方正なケリーの人気は、ともにながく持続した。

シナトラは1953[地上より永遠に]でアカデミー助演男優賞を獲得し、映画と歌の世界で常にトップを維持し続けた。一方ケリーは、映画「雨に歌いば」での雨の中でのダンシングで世界中の女性のハートを鷲掴みにし、以後の映画では数多いヒット作に主演、監督、製作と異才を放ち続けた。

  昨今は一時期隆盛を築いた映画のレンタルビデオ業は下降線をたどっている。使い古されたビデオテープが、リサイクルショップの汚れた籠の中に並べられ、100円均一で販売されている時代である。私は、そのような魅力あるコーナーを素通りするほど、忙しい人生を送っているわけではない。永い時間をかけて2~3本のビデオテープを選び出しては持ち帰る。たまたま持ち帰った中にアメリカ映画[外野クリーク狂奏曲]があった。

  映画[外野クリーク狂奏曲]の登場人物は、野球場で一番奥のセンターの後方席に陣取る。彼らは三度の飯より野球の好きな連中で、あることないことが仲間同士の賭けの対象となり試合の進行を楽しむ。負け続ける地元チームの応援のためには手段を選ばず、相手チームを野次り倒すことでゲームミスを誘う徹底振り。相手チームの打者の打ったホームランボールが周辺に落ちると、すかさずグランドへ投げ返す。「こんなボール、ケタクソ悪くって持っていられるか」というわけである。

仲間どうしの賭けの胴元的な役を演じた[ブラット・ギャレット]は、この付近に座る仲間が応援しているダメチームの相手チームに賭け続け、いつも大金を稼ぐ役を好演している。つまり、映画だと解っていても憎たらしくなるほどの好演なのである。

[マット・クレイブン]の演ずるめくらの野球ファン役が良い。杖を頼りに外野席中断近くまで下りてきて笛を吹くと、仲間がここだと声で場所を知らせる。おもむろに席に座ると、カバンからグローブを取り出し左手を差し込み、二三度右こぶしでグローブの調子を整える。味方チームの打ったホームランが、眼の見えない自分のグラブに納まる確率に備えているのである。

[ウェイン・ナイト]の演ずる病的な賭け事好きの中年男には痺れる。賭け事を話している仲間のそばを通りかかりざまに、賭けの内容を聞きもせず「あんたの方に乗った!」というのである。この男が近くにいたモデル業女性の姿を見上げているところを、中継中のテレビカメラに映し出される。たまたまそれをテレビで観ていた奥様が外野席に乗り込んできたことで話はメッチャ複雑になってくる。「私の稼いだお金がどのように使われているかを見に来たのよ!」と奥様は云い、しまいには旦那様の反対に同額をかける始末。旦那が負ければ自分は勝つということで、家庭経済の安定をはかったのである。

  [ピーター・リーガート]は、舞台出身の名脇役で多くの映画に脇役として出演することにより、作品にキリッと山葵を利かせる俳優である。この映画では中心的な登場人物となり、野球の楽しさ、友人に対する思いやり、親子のありかた等を表現した。知ったかぶりの映画評論家は三流映画と呼ぶが、この映画こそ、複数の演技力の確かな俳優の個性がぶつかり合う本物の映画だったのである。

  平成17年に発足した楽天イーグルスを応援する東北人は多い。宮城県仙台球場がホームグランドと云うこともあり、野球がより身近に感じられるからでもあろう。楽天が勝利すれば歓声を張り上げ、まければまけたで「次は頑張れよ!」と一人一人の選手に声をかけるシーンを何度も眼にした。いつの日にかリーグを制覇し、日本シリーズの何試合かを仙台球場に運び込み、東北地方の各家庭からの大歓声が湧き上がる日がきっと来る。ファンは応援するチームの勝利をねがってはいるが、最後にはどちらかが負けるのがスポーツの試合である。負け続けるチームを永く応援し続ける土壌が熟成されて始めて、この日本国に文化としての野球が定着するのであろう。

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耳をすませば カントリー・ロード

                                                        平成191110

   以前、テレビ映画番組で[耳をすませば(1995年近藤善文監督)]を観たことを想いだした。このアニメ映画の製作を担当したのは複数の企業で、そのなかには[紅の豚]をはじめ数々の名作アニメ映画を製作しているスタジオジブリも脚本担当として参加している。

物語は14歳の少女[雫(シズク)]と少年[聖司]との純愛を描いたものであった。大人と子供の狭間で淡い恋を経験する二人の物語のなかで、いたるところに挿入されるカントリー・ロードという曲が物語を効果的に進展させていた。

  周囲が進学や就職の準備で大わらわの中学3年の夏休みのある日に、雫と聖司は出会う。このような時期のクラス仲間や友人達の喧騒をよそに、卒業後イタリアでのヴァイオリン職人の道に入ることを決めている聖司と、まだ進路が定まらない雫との心の交流がうまれる。

聖司とつながりのある楽器工房に雫が立ち寄るシーンがある。雫を前にして、工房の大人たちが思いおもいの楽器を手にして一つの曲を演奏するのだ。この曲が、少女と少年を優しくみまもっていた大人たちの心よりのプレゼントとなる。大人達は自分の少年の頃に立ち戻り、楽しそうにカントリー・ロードを演奏した。この曲は、聞く者にとっては物悲しくも切なくも聞こえる歌でもある。

[カントリー・ロード]は、1943年に生れたジョン・デンバーが1971年(昭和46年)に作ったカントリーソングである。今も人気の衰えぬ日本のシンガーソングライターの[みなみこうせつ]に、かぎりなく雰囲気の似ているアメリカの歌手であった。1995年近藤善文監督の[耳をすませば]に使用されたカントリー・ロードの以下の訳詞は、鈴木麻実子氏の手になるものである。

カントリー・ロード

この道を ずっとゆけば

あの街に 続いている

気がする カントリー・ロード

ひとりぼっち 恐れずに

生きようと 夢見てと

さみしさ 押し込めて

強い自分を 守っていこう

カントリー・ロード

この道を ずっとゆけば

あの街に 続いている

気がする カントリー・ロード

歩き疲れ たたずむと

浮かんで来る 故郷の街

丘をまく 坂の道

そんな僕を 叱っている

カントリー・ロード

この道を ずっとゆけば

あの街に 続いている

気がする カントリー・ロード

どんなくじけそうな 時だって

決して 涙は見せないで

心なしか 歩調が速くなってく

思い出を 消すため

カントリー・ロード

この道 故郷へ続いても

僕は 行かない

行けない カントリー・ロード

カントリー・ロード

明日は いつもの僕さ

帰りたい 帰れない

さよなら カントリー・ロード

ジョン・デンバーの本名は[ヘンリー・ジョン・デュッチェンドルフJr]で、ニューメキシコ州に生れた。13歳の時に彼を溺愛していた祖母から贈られたギターが、音楽の世界への道とつながりエルヴィスのような歌手を夢見るようになる。22歳のとき難関オーデションを突破し、実力の有るグループのリード・ボーカルの座を得てから、本確的音楽活動を開始する。この当時、他人のために作った曲が全米1位の売り上げをあげたことにより、彼のシンガーソングライターとしての資質が注目されることになった。

1971年にジョンの何枚めかのシングル盤[故郷へ帰りたい(カントリー・ロード)]が世界的にヒット、その後も[大自然][素朴さ]などのイメージを持つ曲を量産して富を築いていく。

1997年(平成9年)54歳のとき、買ったばかりの自家用機の操縦中に海に落ちて死亡。落ちた原因は、酔っ払い運転だった。

  彼の歩いたカントリー・ロードは実に長い道のりでもあり、また、短い道のりともいえるが、ジョン・デンバーの作った数多い曲は、今でも田舎町や郊外の牧場や、標高の高い山の頂や、それよりずっと高い天空の果てに流れ続けている。

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