森繁久弥と映画[地の涯に生きるもの]
平成21年11月15日
偉大な俳優[森繁久弥翁]が2009年(平成21年)11月10日に亡くなられた。
1913年(大正2年)5月4日に大阪に生れての波乱万丈、96歳での大往生であった。
森繁久弥は、実業家の父菅沼達吉と大店海産物商の娘だった母愛江の間にできた3人兄弟の末子で、2歳の時に父を亡くし、7歳の時に母方の祖父の森繁姓を継ぐことになった。
堂島尋常小学校、北野中学校、早稲田第一高等学院を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学商学部へ進学する。
森繁久弥は大学在学中を通し演劇部に所属し、先輩部員にその才能を認められての中心的存在となった。このころ、当時東京女子大生で後の[萬壽子夫人]と出会っている。
学生でありながらアマチュア劇団にくみし築地小劇場公演などに参加していたが、当時必修とされていた[軍事教練]には我慢できず、1936年(昭和11年)に早稲田大学を中退した。
森繁久弥の本格的な演劇世界へのあしがかりは、長兄の紹介で東京宝塚新劇団(現東宝)に入団したことに始まる。どの世界でも同じだが、演劇をめざす新参者が楽をして生きられる隙間はどこにもなかった。森繁久弥の演劇活動の手始めは、日劇の舞台進行係だった。
東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座など多くの劇団を渡り歩くも、この世界の風は冷凍室内のように冷たく、やっと声がかかったのが馬の足の役だった。思いあまった末に、当時の歌謡ショーでの通行人の役を頼み込み物にしたが、観客の視線は人気絶頂の藤山一郎以外には1ミリも動かず、公演を重ねる度に孤独の底にひきずりこまれるのが常だった。
古川緑波に認められたロッパ一座では、その後を通して森繁久弥の盟友となる[山茶花究]と出会うも、1937年(昭和12年)には退団している。
1939年(昭和14年)、森繁久弥はNHKアナウンサーの試験を受け採用された。勤務地は満州の満州電信電話の放送局で、満州映画協会の映画のナレーションを受け持たされた。
人をそらさぬ森繁の資質は、日本の傀儡国として中国に打ち立てた[満州国]の陰の支配者である軍部の実力者 [甘粕正彦]との交流などにも発展していく。甘粕は当時、満州映画協会理事長の職にあった。
森繁久弥がアナウンサーに応募した理由は、軍国主義一辺倒の世の徴兵制度を逃れるのには、国外に出る以外にはなかったからである。役目柄、日本から満州巡業に来る国宝級の芸人との親交も生れた。[口座に座る姿そのものが一枚の絵であり、落語である]とまで云われた[五代目古今亭志ん生]や[六代目三遊亭圓生]との交流が生れたのだから羨ましい。私は、一度で好いから、生もの二人の噺を聞きたいと思っているうちに、両方とも向の世界に行ってしまった。
森繁久弥は1945年(昭和20年)の敗戦を新京で迎えて即、ソ連軍の手の中に神妙に落ちた。幸運にも、1946年(昭和21年)11月に徴兵制度の無くなった日本国土をドタ靴で踏みしめた。
戦後も、戦前と同じく多くの劇団を渡り歩いたが、1947年(昭和22年)に衣笠貞之助監督の[女優]で映画初出演する。この映画は、実在の女優[松井須磨子]の生涯を山田五十鈴主演で描いたもので、森繁久弥はほんのちょっとのチョイ役であった。
衣笠貞之助は日本映画黎明期の偉大な監督で、無声映画時代の名女形で売り出したが、芝居や映画の世界にも女優が進出してきて女形の出る幕がなくなる。特にソノケが有っての女形では無かったので、さっさと監督業に転進した立派なオトコである。彼は、戦前に長谷川一夫を発掘し、そのデビューから彼を起用し続けてスターの座に導いた監督でもある。戦後も長谷川一夫と山田五十鈴を起用した娯楽作品の制作を続け、1953年(昭和28年)の[地獄門]ではカンヌ国際映画賞グランプリ、米国アカデミー賞の[名誉賞]と[衣装デザイン賞]に輝いた監督だった。だが、森繁久弥とこの映画とには、何の関係も生れなかった。
1949年(昭和24年)の森繁久弥は、再建直後の[ムーラン・ルージュ]に入団して、演技もさることながら、アドリブでギャグを連発する歌唱力を持つことで、その人気は多数のコメディアンの中でも群を抜いていた。
1950年(昭和25年)NHKラジオで[愉快な仲間] を放送した。これは、当時のアメリカで大ブレークした[ビング・クロスビー・ショー]を真似たもので、人気歌手の藤山一郎の歌とトークに絡ませるコメディアンとして森繁久弥に白羽の矢が立った。このコンビの人気は高く、それから3年続くことになる。森繁自身も映画や舞台にと引張り凧となり、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇[三等重役]の調子の良い人事課長役で助演したことにより、その後の[社長シリーズ][駅前シリーズ]を含めて、生涯を通して主演した映画をザット数えても243本にもなるビックスターとなったのだった。
1960年(昭和35年)に森繁久弥の主演した[地の涯にいきるもの]が、私の忘れられない映画の中の一本となっている。森繁久弥57歳のおりの作品で、あまり関係はないと思うが、観ていた私は19歳だった。
これは、冬期間の知床半島で漁網を守る老人[留守番さん]と、知床半島の自然の中に生きる動物たちの交流を描いた戸川幸夫の短編集[オホーツク老人]を原作として製作された映画だった。
森繁プロ製作映画[地の涯にいきるもの]のストーリーは、以下のようなものだった。
[9月始のオホーツクの海には、荒々しく牙をむく波どもが縦横無尽に走り廻っていた。このころの知床半島から、昆布採り漁師の姿が消える。次に鱒漁師の姿が消え、10月に入ると最後まで残っていた鮭漁師もその姿を消す。こんな荒涼とした知床岬にたった一人の人間が残っている。漁師連中から[留守番さん]と呼ばれる精悍な顔をした老人の名は、村田彦市と云う。
人々が立ち去った後の番小屋の中には漁網が残される。大地を覆いつくす氷と雪の中にも飢えた鼠がいて、すきあらば魚の匂いの残されている漁網に襲いかかる。網元は、それを防ぐ為に猫を飼う。その猫に餌を与えるのが、老人の役目であった。
深い孤独を癒してくれる猫たちはいるが、稀に見られる平穏な海を眺めながら、その静寂の中で様々なことを回想する老人。
村田彦市はオホーツク海に面した小さな岬の番屋で生れた。30歳の時に小さな船を買って独立した。漁期の番屋で、飯炊きとして働く娘[おかつ]を嫁にした。おかつは3人の子を産んだ。長男は流氷にさらわれ死んだ。次男は戦争で死んだ。おかつも急性の肺炎で死んだ。
彦市は、東京の工場で働いている三男を呼び寄せて船を与えた。その船で漁に出た三男は、嵐に会って帰ってこなかった。彦市は三男の死を、どうしても信じることができなかった。彦市は三男の帰りを待つためにエトロフ島の見える番小屋の留守番さんになった。
ある夏の日に、三男の恋人がこの地の涯を訪ねてきた。愛する人の死んだ海を一度見たかったと云った。
今の彦市を慰めるものは、亡くなった家族との思い出と猫だけだった。猫は、いつも彦市に甘えた。
猫が大鷲にさらわれた。彦市は鉄砲を抱えて大鷲の後を追った。そして、氷の裂け目に足を踏み込んでしまった。必死で這い上がる彦市。番小屋の入口に向って氷の上を這い進む彦市。冷たい海水に濡れた身体の体温は残り少なかった。]
この映画での彦市の妻役に草笛光子、彦市の3人の息子役に山崎努、浜村淳、船戸順が配され、三男の恋人役に司葉子が配された。製作されたのは1960年(昭和35年)で、今から49年前の映画である。映画の中での主人公が死んだのか、生残ったかの記憶はないが、森繁久弥はつい5日前まで生きていた。
当時、森繁久弥が歌った[知床旅情]がヒットした。後で加藤登紀子も歌って、またヒットした。この映画の撮影で羅臼に来たおり、船の難破シーンを取りたいと思ったが前年の難破事故で村人の多くが亡くなっていることから、村人の協力が得られそうにもなかった。どうしても諦めきれなく、さらに御願いすると「森繁さんがそこまでいうのなら協力しようじゃないか!」と村人の一人が云ったことから望みのシーンを撮ることができたという。
漁船の難破事故現場で、息子を捜す森繁久弥の迫真の演技を見ていた総ての村人が泣いた。昨年の事故で肉親を失った多くの婦人と子供たちが泣いた。息子を亡くした父母が泣いた。
羅臼での仕事が終わろうとする何日か前に、森繁久弥はこの歌詞を一気に書き上げた。その次に日にギターを手に曲をつけたのがこの歌である。
[知床旅情]
1、知床の岬に はまなすの咲くころ 思い出しておくれ 俺たちの事を
飲んで騒いで 丘にのぼれば はるかクナシリに 白夜は明ける
2、旅のなさけか 飲むほどにさまよい 浜に出てみれば 月も照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと 岩かげに寄れば ピリカが笑う
3、別れの日は来た 知床の村にも 君は出てゆく 峠をこえて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん 私を泣かすな 白いカモメよ
この歌の最初の題名は、[さらばラウス]だった。
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