映画・テレビ

ひめゆりとさとうきび畑

                                                         平成20629

  平成20621日、福島県郡山市の中央公会堂で [ひめゆり]という映画を観る機会があった。昭和16年(1941年)128日の日本軍によるハワイの真珠湾攻撃と同時に開戦された太平洋戦争は、4年後の昭和20年(1945年)815日まで続いた。

  日本軍と連合軍とは、それぞれの国益上の主張を譲らず、広大な太平洋上にちらばる島々や半島を取り巻く制海権と制空権を争った。国力の違いや情報解析の格差により、戦いが進むにつれて日本軍の勢力は衰えてゆき、日本国の権力を手中にしていた一部軍属の読みの浅い指導力により、降伏という手段での終戦の機会は先送りになっていった。

  イギリス、フランス、アメリカ等の植民地化されていた東南アジア諸国や、他の南太平洋上の島々を制圧した日本軍も、連合軍側の刻々と進歩続ける兵器等の物量作戦により、当初制圧した土地と海と空を順次に明け渡すことになった。日本軍は、大きな物的消耗と人的損害により次第に追い詰められていく。

  アメリカ軍、イギリス軍を中心にした連合軍は、その後に沖縄本島への上陸作戦に出た。この日本領土内唯一の地上戦では、民間人と敵味方の両軍合わせて、数十万人の死傷者を出した。

  昭和20年(1945年)323日、沖縄の海に集結した米軍は、艦砲射撃と空爆を開始した。この日、教師に引率された女子学生222名が戦場に動員され、野戦病院に配属になる。

映画[ひめゆり]は、後の沖縄県立第一高等女子学校生徒らの、戦場における悲しくもけなげな体験を、生きて残された当時の生徒が生の声で語るドキュメンタリー形式の映画である。

  昭和20年当時に15歳から19歳だった沖縄に暮す少女たちが、突然投げ込まれた戦場という環境での生々しい証言は、この場で話すことを躊躇させられるほどの、生命への非尊厳的なものが多い。看護する少女たちと負傷兵の心の交流、負傷兵に取り付いて離れない死に神に対抗する少女たち。最後には、医療器具も薬品も医者もいない土の病院内での勤務だった。

  連合軍の兵士は壕の入口にせまり「中に人が居るのなら、どうぞ出てきてください。出なければ、私たちは焼き払わなければならない。早く出てきてください」

  負傷兵たちは、数人の少女たちに「学生さん、外に出てください。出れば助かるかもしれない。我々を、ここに残したままでいいから。いままでは、ありがとう。」映画の中での証言の一つである。

何度も何度も涙を拭きなら聞いた彼女らの語りをこの場に記すのは、63年前に戦死した少女らと、戦場から生還して63年間生きてなお少女の純真さを失われることのない方々を冒涜することになるではないかとの思いが涌く。

  学生当時の写真を横にして話される80歳を過ぎた彼女らのお顔は、どれも当時の面影が残され、乗り越えた苦しみの果ての静けさが秘められている。つらい過去を話すのには、想像を超える勇気が必要だと思われますが、彼女らのお子様たちは何度も何度も母親の前で涙と共の聞いたという。お子様方、お孫様、それに続く御子孫の方々は彼女らを誇りに思われことでしょう。私たちもまた、彼女らと同じ民族として、彼女らを素晴らしい先人として誇りに思うのです。

  ヒメユリは、山地の草原や林内に自生する背丈40Cm前後の多年生草で、濃い朱赤色の花を付ける。霧に濡れ草原の隅で風に震えている姿は、ことのほかゆかしいものである。

  映画[ひめゆり]の監督は昭和38年(1963年)生れの柴田昌平氏で、昭和63年(1988年)東大卒業後NHK入社、新シルクロード等を手がけ、その後の平成7年(1995年)独立、平成6年(1994年)から13年間に渡って記録した延べ100時間もの[ひめゆり]証言を編集して、この映像にまとめた。この映画は、今後くり返しくり返し上映されることが約束されている。大勢の人が戦争の悲惨さを知るために、戦争を2度とおこさないな為にも。

平成9年当時ヒットした歌に、沖縄での戦争の悲惨さを訴える[さとうきび畑]がある。  私は、太平洋戦争の始まった昭和16年に生れた。つれあいは、太平洋戦争が終結した昭和20年に生れている。

[さとうきび畑]

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

今日も見渡すかぎり 緑の波がうねる

夏の陽ざしのなかで

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

むかし海のむこうから いくさがやってきた

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

そして私の生まれた日に いくさの終わりがきた

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

風の音にとぎれて消える 母の子守の歌

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

知らないはずの父の手に だかれた夢を見た

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

父の声をさがしながら たどる畑の道

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

お父さんと呼んでみたい お父さんどこにいるの

ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

今日も見渡すかぎり 緑の波がうねる

夏の陽ざしのなかで

  さとうきび畑は、寺島尚彦氏の作詞作曲で昭和42年(1967年)に[田代美代子]が始めてステージで披露したあと、[森山良子][ちあきなおみ]のほか、多くの歌手により現在まで歌い継がれている。

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居合による人斬りとツワモノ共の面々

平成2061

  私の仕事仲間に建築士のKT氏という男がいる。男と呼ぶと、呼ばれた方も呼ぶ方も、粗野な人物と思われるかもしれないが、呼ぶ方の私はともかくとして、私が男と表現するときは正真正銘の紳士、つまり[ジェントルマン][][魂を持つ人][本物の金玉を持つ人]を指す。

  KT氏は還暦を越えた今も、週2回ほどの割合で仲間と共に剣道を楽しんでいるとのこと、身の構え、目の静けさ、言葉の配りに整然とした法則のようなものを滲ませる侍である。過っての彼にもあった高校生の折には弓道を学び、大学時に踏み込んだ居合道は設計会社への就職後も続けられ、そしてその後は、日々の楽しみとして剣道を始めたとのことであった。

  仕事の打ち合わせの為に一台の車にKT氏と同乗して目的地に向う機会は多い。目的を果たした帰路も当然の事としてもと来た同じ車で移動する。車中では仕事の話はしない。いつの頃からか、私が読んだ藤沢周平の時代小説の話がきっかけで、剣豪が活躍する映画の話に熱中することが度々あった。特に興味を引いたKT氏の話に、黒澤明監督の[椿三十郎]という映画での三船敏郎と仲代達矢との決闘シーンのコマ送りでの殺陣の分解がある。

映画[椿三十郎]の粗筋は単純明快で、ある藩の次席家老の汚職を城代家老に告げたが相手にされなかった若侍9人組に、素浪人役の三船敏郎が助太刀し、悪を滅ぼすというものである。

  この映画のクライマックスは、9人の若者に見送られて去っていく主人公の椿三十郎の前に断ちはだかるのが、悪役の次席家老(志村喬)の用心棒の室戸半兵衛役仲代達矢である。

この決闘は一瞬で決まる。

  接近対峙する二人が互いに相手の目を見つめ合い緊張が高まっていく。

  室戸半兵衛が一瞬早く、左手で腰の鞘の部分を垂直に立て、右手で自分の顔の前をこするように真上に刀を抜く。この技は居合道の形の一つで、狭い路地や狭い室内などで抜刀するさい、前方の障害物に当たり抜ききれない場合を想定しての技である。

接近し面前に立つ椿三十郎の頭上へ抜き放し、その頭上で返し頭を両断する作戦だ。仲代達矢は黒澤明監督の希望で、この抜刀の瞬間だけを3ケ月間繰り返し繰り返し練習し、無理なく一瞬に抜けるよう身体に叩き込んだという。

  主人公の椿三十郎は、室戸半兵衛の1秒の何十分の1か遅れて、左腰の刀を左逆手で相手の身体に刀の刃が向くように抜き放ち、刀の峯に右手の拳を当て押し上げて室戸半兵衛 の胸元を深く切り裂く。その一瞬の室戸半兵衛の右手は己の頭上にあり、まさに三十郎の頭を断ち割る為に振り下ろすところにあった。

  室戸半兵衛の心臓が裂け、おびただしい血液が噴出し画面一杯を赤く染めた。これらの総ての動きは、1秒の半分の時間内に終わっていた。

  昔、モノクロ映画での椿三十郎は、私も映画館やテレビ放映時に何度も見ていたが、この決闘シーンの展開が一瞬ゆえに勝敗だけを確認するのにいっぱいで、どのような動きをしたかなどとは考えもしなかった。

居合道と剣道に親しんでいるKT氏の話しは、上記に書いた決闘シーンを見事に分析解体したコマ送りでの模範的な解説であった。その時は、車は道路の路肩に止めて話しを聞いたほどである。手が汗ばんでいた。

  もう一つ忘れられないKT氏の話しに、[坂本龍馬を切った男]がある。

坂本龍馬は維新直前に近代日本の建設に貢献した男として、誰知らぬ者はいない偉人である。

彼は、1836年に生まれ、18671210日に31歳で暗殺されている。しかし、暗殺者も、暗殺を依頼した相手もわかってはいない。かなりの憶測が飛び交ったが、真実はいまだ闇の中にある。

  坂本龍馬は20歳の折に、江戸の千葉道場で北辰一刀流の免許皆伝を受けた剣の天才である。18671210日暗殺される当日、京都にあった龍馬は風をひき知人の醤油屋を営む近江屋新助宅母屋二階にいた。その日は数人の訪問客の相手をして、最後に志を同じくする中岡某と会談中に数人の男に踏み込まれて切られたことになっている。

坂本龍馬暗殺の諸説の中に新撰組による謀略説がある。刀傷などから、切ったのは左利きの相当の使い手とされている。まず額を深く切られ、奮戦するもその傷がもとで直ぐに死んだとされていたのだった。暗殺当時の状況判断では、龍馬は刺客から不意をつかれた攻撃から、二の太刀を避けて刀に手を伸ばしている。そして、三の太刀を刀の鞘で受けるまでに態勢を整えている。龍馬の剣の技もまた、高度なものであった。

  当時の新撰組で一番若い隊士に斉藤一という剣の天才がいたことで、KT氏は仮説を立てた。居合いの技の中に、座して一瞬で抜刀し相手の両眼を横に払う形があることからの発想である。

  身分を偽って龍馬と対座した斉藤一は、刀を左腰から外し右脇の畳の上に置く。これは、利き腕側に置く事で、相手に対し敵意が無いことを知らせる礼儀上からである。龍馬もこの儀礼に従い同じく刀を右脇に置く。しかし斉藤は左利きなので、その座居から即、刀が抜ける。目的の前には不意打ちの罪悪感は無い。両眼を狙っての横一閃の太刀筋が走る。身をそらして避けた龍馬の額を斉藤の刀が捉えた。返す二の太刀を避けながらの龍馬の右手が刀を掴んだ。三の太刀を刀の鞘で防いだところで龍馬は死んでいた。一の太刀が致命傷であった。実際は違うかもしれない。が、坂本龍馬には悪いが殺陣としては面白い。

  斉藤一は実在の人物で、1844年(天保15年)に生まれ、1915年(大正4年)まで生きている。新撰組にあっての小野派一刀流達人の彼は、沖田聡司よりも若く「実戦では一番強いだろう」云われた男である。明治7年には政府軍にあり西南戦争に出征、以後警視庁に入り明治24年まで勤務している。72歳のおり、胃潰瘍で死亡した。

  現在にまで伝承されている居合道とは如何なるものかを調べると興味は尽きない。

  居合は[鞘の内]とも云われる武道で、刀を抜かずに敵を制するのを目的としている。すなわち、居合とは立会いに対する言葉で、敵の不意の攻撃に対して一瞬をおかず抜刀、鞘放れ一刀で勝負を決める剣技なのだという。書けば書くほど説明が混乱するほど、奥の深い道のようである。居合道の最終目的は[心身の鍛錬]だというから、ますますわからなくなってきた。

  私の場合、どうしても、居合と云えば座頭市で、座頭市と云えば勝新ということになってしまう。

  昭和35年に亡くなった子母沢寛という小説家がいた。[新撰組始末記][父子鷹]というような維新前後を舞台にした小説を数多く残し、第10回菊池寛賞にも輝いている作家である。彼のメモ帳風な [ふところ手帳] とい随筆集に「盲で居合を使う一匹狼の無法者に、市という男がいた」という15ページほどの記述が載っている。これを元に、大部分は原作外のエピソードを盛り込んで書き上げたのが三隅研次監督、勝新太郎主演の[座頭市物語]である。

  昭和6年に長唄三味線師匠の次男に生れた勝新は、中村玉緒の夫である。23歳の時に大映に入社。白塗りの二前目俳優として売り出されたが、主演作品を創るもさっぱり売れずに、全国の映画館主連から「勝を主役にした映画はつくらないでくれ」との苦情が殺到した。

  白塗り二枚目を棄てた勝新は、昭和35年の盲の悪党役[不知火検校]が大当たりし、その後の1匹狼やくざ[悪名シリーズ]や[兵隊やくざシリーズ]で大きな波に乗った。

[座頭市物語]は、中村玉緒との結婚式を終えるとすぐに頭を3分刈し、セット入りするほどに入れ込み、これが勝新の人気を不動のものにした。

第一作目の筋書きは、ひょんな事から貸元飯岡助五郎の許に草鞋を脱いだ市は、鉄火場で知り合った病身の浪人平手神酒(天知茂)と心を通わせるが、助五郎とは犬猿の仲の笹川繁造の用心棒として平手神酒はやとわれる。その後に、市の世話をしている助五郎の三下の許婚娘が殺され、その三下本人も親分のさしがねで殺されるような事件が相次ぎ、助五郎に利用された後の自身の運命をも予感する市であった。助五郎と繁造の決戦の時が来た。互いに惹かれながらも斬合いとなり平手神酒は市に敗れる。その後の市は、凄まじい居合の技で助五郎も繁造も斬り伏せて、どこいともなく去っていく。

この、盲のやくざ役の勝新の迫真演技は鬼気迫るもので、観客は背筋が寒くなり身震いが熾るほどであった。想像をしてもらいたい、坊主頭で白目だけの眼でジッート睨まれれば、他人のことは知ったことでは無いが、私なら、あとも見ずに全速力で逃げ出すことを請け合う。

  勝新は数々の映画に出演し自らも多くの名作の製作に携わったが、さまざまの事件をおこしたりするヤンチャ坊主の生涯を送り、咽頭癌の診断にもかかわらず手術を拒み、酒と煙草は平成9年621日の死の間際まで離さなかった。

  この映画[座頭市]は、余りにも娯楽性に偏り、剣道を嗜む建築士KT氏に話すべきどうかは非常に迷うところであった。結果、いまだに話してはいない。

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不動産王ハワード・ヒューズ(再)

平成2036

   H19-10-3

青年の頃に見た映画に[大いなる野望]がある。1964年にジョージ・ペパード主演で公開された話題作で、西部劇のクラッシュクとなっている[シェーン]で全世界に顔を知られたアラン・ラッドが、実在の西部男[ネバタ・スミス]役で脇を固めた映画である。

大いなる野望は、父親の死により,父の残した企業のトップに若くして座った主人公が、その企業を多岐に渡り拡大して行くさまを描いている。主人公を演じたペパードは、1961年の[ティファニーで朝食を]でオードリー・ヘップパーンと競演して、自らもトップスターに登りつめた男である。大いなる野望でのジョージ・ペパードは、自分の野望のためには周囲の人間を非情に切り捨てる青年役を演じた。この映画のモデルは、アメリカの大富豪[ハワード・ヒューズ]であることは、世界中が知るところであった。このハワード・ヒューズが何者で有ったかを語ることは、生涯貧乏の私にとり血沸き肉躍る世界に浸ることなのである。自分の不甲斐なさを棚に上げて、金持ちを憎んでばかりいても始まらない。

  ハワード・ヒューズは19051224日テキサス州ヒューストンで生まれる。16歳の時に母が病死し、2年後の1924年に父も急死する。父の残した資産数千万ドルの石油掘削ドリル賃貸業[ヒューズ工作機械]の経営権を18歳の時に掌握する。18歳の少年が居並ぶ重役陣を相手に、裁判所の力を屈指し優良企業の経営権をもぎとったのである。

1925年、19歳の娘と結婚した後に映画制作に興味を持つ。彼は家族と預金通帳両手にハリウッドに移住する。そこで、プロデューサーとしての仕事を始めたヒューズは、1作目で失敗するも、2作目[みんなのお芝居]と3作目[美人国二人行脚]で成功を収める。しかも[美人国二人行脚]でのルイス・マイルストーン監督は1927年のアカデミー喜劇監督賞に輝いたのである。

ハワード・ヒューズの5本目の作品は、自ら製作監督した[地獄の天使]だった。これは、やたらに空中戦が展開される飛行機が主役の映画で、ストーリーは取ってつけたような内容の映画だった。当初200万ドルで完成した無声映画だったが、完成時がトーキーへの過渡期にあたり、試写上映での観客の反応は期待はずれのものだった。彼はこの映画の公開はせず、音を入れての映画として撮りなおしたのである。成作期間に19ケ月、制作費400万ドルの[地獄の天使]は1930年にニューヨークの二つの劇場で公開された。結果は、興行的には大成功し、その後の2年間で800万ドルの純利益をもたらした。

波の乗ったかに見えたヒューズの映画制作活動は、その後3本の駄作を連続した。しかし彼は、そんなことで息消沈するようなタイプの男ではではなかった。すでに最初の妻とは離婚していたヒューズは、ハリウッドの女優などと食事、・・・その他のことをしながら、相変わらず彼が持つ複数の企業への指示や命令を発し続けていた。

[暗黒街の顔役]というギャング映画では、別件で訴訟騒ぎを起こしている相手方[ハワード・ホークス監督]を引き込み、19台以上の自動車をスクラップにするほどのリアルな映画に仕上げた。この映画で主演したのは[ポール・ムニ]で、[ジョウジ・ラフト]が助演した。その後の二人は押しも押されもしないギャング役のスターとなり、数多くのギャング映画に出演している。[暗黒街の顔役]のあまりの退廃的内容ゆえに、映画の内容をチエックする検閲局が横槍をいれた。ヒューズは、検閲制度そのものを否定する新聞広告を出し、映画関係者や一般の観客から大きな支持を得る。検閲局を相手に勝訴することにより一般観客の映画内容に対する期待度が高まり、[暗黒街の顔役]は空前のヒットとなった。その後のハリウッドでの成功とは対照的に、26歳のハワード・ヒューズの心は映画の世界から離れていくことになる。

1932年、ヒューズは自分と同年輩の有能な飛行機整備工と共に、改良した水上飛行機でアメリカ大陸横断の旅に飛び発った。当初3日の予定のこの飛行は、ヒューズの気まぐれのために18ケ月もの時間を消費する。その気まぐれの中には、旅の途中で単身ヨーロッパに渡り、船長と乗組員30名付きの全長96mのヨットを買ったりした道草も含まれていた。このスケールの大きな道草さには、世界中の男女が溜息をつかされたのである。

ハワード・ヒューズのその後は、以前に増して多忙な日々が続く。まず、19341月、全米飛行大会アマチュア部門優勝。同年ヒューズ航空機を設立。1935年には、同社開発の飛行機にみずから試乗、時速567Kmの世界新記録を樹立。19361月、単身大陸横断無着陸飛行9時間2710秒の新記録樹立。同年、後のトランス・ワールド航空の前身である航空会社を1500万ドルで買収、そのオーナーになる。

19387月、世界一周早まわり飛行で、従来の飛行時間記録半分の319時間8分の世界記録を樹立。

1943年映画[ならず者]公開。ジェーン・ラッセルをスターとして世に送る。

1946年、トランス・ワールド航空1600万ドル赤字。

1947年、トランス・ワールド航空800万ドル赤字。

1948年、映画会社RKO(当時ビック5といわれた映画制作会社の一つ)を900万ドルで買収。同年ヒューズ航空機の一部門として[エレクトロニクス企業]を興し、1953年にミサイル開発事業で2億ドルの売り上げを残す。

1952年、映画会社RKO、最初の5年間で2000万ドルの赤字で、株主がヒューズに損害賠償3000万ドル請求。この年のヒュウズの資産は推定5億ドル。

  1953年、映画会社RKOの全資産を3250万ドルで買収、その後に旧作フイルムを含め2500万ドルで売却。

1955年、トランス・ワールド航空のために1機250万ドルの新型機を25機購入。

1956年、ヒューズ航空機の年商5億ドル、ヒューズ工作機の年商25千万ドル。

1960年、ヒューズが計画中の503億ドルのジェト機購入につき訴訟がおこり、トランス・ワールド航空の新経営陣はヒューズを追放しようとするが、ヒューズは逆訴訟の策に出る。

1964年、係争中のトランス・ワールド航空は3700万ドルの黒字を出す。トランス・ワールド航空株の値上がりでヒューズは2億ドル以上の儲けを出す。ヒューズの個人資産143200万ドル。

1966年、トランス・ワールド航空の持ち株660万株を売却、54700万ドルを得る。

1967年、ラスベガス乗っ取り開始。カジノ、ホテル、航空会社、飛行場、テレビ局、総額1億2500万ドルの買い物をし、ネバダ州最大の資産家となる。ヒューズの個人資産20億ドル。ヒューズのマスコミ嫌いはますます深く激しくなり、人間の目から極端に身を隠す生活が続くことになる。

1970年、ラスベガスからバハマ諸島のパラダイス島のプリタニア・ピーチ・ホテルに本拠地を移す。

  1971年、ニカラグアのマナグナへ本拠地を移す。

  1972年、ロンドンに本拠地を移す。

  1973年、カリブ海の大バハマ島プリンセス・ホテルに移る。

  1976年、メキシコのアカプルコ・プリンセス・ホテルに本拠地を移す。

  1976年(昭和51年)45日午後1時、アカプルコからヒューストンの病院へ向かう救急ジェット機の中で死亡し、71年間の幕を閉じた。永いあいだ人前に出なかったためにハワード・ヒューズ本人と断定できず、FBIが指紋照合して彼の死んだことが証明された。約10年前に計算された個人資産20億ドルに、どのくらい加算されたかは不明だが、その集計作業を申し出る者は少なかった。数字の桁を間違えるのではという不安からである。ハワード・ヒューズが残した莫大な資産は次々と売却されることになったが、資産全部が売却されるまでに死後20年かかった。結局、遺産の大半は宇宙開発研究と医学研究に寄付されたいわれている。

  「金だけが総てではない」「金で買いないものもある」などと耳にすることがある。そんなものは金に不自由しないで生涯を送った人が、死の間際にいう言葉だろう。それは間違いである。実際に金で買いないものなどはなく、金で解決できないことはなにもない。その人は、ただ、金を出すべき時に金を出さず、金を支払ってでも解決しなければならないことを後まわしにしただけだ。

  私にも解決しなければならない問題がいっぱいあるが、正直な話し、金だけがない。

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西田敏行が演じた植村直巳の世界

平成2033 

  西田敏行という俳優がいる。昭和22年に福島県郡山市生れで、日本中のファンにサービス過剰と思われる愛嬌を振りまき、生れ故郷の郡山市小原田中学の同級生との交流なども大切にしている。忙しく政治活動をしている増子輝彦とは小原田中学の同期であるが、西田敏行が選挙時の応援に駆けつけたという話は聞かない。西田敏行も、たまには浮気もするだろうが、少なくとも中学校の同級生の為に宣伝カーでマイクを握るような、見境のない公私混同をしない分別を持つ男だから、あの間の抜けた顔でも人々に愛されるのだ。郡山市に帰郷したときなどは、お忍びにもかかわらず中学の同級生と一緒に郡山駅前の陣屋などに繰り出し複数の店で冗談などをいった後に、小原田地区の[春こま食堂]でラーメンなどを啜って帰る。そこには鉢巻姿の[ハマちゃん]の似顔入りの色紙が飾ってある。彼がこのラーメン屋に寄るのは地元サービスのためではなく、春こまのラーメンの味そのものを心底から愛するからに他ならない。

  西田敏行の俳優としての実力は底知れず、NHK大河ドラマといわれるテレビドラマには、昭和47年の[新平家物語]を皮切りに平成18年の[功名が辻]まで12本に出演している。それも主役、又は、準主役としてである。一方、映画のほうでは、18本のシリーズを続ける[釣りバカ日誌]では、本人か役柄からかの区別の付かないキャラクターを演じ続け、爆笑の渦巻きが方々で勃発している。このような社員が現実に存在したならば、その企業は確実に倒産に追い込まれるだろう。

  西田敏行主演で1986年(昭和61年)に撮られた映画に[植村直巳物語]がある。この映画は、封切の2年後くらいのテレビ放映時に見たように記憶している。あれから20年経過した現在でも、時々思い出し笑いをするシーンがあった。西田敏行扮する植村直巳が、北極点犬橇単独行を達成する過程で、北極の氷原のど真中で油断した隙に犬たちに逃げられた時のシーンであった。西田は姿のない犬たちに向かい悪態をついたり哀願したり迫真の演技をする。極寒の空にしみわたる西田の声が届いたのか、遥か白銀の彼方から黒い点が滲み出し、それが次第に拡大されて犬たちの姿が現れ、こちらに向かいまっしぐらに進んでくる。犬たち一頭一頭を抱きしめ西田がいう「コノー!俺は本当に悲しかったのだぞ。淋しかったのだぞ」犬たちを会いなければ主人公の命はなく、主人公とはぐれた犬たちもまた、生き抜ける確立が小さくなる状況下での、西田の鼻くそだらけの顔が輝く瞬間の映像が忘れられないのだ。思わず手を叩きたくなるようなシーンだった。

  植村直巳は昭和16年(1941212日兵庫県城崎郡飛高町上郷に生れ、後に日本人として初めてエベレスト登頂をはたし男である。そのことを含め、世界初五大陸最高峰を征服した英雄への賞賛は多く、その冒険の数々をニュースで知るたびに拍手を送りつづけた。同じ日本人として、勇気ある者が数々の足跡を残していく姿を誇らしいと思った。

  五大陸最高峰登頂とは、以下のようなものである。

①エベレスト(アジア大陸最高峰8848m)昭和45年(1970511日に日本人として初登頂。

②キリマンジャロ(アフリカ大陸最高峰5897m)昭和41年(19661024日単独登頂。

③アコンカグア(南米大陸最高峰6959m)昭和43年(196825日単独登頂。

④エルブルース(ヨーロッパ最高峰5633m)昭和51年(1976731日登頂。

⑤マッキンレー(北米大陸最高峰6194m)昭和59年(1984212日世界初冬期単独登頂。

植村直巳が世界中の注目を集めている時期に、1932年(昭和7年)生れのもう一人の冒険家三浦雄一郎は、1970年(昭和45年)エベレストの8000m地点に立っていた。エベレストの35度の斜面を1000m下までスキーで滑り降りようというのである。午後一番にスタート。スピードを抑制するためにパラシュートなどを使用しての滑降途中で計算外の乱気流に阻まれ転倒、死を覚悟したが冷静な判断でクレパス手前で危機を脱出する。

  同日、エベレスト登頂前の植村直巳は、6400mあたりのベースキャンプ付近で三浦雄一郎の身に起こった一部始終を偶然目撃していたという。2Kmも離れたところからの三浦の姿は、白紙にペンで記した一つの点より小さい存在であったはずだ。5日後の511610分、植村直巳は8500m付近キャンプをパートナーの一人と共に出発、二人は910分に世界最高峰の頂点に立った。

  後日、三浦雄一郎と植村直巳の雑誌紙面での対談の折に、植村はこう語ったという。「僕自身感じるのですが、エベレストのスタート点に立たれたときの三浦さんの姿は、今までの中で一番美しかったと思います。心の中の雑念すべてが消え、一瞬後の状況に集中できる透明なものを感じられたと推測します。今までの訓練を含むすべてが集約され、この時間にこの地点にたっているという思いです。自分がこれから生と死のすきまに滑り出すという状況におかれたときの姿が、人間にとって一番の美しさだと思います」

植村直巳は一人でマッキンレー登頂に成功したその翌日(昭和59213日)、マッキンレー下山途中で消息を絶った。43歳であった。

植村直巳は今も、誰も踏み込むことのできない氷河のクレパスに閉じ込められ、そこに永久保存されているのだろう。

  一人ぼっちで行動することが好きだった彼も、「死というものは、こういうものか」と、笑顔で死神と話しをしているように思えるのだ。

今も、彼と死神の二人ぼっちの会話は続いているだろう。

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ハリウッドの日本人 (再)

平成20225

H19-10-15

  近年のメジャーリーグでの日本人選手の活躍は目覚ましい。イチロー、松井秀喜、松井稼頭央、江口、城島、野茂、大家、松坂、井川、数え切れないほどの日本人がアメリカ各地の球場のマウンドや外野に立っている。シーズン中は海の向こうの各試合経過を確認するのも、格別の楽しみである。

  日本人が海外で脚光を浴びたのは野球に限ったことではない。古くから世界を舞台にし、文学、医学、科学、音楽、建築、スポーツ、冒険、登山等々の各分野での多くの日本人の巨星達が築き上げてきたものは、現代の我々の生活に深く浸透している。それらの先人を思うとき、この胸の中を熱いものが駆け回る。

ハリウッド映画への日本人の進出は、かなり前から盛んに行われていた。その中には、堂々と主役を演じ、世界中の女性のハートをくすぐった俳優も実在している。

[早川雪洲]は、1889年(明治22年)に生まれる。1908年(明治41年)に渡米し、シカゴ大学に入学。その後舞台に興味をもち、[タイフーン]の舞台公演中の雪洲の演技が大物プロジュ-サの眼に止まり、この舞台劇の映画化の話を持ちかけられた。1914年(大正3年)その映画[タイフーン]で主演した雪洲は、一躍ハリウッドのスターとなった。当時の雪洲は、まだ無名だった頃のハンフリー・ボガートが憬れたほどのアイドル系映画スターであった。ハリウッド映画界での雪洲は、アメリカ人が扮するには無理のある東洋人やアラビア人の役をこなし、製作者や監督から重宝がられた。そして、1915[チート]でその名声を不動のものにする。チートの筋書きは、公的な金を使い込んだ女性が、その返済のために冷酷な東洋人から金を借りる。もし返せなかったら男の情婦になる、ということが条件であった。当時のアメリカの女性は、この金貸役の雪洲を見るために自分の持つ最高のドレスを着用して劇場に入ったという伝説が残されている。

戦後まもなくの1957年(昭和32年)公開の[戦場にかける橋]は、主題歌クワイ河マーチのヒットと共に世界中で上映された。物語は戦時の日本軍の作戦上重要な橋を、タイとミャンマー(ビルマ)国境のクワイ河に架けるというものであった。タイにある日本軍捕虜収容所内の連合軍捕虜の労力で橋の建設を進める収容所所長役の雪洲らと、イギリス軍捕虜のアレック・ギネス、アメリカ軍捕虜のウィリアム・ホールデンその他の出演で映画史上の古典となっている。

雪洲はハンサムでは有ったが、背が足りなかった。そのため撮影時には、周囲の俳優の身長にあわせるために台の上に乗らなければならなかった。今日でも、背の低い男優のために台を用意することを[せっしゅう]と呼ぶ。早川雪州の戦時中は、アメリカ側からも日本側からも敬遠されることになったが、晩年は日本に帰国し映画やテレビに顔を出したりもした。雪洲は、197311月に祖国日本で亡くなった。84歳の大往生であった。

[マコ・イワマツ(岩松信)]は、1933年神戸に生まれた。プロレタリア画家の父は母を連れ、戦前にアメリカに亡命する。戦後に両親の後を追って15歳の岩松信は渡米した。彼こそ、戦後のアメリカに永住権を持った最初の日本人なのである。

彼はダスティン・ホフマンと同期で演劇学校を出て、アジア系劇団の舞台で[羅生門]の盗賊役を演じていたところをロバート・ワイズ監督に認められた。1966年ステーブ・マッケーン主演の[戦艦サンパブロ]に大抜擢され、このデビュー作でアカデミー助演男優賞候補となる。

日本映画でも1998[中国の鳥人]では、おかしな日本語を話す中国人役で観る者の腹の皮をよじる。翌1999年には、中井貴一主演[梟の城]で豊臣秀吉役を演じ、存在感ある芸を見せた。

[ソー・ジィン(上山草人)]は、1884年仙台に生まれる。35歳で渡米し、サイレント映画の名作[バグダットの盗賊]でダグラス・フェアバンクスの敵役モンゴル王子役でスターとなる。「細長い顔とやせた長身を見ると、一種の恐怖さえ覚える」が、彼の人気の秘密であった。変わったファンもいるものである。1925[海の野獣]でジョン・バリモアと競演するなどハリウッド映画に多数出演したが、ハリウッドでは一度も日本人の役はなかった。

ソー・ジィンは晩年、黒沢明監督[七人の侍]に琵琶法師役で鬼気迫る演技を披露する。彼は自分が出演した七人の侍の公開直前に、70歳で死去した。彼に限らず、一般に脇役を演じる俳優の演技力は高い。映画は大勢の脇役の渋い演技があって始めて名作となるのである。

[丹波哲郎]1922年東京に生まれる。戦後間もない時期GHQの通訳をしていた経緯から、英語はお手のものであった。その後に新東宝入社、生涯に323本の邦画に出演し、2006年の亡くなるまで現役で通した。外国映画ではショーン・コネリーの[007は二度死ぬ]で日本国内情報局のリーダー役で出演したのが有名だが、それに先立ち多数のハリウッド映画に出演している。

1961[太陽にかける橋]ではキャロル・ベイカーと競演。

1964[第七の暁]でウィリアム・ホールデンと競演。

1969[五人の軍隊]ではピーター・グレイヴスと競演。その他でも、ハリウッドスターと互角以上に渡り合っている。

[ハロルド坂田]19207月、アメリカのハワイ州で生まれる。[007/ゴールド・フィンガー]では、ゲルト・フレーベ演ずるゴールド・フィンガーの命令で、鋼鉄の帽子を投げ飛ばして人間を殺傷する用心棒役として強烈な印象を残した。ハロルド坂田は身長こそ短いが、1948年のロンドン・オリンピックでの重量挙げで銀メダルを獲得したほどの頑強な身体の持主である。プロレス・デビュー時の呼び名は[トシ東郷]で、[グレート東郷]の弟というふれ込みの[東郷ブラザーズ]としてアメリカリング上で悪の限りを尽くした。つまり、全アメリカ国民から嫌われることにより巨万の富を獲得した男である。

ハロルドが1926GHQの要請で初来日したおり、ナイトクラブで大喧嘩をした相手の力道山をスカウトしプロレスラーに育てた。力道山とはその後アジア・リーグでタックを結成し、日本リング上では善玉を演じることになる。締まったドラム缶型の身体を持つ渋い男は、数多いプロデューサーから映画出演を誘われたが、その中の自分に合った映画だけに出演した。1982年に死亡した彼は、生涯を通しハロルド坂田役しか演じられない俳優でもあった。それが、スターの条件でもある。

[伊丹十三(一三)]は、映画監督伊丹万作の息子として1933年京都に生まれた。1946年に父を亡くし、母の郷里松山で高校時代をおくる。高校時代の同級生に、後に作家になった[大江健三郎]がいる。大江はその後、伊丹十三の妹と結婚することにより義弟となった。大江健三郎原作の私小説を、1995年に義兄伊丹十三監督で映画化したのが[静かな生活]である。

伊丹は高校卒業後に大学受験に失敗したことを期に上京、196027歳で大映東京に入社する。時の社長[永田雅一]より[伊丹一三]の芸名を受けて[嫌い嫌い嫌い]で主役デビューをはたす。だが、その後の1年は脇役にまわされたので、スターとしての資質に欠けていたのであろう。新規一転、1961に英国に渡り国際俳優となるべくロンドンに事務所を構える。

1963年にオーデション受けたハリウッド作品に出演が決まる。100年ほど前の中国での排他運動の渦中からの脱出を描いた映画[北京の55]で、明治期の日本軍守備隊役を演じ[イチゾー・イタミ]の名を世界に知らしめる。この映画の競演者には、[ベンハー]のチャールトン・へストン、[80日間世界一周]のデビッド・ニーブンがいる。

  1965年の[ロード・ジム]では、[アラビアのローレンス]で当たりを取ったピーター・オトゥールに絡む南海島の族長の息子役で、全世界の映画ファンに好印象を与えた。当時32歳の伊丹の身体は鞭のような躍動感を持ち、台詞なしの個性的演技でこの映画を引き締めたことは言うまでも無い。

その後の伊丹は日本でのテレビや映画で活躍し、1984年の[お葬式]で監督に転向する。

1985年に[タンポポ]1987[マルサの女]と波に乗り、1992年の[ミンボウの女]のリアルなやくざ批判では、複数の暴力団員から暴行を受けて病院に担ぎこまれた。翌年1993年の復帰作[大病人]では、病院内部事情を正直に取り入れてしまい、反発勢力(誰からか頼まれた非合法集団)に公開中のスクリーンを切り裂かれなどのトラブルに合う。

  伊丹十三は、19971221日に自宅のマンション屋上から飛び降り自殺を図った。自殺の原因となる理由が不明瞭であったために、謀略説が噂された。

[パット・ノリユキ・モリタ]は、1932年にカリフォルニア州に生まれた。家計を支えるためにコンピュータ関連企業で働くが、あるきっかけを期にショービジネスの世界に入りスタンダップ・コメデアンとしての人気を得る。バット・モリタの映画デビューは1967年で、[メリー・ポピンズ][サウンド・オブ・ミュージック]の成功でトップスターの座にある[ジュリー・アンドリュース]主演の[モダン・ミリー]で、ひとさらいの手下役でコミカルな演技を披露した。数多くの脇役での映画出演のあと、1989年の[ベスト・キッド]での空手の先生役の演技では、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。1991年の邦画[ストロベリーロード]では、マコ、三船敏郎、松平健らと競演し、日系の老紳士役で重厚な演技を見せている。1989[ベスト・コップ]では迷刑事役で主役を演じ、コメデアン[ジョイ・レノ]と共にストーリーそのものをめちゃめちゃにしてしまった。

[三船敏郎] [七人の侍]他の一連の黒沢明監督以外にも数多くの映画に出演し、それなりの評価を得てはいる。しかし、黒沢明以外は、三船敏郎が持つ魅力を存分に画面に引き出すことは出来なかったように思われる。

  三船は1967年ハリウッド映画[グランプリ]で本田宗一郎に扮し、名優ジェムス・ガーナ、イブ・モンタンと共演する。1968[太平洋の地獄]では、ハリウッド随一の性格俳優リー・マービンと競演。1971年フランス製西部劇[レッド・サン]では、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演。1975年米映画[ミッドウェイ]では山本五十六役で、チャールトン・へストン、ヘンリー・フォンダと共演した。

そして、1920年中国の山東省青島に生まれた三船敏郎は、やるべきことを総てやりつくし19971224日に77歳の生涯を閉じた。

[高倉健]は、1931年福岡に生まれる。1955年に東宝入社、数多くの作品に主演し不動の地位を築く。中でも1968年オーストラリアロケで志村喬と競演して撮った[荒野の渡世人]という和製西部劇は、マカロニ・ウエスタンに引っ掛けた[梅干ウエスタン]と呼ばれて注目を集めた。

高倉健のハリウッド映画出演は、1970[燃える戦場]でクリフ・ロバートソン、ヘンリー・フォンダと競演。1974[ザ・ヤクザ]でロバート・ミッチャムと競演。1989[ブラックレーン]でマイケル・ダグラスと競演する。この映画では、松田優作の殺し屋役が評判となったが、その後にガンで死亡した松田優作の遺作となってしまった。一方の健さんは1992[ミスター・ベースボール]のプロ野球監督の役でトム・セレクトと競演し、現在に至るまで数々の名作に出演し続けている。

[サニー・千葉(千葉真一)]1939年福岡市に生まれる。1957年に日体大機械体操科に入学、1959年に東映入社したあと現在まで152本の映画に出演、5本の映画を監督している。[戦国自衛隊]ではアクション担当監督でブルーリボン・スタッフ賞を受賞している。

千葉が1991年に出演したハリウッド映画[エイセス]では零戦パイロット役で、アメリカでの千葉の名は[サニー・チバ]で知られている。また、1995[ザ・サイレンサー]での迫力ある殺し屋役では、主演のロバート・ダヴィを完全に喰ってしまった。彼は現在でもきびきびしたアクションを身上とした二枚目俳優で、自身が設立した[俳優養成所ジャパン・アクション・クラブ]で、真田広之他、多数のアクション俳優を育てた。

[ガッツ石松]は、1949年栃木県に生まれた。もともとはボクサーで、ライト級世界王者まで登りつめた男である。プロボクサーでの生涯戦績は5131146分と輝かしいものであった。ボクサー引退後に総ての人が止めるのも聞かず芸能界に入り、テレビのバラエテェー番組やドラマに出演してお茶の間の人気を得る。彼の利巧ぶらない飄々とした人柄は、誰からも愛されることになる。

ガッツ石松は大方の予想を裏切り、NHKの大河ドラマに出演した。そのことを期に、テレビ、映画の現場から出演依頼が殺到し、ハリウッド映画にも数多くの出演作がある。

1987年スピルバーグ監督の[太陽の帝国]での日本兵役。1989[ブラックレイン]では、マイケル・ダグラス、高倉健をむこうにまわしてのヤクザ役で、迫力のある演技を披露している。以前に人を殴る商売をしていたからか、人を殴る演技には真に迫る臨場感が漂う。

  [若山富三郎]1929年に生まれた。映画界にはいる前には弟の勝新太郎などと歌舞伎の一座を組み、アメリカ公演などに出かけては三味線などをかき鳴らしていた時期もある。

彼も勝新と同じ時期に映画界に入ったが、二人ともなかなか当たりがとれずに低迷時期が長かったが、その後に個性を生かした演技でスターとなる。若山富三郎は、脇役、主役を合わせて、1992年に亡くなるまでに247本の映画に出演している。

アメリカ映画では1978[がんばれベアーズ!日本上陸]で、少年野球日本人チームのコーチ役で出演し、体格に似合わない機敏な演技を披露している。この映画では、アメリカ少年野球チームのベアーズのコーチ役としてトニー・カーチスが出演しているが、第1作目のコーチ役ウォルター・マッソーと名子役ティータム・オニールのコンビと比べると魅力は薄いように思える。

若山富三郎は後年、マイケル・ダグラス、高倉健が出演した1989年「ブラックレィ-ン」で、重厚なヤクザの首領役を好演した。1992年に、若山富三郎は62歳の生涯を閉じた。残念ながら死に神は、彼ほどの男でも特別な扱いをしなかったようだ。

  近年の渡辺謙、真田広之と、海外に進出して航跡を残した日本人俳優は数多い。今後も海外にはばたく若者の数は、さらに多くなるであろう。しかし、映画ファンの私のドライアイはますます進行し、テレビの画面を見るのさえつらくなったことは皮肉ではある。もっとも、見なくてはならないというものでもないのだが。

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メキシコの荒野における男の美学

平成20119

    中南米と位置づけられているメキシコ合衆国の歴史は永い。紀元前1500年ごろのメキシコには、トウモロコシ、豆、カボチャ等の作物を基盤とした農耕文化が各地方に開花していたが、メキシコ高原地域での文明はこの農耕文明とは孤立した独自の道を歩む。3世紀のメキシコ盆地の山峡に最初の宗教都市文明[テオティワカン文明]が出現し、その影響力はメキシコ湾岸地方まで及んだ。テオティワカン文明が7世紀に滅びると、西方の過激分子が押し寄せてトルテカ文明が興る。この文明が12世紀に滅びると、北方よりメキシコ盆地に進入したアステカ族がメキシコシティに町を築く。その後に近隣部族と同盟と戦乱を繰り返し、結んだばかりの同盟などを裏切ることにより1427年にはメキシコ最大の国家に上り詰めた。14世紀から16世紀にかけてはアンデス地帯のインカ文明と時期を同じくし、メキシコの地はアステカ文明の絶頂期にあった。

  アステカの宗教は複雑な太陽信仰で、太陽に絶えず人間の心臓を捧げなければ太陽の活力が衰えるというものであった。このような宗教のために生贄の犠牲になった大勢の民衆の不満がつのり、為政者の名誉は地に落ちつつあった。中南米に侵攻して来るスペイン国営海賊団の近代兵器による殺戮により、1521年にはメキシコ全土が壊滅状態となる。こうしてインデオの文明は終焉を迎え、以後300年のメキシコはスペインの植民地となった。

  [世界遺産]とは1972年(昭和47年)のユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で採択された「世界文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づき登録された文化と自然遺産をさす。日本では、知床の自然景観などが比較的新しい指定となっているが、世界遺産に選ばれた文化遺産・自然遺産のどれもが、ユネスコ総会への出席者が好い加減な推薦により決めたものではないことが感じられる。

メキシコ国内で指定された世界遺産の数は25以上にも及ぶ。グアナファト州の州都グアナファトも、1988年世界遺産に指定された標高2050mにあるスペイン植民地色の強い都市である。この街の美は、起伏に富む地形に建設された街中を縦横に張り巡らせられた細く曲りくねった道の奥にも、ギッシリとコロニアル(植民地)風の建物が建っているところにある。

  街の名グアナファトの由来は、先住民族インデオの言葉で[カエルの丘]の意味の[グワナシュアト]から来ているらしい。スペイン統治が始まってまもなくの1548年、銀鉱山が発見されたグアナファトには多種の人間が集まり続け、18世紀の人口は10万人まで増加する。

栄枯盛衰が世のならい、19世紀後半には貨幣的価値観が金に移行したことにより、銀の価格が暴落する。そして、多くの銀山が閉鎖された。これは、銀鉱脈が枯渇したわけではなく、銀の価値観が枯渇したからで、いまだに少数の者が坑道奥で銀を生産し続けている。

この銀鉱の凋落によるダメージを打開したのは、学生だった。1960年代のグアナファト住民の20%は学生という状況下で、学生たちがこの町を世界に紹介するという快挙に出て一大観光都市に作り変えてしまった。現在でも、学生達が中心となり様々なエベントが開催され、年間を通し国外からの多くの観光客を引き入れている。音楽や文化を紹介する様々なエベントを主催する学生達のサービス精神は半端なものではなく、訪れた観光客を心底から癒しの世界に導いてくれる。

古来よりのメキシコ男の酒[テキーラ]は、無色透明な蒸留酒である。原料は彼岸花科の一種竜舌蘭で、この株から採った樹液を醗酵、蒸留してつくる酒である。この酒のルーツをさぐれば、14世紀~16世紀に栄えたアステカ王国で飲まれた[ブルケ]という醸造酒で、竜舌蘭の先端の切り口に溜まる樹液を醗酵させた酒であろう。17世紀の侵略者であるスペイン人の一人が本国から蒸留器を持ち込み、このブルケを蒸留した。それを口にした男はキーと白い歯を剥き出し、顔を横に一往復ゆっくりと振り「フー」と吐息を漏らした。これが、口にした酒への世界共通の賞賛のポーズである。このテキーラは、製造する地方によりメスカル、ピノスなどと呼ばれることもあるらしい。

  現在のテキーラの製造法は、竜舌蘭の一種[マゲィ・テキラナ]の株を割り、蒸気釜で蒸す。糖化した株をさらに砕き樹液を絞る。醗酵槽に入れられた樹液に酵母を加え醗酵を待つ。発行した液体を蒸留器に放り込み蒸留する。その結果、アルコール度45%から55%のテキーラができる。アルコールは、いたって簡単に何からでもできるものなのである。

  メキシコを舞台とした映画は多い。登場人物は、親指の付け根に盛り上げた塩をなめ、レモンの薄切りを齧ってから、いっきにテキーラを飲む。今は亡き渋い脇役俳優のウォーレン・オーツがこの[シューター]という飲み方をすると、彼の隠れファンの身体には痺れに似た快感が縦横に走る。

ウォーレン・オーツは、1928年(昭和3年)ケンタッキー州に生まれ、若くして演劇の道に入る。彼の個性が発揮されたのが30歳に出演した[潜望鏡をあげろ]というハリウッド映画である。デイゼル機関搭載のおんぼろ潜水艦に乗り組んだイカレタやつらが、海軍模擬戦闘訓練で最新式の駆逐艦を相手に勝利するという喜劇であった。アメリカ人はこのパタンーがよほど好きらしく、何度も何度も、100回も200回も類似品を作り続けるのである。 ウォーレン・オーツの渋いキャラクターに惚れ込んだのが、1960年代のハリウッドの寵児[サム・ペキンパー監督]である。後に、ペキンパー監督に「彼らと一緒に仕事ができれば、それだけで生きる価値がある」といわしめた[彼ら]の一人がウォーレン・オーツである。サム・ペキンパー監督の[ワイルド・パンチ]のラストシーンでのウォーレン・オーツの、何発もの銃弾を浴びながら崩れ落ちてもガトリング銃を撃ち続ける姿には、世界中のファンが感動を覚えた。ウォーレン・オーツを含む4人は、100人ものメキシコ盗賊団を相手に銃撃戦を挑む、自らも強盗を生業とするアウトローの集団なのである。彼らは敵の全員を抹殺して、おのれらも蜂の巣のように銃弾を喰らって死んでいく。このシーンに使用された模擬血液の量は、ドラム缶1本分だったという。

  メキシコの地をこよなく愛したサム・ペキンパー監督は、1925年弁護士の次男として生まれた。幼くして英才教育を叩き込まれたわけではなく、母方の祖父により「狩をするときは、しとめる動物には命がけで最後まで付き合うことが礼儀だ」「銃を敬う気持ちこそ大切なことだ」風の教育をうけた。一貫して悪餓鬼だった彼は、ハイスクールの時にミリタリー・アカデミー入れられた。その後に海兵隊に入隊し幹部候補生学校に入りまもなく落第、一兵卒として中国にはわたる。中国での列車移動中に、隣席にいた現地人荷役夫の頭が共産党側の狙撃兵に打ち抜かれ、周囲に散乱する脳味噌を見た。このあたりが、後年のサム・ペキンパー監督のバイオレンス映画[ワイルド・パンチ]の戦闘シーンに反映されたのではなかったか。

[ワイルド・パンチ]は、1968年当時の映画界でそれなりの作品を手掛けていたサム・ペキンパーに舞い込んだ大きな幸運であった。主演はウィリアム・ホールデン、準主役にアーネスト・ボーグナイン、ウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソンらの、燻し銀の輝きを持つ俳優達が並ぶ。彼らこそ、サム・ペキンパーが考える1969年代の男の美学を、荒涼としたメキシコの荒野を背景に再現した侍達であった。

  ウエリアム・ホールデンは、1953[第十七捕虜収容所]での演技でスターの座を確保した俳優である。1955年には[慕情][ピクニック]等のヒットで、マネー・メーキングスターの一位に輝いていたが、1960年代には台本に恵まれず低迷していた。1969年の[ワイルド・パンチ]でその個性が再び蘇る。物語の中では終始苦虫を噛み潰しした顔でのアウトローだが、「男はかくあるべきだ」という太い背骨が精神の中心にそそり立っている役を好演した。大量の銃弾が飛び交う戦闘シーン。身体を貫通する銃弾の雨により、吹き上がる大量の血液。穴だらけになった男達は、心臓が停止してもなお敵に向け引き金を引き続ける。この物語では4人全員死んだ。ウエリアム・ホールデンは198163歳で他界するが、死の数日後に発見されたという。まったく羨ましく、理想的な死に様ではないか。耳元で大勢の家族に名を呼ばれての賑やかな臨終が、必ずしも恵まれた最後だとはいいきれない。つまりは、人それぞれなのである。

  アーネスト・ボーグナインは悪役を演じれば背筋の凍るような演技をし、天使を演じれば大きなボタ餅のような顔一面に周囲の人が引き込まれるような笑顔を表す俳優である。彼のキリッと結ばれた唇がニヤリと開かれたとき、上前歯の黒い隙間が魅力のポイントになっている。1969年の[ワイルド・パンチ]公開時に「どんな理由で、あんなにも大量の流血描写が必要だったのですか?」との女性ライターの質問に、アーネストはこう答えた。「いいですかお嬢さん、人が撃たれると血は流れるものなのです」

  ベン・ジョンソンは1918年にオクラホマ州に生まれる。ベン・ジョンソンの映画界入りする以前の仕事はカウボーイで、腕のいいロデオ選手でもあった。映画界入りのきっかけは、ハワード・ヒューズ監督1940年作品[無法者]の撮影に必要な馬をカリフォルニアまで搬送するために雇われたことである。報酬が良かったことが理由で、以後ハワード・ヒューズ専属で雑用とスタントマンを勤めることとなる。そんな彼の風貌がジョン・フォードの眼に止まる。フォード作品の[三人の名付け親]で端役、[黄色いリボン]で青年将校、[ワゴン・マスター]で主演を務めた。そして、1969年サム・ペキンパーの[ワイルド・パンチ]へとつながる。ベン・ジョンソンもまた、この滅びの美学の表現で世界中の映画愛好者の息をとめさせた一人となった。

  メキシコは、太平洋岸、メキシコ湾、カリブ海に面した世界的保養地を擁する風光明媚な地域と、内陸部の赤土が高く舞い上がるマカロニウエスタンの舞台となるような荒涼とした風景とを持つ国である。そしてメキシコは、金をたんまり持ち込んで生活するのには最高の国である。もっとも、金をたんまり持ってさいいれば、何処の国のどの地域に住もうと、幸せは押し寄せてくる。

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ラスト・サムライと大和魂

平成20113

二年前の福島民友新聞の切抜き記事、[侍役者世界を切る]をみつけた。近年、内外でめざましい活躍をつづける[渡辺謙][真田広之][役所広司]の3氏に関しての心おどる内容であった。その中での[渡辺謙][真田広之]については、ハリウッド映画[ラスト・サムライ]に出演したおりのエピソードに絞られていた。

2003年(平成15年)公開の米映画[ラスト・サムライ]は、内外で大ヒットした。トム・クルーズの人気もさることながら、画面からあふれるばかりの日本人俳優の荒武者振りが、故黒沢明監督の数多い名作の戦闘場面を彷彿させるもがあったからであろう。彼らが演じた日本古来の武士の姿を通して、男とは!人間とは!を表現しつくしたスタッフと出演者全員に対し、世界中の人々の惜しみない拍手が湧き起こったかにみえた。

  [ラスト・サムライ]は、明治維新直後の日本国正規軍の軍事顧問として来日したアメリカ人のオールグレン大尉(トム・クルーズ)の眼を通して、反乱軍の大将(渡辺謙)と配下の者の内にある侍魂を謳いあげた物語である。この物語は、今もなお日本国民に慕われ続ける西郷隆盛の生き様がモデルとなっている。実名ではないが、敵役として明治維新の政治家の岩倉具視と大久保利通を合成させたような人物が出て、なにかと勝元盛次(西郷隆盛がモデル)と明治天皇との間に入り、勝元を反逆者に仕立て上げる工作をする。

この映画最後の侍達が壮絶に戦死する戦闘は、1877年(明治10年)924日、西郷隆盛軍最後の陣となった鹿児島城下の城山の戦である。正規軍に幾重にも包囲され、死を覚悟で銃弾の雨の中に怒涛のように駆けて行く侍達の姿を再現している。映画では、この壮絶な戦闘時に、反乱軍の真っ先を駆けていた主人公のオールグレン大尉は死なない。その後に生きて天皇の前に立ち、勝元盛次の汚名を晴らす。ラストシーンは、オールグレン大尉が馬に跨り、勝元の妹が待つ地に向かう馬上からの風景を延々と映しだしている。

ラスト・サムライは、良く吟味された脚本を演出者と出演俳優全員が全力投球で演技し、世界中の映画ファンを魅了させた大和魂映画となった。欧米のある日本史研究者は、実在の西郷隆盛をこういう、「日本国にセント(キリスト教での聖者)がいるとすれば、彼がそうであろう」と。

[渡辺謙]1959年に新潟県に生まれ、1987年のNHK大河ドラマ [独眼竜正宗]で伊達政宗を演じ視聴率記録を更新した男である。184Cmの身長は、現代物、時代物問わず、どんな役を演じても絵になるということで、映画、テレビの数多い作品に出演している。

  ラスト・サムライでの勝元盛次役では、トム・クルーズ演ずるアメリカ南北戦争の英雄オールグレン大尉と精神的な面で互いに影響しあう反乱軍の大将を演じている。この映画では、2002年の京都ロケとハリウッドのスタジオでの撮影、その後の2003年のニュージランドロケでは、日本古来の建物を再現した巨大セット内での剣術や馬術の稽古風景が撮られた。サービス精神旺盛なハリウッド式映画なので、多数の敵方忍者と侍との死闘シーンなども挿入されている。アメリカ的日本解釈が多少鼻につくものの、おおむねの辻褄は合っている。これは、日本人スタッフや日本文化に詳しい時代考証担当係の確な表現法の他に、日本人出演者各々のアドバイスなども取り入れられていたからであろう。

[真田広之]1960年(昭和35年)品川区に生まれ、幼い頃から[劇団ひまわり]に所属し子役とて活躍していた。12歳の中学生のとき、千葉真一の[ジャパン・アクション・クラブ]に入団。18歳でアクション時代劇[柳生一族の陰謀]で映画デビュー。その後に数々の映画と舞台で活躍しNHK大河ドラマ出演の常連となる。1991NHK大河ドラマ[太平記]では、主役の足利尊氏役でお茶の間の人気を一身にあつめた。

  ラスト・サムライでの真田広之の役は、渡辺謙扮する反乱軍大将の腹心の部下を演ずる。反乱軍の捕虜となったトム・クルーズ扮するオールグレイ大尉を、同胞を死に追いやった恨みから事あるごとに痛めつける役を好演している。刀を抜く動作、刀を納める動作、眼の動き、歩く姿などどのどのカットを静止画像にしても、ピッタリと絵になっているのである。彼は、玉川大輔の名を持つ日本舞踊玉川流の名取でもある。

  [小山田シン]は、まだ日本に馴染みのない男優である。19823月岡山市に生まれ、スポーツ万能の少年時代を過ごす。高校卒業の2000年に、単身ロスアンゼルス行きの飛行機に飛び乗る。両親は反対したが、彼の潜在的エネルギーの量は只者ではなかった。ロスアンゼルスでは[ザ・シアター・オブ・アーツ・パフォーミング・アーツ・アカデミー]という、とんでもなく長い校名の俳優養成学校に入学した。この学校で語学とカンフー(空手)をまなびながら、ひたすら映画のオーデションを受け続けていた。映画出演のチャンスは無かったが、カンフーの方では6つの全米大会で5度の優勝を果すほどで、まったく只者ではない奴なのである。

  小山田シンはラスト・サムライのネット・オーデションに応募、空手をやる日本人だとアピールし、その後の二回のオーデションで出演を決める。ラスト・サムライで彼が演じる役は、反乱軍大将(渡辺謙)の息子の勝元信忠という多感な若者である。オーデションの段階で自分が弓の名手の役と聞き、それ以後の土日のほとんどを弓道と乗馬の特訓に当てた。ラスト・サムライの画面での小山田シンの存在感は大きく、渡辺謙(当時44歳)、真田広之(当時43歳)、トム・クルーズ(当時41歳)と互角に渡り合った21歳(当時)の国際俳優の姿であった。

[原田眞人]は、1949年静岡県生まれの映画監督である。彼は[突入せよ!浅間山荘事件]などのほか他数の監督作品を持つ現代日本映画界を代表する監督の一人である。ラスト・サムライでは俳優として出演したが、ハリウッド映画の監督をするための感触を掴むための出演のように思えるふしもある。

ラスト・サムライでの原田眞人の出演場面で印象の深い部分は、トム・クルーズ扮する反乱軍の捕虜が、反乱軍の基地とも云うべき集落屋外を寡黙な侍に案内されている場面で、真田広之他多数が剣道の形の稽古をしている次の場面の、柔術の稽古を付けているのが彼である。髭だらけの精悍な面構えの彼は、機敏な動作をもち若い弟子達に柔術の稽古を付けている。

[菅田俊]は、1955年山梨県生まれの2枚目俳優である。2004年の年末現在で、東映映画を主に118本の映画に出演した。凄みのあるヤクザから滑稽な3枚目までこなし、その的確な演技力には多くのファンを持っている。その意味では、テレビ時代劇にも欠かすことの出来な俳優である。

原田俊のラスト・サムライでの役柄は、主役グループの出る画面には必ず傍に付く重臣的なサムライで、精悍さを出すために眉に剃りを入れて効果的役作りをしている。戦死する場面での壮絶な演技は、その後の映画界の伝説になるであろう。

[福本清三]は、1943年(昭和18年)兵庫県に生まれる。1953年の15歳で東映京都撮影所に入社する。福本清三の映画初出演は1959年で、東千代之助主演の[鞍馬天狗]である。この映画での彼の役は群衆役であった。その後に数多くの映画で通行人、死体、俳優のスタント、その他映画制作上で考えられる役目は総てやらされた。20代半ばからは死体ではなく動く役が多くなり、各映画会社の枠に関係なく時代劇映画、テレビ時代劇のほとんどに出演している。どの映画でも福本清三の役は、クライマックス時に主演者に格好よく切られる浪人や渡世人役である。

  福本清三が所属する大部屋俳優が映画に出演しても、字幕に表記されることはない。彼はチャンバラ画面から一瞬で消える[切られ役]ではあるが、細面で彫りの深い福本清三の顔は多くの映画ファンの脳裏に焼きついていた。1992年、視聴者の投稿によりテレビ番組に出演した。そのことがきっかけとなり、[徹子の部屋]のゲストに出演する。彼のひたむきな人柄に対し応援したくなる人は多く、現在では多くの会員が集まるファンクラブがある。

  ラスト・サムラでの福本清三の演じたのは、反乱軍の捕虜となったトム・クルーズ扮するオールグレン大尉の監視役兼ボディーガード役で、一言の台詞もなく主役に影のように付いてまわる侍役である。映画のクレジットの役名には[サイレント・サムライ]と載る。福本清三が演ずるこの役でも、切られた後に身体を反転させカメラに顔を向け、大きく後ろに反り返るように倒れて死んでいく。これは彼が創り上げた切られ方で、今や古典の域に達した彼独自の死に行く者の演技である。

  共演者の一人菅田俊氏は撮影中の福本清三の印象をこう語る「撮影中は、8ケ月間にわたり一度も自分用の椅子に座らず、一人で丘の上に立っていたのです。彼こそ日本のラスト・サムライです」。彼を認めた菅田俊氏もまた、孤高のサムライの一人である。

[高良隆志]は、1965年東京に生まれる。1980年に千葉真一が主宰する[ジャパン・アクション・クラブ]を受験するが受け入れられず、2年後の再受験にパスする。1983[影の軍団]でジャパン・アクション・クラブの一員として映画初出演。アクション時代劇[激突]で緒方拳のスタントマンとして出演し、ドハデなアクションで観客のドギモを抜く。その後に深作欣二監督に認められ、必殺シリーズ他の同監督作品の常連となる。

高良隆志のラスト・サムライでの役柄は、大将の勝元の身に事が起こったときに、真っ先に駆けつける中堅の侍役であった。トム・クルーズ扮する主役大尉が反乱軍の捕虜になったとき、反乱軍のすみかの集落屋外を監視役に案内されている場面で、真田広之他多数が剣道の形の稽古をしている中の一人として登場。続いての場面では疾走する馬上から弓を射る流鏑馬の場面での馬上のサムライが高良隆志である。馬上での安定した姿を演じるために、6ケ月間の馬術の稽古をしたと聞く。彼もまた、本物のサムライである。

[中村七之助]は、19835月に現中村勘三郎の次男として生まれた。1986年の三歳で歌舞伎[]で初舞台を飾って以来、現在進行形で数多くの舞台に出続けている。

  ラスト・サムライでの中村七之助の役柄は、明治天皇である。ストーリの中の明治天皇も、現代の七之助と同年代だと思われる。彼は、若い天皇が重責に押しつぶされそうになりながらも最後は自分の考えで言葉を述べる役をこなした。この天皇が姿を現す総てのシーンは、ハリウッドのワーナー・ブラザース・スタジオで撮られた。

ラスト・サムライでの日本人出演者は、あらゆる場面の通行人、戦闘場面のイキストラ、馬や崖から落ちる一瞬の演技のみで出演している方々を含めると、述べ数千人に及ぶであろう。それらの情熱溢るる日米の俳優、スタッフ、アメリカ側の徹底した合理主義を貫いた成作姿勢、「良いものには、それに見合った金は出す」という製作者方の経済的裏付けがあって始めて、鑑賞する側の人間を感動の世界へいざなうことができるのだと思った。

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ダライ・ラマ14世とチベット高原

平成20年1月8

   世界的に見て、他の国の主権を踏みにじり、その国の自由を脅かす国がなんと多いことか。侵略国の国民は正義に対する認識が薄く、侵略される側の国に対し露骨な優越感に浸る。歴史上に大国と呼ばれたその国民は、平等であるべき個々の生命、誇り、人権をも、蔑視の感情を持つことで現在まで多くの過ちを繰り返してきた。しかし、どの時代でも、どのような国の中にも、純粋な人道的精神を見失わず、択一した思考で正義を貫いた多くの人々がいたのも確かな事実である。そして、ごく一部の勇気ある者が、実践的な行動を貫き通す。

日本国土の約25倍の面積を有する中華人民共和国の人口は、2005年の初めに13億人を上回っている。現在の中国の外交方針は[平和5原則に基づき、独立自由の平和外交を推進し、安定した国際環境を確保するために周辺諸国との善隣友好関係を強化、発展途上国及び先進国との関係強化、多国間協力の促進を含む、全方位外交を推進する]である。だが、いう事とやる事が磁石の両極のように相反する国は多いのである。かくて、この国の横暴には世界の良識者総てが顔を背けた。それらの国民一人一人をそのように評することを自戒しなければならないが、その横暴を見るに付け個々の人格さえも疑わしくも思えてくるときもある。

  中国の南西部に位置するチベット自治区は、北にヒマラヤ山脈、南に崑崙山脈を望む高原地帯にある。 独立主権国家として2000年前から存在したチベットは、中国の唐代の7世紀初めに統一国家[吐蕃(トバ)]が成立し、たびたび唐と戦った。おおむね五分に戦ったのだが、9世紀初めに和平する。その後も隆盛を誇ったチベット王国は、843年の内紛でもろくも崩壊する。古今東西、家庭でも、企業でも、国家でも、その崩壊原因での一番が内部不和による反乱である。統制が乱れれば、その組織は跡形もなく消え去るのが歴史上の紛れもない事実である。内部の不和以外で国家が滅亡するのは、強国の侵略であるが、この場合は侵略された側の精神と誇りとを犯すことまでには至らない。地図上に形を留めなくとも、その国家は多くの人々の心に生き続けるのである。そしてある日、最も理想的な姿で、この世界に返り咲くのである。

  7世紀のチベットには民族宗教[ボン教]があったが、インドから仏教が入ると、それと融合して独自の仏教[ラマ教]となっていく。このラマとは師匠という意味である。その後に多数の宗派に別れ、氏族同士の牽制などが加わり熾烈な争いに発展し、争いは幾度となく繰り返された。この頃の信仰の対象が各派の法主であり、法主が死ぬと一族ごと信者が離れてしまう状況にあった。このような状況下での数多い宗派の中の[カルマ派]は、法主が死んでも別の人に生まれ変わる[転生]という法主の相続方を採用した。かくて法主が死んでも、信者は他に移ることがなくなったのである。その後この方法は[ゲルク派]にも採用された。

転生の論理は、法主は菩薩の化身で「一切の衆生が救われるまで、永く輪廻の世界に転生を繰り返す」と考えた。この難しい説明を簡略化すると、法主が死んだその日から49日の間に受胎された新生児を捜し求め、転生者に指定するということである。転生者に選ばれると集中的エリート教育がなされ、確率的に優れた法主が誕生し[生仏]としての信仰の対象となる。

  16世紀の中ごろのモンゴルに[アルタン汗]という指導者がいた。彼は全モンゴルを統一した後に、中国北辺に度々進攻し当時の明朝を震えあがらせたばかりか、チベット中央部までも進出した。当時のチベットのゲルク派法主[ソナム・ギャムツォ]の名声は高かった。アルタン汗は彼を招き[ダライ・ラマ]の称号を贈る。ダライ・ラマの称号はこの時から始まった。モンゴル語で[ダライ]とは大海のことである。正確にはソナム・ギャムツォはダライ・ラマ一世であるが、転生の論理での故に先代の誰かの生まれ変わりという位置付けで[ダライ・ラマ三世]とよばれた。彼は、チベット仏教をモンゴル全土に布教した男でもある。

  [ゲルク派]の法主としてダライ・ラマ三世が認められてからも、チベット内ではゲルク派とカルマ派との武力的抗争が続いた。この争いを仲裁したのが、初代[パンチェン・ラマ(ゲルク派)]である。[パンチェンとは,大いなる学者]の意味で、阿弥陀如来の転生とされ、ダライ・ラマ三世がこの称号を与えた。この仲裁がきっかけとなり、[ニンマ派出身のダライ・ラマ五世]が誕生する。

  1639年(日本国では、徳川家光の時代で鎖国が開始された年に当たる)、モンゴルの軍事力を背景にダライ・ラマ五世を元首とする政権が成立し、ラサ市内に政治と宗教の象徴としての[ポタラ宮]が建造された。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされているので、観音菩薩の霊場[補陀落(ポタラ)]からの命名であった。

  清朝の中国の支配下に入ったチベットのポタラ宮には、ダライ・ラマ七世がおかれた。この時、パンチェン・ラマ五世は西部チベットの支配権が与えられる。1903年(明治36年)には、インドを植民地としたイギリスがラサを占領し、チベットはイギリスの属国となった。

  第二次大戦後1951年(昭和26年)中華人民共和国がチベットに侵攻し、再び中国の支配下に置かれる。ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ共に存続は許されたが、政治からは切り離された。そして、1959年(昭和34年)3月、ダライ・ラマ十四世の拉致の陰謀を知ったチベット民衆三万人がダライ・ラマを守ろうと宮殿を取り囲んだ。これを反乱とみなした解放軍は武力鎮圧をし、多くの血が流された。ダライ・ラマ十四世は、混乱をさけるためにインドに亡命した。1966年(昭和41年)、中国に文化大革命がおこり、ポタラ宮殿他の多くの仏教寺院が破壊された。

1989年(平成元年)ダライ・ラマ十四世はノーベル平和賞を受賞する。

ダライ・ラマ十四世の名は、[テンジン・ギャツォ]という。1935年(昭和10年)に農家に生れた[ラモ・ドンドゥプ]は、2歳の時に第十三世ダライ・ラマ(トプテン・ギャツォ)の転生と認定される。この時の彼の名は[ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ]といい、「聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、知恵の大海」という意味である。なにやら、古典落語の[ジュゲム]に似ているが、落語のように、手放しで笑ってはいけない。

[セブン・イヤーズ・イン・チベット]は1997年にアメリカで作られた映画で、少年のダライ・ラマ14世を描いた名作である。物語は、世界的登山家のハインリヒ・ハラー(ブラット・ピット)は同僚と二人でヒマラヤ登頂を目指すが、第二次大戦激化の中でイギリス軍の捕虜となる。その収容所から脱走した二人は聖地チベットのラサに迷い込む。そこで西洋人として始めて少年ダライ・ラマ14世と会うことになったハラーは、ダライ・ラマの側近に家庭教師を依頼される。中華人民共和国のチベット侵攻の激動期に、離婚等で荒んでいたハラーの精神が幼いダライ・ラマにより浄化されていく過程が、丹念に描かれていく。

[クンドゥン]も1997年にアメリカで作られた映画である。物語は、1937年のチベットの寒村に、長旅を続けてきた数名の高僧が到着したところから始まる。僧達の目的は、数年前になくなったダライ・ラマ十三世の生まれ変わりを見つけることである。この村のハモという幼児の前に、先代十三世ダライ・ラマの愛用した物を他の物と混ぜてそこに置いた。多くの物の中から先代ラマの愛用した物を選び出していく幼児を、一人の高僧が尊敬と畏怖の念を込め幼児に話しかけた。「法王猊下[ホウオウゲイカ=クンドゥン=高僧に対する敬称]と。

1959年(24歳)にインドに亡命したダライ・ラマ14世は、国外にチベット亡命政府を築き、いまなお、祖国の再建と世界平和のために飛びまわっている。

平成201月の空の下に、72歳の正義と平和の獅子として。

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サミー・デイヴィスJrとタップダンス

                                               成2013

1960年代アメリカのショービジネス界にサミー・デイヴィスJrという黒人がいた。黒くてチビで瘠せていて顎が前に突き出て目玉だけが大きい男だった。歌を唄わせると小さく細い身体の何処から出るのかと思うほどの声量の持主で、踊らせれば舞台一杯に軽やかなステップを踏みまくる。彼の全身は、モリブテンがタップリ含まれた鋼鉄スプリングだった。

  サミー・デイヴィスJr1925年(昭和になる1年前)にドサ廻りの芸人一家の中で生まれた。物心つくころから音楽、楽器、ダンスのレッスンを受け、舞台に立ったのが3歳である。家族と共にアメリカ中を巡業して住居が定まらないために、高校までの学業は通信教育で通した。19歳で兵役に服したあともひたすらの舞台活動で、29歳には初のレコードを出して音楽的に高い才能を認められスターとなる。この年の交通事故で左目を失明するも眼帯姿で様々な活動を続け、着実に実績を残して行った。

  1950年代に人気絶頂にあったフランク・シナトラと出合い、ディーン・マーティンらと共にシナトラ一家を組み、映画やラスベガスのホテルでのショーなどで話題をさらうことになる。

彼が始めて来日したのは昭和38年で、以来、来日はシナトラ、ライザ・ミネリーらと共に数回に及ぶ。昭和45年にはテレビでウイスキーCM(サントリー)などにも顔をだしていた。.

  サミー・デイヴィスJrといえば、なんといっても軽やかにステップするタップダンスが網膜に浮かび上がる。タップダンスを大別すると、ジーン・ケリーやフレッド・アステアが映画のなかで踊るような、ステップを踏みながら上半身で様々な振り付けをするブロードウェイスタイルと、ステージショーなどでのリズムだけを重視するリズムタップになる。そして、サミー・デイヴィスJrの場合はリズムタップを得意としている。

タップの軽快な音は、普通の革靴を踏み鳴らしても出てこない。靴の爪先(ボウル)と可踵(ヒール)の部分にアルミ合金のタップチップ埋め込んで初めてあの音が出るのである。勿論、何十年もの練習を重ねて初めて痺れるようなリズムを踏むことができるのだろう。

当時シナトラ一家(ラット・パック)と呼ばれたメンバーは、リーダーのフランク・シナシナトラ、番頭格のディーン・マーティン、それにピーター・ローフォード、サミー・デイヴィスJr、ジョーイ・ビショップ、ヘンリー・シルバーその他で、どれも一癖も二癖もある連中であった。

フランク・シナシナトラは、1915年(大正4年)に生れ、やり放題の人生をすごし、1998年(平成10年)に死んだアメリカの歌手であり、映画俳優であり、アメリカンヤクザでもあった男だ。

ディーン・マーティンは、1917年(大正6)にオハイオ州のある小さな町に生まれた。1946年(昭和21年)クラブのドサ廻りで唄っていた時に、ジェリー・ルイス(コメディアン)と組んで[底抜けコンビ]で舞台に上がったところ受けに受け、そのままパナマウント映画で1949年から7年間も二人のコンビで映画を撮りつづけ、二人とも世界的スターとなる。同時代ビング・クロスビーとボブ・ホープ主演[珍道中物]の人気シリーズに乱入ゲスト出演(バリ島珍道中)して、終止のつかない物語としたりもした。 

「人気はどちらが上か」という話からジェリー・ルイスとは1956年(昭和31)にコンビ解消、シナトラ一家の一員となる。ディーン・マーティンがジョン・ウィーンと競演した西部劇[リオ・ブラボー1959年(昭和34年)]でのアル中の保安官助手役で、真にせまる酔っ払い男を演じて以来、生涯を通し酒飲みを売りもにして人気を博すが、そのあまり最後には身体をこわした。この映画と同名の主題歌[リオ・ブラボー]と、当代人気一番だったロック歌手リッキー・ネルソンとの掛け合いで歌う [ライフルと愛馬]は、今でも耳の奥で反響を繰り返している。

ピーター・ローフォードは、アメリカの俳優であり、歌手であり、ジョン・ケネディの義弟(大統領の妹を嫁にした)である。

サミー・デイヴィスJrは、アメリカの黒い顔をした歌手で、黒い顔をした俳優であり、類まれな黒い顔のエンタテーナーである。

ジョーイ・ビショップは、1918年(大正7年)生れの歌手で、コメディアンであり、俳優でもあった。200789歳で死んでしまったが、シナトラ一家では一番最後まで生きのびた男である。

  [タップ]という映画がある。20世紀最大のタップダンサーといわれたグレゴリー・ハインズ主演で、1989年(平成元年)に作られたグレゴリーのタップを見せる映画である。映画であるから筋書きは勿論ある。が、とって付けたような筋書きで、様々なダンサーによる楽しいタップステップをみせてくれた映画であった。

  この映画のオープニングシーンは、刑務所独房内の床を踏み鳴らす靴のアップであった。罪を犯して服役中の黒人青年が今思い付いたステップを、心みに踏んでいるのである。そのたどたどしいリズムに次第に目鼻が付き、どんどん発展して刑務所中に響き渡っていく。この騒音に刑務官が駆けつける訳ではなく、観客は「こんな刑務所ならさぞかし住み心地がよいのでは」などと、思ったりもする。

刑期満了の日に迎えに来る者は無く、むかし馴染みのニュヨーク下町のダンス教室を訪れた。以前の恋人と、子供の頃から彼の才能を認めてくれてタップの技を教えた男(サミー・デイヴィスJr)がそこいるはずだった。このビルの3階にある上級者の練習場には誰一人いない。以前の練習場を懐かしく思い、そこで一人ステップを踏み続ける主人公。ここも見せ場の一つで、タップシーンが延々と続く。その音が、同じ階の隅の小部屋で黒人の爺様たちがたむろしてポーカーにふけっているところまで伝わる。ブラインド越しに覗いた爺様が、ショボクレタ格好で花の手入れしているサミー・デイヴィスJrに、踊っている男がいることを知らせる。彼の眼が輝く。待ちに待った息子同様の男が帰ったことを予感したからだった。

  爺様たちに冷やかされたグレゴリー・ハインズは昔の先輩に敬意を込めていう、「老いぼれどもめ、昔のステップは忘れてしまっただろう」。爺様たちは目をむき、一人の老人のピアノに合わせて代わるがわる得意のステップを披露する。よぼよぼした老人達のタップの腕は素晴らしく、それぞれが異なる曲で踊りまくる。最後にサミー・デイヴィスJrが杖を仲間に預けて踊りだす。このサミー・デイヴィスJrの役は癌に侵された老人役だが、実生活上の彼も、あと何年しか生きられない喉頭癌の患者であった。軽やかな彼のダンスは鬼気迫るもので、画面を圧倒するのである。

  1930年代のワーナー・ブラザーズ全盛時、たくさんのギャング映画で主演した俳優にジェームス・ギャグニーがいる。ギャグニーは、背が高くなく、小太りで、バレーボールのような真丸な顔にギョロ眼が二つついている男だった。日本人俳優の中で最もギャグニーに似ているのは緒形拳だと思っているが、ギャグニーも緒形拳も迷惑だと思うかも知れない。迫力のなるギャングスターを演じていたギャグニーが、1942[ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー]ではショウビジネス界の芸人を演じ、その中で素晴らしいタップダンスを披露する。盛りを過ぎた彼の楽屋話の中で「タップを踊ると、足が腫れて靴が脱げなくなる」といったそうである。踊りとは、このぐらい身体の各部に負担がかかるものらしい。

  日本でのタップダンスの草分けは、中野ブラザーズを置いてほかにはいないだろう。

  昭和32年ごろにフレッド・アステア主演の[踊る結婚式]を見て感動、京都のダンススタジオでてほどきを受け、米軍キャンプを廻りながら腕を磨く。昭和30年東京に進出し[江利チエミ]の引きで、日劇やコマ劇場で脚光を浴びる。昭和34年ラスベガスでの[ホリディ・イン・ジャパン]で一年間のロングラン公演で大好評を得る。この頃、故サミー・デイヴィスJrと出会い、その後3人はサミーが他界するまで親交を続ける。

  現在、中野ブラザーズの兄啓介は東京で、弟章三は福岡で、それぞれダンススタジオを経営し後進の発掘に励んでいる。

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ダ・ヴィンチ・コード

平成191222

  映画[ダ・ヴィンチ・コード]は平成185月に全国でロードショーとなった映画である。全世界でベストセラーとなったダン・ブラウン原作の同名小説の映画化であった。映画のほうも世界各国で大ブレーク。観客動員数においてはここ10年での最高を記録したが、私はその人数までは知らない。

映画はトム・ハンクス、オドレイ・トトォ、ジャン・レノ主演での緻密に計算されたミステリーで、[イエス・キリストの秘密の生涯を解きあかす鍵がレオナルド・ダ・ヴィンチの名画に隠されている]という前提の元に、聖杯とイエスの末裔にかかわる古文書のありかを特定するための謎解物語である。

  映画好きの私は映画館に行く誘惑と必死に戦い、「まず、小説を読もう!」というところに落ち着いた。デパートの書籍売り場で文庫版の[ダ・ヴィンチ・コード]上中下のセットを購入し、勤務先よりの帰宅後の時間と週末に読み続けて、約2週間で読破した。近視で、乱視で、その上に老眼の進行が著しい身体的状況や、どちらを向いても面倒で煩わしいものが押し寄せることなどからの読書離れであったが、この小説の魅力溢れる内容と、洗練された文体の翻訳者越前敏弥氏の力量からか、ここ10年間では最早の読書スピードであった。久しぶりに、ハードボイルド調の小説を読みまくっていた昔の読書の楽しみが蘇ったようである。

  小説は、ルーブル博物館の館長がダ・ヴィンチの名画[モナリザ]の前で殺害されたことに端を発し、被害者が暗号として残した手がかりを、その孫娘の警察暗号解読官と宗教象徴学専門のハーヴァード大学教授が謎解きに費やす2日間の物語である。舞台はパリに始まり、ロンドンに移り、スコットランドのロスリン大聖堂で謎の全体が解明される。

  内容は、イエス・キリストにはマリアという婦人がいて、処刑されたときには婦人のお腹にイエスの子供が宿されていた事実が、歴史の裏側で伝承されていた。当時イエスの末裔を庇護する役目の秘密結社総長レオナルド・ダ・ヴィンチは、最後の晩餐に使用した聖杯とキリストの末裔の存在を知らせる文書のありかを解く鍵を、自分が描く宗教画に描き込んでいた。様々な登場人物が絡み合いながら、聖杯という言葉の解釈による謎解きが進行し、最後に、メロヴィング王家という高貴の出のキリストとマリアの直系の子孫が、殺害されたルーブル博物館館長の孫娘であるとわかる。縦糸と横糸が無理なく織り成すストーリの構成、膨大な歴史書と美術史との裏付けによる正確な時代考証、絞りに絞った登場人物の適切な言動により確信に向かって進行する物語。小説はこうでなければならない。最後まで手に汗を握って読み上げた。

小説のタイトルになったレオナルド・ダ・ヴィンチは、[最後の晩餐][モナリザ][岩窟の聖母][東方三博士の礼拝]等の宗教画で[画聖レオナルド]の名声をほしいままにした人物である。絵画について言及した彼の言葉に「絵画と彫刻の違いは、彫刻家が画家より大きな肉体的努力によって製作に取り組むのに対して、画家はその作品をより大きな知的努力によって創るという点にある」がある。同時代のダ・ヴィンチの25歳下に彫刻家ミケランジェロ・ヴォナローティという天才がいた。二つの才能はことごとくぶつかり、上記ダ・ヴィンチ言葉に対し、ダ・ヴィンチの絵を評したミケランジェロは「あれくらいのものなら、家の下男でももっとうまく描いたでしょ」と云い返した。

ダ・ヴィンチは、1452~151967年間を生き抜いた。その間は絵画だけでなくあらゆるものに精通し、自分のアイデアを膨大な素描やメモの形で残している。ダ・ヴィンチ40歳頃の自身の裸姿で表した[ウィトルウィウス的人間(ヴェネツィア・アカデミア美術館所蔵)]という素描がある。これは、紀元前1世紀のローマの建築家[ポッリオ・ウィトルウィウス]の建築論の実証図で、[両腕を広げた長さは背丈に等しい][身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、両腕を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さになるまで上げる。この手足の先端をよぎる円を描くと、その中心に臍がくる]ということを実証した図面である。この図には男性器の位置と形が正確に描かれているのが、ことに至った本来の姿がこんな物ではないことを、ある年齢に達したときの女性は充分に認識させられるのである。

  現在の中高生が道交法を無視して乗り回している自転車の考案は、1820年だと云われているが、その約350年前のダ・ヴィンチ素描のひとつにその姿をみる。その他には、弓形のバネを動力とした自動車、バネを使用した時計、ヘリコプター、飛行機、パラシュトのデッサンなどもある。また軍事用の殺人荷馬車、高速弓矢発射機、マシンガン、ガードリング砲、人が中に入り機関砲を撃ちながら移動する戦車なども発明している。しかし、当時の時代に実用に供されたか、は、さだかでない。

ダ・ヴィンチが科学について云ったと思われる言葉に「工学は数学的科学の楽園である。なぜなら、ここでは数学の果実が実るから」がある。

歴史上には数多い天才が存在したが、そのなかでも頂点に立つ者の一人がダ・ヴィンチである。フロイト(精神分析学者)は云う「みんながまだ眠っている間に早々に目覚めてしまったのがダ・ヴィンチだ」

周囲に物が溢れている世に生まれ育った青少年の生態を観聞きするにつけ、「私を軽蔑するな。私は貧乏ではないのだから。やたらにたくさんのものを欲しがるものこそ貧乏なのだ」のダ・ヴィンチの言葉がよぎる。私はいま二三の欲しいものがあるが、その中のどれを買うかを7ケ月間思案している。全部を手に入れる銭がないからだ。この間にも、欲しい物の一つの電化製品は、2回モデルチェンジして性能もアップしている。もう少し思案し続けるべきなのだろうか・・・

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黒部の太陽と三船敏郎

                                                                             平成19126

  自分をどうにもならないグウタラ人間と思っている。目の前に出現する大切なこと、どうでもよいことを含めた面倒なことを、できるだけ後に廻す生活を永く続けてきた。どうゆうものか、近頃は乱雑な身の回りが気になりだし、手じかなところから整理をするようになった。生命に関することで、悪い予感がしないでもない。

私が手を伸ばせば届くあたりから整理整頓を始めると、その現場を遠くからみている連れ合いの顔は必ずしも機嫌の好いものではない。思うに、私の所有物以外の物は相対的に連れ合いの所有物となるのだが、それを整理される危険があるからだろうと思っている。なにしろ、家の中で動くものといったら、私を含めて2体しかないのだから、お互いに気になる存在ではある。 

  夕飯の終わった後に、机の奥で埃をかぶった写真を引き出して見た。過去を振り返ることが必ずしも楽しい事ではないのだが、比較的精神が安定した日などは、気まぐれに思いもかけない行動に走ることもある。アルバムの一冊をめくっていると、兄弟で黒部渓谷の紅葉をバックに撮った写真が眼についた。写真横の但し書きには、平成15111日から同3日までの黒部、立山、白馬、上高地の兄弟での旅行の写真となっていた。この旅行が実現したのは、7人兄弟姉妹の末妹夫婦の力によるものであった。いくつになっても兄弟の温もりは格別なものである。7人兄弟の内の兄2人が先立ち欠けてしまったことは残念ではあるが、それはそれで受け入れなければならないだろう。

  燃えるような紅葉の黒部渓谷のトロッコ電車での往復、立山連峰を越えてのアルペンルート行、雄大な峡谷の中の黒四ダム、アルプスへの中継地点の安曇野の風景、小雨の白樺林の上高地高原、どれを取っても昨日のように生なましく思い出される。この旅行で見聞きした名勝にまつわる話や、車窓を横切る様々な風景は、出不精の者にとり「遠くに来た」という満足感をあじわえるものであった。

アルペンルートの中で立山のお腹の中をバスで通り抜け、ロープウェイとケーブルカーで降下したあたりに黒部ダムがある。黒部ダム本体を徒歩で渡って対岸にいたる。満々と水を蓄えた人造湖畔に、工事資材搬入ルート確保のためのトンネル工事と、ダム本体の工事の事故で亡くなられた方々の慰霊碑があった。その前には、ついさっき飾られたような真新しい生花が手向けられていたこが思い出された。ダムの完成は昭和38年(1963年)で、私たちの旅行の日時より40年以上前に亡くなられた方々の御遺族の方が、さっき、この地を訪れたのかもしれないと、そっと眼を閉じた場所である。

昭和43年(1968)に映画[黒部の太陽]が封切られた。当時27歳の私も鑑賞した映画で、当代のトップ俳優の三船敏郎と石原裕次郎の共演で大ヒットした話題作であった。映画は人気俳優を支える個性ある大勢の助演者により厚みと深みが加算されて完成する。この映画の主演者二人以外の出演者を数えるだけで胸が躍る。滝沢修、志村喬、佐野周二、辰巳柳太郎、加藤武、柳永二郎、宇野重吉、山内明、二谷英明、芦田伸介、岡田英次、大滝修次と魅力に溢れる俳優の名が延々と続くことになる。

  映画[黒部の太陽]は、1964年に毎日新聞に連載されたドキュメントが基になっている。黒四ダムの着工に先立つ資材搬送用トンネル工事の計画から完成までの物語で、この難工事を遂行したゼネコンは鹿島建設、間組、熊谷組、佐藤工業、大成建設の五社であった。

  映画[黒部の太陽]では、熊谷組の技術者役の石原裕次郎と、関西電力の黒四建設事務所次長役の三船敏郎とが拮抗した演技で話題をさらったのだった。昭和62年(1987)の石原裕次郎の死後も石原プロは存命で、一時代前のテレビドラマ[西部警察]を再開する話などがあったが、何かの理由でたち消えになったようである。少なくとも、ショットガンを持ったサングラス姿の警察官を観ずに済んだことには、ほっとしている。あんな嘘っぱちがこの世にあるわけがない。

  三船敏郎は黒沢明監督と一連の映画制作活動をして、世に出た男である。同時代のハリウッドのジョン・フォード監督と名優ジョン・ウェンの関係と重なってくるが、両者とも類まれな素晴らしい師弟関係の上に成り立った盟友に見えるからだろう。

  三船敏郎を主役に起用した黒沢明監督の映画は、[酔いどれ天使]から[赤ひげ]までの14本だと記憶している。この中で、黒沢明が社会問題を深刻に表現しようとした現代劇作品を、私は好まない。理屈ポイ話は嫌いだし、第一そんなもの理解できる能力を持ち合わせてはいない。[七人の侍]に始まり、[羅生門][蜘蛛巣城][隠し砦の三悪人][用心棒][椿三十郎][赤ひげ]等の時代劇は心から楽しんだ映画であった。これらのいずれの作品も、サングラスを顔につけた黒沢明が「スタート」の合図をしない限り、三船敏郎の個性が画面に飛び散らなかったものである。層の厚い助演陣は黒沢組と呼ばれた渋くて重厚な集団で、どの俳優もどの女優も、抑えた動きの中で毎回適切な演技を見せてくれたものであった。

  三船敏郎は黒沢明との仕事以外にも数多くの映画に出演し、それなりの評価を得てはいる。しかし、黒沢明のように、三船敏郎が持つ隠されたエキスを画面に引き出すことは出来なかったようである。

  三船敏郎は外国映画にも数多く出演している。米映画[グランプリ]では、本田技研の創始者本田宗一郎に扮し、名優ジェムス・ガーナ、イブ・モンタンと共演した。[太平洋の地獄]では米性格俳優の雄リー・マービンと競演。フランス製西部劇[レッド・サン]では、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演。米映画[ミッドウェイ]では山本五十六役で、チャールトン・へストン、ヘンリー・ホンダと共演した。

  1920年、中国の山東省青島に生まれた三船敏郎は、やるべきことを総てやりつくし19971224日未明77歳で亡くなった。黒沢明は三船敏郎が他界したことを知りこう語った。

「亡くなったことを聞き驚いています。まさか僕より早く亡くなるなんて思いもしなかった。最近、三船君のことが気にかかり、いつか会いたいと思っていた。会って、“三船君、本当に良くやったなあ”と、褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません。僕が葬儀委員長を引き受けたいのだが、足が弱り表に出られません。三船ちゃん、お疲れ様とだけ言いたい。」

  黒沢明もまた、翌年の199896日に亡くなられた。88歳であった。向こうの世界で三船敏郎と再会し、肩を抱き合っている姿が浮かんだのは、この監督の死を知ったときであった。彼もまた、やるべきことを総て成し遂げた人間だった。

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ボブ・ホープとアカデミー賞授賞式

平成191120

1937年以降のハリウッドに、早口でしゃべりまくる喜劇俳優がいた。1903年にロンドンに生まれ、4歳の時に両親とアメリカに渡ったボブ・ホープである。10歳の時からボードビルの世界で苦労したあとに、ラジオでの口八丁でスターになる。彼は後に、[アメリカ1おかしな男]の称号を得る。彼こそは、人間の心臓を直撃するユーモアの天才だったのである。

ボブ・ホープは1937年に[百万弗大放送]で映画デビューし、40年代には映画[腰抜けシリーズ]でヒットを飛ばす。その後の彼は、1940年から1965年までにアカデミー特別賞を5度も受賞している。1965年以後は、アカデミー賞の授賞式の司会者として、人々を腹の皮がよじるほど笑わせた。人々は彼を[アメリカの顔]と呼んだ。世界中の人々が、ボブ・ホープの気真面目そうな口元から機関銃のようにくり出す言葉を愛し続けた。

ボブ・ホープのユーモアは時として辛口である。1977年アカデミー賞に[ウディ・アレン]監督の[アニー・ホール]が作品賞、脚本賞、監督賞を受賞。この作品に出演した[ダイアン・キートン]は主演女優賞を受賞した。脚本と監督で受賞したウディ・アレンは、授賞こそしなかったが主演男優賞にもノミネートされていた。あろうことか、アレンは授賞式に出席しなかったのである。ウディ・アレンは生粋のニューヨークの舞台人で、以前からド派手なアカデミー賞の授賞式を嫌っていた節があった。この授賞式でも司会役を務めていたボブ・ホープは「今日はウディ・アレンが来ていない。たぶんマーロン・ブランドとポーカーでもやっているのだろう」と皮肉った。

ボブ・ホープにウディ・アレンのポーカーの相手方にされた[マーロン・ブランド]もアカデミー賞に反発する一人であった。1954年の[波止場]で主演男優賞を授賞して以来は、作品に恵まれず時が過ぎ、1972年のフランシス・コッポラ監督[ゴットファーザー]のマフィアのボス役でスクリーンに返り咲く。この作品で主演男優賞にノミネートされ指名もされたが、授賞をすることを拒否したばかりかインデアン娘の衣装を着けた代理人に「インデアンを悪者として扱ったハリウッドに抗議する」という自分のメッセージを読み上げさせた。このマーロン・ブランドのスタンド・プレーは、人々の批判の対象になった。

ボブ・ホープは2003728日深夜、カリフォルニアの自宅で息を引き取った。したたかに生き抜いた果ての、100歳での旅立ちであった。その日、いまだにしたたかに生き続けている2世ブッシュ大統領がボブ・ホープの死を悼みコメントした。

「アメリカは今日、偉大な市民を失った。彼は我々を笑わせ、そして勇気を与えてくれた」と。

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金色のオスカーおじさん

平成191119

アカデミー賞が出来たのは、ハリウッド映画会社の労働組合対策上の組織造過程での、ほんの手違いからだった。

1920年代の映画の都ハリウッドで、最も権力を持つ者の一人にMGM映画副社長兼総支配人[ルイス・B・メイヤー]がいた。当時の彼は、撮影場内に働く電気工やセット作りの大工に類する職人連中がやたらと労働組合を造り、労働条件改善と賃金引上げなどで経営者側と激しく対立を繰り返していることが頭痛の種だった。    1926年に9つのハリウッド映画会社と5つの労働組合が協定を結んだが、メイヤーはこの労働組合というものに大きな危機感を持っていた。つまり「このままでは職人だけでなく、俳優も監督も脚本家も組合を作るだろう」というわけである。

翌年、メイヤーは腹心の三人を自宅に呼んだ。MGM最大ヒット作[ベンハー]の監督、自社の最大のスター、映画制作者協会の理事長の3人であった。他の組合が出来る前に、それに対抗するハリウッド映画人の組織作りの相談をするためであった。

192754日、とあるホテルに集まった36人で、組合対策組織創立委員の話し合いがもたれた。この一週間後の511日、メイヤーが選んだ映画エリート275人の会員が集まり[映画芸術科学アカデミー]が発足した。初代会長は大スターの[ダグラス・フェアバンクス]だった。

[映画芸術科学アカデミー]は組合対策が目的の組織だったが、表向きは[映画芸術および化学の質の向上をはかること]が組織の目的とされ、さらに[秀でた業績に対する表彰]が付け加えられた。当初は、この賞がのちに[アカデミー賞]に発展するとは誰も思わなかった。「無駄な金は一セントも出さない」とうそぶいていたメイヤーもフェアバンクス夫妻になだめられ、前年の優秀映画と優秀な演技をした俳優を表彰することに同意させられた。

1929516日、ハリウッド・ルーズヴェルト・ホテルに約200人の映画芸術科学アカデミー会員が集まり、第1回目のアカデミー賞授賞式が行われた。現在の授賞式と大きく異なり、ひな鳥料理、伊勢海老、かめのスープ、果物、サラダが並べられた夕食会の形式であった。この食事の後に授賞式があった。

第1回目のアカデミー賞授賞は、主演男優賞は[最後の命令]その他の演技に対してのドイツ人の[エミール・ヤニングス]、主演女優賞は[サンライズ]他の演技にたいして[ジャネット・ゲイナー]、作品賞はパラマウントの戦争大作[つばさ]、監督賞は[第七天国][フランク・ボーゼーギ]であった。これらを含めた12部門の受賞者の席に、会長のダグラス・フェアバンクスが赴き、黄金の小像が手渡された。この賞品がのちに[オスカー]と呼ばれる裸の男が十字軍の剣を持ちフイルムを収める丸い容器の上に立っている像である。

アカデミー賞の受賞者に手渡される黄金の像は当初[小像]と呼ばれていたが、アカデミー事務局に働くマーガレット嬢が、1931年に初めて小像を見たときに「まあー!私の叔父さんオスカーにそっくり」といったことに由来する。以後、ハリウッドの映画人はこの小像を[オスカー]と呼ぶようになった。

[オスカー像]は、MGM美術監督[セドリック・ギボンズ]1927年にデザインしたものである。このギボンズのデザインをもとに若い彫刻家が粘土像をこねあげ、さらに彫像家がスズ92.5%、銅7.5%で鋳造したものへ金メッキされている。高さ34cm.重さ3kg.の金色のオスカー叔父さんは、生みの親{セドリック・ギボンズ}の手に7回もアカデミー美術賞として渡されている。

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菜の花のとつぱずれなりふじの山 (小林一茶)

平成191116

富士を題材とした名句は多い。

[一尾根はしぐるる雲かふじのゆき] 芭蕉

[不二ひとつ埋み残してわかばかな] 蕪村

[菜の花のとつぱずれなりふじの山] 一茶

江戸期の3大俳人の句である。俳句は特に高尚な芸術とは思わないが、575の言葉を綴ろうとしても満足行くものができたためしがないので、その道の奥の深さには感嘆せざるを得ない。

芭蕉は正保元年(1644)に生まれ、元禄7年(169451歳で没。芭蕉没後23年目の享保元年(1716)に生まれた蕪村は、天明3年(178368歳で没。

一茶は宝暦13年(1763)に信州長野柏原村の百姓の子として生まれた。三歳の時に母に死別、八歳の時にやってきた継母に苛められた。まるで偉人伝の幼児期の苦労を絵に描いたような悲惨な状況にあった。「親のない子はどこでも知れる。爪をくわえて門に立つ」と近所の餓鬼どもに囃される毎日で、孤独な幼児期をすごす。

ただ一人の味方だった祖母の死をきっかけに、15歳で江戸に奉公に出る。25歳のとき[二六庵竹阿]の弟子となり、3年後に師が亡くなるとその後を任され一茶と名乗る。

[めでささも中ぐらいなりおらが春]

諸国を流浪し、そこそこに名を上げて39歳で故郷に帰ったとたんに父が倒れた。その父は1ケ月ぐらいで亡くなってしまった。その後の12年間は、継母と異母弟と一茶の3人での遺産相続の争いが続く。この壮絶な争いでは、俳句の世界とは異なるもう一人の一茶を垣間見ることができる。

総てが解決して故郷に戻った51歳の一茶は、28歳の女性と初めて結婚する。

   [これがまぁついのすみかか雪五尺]

生まれ来る3人の子を次々に亡くし、その後に最初の妻も亡くした。その後に再婚した二番目の妻には逃げられた。

[やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ]

三人目の妻に子供が生まれでる直前に、一茶は死んだ。文狭10年(18271119日一茶65歳のときだった。

[淋しさに飯をくうなり秋の風]

特につきのある人生ではなかったにしろ、それを楽しむ余裕のある生き方だった。他人がとやかく云う必要は、何もない。

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耳をすませば カントリー・ロード

                                                        平成191110

   以前、テレビ映画番組で[耳をすませば(1995年近藤善文監督)]を観たことを想いだした。このアニメ映画の製作を担当したのは複数の企業で、そのなかには[紅の豚]をはじめ数々の名作アニメ映画を製作しているスタジオジブリも脚本担当として参加している。

物語は14歳の少女[雫(シズク)]と少年[聖司]との純愛を描いたものであった。大人と子供の狭間で淡い恋を経験する二人の物語のなかで、いたるところに挿入されるカントリー・ロードという曲が物語を効果的に進展させていた。

  周囲が進学や就職の準備で大わらわの中学3年の夏休みのある日に、雫と聖司は出会う。このような時期のクラス仲間や友人達の喧騒をよそに、卒業後イタリアでのヴァイオリン職人の道に入ることを決めている聖司と、まだ進路が定まらない雫との心の交流がうまれる。

聖司とつながりのある楽器工房に雫が立ち寄るシーンがある。雫を前にして、工房の大人たちが思いおもいの楽器を手にして一つの曲を演奏するのだ。この曲が、少女と少年を優しくみまもっていた大人たちの心よりのプレゼントとなる。大人達は自分の少年の頃に立ち戻り、楽しそうにカントリー・ロードを演奏した。この曲は、聞く者にとっては物悲しくも切なくも聞こえる歌でもある。

[カントリー・ロード]は、1943年に生れたジョン・デンバーが1971年(昭和46年)に作ったカントリーソングである。今も人気の衰えぬ日本のシンガーソングライターの[みなみこうせつ]に、かぎりなく雰囲気の似ているアメリカの歌手であった。1995年近藤善文監督の[耳をすませば]に使用されたカントリー・ロードの以下の訳詞は、鈴木麻実子氏の手になるものである。

カントリー・ロード

この道を ずっとゆけば

あの街に 続いている

気がする カントリー・ロード

ひとりぼっち 恐れずに

生きようと 夢見てと

さみしさ 押し込めて

強い自分を 守っていこう

カントリー・ロード

この道を ずっとゆけば

あの街に 続いている

気がする カントリー・ロード

歩き疲れ たたずむと

浮かんで来る 故郷の街

丘をまく 坂の道

そんな僕を 叱っている

カントリー・ロード

この道を ずっとゆけば

あの街に 続いている

気がする カントリー・ロード

どんなくじけそうな 時だって

決して 涙は見せないで

心なしか 歩調が速くなってく

思い出を 消すため

カントリー・ロード

この道 故郷へ続いても

僕は 行かない

行けない カントリー・ロード

カントリー・ロード

明日は いつもの僕さ

帰りたい 帰れない

さよなら カントリー・ロード

ジョン・デンバーの本名は[ヘンリー・ジョン・デュッチェンドルフJr]で、ニューメキシコ州に生れた。13歳の時に彼を溺愛していた祖母から贈られたギターが、音楽の世界への道とつながりエルヴィスのような歌手を夢見るようになる。22歳のとき難関オーデションを突破し、実力の有るグループのリード・ボーカルの座を得てから、本確的音楽活動を開始する。この当時、他人のために作った曲が全米1位の売り上げをあげたことにより、彼のシンガーソングライターとしての資質が注目されることになった。

1971年にジョンの何枚めかのシングル盤[故郷へ帰りたい(カントリー・ロード)]が世界的にヒット、その後も[大自然][素朴さ]などのイメージを持つ曲を量産して富を築いていく。

1997年(平成9年)54歳のとき、買ったばかりの自家用機の操縦中に海に落ちて死亡。落ちた原因は、酔っ払い運転だった。

  彼の歩いたカントリー・ロードは実に長い道のりでもあり、また、短い道のりともいえるが、ジョン・デンバーの作った数多い曲は、今でも田舎町や郊外の牧場や、標高の高い山の頂や、それよりずっと高い天空の果てに流れ続けている。

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ジュディ・ガーランドとライザ・ミネリ

平成19118

  私のビデオコレクションの中のライザ・ミネリ主演映画[ステッピング・アウト(1991)]を再度観た。このカセットをビデオデッキに押し込むのは、何回目になるだろうか。心が沈み、気分を変えたいときにはいつも、古い映画の世界に逃げ込むのが私のライフスタイルである。

  過去のアメリカでの実力のある女優で歌手の一人ライザ・ミネリは、映画監督のビンセント・ミネリと女優のジュディ・ガーランドの間に1946年に生れた。この両親から生まれたミネリはわずか2歳で映画にデビュー、その才能はめざましく成長しつづけて1963年(S38年)17歳でブロードウェイにデビューした。この2年後にトニー賞(主演女優賞)を受賞している。1972年(26歳)公開の[キャバレー]では、アカデミー賞主演女優賞に輝くほどの演技力と歌唱力を併せ持つまでに成長した。

[ステッピング・アウト(1991)]は、ミネリ扮するダンス教師と、ダンスレッスンのピアノ奏者とを中心に、ダンス教室の8人の生徒との心温まる物語である。人生に自信のもてない中年の男性一人を含む8人の生徒は、事情の相違はあるが単調な現実に飽き足らずに、それぞれの仕事の終わった後にダンススクールに集まってくる。ここで云うダンスとはタップダンスのことで、物語は当然のことにダンスを踊ったことのない初心者を根気良く教えて市主催のチャリティーショーめざして練習に励むということになる。紆余曲折の末のショー出演では、それなりの評価を得て満場の拍手でのアンコールもあり無事終了する。この打ち上げのパーテー会場でミネリ扮する先生は、8人の生徒から真新しいタップシューズを贈られる。教室そのもの運営は楽なものではなく、彼女のシューズが限界に来ていることを知っている生徒からの贈り物を胸に抱き、先生は云う「ありがとう。皆さんにもう一言だけいいたいことがあるの!」8人生徒は聞き耳を立てる。「来年もこのショーに出ましょう」大拍手がいつまでも続く。

  そして1年後のチャリティーショーに出演したミネリ扮する先生と8人の生徒、伴奏の一人としてレッスンの伴奏を受け持っていたビアニストも一緒である。この一年で腕を上げたみんなのダンスショーがこの映画のラストを締める。見所は、8人の生徒のダンス教室での何もできないという演技である。アメリカのショービジネスの素晴らしいところは、ダンス人口の層が広いということにつきる。8人の生徒役のエンデングショーでのステップの確かさには、見ている者の眼が涙で湿ってくる。同じ映画を何回観ても、同じ場面で涙は出てくるのである。

  ライザ・ミネリの母親[ジュディ・ガーランド]は、1922年(大正11年)生れの歌手で女優である。ボードビリアンの両親の影響で、2歳のとき2人の姉と一緒に歌った[ジングル・ベル]が評判を呼び、その後3人は[ガム・シスターズ]の名で舞台とラジオ番組で人気者になる。1935年ジュディ・ガーランド13歳の時にMGM社の短編映画[サンタバーバラ祭]出演がきっかけとなり同社と専属契約を結ぶ。数本の映画出演後の1937[踊る不夜城]で歌った曲が注目され、子役スターの座を不動のものにした。その後はMGM社のドル箱スター[ミッキー・ルーニー]の相手役として基盤を固めていく。1939年ジュディ・ガーランド17歳での[オズの魔法使]のドロシー役として抜擢され、主題歌[虹の彼方へ]のヒットにより子役としてのアカデミー特別賞を受賞しMGMのドル箱スターの仲間入りをする。

  歌って踊れて演技もできるジュディ・ガーランドは、ミッキー・ルーニー、ラナ・ターナー、ジン・ケリー等との競演での数々のヒット作品を生み、40年代のMGM黄金期を代表する女優の一人となる。

  当時のジュディ・ガーランドの撮影は一日18時間にもおよび、撮影合間の少しの時間にも睡眠薬を投与されて眠り、撮影の準備ができると神経刺激剤で活性化を図り撮影が始まるという具合であった。結果として、彼女の身体は薬物に蝕まれ始める。

  ジュディ・ガーランドの最初の結婚は194118歳であったが、相手のオーケストラ指揮者とは194523歳に離婚している。この年、映画監督のヴィンセント・ミネリと再婚し、翌1946年にライザ・ミネリが生れている。この頃には神経症の悪化等から薬物依存度が大きくなり、撮影の現場への遅刻などが多くなる。

  フレッド・アステアと競演した1948[イースター・パレード]は大ヒットを放つが、ジン・ケリーと競演した1948[踊る海賊]では大敗する。その後も撮影の遅刻や出勤拒否がかさなり、後の名作の一つにかぞえられたることなった数本の役から降ろされてしまう。MGM1950年にジュディ・ガーランドを解雇する。翌1951年ヴィンセント・ミネリと離婚、1952年に3番目の夫となるプロジューサー[シド・ラフト]と結婚する。

  シド・ラフトの介護の末に、活動の場を舞台に向けたジュディ・ガーランドは水を得た魚のように復活してきた。彼の製作による1954年映画[スタア誕生]に再起を賭けたジュディ・ガーランドの熱演が評価され、アカデミー主演女優賞の候補に挙がるが、[喝采]のグレース・ケリーに奪われてしまった。グレース・ケリーと競演したビング・クロスビーとウィリアム・ホールデンという当時の2大俳優の力もあっただろうが、この映画での彼女の演技には眼を見張るものがある。

  ジュディ・ガーランドのその後は、キャバレーやコンサートを中心の活動となるが、私生活ではアルコールと睡眠薬の量は以前より多くなり荒れる一方であった。1969年シド・ラフトと離婚、その後の彼女は俳優のマーク・ハーロンとデスコ経営者との二度の結婚をした。1969年睡眠薬の誤飲で、47歳の若さでこの世を去る。

  この47年の年月に疲れきって死んでいったジュディ・ガーランドこそ、ライザ・ミネリの母親である。天才的歌と踊りと演技の才能が確実に子供に受け継がれていたことが、親子にとりおおきな救いとなっている。

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