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お金はどこに隠れているの?

平成201228

  世界に流れている現金の総額は約1京円(イチケイエン=1,000兆円の10倍)くらいだといわれているが、勿論私は、その札束の総体積など想像することはできない。

  京という数の単位は1016乗で12桁の私の計算機には納まり切れないが、一日に1億円を使えきるとして、1億日間かかる勘定になる。さらに、1億日を365日で割ると273,972年かかる勘定になるので、ともかくめでたい。

日本人の貯蓄総額は約1,400兆円で、日本のGDP(国内総生産=一定期間に国内で生産された財貨・サービスの価値額の合計)は約513兆円、アメリカのGDP1,200兆円となっている。このような単位を軽々しく口に出す私だが、ここ何十年にわたり己の家庭内での経済的変化の無いのには、つくづくあやまる。家族は当然のように、私に白い目を向けることが多い。

  世界中には富豪と呼ばれる連中がゴマンといるが、これらは全人類65億人の0,0001%にも満たない。大部分の人たちは自分の一家を養うことで精一杯の収入で生きている。誰もいなければ、大声で泣きたいくらいだ。

  アメリカに例をとっても、自分で裕福な国民との自覚症状のある人は国民の10%で、その平均年収は93,000ドル(約11,160,000円)である。一方、貧しいとの自覚症状を感ずる余裕もない平均年収が5800ドル(約696,000円)の貧困階層の人がアメリカ全国民の10%にあたる。

  3代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソンが1775年に起草した独立宣言書の中で、「我々は次の事実をいつでも信じている。総ての人間は平等であり、生存、自由、そして幸福の追求など侵すべからざる権利を、神により与えられていることを。」と、いわれて久しいが、少なくとも現在までは、人間が平等であったためしはなく、また自由などが護られたという事例は数少ない。このジェファーソンは、当時の奴隷制度を反対する立場にたっていたが、彼自身は187人の奴隷を所有していた。アメリカ人には、このように表裏のはっきりした男が多かった。また、女性のほうはもっと多かった。

ある日ジェファーソンは、「黒人と白人とが、一つの国で平等に暮すことはできない。」との言葉を吐いた。妻と死別した彼は、その後に女奴隷を終生の愛人とし数人の子をもうけたが、自分の子としては一人も認知することはなかった。歴代の大統領を含め、アメリカ人には昔から二枚舌の人が多かったが、この時の彼は自分の発言を守り通した。奴隷や黒人や中国人や日本人は、白人とは平等ではなかったのである。そして、貧乏な白人と金持ちの白人もまた、平等ではありえなかった。

  都合により突然として話は変わるが、米国の月刊経済誌[フォーブス]は日本語版を含めて7つの言語で発売されている。毎年のフォーブス3月号には、前年の個人資産を集計した世界長者番付が発表される。その記事には多くの人が興味を持っているとみえて、出版社は3月号だけは事前に3割ほどの増刷で対応している。

  2007年の番付による個人資産10億ドル(@120円―約12,00億円)以上の富豪は946人で、マイクロソフト(ソフトウエア最大手)社長のビル・ゲイツ会長が560億ドル(67,200億円)で首位だった。

日本にも飛びぬけた金持ちがいる。

75位に孫正義(ソフトバンク社長)の2007年現在資産は58億ドル(約6,960億円)

85位に佐治信忠(サントリー社長)の2007年現在資産は47億ドル(約5,640億円)

最も羨ましいのが、アラビアンナイトの国々の富豪たちである。

その筆頭に上げられのが、13位に位置するアル・ワリード王子(サウジアラビアの投資会社キングダム・ホールディング・カンパニーの95%株主)の203億ドル(約24,360億円)である。

前田高行著[アラブの大富豪]によると、中東には地球内に存在する化石燃料の約半分にあたる1兆2,000億バレルの化石燃料が眠っているという。1バレルは119.24リットルで、一升瓶約66本分100ドル(12,000円)が現在の相場である。

  アラブ諸国の中でもアラビア半島のほぼ全域にまたがるサウジアラビアの地下には、世界全体の埋蔵石油の4分の1(約2,500億バレル)が眠っている。これは、とっても多い量である。アラビア石油㈱の現地駐在員として6年間サウジアラビアのペルシャ湾岸カフジ勤務の前歴を持つ前田高行氏の本の中でのスケールの大きい語りには胸をはずまされる。

  サウジアラビアという国名はサウド家のアラビアの意味で、当然のことに石油の利権を握っているのがサウド王家ということになる。この国には、民主主義や男女同権、国民投票選挙などいう言葉はない。時として個人規模の労働争議のようなものはあるが、即刻、申立人の首は遠くまで飛ぶ。つい最近まであった話しで、シャムシールと呼ばれる中近東の切先が湾曲している細身の刀で首を打ち落とされるのである。切れ味は抜群で、ボーリングのボールのごとく前方に転がるらしい。ほんとに。

  日本の6倍の国土を持つサウジアラビアの99%は砂漠である。首都リヤドは人口400万人の都市だが、100年前には童謡[月の砂漠]の世界のオアシスの村であった。

  18世紀ごろに、リヤドの近くのオアシスに住んでいた[デルイーヤ]という遊牧民のベドウィン一族がいた。当時の遊牧民は、砂漠のなかの少ない草場を求めて羊やラクダを放牧するのを生業としていたが、砂漠を旅する隊商やオアシスに住む他部族を襲撃して略奪することにも大きな精力を傾けていた。

  [デルイーヤ]の族長の息子[ムハンマド・ビン・サウド]は武勇にすぐれた男で人望も優れていた。父の許を[ワッハーブ]という男が過激なイスラム教の布教を目的に訪れていた。二人の若者は気が合った。ムハマドの闘争心とワッハーブの宗教心により、まもなくアラビア半島の大部分を制圧し、第一次サウド王朝を樹立した。その後の19世紀に同じベドウィンのラシード家に敗れ、一族の長[アブドルラハマン]12歳の息子とクウェイトの[サバーハ家]に落ち延びた。この息子が[アブドルアジズ]で、後に[砂漠の黒豹]イブン・サウド(サウド家の息子)と呼ばれた現在のサウウジアラビア初代国王である。

サウド家の跡取り[アブドルアジズ]は、少年期をペルシャ湾の奥の港町クウェイトで過ごした。クウェイトは一時期、東南アジアから船で運ばれる品々をラクダに積み替える港として栄えたが、17世紀に喜望峰回りの航路が開かれ、さらに19世紀末のスイズ運河開通等により、しりつぼみに寂れていった。

  アラビア半島とイランの覇権をオスマン・トルコと争っていたイギリスは、イランの石油を求めてペルシャ湾に入り込んできた。1892年に発明されたディーゼル機関の燃料としての石油の必要性が増してきたためである。

  イギリスはアブダビ、ドバイ、カタル、バハレーンなどを下し、クウェイトにも保護領になることを勧めた。オスマン・トルコの厳しい税金にウンザリしていたクウェイト首長の[ムバラク]は、一発回答で条件の総てを呑んだ。

  イギリスの活発な進出状況を眺めていたサウド家の跡取り[アブドルアジズ]は、「サウド家再興には絶好のチャンスだ!」と呟やいた。1902年、22歳のアブドルアジズは40人の部下をつれ700Kmの砂漠を渡り故郷のリヤドに駆け戻った。ラシード家の要塞に侵入しての乱暴狼藉は眼を覆うばかりであったが、とにかく親父が失ったものを自分の手に取り戻した。アラビアの地には[カテバーカーングーン]という言葉があり、この言葉により威勢にのった彼は、アラビア半島中央部の砂漠のオアシスに住む部族を次々に制圧していった。

アブドルアジズは支配下に入った部族連中の反逆を防ぐ意味の二つの政策を実行した。一つは宗教心を呼び戻すことであった。これは、当時乱れていたイスラム教を強化するために、サウド家が頑なに守ってきた戒律の厳しい[原始イスラム]を徹底させることであった。

二つ目は、征服した部族長の娘を妻に迎えて子を成し、血縁関係を強化することであった。イスラム聖典コーランでは、複数の妻を持つことが認められている。その後に統一がなるまでのあいだ、アブドルアジズが制圧した部族長の娘との婚姻作戦は続けられた。あるとき、部下に集計させてみると、26人の王妃との間に36人の王子がいた。その36人の王子の一人が現在のアブダッラー国王である。

  上記の26人の王妃のほかに、名前が記録されない王妃から27人の王女が生れている。最終的に集計するとアブドルアジズは生涯に30人以上の女性を妻としたことになる。彼は鼻歌まじりに自分で立案した方針を自分で実践し、精力をもって勢力の拡大につとめた。

  アブドルアジズの36人の王子たちもまた、複数の妻を求め多くの王子を成した。アラブの女性は一般に早婚だといわれ、それぞれが多産の遺伝子を持っている。その結果、36人の王子から254人のアブドルアジズの孫にあたる王子がうまれた。現在の段階でのサウド王家の王子は1043人で、今この時でも何十人かの王子の妃が受精しているかもしれない。

  サウジアラビア王位継承法では、アブドルアジズ初代国王の直系男子が王位継承権を持つ。現在、王位継承権を持つ王子が1043人+αということになる。彼らには、生れると同時に相当の金額の手当てが支給され続ける。サウジアラビアの王子たちは政府組織の隅々まで浸透し、わずかではあるがビジネス界に進出し世界的富豪に名を連ねている。アル・ワリード王子のように。

  彼ら親族の付き合いの一例をあげると、王子同士がレストランで食事をし、その一方が支払いをする。次にたちよったローレスロイスの並ぶ店頭で最新型の車種をそれぞれが希望した。食事代をださなかった王子がいう。

「今度は私に払わせてくれ」

  ジョークとしてはかなり古いものだが、笑ってばかりもいられない。

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鯨と赤銅色の男組

平成201123

   海に住むクジラの中でも最大級のシロナガスクジラには、体長34m、体重190tonの個体記録を持ったのがいた。彼らは深さ3,000mまで潜って、90分もの長い時間潜水できる能力を持っている。「こんな途轍もない動物が、いったい、どこから来たのであろうか?」などと思ったことがあったが、「この、傷つきやすい自分は、これからどのような道をたどるのか?」という差し迫った問題のために、クジラに対する疑問は先送りになったままだった。

  偶然にも、[鯨類資源生物学]という学問を修めた大隈清治先生の著書[クジラと日本人]を眼にする機会があった。クジラとは、始末にならないほどの巨体を持つものばかりと思っていたが、イルカやジュゴンのような比較的かわいらしいものや、海岸に遊ぶ動物を海に曳き摺りこむ獰猛なシャチなどを含めて、現在82種のクジラが地球上の水溜まりの中を泳ぎまわっているとう。

人類と同じ哺乳類に属するクジラも、中生代ジュラ紀(約21200万年~約14300万年前)の恐竜類全盛のころは、その恐竜に踏み潰されないように忙しく木陰を走りまわっていた野鼠大の原始哺乳類か永い時を経て進化したものだという。

  元々水の中で発生した生物だが、その一部が永い進化の過程のなかで水中から陸地に這い上がり、そこに生活の場を確保した。だが、この新たな環境にも満足できず、また水の中に戻ったものもいる。海亀類や鰐類のような爬虫類などである。同様な理由で水中に戻った哺乳類には、ジュゴン、セイウチ、オットセイ、トドなどとともにクジラ類がいた。

  クジラの祖先は、[アンボロセタス]という水かきの付いた4足をもつ両棲哺乳類で、5400万年前の古い時代の地中海に注ぐ大河河口付近の泥の中で、カバのような生活をしていたらしい。水中にある餌を追うあまり、より深いほうに足を延ばし、次第に水への依存度が大きくなった思われる。

  恐竜が絶滅したころのクジラの祖先は、天敵が少なくなった海のなかで徐々に自分の体の機能を改良していった。まず、太くて短い尾の先端が水平な尾鰭となり、うしろ足が退化してなくなった。その後の3500万年前には、歯を使い捕食したり、口をスポイトのようにして餌を吸い込んだりする[ハクジラ類]と、動物プランクトンや小さな魚を群れごと大きな口で飲み込み、海水だけ体外に吐き出す機能を備えた[ヒゲクジラ類]の二つの系統に分かれていった。

最初の水中から陸にあがる進化の過程で、水中で酸素を取り入れる器官の鰓(エラ)を棄て去る代わりに肺を得たクジラは、自分の都合でまた水に戻るときに、また鰓をねだったが、偉大なる造成主はそれを許さなかった。このため、クジラは水中で生活することになっても、頻繁に海面に出て大気から酸素を取り入れなければならなかった。

クジラの身体が大きくなるにつれ、呼吸をするための鼻を顔の先端から頭の上のほうに徐々に移動させ、身体を水面に出さないでもすむように鼻孔を髄意筋で開閉して水を吸い込まない構造を得た。最高1時間30分も潜水できるのは、深海から水平尾鰭で水面に浮上し短時間で効率の良い呼吸をするために、肺の酸素交換能力を増強するなどの工夫がなされているからだ。

  クジラが水中で生活するには水の抵抗を少なくするために、魚のような流線型の体を持つ必要があった。それは、口が体の先端に出て尖り、ミミタブを消失させ、首のくびれ部分を隆起させ、尾を平たく伸ばし尾鰭とした。前足は胸鰭に、不要な後ろ足を捨て、背中の肉を隆起させ背鰭とした。気の遠くなるほどの永い時の中での進化の果てに、この流線型の身体を獲得したのだった。

  クジラの体温は約36℃で一定である。身体を取り巻く水温は-2℃~28℃で体温よりかなり低い。陸上にあったときの体毛(毛皮)は、熱伝導率の大きい水中での保温には適さない。そこでクジラは、毛皮に代わりに部厚い皮膚細胞の中に熱伝導率の小さい油をいっぱい蓄えることにより、体温維持の面を克服した。

  シロナガスクジラで最大のものには、体長34m、体重190tonもある。この体重で水に浮くのは、体の体積に相当する水の重力で体重を押し上げる浮力のせいである。さらに、クジラの脂皮と筋肉と内臓と骨には、大量の脂肪が蓄えられているために、クジラ全体の比重は水よりも小さいために水面に浮くための助けとなった。

陸上にあっては体重の大きい動物ほど動作が鈍くなり生存競争に即さなくなる。しかし海の中では、この巨体を持つクジラでも素早い行動ができ、そこには天敵は皆無だ。まてよ・・・。「今までのところ、人間以外の天敵はいない」という表現にしておくほうが正確かも知れない。

  クジラが巨体を維持できるのは、海には餌になる動物プランクトンやこれを食べる魚が豊富なために、食料に不自由しないことが上げられる。さらに、エコーロケーション(反響定位)機能を発達させたクジラは、餌になるサカナやイカのいる方角と距離と餌の性質までも把握できるようになり、高効率に食料を捕捉できることなども大きな助けとなっている。

これら大型クジラの場合には、暖かい繁殖海域で出産と交尾を果たし、その後に育児に専念する。一方、冷たい索餌海域では集中的に餌を食べることに専念し、エネルギーを脂肪として体内に蓄える。この2点間を、優雅に汐を吹きながら季節によりゆっくりと回遊し、次世代の養育にあたる。ホエールウオッチングの遊覧船を横目に、のんびりと泳ぐクジラは呟く。「人類が消滅すれば、この地球は楽園惑星なのだが・・・」と。

  人類は有史以前から、あらゆる物を見境なく口に入れて噛み砕いてきた。陸上の草木の果実や種子に始まり、葉っぱを喰い、根っこを掘り起こし喰い、動くものが居たら取り合いず棍棒を振り上げる生活が永かった。ある者は水中の貝類や動きの遅い海老類では満足できず、もっと機敏に動く魚の味を覚えた。そして川より大きな海の中には、より大きな食物があること知った。小さな獲物を一日中追いかけまわしているより、一発大きなもの獲れば3日ぐらいは喰いつなぐことができることを発見したのだ。しかし、そんな彼をみていた奥様は「何時掴まえられるか判らない獲物より、今日の夕飯に間に合うモグラでも蛇でも獲ってきて!家族の為に、そんなギャンブルはやめて下さい」という。いつの時代の奥様も、亭主の男のロマンの追求には、ものすごく批判的であった。

コツコツと堅実な労働を強いられた男も、息抜きは必要だった。男は岸に近づく魚を釣ることを覚えた。餌にはゴカイ類が最適なことも知った。この魚釣では、数えて三歳になる自分の息子の方が依り多くの釣果を上げ、心の中で舌打ちしたりもした。けれども、沖を猛スピードで泳ぐイルカ類には、まだ人類の実力が追いつかなかった。

ある日、浅瀬に打ち上げられている巨大な魚を見つけた。体長13.8mのツチクジラだったが、当時はクジラの名前が普及していないばかりか、長さの単位メートル法も発明されていなかったので、名の知れぬ海の主が来たと思った。

まだ生きている怪物を取り囲み、思案しているところに長老が来て「コンナコト、ムカシィ~イチドアッタ」といい、大きくても味は豚の姿焼きと比べて遜色はなく、小さく刻んで口にすれば充分に喰えることを皆に知らせた。

  石斧や石のナイフで部厚い皮を剥ぎ、中の肉を曳き摺り出そうとしたが、あまりの皮の厚さに時間がかかりすぎ、待ちきれなくなった子供が皮にかぶり付いた。他人の子供なので黙って見ていたが、特に下痢や腹痛は起らなかった。子供の身体を脇に寄せて喰ってみた大人も、その味に満足した。とどのつまりに、家からドブロクを持ってこさせる男まで現れる始末。その後はその海辺には近郷近在からの人間で、蟻の行列のような賑わいであった。

当初「ギャンブルはやめて~」といっていた奥様連中も、クジラの[尾の身の刺身]を口にしてからは何もいわず、自分の亭主を尊敬のマナコで見る奥様も現れた。夫婦の円満は、当時でも、子供の最高の情操教育となっていた。

  時が流れ幾度もの夏と冬が来て、次第に海辺の住民の学習もかさねられ、入り江に迷いこんだクジラを集団で捕獲して食用にすることが一般的になっていた。それはやがて、近海を泳ぐクジラを見つけると、数隻の船で追跡し、直近まで近づき手で銛を打ち込むという積極的漁法に変わっていく。

  960年代の日本には武士階級が台頭してきた。戦争が商売の武士の勢力が増せば戦乱はどこまでも広がる。海に囲まれた国土を持つ我が国では、必然的に武士の一団が船を自由に操る水軍を構成するようになる。水軍の別名は海賊であるから、[他人の物は自分の物、自分の物は自分の物]が、彼らの原則的な道徳感である。で、あるから、当然のことに略奪、人攫い、暴行、殺人等のほんの小さな悪事は口笛を吹きながら行った。

  武士や兵隊や自衛隊の本来の仕事は戦争である。他国の戦場に応援に出向き、流れ弾にあたって死んでも責任を追及できないのが、辛いところだ。はなしを戻し、当時の武士団が海上での戦闘を頻繁に起こせば、海上での戦闘で使用する武器にもめざましい進歩が伴う。そして、命知らずの一団が航行すれば、当然のことに潮吹くクジラに近づく機会は多い。クジラの脂っこいベーコンを喰ったことのある者なら、クジラが傍を泳いでいれば槍で2~3度突付きたくもなるのが人情であろう。いつしか戦闘用の武器は捕鯨の漁具に転用され、次第に捕鯨技術が向上していく。室町時代の末期(1480年代)には、捕鯨従事者の組織化が始まり、捕鯨技術の向上とともにクジラ食品生産品も一般に浸透し、今に残る当時の宮廷献立表にも多数の鯨料理が載ることになった。

  突き取式捕鯨は、1573年(武田信玄が死んだ天正元年)の知多半島先(愛知県南知多町師崎)の海で、78隻の船が一団となるチーム漁法として開始され、ここが捕鯨産業の発祥地とされている。この技術が改良伝播され、1592年(秀吉の天下統一が終わった文禄元年)には三浦半島近海でも見られ、またたく間に磐城(福島県)まで達している。

槍、刀、軍船などの発達にともなう兵法の発達から、統率力を必要とする大規模捕鯨産業が戦国時代の終わりごろに確立されていく。戦国時代の終わりころには、リストラされた大勢の武士階級が捕鯨現場に職を求めたものと推測される。

考えて見れば、適当におだてられながら鉄砲玉が飛び交う戦場に駈り出され、命がけで戦って勝ったとしても、ヒーローはいつも安全な所で軍配を振り「カカレー!」と喚き散らすだけの大将だけだった。「カカレー!」の言葉を真に受けて敵の陣営に切り込んでもNHKの大河ドラマ準主役のようには行かず、運がよくとも太ももに鉛球が貫通し跛のなるのが相場のサムライ家業だった。そして、給料は生残った者にだけに支払わられるのが一般的であった。たとえ生残ったとしても、負け戦なら、[残党狩]の名目で竹槍を持った農家のジイサマに追いかけられるのだ。ヤットコサこの状況から逃げ切ったとしても、以後の夢の中では、充血した眼を見開いた農家のジイサマの竹槍が背中に触れるばかり迫ってくるのだ。

それよりは自分の意思で、[白鯨]に主演したグレゴリー・ペックのように壮絶な死を選んだほうが家族や親類の受けが良いのではないかと考えたわけである。それらの推測はともかく、いつの場合にもクジラ漁に携わる男組みは、自分で撰んだ世界で溌剌と己の役目を全うしたとの、多くの記録が現在にのこされている。

  網取式捕鯨は、1675年(4代将軍家綱死の4年前)に太地(和歌山県)の和田頼治が、クジラに網をかぶせて行動を鈍らせた後に銛で突く漁法を考案したことに始まる。この漁法は遊泳速度の速いシロナガスクジラまで捕獲できる捕鯨法であり、急速に西日本の捕鯨場に伝播して行った。この網取式捕鯨組は、当時の世界でも特異な企業体であった。

網取式捕鯨一つの網元は六つの組織からなる。

[本部]―捕鯨企業の中枢で、船の確保から人員の募集や漁全般の経費の捻出、漁で得た売り上げの分配まで手掛ける事務所兼指令塔である。

[大納屋]―捕鯨用具の整備や保管の建物で、漁が終わってから次の漁が開始されるまで、それぞれのプロが漁具、船の手入れ補修を行う。

[番船と山見]―探鯨と操業指揮をする部門で、海を見渡す海岸近くの丘の上に物見櫓を築きクジラの姿を見つけるのが山見である。海岸線の決められた複数の岬に待機しているのが番船で、山見の狼煙や反射鏡の合図でクジラの位置と進行方向を確認し、沖合部門の行動の円滑化をはかる。

[沖合]―捕鯨の直積操業に従事に従事する部門で、番船と山見の複雑な合図によりクジラの進行方向に網を張る[網船]または[双海船]と、クジラの背後と側面から網の方向に追う[勢子船]とに別れて捕鯨作業する。網を被せてクジラの自由を奪い、銛や槍でクジラを仕留めるのもこの部門である。

[鯨始末]―捕獲した鯨の解体と処理部隊で、浅瀬に曳き上げられたクジラの皮の先端にロープを通し大勢で引っ張り皮を剥ぐ。その下の肉や内臓を切り刻み、貯蔵する納屋に運び用途別に選り分ける部門。

[筋士]―鯨の筋をあつかう部門で、何十tonものクジラの体内に張り巡らされて筋は膨大な量である。これを取り出し乾燥させて、必要とする職人に売る問屋に出荷する製品を作る部門。

通常、海上部隊450700人、陸上部隊が150300人の総勢6001000人が一つの網組みを経営するのには、年間数千両(現在の1億円以上だという人もいる)の資金を要する。これだけの事業を遂行するのには資金力と統率力を併せ持った大網元が必要である。

  かくて、赤褌一丁の男どもが乗り込む40隻の男船が巨大鯨を追う。

  クジラの自由を奪う巨大な網を被せた鯨体に這いのぼった男に、得物が投げられる。

  柄の短い銛は、クジラの脳髄を正確に探り当て、深く刺しこまれた。

  クジラの顎と腹の下に数本の丸太が固定され、無数の縄が結ばれた。

  クジラを曳く船の艪を操る男どもの声が聞こえる。

  ホゥオー・ホゥオー・ホゥオーの掛け声が一段と高まる。

  クジラを曳く船の上に赤銅色の男どもの姿が見えてきた。

  舳先からの波しぶきに濡れた、赤銅色に光る男たちの身体が見えてきた。

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忘れないようにハンカチに結び目をつくった

平成20827

  平成20824日の郡山市は1日中雨だった。粒の小さな頼りないやつだが、いつになったらやむのか見当もつかない計画性に欠けた雨であった。

「金メダルを持ち帰る!」と、方々に言い触らしながら鳴り物入りで北京オリンピックに出かけていった日本代表野球チームだったが、結果は三番目の銅メダルにも及ばなかった。そんなことも多少影響したのか、妙に心がジメジメしてきたので午後の2時ごろ、特に当ても無いのに外に出た。

  雨の中を郡山市立美術館に車を向けた。そこでは[オランダ絵本作家展]が開催されていた。小さな子供を連れたお母さんやお父さんがいっぱいで、いつもの美術館内の雰囲気と違う。

「子供の手に持つ絵本に何の意味があるのか」などと思ったが、展示室の壁に架けられた絵本原画をのぞきながら丹念にその説明文を読み、まもなくメルヘンの世界に迷い込んだ。自分ながら、この単純思考型の体質にはいつも驚かされる。

  オランダの絵本作家の[ディック・ブルーナ]の名を知らずとも、彼の手に成る[ナインチェ・プラウス(ミッフィー、又は、うさこちゃん)]のキャクターを眼にしなかった人はいないはずだ。それは、正方形の本を開くと二つの黒点の眼と、口と鼻を一緒にあらわす×印という単純化された顔の下に赤いシャッを着た兎の子供が、本を手にした人間の顔を真正面に覗き込みながら、誰にでも一目でわかる様々な行為をしている姿を描いたものである。私たちが、病院やケーキ屋や床屋さんの待合室で、無意識に手に取りページをめくるあの本の作者がディック・ブルーナである。この[うさこちゃん]が主人公の絵本は、2004年時点の全世界で8,500万部を売りつくしている。

  現代のオランダにはディック・ブルーナの他にも、大勢の魅力溢れる絵本作家がひしめき合い、その中の、10人の作家の代表作原画が一堂に並ぶ光景は圧巻である。

[ハルメン・ファン・ストラーテン]の描いた夕焼け空の下の風景を思わせる絵が気に入り、会場外のロビーの即席売店で[おじいちゃん わすれないよ]という絵本を買った。そのあとは、家を出るときから決めていたマンゴーケーキとコーヒーを美術館端のレストランで楽しみ、雨の中をまた帰ってきた。

  絵本[おじいちゃん わすれないよ]の原作者は1958年(昭和33年)生れのベッテ・ウェステラで、暖かいユーモアの中で生命ある物の死というテーマを謳いあげているという。1961年(昭和36年)生れのハルメン・ファン・ストラーテンが描いたステンドグラス越しの映像のような絵は、6歳前後のヨースト少年のおじいちゃんに対するホロニガイ追憶を、原作に忠実の再現しているように感じられる。ド素人の私でも、さまざまな外国の絵本を含む書籍を日本の子供たちと大人たちに紹介してくれる訳者の仕事は、単なる語学力だけでは成し得ないものと推測している。そして、本書の訳者野坂悦子氏の力があるからこそ、還暦をとうに過ぎた私の手に暖かいこの絵本が握られているのだ。

[おじいちゃんの葬儀の日に、ヨースト少年は誰もいない部屋のすみから棺をみつめて涙をうかべている。ヨーストのそばにママが近寄り、おじいちゃんの愛用していた赤い大きなハンカチを手渡した。始めてベッドのサークルを手に立ちあがったころのヨーストを、このハンカチを使いあやしてくれたのがおじいちゃんだった。

  ヨーストがもっと大きくなったころに、庭でカウボーイごっこをするときは、馬役がおじいちゃんで、赤いハンカチを首に巻き馬にまたがるのがカウボーイ役のヨーストだった。

  部屋の中に海賊船をつくったのもおじいちゃんだった。モップとホーキを十字に組み立ててシーツの帆を張り、マストには赤い海賊旗をはためかせた。ほかの船がやってくるとおじいちゃんは叫ぶ。

「ものども、のりこめ!」

  夏の日曜日おじいちゃんと二人でベッドルームに小屋をつくろうとしたとき、ママに「いけませ」といわれた。

「ヨースト、二人で家出しないか? ここでは、なんにもさせてもらいないからな」

おじいちゃんと一緒にピーナッツクリームとチョコチップをはさんだサンドイッチをつくり、おおきな川のあたりまででかけ、かえりはすっかりくらくなった。

  5歳になったときおじいちゃんに自転車の乗り方を教えてもらった。ヨーストはたった一回しか転ばなかった。

  おじいちゃんの家に泊りにいく前の日には必ず電話した。

「砂糖菓子とクッキー、ポテトフライ、イチゴアイスを忘れずに買っておいてね」

ヨーストとの約束を忘れないために、おじいちゃんはハンカチに結び目を一つ作った。そして絶対に忘れなかった。

  おじいちゃんの入った棺が墓の中に静かに下ろされ、大人たちはそれぞれの手で少しの土を投げいれた。ヨーストはママのコートの中に急いで隠れた。涙があとからあとからあふれてきた。

「いい考えがあるわ」

ママがおじいちゃんの赤いハンカチを、また出してヨーストに渡しました。

「これは、あなたにあげる。結び目を一つ作ってみたら」

  涙を拭いたヨーストはにっこりとうなずき、赤いハンカチの端に硬い結び目を一つ作りました]

[あそこの水平線に見える黒い点は、ぼくたちの海賊船だ。

いつだってあの船がおじいちゃんを連れてきてくれるのだ。

おじいちゃんは、マストの見張り台に座っている。

ほかの人には見えないけれど、

ぼくが海賊ごっこをするたびに、

ぶんどった、宝石やラム酒の樽やお金なんかをわけるたびに、

おじいちゃんは、大声でいってくれる。

「でかしたぞ! ヨースト!」って]

        おーい!

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文人と貧乏神との相互関係

平成20824

書店の新書判の並ぶ棚にあった[貧乏するにも程がある]の背文字が眼にとまった。私自身が誰かに叱れているような衝撃を受けるタイトルだったので、我が思いを読みとる人間が周囲にいないことを確認してから手に取った。

著者の長山靖生という歯医者さんは、過去に作家、芸術家と呼ばれた人々が、[自分らしさ]を貫くがために経済的に恵まれず貧乏を余儀なくされたことに触れている。さらに、彼らが己の道を貫きながらどのように生き抜いたかに触れている書で、決して私個人を攻撃しているのではないことがわかった。

「自分らしく生きる」ことにこだわることは、経済的損失を覚悟しなければならないことでもある。前時代の武士が、その社会に我慢できずに所属藩や幕制外に飛び出せば、即俸禄は止められ、あてがわれた家屋敷から立退かなければならない。映画や芝居のなかでの主人公とは異なり、浪人の暮らしは悲惨を極める。これは現代でもいえることで、一流企業社員や公務員としての地位は、それぞれの規約や方針に縛られはするが、その報酬量は拘束力に比例する。また、農民は共同体のなかで人と歩調をあわせなければ、危険分子と見られ村八分にされるのがおちである。

孤高の道を歩む生き方に [出家遁世]するという道があった。これは、一定の時期に金を稼いで蓄積した金持ちや権力者しかできないことである。彼らは、働かずとも食うにこまらないから、世間のしがらみを断っての世にいう隠居ができるわけである。悔しいことではあるが、清貧を装うにも、遁世するにも、商売を息子に譲り隠居するにも、銭は必要なのである。

そもそも[文人]という概念は、古く中国から渡来した言葉だという。往時の中国では難しい字句をあつかえるのは知識人だけで、知識人のほぼ全員が役人か、その予備軍(科挙のための修行中の人)か、僧侶だった。このような官僚社会では、出世や蓄財に無頓着な人で、かつ、花鳥風月を愛する人を文人と呼んだようだ。これとは別に、出世もできずに何の趣味も無い者を、単に凡人とでも呼んだのであろ。

  この高級官僚である文人が「金の為に働く」としたら、賄賂を受け取り悪事に加担することになりかねない。したがって、金に淡白で詩歌に精通し絵心を持つ者を文人と呼び、高潔さの尺度としたのであろう。

我が国の、特に明治以降の軍人や知識人の中にも、「清貧」の思想が根強く残されていたように思える。この思想は、昭和期での太平洋戦争後の混乱期まで残され、一度も不正行為をしなかった裁判官一家が餓死したことが報じられたことがあったという。金は充分にあるのに闇米には一切手をつけず、配給米を待ち続けた結果の死亡であった。

  上記の考えとは異なるが、古今東西を通し絵画や彫刻や文学で名を成した芸術家は、一部の例外を除き修行時代は大変な極貧を味わっている。それでも彼等は、人並みの生活が保障されている一般の職業に就ことを頑なに拒み貧乏の道を選んだのは「なぜか?」に答えたのが、長山靖生著の[貧乏するにも程がある]である。

過去の文学の一部門で名を残した者の中で、歌人石川啄木の超1級貧乏は後世に知れ渡り、それは伝説の域にある。噂にたがわず、啄木の一生は充分に貧乏だったようだ。

明治19年(1886年)盛岡市近郊の曹洞宗常光寺住職の長男として生れた啄木の本名は、石川一といった。現在の盛岡一高の前身である[盛岡尋常中学校]時代に、金田一京介(言語学者)との親交が生れ、以後も延々とその交友が続くことになる。

明治34年(15歳)投稿した短歌が[岩手日報]に載り、石川少年最初の活字による短歌となった。翌明治35年のテスト中のカンニング発覚が原因で、この中学校を退学して上京、神田錦町にあった私立中学に入る。同人誌への投稿を通して作歌を続けるが、結核を発病し一時帰郷のあとに雑誌[明星]へ投稿した石川啄木名の短歌が歌壇で反響を呼ぶ。

明治38年(19歳)節子と結婚した。この年、曹洞宗本山への上納金をごまかしたことが発覚してクビになった父と、母と妹とを同居させての新婚生活が始まる。この頃に、以後の石川啄木家の貧乏条件が出揃った感がある。

啄木は、岩手日報への雑文掲載等の稿料を生活費に当て、他方では文芸誌の主幹となり、正宗白鳥(作家)他30人余りの作品を掲載し好評を得るも資金が続かず継続不能に陥る。

明治39年(20歳)家族を引き連れて尋常小学校の代用教員になったが、4月の徴兵検査では筋骨薄弱が理由で徴集免除となる。このことを喜ぶべきかと考えているさなかに長女が生れ、翌年明治40年のストライキ騒ぎの影響で小学校を退職している。啄木は、はた目にもかなり忙しい人だったようである。

啄木が妻子を妻の実家に預けて、妹を義兄に預けたあと北海道函館で始めた新生活は、尋常小学代用教員と[函館日日新聞]遊軍記者を兼務したものだった。この時も、函館大火を理由に函館を離れた。その後は、札幌で[北門新報]の校正係りとなるが、すぐに釧路に移り[釧路日報]の記者となり、同僚の野口雨情(詩人、童謡や民謡作詞家)と親交を結ぶも、社の内紛時に頭を殴られ退社する。明治41年(22歳)旧釧路新聞社に勤務するが、上司である主筆と意見が合わず上京した。さながら、「何回職を変えることが出来るか」の記録に挑戦しているかに見える。

  明治41年(1908年)4月には千駄ヶ谷某所に寄宿、与謝野鉄幹(歌人、大学教授、歌人の与謝野晶子の夫)の引きで森鴎外に紹介されたりした。中学時代1年先輩の金田一京介の援助で別の宿を得て小説の売込みなどをしたが、生活はますます緊迫の一途をたどる。この苦しい中での3日間ぐらいで、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」や「たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」を含めた248首を書き上げ、それを雑誌に発表する。

  金田一京介は啄木の友人として、終生彼の経済的援助を続けた。当時の啄木の懐には、ほどほどの稿料は入ってきて、贅沢をしなければ生活の維持は出来たはずといわれている。彼の借金のほとんどは浅草の娼妓との遊興に使われたことが、死後に彼のローマ字日記を見た研究者の知るところとなった。金田一京介の息子の金田一春彦(言語、国語学者、東大文学博士)は、父が啄木のために家財を売ってまで金を渡しているの見て、石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないかと疑っていたという。

  明治45年(26歳)413日、肺結核のために石川啄木は死去する。枕元には妻、父、友人の若山牧水(昭和初期の歌人)が座っていた。幸せな男である。

  どの世界にも上には上があり、啄木と同時代の明治期に生きた作家葛西善蔵の貧乏は、その言葉の前に[宗教や政治の力では手のつけられない悲惨な貧乏][底の見えない失望と同居する貧乏]等の形容詞を上に付けねばならないものであった。

  葛西善蔵は明治20年(1887年)青森県弘前町に生れ、小学校卒業と同時に質屋の小僧にでたが、滝沢馬琴本を見て文学に目覚めた明治35年(15歳)に上京する。苦学をして文学に励むが芽がでず、一時北海道にわたりさまざまな仕事についたが再度上京する。

  葛西は、名のある小説家に文学についての教えを受けて、明治41年(21歳)には結婚している。家族が増えても創作活動の稔りが薄いために生活費を得ることが出来ず、頻繁に妻の実家や親類に妻子をあずけるほどだった。当時発表した[哀しき父]は自分とその家族をモデルとした小説で、場末の下宿屋で暮す詩人が主人公のものであった。その内容は、ことのほか暗いものであった。

  いよいよ困窮した葛西は家族連れて帰郷した。再び上京したのは彼一人で、以来家族との別居は葛西が死ぬまで続く。その後に、彼が家族への仕送りをした形跡は無いが、その時期に妻との間に一子をもうけている。

  葛西が友人に書いた書簡には「人情は哀しくあっても屈従するわけにはいかない。生活の破産、人間の破産、そこから僕の芸術生活がはじまる」といっている。

  葛西が書いた別のある小説には、金策に出かけた妻を待つ主人公が、家賃未払いのために借家から追い立てられ、子供と二人で抱き合って耐えるシーンがあるという。今までに借りられるところから借り尽くし、もはや、この男を助けてくれる人間はどこにもいない。

この小説の中での男は、こんな事を考えるのだった。

「何処かに救いの主がありそうなものだ。自分は贅沢な生活を望んでいるわけでも、大それた欲望を抱いているわけでもない。月に35円あれば家族5人が飢えずに暮せるのだ。たったこれだけの金を稼ぐことが出来ない自分も許し難い男だが、たったこれだけの金なのだから、何処からかひとりでに涌いてきてもよさそうな気がする」という。

  作家が自分の考えを小説の中で主人公にいわせているのなら、実にうらぶれた気配が読者に押し寄せてくるだろう。こういうスタイルが葛西善蔵の小説の魅力だというのなら、いまだにそれを目にしていない自分を幸いに思う。貧乏の悲哀は、自分の実生活のなかに独力で醸し出すことができるので、他人から教えを請う必要はない。

葛西善蔵は、大正末期にはかなりの作品を残しているので、実際にはかなりの収入があったはずだという。それをすべて飲んでしまったのか、友人知人からの借金は最後まで膨らむばかりであった。胸部疾患がもとで、葛西は昭和3年(192841歳)に他界した。

  [貧乏するにも程がある]の著者長山靖生氏は、こう結んでいる。

「作家には往々にして、こういうタイプがいる。画家にも多い。生活苦に喘ぎながらも、金になる一般的労働には見向きもせず。ひたすら自分の創作に打ち込み、生命を落としてでも[作品]を残すのである」

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マラッカ海峡のジョリー・ロジャー(海賊旗)

平成20812

  海賊業とは、[島々が群れなす地形や深い湾を形成するところ本部を置き、普段は畑を耕したり魚を獲ったりして充分に英気を養い、前回の海賊行為による蓄えが少なくなるころに、次の船出の為にナイフを研いだり、銃器を分解して良質のオイルに浸しながら点検し、それを再度組み上げたりしながら綿密に計画を立てた後に人員を選りすぐり、チームを整えてから夜陰にまぎれて武装した船舶を海に漕ぎ出し、航行中の船舶や沿岸の村などから金品や食料、又は装飾品などを収奪することを生業としている人々]となる。

この海賊は、活動した海域や発生した時代により、その呼称や形態が数多く生まれた。

  11世紀ごろまでスカンジナビア半島沿岸を根城にした[ヴァイキング]

17世紀前後のカリブ海賊 [バッカニア]

  地中海沿岸を根城にしていたイスラム海賊[バルバリー]

  14世紀の中国や朝鮮の沿岸を襲った日本純国産海賊[倭寇]などで、どの国の誰でもが手軽に開業できたのが海賊である。度胸があり航海の技術を持っている複数の仲間と徒党を組み、独立資金の調達が苦しい当初は、まず船舶を略奪することからはじめた。当時の金融機関も例にもれず、会社創業時には非常に冷たかったからだ。彼らは、資本金の調達時点から海賊営業の行使を余儀なくされ、最初の1回目の仕事は無免許営業ということになった。

  輝かしい歴史を持つこの[海賊]は昔々の御伽話ではなく、北京オリンピックが開催されている現時点において、伝統ある職業として一定の収益をあげることにより、家族や仲間に対しての義務をはたしている人々が実在しているのである。

  マレー半島とインドネシアのスマトラ島の隙間にあるマラッカ海峡は、世界規模の経済と戦略的な見地から、スイズ運河・パナマ運河・ホルムズ海峡と並ぶ最も重要な地点の一つである。このマラッカ海峡は、古くからヨーロッパや中東諸国とアジアを結ぶ東西文明の交流海路上にあり、現在でも年間9万余隻の船舶が航行する海域である。

マラッカ海峡の全長は約900Km強、最も狭い航路幅600mで、この細く長い航路の海底は変化に富、暗礁や無数の沈没船が下方から海面を航行する船底を睨んでいる。

  山田吉彦著[海賊の掟]によると、日本が輸入する石油の80%はここを通って運ばれるという。近年は、中国がおおきな輸出入を基盤として経済大国に変貌したことにより、マラッカ海峡の通航量はさらに増加の一途をたどっている。一説によると、中国もまた国内消費に供する80%の石油を、マラッカ海峡経由で輸入しているとのことである。

マラッカ海峡で大きな海難事故が起こり航行不能になった場合を想定すると、船舶は総てインドネシア南岸からジャワ島東岸のロンボック海峡を北上するコースを取らなければならない。この場合、大型タンカーでの航行日数が3日増えることにより、一隻あたりの費用が3000万円増加するといわれている。現在、中東から日本へ向けて一日平均3隻の大型タンカーがマラッカ海峡を通過しているので、マラッカ海峡が通航不能となれば、日本国内石油業界の損失は年間300億円となり、日本国内関連企業全体での損失は1000億円以上になるという。

  このようなアジア諸国のシーレーンであるマラッカ海峡は、海上テロ、海賊の出没に対する海上警備面でも岐路にたたされている。世界における海賊や海上武装強盗の半数以上がこの海域を中心に発生し、これらの海賊の重装備化は年々エスカレートしているからだ。

  シンガポール対岸のインドネシアのバタム島は、近年急速に近代化されている。この島も含めてのインドネシア国内には、太平洋戦争当時に日本軍が駐留していたからか、今でも日本人に対してきわめて友好的である。むかし(60年以上前)日本軍が上陸する以前のインドネシアを含むこの地域は、オランダやイギリスの植民地時代が長かった。オランダ人、イギリス人と呼ばれる人種は、相対する者が白人であれば礼儀正しい紳士なのだが、紫外線を直接肌に受けての日焼け過ぎた現地民族を同等の扱わない癖があった。その点、当時の日本軍は、日焼けの色は彼らと同じで、その上に肌の黄色さは他のどの民族にも負けなかったので、この地域に親日家が多いのかもしれない。

シンガポールとインドネシアの公務員等の収入格差は20倍ぐらいある。勿論インドネシアの方が安い。それらが安い分だけ、衣料品や食料品や風俗産業を含めてのアラユル商品価格に格差が出ている。シンガポール駐在の日本企業駐在員が週末になるのを待ちわびて、高速フェリーで50分のバタム島に息抜きに訪れるのは当然のことである。

山田吉彦著[海賊の掟]に、以下のような海賊団社員募集の興味深い実態が載っていた。

  仕事にあぶれたインドネシア船員が、外航船会社の多いバタム島に職を捜しに流れてきた。どの船会社も簡単には雇ってはくれない。数日後「ユー、コンテナボートノラナイカー、ボーナスモアルヨ!」と、誘った男がいた。ついていくと、汚いビルの一室に船員らしい男や、体中に刺青をした労働者タイプの男が数人いた。ここが海賊の溜まり場だったのだ。いかにも切れそうなナイフを小道具としての男の勧誘には説得力があり、気の弱い彼は最後まで話しも聞かずに仲間に加わることに同意した。国家から発行された船員手帳を持つ彼の役目は、襲った船の操船係であった。

  数日後、マラッカ海峡奥へ1時間ほど入ったカリムン島に4人の仲間と一緒に渡った。海賊の親分は、普段は子分と一緒にカリムン島で生活している。この島にいた親分を含む8人が加わった13人のチームは、島の中心地の港で船体の軽いスピードボートを借り、暗くなるまで待ってから職場である海峡に船を進めた。

  襲った船がまずかった。インドネシア国の航路標識設置船であった。海峡の特に危険な航路外区域に入らないように標識ブイが設置されているが、その保守管理の仕事をする役人がその船に乗っていたのである。それに気付き逃げ出した海賊はカリムン島に帰ったが、操舵していた新米を連れ戻さずに逃げたために、さしたる義理を持たない新米の機関銃のような供述で、カリムン島のアジトが手入れを受け全員が逮捕された。驚いたことには、他の島民もみな海賊を生業としていた者たちで、この村の若者は御手軽に船舶を襲い、戦利品を村全体で公平に配分していたのである。この島は、お年寄りも安心して余生をおくることができる社会福祉制度が行き届いた海賊村だったのである。

  上記のような家内工業的ロビンフット型ビジネスの他に、近代的ビジネス形態の海賊行為も花盛りである。重要な人を誘拐し身代金の請求書を送りつけるやり方で、リスクも大きいが一般に成功報酬額も大きい。このビジネスに取り必要不可欠な事は、重要な人を見分ける眼識である。襲った船の厄介者船員を人質にしても、1セントの金も回収できないからだ。

  平成17314日、日本籍タグボート[韋駄天(イダテン)]がマラッカ海峡を航行中に武装集団に襲撃され、日本人船長と機関長とフィリピン人乗組員の3名が身代金目的で誘拐される。

マラッカ海峡をのんびりとすべるタグボートは、石油掘削プラントを載せた大型台船をミャンマーに向けて曳航していた。夕方近くに韋駄天のレーダーに3隻の小型船が近づく影が写った。双眼鏡を覗くと一般的地元漁船で、船上にはTシャツ姿の数人の男が確認された。突然漁船の1隻がタグボートの進路妨害をする。それを避け減速すると側面から近づいた他の2隻の甲板に立ち上がった男たちが韋駄天に向け烈しく銃撃し、海賊たちが身軽にのり移ってきた。海賊の持つ武器は戦闘用ライフル銃M16で、500mの射程距離を持つロケットランチャーを抱えている者もいた。M16ライフルは世界的スナイパー[ゴルゴ13]の愛用している銃で、海賊が一般人対象の威嚇用に使用したのは賢明な判断ではあった。その暗くて丸い銃口は、まさに地獄の入口に見えるからである。

軍隊のように統率された海賊たちは、それぞれが機敏に行動した。船長に命じて船籍証明と海図を奪うと、船長、機関長と一人の乗組員を自分たちの漁船に乗せてスマトラ島方面に走り去った。その間、僅か10分で、海賊たちの船はたちまち視界から消えていった。船舶には船舶保安警報装置設置義務があり、事件や事故は瞬時に沿岸国の警備機関に通報されることになっている。やけに忙しく事を運んだのは、警備艇が犯行現場に急行するまでに逃走しなければならないという事情が海賊側にもあったからだ。

タグボートの通常速度は20ノット(時速37Km)だが、巨大な台船(大型クレーン装備で154人の作業員が乗っている、動く工場のようなもの)を引く場合は5ノット(時速9Km)程度の速度で、さらに甲板が極度に低い船型なので、徐行しているSL列車に走りながら飛びのるような気軽さで、海賊たちがのり移ることが出来る。

平成17年(2005年)314日午後8時(現地時間)に日本船が海賊に襲われ、船長と他に2人の人間が誘拐されたという知らせが届くと、日本のテレビ局は一斉にニュースとして放送し、日本国内は聞きなれぬ海賊騒ぎで騒然となった。

マラッア海峡では、以前から海賊の身代金を目的とした誘拐事件が多発していた。平成16年(2004年)には、この海峡内で36人の船員が誘拐され、その海賊側の労働に見合った身代金の請求があった。これらを調査すると、貧しい海洋民族が生きる為に海賊になるという現実が浮かび上がってくるのだった。どの国のどの地域に住もうと、多少のリスクがあったとしても、確実な現金収入源は魅力的に見えるものである。

韋駄天を襲った海賊は総勢5人で、襲撃に使用した漁船はマレーシア・ベラ州の漁民が漁をしているところを脅迫されて、海賊行為の手伝いをさせられている。

海賊は船長たちをつれ、7隻の船を乗り継ぎながらアジトにへと向かった。これらの船はインドネシアの漁船で、銃で脅かされながら手伝わされた者たちばかりである。と、本人たちはいっている。

スマトラ島内の砂浜に上陸すると数人の別の海賊がいた。一行は河沿いのマングローブ湿地の中を進みジャングルに入る。海賊たちは武器が濡れないように頭上に持ち上げながら腰まで泥に浸かりながら進み、船長たちがつまずき転びそうになると「オォー!」などと、低く声を発しながら手を差し伸べ助けたりする。ジャングルの中を数時間歩くと、アジトに着いた。そこには別の船から誘拐された先客がいた。アジトにいる海賊は総勢10人。特に凶悪な様相の者ではなく、人質たちに煙草を勧めて、10円ライターで火をつけてくれたりした。

小屋の中では木製の寝台の上で寝かされ、商品である人質を気遣ってか、香取線香を焚いてくれた。熱帯雨林に生息する蚊は非常に大きい為に、10匹以上の貪欲な雌の蚊に取り付かれると、最悪の場合は輸血が必要になる。

食事は魚のスープと魚を煮たものを御飯の上にかけて食べる、通常のインドネシア家庭で食される食物である。海賊たちが執拗に食物を勧めると思ったら、残り物は直ぐに腐敗してしまうので、後の手数を省くためもあったようだ。

海賊から韋駄天の船会社へのコンタクトは早く、事件発生の翌日に誘拐された船長からの電話で海賊側の要求が伝えられる。海賊からの以後の連絡は、総て感度の悪い携帯電話からであった。携帯電話の機種はauのカメラ機能の付いていない古い型の物で、海賊たちは、使用しない時には神経質に充電器にセットしていた。

船主側は当初、イギリスに本部のある警備会社に委託することを考えたが、その会社とのやり取りでは、引き受けた場合の経費の説明、その額面の正当性を聞くだけで半日を費やした。迅速な対応を望む船主は、マラッカ海峡状況に詳しい現地の有力者の力を借りることにした。

その男は過去に海賊の被害にあったマレーシアの船会社の経営者で、過って自分の船が海賊の被害に遭ったときの冷静な交渉術が噂に上り、方々から交渉依頼が寄せられるようになった。交渉は、即開始された。人命優先の交渉は極秘裏に進められる。これは西洋型のビジネスライクな交渉ではなく、人と人との繋がりが優先され、相手が海賊であっても顔がたつように話を進めなければならない。船会社が依頼した交渉人の余りの手際の良さから「もしかしたら、この男が首謀者ではないのか」との思いが涌く。だが、口には出さなかった。

身代金の相場は、一事件当たり1000万円程度で、一人当たりに換算するとおおよそ300万円となる。海賊が船を襲って最初に船籍証明書などの船の持ち主がわかる書類を持ち出すのは、身代金の要求先を特定するためである。船主が先進国の会社で懐具合がよければ、2割から5割ほど要求額が多くなる。身代金受け渡しは、複数の金融機関への振込みによる場合が多い。振込先の金融機関で眼を光らしていても、それらの金はいつの間にか引き出されているという。

人質の船長たちは、平成17318日にスマトラ島の海岸に連れ出され、再び漁船を何度も乗り継ぎながら海峡内を進み、最後にはタイの漁船に乗せられタイ南部の港に着いた。その後に船長たち3人はタイの海上警察に保護された。そして平成17320日に無事帰還した。犯行後6日後のことであった。

  海賊の船主側への要求やその対応内容は公表されていない。新聞では身代金の授受が報道されたが、船主はそれを否定した。マレーシアでは誘拐犯に身代金を支払うと罪になる可能性があるらしく、このことが海賊による誘拐事件の解決を不透明にしているという。

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武士道精神と父としての新田次郎

平成20721

  おそれおおいことであるが[国家の品格]という本を読んだ。この本の裏表紙にある著者藤原正彦氏の写真顔は、初めてみるものであった。額が広く、すこしまぶたがはれぎみで、小高い頬骨の下に深く抉れた皺にも見える笑窪を持つ顔写真には、かすかに観おぼえがある。写真下の氏の略歴をみて、若かりしころむさぼり読んだ作家新田次郎の御次男と知った。さらに氏は、世界有数の頭脳の持ち主で、1973年に書いた論文[不定方程式における局所大局原理及解の有限性]は難解を極め、その難解がゆえに博士号を取得する。この論文内容をザーットに説明したいところだが、幸いなことに時間がない。

昭和18年生れの正彦氏の幼少時には、ことあるごとに父新田次郎に[武士道精神]を叩き込まれたという。

いわく、「弱いものいじめの現場をみたら、自分の身を挺してでも、弱いものを助けろ」

いわく、「弱いものいじめを見て、見ないふりをするのは卑怯だ」

父が卑怯だという表現をするときは「お前は生きている価値がない」といわれように思えた、と正彦氏はふりかえる。

  この父は、身体が大きく正義感の強い正彦少年にこういった。

「弱いものを救う時に力を用いるべきだが、この5つのことは男として卑怯なことだから、やってはいけない」

1、大きい者が小さいものを殴ってはならない。

2、大勢で一人をやっつけてはならない。

3、男が女を殴ってはならない。

4、武器を手に持ってはならない。

5、相手が泣いた場合や謝った場合には、直ぐにやめなければならない。

  正彦氏は、父新田次郎の身体に宿っているものこそ武士道の精神だと感じたという。

藤原正彦氏の父君である新田次郎という作家は、俗に山岳小説という一分野を確立した男で、本名は藤原寛人という。

1912年(明治45年)6月長野県諏訪市角間新田(カクマシンデン)に父[]と母[りゑ]の次男として生まれている。後のペンネーム[新田次郎]は、地名の[新田の次男坊]が由来らしい。現電気通信大学の前身[無線電信教習所]卒業後の1932年(昭和7年)気象庁に入り、富士山観測所に配属された。その後に満州国観象台に転属、1945年(昭和20年)ソ連軍に捕らえられ一年間抑留されるも、1946年(昭和21年)に帰国し中央気象台に復職する。勤務しながら上梓した[強力伝]で直木賞を受賞する。その後に富士山気象レーダ建設責任者を最後に気象庁を退職、[武田信玄]で吉川英治文学賞受賞など活発な作家活動後の1980年(昭和55年)2月、心筋梗塞のために68歳で死去した。

奥様の藤原てい氏もまた、昭和57年当時のベストセラー小説[流れる星は生きている]を著わした作家である。

  藤原正彦著の[国家の品格]には、会津藩校の日新館で武士の子弟に教えこまれた[什の掟]というものが引用されている。

[什の掟]

1、「年長者の云うことに背いてはなりませぬ」

2、「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」

3、「虚言をいうことはなりませぬ」

4、「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」

5、「弱い者をいぢめてはなりませぬ」

6、「戸外で物を食べてはなりませぬ」

7、「戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」

「ならぬことはならぬものです」

  この什の掟(ジュウノオキテ)こそ、武士道を底辺とした道徳の基本のように思われる。

  江戸幕政下の全国300諸藩には藩校に類似した藩士子弟の教育機関があったが、過っての福島県にあった会津藩校[日新館]は全国一の規模で、1803年(享和3-明治の65年前)鶴ケ城の西隣に完成した。敷地8000坪に1500坪の校舎、武道場、天文台、プールを備えたもので、10歳から16歳までの藩士子弟の教育の場となっていた。上記の什の掟は、6歳ごろからの藩士の子弟にくり返し教え込まれたあとに、藩校に入学したのであろう。

この教えは、現代の大多数の幼い少年の心に根付いているものと同じである。父親や母親は我が子が物心のつくころから、日常の会話の中で6番目あたりまでは教え込んでいるはずである。何かと孫の関心を自分に向けようと考える爺ちゃん、婆ちゃんの場合には、最終責任を取らずに済む分だけ什の掟の伝承には力が入らないようではある。

武士道はもともと、鎌倉武士の戦闘現場のフェアプレイ精神をうたったものだと藤原正彦氏は続ける。その後の平和な江戸時代に移り武士道はより洗練され、さらに武士階級の行動規範だったものが日本人全体の行動規範になってゆく。当時の江戸っ子気質や、職人気質にも武士道精神が流れているのかもしれない。

新渡戸稲造の書いた「武士道」もまた、幼い日の日本人の心に根を張った行動基範をさしていると藤原正彦氏はいう。

  新渡戸稲造は、1862年(明治の6年前)に武士の息子として生れ、現北海道大学で農学を学んだあとのアメリカ留学時に、キリスト教の影響を深く受ける。帰国後に複数の大学で教鞭をとり、学長なども勤めたあとに国際連盟事務局次長を務めた国際人である。

新渡戸は1899年(明治32年)に、日本人の魂を解説するために英語による[武士道]を出版した。武士道の最高の美徳として「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」をうたいあげたことにより、キリスト教圏の欧米で絶大な賞賛を浴びた。

新渡戸は「武士道の精神は桜の花だ」と、いいきる。「桜はその美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花も及ぶところではない。薔薇に対するヨーロッパ人の賛美を、我々は分かつことを得ない」と西欧で好まれる薔薇をこきおろしたとあと、本居宣長(モトオリノリナガ=江戸中期の国学者で国学四大人の一人)の歌

[敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花]を引く。

「日本人としての心意気は桜花に集約される。香りは淡く人を飽きさせせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る覚悟を備えているのが大和魂である」の意か。

父として新田次郎が我子に伝えた荒々しい大和魂は、氏の文学作品群を通してもまた、日本人の心の琴線を共鳴させた。この父の精神を幼くして受け継いだ藤原正彦氏の数学者としての緻密な思考は、日本人の心に息づいている武士道精神を、血の通ったホッカホカとした言葉をもって語りきっている。文章の随所にみせる洗練された氏のユーモアは、読後に思い出してもニヤリとさせられる。

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牧師大橋弘先生の肖像(母の命日を前に)

                                                                                        平成20522

H16-12-5記)

   私の本棚に[蔦の葉笛]という書がある。千葉県のある町の片すみの教会で、牧師として30年間を信ずべきキリスト教伝道に携わられ2年前に引退された大橋弘先生が、教会発行季刊誌に載せられたエッセイから28編を選び一冊にしたものと巻末に書かれてあった。

   [蔦の葉笛]プロローグに[初夏]という文章が載っている。若かりし頃の大橋先生が、その後にキリスト教伝道に身を捧げられるであろうことが、暗示的に表現されている。その中で三好達治のポエム[せみ]を引用され、御自分の青年期を「制服を脱いでからの歩みは、そのおおかたの思い出が悲しいことであることを、否応なく、知らされていく道であった。」と述べられている。

大橋弘先生は、人類に関わる発明や発見を成し遂げた有名な人では決してない。私が先生の姿をまのあたりに拝見したのは、親族であるクリスチャン家族の子息の結婚式におよばれしたのときであった。教会でのその結婚式を取り仕切ったのが大橋先生である。以来、この教会の礼拝に出席する親族の口から先生の御心を知らされ続け、私の知らない世界を垣間見るようになった。

[蔦の葉笛]70ページに、[心をいただく]という文が載っている。そのなかで[食事は、作る人食べる人の心を、一緒に戴くものである。食事を通して、感謝する心を養う教育。この食卓に乗る様々な食物の生産に携わる人への感謝、人間を生かすために犠牲になり続ける、生ある動植物への謙虚な思い通し「共に生きる」というキリスト教の原点についてのお話である。

この文の最後に、教会付属幼稚園の職員旅行の折、会津出身の職員の実家で[しんごろう焼き]という食物をご馳走になられたエピソードが述べられていた。[しんごろう焼き]とは、ご飯を細長く固めて押しつぶし、適当な長さに切り揃えたものを串にさす。別に作った[ジュウネン(胡麻に似た穀物)]と味噌をすり鉢ですりつぶしたタレに、串に差した御飯を浸す。別に、大きな火鉢に白い灰をしき、水楢の備長炭を真っ赤に熾(オ)こした周囲に、串に刺しタレをつけたお握り状の御飯を炙る料理である。先生はおっしゃる。「しんごろう焼きの味や形はおぼろげになってしまったが、あの火鉢だけはなぜか忘れられない。「ホッ、ホッ、ホッ」と熾きてくる炭火から、心がつたわってくるからである」そのとき、先生方の前に座り、しんごろう焼きを勧めた者が私の母親である。今でも、先生と母が対峙する、この日の情景を想像するときがある。そんなとき、私の心の中でも「ホッ・ホッ・ホッ」と備長炭が威勢良く熾(オ)きてくる。

   大橋弘先生は、1003年に教会牧師として立ち続けた千葉県の小さい町の教会の礼拝堂正面壇上から降りられた。

  千葉県の小さな町から遥かな地に遠ざかられた牧師先生だが、御自分が慈しみ育てられた過って幼子だった人々の胸の中と、御自分の信じられた神からは生涯遠ざかることはできななかったのです。折に触れ、なにかと理由をつけては、千葉県に住む教え子と、過って先生の教えに従って活動をされた父兄の皆様が、自分たちの住む町へ、以前の大橋弘先生の町へ、おいでをねがうからだと知らされました。先生は一度もお断りにはならなかったとのこと、私には見ることができない、柔らかさの中に強靭さを秘めている絆が張り巡らされているのかも知れない。

   

せみは鳴く

神さまがネジを

お巻きになっただけ

せみは忙しいのだ

夏が行ってしまわないうちに

ゼンマイが

すっかりほどけるように

せみが鳴いている

私はそれをききながら

つぎつぎに昔のことを思いだす

それも、おおかたは悲しいこと

ああ、これではいけない

   大橋先生がお好きだった、三好達治の詩である。

  [今日(H20-5-22)、兄弟の一人から電話があり、「平成2年に亡くなった母の命日(5/28)に皆で集まって、話しでもしないか」というものであった。その日に重要な予定がある私は、その日は出席することは出来ない。以前書いたこの文書を思い出したのでここに載せ、亡き母には勘弁してもらうほかはない。やがて同じ世界に行く身、本人と直に会話できることもあるだろう。]

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サバイバル・ゲームとフロンティア・スピリット

平成2048

   世の大部分の人々は真面目に仕事に励み、社会に調和し、家族に忠実に生きている。それら善良な人々に突然襲い掛かるテロリストや精神の不安定な犯罪者がいる。また、見た目では社会に従順な温厚な顔を持つ人の中にも、裏に廻ると非合法な仕事で収入を得ている人なども多いときく。彼ら彼女らは、まず弱者に襲いかかる。人の子の親であることの優しさを突く幼児の誘拐。御年寄りの善意に付けこむ振込み詐欺。無抵抗な老人の荷物をヒッタクル少年の群れ。人間の無知と精神を巧みに操る詐欺商法。毎日毎日の新聞紙面には昨日の犯罪のほんの一部が掲載される。

  「これらの犯罪や事故から家族を護るにはどうすればよいか」と平静から考えている人は意外に少ない。「そんなことが自分の身に起こるわけがない」がほとんどなのである。しかし、今日これから、あるいは明日、大変なトラブルに巻き込まれる確率の高い世に我々は生きている。これらの危険に対処するには、まず、健康な身体と聡明な精神を持たなければならないだろう。

  十年以上前からせり出し始めた私のお腹のボリュームは立派なもので、慢性的な運動不足と飽くなき暴飲暴食の総決算だと藪医者はいう。

  私は、陰ではともかく、医者の前では従順すぎる患者の一人になる。医者と顔を合わせると、聞かれもしないのに「先生!なおいっそう食物のカロリーを考え、できるだけ運動するように心がけます。はい!」という。正直な話し、この状況下での体重減量とカロリー摂取を抑えることは、私の精神力では無理かもしれない。どこか厳しい自然の中にでも置き去りにされれば別だろうが。

  先日、いつもの古本屋で面白い本が目に入った。たまたま手にしてパラパラとはじいた中ほどのページに[腹筋はジャックナイフで鍛える]という項目が目に入った。ツゲ・ヒサヨシ著の[サバイバル・バイブル2]の真ん中あたりであった。この本には、現代社会にはびこるあらゆるトラブルからの脱出法や解決法が載っている。

  様々なトラブルからの生還法が網羅され、あらゆる携帯用サバイバル用品を紹介したあとに氏はいう。「トラブルからの脱出をなすのには、まず健康な肉体と柔軟な精神力をもたなければならない。これらの原点は、肉体の強化をめざす以外にない。まずジョギングをして下半身を鍛え、腕立て伏せで筋力を蓄えろ!」となる。[腹筋はジャックナイフで鍛える]は、決して「おなかを飛び出しナイフの先でチクリチクリと刺激すると強力な腹筋が出来上がる」といっているわけではない。米軍の落下傘部隊の訓練期間に採用された運動法で、床に尻を付き上半身を床から45度に静止したまま、かかとを床につけずに両足を上下させる運動である。誰もいない自宅でこれを試みたが、45度に上体を傾け、足をほんの少し上げたら後方に威勢良く倒れ後頭部をしたたか打った。私はもう二度とやるつもりはないが、他の人ならきっとうまくできるはずだ。後頭部を床に打っても、私がいったほど痛くはないので、是非お勧めしたい。

  高い山頂を目指す者、ジャングルの奥を目指し歩き過ぎて元の文明圏へ戻ってしまう者、氷点下何十度の氷原に踏み出してツラの皮を凍らせて笑っている変わり者は数多い。彼らの求めているものがうっすらとわかるような気はするが、死をかけてまで踏み込むことが出来ないのが大多数である。しかし、じっくり考えて見ると、文明の真っ只中のこの近辺にも死に直結しかねない危険があふれている。何処が安全で、何処に安心があるなどは、誰にも判らないのが、ずっと以前からの人間社会である。

[草の葉]という詩集は、初版では12編の詩を収めた95ページのうすい本だった。1855年初出版されたこの本は、改訂と増補が繰り返されて1892年には389編の詩が収録されるにいたった。

この詩集の作者ウォルト・ホイットマンは1819年(明治の49年前)にニューヨーク州に生れ、1892年(明治25年)73歳で亡くなるまでに詠んだ膨大な詩篇の中に流れているのが忍耐、創意、剛健、闘争性、現実性などである。それは、まさにフロンティア・スピリットのバイブルであった。

ホイットマンの詩を嫌いだという人もいる。その人が嫌いだろうがなんだろうが、ホイッマンは先駆者の詩人であり、反逆者の詩人であり、ヒューマニストの詩人である。嫌いだという者が住む地域を含めて、その名声は今でも世界中に轟きわたっている。最もアメリカ的な文学者の一人として。

私が青年のころに心の中で何度も口ずさんだ彼の詩がある。アメリカの南北戦争終結のころに書かれた力強いリズムを持つ[開拓者よ!おお、開拓者よ!]である。この頃のアメリカはまさに西部劇の世界で、おびただしい人々が東海岸から西へ西へと大移動を開始した時期でもあった。

[開拓者よ!  おお、開拓者よ!(1865年―明治の3年前)]

さあ、真っ黒く日焼けした息子たちよ。整然と並んで付いて来い。

お前たちのそれぞれの武器は持ったか?

ピストルは持ったか? 鋭いヤイバのついた斧は持ったか?

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おれたちは、ここで立ちどまってはならないのだ。

おれたちは、危険の矢面に立ち前進しなければならない。

他の者は筋金入りのおれたちの後につづき行進してくる。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おお、お前たち若者ども、西部の若者どもよ。

研ぎ澄まされた精神を持ち、男らしい誇りと友情にあふれた者ども。

おれは見つめる。お前たち西部の若者どもが最先端と一緒にどんどん歩いて行くのを見る。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

とし老いた人たちは足をとめてしまったのか?

彼らは海のかなたで疲れ果て、その仕事を棄て去ったのか?

おれたちは永遠の仕事として、その重荷と最先端の行進をひきつぐのだ。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おれたちは原生林を切り開く。

おれたちは河川をせきとめ、内にある鉱脈を深く掘る。

おれたちは広い地表を測量し、処女地を耕す。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おれたちはコロラドの住民だ。

そそりたつ峰峯から、大草原の彼方から、おれたちは来たのだ。

鉱山から、渓谷から、猟師の杣道(ソマミチ)を越えておれたちは来たのだ。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おれたちは、ネブラスカやアーカンソーからの中央内陸の住民だ。

おれたちは、混じりあった大陸的血液を持ってミズーリから来たのだ。

すべての南部の、すべての北部の手は硬く握りしめられた。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おれもまた、自分の魂と身体を持っている。

おれたち奇妙な三人組みは、自分たちの道をさまよいながら採取する。

鬱蒼とした森と大河を踏み分けて、接近するまぼろしと共にこれらの岸辺を通る。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

見よ、まっしぐらにころがっていく天体を!

見よ、そのまわりの兄弟の天体を! 見よ、むらがり集まる恒星と遊星のすべてを!

目にまばゆいすべての日、星屑がまたたく神秘なすべての夜。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

おお、おまえたち西部の娘たちよ!

若々しいすべての娘たちよ! 子供の母親と、主人と共にある人妻たちよ!

決してばらばらになることなく結束して前進するのだ。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

甘い香りの歓楽に用はない。

クッションやスリッパに用はない。平和な連中や勉強ばかりの者に用はない。

安全で飽きがくる富に用はない。平凡な享楽などに用はない。

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

今日もラッパの音が響き渡る。

遠い遠い彼方からの夜明けの合図が響き渡る。

さあ、早く! 部隊の先頭へ! さあ、早く! おまいたちの部署へとんでいけ!

開拓者よ!  おお、開拓者よ!

  力強い打楽器演奏のようなリズムを持つ詩だと思う。幼稚園の運動会の入場行進曲にどうだろうか?

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武士道とは切腹することにあり

平成20311

  藤沢周平の作品に[竹光始末]という珠玉の短編がある。藤沢周平ファンの私としては、せっせと買い集めた文庫版のすべてが珠玉の輝きを持っている。書籍の場合、豪華な初版本でも低廉価格の文庫本でも、古本屋で2番目の御主人を待ち続けている古本と呼ばれる物でも、その輝きにはなんら変わるところはない。ただし、古本屋には意味不明のものなども並んでいて、それらの輝きは若干薄暗く感じられる。

[竹光始末]は、ひたすら仕官口を求める妻子を抱えた浪人者が主人公で、東北地方の奥にある海坂藩の藩士募集を聴き、ツテをたよりはるばる城下にたどり着くところから始まる。しかし、その人選は3ケ月前に終わっていた。引き返す路銀もなく城下にとどまった主人公の元に、条件付の仕官の話が舞い込む。「腕の立つ藩士を上意討ちにしたら士官を許す」というものだった。

  上意打ちの相手は御城の祐筆(藩総務部事務担当)部屋勤め70石取の男で、先の募集で3ケ月前に仕官したばかりだが、同僚と口論はするわ、上役に反抗はするわ、最後にはお上を誹謗する言葉まで吐いたために、不敬罪として討手をさし向けられることになった。討てばその者の代わりに雇われることになり「禄は70石以下ということはない」という保証付だ。討たれる相手には「討手を放つが、それに勝てば罪を許し元の職に戻す」との、武勇好みのお上の言葉を伝えてあるとのことで、非常に複雑な気持ちにさせられる主人公であった。

主人公は逃げもせずに立て篭もっている男の許に行き、成り行きで様々な話をした。話せば、互いにツキのない同じような境遇なので意外と気が合った。そして、男への同情から、自分の仕官を諦めて逃がしてやろうという気になりかけた。主人公が、自分も現在は苦しい浪人暮らしで「腰に差している刀も竹光だ」といった。途端に相手の目が光り、切りかかってきた。その切っ先を右にかわして抜き放した小刀で胴を深く切り結ぶ。主人公は小太刀の名手で、大刀が竹光であろうが、錆びで鞘から抜けなかろうが一向に構わなかったのである。一時は、逃げて城下を去ることを考えた男も、討手の腰の物が竹光とわかり70石に未練が出たのだ。討った主人公の胸にも、武家社会の悲哀が湧き上がるのだった。

藤沢周平は昭和元年に山形県鶴岡市生まれの小説家で、師範学校卒業後は地元の中学校で教鞭をとり国語と社会を担当していた。23歳で結核となり休職、東京都北多摩郡で大手術を受け30歳で療養を終えたが、その後は複数の新聞社で記者の生活を続けながら小説を書き続けた。昭和34年結婚、昭和38年に長女が生れた37歳の時に妻と死別する。それ以後、彼の書く時代小説は暗く虚無的なストーリが多かった。昭和51年に発表した[竹光始末]あたりからユーモアの味がくわわる明るい作風となり、それ以後は怒濤のごとく藤沢周平小説の虜となるファンを量産していった。

藤沢周平はいう「小説を書いている以上は、人より中身の薄い私という人間が、いやおうなしに出てきます」。藤沢周平の書く侍物(ミヤヅカイ)時代小説は、山形県鶴岡市にあった庄内藩をモデルにしたと思われる架空の[海坂(ウナサカ)藩]が舞台となっているものが多い。藤沢周平の作った架空の海坂藩の川や山や野原や、それらを含めた自然の移ろい、御城の規模や城内外の細部の構造、物語の脇に登場する人物名などが、数多い作品の中に何度も何度も登場する。架空藩の架空領土の隅々までが藤沢周平の頭脳のなかに構築されていて、その藩の歴史や未来までが藤沢周平の身体を通して、ほとばしり続ける。それらの舞台の上で登場人物が生きて、そして死んで行く。藤沢周平という作者の優しい心ずかいが感じられるしっとりとした文体で、時には非常と思われる武士道の世界が展開されていく。

  [武士道と云ふは死ぬことと見つけたり]で有名な[葉隠]は、江戸時代中期の肥前国(現在の佐賀県と長崎県あたり)鍋島藩士の山本常朝が、折々に話した武士としての心得を書きとめた書物の中に出る言葉である。この言葉が独り歩きし、軍国時代に[玉砕][自決]等の背景として利用されたりしたが、葉隠は自刃や死そのものを美化したものではない。これを著わした山本常朝自身「私も人であるから、生きることが好きであり、死ぬことを奨励しているのではない」と後に話したとのことである。書物[葉隠]れの中には、嫌いな上司から酒席に誘われた場合の上手な断り方、部下の失敗を上手に補佐する方法、節制のない浪費家からの借金の申し込みを上手に撃退する方法、足が痺れないような座り方なども載っていて、現代では日々の生活辞典的な方向から再評価されている。

明治33年に新渡戸稲造が英文で著した[武士道]という書がある。新渡戸は先の五百円紙幣に肖像が載るほどの偉人で、農学者で、教育学者で、大正9年には国際連盟事務次長になった人である。[武士道]の概ねの内容は「日本人の自己確立には社会での実用主義を謳うと共に、人間が持つべき義務とそれを支える誇りとしての道」を顕しているようだ。新渡戸稲造は、金を賭けたポーカーゲームをやりながら武士道を口述させて完成させた。その為ではないだろうが、当時のオウベイで爆発的なベストセラーとなった。

  古典といわれる時代劇のなかでは、切腹するシーンを挿入する場合が多い。ドラマの中でたびたび切腹シーンがあるからといって、往時の侍がただ単に「今日は一日中雨で、鬱陶しいから腹でも切ってみようかな」などと自分の腹に刀を突き刺したのではない。切腹をするのには、それなりの理由がなければならなかった。敬愛する主君が命を落とした時に主君に殉ずるために腹を切る[追腹(オイバラ)]。職務上の責任や義理を通すために腹を切る[詰腹(ツメバラ)]。誰かに陥れられたりした場合に恨みの為に腹を切る[無念腹(ムネンバラ)]。先に殉死した仲間と並ぶために腹を切る[論腹(ツライバラ)]。自分の家の存続や家名を上げるために腹を切る[商腹(アキナイバラ)]などがあるが、どのような理由にしろ腹を切ると非常に痛く血も出た。

  腹を切る方法も具体的に伝えられている。腹を横に真っ直ぐに切ることを[一文字腹]。一文字に切った後で、それと臍の辺りで交差するように縦に切るのを[十文字腹]と呼び賞賛を浴びる方法だったが、そこまでは意識のほうが持たずに、お城への通勤路に多いT字路をお腹の上に書いたあたりで、意識不明になる場合が多かった。

  日頃威張りくさる侍の中には、往々にして切腹の席に座っても踏ん切の付かない者も当然にいた。「上役にやれといわれたから藩の金を盗ったので、何も悪いことをした訳はない。その一部をたまたまパチンコに突っ込んだが、それは返せば済むことだ。なんで腹を切らなければならない」などと泣き出す寸前の者をせき立てるために[介錯(カイシャク)]という係りが作られた。刀を持っても、自分のお腹を見つめるだけで実行力に欠ける者の為に、首の方を先に落としてしまう方法が考え出されたのである。当時も、役所ぐるみで隠し金を蓄積して、年末には一人に一人の割りで芸者やコンパニオンを付けたフタハクミッカの忘年会をもようしたりすることが多く、その一部のツイテイナイ省庁が槍玉に上がる場合には多数の切腹者を出したが、腕の良い[介錯人]グループのお陰で、その事務の効率には目覚ましものがあった。

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かって、田中角栄ありけり

平成2036

田中角栄に関する本は、過去に何十冊も世に出た。田中角栄を書けば少々眉唾であっても売れた時代があった。しかし、あの田中角栄の素晴らしい人間性を表現することなど、誰一人できなかったように思えた。

田中角栄は大正754日、新潟県刈羽郡大字坂田で生まれる。様々な障害多き道を辿って、昭和22年第一次吉田内閣解散による第23回衆議院議員総選挙で第1回目の当選し、政界へのデビューを果たした男である。

かくいう田中角栄は、敗戦を朝鮮半島のある工事現場で迎えた。勿論、人の下で鶴嘴を振り下ろしていたのではなく、暖かな眼を部下に注ぎながら荒い言葉で工事を急がせるのが仕事であっただろう。部下として使用していた者を含め、周囲の者が戦勝国の国民となった朝鮮からの脱出は並大抵のものではなかったはずだ。遠くは倭寇に苦しめられ、太閤秀吉の時代にも日本国に虐げられ続けた朝鮮国民にも、日本人以上に暖かい血が流れていたことも彼に幸いした。田中角栄は、幸運にも帰国を果たすことが出来たのである。

帰国しても天性の土木人の田中角栄は、建設会社を運営し続けた。後に「コンピューター付ブルトゥザー」と呼ばれた人物が若いときに馬力がない筈はなく、周囲の信用とお金をかき集めたことは容易に想像できる。当時、彼の会社顧問に戦前から国会議員をやっていた男がいて、田中の名で政治的なお金を自分を含めた政治家に用立てることがつづいた。献金することが政治行動と呼ぶのなら、これが最初の政治的な行動である。田中の会社の顧問だった議員の勧めで、衆議院総選挙に立候補する。周囲の裏表ありの裏切りが元で、結果は落選。一年後の昭和224月の総選挙に出て初当選した。その時、田中は28歳であった。

田中は初当選の3年後の昭和25年頃から、議員立法活動に精力を傾けるようになる。田中の政治活動の一貫した理念は、裏日本の民衆を貧困から解放することにあった。それは、全国民が平等の生活安定を図かるために国土の再編成をすることにより、日本列島の再利用を目指すことであった。なにやら、すごく難しい土木的なことを考えていたようだ。

田中は法案提出者の代表となり、昭和25年から同28年の4年間に、なんと21の法律を成立させたのである。内容は国民生活の基本となる住宅、道路、国土開発や、弱者の救済に関する立法である。

「仕事すれば、批判や反対があって当然。何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、あ、あ、田中は仕事をしているのだと、まぁこう思っていただきたい」彼は後年、人の前でこういっている。

後年成立した[住宅金融公庫法][公営住宅法][道路法][道路整備費の財源等に関する臨時措置法]の法律は、少なからず田中の力によるものである。

「私はね、理想がないわけじゃないが、理想を求めて果てしない旅を続けていく性分じゃない。今日は今日、その日にタイムリーにものを片付けるんです。明日でも来年でも、同じ問題に対して別な解決法が出てきたら、政策の転換をすればいい。だから、判断は非情に早いんだ」昭和45年の幹事長時代に田中が言った言葉である。

田中は昭和4775日、総裁公選決戦投票で第64代自民党総裁に選ばれた。このときの対抗馬は、以前から確執のあった現在の総理大臣福田康夫の父君福田赳夫である。国会での首班指名を受けて内閣総理大臣に就任したのが田中角栄54歳のときであった。後年、安倍晋三という人が52歳で 総理大臣になったが奇麗事をいい続けた末に立ち行かず、「アソーにはめられた」との失言を残し一年後に退陣した。本当の意味での政治家は、したたかさを持つ安倍をはめた方だが、もしも私に首班指名の一票があったとしても、この方には投じない。その点、田中角栄の場合、前総理大臣に「お前はこの次だ」といわれたのにもかかわらず、当然総理大臣に納まるべき福田赳夫に戦いを挑み、総理大臣の椅子に滑り込んでしまうという、[何でもありバトル]を作り出すという政治的なセンスを持っていた。

幹事長時代の田中角栄に、100万円の金策を依頼した者がいた。その人は300万円の入った袋を渡された。袋の底にある1枚の田中のメモが目に入った。「100万円で借金を返せ、100万円で家族と従業員にうまいものを食わせろ、100万円は貯金して置け、以上返却は一切無用」であった。田中軍団の根底に流れていたものは、トップに対し持ち続ける強い憧れのようなものだったのかも知れない。

田中は日本の現職宰相として始めて中国を訪問し、時の周恩来総理との日中共同声明により国交正常化を図った。田中角栄が首相就任後84日目に成し遂げた、戦後27年目の日中国交正常化であった。聞くところによると、「過去にいろいろあったが、今後は仲良くやろう!」という意味の言葉だけで、過去の戦争責任や領土問題などは一切口にせず、周恩来の手の骨が折れるにではないかと思われるほ強く握り続けたということである。もともと土建屋である田中の握力は並はずれで、誤って石を強打したアイアンの曲がりを、両手で簡単に元に戻したとい伝説がある。私は「まさかそこまではないだろう」と密かに思っている。

日本列島改造論が根底にある田中角栄の政策が軌道に乗るかに見えた昭和4810月、オイルショックは起こった。原油輸出元のアラブ諸国が、喧嘩相手のイスラエルの肩を持つ西側へ対しての制裁策をとったのである。原油の生産を制限し、価格を常識の枠から噴出するほどの値上げした。国内の道路に溢れるほど自動車を走らせていた日本人はオッタマゲテ、狼狽の末にトイレットペーパを買いあさったりした。

経済大国の日本を任された田中は、資源海外依存度の高さを誇る国の有るべき姿を、エネルギー資源確保の国際的協調以外にないと考えた。このことが外交に反映され、首相在職の2年5ケ月間に8回も海外にでて、延べ20ヶ国を訪問している。

昭和4911月ロッキード疑惑で追い詰められての退陣表明をした後も、田中軍団の勢力は衰えなかった。総裁公選前の昭和475月の旗揚げ時、田中派は衆院、参院合わせて81人だった。それが最終的に141人まで膨張した。この田中派も、昭和6274日の竹下派独立により消えていく。角栄は怒った。眞紀子も怒った。直紀は物陰に隠れた。

「創業ということが、いかに難しいかは誰でも知っている。先達が作った会社を継承し、業績をあげるのは難しいことではない。初めて仕事を起こすときは、実績がないので銀行が金を貸してくれないし、友達も協力してくれない。創業者に敬意を払い、敬慕の情を持つのは、お互い当然のことである」ある大手企業創業者の一周忌法要参列時に田中角栄が話した内容である。

そして、平成512月、田中角栄は75歳で永眠した。

  いま考えると、田中角栄の長所でも短所であるバンカラには胸の奥が暖かくなるような人間性が秘められていた。当時、靴下で下駄を履くことをたびたび試したが、身体だけが前に行き下駄はその位置を動かないほうが多かった。靴下を履いたまま下駄を引きずるのが似合った人は彼をおいて未だに無い。

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