映画・テレビ

森繁久弥と映画[地の涯に生きるもの]

平成211115

  偉大な俳優[森繁久弥翁]2009年(平成21年)1110日に亡くなられた。

1913年(大正2年)54日に大阪に生れての波乱万丈、96歳での大往生であった。

  森繁久弥は、実業家の父菅沼達吉と大店海産物商の娘だった母愛江の間にできた3人兄弟の末子で、2歳の時に父を亡くし、7歳の時に母方の祖父の森繁姓を継ぐことになった。

  堂島尋常小学校、北野中学校、早稲田第一高等学院を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学商学部へ進学する。

森繁久弥は大学在学中を通し演劇部に所属し、先輩部員にその才能を認められての中心的存在となった。このころ、当時東京女子大生で後の[萬壽子夫人]と出会っている。

学生でありながらアマチュア劇団にくみし築地小劇場公演などに参加していたが、当時必修とされていた[軍事教練]には我慢できず、1936年(昭和11年)に早稲田大学を中退した。

  森繁久弥の本格的な演劇世界へのあしがかりは、長兄の紹介で東京宝塚新劇団(現東宝)に入団したことに始まる。どの世界でも同じだが、演劇をめざす新参者が楽をして生きられる隙間はどこにもなかった。森繁久弥の演劇活動の手始めは、日劇の舞台進行係だった。

  東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座など多くの劇団を渡り歩くも、この世界の風は冷凍室内のように冷たく、やっと声がかかったのが馬の足の役だった。思いあまった末に、当時の歌謡ショーでの通行人の役を頼み込み物にしたが、観客の視線は人気絶頂の藤山一郎以外には1ミリも動かず、公演を重ねる度に孤独の底にひきずりこまれるのが常だった。

古川緑波に認められたロッパ一座では、その後を通して森繁久弥の盟友となる[山茶花究]と出会うも、1937年(昭和12年)には退団している。

  1939年(昭和14年)、森繁久弥はNHKアナウンサーの試験を受け採用された。勤務地は満州の満州電信電話の放送局で、満州映画協会の映画のナレーションを受け持たされた。

人をそらさぬ森繁の資質は、日本の傀儡国として中国に打ち立てた[満州国]の陰の支配者である軍部の実力者 [甘粕正彦]との交流などにも発展していく。甘粕は当時、満州映画協会理事長の職にあった。

  森繁久弥がアナウンサーに応募した理由は、軍国主義一辺倒の世の徴兵制度を逃れるのには、国外に出る以外にはなかったからである。役目柄、日本から満州巡業に来る国宝級の芸人との親交も生れた。[口座に座る姿そのものが一枚の絵であり、落語である]とまで云われた[五代目古今亭志ん生][六代目三遊亭圓生]との交流が生れたのだから羨ましい。私は、一度で好いから、生もの二人の噺を聞きたいと思っているうちに、両方とも向の世界に行ってしまった。

森繁久弥は1945年(昭和20年)の敗戦を新京で迎えて即、ソ連軍の手の中に神妙に落ちた。幸運にも、1946年(昭和21年)11月に徴兵制度の無くなった日本国土をドタ靴で踏みしめた。

  戦後も、戦前と同じく多くの劇団を渡り歩いたが、1947年(昭和22年)に衣笠貞之助監督の[女優]で映画初出演する。この映画は、実在の女優[松井須磨子]の生涯を山田五十鈴主演で描いたもので、森繁久弥はほんのちょっとのチョイ役であった。

衣笠貞之助は日本映画黎明期の偉大な監督で、無声映画時代の名女形で売り出したが、芝居や映画の世界にも女優が進出してきて女形の出る幕がなくなる。特にソノケが有っての女形では無かったので、さっさと監督業に転進した立派なオトコである。彼は、戦前に長谷川一夫を発掘し、そのデビューから彼を起用し続けてスターの座に導いた監督でもある。戦後も長谷川一夫と山田五十鈴を起用した娯楽作品の制作を続け、1953年(昭和28年)の[地獄門]ではカンヌ国際映画賞グランプリ、米国アカデミー賞の[名誉賞][衣装デザイン賞]に輝いた監督だった。だが、森繁久弥とこの映画とには、何の関係も生れなかった。

  1949年(昭和24年)の森繁久弥は、再建直後の[ムーラン・ルージュ]に入団して、演技もさることながら、アドリブでギャグを連発する歌唱力を持つことで、その人気は多数のコメディアンの中でも群を抜いていた。

  1950年(昭和25年)NHKラジオで[愉快な仲間] を放送した。これは、当時のアメリカで大ブレークした[ビング・クロスビー・ショー]を真似たもので、人気歌手の藤山一郎の歌とトークに絡ませるコメディアンとして森繁久弥に白羽の矢が立った。このコンビの人気は高く、それから3年続くことになる。森繁自身も映画や舞台にと引張り凧となり、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇[三等重役]の調子の良い人事課長役で助演したことにより、その後の[社長シリーズ][駅前シリーズ]を含めて、生涯を通して主演した映画をザット数えても243本にもなるビックスターとなったのだった。

  1960年(昭和35年)に森繁久弥の主演した[地の涯にいきるもの]が、私の忘れられない映画の中の一本となっている。森繁久弥57歳のおりの作品で、あまり関係はないと思うが、観ていた私は19歳だった。

これは、冬期間の知床半島で漁網を守る老人[留守番さん]と、知床半島の自然の中に生きる動物たちの交流を描いた戸川幸夫の短編集[オホーツク老人]を原作として製作された映画だった。

森繁プロ製作映画[地の涯にいきるもの]のストーリーは、以下のようなものだった。

[9月始のオホーツクの海には、荒々しく牙をむく波どもが縦横無尽に走り廻っていた。このころの知床半島から、昆布採り漁師の姿が消える。次に鱒漁師の姿が消え、10月に入ると最後まで残っていた鮭漁師もその姿を消す。こんな荒涼とした知床岬にたった一人の人間が残っている。漁師連中から[留守番さん]と呼ばれる精悍な顔をした老人の名は、村田彦市と云う。

  人々が立ち去った後の番小屋の中には漁網が残される。大地を覆いつくす氷と雪の中にも飢えた鼠がいて、すきあらば魚の匂いの残されている漁網に襲いかかる。網元は、それを防ぐ為に猫を飼う。その猫に餌を与えるのが、老人の役目であった。

  深い孤独を癒してくれる猫たちはいるが、稀に見られる平穏な海を眺めながら、その静寂の中で様々なことを回想する老人。

  村田彦市はオホーツク海に面した小さな岬の番屋で生れた。30歳の時に小さな船を買って独立した。漁期の番屋で、飯炊きとして働く娘[おかつ]を嫁にした。おかつは3人の子を産んだ。長男は流氷にさらわれ死んだ。次男は戦争で死んだ。おかつも急性の肺炎で死んだ。

  彦市は、東京の工場で働いている三男を呼び寄せて船を与えた。その船で漁に出た三男は、嵐に会って帰ってこなかった。彦市は三男の死を、どうしても信じることができなかった。彦市は三男の帰りを待つためにエトロフ島の見える番小屋の留守番さんになった。

ある夏の日に、三男の恋人がこの地の涯を訪ねてきた。愛する人の死んだ海を一度見たかったと云った。

  今の彦市を慰めるものは、亡くなった家族との思い出と猫だけだった。猫は、いつも彦市に甘えた。

  猫が大鷲にさらわれた。彦市は鉄砲を抱えて大鷲の後を追った。そして、氷の裂け目に足を踏み込んでしまった。必死で這い上がる彦市。番小屋の入口に向って氷の上を這い進む彦市。冷たい海水に濡れた身体の体温は残り少なかった。]

  この映画での彦市の妻役に草笛光子、彦市の3人の息子役に山崎努、浜村淳、船戸順が配され、三男の恋人役に司葉子が配された。製作されたのは1960年(昭和35年)で、今から49年前の映画である。映画の中での主人公が死んだのか、生残ったかの記憶はないが、森繁久弥はつい5日前まで生きていた。

  当時、森繁久弥が歌った[知床旅情]がヒットした。後で加藤登紀子も歌って、またヒットした。この映画の撮影で羅臼に来たおり、船の難破シーンを取りたいと思ったが前年の難破事故で村人の多くが亡くなっていることから、村人の協力が得られそうにもなかった。どうしても諦めきれなく、さらに御願いすると「森繁さんがそこまでいうのなら協力しようじゃないか!」と村人の一人が云ったことから望みのシーンを撮ることができたという。

  漁船の難破事故現場で、息子を捜す森繁久弥の迫真の演技を見ていた総ての村人が泣いた。昨年の事故で肉親を失った多くの婦人と子供たちが泣いた。息子を亡くした父母が泣いた。

  羅臼での仕事が終わろうとする何日か前に、森繁久弥はこの歌詞を一気に書き上げた。その次に日にギターを手に曲をつけたのがこの歌である。

[知床旅情]

1、知床の岬に はまなすの咲くころ  思い出しておくれ 俺たちの事を

    飲んで騒いで 丘にのぼれば  はるかクナシリに 白夜は明ける

2、旅のなさけか 飲むほどにさまよい  浜に出てみれば 月も照る波の上

    今宵こそ君を 抱きしめんと  岩かげに寄れば ピリカが笑う

3、別れの日は来た 知床の村にも  君は出てゆく 峠をこえて

    忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん  私を泣かすな 白いカモメよ

この歌の最初の題名は、[さらばラウス]だった。

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ひめゆりとさとうきび畑

                                                         平成20629

  平成20621日、福島県郡山市の中央公会堂で [ひめゆり]という映画を観る機会があった。昭和16年(1941年)128日の日本軍によるハワイの真珠湾攻撃と同時に開戦された太平洋戦争は、4年後の昭和20年(1945年)815日まで続いた。

  日本軍と連合軍とは、それぞれの国益上の主張を譲らず、広大な太平洋上にちらばる島々や半島を取り巻く制海権と制空権を争った。国力の違いや情報解析の格差により、戦いが進むにつれて日本軍の勢力は衰えてゆき、日本国の権力を手中にしていた一部軍属の読みの浅い指導力により、降伏という手段での終戦の機会は先送りになっていった。

  イギリス、フランス、アメリカ等の植民地化されていた東南アジア諸国や、他の南太平洋上の島々を制圧した日本軍も、連合軍側の刻々と進歩続ける兵器等の物量作戦により、当初制圧した土地と海と空を順次に明け渡すことになった。日本軍は、大きな物的消耗と人的損害により次第に追い詰められていく。

  アメリカ軍、イギリス軍を中心にした連合軍は、その後に沖縄本島への上陸作戦に出た。この日本領土内唯一の地上戦では、民間人と敵味方の両軍合わせて、数十万人の死傷者を出した。

  昭和20年(1945年)323日、沖縄の海に集結した米軍は、艦砲射撃と空爆を開始した。この日、教師に引率された女子学生222名が戦場に動員され、野戦病院に配属になる。

映画[ひめゆり]は、後の沖縄県立第一高等女子学校生徒らの、戦場における悲しくもけなげな体験を、生きて残された当時の生徒が生の声で語るドキュメンタリー形式の映画である。

  昭和20年当時に15歳から19歳だった沖縄に暮す少女たちが、突然投げ込まれた戦場という環境での生々しい証言は、この場で話すことを躊躇させられるほどの、生命への非尊厳的なものが多い。看護する少女たちと負傷兵の心の交流、負傷兵に取り付いて離れない死に神に対抗する少女たち。最後には、医療器具も薬品も医者もいない土の病院内での勤務だった。

  連合軍の兵士は壕の入口にせまり「中に人が居るのなら、どうぞ出てきてください。出なければ、私たちは焼き払わなければならない。早く出てきてください」

  負傷兵たちは、数人の少女たちに「学生さん、外に出てください。出れば助かるかもしれない。我々を、ここに残したままでいいから。いままでは、ありがとう。」映画の中での証言の一つである。

何度も何度も涙を拭きなら聞いた彼女らの語りをこの場に記すのは、63年前に戦死した少女らと、戦場から生還して63年間生きてなお少女の純真さを失われることのない方々を冒涜することになるではないかとの思いが涌く。

  学生当時の写真を横にして話される80歳を過ぎた彼女らのお顔は、どれも当時の面影が残され、乗り越えた苦しみの果ての静けさが秘められている。つらい過去を話すのには、想像を超える勇気が必要だと思われますが、彼女らのお子様たちは何度も何度も母親の前で涙と共の聞いたという。お子様方、お孫様、それに続く御子孫の方々は彼女らを誇りに思われことでしょう。私たちもまた、彼女らと同じ民族として、彼女らを素晴らしい先人として誇りに思うのです。

  ヒメユリは、山地の草原や林内に自生する背丈40Cm前後の多年生草で、濃い朱赤色の花を付ける。霧に濡れ草原の隅で風に震えている姿は、ことのほかゆかしいものである。

  映画[ひめゆり]の監督は昭和38年(1963年)生れの柴田昌平氏で、昭和63年(1988年)東大卒業後NHK入社、新シルクロード等を手がけ、その後の平成7年(1995年)独立、平成6年(1994年)から13年間に渡って記録した延べ100時間もの[ひめゆり]証言を編集して、この映像にまとめた。この映画は、今後くり返しくり返し上映されることが約束されている。大勢の人が戦争の悲惨さを知るために、戦争を2度とおこさないな為にも。

平成9年当時ヒットした歌に、沖縄での戦争の悲惨さを訴える[さとうきび畑]がある。  私は、太平洋戦争の始まった昭和16年に生れた。つれあいは、太平洋戦争が終結した昭和20年に生れている。

[さとうきび畑]

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

今日も見渡すかぎり 緑の波がうねる

夏の陽ざしのなかで

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

むかし海のむこうから いくさがやってきた

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

そして私の生まれた日に いくさの終わりがきた

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

風の音にとぎれて消える 母の子守の歌

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

知らないはずの父の手に だかれた夢を見た

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

父の声をさがしながら たどる畑の道

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

お父さんと呼んでみたい お父さんどこにいるの

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

今日も見渡すかぎり 緑の波がうねる

夏の陽ざしのなかで

  さとうきび畑は、寺島尚彦氏の作詞作曲で昭和42年(1967年)に[田代美代子]が始めてステージで披露したあと、[森山良子][ちあきなおみ]のほか、多くの歌手により現在まで歌い継がれている。

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居合による人斬りとツワモノ共の面々

平成2061

  私の仕事仲間に建築士のKT氏という男がいる。男と呼ぶと、呼ばれた方も呼ぶ方も、粗野な人物と思われるかもしれないが、呼ぶ方の私はともかくとして、私が男と表現するときは正真正銘の紳士、つまり[ジェントルマン][][魂を持つ人][本物の金玉を持つ人]を指す。

  KT氏は還暦を越えた今も、週2回ほどの割合で仲間と共に剣道を楽しんでいるとのこと、身の構え、目の静けさ、言葉の配りに整然とした法則のようなものを滲ませる侍である。過っての彼にもあった高校生の折には弓道を学び、大学時に踏み込んだ居合道は設計会社への就職後も続けられ、そしてその後は、日々の楽しみとして剣道を始めたとのことであった。

  仕事の打ち合わせの為に一台の車にKT氏と同乗して目的地に向う機会は多い。目的を果たした帰路も当然の事としてもと来た同じ車で移動する。車中では仕事の話はしない。いつの頃からか、私が読んだ藤沢周平の時代小説の話がきっかけで、剣豪が活躍する映画の話に熱中することが度々あった。特に興味を引いたKT氏の話に、黒澤明監督の[椿三十郎]という映画での三船敏郎と仲代達矢との決闘シーンのコマ送りでの殺陣の分解がある。

映画[椿三十郎]の粗筋は単純明快で、ある藩の次席家老の汚職を城代家老に告げたが相手にされなかった若侍9人組に、素浪人役の三船敏郎が助太刀し、悪を滅ぼすというものである。

  この映画のクライマックスは、9人の若者に見送られて去っていく主人公の椿三十郎の前に断ちはだかるのが、悪役の次席家老(志村喬)の用心棒の室戸半兵衛役仲代達矢である。

この決闘は一瞬で決まる。

  接近対峙する二人が互いに相手の目を見つめ合い緊張が高まっていく。

  室戸半兵衛が一瞬早く、左手で腰の鞘の部分を垂直に立て、右手で自分の顔の前をこするように真上に刀を抜く。この技は居合道の形の一つで、狭い路地や狭い室内などで抜刀するさい、前方の障害物に当たり抜ききれない場合を想定しての技である。

接近し面前に立つ椿三十郎の頭上へ抜き放し、その頭上で返し頭を両断する作戦だ。仲代達矢は黒澤明監督の希望で、この抜刀の瞬間だけを3ケ月間繰り返し繰り返し練習し、無理なく一瞬に抜けるよう身体に叩き込んだという。

  主人公の椿三十郎は、室戸半兵衛の1秒の何十分の1か遅れて、左腰の刀を左逆手で相手の身体に刀の刃が向くように抜き放ち、刀の峯に右手の拳を当て押し上げて室戸半兵衛 の胸元を深く切り裂く。その一瞬の室戸半兵衛の右手は己の頭上にあり、まさに三十郎の頭を断ち割る為に振り下ろすところにあった。

  室戸半兵衛の心臓が裂け、おびただしい血液が噴出し画面一杯を赤く染めた。これらの総ての動きは、1秒の半分の時間内に終わっていた。

  昔、モノクロ映画での椿三十郎は、私も映画館やテレビ放映時に何度も見ていたが、この決闘シーンの展開が一瞬ゆえに勝敗だけを確認するのにいっぱいで、どのような動きをしたかなどとは考えもしなかった。

居合道と剣道に親しんでいるKT氏の話しは、上記に書いた決闘シーンを見事に分析解体したコマ送りでの模範的な解説であった。その時は、車は道路の路肩に止めて話しを聞いたほどである。手が汗ばんでいた。

  もう一つ忘れられないKT氏の話しに、[坂本龍馬を切った男]がある。

坂本龍馬は維新直前に近代日本の建設に貢献した男として、誰知らぬ者はいない偉人である。

彼は、1836年に生まれ、18671210日に31歳で暗殺されている。しかし、暗殺者も、暗殺を依頼した相手もわかってはいない。かなりの憶測が飛び交ったが、真実はいまだ闇の中にある。

  坂本龍馬は20歳の折に、江戸の千葉道場で北辰一刀流の免許皆伝を受けた剣の天才である。18671210日暗殺される当日、京都にあった龍馬は風をひき知人の醤油屋を営む近江屋新助宅母屋二階にいた。その日は数人の訪問客の相手をして、最後に志を同じくする中岡某と会談中に数人の男に踏み込まれて切られたことになっている。

坂本龍馬暗殺の諸説の中に新撰組による謀略説がある。刀傷などから、切ったのは左利きの相当の使い手とされている。まず額を深く切られ、奮戦するもその傷がもとで直ぐに死んだとされていたのだった。暗殺当時の状況判断では、龍馬は刺客から不意をつかれた攻撃から、二の太刀を避けて刀に手を伸ばしている。そして、三の太刀を刀の鞘で受けるまでに態勢を整えている。龍馬の剣の技もまた、高度なものであった。

  当時の新撰組で一番若い隊士に斉藤一という剣の天才がいたことで、KT氏は仮説を立てた。居合いの技の中に、座して一瞬で抜刀し相手の両眼を横に払う形があることからの発想である。

  身分を偽って龍馬と対座した斉藤一は、刀を左腰から外し右脇の畳の上に置く。これは、利き腕側に置く事で、相手に対し敵意が無いことを知らせる礼儀上からである。龍馬もこの儀礼に従い同じく刀を右脇に置く。しかし斉藤は左利きなので、その座居から即、刀が抜ける。目的の前には不意打ちの罪悪感は無い。両眼を狙っての横一閃の太刀筋が走る。身をそらして避けた龍馬の額を斉藤の刀が捉えた。返す二の太刀を避けながらの龍馬の右手が刀を掴んだ。三の太刀を刀の鞘で防いだところで龍馬は死んでいた。一の太刀が致命傷であった。実際は違うかもしれない。が、坂本龍馬には悪いが殺陣としては面白い。

  斉藤一は実在の人物で、1844年(天保15年)に生まれ、1915年(大正4年)まで生きている。新撰組にあっての小野派一刀流達人の彼は、沖田聡司よりも若く「実戦では一番強いだろう」云われた男である。明治7年には政府軍にあり西南戦争に出征、以後警視庁に入り明治24年まで勤務している。72歳のおり、胃潰瘍で死亡した。

  現在にまで伝承されている居合道とは如何なるものかを調べると興味は尽きない。

  居合は[鞘の内]とも云われる武道で、刀を抜かずに敵を制するのを目的としている。すなわち、居合とは立会いに対する言葉で、敵の不意の攻撃に対して一瞬をおかず抜刀、鞘放れ一刀で勝負を決める剣技なのだという。書けば書くほど説明が混乱するほど、奥の深い道のようである。居合道の最終目的は[心身の鍛錬]だというから、ますますわからなくなってきた。

  私の場合、どうしても、居合と云えば座頭市で、座頭市と云えば勝新ということになってしまう。

  昭和35年に亡くなった子母沢寛という小説家がいた。[新撰組始末記][父子鷹]というような維新前後を舞台にした小説を数多く残し、第10回菊池寛賞にも輝いている作家である。彼のメモ帳風な [ふところ手帳] とい随筆集に「盲で居合を使う一匹狼の無法者に、市という男がいた」という15ページほどの記述が載っている。これを元に、大部分は原作外のエピソードを盛り込んで書き上げたのが三隅研次監督、勝新太郎主演の[座頭市物語]である。

  昭和6年に長唄三味線師匠の次男に生れた勝新は、中村玉緒の夫である。23歳の時に大映に入社。白塗りの二前目俳優として売り出されたが、主演作品を創るもさっぱり売れずに、全国の映画館主連から「勝を主役にした映画はつくらないでくれ」との苦情が殺到した。

  白塗り二枚目を棄てた勝新は、昭和35年の盲の悪党役[不知火検校]が大当たりし、その後の1匹狼やくざ[悪名シリーズ]や[兵隊やくざシリーズ]で大きな波に乗った。

[座頭市物語]は、中村玉緒との結婚式を終えるとすぐに頭を3分刈し、セット入りするほどに入れ込み、これが勝新の人気を不動のものにした。

第一作目の筋書きは、ひょんな事から貸元飯岡助五郎の許に草鞋を脱いだ市は、鉄火場で知り合った病身の浪人平手神酒(天知茂)と心を通わせるが、助五郎とは犬猿の仲の笹川繁造の用心棒として平手神酒はやとわれる。その後に、市の世話をしている助五郎の三下の許婚娘が殺され、その三下本人も親分のさしがねで殺されるような事件が相次ぎ、助五郎に利用された後の自身の運命をも予感する市であった。助五郎と繁造の決戦の時が来た。互いに惹かれながらも斬合いとなり平手神酒は市に敗れる。その後の市は、凄まじい居合の技で助五郎も繁造も斬り伏せて、どこいともなく去っていく。

この、盲のやくざ役の勝新の迫真演技は鬼気迫るもので、観客は背筋が寒くなり身震いが熾るほどであった。想像をしてもらいたい、坊主頭で白目だけの眼でジッート睨まれれば、他人のことは知ったことでは無いが、私なら、あとも見ずに全速力で逃げ出すことを請け合う。

  勝新は数々の映画に出演し自らも多くの名作の製作に携わったが、さまざまの事件をおこしたりするヤンチャ坊主の生涯を送り、咽頭癌の診断にもかかわらず手術を拒み、酒と煙草は平成9年621日の死の間際まで離さなかった。

  この映画[座頭市]は、余りにも娯楽性に偏り、剣道を嗜む建築士KT氏に話すべきどうかは非常に迷うところであった。結果、いまだに話してはいない。

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不動産王ハワード・ヒューズ(再)

平成2036

   H19-10-3

青年の頃に見た映画に[大いなる野望]がある。1964年にジョージ・ペパード主演で公開された話題作で、西部劇のクラッシュクとなっている[シェーン]で全世界に顔を知られたアラン・ラッドが、実在の西部男[ネバタ・スミス]役で脇を固めた映画である。

大いなる野望は、父親の死により,父の残した企業のトップに若くして座った主人公が、その企業を多岐に渡り拡大して行くさまを描いている。主人公を演じたペパードは、1961年の[ティファニーで朝食を]でオードリー・ヘップパーンと競演して、自らもトップスターに登りつめた男である。大いなる野望でのジョージ・ペパードは、自分の野望のためには周囲の人間を非情に切り捨てる青年役を演じた。この映画のモデルは、アメリカの大富豪[ハワード・ヒューズ]であることは、世界中が知るところであった。このハワード・ヒューズが何者で有ったかを語ることは、生涯貧乏の私にとり血沸き肉躍る世界に浸ることなのである。自分の不甲斐なさを棚に上げて、金持ちを憎んでばかりいても始まらない。

  ハワード・ヒューズは19051224日テキサス州ヒューストンで生まれる。16歳の時に母が病死し、2年後の1924年に父も急死する。父の残した資産数千万ドルの石油掘削ドリル賃貸業[ヒューズ工作機械]の経営権を18歳の時に掌握する。18歳の少年が居並ぶ重役陣を相手に、裁判所の力を屈指し優良企業の経営権をもぎとったのである。

1925年、19歳の娘と結婚した後に映画制作に興味を持つ。彼は家族と預金通帳両手にハリウッドに移住する。そこで、プロデューサーとしての仕事を始めたヒューズは、1作目で失敗するも、2作目[みんなのお芝居]と3作目[美人国二人行脚]で成功を収める。しかも[美人国二人行脚]でのルイス・マイルストーン監督は1927年のアカデミー喜劇監督賞に輝いたのである。

ハワード・ヒューズの5本目の作品は、自ら製作監督した[地獄の天使]だった。これは、やたらに空中戦が展開される飛行機が主役の映画で、ストーリーは取ってつけたような内容の映画だった。当初200万ドルで完成した無声映画だったが、完成時がトーキーへの過渡期にあたり、試写上映での観客の反応は期待はずれのものだった。彼はこの映画の公開はせず、音を入れての映画として撮りなおしたのである。成作期間に19ケ月、制作費400万ドルの[地獄の天使]は1930年にニューヨークの二つの劇場で公開された。結果は、興行的には大成功し、その後の2年間で800万ドルの純利益をもたらした。

波の乗ったかに見えたヒューズの映画制作活動は、その後3本の駄作を連続した。しかし彼は、そんなことで息消沈するようなタイプの男ではではなかった。すでに最初の妻とは離婚していたヒューズは、ハリウッドの女優などと食事、・・・その他のことをしながら、相変わらず彼が持つ複数の企業への指示や命令を発し続けていた。

[暗黒街の顔役]というギャング映画では、別件で訴訟騒ぎを起こしている相手方[ハワード・ホークス監督]を引き込み、19台以上の自動車をスクラップにするほどのリアルな映画に仕上げた。この映画で主演したのは[ポール・ムニ]で、[ジョウジ・ラフト]が助演した。その後の二人は押しも押されもしないギャング役のスターとなり、数多くのギャング映画に出演している。[暗黒街の顔役]のあまりの退廃的内容ゆえに、映画の内容をチエックする検閲局が横槍をいれた。ヒューズは、検閲制度そのものを否定する新聞広告を出し、映画関係者や一般の観客から大きな支持を得る。検閲局を相手に勝訴することにより一般観客の映画内容に対する期待度が高まり、[暗黒街の顔役]は空前のヒットとなった。その後のハリウッドでの成功とは対照的に、26歳のハワード・ヒューズの心は映画の世界から離れていくことになる。

1932年、ヒューズは自分と同年輩の有能な飛行機整備工と共に、改良した水上飛行機でアメリカ大陸横断の旅に飛び発った。当初3日の予定のこの飛行は、ヒューズの気まぐれのために18ケ月もの時間を消費する。その気まぐれの中には、旅の途中で単身ヨーロッパに渡り、船長と乗組員30名付きの全長96mのヨットを買ったりした道草も含まれていた。このスケールの大きな道草さには、世界中の男女が溜息をつかされたのである。

ハワード・ヒューズのその後は、以前に増して多忙な日々が続く。まず、19341月、全米飛行大会アマチュア部門優勝。同年ヒューズ航空機を設立。1935年には、同社開発の飛行機にみずから試乗、時速567Kmの世界新記録を樹立。19361月、単身大陸横断無着陸飛行9時間2710秒の新記録樹立。同年、後のトランス・ワールド航空の前身である航空会社を1500万ドルで買収、そのオーナーになる。

19387月、世界一周早まわり飛行で、従来の飛行時間記録半分の319時間8分の世界記録を樹立。

1943年映画[ならず者]公開。ジェーン・ラッセルをスターとして世に送る。

1946年、トランス・ワールド航空1600万ドル赤字。

1947年、トランス・ワールド航空800万ドル赤字。

1948年、映画会社RKO(当時ビック5といわれた映画制作会社の一つ)を900万ドルで買収。同年ヒューズ航空機の一部門として[エレクトロニクス企業]を興し、1953年にミサイル開発事業で2億ドルの売り上げを残す。

1952年、映画会社RKO、最初の5年間で2000万ドルの赤字で、株主がヒューズに損害賠償3000万ドル請求。この年のヒュウズの資産は推定5億ドル。

  1953年、映画会社RKOの全資産を3250万ドルで買収、その後に旧作フイルムを含め2500万ドルで売却。

1955年、トランス・ワールド航空のために1機250万ドルの新型機を25機購入。

1956年、ヒューズ航空機の年商5億ドル、ヒューズ工作機の年商25千万ドル。

1960年、ヒューズが計画中の503億ドルのジェト機購入につき訴訟がおこり、トランス・ワールド航空の新経営陣はヒューズを追放しようとするが、ヒューズは逆訴訟の策に出る。

1964年、係争中のトランス・ワールド航空は3700万ドルの黒字を出す。トランス・ワールド航空株の値上がりでヒューズは2億ドル以上の儲けを出す。ヒューズの個人資産143200万ドル。

1966年、トランス・ワールド航空の持ち株660万株を売却、54700万ドルを得る。

1967年、ラスベガス乗っ取り開始。カジノ、ホテル、航空会社、飛行場、テレビ局、総額1億2500万ドルの買い物をし、ネバダ州最大の資産家となる。ヒューズの個人資産20億ドル。ヒューズのマスコミ嫌いはますます深く激しくなり、人間の目から極端に身を隠す生活が続くことになる。

1970年、ラスベガスからバハマ諸島のパラダイス島のプリタニア・ピーチ・ホテルに本拠地を移す。

  1971年、ニカラグアのマナグナへ本拠地を移す。

  1972年、ロンドンに本拠地を移す。

  1973年、カリブ海の大バハマ島プリンセス・ホテルに移る。

  1976年、メキシコのアカプルコ・プリンセス・ホテルに本拠地を移す。

  1976年(昭和51年)45日午後1時、アカプルコからヒューストンの病院へ向かう救急ジェット機の中で死亡し、71年間の幕を閉じた。永いあいだ人前に出なかったためにハワード・ヒューズ本人と断定できず、FBIが指紋照合して彼の死んだことが証明された。約10年前に計算された個人資産20億ドルに、どのくらい加算されたかは不明だが、その集計作業を申し出る者は少なかった。数字の桁を間違えるのではという不安からである。ハワード・ヒューズが残した莫大な資産は次々と売却されることになったが、資産全部が売却されるまでに死後20年かかった。結局、遺産の大半は宇宙開発研究と医学研究に寄付されたいわれている。

  「金だけが総てではない」「金で買いないものもある」などと耳にすることがある。そんなものは金に不自由しないで生涯を送った人が、死の間際にいう言葉だろう。それは間違いである。実際に金で買いないものなどはなく、金で解決できないことはなにもない。その人は、ただ、金を出すべき時に金を出さず、金を支払ってでも解決しなければならないことを後まわしにしただけだ。

  私にも解決しなければならない問題がいっぱいあるが、正直な話し、金だけがない。

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西田敏行が演じた植村直己の世界

平成2033 

  西田敏行という俳優がいる。昭和22年に福島県郡山市生れで、日本中のファンにサービス過剰と思われる愛嬌を振りまき、生れ故郷の郡山市小原田中学の同級生との交流なども大切にしている。忙しく政治活動をしている増子輝彦とは小原田中学の同期であるが、西田敏行が選挙時の応援に駆けつけたという話は聞かない。西田敏行も、たまには浮気もするだろうが、少なくとも中学校の同級生の為に宣伝カーでマイクを握るような、見境のない公私混同をしない分別を持つ男だから、あの間の抜けた顔でも人々に愛されるのだ。郡山市に帰郷したときなどは、お忍びにもかかわらず中学の同級生と一緒に郡山駅前の陣屋などに繰り出し複数の店で冗談などをいった後に、小原田地区の[春こま食堂]でラーメンなどを啜って帰る。そこには鉢巻姿の[ハマちゃん]の似顔入りの色紙が飾ってある。彼がこのラーメン屋に寄るのは地元サービスのためではなく、春こまのラーメンの味そのものを心底から愛するからに他ならない。

  西田敏行の俳優としての実力は底知れず、NHK大河ドラマといわれるテレビドラマには、昭和47年の[新平家物語]を皮切りに平成18年の[功名が辻]まで12本に出演している。それも主役、又は、準主役としてである。一方、映画のほうでは、18本のシリーズを続ける[釣りバカ日誌]では、本人か役柄からかの区別の付かないキャラクターを演じ続け、爆笑の渦巻きが方々で勃発している。このような社員が現実に存在したならば、その企業は確実に倒産に追い込まれるだろう。

  西田敏行主演で1986年(昭和61年)に撮られた映画に[植村直己物語]がある。この映画は、封切の2年後くらいのテレビ放映時に見たように記憶している。あれから20年経過した現在でも、時々思い出し笑いをするシーンがあった。西田敏行扮する植村直己が、北極点犬橇単独行を達成する過程で、北極の氷原のど真中で油断した隙に犬たちに逃げられた時のシーンであった。西田は姿のない犬たちに向かい悪態をついたり哀願したり迫真の演技をする。極寒の空にしみわたる西田の声が届いたのか、遥か白銀の彼方から黒い点が滲み出し、それが次第に拡大されて犬たちの姿が現れ、こちらに向かいまっしぐらに進んでくる。犬たち一頭一頭を抱きしめ西田がいう「コノー!俺は本当に悲しかったのだぞ。淋しかったのだぞ」犬たちと会いなければ主人公の命はなく、主人公とはぐれた犬たちもまた、生き抜ける確立が小さくなる状況下での、西田の鼻くそだらけの顔が輝く瞬間の映像が忘れられないのだ。思わず手を叩きたくなるようなシーンだった。

  植村直己は昭和16年(1941212日兵庫県城崎郡飛高町上郷に生れ、後に日本人として初めてエベレスト登頂をはたし男である。そのことを含め、世界初五大陸最高峰を征服した英雄への賞賛は多く、その冒険の数々をニュースで知るたびに拍手を送りつづけた。同じ日本人として、勇気ある者が数々の足跡を残していく姿を誇らしいと思った。

  五大陸最高峰登頂とは、以下のようなものである。

①エベレスト(アジア大陸最高峰8848m)昭和45年(1970511日に日本人として初登頂。

②キリマンジャロ(アフリカ大陸最高峰5897m)昭和41年(19661024日単独登頂。

③アコンカグア(南米大陸最高峰6959m)昭和43年(196825日単独登頂。

④エルブルース(ヨーロッパ最高峰5633m)昭和51年(1976731日登頂。

⑤マッキンレー(北米大陸最高峰6194m)昭和59年(1984212日世界初冬期単独登頂。

植村直己が世界中の注目を集めている時期に、1932年(昭和7年)生れのもう一人の冒険家三浦雄一郎は、1970年(昭和45年)エベレストの8000m地点に立っていた。エベレストの35度の斜面を1000m下までスキーで滑り降りようというのである。午後一番にスタート。スピードを抑制するためにパラシュートなどを使用しての滑降途中で計算外の乱気流に阻まれ転倒、死を覚悟したが冷静な判断でクレパス手前で危機を脱出する。

  同日、エベレスト登頂前の植村直己は、6400mあたりのベースキャンプ付近で三浦雄一郎の身に起こった一部始終を偶然目撃していたという。2Kmも離れたところからの三浦の姿は、白紙にペンで記した一つの点より小さい存在であったはずだ。5日後の511610分、植村直己は8500m付近キャンプをパートナーの一人と共に出発、二人は910分に世界最高峰の頂点に立った。

  後日、三浦雄一郎と植村直己の雑誌紙面での対談の折に、植村はこう語ったという。「僕自身感じるのですが、エベレストのスタート点に立たれたときの三浦さんの姿は、今までの中で一番美しかったと思います。心の中の雑念すべてが消え、一瞬後の状況に集中できる透明なものを感じられたと推測します。今までの訓練を含むすべてが集約され、この時間にこの地点にたっているという思いです。自分がこれから生と死のすきまに滑り出すという状況におかれたときの姿が、人間にとって一番の美しさだと思います」

植村直己は一人でマッキンレー登頂に成功したその翌日(昭和59213日)、マッキンレー下山途中で消息を絶った。43歳であった。

植村直己は今も、誰も踏み込むことのできない氷河のクレパスに閉じ込められ、そこに永久保存されているのだろう。

  一人ぼっちで行動することが好きだった彼も、「死というものは、こういうものか」と、笑顔で死神と話しをしているように思えるのだ。

今も、彼と死神の二人ぼっちの会話は続いているだろう。

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ハリウッドの日本人 (再)

平成20225

H19-10-15

  近年のメジャーリーグでの日本人選手の活躍は目覚ましい。イチロー、松井秀喜、松井稼頭央、江口、城島、野茂、大家、松坂、井川、数え切れないほどの日本人がアメリカ各地の球場のマウンドや外野に立っている。シーズン中は海の向こうの各試合経過を確認するのも、格別の楽しみである。

  日本人が海外で脚光を浴びたのは野球に限ったことではない。古くから世界を舞台にし、文学、医学、科学、音楽、建築、スポーツ、冒険、登山等々の各分野での多くの日本人の巨星達が築き上げてきたものは、現代の我々の生活に深く浸透している。それらの先人を思うとき、この胸の中を熱いものが駆け回る。

ハリウッド映画への日本人の進出は、かなり前から盛んに行われていた。その中には、堂々と主役を演じ、世界中の女性のハートをくすぐった俳優も実在している。

[早川雪洲]は、1889年(明治22年)に生まれる。1908年(明治41年)に渡米し、シカゴ大学に入学。その後舞台に興味をもち、[タイフーン]の舞台公演中の雪洲の演技が大物プロジュ-サの眼に止まり、この舞台劇の映画化の話を持ちかけられた。1914年(大正3年)その映画[タイフーン]で主演した雪洲は、一躍ハリウッドのスターとなった。当時の雪洲は、まだ無名だった頃のハンフリー・ボガートが憬れたほどのアイドル系映画スターであった。ハリウッド映画界での雪洲は、アメリカ人が扮するには無理のある東洋人やアラビア人の役をこなし、製作者や監督から重宝がられた。そして、1915[チート]でその名声を不動のものにする。チートの筋書きは、公的な金を使い込んだ女性が、その返済のために冷酷な東洋人から金を借りる。もし返せなかったら男の情婦になる、ということが条件であった。当時のアメリカの女性は、この金貸役の雪洲を見るために自分の持つ最高のドレスを着用して劇場に入ったという伝説が残されている。

戦後まもなくの1957年(昭和32年)公開の[戦場にかける橋]は、主題歌クワイ河マーチのヒットと共に世界中で上映された。物語は戦時の日本軍の作戦上重要な橋を、タイとミャンマー(ビルマ)国境のクワイ河に架けるというものであった。タイにある日本軍捕虜収容所内の連合軍捕虜の労力で橋の建設を進める収容所所長役の雪洲らと、イギリス軍捕虜のアレック・ギネス、アメリカ軍捕虜のウィリアム・ホールデンその他の出演で映画史上の古典となっている。

雪洲はハンサムでは有ったが、背が足りなかった。そのため撮影時には、周囲の俳優の身長にあわせるために台の上に乗らなければならなかった。今日でも、背の低い男優のために台を用意することを[せっしゅう]と呼ぶ。早川雪州の戦時中は、アメリカ側からも日本側からも敬遠されることになったが、晩年は日本に帰国し映画やテレビに顔を出したりもした。雪洲は、197311月に祖国日本で亡くなった。84歳の大往生であった。

[マコ・イワマツ(岩松信)]は、1933年神戸に生まれた。プロレタリア画家の父は母を連れ、戦前にアメリカに亡命する。戦後に両親の後を追って15歳の岩松信は渡米した。彼こそ、戦後のアメリカに永住権を持った最初の日本人なのである。

彼はダスティン・ホフマンと同期で演劇学校を出て、アジア系劇団の舞台で[羅生門]の盗賊役を演じていたところをロバート・ワイズ監督に認められた。1966年ステーブ・マッケーン主演の[戦艦サンパブロ]に大抜擢され、このデビュー作でアカデミー助演男優賞候補となる。

日本映画でも1998[中国の鳥人]では、おかしな日本語を話す中国人役で観る者の腹の皮をよじる。翌1999年には、中井貴一主演[梟の城]で豊臣秀吉役を演じ、存在感ある芸を見せた。

[ソー・ジィン(上山草人)]は、1884年仙台に生まれる。35歳で渡米し、サイレント映画の名作[バグダットの盗賊]でダグラス・フェアバンクスの敵役モンゴル王子役でスターとなる。「細長い顔とやせた長身を見ると、一種の恐怖さえ覚える」が、彼の人気の秘密であった。変わったファンもいるものである。1925[海の野獣]でジョン・バリモアと競演するなどハリウッド映画に多数出演したが、ハリウッドでは一度も日本人の役はなかった。

ソー・ジィンは晩年、黒沢明監督[七人の侍]に琵琶法師役で鬼気迫る演技を披露する。彼は自分が出演した七人の侍の公開直前に、70歳で死去した。彼に限らず、一般に脇役を演じる俳優の演技力は高い。映画は大勢の脇役の渋い演技があって始めて名作となるのである。

[丹波哲郎]1922年東京に生まれる。戦後間もない時期GHQの通訳をしていた経緯から、英語はお手のものであった。その後に新東宝入社、生涯に323本の邦画に出演し、2006年の亡くなるまで現役で通した。外国映画ではショーン・コネリーの[007は二度死ぬ]で日本国内情報局のリーダー役で出演したのが有名だが、それに先立ち多数のハリウッド映画に出演している。

1961[太陽にかける橋]ではキャロル・ベイカーと競演。

1964[第七の暁]でウィリアム・ホールデンと競演。

1969[五人の軍隊]ではピーター・グレイヴスと競演。その他でも、ハリウッドスターと互角以上に渡り合っている。

[ハロルド坂田]19207月、アメリカのハワイ州で生まれる。[007/ゴールド・フィンガー]では、ゲルト・フレーベ演ずるゴールド・フィンガーの命令で、鋼鉄の帽子を投げ飛ばして人間を殺傷する用心棒役として強烈な印象を残した。ハロルド坂田は身長こそ短いが、1948年のロンドン・オリンピックでの重量挙げで銀メダルを獲得したほどの頑強な身体の持主である。プロレス・デビュー時の呼び名は[トシ東郷]で、[グレート東郷]の弟というふれ込みの[東郷ブラザーズ]としてアメリカリング上で悪の限りを尽くした。つまり、全アメリカ国民から嫌われることにより巨万の富を獲得した男である。

ハロルドが1926GHQの要請で初来日したおり、ナイトクラブで大喧嘩をした相手の力道山をスカウトしプロレスラーに育てた。力道山とはその後アジア・リーグでタックを結成し、日本リング上では善玉を演じることになる。締まったドラム缶型の身体を持つ渋い男は、数多いプロデューサーから映画出演を誘われたが、その中の自分に合った映画だけに出演した。1982年に死亡した彼は、生涯を通しハロルド坂田役しか演じられない俳優でもあった。それが、スターの条件でもある。

[伊丹十三(一三)]は、映画監督伊丹万作の息子として1933年京都に生まれた。1946年に父を亡くし、母の郷里松山で高校時代をおくる。高校時代の同級生に、後に作家になった[大江健三郎]がいる。大江はその後、伊丹十三の妹と結婚することにより義弟となった。大江健三郎原作の私小説を、1995年に義兄伊丹十三監督で映画化したのが[静かな生活]である。

伊丹は高校卒業後に大学受験に失敗したことを期に上京、196027歳で大映東京に入社する。時の社長[永田雅一]より[伊丹一三]の芸名を受けて[嫌い嫌い嫌い]で主役デビューをはたす。だが、その後の1年は脇役にまわされたので、スターとしての資質に欠けていたのであろう。新規一転、1961に英国に渡り国際俳優となるべくロンドンに事務所を構える。

1963年にオーデション受けたハリウッド作品に出演が決まる。100年ほど前の中国での排他運動の渦中からの脱出を描いた映画[北京の55]で、明治期の日本軍守備隊役を演じ[イチゾー・イタミ]の名を世界に知らしめる。この映画の競演者には、[ベンハー]のチャールトン・へストン、[80日間世界一周]のデビッド・ニーブンがいる。

  1965年の[ロード・ジム]では、[アラビアのローレンス]で当たりを取ったピーター・オトゥールに絡む南海島の族長の息子役で、全世界の映画ファンに好印象を与えた。当時32歳の伊丹の身体は鞭のような躍動感を持ち、台詞なしの個性的演技でこの映画を引き締めたことは言うまでも無い。

その後の伊丹は日本でのテレビや映画で活躍し、1984年の[お葬式]で監督に転向する。

1985年に[タンポポ]1987[マルサの女]と波に乗り、1992年の[ミンボウの女]のリアルなやくざ批判では、複数の暴力団員から暴行を受けて病院に担ぎこまれた。翌年1993年の復帰作[大病人]では、病院内部事情を正直に取り入れてしまい、反発勢力(誰からか頼まれた非合法集団)に公開中のスクリーンを切り裂かれなどのトラブルに合う。

  伊丹十三は、19971221日に自宅のマンション屋上から飛び降り自殺を図った。自殺の原因となる理由が不明瞭であったために、謀略説が噂された。

[パット・ノリユキ・モリタ]は、1932年にカリフォルニア州に生まれた。家計を支えるためにコンピュータ関連企業で働くが、あるきっかけを期にショービジネスの世界に入りスタンダップ・コメデアンとしての人気を得る。バット・モリタの映画デビューは1967年で、[メリー・ポピンズ][サウンド・オブ・ミュージック]の成功でトップスターの座にある[ジュリー・アンドリュース]主演の[モダン・ミリー]で、ひとさらいの手下役でコミカルな演技を披露した。数多くの脇役での映画出演のあと、1989年の[ベスト・キッド]での空手の先生役の演技では、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。1991年の邦画[ストロベリーロード]では、マコ、三船敏郎、松平健らと競演し、日系の老紳士役で重厚な演技を見せている。1989[ベスト・コップ]では迷刑事役で主役を演じ、コメデアン[ジョイ・レノ]と共にストーリーそのものをめちゃめちゃにしてしまった。

[三船敏郎] [七人の侍]他の一連の黒沢明監督以外にも数多くの映画に出演し、それなりの評価を得てはいる。しかし、黒沢明以外は、三船敏郎が持つ魅力を存分に画面に引き出すことは出来なかったように思われる。

  三船は1967年ハリウッド映画[グランプリ]で本田宗一郎に扮し、名優ジェムス・ガーナ、イブ・モンタンと共演する。1968[太平洋の地獄]では、ハリウッド随一の性格俳優リー・マービンと競演。1971年フランス製西部劇[レッド・サン]では、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演。1975年米映画[ミッドウェイ]では山本五十六役で、チャールトン・へストン、ヘンリー・フォンダと共演した。

そして、1920年中国の山東省青島に生まれた三船敏郎は、やるべきことを総てやりつくし19971224日に77歳の生涯を閉じた。

[高倉健]は、1931年福岡に生まれる。1955年に東宝入社、数多くの作品に主演し不動の地位を築く。中でも1968年オーストラリアロケで志村喬と競演して撮った[荒野の渡世人]という和製西部劇は、マカロニ・ウエスタンに引っ掛けた[梅干ウエスタン]と呼ばれて注目を集めた。

高倉健のハリウッド映画出演は、1970[燃える戦場]でクリフ・ロバートソン、ヘンリー・フォンダと競演。1974[ザ・ヤクザ]でロバート・ミッチャムと競演。1989[ブラックレーン]でマイケル・ダグラスと競演する。この映画では、松田優作の殺し屋役が評判となったが、その後にガンで死亡した松田優作の遺作となってしまった。一方の健さんは1992[ミスター・ベースボール]のプロ野球監督の役でトム・セレクトと競演し、現在に至るまで数々の名作に出演し続けている。

[サニー・千葉(千葉真一)]1939年福岡市に生まれる。1957年に日体大機械体操科に入学、1959年に東映入社したあと現在まで152本の映画に出演、5本の映画を監督している。[戦国自衛隊]ではアクション担当監督でブルーリボン・スタッフ賞を受賞している。

千葉が1991年に出演したハリウッド映画[エイセス]では零戦パイロット役で、アメリカでの千葉の名は[サニー・チバ]で知られている。また、1995[ザ・サイレンサー]での迫力ある殺し屋役では、主演のロバート・ダヴィを完全に喰ってしまった。彼は現在でもきびきびしたアクションを身上とした二枚目俳優で、自身が設立した[俳優養成所ジャパン・アクション・クラブ]で、真田広之他、多数のアクション俳優を育てた。

[ガッツ石松]は、1949年栃木県に生まれた。もともとはボクサーで、ライト級世界王者まで登りつめた男である。プロボクサーでの生涯戦績は5131146分と輝かしいものであった。ボクサー引退後に総ての人が止めるのも聞かず芸能界に入り、テレビのバラエテェー番組やドラマに出演してお茶の間の人気を得る。彼の利巧ぶらない飄々とした人柄は、誰からも愛されることになる。

ガッツ石松は大方の予想を裏切り、NHKの大河ドラマに出演した。そのことを期に、テレビ、映画の現場から出演依頼が殺到し、ハリウッド映画にも数多くの出演作がある。

1987年スピルバーグ監督の[太陽の帝国]での日本兵役。1989[ブラックレイン]では、マイケル・ダグラス、高倉健をむこうにまわしてのヤクザ役で、迫力のある演技を披露している。以前に人を殴る商売をしていたからか、人を殴る演技には真に迫る臨場感が漂う。

  [若山富三郎]1929年に生まれた。映画界にはいる前には弟の勝新太郎などと歌舞伎の一座を組み、アメリカ公演などに出かけては三味線などをかき鳴らしていた時期もある。

彼も勝新と同じ時期に映画界に入ったが、二人ともなかなか当たりがとれずに低迷時期が長かったが、その後に個性を生かした演技でスターとなる。若山富三郎は、脇役、主役を合わせて、1992年に亡くなるまでに247本の映画に出演している。

アメリカ映画では1978[がんばれベアーズ!日本上陸]で、少年野球日本人チームのコーチ役で出演し、体格に似合わない機敏な演技を披露している。この映画では、アメリカ少年野球チームのベアーズのコーチ役としてトニー・カーチスが出演しているが、第1作目のコーチ役ウォルター・マッソーと名子役ティータム・オニールのコンビと比べると魅力は薄いように思える。

若山富三郎は後年、マイケル・ダグラス、高倉健が出演した1989年「ブラックレィ-ン」で、重厚なヤクザの首領役を好演した。1992年に、若山富三郎は62歳の生涯を閉じた。残念ながら死に神は、彼ほどの男でも特別な扱いをしなかったようだ。

  近年の渡辺謙、真田広之と、海外に進出して航跡を残した日本人俳優は数多い。今後も海外にはばたく若者の数は、さらに多くなるであろう。しかし、映画ファンの私のドライアイはますます進行し、テレビの画面を見るのさえつらくなったことは皮肉ではある。もっとも、見なくてはならないというものでもないのだが。

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メキシコの荒野における男の美学

平成20119

    中南米と位置づけられているメキシコ合衆国の歴史は永い。紀元前1500年ごろのメキシコには、トウモロコシ、豆、カボチャ等の作物を基盤とした農耕文化が各地方に開花していたが、メキシコ高原地域での文明はこの農耕文明とは孤立した独自の道を歩む。3世紀のメキシコ盆地の山峡に最初の宗教都市文明[テオティワカン文明]が出現し、その影響力はメキシコ湾岸地方まで及んだ。テオティワカン文明が7世紀に滅びると、西方の過激分子が押し寄せてトルテカ文明が興る。この文明が12世紀に滅びると、北方よりメキシコ盆地に進入したアステカ族がメキシコシティに町を築く。その後に近隣部族と同盟と戦乱を繰り返し、結んだばかりの同盟などを裏切ることにより1427年にはメキシコ最大の国家に上り詰めた。14世紀から16世紀にかけてはアンデス地帯のインカ文明と時期を同じくし、メキシコの地はアステカ文明の絶頂期にあった。

  アステカの宗教は複雑な太陽信仰で、太陽に絶えず人間の心臓を捧げなければ太陽の活力が衰えるというものであった。このような宗教のために生贄の犠牲になった大勢の民衆の不満がつのり、為政者の名誉は地に落ちつつあった。中南米に侵攻して来るスペイン国営海賊団の近代兵器による殺戮により、1521年にはメキシコ全土が壊滅状態となる。こうしてインデオの文明は終焉を迎え、以後300年のメキシコはスペインの植民地となった。

  [世界遺産]とは1972年(昭和47年)のユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択された「世界文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づき登録された文化と自然遺産をさす。日本では、知床の自然景観などが比較的新しい指定となっているが、世界遺産に選ばれた文化遺産・自然遺産のどれもが、ユネスコ総会への出席者が好い加減な推薦により決めたものではないことが感じられる。

メキシコ国内で指定された世界遺産の数は25以上にも及ぶ。グアナファト州の州都グアナファトも、1988年世界遺産に指定された標高2050mにあるスペイン植民地色の強い都市である。この街の美は、起伏に富む地形に建設された街中を縦横に張り巡らせられた細く曲りくねった道の奥にも、ギッシリとコロニアル(植民地)風の建物が建っているところにある。

  街の名グアナファトの由来は、先住民族インデオの言葉で[カエルの丘]の意味の[グワナシュアト]から来ているらしい。スペイン統治が始まってまもなくの1548年、銀鉱山が発見されたグアナファトには多種の人間が集まり続け、18世紀の人口は10万人まで増加する。

栄枯盛衰が世のならい、19世紀後半には貨幣的価値観が金に移行したことにより、銀の価格が暴落する。そして、多くの銀山が閉鎖された。これは、銀鉱脈が枯渇したわけではなく、銀の価値観が枯渇したからで、いまだに少数の者が坑道奥で銀を生産し続けている。

この銀鉱の凋落によるダメージを打開したのは、学生だった。1960年代のグアナファト住民の20%は学生という状況下で、学生たちがこの町を世界に紹介するという快挙に出て一大観光都市に作り変えてしまった。現在でも、学生達が中心となり様々なエベントが開催され、年間を通し国外からの多くの観光客を引き入れている。音楽や文化を紹介する様々なエベントを主催する学生達のサービス精神は半端なものではなく、訪れた観光客を心底から癒しの世界に導いてくれる。

古来よりのメキシコ男の酒[テキーラ]は、無色透明な蒸留酒である。原料は彼岸花科の一種竜舌蘭で、この株から採った樹液を醗酵、蒸留してつくる酒である。この酒のルーツをさぐれば、14世紀~16世紀に栄えたアステカ王国で飲まれた[ブルケ]という醸造酒で、竜舌蘭の先端の切り口に溜まる樹液を醗酵させた酒であろう。17世紀の侵略者であるスペイン人の一人が本国から蒸留器を持ち込み、このブルケを蒸留した。それを口にした男はキーと白い歯を剥き出し、顔を横に一往復ゆっくりと振り「フー」と吐息を漏らした。これが、口にした酒への世界共通の賞賛のポーズである。このテキーラは、製造する地方によりメスカル、ピノスなどと呼ばれることもあるらしい。

  現在のテキーラの製造法は、竜舌蘭の一種[マゲィ・テキラナ]の株を割り、蒸気釜で蒸す。糖化した株をさらに砕き樹液を絞る。醗酵槽に入れられた樹液に酵母を加え醗酵を待つ。発行した液体を蒸留器に放り込み蒸留する。その結果、アルコール度45%から55%のテキーラができる。アルコールは、いたって簡単に何からでもできるものなのである。

  メキシコを舞台とした映画は多い。登場人物は、親指の付け根に盛り上げた塩をなめ、レモンの薄切りを齧ってから、いっきにテキーラを飲む。今は亡き渋い脇役俳優のウォーレン・オーツがこの[シューター]という飲み方をすると、彼の隠れファンの身体には痺れに似た快感が縦横に走る。

ウォーレン・オーツは、1928年(昭和3年)ケンタッキー州に生まれ、若くして演劇の道に入る。彼の個性が発揮されたのが30歳に出演した[潜望鏡をあげろ]というハリウッド映画である。デイゼル機関搭載のおんぼろ潜水艦に乗り組んだイカレタやつらが、海軍模擬戦闘訓練で最新式の駆逐艦を相手に勝利するという喜劇であった。アメリカ人はこのパタンーがよほど好きらしく、何度も何度も、100回も200回も類似品を作り続けるのである。 ウォーレン・オーツの渋いキャラクターに惚れ込んだのが、1960年代のハリウッドの寵児[サム・ペキンパー監督]である。後に、ペキンパー監督に「彼らと一緒に仕事ができれば、それだけで生きる価値がある」といわしめた[彼ら]の一人がウォーレン・オーツである。サム・ペキンパー監督の[ワイルド・パンチ]のラストシーンでのウォーレン・オーツの、何発もの銃弾を浴びながら崩れ落ちてもガトリング銃を撃ち続ける姿には、世界中のファンが感動を覚えた。ウォーレン・オーツを含む4人は、100人ものメキシコ盗賊団を相手に銃撃戦を挑む、自らも強盗を生業とするアウトローの集団なのである。彼らは敵の全員を抹殺して、おのれらも蜂の巣のように銃弾を喰らって死んでいく。このシーンに使用された模擬血液の量は、ドラム缶1本分だったという。

  メキシコの地をこよなく愛したサム・ペキンパー監督は、1925年弁護士の次男として生まれた。幼くして英才教育を叩き込まれたわけではなく、母方の祖父により「狩をするときは、しとめる動物には命がけで最後まで付き合うことが礼儀だ」「銃を敬う気持ちこそ大切なことだ」風の教育をうけた。一貫して悪餓鬼だった彼は、ハイスクールの時にミリタリー・アカデミー入れられた。その後に海兵隊に入隊し幹部候補生学校に入りまもなく落第、一兵卒として中国にはわたる。中国での列車移動中に、隣席にいた現地人荷役夫の頭が共産党側の狙撃兵に打ち抜かれ、周囲に散乱する脳味噌を見た。このあたりが、後年のサム・ペキンパー監督のバイオレンス映画[ワイルド・パンチ]の戦闘シーンに反映されたのではなかったか。

[ワイルド・パンチ]は、1968年当時の映画界でそれなりの作品を手掛けていたサム・ペキンパーに舞い込んだ大きな幸運であった。主演はウィリアム・ホールデン、準主役にアーネスト・ボーグナイン、ウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソンらの、燻し銀の輝きを持つ俳優達が並ぶ。彼らこそ、サム・ペキンパーが考える1969年代の男の美学を、荒涼としたメキシコの荒野を背景に再現した侍達であった。

  ウエリアム・ホールデンは、1953[第十七捕虜収容所]での演技でスターの座を確保した俳優である。1955年には[慕情][ピクニック]等のヒットで、マネー・メーキングスターの一位に輝いていたが、1960年代には台本に恵まれず低迷していた。1969年の[ワイルド・パンチ]でその個性が再び蘇る。物語の中では終始苦虫を噛み潰しした顔でのアウトローだが、「男はかくあるべきだ」という太い背骨が精神の中心にそそり立っている役を好演した。大量の銃弾が飛び交う戦闘シーン。身体を貫通する銃弾の雨により、吹き上がる大量の血液。穴だらけになった男達は、心臓が停止してもなお敵に向け引き金を引き続ける。この物語では4人全員死んだ。ウエリアム・ホールデンは198163歳で他界するが、死の数日後に発見されたという。まったく羨ましく、理想的な死に様ではないか。耳元で大勢の家族に名を呼ばれての賑やかな臨終が、必ずしも恵まれた最後だとはいいきれない。つまりは、人それぞれなのである。

  アーネスト・ボーグナインは悪役を演じれば背筋の凍るような演技をし、天使を演じれば大きなボタ餅のような顔一面に周囲の人が引き込まれるような笑顔を表す俳優である。彼のキリッと結ばれた唇がニヤリと開かれたとき、上前歯の黒い隙間が魅力のポイントになっている。1969年の[ワイルド・パンチ]公開時に「どんな理由で、あんなにも大量の流血描写が必要だったのですか?」との女性ライターの質問に、アーネストはこう答えた。「いいですかお嬢さん、人が撃たれると血は流れるものなのです」

  ベン・ジョンソンは1918年にオクラホマ州に生まれる。ベン・ジョンソンの映画界入りする以前の仕事はカウボーイで、腕のいいロデオ選手でもあった。映画界入りのきっかけは、ハワード・ヒューズ監督1940年作品[無法者]の撮影に必要な馬をカリフォルニアまで搬送するために雇われたことである。報酬が良かったことが理由で、以後ハワード・ヒューズ専属で雑用とスタントマンを勤めることとなる。そんな彼の風貌がジョン・フォードの眼に止まる。フォード作品の[三人の名付け親]で端役、[黄色いリボン]で青年将校、[ワゴン・マスター]で主演を務めた。そして、1969年サム・ペキンパーの[ワイルド・パンチ]へとつながる。ベン・ジョンソンもまた、この滅びの美学の表現で世界中の映画愛好者の息をとめさせた一人となった。

  メキシコは、太平洋岸、メキシコ湾、カリブ海に面した世界的保養地を擁する風光明媚な地域と、内陸部の赤土が高く舞い上がるマカロニウエスタンの舞台となるような荒涼とした風景とを持つ国である。そしてメキシコは、金をたんまり持ち込んで生活するのには最高の国である。もっとも、金をたんまり持ってさいいれば、何処の国のどの地域に住もうと、幸せは押し寄せてくる。

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ラスト・サムライと大和魂

平成20113

二年前の福島民友新聞の切抜き記事、[侍役者世界を切る]をみつけた。近年、内外でめざましい活躍をつづける[渡辺謙][真田広之][役所広司]の3氏に関しての心おどる内容であった。その中での[渡辺謙][真田広之]については、ハリウッド映画[ラスト・サムライ]に出演したおりのエピソードに絞られていた。

2003年(平成15年)公開の米映画[ラスト・サムライ]は、内外で大ヒットした。トム・クルーズの人気もさることながら、画面からあふれるばかりの日本人俳優の荒武者振りが、故黒沢明監督の数多い名作の戦闘場面を彷彿させるもがあったからであろう。彼らが演じた日本古来の武士の姿を通して、男とは!人間とは!を表現しつくしたスタッフと出演者全員に対し、世界中の人々の惜しみない拍手が湧き起こったかにみえた。

  [ラスト・サムライ]は、明治維新直後の日本国正規軍の軍事顧問として来日したアメリカ人のオールグレン大尉(トム・クルーズ)の眼を通して、反乱軍の大将(渡辺謙)と配下の者の内にある侍魂を謳いあげた物語である。この物語は、今もなお日本国民に慕われ続ける西郷隆盛の生き様がモデルとなっている。実名ではないが、敵役として明治維新の政治家の岩倉具視と大久保利通を合成させたような人物が出て、なにかと勝元盛次(西郷隆盛がモデル)と明治天皇との間に入り、勝元を反逆者に仕立て上げる工作をする。

この映画最後の侍達が壮絶に戦死する戦闘は、1877年(明治10年)924日、西郷隆盛軍最後の陣となった鹿児島城下の城山の戦である。正規軍に幾重にも包囲され、死を覚悟で銃弾の雨の中に怒涛のように駆けて行く侍達の姿を再現している。映画では、この壮絶な戦闘時に、反乱軍の真っ先を駆けていた主人公のオールグレン大尉は死なない。その後に生きて天皇の前に立ち、勝元盛次の汚名を晴らす。ラストシーンは、オールグレン大尉が馬に跨り、勝元の妹が待つ地に向かう馬上からの風景を延々と映しだしている。

ラスト・サムライは、良く吟味された脚本を演出者と出演俳優全員が全力投球で演技し、世界中の映画ファンを魅了させた大和魂映画となった。欧米のある日本史研究者は、実在の西郷隆盛をこういう、「日本国にセイント(キリスト教での聖者)がいるとすれば、彼がそうであろう」と。

[渡辺謙]1959年に新潟県に生まれ、1987年のNHK大河ドラマ [独眼竜正宗]で伊達政宗を演じ視聴率記録を更新した男である。184Cmの身長は、現代物、時代物問わず、どんな役を演じても絵になるということで、映画、テレビの数多い作品に出演している。

  ラスト・サムライでの勝元盛次役では、トム・クルーズ演ずるアメリカ南北戦争の英雄オールグレン大尉と精神的な面で互いに影響しあう反乱軍の大将を演じている。この映画では、2002年の京都ロケとハリウッドのスタジオでの撮影、その後の2003年のニュージランドロケでは、日本古来の建物を再現した巨大セット内での剣術や馬術の稽古風景が撮られた。サービス精神旺盛なハリウッド式映画なので、多数の敵方忍者と侍との死闘シーンなども挿入されている。アメリカ的日本解釈が多少鼻につくものの、おおむねの辻褄は合っている。これは、日本人スタッフや日本文化に詳しい時代考証担当係の確な表現法の他に、日本人出演者各々のアドバイスなども取り入れられていたからであろう。

[真田広之]1960年(昭和35年)品川区に生まれ、幼い頃から[劇団ひまわり]に所属し子役とて活躍していた。12歳の中学生のとき、千葉真一の[ジャパン・アクション・クラブ]に入団。18歳でアクション時代劇[柳生一族の陰謀]で映画デビュー。その後に数々の映画と舞台で活躍しNHK大河ドラマ出演の常連となる。1991NHK大河ドラマ[太平記]では、主役の足利尊氏役でお茶の間の人気を一身にあつめた。

  ラスト・サムライでの真田広之の役は、渡辺謙扮する反乱軍大将の腹心の部下を演ずる。反乱軍の捕虜となったトム・クルーズ扮するオールグレイ大尉を、同胞を死に追いやった恨みから事あるごとに痛めつける役を好演している。刀を抜く動作、刀を納める動作、眼の動き、歩く姿などどのどのカットを静止画像にしても、ピッタリと絵になっているのである。彼は、玉川大輔の名を持つ日本舞踊玉川流の名取でもある。

  [小山田シン]は、まだ日本に馴染みのない男優である。19823月岡山市に生まれ、スポーツ万能の少年時代を過ごす。高校卒業の2000年に、単身ロスアンゼルス行きの飛行機に飛び乗る。両親は反対したが、彼の潜在的エネルギーの量は只者ではなかった。ロスアンゼルスでは[ザ・シアター・オブ・アーツ・パフォーミング・アーツ・アカデミー]という、とんでもなく長い校名の俳優養成学校に入学した。この学校で語学とカンフー(空手)をまなびながら、ひたすら映画のオーデションを受け続けていた。映画出演のチャンスは無かったが、カンフーの方では6つの全米大会で5度の優勝を果すほどで、まったく只者ではない奴なのである。

  小山田シンはラスト・サムライのネット・オーデションに応募、空手をやる日本人だとアピールし、その後の二回のオーデションで出演を決める。ラスト・サムライで彼が演じる役は、反乱軍大将(渡辺謙)の息子の勝元信忠という多感な若者である。オーデションの段階で自分が弓の名手の役と聞き、それ以後の土日のほとんどを弓道と乗馬の特訓に当てた。ラスト・サムライの画面での小山田シンの存在感は大きく、渡辺謙(当時44歳)、真田広之(当時43歳)、トム・クルーズ(当時41歳)と互角に渡り合った21歳(当時)の国際俳優の姿であった。

[原田眞人]は、1949年静岡県生まれの映画監督である。彼は[突入せよ!浅間山荘事件]などのほか他数の監督作品を持つ現代日本映画界を代表する監督の一人である。ラスト・サムライでは俳優として出演したが、ハリウッド映画の監督をするための感触を掴むための出演のように思えるふしもある。

ラスト・サムライでの原田眞人の出演場面で印象の深い部分は、トム・クルーズ扮する反乱軍の捕虜が、反乱軍の基地とも云うべき集落屋外を寡黙な侍に案内されている場面で、真田広之他多数が剣道の形の稽古をしている次の場面の、柔術の稽古を付けているのが彼である。髭だらけの精悍な面構えの彼は、機敏な動作をもち若い弟子達に柔術の稽古を付けている。

[菅田俊]は、1955年山梨県生まれの2枚目俳優である。2004年の年末現在で、東映映画を主に118本の映画に出演した。凄みのあるヤクザから滑稽な3枚目までこなし、その的確な演技力には多くのファンを持っている。その意味では、テレビ時代劇にも欠かすことの出来な俳優である。

原田俊のラスト・サムライでの役柄は、主役グループの出る画面には必ず傍に付く重臣的なサムライで、精悍さを出すために眉に剃りを入れて効果的役作りをしている。戦死する場面での壮絶な演技は、その後の映画界の伝説になるであろう。

[福本清三]は、1943年(昭和18年)兵庫県に生まれる。1953年の15歳で東映京都撮影所に入社する。福本清三の映画初出演は1959年で、東千代之助主演の[鞍馬天狗]である。この映画での彼の役は群衆役であった。その後に数多くの映画で通行人、死体、俳優のスタント、その他映画制作上で考えられる役目は総てやらされた。20代半ばからは死体ではなく動く役が多くなり、各映画会社の枠に関係なく時代劇映画、テレビ時代劇のほとんどに出演している。どの映画でも福本清三の役は、クライマックス時に主演者に格好よく切られる浪人や渡世人役である。

  福本清三が所属する大部屋俳優が映画に出演しても、字幕に表記されることはない。彼はチャンバラ画面から一瞬で消える[切られ役]ではあるが、細面で彫りの深い福本清三の顔は多くの映画ファンの脳裏に焼きついていた。1992年、視聴者の投稿によりテレビ番組に出演した。そのことがきっかけとなり、[徹子の部屋]のゲストに出演する。彼のひたむきな人柄に対し応援したくなる人は多く、現在では多くの会員が集まるファンクラブがある。

  ラスト・サムラでの福本清三の演じたのは、反乱軍の捕虜となったトム・クルーズ扮するオールグレン大尉の監視役兼ボディーガード役で、一言の台詞もなく主役に影のように付いてまわる侍役である。映画のクレジットの役名には[サイレント・サムライ]と載る。福本清三が演ずるこの役でも、切られた後に身体を反転させカメラに顔を向け、大きく後ろに反り返るように倒れて死んでいく。これは彼が創り上げた切られ方で、今や古典の域に達した彼独自の死に行く者の演技である。

  共演者の一人菅田俊氏は撮影中の福本清三の印象をこう語る「撮影中は、8ケ月間にわたり一度も自分用の椅子に座らず、一人で丘の上に立っていたのです。彼こそ日本のラスト・サムライです」。彼を認めた菅田俊氏もまた、孤高のサムライの一人である。

[高良隆志]は、1965年東京に生まれる。1980年に千葉真一が主宰する[ジャパン・アクション・クラブ]を受験するが受け入れられず、2年後の再受験にパスする。1983[影の軍団]でジャパン・アクション・クラブの一員として映画初出演。アクション時代劇[激突]で緒方拳のスタントマンとして出演し、ドハデなアクションで観客のドギモを抜く。その後に深作欣二監督に認められ、必殺シリーズ他の同監督作品の常連となる。

高良隆志のラスト・サムライでの役柄は、大将の勝元の身に事が起こったときに、真っ先に駆けつける中堅の侍役であった。トム・クルーズ扮する主役大尉が反乱軍の捕虜になったとき、反乱軍のすみかの集落屋外を監視役に案内されている場面で、真田広之他多数が剣道の形の稽古をしている中の一人として登場。続いての場面では疾走する馬上から弓を射る流鏑馬の場面での馬上のサムライが高良隆志である。馬上での安定した姿を演じるために、6ケ月間の馬術の稽古をしたと聞く。彼もまた、本物のサムライである。

[中村七之助]は、19835月に現中村勘三郎の次男として生まれた。1986年の三歳で歌舞伎[]で初舞台を飾って以来、現在進行形で数多くの舞台に出続けている。

  ラスト・サムライでの中村七之助の役柄は、明治天皇である。ストーリの中の明治天皇も、現代の七之助と同年代だと思われる。彼は、若い天皇が重責に押しつぶされそうになりながらも最後は自分の考えで言葉を述べる役をこなした。この天皇が姿を現す総てのシーンは、ハリウッドのワーナー・ブラザース・スタジオで撮られた。

ラスト・サムライでの日本人出演者は、あらゆる場面の通行人、戦闘場面のイキストラ、馬や崖から落ちる一瞬の演技のみで出演している方々を含めると、述べ数千人に及ぶであろう。それらの情熱溢るる日米の俳優、スタッフ、アメリカ側の徹底した合理主義を貫いた成作姿勢、「良いものには、それに見合った金は出す」という製作者方の経済的裏付けがあって始めて、鑑賞する側の人間を感動の世界へいざなうことができるのだと思った。

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ダライ・ラマ14世とチベット高原

平成20年1月8

   世界的に見て、他の国の主権を踏みにじり、その国の自由を脅かす国がなんと多いことか。侵略国の国民は正義に対する認識が薄く、侵略される側の国に対し露骨な優越感に浸る。歴史上に大国と呼ばれたその国民は、平等であるべき個々の生命、誇り、人権をも、蔑視の感情を持つことで現在まで多くの過ちを繰り返してきた。しかし、どの時代でも、どのような国の中にも、純粋な人道的精神を見失わず、択一した思考で正義を貫いた多くの人々がいたのも確かな事実である。そして、ごく一部の勇気ある者が、実践的な行動を貫き通す。

日本国土の約25倍の面積を有する中華人民共和国の人口は、2005年の初めに13億人を上回っている。現在の中国の外交方針は[平和5原則に基づき、独立自由の平和外交を推進し、安定した国際環境を確保するために周辺諸国との善隣友好関係を強化、発展途上国及び先進国との関係強化、多国間協力の促進を含む、全方位外交を推進する]である。だが、いう事とやる事が磁石の両極のように相反する国は多いのである。かくて、この国の横暴には世界の良識者総てが顔を背けた。それらの国民一人一人をそのように評することを自戒しなければならないが、その横暴を見るに付け個々の人格さえも疑わしくも思えてくるときもある。

  中国の南西部に位置するチベット自治区は、北にヒマラヤ山脈、南に崑崙山脈を望む高原地帯にある。 独立主権国家として2000年前から存在したチベットは、中国の唐代の7世紀初めに統一国家[吐蕃(トバ)]が成立し、たびたび唐と戦った。おおむね五分に戦ったのだが、9世紀初めに和平する。その後も隆盛を誇ったチベット王国は、843年の内紛でもろくも崩壊する。古今東西、家庭でも、企業でも、国家でも、その崩壊原因での一番が内部不和による反乱である。統制が乱れれば、その組織は跡形もなく消え去るのが歴史上の紛れもない事実である。内部の不和以外で国家が滅亡するのは、強国の侵略であるが、この場合は侵略された側の精神と誇りとを犯すことまでには至らない。地図上に形を留めなくとも、その国家は多くの人々の心に生き続けるのである。そしてある日、最も理想的な姿で、この世界に返り咲くのである。

  7世紀のチベットには民族宗教[ボン教]があったが、インドから仏教が入ると、それと融合して独自の仏教[ラマ教]となっていく。このラマとは師匠という意味である。その後に多数の宗派に別れ、氏族同士の牽制などが加わり熾烈な争いに発展し、争いは幾度となく繰り返された。この頃の信仰の対象が各派の法主であり、法主が死ぬと一族ごと信者が離れてしまう状況にあった。このような状況下での数多い宗派の中の[カルマ派]は、法主が死んでも別の人に生まれ変わる[転生]という法主の相続方を採用した。かくて法主が死んでも、信者は他に移ることがなくなったのである。その後この方法は[ゲルク派]にも採用された。

転生の論理は、法主は菩薩の化身で「一切の衆生が救われるまで、永く輪廻の世界に転生を繰り返す」と考えた。この難しい説明を簡略化すると、法主が死んだその日から49日の間に受胎された新生児を捜し求め、転生者に指定するということである。転生者に選ばれると集中的エリート教育がなされ、確率的に優れた法主が誕生し[生仏]としての信仰の対象となる。

  16世紀の中ごろのモンゴルに[アルタン汗]という指導者がいた。彼は全モンゴルを統一した後に、中国北辺に度々進攻し当時の明朝を震えあがらせたばかりか、チベット中央部までも進出した。当時のチベットのゲルク派法主[ソナム・ギャムツォ]の名声は高かった。アルタン汗は彼を招き[ダライ・ラマ]の称号を贈る。ダライ・ラマの称号はこの時から始まった。モンゴル語で[ダライ]とは大海のことである。正確にはソナム・ギャムツォはダライ・ラマ一世であるが、転生の論理での故に先代の誰かの生まれ変わりという位置付けで[ダライ・ラマ三世]とよばれた。彼は、チベット仏教をモンゴル全土に布教した男でもある。

  [ゲルク派]の法主としてダライ・ラマ三世が認められてからも、チベット内ではゲルク派とカルマ派との武力的抗争が続いた。この争いを仲裁したのが、初代[パンチェン・ラマ(ゲルク派)]である。[パンチェンとは,大いなる学者]の意味で、阿弥陀如来の転生とされ、ダライ・ラマ三世がこの称号を与えた。この仲裁がきっかけとなり、[ニンマ派出身のダライ・ラマ五世]が誕生する。

  1639年(日本国では、徳川家光の時代で鎖国が開始された年に当たる)、モンゴルの軍事力を背景にダライ・ラマ五世を元首とする政権が成立し、ラサ市内に政治と宗教の象徴としての[ポタラ宮]が建造された。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされているので、観音菩薩の霊場[補陀落(ポタラ)]からの命名であった。

  清朝の中国の支配下に入ったチベットのポタラ宮には、ダライ・ラマ七世がおかれた。この時、パンチェン・ラマ五世は西部チベットの支配権が与えられる。1903年(明治36年)には、インドを植民地としたイギリスがラサを占領し、チベットはイギリスの属国となった。

  第二次大戦後1951年(昭和26年)中華人民共和国がチベットに侵攻し、再び中国の支配下に置かれる。ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ共に存続は許されたが、政治からは切り離された。そして、1959年(昭和34年)3月、ダライ・ラマ十四世の拉致の陰謀を知ったチベット民衆三万人がダライ・ラマを守ろうと宮殿を取り囲んだ。これを反乱とみなした解放軍は武力鎮圧をし、多くの血が流された。ダライ・ラマ十四世は、混乱をさけるためにインドに亡命した。1966年(昭和41年)、中国に文化大革命がおこり、ポタラ宮殿他の多くの仏教寺院が破壊された。

1989年(平成元年)ダライ・ラマ十四世はノーベル平和賞を受賞する。

ダライ・ラマ十四世の名は、[テンジン・ギャツォ]という。1935年(昭和10年)に農家に生れた[ラモ・ドンドゥプ]は、2歳の時に第十三世ダライ・ラマ(トプテン・ギャツォ)の転生と認定される。この時の彼の名は[ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ]といい、「聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、知恵の大海」という意味である。なにやら、古典落語の[ジュゲム]に似ているが、落語のように、手放しで笑ってはいけない。

[セブン・イヤーズ・イン・チベット]は1997年にアメリカで作られた映画で、少年のダライ・ラマ14世を描いた名作である。物語は、世界的登山家のハインリヒ・ハラー(ブラット・ピット)は同僚と二人でヒマラヤ登頂を目指すが、第二次大戦激化の中でイギリス軍の捕虜となる。その収容所から脱走した二人は聖地チベットのラサに迷い込む。そこで西洋人として始めて少年ダライ・ラマ14世と会うことになったハラーは、ダライ・ラマの側近に家庭教師を依頼される。中華人民共和国のチベット侵攻の激動期に、離婚等で荒んでいたハラーの精神が幼いダライ・ラマにより浄化されていく過程が、丹念に描かれていく。

[クンドゥン]も1997年にアメリカで作られた映画である。物語は、1937年のチベットの寒村に、長旅を続けてきた数名の高僧が到着したところから始まる。僧達の目的は、数年前になくなったダライ・ラマ十三世の生まれ変わりを見つけることである。この村のハモという幼児の前に、先代十三世ダライ・ラマの愛用した物を他の物と混ぜてそこに置いた。多くの物の中から先代ラマの愛用した物を選び出していく幼児を、一人の高僧が尊敬と畏怖の念を込め幼児に話しかけた。「法王猊下[ホウオウゲイカ=クンドゥン=高僧に対する敬称]と。

1959年(24歳)にインドに亡命したダライ・ラマ14世は、国外にチベット亡命政府を築き、いまなお、祖国の再建と世界平和のために飛びまわっている。

平成201月の空の下に、72歳の正義と平和の獅子として。

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サミー・デイヴィスJrとタップダンス

                                               成2013

1960年代アメリカのショービジネス界にサミー・デイヴィスJrという黒人がいた。黒くてチビで瘠せていて顎が前に突き出て目玉だけが大きい男だった。歌を唄わせると小さく細い身体の何処から出るのかと思うほどの声量の持主で、踊らせれば舞台一杯に軽やかなステップを踏みまくる。彼の全身は、モリブテンがタップリ含まれた鋼鉄スプリングだった。

  サミー・デイヴィスJr1925年(昭和になる1年前)にドサ廻りの芸人一家の中で生まれた。物心つくころから音楽、楽器、ダンスのレッスンを受け、舞台に立ったのが3歳である。家族と共にアメリカ中を巡業して住居が定まらないために、高校までの学業は通信教育で通した。19歳で兵役に服したあともひたすらの舞台活動で、29歳には初のレコードを出して音楽的に高い才能を認められスターとなる。この年の交通事故で左目を失明するも眼帯姿で様々な活動を続け、着実に実績を残して行った。

  1950年代に人気絶頂にあったフランク・シナトラと出合い、ディーン・マーティンらと共にシナトラ一家を組み、映画やラスベガスのホテルでのショーなどで話題をさらうことになる。

彼が始めて来日したのは昭和38年で、以来、来日はシナトラ、ライザ・ミネリーらと共に数回に及ぶ。昭和45年にはテレビでウイスキーCM(サントリー)などにも顔をだしていた。.

  サミー・デイヴィスJrといえば、なんといっても軽やかにステップするタップダンスが網膜に浮かび上がる。タップダンスを大別すると、ジーン・ケリーやフレッド・アステアが映画のなかで踊るような、ステップを踏みながら上半身で様々な振り付けをするブロードウェイスタイルと、ステージショーなどでのリズムだけを重視するリズムタップになる。そして、サミー・デイヴィスJrの場合はリズムタップを得意としている。

タップの軽快な音は、普通の革靴を踏み鳴らしても出てこない。靴の爪先(ボウル)と可踵(ヒール)の部分にアルミ合金のタップチップを埋め込んで初めてあの音が出るのである。勿論、何十年もの練習を重ねて初めて痺れるようなリズムを踏むことができるのだろう。

当時シナトラ一家(ラット・パック)と呼ばれたメンバーは、リーダーのフランク・シナシナトラ、番頭格のディーン・マーティン、それにピーター・ローフォード、サミー・デイヴィスJr、ジョーイ・ビショップ、ヘンリー・シルバーその他で、どれも一癖も二癖もある連中であった。

フランク・シナシナトラは、1915年(大正4年)に生れ、やり放題の人生をすごし、1998年(平成10年)に死んだアメリカの歌手であり、映画俳優であり、アメリカンヤクザでもあった男だ。

ディーン・マーティンは、1917年(大正6)にオハイオ州のある小さな町に生まれた。1946年(昭和21年)クラブのドサ廻りで唄っていた時に、ジェリー・ルイス(コメディアン)と組んで[底抜けコンビ]で舞台に上がったところ受けに受け、そのままパナマウント映画で1949年から7年間も二人のコンビで映画を撮りつづけ、二人とも世界的スターとなる。同時代ビング・クロスビーとボブ・ホープ主演[珍道中物]の人気シリーズに乱入ゲスト出演(バリ島珍道中)して、終止のつかない物語としたりもした。 

「人気はどちらが上か」という話からジェリー・ルイスとは1956年(昭和31)にコンビ解消、シナトラ一家の一員となる。ディーン・マーティンがジョン・ウィーンと競演した西部劇[リオ・ブラボー1959年(昭和34年)]でのアル中の保安官助手役で、真にせまる酔っ払い男を演じて以来、生涯を通し酒飲みを売りもにして人気を博すが、そのあまり最後には身体をこわした。この映画と同名の主題歌[リオ・ブラボー]と、当代人気一番だったロック歌手リッキー・ネルソンとの掛け合いで歌う [ライフルと愛馬]は、今でも耳の奥で反響を繰り返している。

ピーター・ローフォードは、アメリカの俳優であり、歌手であり、ジョン・ケネディの義弟(大統領の妹を嫁にした)である。

サミー・デイヴィスJrは、アメリカの黒い顔をした歌手で、黒い顔をした俳優であり、類まれな黒い顔のエンタテーナーである。

ジョーイ・ビショップは、1918年(大正7年)生れの歌手で、コメディアンであり、俳優でもあった。200789歳で死んでしまったが、シナトラ一家では一番最後まで生きのびた男である。

  [タップ]という映画がある。20世紀最大のタップダンサーといわれたグレゴリー・ハインズ主演で、1989年(平成元年)に作られたグレゴリーのタップを見せる映画である。映画であるから筋書きは勿論ある。が、とって付けたような筋書きで、様々なダンサーによる楽しいタップステップをみせてくれた映画であった。

  この映画のオープニングシーンは、刑務所独房内の床を踏み鳴らす靴のアップであった。罪を犯して服役中の黒人青年が今思い付いたステップを、心みに踏んでいるのである。そのたどたどしいリズムに次第に目鼻が付き、どんどん発展して刑務所中に響き渡っていく。この騒音に刑務官が駆けつける訳ではなく、観客は「こんな刑務所ならさぞかし住み心地がよいのでは」などと、思ったりもする。

刑期満了の日に迎えに来る者は無く、むかし馴染みのニュヨーク下町のダンス教室を訪れた。以前の恋人と、子供の頃から彼の才能を認めてくれてタップの技を教えた男(サミー・デイヴィスJr)がそこいるはずだった。このビルの3階にある上級者の練習場には誰一人いない。以前の練習場を懐かしく思い、そこで一人ステップを踏み続ける主人公。ここも見せ場の一つで、タップシーンが延々と続く。その音が、同じ階の隅の小部屋で黒人の爺様たちがたむろしてポーカーにふけっているところまで伝わる。ブラインド越しに覗いた爺様が、ショボクレタ格好で花の手入れしているサミー・デイヴィスJrに、踊っている男がいることを知らせる。彼の眼が輝く。待ちに待った息子同様の男が帰ったことを予感したからだった。

  爺様たちに冷やかされたグレゴリー・ハインズは昔の先輩に敬意を込めていう、「老いぼれどもめ、昔のステップは忘れてしまっただろう」。爺様たちは目をむき、一人の老人のピアノに合わせて代わるがわる得意のステップを披露する。よぼよぼした老人達のタップの腕は素晴らしく、それぞれが異なる曲で踊りまくる。最後にサミー・デイヴィスJrが杖を仲間に預けて踊りだす。このサミー・デイヴィスJrの役は癌に侵された老人役だが、実生活上の彼も、あと何年しか生きられない喉頭癌の患者であった。軽やかな彼のダンスは鬼気迫るもので、画面を圧倒するのである。

  1930年代のワーナー・ブラザーズ全盛時、たくさんのギャング映画で主演した俳優にジェームス・ギャグニーがいる。ギャグニーは、背が高くなく、小太りで、バレーボールのような真丸な顔にギョロ眼が二つついている男だった。日本人俳優の中で最もギャグニーに似ているのは緒形拳だと思っているが、ギャグニーも緒形拳も迷惑だと思うかも知れない。迫力のあるギャングスターを演じていたギャグニーが、1942[ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー]ではショウビジネス界の芸人を演じ、その中で素晴らしいタップダンスを披露する。盛りを過ぎた彼の楽屋話の中で「タップを踊ると、足が腫れて靴が脱げなくなる」といったそうである。踊りとは、このぐらい身体の各部に負担がかかるものらしい。

  日本でのタップダンスの草分けは、中野ブラザーズを置いてほかにはいないだろう。

  昭和32年ごろにフレッド・アステア主演の[踊る結婚式]を見て感動、京都のダンススタジオでてほどきを受け、米軍キャンプを廻りながら腕を磨く。昭和30年東京に進出し[江利チエミ]の引きで、日劇やコマ劇場で脚光を浴びる。昭和34年ラスベガスでの[ホリディ・イン・ジャパン]で一年間のロングラン公演で大好評を得る。この頃、故サミー・デイヴィスJrと出会い、その後3人はサミーが他界するまで親交を続ける。

  現在、中野ブラザーズの兄啓介は東京で、弟章三は福岡で、それぞれダンススタジオを経営し後進の発掘に励んでいる。

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