平成20年2月25日
H19-10-15
近年のメジャーリーグでの日本人選手の活躍は目覚ましい。イチロー、松井秀喜、松井稼頭央、江口、城島、野茂、大家、松坂、井川、数え切れないほどの日本人がアメリカ各地の球場のマウンドや外野に立っている。シーズン中は海の向こうの各試合経過を確認するのも、格別の楽しみである。
日本人が海外で脚光を浴びたのは野球に限ったことではない。古くから世界を舞台にし、文学、医学、科学、音楽、建築、スポーツ、冒険、登山等々の各分野での多くの日本人の巨星達が築き上げてきたものは、現代の我々の生活に深く浸透している。それらの先人を思うとき、この胸の中を熱いものが駆け回る。
ハリウッド映画への日本人の進出は、かなり前から盛んに行われていた。その中には、堂々と主役を演じ、世界中の女性のハートをくすぐった俳優も実在している。
[早川雪洲]は、1889年(明治22年)に生まれる。1908年(明治41年)に渡米し、シカゴ大学に入学。その後舞台に興味をもち、[タイフーン]の舞台公演中の雪洲の演技が大物プロジュ-サの眼に止まり、この舞台劇の映画化の話を持ちかけられた。1914年(大正3年)その映画[タイフーン]で主演した雪洲は、一躍ハリウッドのスターとなった。当時の雪洲は、まだ無名だった頃のハンフリー・ボガートが憬れたほどのアイドル系映画スターであった。ハリウッド映画界での雪洲は、アメリカ人が扮するには無理のある東洋人やアラビア人の役をこなし、製作者や監督から重宝がられた。そして、1915年[チート]でその名声を不動のものにする。チートの筋書きは、公的な金を使い込んだ女性が、その返済のために冷酷な東洋人から金を借りる。もし返せなかったら男の情婦になる、ということが条件であった。当時のアメリカの女性は、この金貸役の雪洲を見るために自分の持つ最高のドレスを着用して劇場に入ったという伝説が残されている。
戦後まもなくの1957年(昭和32年)公開の[戦場にかける橋]は、主題歌クワイ河マーチのヒットと共に世界中で上映された。物語は戦時の日本軍の作戦上重要な橋を、タイとミャンマー(ビルマ)国境のクワイ河に架けるというものであった。タイにある日本軍捕虜収容所内の連合軍捕虜の労力で橋の建設を進める収容所所長役の雪洲らと、イギリス軍捕虜のアレック・ギネス、アメリカ軍捕虜のウィリアム・ホールデンその他の出演で映画史上の古典となっている。
雪洲はハンサムでは有ったが、背が足りなかった。そのため撮影時には、周囲の俳優の身長にあわせるために台の上に乗らなければならなかった。今日でも、背の低い男優のために台を用意することを[せっしゅう]と呼ぶ。早川雪州の戦時中は、アメリカ側からも日本側からも敬遠されることになったが、晩年は日本に帰国し映画やテレビに顔を出したりもした。雪洲は、1973年11月に祖国日本で亡くなった。84歳の大往生であった。
[マコ・イワマツ(岩松信)]は、1933年神戸に生まれた。プロレタリア画家の父は母を連れ、戦前にアメリカに亡命する。戦後に両親の後を追って15歳の岩松信は渡米した。彼こそ、戦後のアメリカに永住権を持った最初の日本人なのである。
彼はダスティン・ホフマンと同期で演劇学校を出て、アジア系劇団の舞台で[羅生門]の盗賊役を演じていたところをロバート・ワイズ監督に認められた。1966年ステーブ・マッケーン主演の[戦艦サンパブロ]に大抜擢され、このデビュー作でアカデミー助演男優賞候補となる。
日本映画でも1998年[中国の鳥人]では、おかしな日本語を話す中国人役で観る者の腹の皮をよじる。翌1999年には、中井貴一主演[梟の城]で豊臣秀吉役を演じ、存在感ある芸を見せた。
[ソー・ジィン(上山草人)]は、1884年仙台に生まれる。35歳で渡米し、サイレント映画の名作[バグダットの盗賊]でダグラス・フェアバンクスの敵役モンゴル王子役でスターとなる。「細長い顔とやせた長身を見ると、一種の恐怖さえ覚える」が、彼の人気の秘密であった。変わったファンもいるものである。1925年[海の野獣]でジョン・バリモアと競演するなどハリウッド映画に多数出演したが、ハリウッドでは一度も日本人の役はなかった。
ソー・ジィンは晩年、黒沢明監督[七人の侍]に琵琶法師役で鬼気迫る演技を披露する。彼は自分が出演した七人の侍の公開直前に、70歳で死去した。彼に限らず、一般に脇役を演じる俳優の演技力は高い。映画は大勢の脇役の渋い演技があって始めて名作となるのである。
[丹波哲郎]は1922年東京に生まれる。戦後間もない時期GHQの通訳をしていた経緯から、英語はお手のものであった。その後に新東宝入社、生涯に323本の邦画に出演し、2006年の亡くなるまで現役で通した。外国映画ではショーン・コネリーの[007は二度死ぬ]で日本国内情報局のリーダー役で出演したのが有名だが、それに先立ち多数のハリウッド映画に出演している。
1961年[太陽にかける橋]ではキャロル・ベイカーと競演。
1964年[第七の暁]でウィリアム・ホールデンと競演。
1969年[五人の軍隊]ではピーター・グレイヴスと競演。その他でも、ハリウッドスターと互角以上に渡り合っている。
[ハロルド坂田]は1920年7月、アメリカのハワイ州で生まれる。[007/ゴールド・フィンガー]では、ゲルト・フレーベ演ずるゴールド・フィンガーの命令で、鋼鉄の帽子を投げ飛ばして人間を殺傷する用心棒役として強烈な印象を残した。ハロルド坂田は身長こそ短いが、1948年のロンドン・オリンピックでの重量挙げで銀メダルを獲得したほどの頑強な身体の持主である。プロレス・デビュー時の呼び名は[トシ東郷]で、[グレート東郷]の弟というふれ込みの[東郷ブラザーズ]としてアメリカリング上で悪の限りを尽くした。つまり、全アメリカ国民から嫌われることにより巨万の富を獲得した男である。
ハロルドが1926年GHQの要請で初来日したおり、ナイトクラブで大喧嘩をした相手の力道山をスカウトしプロレスラーに育てた。力道山とはその後アジア・リーグでタックを結成し、日本リング上では善玉を演じることになる。締まったドラム缶型の身体を持つ渋い男は、数多いプロデューサーから映画出演を誘われたが、その中の自分に合った映画だけに出演した。1982年に死亡した彼は、生涯を通しハロルド坂田役しか演じられない俳優でもあった。それが、スターの条件でもある。
[伊丹十三(一三)]は、映画監督伊丹万作の息子として1933年京都に生まれた。1946年に父を亡くし、母の郷里松山で高校時代をおくる。高校時代の同級生に、後に作家になった[大江健三郎]がいる。大江はその後、伊丹十三の妹と結婚することにより義弟となった。大江健三郎原作の私小説を、1995年に義兄伊丹十三監督で映画化したのが[静かな生活]である。
伊丹は高校卒業後に大学受験に失敗したことを期に上京、1960年27歳で大映東京に入社する。時の社長[永田雅一]より[伊丹一三]の芸名を受けて[嫌い嫌い嫌い]で主役デビューをはたす。だが、その後の1年は脇役にまわされたので、スターとしての資質に欠けていたのであろう。新規一転、1961に英国に渡り国際俳優となるべくロンドンに事務所を構える。
1963年にオーデション受けたハリウッド作品に出演が決まる。100年ほど前の中国での排他運動の渦中からの脱出を描いた映画[北京の55日]で、明治期の日本軍守備隊役を演じ[イチゾー・イタミ]の名を世界に知らしめる。この映画の競演者には、[ベンハー]のチャールトン・へストン、[80日間世界一周]のデビッド・ニーブンがいる。
1965年の[ロード・ジム]では、[アラビアのローレンス]で当たりを取ったピーター・オトゥールに絡む南海島の族長の息子役で、全世界の映画ファンに好印象を与えた。当時32歳の伊丹の身体は鞭のような躍動感を持ち、台詞なしの個性的演技でこの映画を引き締めたことは言うまでも無い。
その後の伊丹は日本でのテレビや映画で活躍し、1984年の[お葬式]で監督に転向する。
1985年に[タンポポ]、1987年[マルサの女]と波に乗り、1992年の[ミンボウの女]のリアルなやくざ批判では、複数の暴力団員から暴行を受けて病院に担ぎこまれた。翌年1993年の復帰作[大病人]では、病院内部事情を正直に取り入れてしまい、反発勢力(誰からか頼まれた非合法集団)に公開中のスクリーンを切り裂かれなどのトラブルに合う。
伊丹十三は、1997年12月21日に自宅のマンション屋上から飛び降り自殺を図った。自殺の原因となる理由が不明瞭であったために、謀略説が噂された。
[パット・ノリユキ・モリタ]は、1932年にカリフォルニア州に生まれた。家計を支えるためにコンピュータ関連企業で働くが、あるきっかけを期にショービジネスの世界に入りスタンダップ・コメデアンとしての人気を得る。バット・モリタの映画デビューは1967年で、[メリー・ポピンズ][サウンド・オブ・ミュージック]の成功でトップスターの座にある[ジュリー・アンドリュース]主演の[モダン・ミリー]で、ひとさらいの手下役でコミカルな演技を披露した。数多くの脇役での映画出演のあと、1989年の[ベスト・キッド]での空手の先生役の演技では、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。1991年の邦画[ストロベリーロード]では、マコ、三船敏郎、松平健らと競演し、日系の老紳士役で重厚な演技を見せている。1989年[ベスト・コップ]では迷刑事役で主役を演じ、コメデアン[ジョイ・レノ]と共にストーリーそのものをめちゃめちゃにしてしまった。
[三船敏郎] は[七人の侍]他の一連の黒沢明監督以外にも数多くの映画に出演し、それなりの評価を得てはいる。しかし、黒沢明以外は、三船敏郎が持つ魅力を存分に画面に引き出すことは出来なかったように思われる。
三船は1967年ハリウッド映画[グランプリ]で本田宗一郎に扮し、名優ジェムス・ガーナ、イブ・モンタンと共演する。1968年[太平洋の地獄]では、ハリウッド随一の性格俳優リー・マービンと競演。1971年フランス製西部劇[レッド・サン]では、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演。1975年米映画[ミッドウェイ]では山本五十六役で、チャールトン・へストン、ヘンリー・フォンダと共演した。
そして、1920年中国の山東省青島に生まれた三船敏郎は、やるべきことを総てやりつくし1997年12月24日に77歳の生涯を閉じた。
[高倉健]は、1931年福岡に生まれる。1955年に東宝入社、数多くの作品に主演し不動の地位を築く。中でも1968年オーストラリアロケで志村喬と競演して撮った[荒野の渡世人]という和製西部劇は、マカロニ・ウエスタンに引っ掛けた[梅干ウエスタン]と呼ばれて注目を集めた。
高倉健のハリウッド映画出演は、1970年[燃える戦場]でクリフ・ロバートソン、ヘンリー・フォンダと競演。1974年[ザ・ヤクザ]でロバート・ミッチャムと競演。1989年[ブラックレーン]でマイケル・ダグラスと競演する。この映画では、松田優作の殺し屋役が評判となったが、その後にガンで死亡した松田優作の遺作となってしまった。一方の健さんは1992年[ミスター・ベースボール]のプロ野球監督の役でトム・セレクトと競演し、現在に至るまで数々の名作に出演し続けている。
[サニー・千葉(千葉真一)]は1939年福岡市に生まれる。1957年に日体大機械体操科に入学、1959年に東映入社したあと現在まで152本の映画に出演、5本の映画を監督している。[戦国自衛隊]ではアクション担当監督でブルーリボン・スタッフ賞を受賞している。
千葉が1991年に出演したハリウッド映画[エイセス]では零戦パイロット役で、アメリカでの千葉の名は[サニー・チバ]で知られている。また、1995年[ザ・サイレンサー]での迫力ある殺し屋役では、主演のロバート・ダヴィを完全に喰ってしまった。彼は現在でもきびきびしたアクションを身上とした二枚目俳優で、自身が設立した[俳優養成所ジャパン・アクション・クラブ]で、真田広之他、多数のアクション俳優を育てた。
[ガッツ石松]は、1949年栃木県に生まれた。もともとはボクサーで、ライト級世界王者まで登りつめた男である。プロボクサーでの生涯戦績は51戦31勝14杯6分と輝かしいものであった。ボクサー引退後に総ての人が止めるのも聞かず芸能界に入り、テレビのバラエテェー番組やドラマに出演してお茶の間の人気を得る。彼の利巧ぶらない飄々とした人柄は、誰からも愛されることになる。
ガッツ石松は大方の予想を裏切り、NHKの大河ドラマに出演した。そのことを期に、テレビ、映画の現場から出演依頼が殺到し、ハリウッド映画にも数多くの出演作がある。
1987年スピルバーグ監督の[太陽の帝国]での日本兵役。1989年[ブラックレイン]では、マイケル・ダグラス、高倉健をむこうにまわしてのヤクザ役で、迫力のある演技を披露している。以前に人を殴る商売をしていたからか、人を殴る演技には真に迫る臨場感が漂う。
[若山富三郎]は1929年に生まれた。映画界にはいる前には弟の勝新太郎などと歌舞伎の一座を組み、アメリカ公演などに出かけては三味線などをかき鳴らしていた時期もある。
彼も勝新と同じ時期に映画界に入ったが、二人ともなかなか当たりがとれずに低迷時期が長かったが、その後に個性を生かした演技でスターとなる。若山富三郎は、脇役、主役を合わせて、1992年に亡くなるまでに247本の映画に出演している。
アメリカ映画では1978年[がんばれベアーズ!日本上陸]で、少年野球日本人チームのコーチ役で出演し、体格に似合わない機敏な演技を披露している。この映画では、アメリカ少年野球チームのベアーズのコーチ役としてトニー・カーチスが出演しているが、第1作目のコーチ役ウォルター・マッソーと名子役ティータム・オニールのコンビと比べると魅力は薄いように思える。
若山富三郎は後年、マイケル・ダグラス、高倉健が出演した1989年「ブラックレィ-ン」で、重厚なヤクザの首領役を好演した。1992年に、若山富三郎は62歳の生涯を閉じた。残念ながら死に神は、彼ほどの男でも特別な扱いをしなかったようだ。
近年の渡辺謙、真田広之と、海外に進出して航跡を残した日本人俳優は数多い。今後も海外にはばたく若者の数は、さらに多くなるであろう。しかし、映画ファンの私のドライアイはますます進行し、テレビの画面を見るのさえつらくなったことは皮肉ではある。もっとも、見なくてはならないというものでもないのだが。
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