海からきた侍 三浦按針
平成20年10月26日
ヴェネツィアの豪商の子として生れたマルコ・ポーロ(1251~1324)は、17歳のおりにフビライ(第5代モンゴル帝国皇帝でジンギス・カーンの孫)の宮廷に出入りする叔父にしたがい中国をめざした。中央アジアを経由する長い道のりをたどり、フビライの前に出たのが21歳(1272年)のときであった。フビライにその才能を見込まれたのが運のつきで、宮廷に召抱えられて彼の片腕となった。
フビライの厚い信任を受けたマルコ・ポーロは、その後も彼の使節として各地を回り人心の掌握にあたる。フビライに申し出たたびたびの帰国願いもかなえられたことはなく、マルコ・ポーロの中国滞在期間は17年間にも及んだ。
元朝の皇女の一人がフビライの弟フレグが統治するイランのイルハン国に嫁ぐ際の随員に撰ばれたマルコ・ポーロは、1290年ザイトン(福建省泉州)を出航した。しばらくイルハン国の宮廷に滞在した後に、コンスタンティノープル経由でヴェネツィアに帰国した。
帰国早々のマルコ・ポーロがたまたま参戦したゼェノヴァとの戦いで、逃げ足が遅かったために捕虜になり仲間と一緒に投獄されてしまった。何が幸いするか判らないのが世のなかで、この獄中で書いたのが[東方見聞録]である。これが、世界的ベスト・セラーになった。
マルコ・ポーロの[東方見聞録]には当時の日本は以下のように記述されている。
[インド周辺の土地を説明するとなると、まずジパングという大きな島のことを語らなければならない。はるか東方にあるこの島は、大陸の東の海岸から1500マイルの大海上にあり、住民は彼ら自身の王国を持ち、他の国の王に従属することを潔しとしない誇りと勇気を兼ね備えている民族である。王の大宮殿は、ヨーロッパの教会が鉛で覆われているように総て純金で覆われている。宮殿の窓枠は精巧な細工が施された金で飾られ、広間や多くの部屋の床には指3本の厚さに黄金の板が敷かれている。そこには小粒の真珠が豊富に蓄えられ、どの真珠も丸くて肉厚で赤味がかり、値段の点でも我々が持つ白い真珠よりまさっている。別の部屋には数種類の宝石がひしめき蓄えられているような、文字通り光り輝く豊かな社会を築いている。
多くの場合、ジパングの住人が外国人を捕らえた場合には、その釈放のための金銭を支払うのなら快く交換に応じて解放する。身代金に値する代金を出し渋る場合には、特に感情的になるわけではないが、当然のよう捕虜を殺して火にあぶり塩や味噌をつけて食べてしまう。このような席には親類や友人を招待し、ビンテージ物の酒を振舞う。この民族は、美味しい肉と酒を心より楽しむことを知り、人肉の味が他の動物のそれより美味しいことを知る数少ないグルメ集団である]・・なんとも、日本人の立場を無視した複雑な言い回しではないか。
マルコ・ポーロは、東方見聞録の中で日本を[黄金の国ジパング]と紹介しているが、実際には日本を訪れておらず、中国で聞いたうわさ話として収録したに過ぎない。現代の歴史家は「この黄金の国というのは、陸奥の中尊寺の金色堂についての話しをまた聞きしたものでは」と、考えているようだ。確かに、金色堂を建立した奥州藤原氏は十三湊(トミナト)を介して中国との交易を行っていた。この湊を窓口にした日宋貿易においての日本側の支払いが金を使用していた事により、[日本は金の国]という認識が中国側に広まったものと考えられる。
東方見聞録に記されたジパング情報により、ヨーロッパ社会には日本が黄金の国として認識されていた。いつの時代の男達も例に漏れず、果てしないロマンを追い求める。やがてロマンは妄想へと変化し、気がついた時にはとてつもない欲望に拡大されていく。かくて、向こう見ずの冒険家が叫び声などをあげながら荒れ狂う海に漕ぎ出すことになった。生きて自国に帰還する者の数は、出発時の20%にも満たない確立であったにもかかわらず、後から後から性懲りもなく船出していった。
1492年(家康誕生の50年前)コロンブスはジパング(日本)を捜すためにスペインのフェルナンド国王を説得して1回目の航海に出た。当時のヨーロッパ人は地中海という小さな内海の中で、他の国の船を襲ったり、ときには他の国の船に追いかけられて全速力で本国に逃げ帰ったりしていた時代である。
コロンブスは未知の大西洋を横断し、キュウバ近くのカリブ海の島[サン・サルバドル]に最初にたどり着いた。彼は、ここがジパングの近くだと深く信じていたが、危険なところには絶対に出向かない本国の有識者は、そんなはずは無いと強力に否定した。否定するさほどの根拠はなかったが、誰かが名声を得ることを好まないのが世にいう有識者なのである。奇跡的なことではあるが、この場合の有識者は真実をいい当てていた。
その後も、イベリア半島の先端から多くの冒険者たちがジパングをめざしたが、その間には大西洋とアメリカ大陸と広大な太平洋が立ちはだかっていた。広すぎるこれらの区間を探検することで、マヤ、アステカ文明やインカ文明に遭遇することになった。
スペインはメキシコのアステカ王国を1519年(今川義元が生れた永正16年)に滅ぼし、ここを植民地として飲み込んでしまった。スペインの日本国進出には、メキシコ東海岸のアカプルコとマニラを結ぶ赤道海流に乗るコースをとり、ここに太平洋航路が確立されることになった。
コロンブスの4度に渡る航海により、アメリカ大陸の別冊付録のような島々の発見から、50余年後の天文12年(1543年=徳川家康満1歳)に、ポルトガル船が九州の種子島に漂着して迷惑千万な鉄砲を持ち込んだ。この日に、日本国の砂浜に大航海時代の余波が打ち寄せたのだった。
種子島に住む刀鍛冶は、突然鼓膜の破れるような音の鉄砲の威力に目を真ん丸くした。最初は恐る恐る近づき爪先で押したりしていたが、その本質を探り当てることにさほどの時間をようしなかった。もともと器用な彼らは、目の前の鉄砲本体を最小単位まで分解して、それぞれの部品の役目を理解し、さらに部品の原寸を書きとめて、さらにさらに、それを刀製造用の鋼を鞴で熱し叩き出した。真っ赤な鉄を叩くときにでる火花を浴びながら、ときどき髪の毛を焦がすきな臭い匂いなどを嗅ぎながら、モデル以上の精度を持つ模造品鉄砲が出来上がってしまった。槍や刀を持ち、掛け声ばかり大きい戦国自衛隊のやる気のなさは、いつの場合にも食費を含む出帳代だけが嵩み、かんじんの売り上げは極めて少なかった。これらの事柄にウンザリしていた武将たちは争って鉄砲を買った。値切りたい本心をこらえて、笑顔で現金を支払った。
それから32年後の天正3年(1575年)の織田信長、徳川家康連合軍が武田勝頼(武田信玄の子)軍に圧勝したのは、鉄砲の数の勝利であった。
鉄砲の次に上陸したのが、天文18年(1549年=家康7歳)にフランシスコ・ザビエルが持ち込んだキリスト教である。この目新しい宗教も鉄砲同様日本全土に広がっていった。その普及力は上陸地点の九州の戦国武将も入信するほどで、これらの者が戦をしても「シュヨ、オユルシクダーサーイ」とか、敵を傷つけた雑兵が人差し指で十字をきいりながら「アーメン」など呟いたりするので、戦い本来の目的が達せられることはまれであった。
幼くして父母を失った戦国戦争孤児の家康が、信長や秀吉が成し得なかった天下統一を成就して江戸幕府を押立てたのが、関が原3年後の慶長8年(1603年)である。
この2年後に将軍職を息子秀忠に譲ったが、家康本人は隠居する気持ちなど全くなく、自らは駿府城に移り大御所として死ぬまで幕府の実権を握り続けた。多くの場合このような息子はイジケてしまうものだが、父親の「待ちの精神」は遺伝により引き継がれていたのか、彼は家康が死ぬまで父を押しのけるようなことはしなかった。いや、恐ろしくてできなかった。
家康の駿府時代は10年ぐらいであったが、この地に住む家康の元には、オランダ、イギリス、スペインの各国王使節が訪れる等の活況を呈していたという。
関が原よりチョコット早い慶長5年(1600年)4月19日、豊後の臼杵にボロボロの幽霊船のような船が漂着した。オランダ船籍のリーフデ(愛)号であった。乗組員は飢えと疲労のために身動きできないほど衰弱していた。調査のために乗船した臼杵城主の手の者が身体を支えて小船にのせ、24人の毛唐が日本の領土に引きずり上げられた。この中にイギリス人操舵士のウィリアム・アダムスという男がいた。
アダムスたちの日本漂着にいたる道のりは、オランダ出港後のブラジル赤道付近では病気が原因で多数の死者を出し、さらにマゼラン海峡では寒気と飢餓で多くの者が死亡したりする苦難の連続であった。
さらに、ながい航海の中で 陸地を見つけて食料確保のために上陸すると、笑顔で出迎えた原住民から突然矢を射掛けられての死亡者が続出し、出港時に5隻の船団で110人だった乗組員は24名になってしまった。これは2割1分8厘の打率である。
豊後に漂着した彼等は当然のことに、現地人の強い詮索を覚悟していた。ここにいたっての彼らの体内には、希望や期待などの感情は残されてはいなかったのだ。
臼杵城主太田一吉は当然の義務として、この漂流船の事実を長崎奉行寺沢広高に伝えた。寺沢は24人を拘束し、大量の武器弾薬等積荷を没収した。その後に大阪城の豊臣秀頼の指示を待った。
折りも折り、どこで聞きつけたものか、ポルトガル国の意思でキリスト教布教活動を進めていたイエズス会(1534年、スペインのイグナティウスが6人の同志と結成、教皇許可を受けたカトリック男子修道会)の宣教師が現地に乗込み、「オランダ人、イギリス人は単なる海賊行為をするために他の国に来る輩だ。即刻処刑するべきだ」と強く要求した。
この時期、秀吉亡き後の豊臣家運営を任されていた五大老首座の家康は、このリーフデ号に強い関心を持った。重態の船長に代わって、ウエリアム・アダムスと、その他数名の乗組員を大阪に護送し、難破した船も修理のうえ回航させた。
慶長5年5月12日、家康は乗組員を引見した。イエズス会の連中にリーフデ号が海賊船だと吹き込まれていた家康だったが、アダムスたちの路程や航海の目的やオランダ、イギリス新教国とポルトガル、スペインら旧教国との紛争を堂々と言明する潔さが大いに気に入った。
家康は執拗に処刑を要求する宣教師の手前、しばらく投獄しながら何度か引見を繰りかえしたのち釈放し、江戸の地に招いた。
アダムスは「豊後の王(家康)は我等に深厚なる友情を表し、病者を入れるべき家屋を供し、且つ必要な食料を供給した。」と、書簡に書き残している。
「万事静謐(セイヒツ)にして国民はその統治者、及び長上にすこぶる従順なり」と書いたように、アダムス達は日本人を親切で礼儀正しい民族と感じて、その王である家康のために尽くそうと思ったのだろう。
アダムスとの何度かの対談のなかでの国際的見識に驚いた家康は、自藩の外交と貿易の顧問として引き込み、特別の処遇をとり相応の地位を与えた。
たびたび帰国を望むアダムスの慰留の意味もあり、250石取の旗本に取たて帯刀を許したばかりか、相模国の三浦半島(現横須賀市)あたりに所領を与え、三浦按針という日本名の武士として優遇した。
アダムスの毎日は、外国使節との通商交渉時の通訳としての仕事や、各国使節との交渉に対する助言を求められることが多かった。また、西洋式の幾何学、数学、航海術を家康やそのブレーンに教えたりもした。
そのうちに帰国を諦めたアダムスは、家康の御用商人であった馬込勘解由の娘[お雪]と結婚し、息子ジョセフと娘スザンナが生れた。
江戸湾に係留されていたリーフデ号が朽ち果てるた頃、若い頃の船大工の経験をかわれて西洋式の帆船の建造を依頼される。最初は固辞したものの結局は断りきれずに伊東に造船ドックを造り、慶長9年(1604年)80トンの帆船の建造を果たす。気をよくした家康はアダムスに120トンの造船を依頼し、この船舶も完成させた。
家康は日頃からメキシコ貿易に強い関心をしめしていて、1610年(慶長15年)アダムスに建造させた120トンの小帆船で太平洋横断を成し遂げる。大御所が送ったメキシコ使節である。
話は変わるが、1600年前後(慶長~元和)のウエリアム・アダムス等のイギリス人書簡集[慶元(ケイゲン)イギリス書翰(ショカン)]が現在に残されている。これをみると、当時のイギリス人の紳士にあるまじき所業が記されている。この本に載っている謀略、裏切り、誹謗、中傷等の内容は、西欧人の二枚舌外交の走りであった。日本がこのような民族を相手に戦った、後の太平洋戦争に敗れたのも頷けることで、弱者に対する彼らの扱いは情け容赦のないものである。
例えば、アフリカ赤道付近に上陸して、原住民の集落のことごとくを略奪し、平気で牛や果物を分捕ったりするのはあたりまえのことと思っていたふしがある。そこには、殺人や女性にたいする乱暴狼藉もあった。
こんな所業が繰り返されれば別の地域の原住民は警戒し、西欧人の姿を見れば笑顔で近づき、遠慮なく矢を射掛けるのは当然のことである。それは、我が身を守るためである。
その後に漂着した日本について、アダムスは「国内平和で、内政よろしきこと他国に比を見ざるところなり」といっている。関が原後の大阪冬・夏の陣前の日本国内が限りなく平和な国と映ったのは、ヨーロッパ内での絶えることのない戦争を観つづけてきた彼の偽わざる心境だったのであろう。
家康はアダムスにさまざまなことを質問して、当時の世界観を身につけたようである。幾何学や数学を理解し、世界地図を基に、西欧の進出による南北アメリカ諸国やアジア諸国の植民地化の状況をも理解した。
大御所家康の国際外交を支えたウエリアム・アダムスは、日本とオランダの国交についても、1609年(慶長14年)のオランダ使節をバックアップすることにより大きな貢献を果たした。そして、日本と母国イギリスの国交にも大きな足跡をのこした。
海から来た侍三浦按針は母国イギリスに帰ることなく、73歳の天寿を全うした。海から来た侍の墓は、長崎県平戸市の松方公園内にある。
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