文化・芸術

レオナルド・ダ・ヴィンチの潜水艦

平成20127

   世のなかには数えきれないほどの天才がいる。今年も、各分野のノーベル賞受賞者が発表になった。今年の我が国は、物理学賞3人、科学賞一人という快挙をなしとげた。何かと嫌な事ばかり耳に入る御時世での南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏、そして下村脩氏の受賞の朗報は、同じ同胞として鼻がたかい。しかし、彼らの発表した論文に共通した欠点は、その内容があまりにも専門的すぎることにある。

  あまたの歴代ノーベル賞受賞者と比較はできないが、人類史上の天才の中でも、556年前に生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチは群を抜いているように思える。151967歳でなくなるまでのダ・ヴィンチの創作による名画の数々は、現在もなお人類に深い安らぎを与え続けているからである。

  1490年(大航海時代の真っただ中のころ)当時のダ・ヴィンチの、日常の中での思い付きを描きとめたスケッチや克明なメモが残されているという。一説によると、このダ・ヴィンチのさまざまな分野の研究記録ノートは13,000ページに及ぶといわれている。

ダ・ヴィンチノートのなかで得に有名な[ウィトルウィウス的人間]は、当時発見された古代ローマ建築家ウィトルウィウスの[建築論]の中にある「人体は円と正方形に内接する」という理論を、プロポーションの法則としてダ・ヴィンチ自身の裸体を紙面に描いて証明している。

  「両腕を広げた場合の長さは背丈に等しい。身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、さらに両手を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さまで挙げる。このように伸ばした手足の先をよぎる円を描くと、その円の中心にこの人の臍(ヘソ)が来る。また、両足の先の間隔と両足は正三角形を作る。」というものである。

私も自分の身体を同様に測ってみた。何度も慎重に計測したのだが、肥満体で、O脚の持ち主で、右手の中指を突き指したことのある体型の場合には、この[プロポーションの法則]が当てはまらないことを証明したにすぎなかった。

  現代の高校生が粗末に乗りまわし使い捨てにしている自転車は、1820年にジェムズ・スターレーにより考案されたが、この自転車の原型はその330年以前のダ・ヴィンチノートに描かれている。そのほか、ヘリコプターの原理、パラシュートの原理、飛行機の原理、時計の原理などがスケッチ入りで説明されている。

何を考えたものやらダ・ヴィンチは、草刈鎌が馬車の上で回転して戦場の敵を切りきざむ殺人馬車、弓矢を連続発射できるガトリング銃式の洋弓、巨大な鉄製ドームを被せた8人乗り人力戦車などの戦闘用武器なども数多く考案している。驚いたことには、第一次大戦中にドイツ軍が改良開発した潜水艦の原型のような船のスケッチまであった。

ダ・ヴィンチの生きた時代にも、鳥のように自由に空を飛ぶことと、地上をより早く移動することへの憧れを多数の人々が持っていたことが想像できる。そして、魚やクジラのように深く潜り高速で泳ぐことも、人類の憬れの一つであったのであろう。

  潜水艦とは水中潜航可能な軍艦であるが、最初の潜水艦としてのアイデアはアメリカの独立戦争当時の一人乗り人力推進装置装備の[タートル潜水艇]だといわれている。このアイデアは良かったのだが敵艦を沈めるほどの活躍はなく、実戦投入前の訓練時に溺れそうになった者が続出したことなどもあり計画は挫折した。

  アメリカ人のどこかに潜りたいという欲求は根強く、南北戦争当時の南軍側が建造した[人力推進潜航艇ハンリー]は、1864年(明治の4年前)に北軍の蒸気帆船をまぐれ当たりで撃沈した。これが潜水艦史上の最初の戦果となった。

  1900年初頭のイギリスは海軍大国であった。資源、物資に恵まれない島国イギリスには、調子の良い二枚舌外交でかすめとった植民地が世界中にあった。そこからの物資を国内に運びこむ海上ルートを守るためには、大きな海軍力が必要だったのである。

  一方、第一次世界大戦に突入した大陸国のドイツは、イギリスと事を構えた以上はイギリスの象徴シーレーン分断が効果的作戦だと悟った。けれども哀しいかな、ドイツの軍艦保有数はイギリスの35%で、軍艦どうしでドカン・ドカン撃ち合う正攻法ではまったく勝ち目がなかった。

第一次世界大戦の開戦直後の1914年(大正3年)ドイツ帝国のUボートが英巡洋艦4隻を撃沈したことに力を得て、この航洋潜水艦の大量建造に踏み切った。そして、イギリスへの荷物満載の輸送船団にこっそり忍び寄り撃沈し、またこっそり姿を消す作戦をくりかえすことになった。

  1944年(昭和19年)以前の初期潜水艦は、潜航するときにメインのディーゼルエンジンが使用できなかった。ディーゼルエンジンは大量の酸素を消費するため、艦内酸素を食いつくし、クルーが窒息死してしまうからである。クルーが死んでは戦争にならないために、潜航時だけは酸素を喰わない電気モーターに切りかえた。

電気モーターによる潜航推進速度は4ノット(時速7.4Km)と、幼稚園児の遠足のように極めて遅い。さらに、一回の充電で1日半しか潜れない。これでは商船を撃沈しても駆逐艦に37時間追跡されれば電池切れで操作不能になる。すなわち、直前で水面に浮上しなければクルー全員死ななければならない。双方にとり、なにかと苦労の多い戦争であった。

  第二次世界大戦時での標準的な潜水艦も、改良型ドイツ潜水艦UボートVC型であった。これは、全長67m、幅6mの狭い空間に、ディーゼルインジン燃料(重油)114ton、食料3.5ton、真水2.2ton、魚雷14本が詰め込まれ、その他の余った艦内空間に44人のクルーが寝起きすることになるので、閉所恐怖症の持ち主には適さない空間であった。

  UボートVC型の装備は、主力ディーゼルエンジン2基、出力2800馬力、潜航時動力の電気モーター2基(750馬力)で、水上航行速度17ノット(時速31m)、潜航時は7.6ノット(時速14m)である。

  潜水艦のなかのでの生活は過酷なものである。真水は貴重品なので風呂が無い。密閉された艦内は湿っぽいので何でも良く腐る。なかでも野菜は一番先に腐敗するので、クルーは慢性的ビタミン不足により、ちょっとした引っ掻き傷なども治りにくく、最悪の場合には手でも足でも切断しなければならないほど悪化する。そんな艦内には医者は一人もいない。理由は、Uボートクルーの生還率は30%で、70%の者が死に早々に海の中に放り出される。そのような場所に貴重な医者を投入できないというわけである。

  第二次世界大戦時のUボートもまた、連合国側の輸送船を攻撃し補給路を断つことを目的としていた。その成果は1月に75tonもの船舶を撃沈するにおよび、強気な当時のイギリス首相チャーチルに自国の敗北を予感させるほどであった。

  しかし、1943年(昭和18年)あたりからUボートの撃沈数が月当たり30tonと売り上げ成績が落ちこみ、ドイツ側のUボートの損害が10倍にもなってきた。潜水艦が敵に敗北することはクルー全員が死亡することである。ドイツ側はその敗因を最後まで掴むことができなかったのは、全滅したクルーには上層部への報告義務がなかったからである。

  この連合国側の巻き返しは、大胆な作戦変更にあった。輸送船団の護衛艦の一部を分離し、遊撃隊を組織したのだった。当時のUボートが最も危険にさらされるのは、攻撃した直後に自艦の位置を知られることだ。位置を知ったらこっちのもので、遊撃隊は爆雷を投下しながら潜水艦が浮上するまで徹底的に追廻し破壊した。これは情け無用の攻撃で、上官が「もったいないからやめろ」というまで、潜水艦がバラバラになり海の中に沈んだあたりを砲撃し続けた。

  1944年(昭和19年)2月、ドイツ軍は常時潜水できる潜水艦を開発した。スノーケルマストを水面に出し空気を取り入れ、炭酸ガスとなった排気は海水中に放出する方法を取り入れた。かくして、Uボートはディーゼルエンジンでも潜航可能となった。これなら、雪山遭難時に携帯電話のバッテリー切れのような心細さもあじわう事もない。スノーケル有効深度ならば、燃料の重油がなくなるまで潜航し続けられた。Uボートの逃げ足の速さに、連合国側はまたもやお手上げとなった。

  スノーケルの発明でUボートの劣勢は挽回されたかに見えたが、連合国側に強力な対潜爆弾とソナーを備えた高速駆逐艦が投入された。スノーケル潜航では、6ノット(時速11Km)以上のスピードを出すと水の抵抗でスノーケル装備が破損してしまう。一方、連合国側の駆逐艦は30ノット(時速55Km)まで出せる。そのため、駆逐艦に見つかれば海底に逃げるしかない。スノーケルは使いないので電気モーター(8ノット)に切り替えて深度100mまで潜って静止している以外にない。ソナーは艦内の針を落とす音も、クシャミの音も拾い、そこに爆雷が投下される。潜水艦のクルーは、生きた心地もせず死んでいく。

  さらに連合国側に、潜水艦ハンティング磁気探知機が実用化された。潜水艦は鉄でできている。鉄は磁性体の塊である。移動すれば海中の磁気の変化がおきる。それをレーダーがキャッチする。スノーケル深度では簡単にみつかってしまう。

いつの時代にも、科学は人類同士の戦争によって進歩する。そして、現代の海底を我が物顔で横行しているのが原子力潜水艦である。原子力インジンは空気中の酸素を必要としないので、いつまでも潜っているので始末が悪い。

  原子力潜水艦は、原子力の技術を持つ国しか製造できないので不公平でもある。

  2008年現在ではアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国のそれぞれの国だけが保有していることになっているが、そのほかにも密かに隠し持っている国はあるかもしれない。きっと、日本の海上自衛隊だって欲しがっているに違いない。

  原子力潜水艦は、敵水上艦船や敵潜水艦を攻撃する攻撃型原子力潜水艦と、弾道ミサイルを搭載してミサイル発射台の役目をする弾道ミサイル型原子力潜水艦の二種類に分けられる。

  後者の弾道ミサイル型潜水艦の存在は、戦略上の他国に対する核攻撃の抑止力を持っている。他国を核攻撃して瞬時に勝利を得ることはできるが、無傷で海底に隠れていた原子力潜水艦搭載の弾道ミサイルにより報復されれば、二瞬後には自国も壊滅することになるからである。これら大国は、互いに強力な核兵器を保有しているがゆえに、共倒れを恐れるあまり直接交戦を避けざるを得なかった。

  かくて、自国を危険にさらすことのない代理戦争なるものが、世界の辺境の地で行われることになって久しい。小国間の戦争や内戦のおりに、敵対するそれぞれの勢力の一方に対して二つ以上の大国が武器や資金を援助し、その地域の覇権拡大をはかるのが目的である。多くの場合、どちらかの読みが外れる。

  またこの反対に、小国同士が戦争を開始するにあたり、戦費や武器の貸与を必要として、自国に有利な大国を誘引するするという逆指名の代理戦争などもあったときく。一方、その激化する戦闘の同じ時間に、それぞれの援助大国の代表者は、ワイン片手に世界平和につき論ずるのである。大国、小国にかかわらず、どの国もしたたかさを内に秘めていることにかわりはない。

  このような戦略をいち早く取り入れたのが、日本国のやくざ業界であった。また日本国政界にも遅まきながら波及し、大小の選挙のたびに政党間、派閥間で熾烈な地下での戦いが繰りひろげられいる。

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チンギス・ハーンの霊廟

平成20229

1H19-11-14

何年か前の地元紙の[チンギス・ハーンの霊廟(レイビョウ)を発見]の記事の切り抜きをいま見ている。[霊廟]とは人の霊をまつる建物のことで、チンギス・ハーンの霊廟の場合、遺体を安置する墳墓は霊廟の周囲5里の距離に造られている可能性が高いと考古学者がいっていた。

突然、オマー・シャリフ主演の1965年ハリウッド映画[ジンギスカーン]を鑑賞したことを思いだしたが、その筋書きの記憶はさだかでない。この映画を見たのは今から42年前で、ごく断片的な映像がコマ送りであらわれる程度の記憶である。

1932年イジプトのアレキサンドリアに生まれたオマー・シャリフはハリウッド映画全盛期の俳優で、1962年ピーター・オトール主演の[アラビアのローレンス]で助演男優賞にノミネートされた。当時から洋画ファンであった私は、映画館に足をはこんでは数多くの彼の出演する映画を鑑賞した。このジンギスカーンはその内の一つということになる。ハリウッドの大きな資本投下によるスペクタルを背景に、オマー・シャリフはチンギス・ハーンの生涯を見事に演じきっていた。

  死後780年も経過しているのに、なにかと騒がしい男チンギス・ハーンという人物に改めて興味がわいてきた。モンゴル部族の神話には、部族の始祖バタチカンは天から降った蒼い狼を父に、白い牝鹿を母として生まれたとある。1161年に蒼き狼の子孫テムジンが生まれ、モンゴルの草原を縦横無尽に駆け回ること45年、モンゴル全部族の上に立ちチンギス・ハーンを即位する。この1206年頃の日本国内は、鎌倉幕府の三代将軍源実朝の世にあった。

  ユウラシア大陸を圧巻したチンギス・ハーンの戦略は、鞭と飴を巧みに使いこなすものであった。侵略の過程で、抵抗する町は完全に破壊し住民を皆殺しにする。片方の耳を切り落とし数を記録し、死骸は次々に積み上げて男・女・子供の3つの山を造るという非情な行為を眉一つ動かさず行ったらしい。しかし、抵抗をせずモンゴルへの忠誠を誓い、要求する税を納めれば、とりわけての内政干渉も少ないかったようである。

  チンギウス・ハーンは遠征行軍時の落馬が原因で66歳の生涯を閉じた。彼の亡骸はモンゴル平原の奥深くに運ばれた。その隊列の前に立ちはだかる者すべての命を奪いながら進む軍団。棺が運ばれる隊列を見た者の総てが殺されると、その行軍の方向がわからないばかりか、チンギス・ハーンの墓の場所もわからなくなったという。観たもの総ての命を断った狙はここにあるのであろう。当然の事に、ジンギス・ハーンの亡骸を搬送した兵達の総ては、潔く殉死したのであろう。

  時が過ぎ、現代になってもジンギス・ハーンの墓を特定することは出来なかった。2004年ウランバートル東250Kmの草原にある遺跡が彼の霊廟と推定され、墳墓も近くにあると確信された。その墓もまた、将来の考古学者の餌食になるのは必定であろう。

  彼らの、ひそかなる胸の高鳴りが聞こえてくる。

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荒くれ男どもの八幡船

平成20年2月13

  海賊の歴史は古く、船が発明されて、二人以上の男がその上に乗ったときから始まった。そして男達は、水溜りを見つけるとそこに船を浮かべるので海賊の数は増える一方だった。この海賊は、ホメロスの叙事詩[イーリアス][オデュッセイア]にも登場し、アリストテレスが著した[政治学]のなかでは、漁師や猟師、床屋や肉屋と同等の職業として認められていた。

交差した二本の大腿骨の上に髑髏が描かれているジョリー・ロジャー(海賊旗)と共に大海原を駆けめぐる自分の姿を夢想した少年は多い。海賊は、消防自動車の運転手、蒸気機関車の機関手、飛行機の操縦士と並び、将来なりたい職業の一つだったものである。しかし現実は厳しく、チャンスに恵まれた一握りの大人だけが手にすることができた職業だった。

  海賊の定義は「大小の島々が群れなす地形や、深い湾を形成するところに本拠地を置き、武装した船舶により海を縦横に走り、武力を用いて航行中の船舶や沿岸の町や村から収奪することを仕事としている集団」となる。海賊は活動した海域や出現した時代などにより、様々な呼称や形態ができた。

  [ヴァイキング]は中世初期スカンジナビア半島沿岸を根城にした海賊で、自由と独立精神を旗印に海外に乗り出した集団である。彼らは、バルト海沿岸部はもとより、北海沿岸の国々、そして地中海沿岸国まで出かけては、稔り豊かな略奪の限りを尽くした。

  ヴァイキングがあやつる船[ロングシップ]は優美な細長い形状を持つ。彼らの仕事の性質上、速度を優先させるために喫水が浅くする構造を持ち、極力軽い木製素材で造られていた。喫水が浅い構造を持つために、水深が1mでもその水面を航行でき、砂浜に直接乗り上げることができ、上陸する時間も早く素早く獲物に喰らいつくことができた。また、ロングシップは前後が対称につくられ、電車のように運転席が前後にあるような形をしている。このデザインのものは、前後どちらの方向にも同じ速度で航行することができたので、他人のものを盗って、その現場から急いで遠ざかる仕事には適していた。

また、ロングシップの細長い船体の全長に渡ってオールが備わり、大勢の漕ぎ手が同時に作業できために速度が早いことで、港や船舶を襲う際の効率が増進された。勿論、自分達より強力な敵を前にした時の逃げ足は攻撃時より真剣な作業となために、そのつど最高速度記録は塗り替えられていたという。後年にはマストを付けるなどの改良が重ねられ、より遠くまで商圏を広げることができ、売り上げも驚異的に伸びた。また、その軽さゆえに、陸上を船ごと引っ張って移動でき、思いがけないところに浮かべることで襲撃を予測するすことができず、諸国の王も手の打ちようがなかったという。

  これらヴァイキングも時を経るごとに、遠征先に定住しては王侯にまで上り詰め、あろうことか政治に関与していくことになる。そして、いつかヴァイキングの気高い自由と独立精神は忘れ去られていった。自分の手を汚さないで生活をするようになったときに、その者の精神が蝕まれ始めるのは昔に限ったことではない。

  [バッカニア]17世紀前後のカリブ海賊の総称で、近年の映画[パイレーツ・オブ・カリビアン]で両目の下に墨を入れた気持ち悪い顔をしたジョニー・デップが海賊となったが、この映画の舞台となるカリブ海沿岸のスペイン領を荒らしまわる者どもをいった。構成員はイギリス、フランス、オランダなどからの逃亡者やスペイン入植者に追われた先住民族のインデオで、ここには中途半端な準構成員はいなかった。この時代の海賊構成員は、無法者ながら[女性や子供の捕虜には乱暴しない][コソ泥や無銭飲食はしない][荒れくるう海に飛び込む時には、年寄りに先を譲る]などの独自の掟をもち、相撲界のような封建的な社会的風潮のこの時代に、平等と民主主義を貫いた世界であった。彼らの標的は、南米各地を植民地化したスペイン人の持つ財産強奪であったと記録されている。

  [倭寇]は、14世紀の中国や朝鮮の沿岸を襲い、自由に生きた日本の純国産製海賊である。倭寇の[]は日本を表し、[]は侵略するという意味らしいが、倭寇が近隣の国に対する略奪行為に至る発端となった事件があった。

ジンギス・ハーンの孫に当たるモンゴル帝国の第5代皇帝クビライ・ハーンは、日本国を帝国の属国にするための高圧的文書を、すでに属国化していた高麗(朝鮮)を通して鎌倉幕府と朝廷に何度も何度も届けた。日本側はそれを黙殺することにし、最後には使者の首をブッタ切るようなことまでした。怒り心頭に発したクビライは、高麗を経由しての武力攻勢を決定した。彼は日本侵攻のための艦船を半年の間に900艘も造らせたが、モンゴル帝国の高圧的な言動を良しとしない高麗の船大工の手抜き工事により、船舶の品質は劣悪なものだった。

  1274103万人を乗せた船団が朝鮮を出た。105日対馬を、1014日壱岐(イキ)を襲撃し、水軍武士団の松浦党の本拠地なども全滅に追い込んだ。この知らせを受けた鎌倉幕府御家人団が待つ福岡湾内に、元軍は1019日現れた。翌1020日に湾岸を東に進みながら上陸を続けた。日本軍武士団は、当初こそ[名乗りを上げ]ていたりする口の中を突然射抜かれたりして苦戦したが、剣術の名手揃いの武士集団は方々で優勢に転じ敵を海の中に押し返したが、博多だけは攻略された。元軍は弓矢が尽きて軍の編成が崩れたため、大宰府攻撃を諦めて船に戻った。軍議で撤退を決定したものの、朝鮮へ帰るのには南風で波穏やかな昼でないと危険なために、湾内で待つことになった。その夜なぜだか、白装束の日本軍30人ほどが船に近づき盲滅法に矢を射掛けると、元軍は戦う以前に、聞かされた事と裏腹に獰猛ともいえる日本軍の反撃に震いあがってしまった。パニックに陥ち入った元軍は夜明けを待たずに撤退を開始し、多くの船が玄界灘の藻屑となった。この侵攻での元軍の人的損害は13,500人と推定された。

この元寇(蒙古襲来)の折に、朝鮮半島から日本へのコース上にあった対馬、壱岐、五島列島の島々の住民は残虐な行為をまともに受けた。生きたまま掌に穴を空けて皮ひもを通し、舷側につるし並べての見せしめ行為や、捕虜となった男女の子供200人を、帰国後に高麗王に献上したとの事実が朝鮮側の古文書に載っているとのことである。

やがて生き残りの水軍武士団などをリーダーとした日本人の船が、朝鮮、中国の沿岸を襲い略奪行為を働くようになる。当初は復讐の意味が強かった。元軍に連れ去られた家族の救出の意味もあり、実際に家族を取り戻した事例は数多い。

倭寇の行動範囲は広くその行動は早く、それは朝鮮北部沿岸にも及ぶ。やがて襲撃はエスカレートし、朝鮮南部では沿岸部に上陸して内陸部奥地まで侵入するようになった。中には完全武装の数千人規模の騎兵や徒歩兵で城攻めする集団もあらわれた。これらの頭領には、西国の名のある武士が関与したと疑われたりもした。

倭寇の被害を集中的に受けた高麗は、たびたび本拠地に出向きその根を絶とうとし、大きな打撃をあたえた。倭寇船300艘が一度の沈められたこともある。だが、取締りが強化されても非合法集団が消えることはない。他人の財産を強奪する快感は、容易に忘れ去ることはできない種類のものだからである。

15世紀前後の後期倭寇は、その乗組み員の8割が中国人や朝鮮人で、残りの2割弱が日本人であった。それらは日本人は、集団を束ねる頭領株であったと伝えられている。

八幡大菩薩の幟を掲げた日本船は、大陸から大いに恐れられた。これらの海賊は室町時代から安土桃山時代に、元の後に興った明国に略奪を目的に出かけたが、その乗組員の中には明国の貧しい出の人間が含まれていることを明国側も承知していた。八幡船に乗る海賊を明国の人々は恐れを込めて、八幡人(ばはんじん)と呼んだそうだ。なにやら発音だけなら野蛮人に思われるが、八幡と書けば八幡太郎源義家以来「はちまん」と発音するのが普通であるが、わざわざ「ばはん」と発音させたのは、それだけ忌み嫌われていたからであろう。

  倭寇の頭領として君臨している者のなかには一流の剣術を身に着けた武士出の者も多く、後の柳生新陰流の前身である陰流の始祖[愛洲久忠]も、八幡船の頭領だったとの説もある。

  青龍刀を腰にした手下を従え、名のある名刀を腰にした頭領が腕を組んで海原の果てを見つめる姿を想像するとき、少年にもどる。

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幸福の黄色いラーメン

平成20121

  ラーメンなるものを辞書で見ると[小麦粉に塩、カンスイなどを加えて練り、引き伸ばしたものを茹で、醤油などで味付けしたスープに浸し、焼き豚、葱、鳴門、海苔、メンマなどを添えたもの。別名「中華そば」「支那そば」ともいう]となる。実際にはラーメンの本質はこのような単純なものではなく、スープ、麺、その上に乗せる添物の味のバランスを思考し、それぞれの店がシノギを削っているといわれる。まれには、シノギも鰹節も削らない生醤油を薄めるだけのスープに麺を放り込み、客の前に「どうだ。参ったか!」といわんばかりに出す店もある。それはそれで、当たらず触らず避けて通るのがラーメン党なのである。つまり、2度と立ち寄ることは無い店で理屈を捏ねてみても無意味だからである。

私の場合、物心付いた頃から[支那そば]は最大の御馳走の一つであった。雪の舞う寒い季節に兄や姉に連れられて町に出たとき、幼児の私が食べた暖かな[支那そば]の旨さの記憶は、細胞の隅々まで浸透している。昔々に食べた支那そばは、極太のチジレ麺であった。その一本一本のチジレ部分には、鰹節や煮干風味のスープがたっぷりと絡みつき口の中に汲み上げることができる。この麺をすすり上げて口の中に運ぶ一回一回の幸福な作業が、おおいなる追憶として身体の隅々に残されているのだ。それから60年あまり経過した現在でも、昔の支那そばに出会うために折にふれラーメンを食べ歩く。

私は食べ物に関し、科学的分析を屈指し味の秘密に迫ろうとは思わない。それぞれの店が自信を持って提供してくれるラーメンを食べ、心底から旨いと思える店に出会うことが喜びなのである。他人が旨いといって度々足を運ぶ店の味が、必ずしも私の味覚に合うとは限らない。と、いうことは、私の好みの味が他人に合うとは限らないということにもなる。こと食い物に関しても、他人に無理強いはしないほうが無難なようである。

私を含めたラーメン党は、お昼どきにどの場所にいようが、その近くに必ず立ち寄るべき好みのラーメンを出す食堂を視野に入れて一日の行動を組み込んでいるようだ。自分の行動範囲が確定されていれば、その各方面に一つや二つの馴染みの店をつくっておかなければならないだろう。それが、自分自身に対しての最低のおもいやりだ。

[かまや食堂]

かまや食堂は、福島県須賀川市の旧市街地を東西に走る国道118号線沿いにある。詳細に話せば、須賀川警察署の北向いの、見るからに旧い作りの家屋内で営業している食堂だ。この店舗は江戸時代に建立された寺院の風格を持ち、客にドンブリ一杯の満足感を売る。客が立って待つほど混雑しているにもかかわらず、その店内は実に居心地のよい空間なのである。それぞれの客が、一つの味に拘る同志のような気持ちでいるので、思いやりがにじみでるマナーが確立されているからだろう。

この店の駐車場は、店の北側裏手にある。かまや食堂としての駐車スペースは建物裏の広場に8台分ある。それと、その広場のさらに北側の一段下がったところに5台分確保してある。おおむね満車というのが普通だが、駐車している車の持ち主は椅子の空くのを立って待つ人と、椅子に座りラーメンの茹で上がるのを待つ人と、出来たものを食べている人の3種類なので、駐車場の空くのをしばし待つ余裕のある人に適した食堂である。たまに、南向いの須賀川警察署駐車場に車を止め、国道118号を横断して店に入る人を見かけるが、商売柄多少脛にキズ持つ私は、そこには止めない。

かまや食堂の店内に入ると、いつの場合にも煮干の匂いが充満しているのがよい。入って直ぐに、口の中に溜まった唾液をさり気なく飲み込む。右の曇りガラス状に煤けた感じの素ガラス戸越しに厨房が見える。ややかすんで見える人影を眼で確かめると、さらに臨場感が増幅される。注文は「普通盛り」か「大盛り」のどちらかを、厨房に聞こえるようにいう。あまりの混雑で、自分の注文を外されるのではないかとの不安が湧くだろうが、大丈夫。注文したものは必ず自分の前に運ばれてくる。まさにラーメンの香りがあふれるドンブリはスッタフの両掌に大切に包まれて、静かにテーブルの上に置かれるのだ。

鰹節を丸ごと15本ぐらいスープ鍋に入れ、7時間30分煮込んだのではなかろうかと疑うほどの魚味醤油スープには、絶妙なバランスで中細縮れ麺が入っている。それは沈むのでもなく、浮くでもなく、この店独特の具と一緒にスープに浸っている。麺の縮れ部分がくみ上げるスープと共に麺を噛む。程よく柔らかいチャシュー2枚。メンマの横のほうれん草の静かな佇まい。充分にスープを含んだ黒い海苔は故郷の海に帰った様な落ち着きを持つ。ドンブリの縁の方で身を隠していたナルトに視線を移した。ナルトの鮮やかな渦巻き模様に、かすかな目眩を感じた。

[春こま食堂]

福島県郡山市小原田4丁目地区の旧奥州街道から、幅2,7mの細い路地奥17m東に[春こま食堂]がある。特に過激に宣伝するわけでもないのに、ラーメン通で春こまを知らない者はいない。店の前に7台分の駐車場がある。ここに駐車できるか否かにより、のこり半日の運勢にかなりの影響が認められる。駐車できないにしても、東21.56mの所に第二駐車場がある。ここも駐車できるのは6台なのだが、たいがいの場合満車である。春こまに立ち寄ろうと思って駐車場満車であきらめるようでは、その人間の底は浅い。たかがラーメンのために自分の貴重な時間を無駄にしたくないと思う方は、別の店に向かうが良かろう。しかし、ラーメンを1杯食べる時間はさほどの時間ではない。店に入っている人間はまもなく外に駆け出してくる。そして駐車場は空く。

店の中のカウンターは椅子9脚、希望者は4.5畳の座敷に座卓がある。ほとんどの場合、座敷では相席が普通だ。相客が同年輩なら年寄り同士で気兼ねは要らないのだが、若い女性だったりすると自意識過剰になるのではなどと心配の種は尽きないが、今まで若い女性との相席は一度も無い。とりこし苦労ではあるが、ある種の期待感を持つのは悪いことではない。

店内業務を仕切っているのは、表面上も実質的にも有能なこの家の若奥様である。あらゆる客の注文を間違いなしで取り次ぎ、その料理を注文主の前に手配することは飲食業では当たり前なのだそうだ。しかしこの店では、麺の茹で具合に固ゆでと普通があったり、麺の量に大盛と普通があったりする。醤油味、味噌ラーメンの区別の他に、一度口にしたら忘れられなくなる程おいしいタン麵の注文も4割がたある。それらを右から左に受け流す若奥様の技量は高度なものである。主役の座を若奥様にゆだねる姑、舅、旦那様の隠された技量も侮れない。この店のカウンターに座ると浮世のことは概ね忘れ去り、ただ音の無い無数の舌鼓が店の中に充満するのを皮膚で感じる。

  切れのいい豚骨だしの醤油スープに、強い腰を持ち喉越し滑らか麺のラーメンと、じっくり煮込んだ野菜に、木耳、豚バラが適度に混ぜられた具が溢れるタン麵との、どちらを注文するかと迷ってしまうのがこの店である。この店での選択においては、ラーメン、タン麺のどちらを選んでも正解なのだから嬉しい。深刻な考えは仕事の時間にするべきで、食事の時間にするべきではない。

[大坂屋]

約、かなりの昔、会津若松と茨城県水戸を結ぶ街道を[茨城街道]と呼んだ。茨城街道は、会津藩主の参勤交代のための道筋だったと云われているが、福島県郡山市湖南町にはその街道の面影が残されている地区が数箇所ある。[三代宿][福良宿][赤津宿]で、往時の宿場町の名残を充分にとどめている。昔の面影を残す現在の福良集落は、ところどころ萱葺屋根の民家の間を早馬が駆け抜けても決して不自然ではない時代色濃い街道筋である。この宿場の中心近くで道路が鉤形に曲がったあたりに大坂屋がある。お昼時に、ここで昼飯を摂らないと3里四方に食堂もレストランも無い。こまめに捜せば、あることはあるだろうが、辺鄙で、寂れていて、現代の時空から取残された一郭だと他の方に思わせるために三里四方と表現した。どなたかが気に障ったのなら、謝る。

大坂屋店内のテーブルに座ると、ラーメン屋に入ったような気がしない。なぜかと周囲を見回すと、自分が座った椅子を含めて椅子の背もたれの背丈が高いのである。私は今だかって出席したことはないが、明治天皇御前で開かれた、御前会議会場での椅子を連想する。その椅子と対の厚い天板のテーブルを前にすると、どのような食物を注文したら良いのか心配するむきもあるだろうが、周囲を見回すとほとんどの客が江戸時代に商売を始めたのではないこと思うほどの民芸調のラーメンを食べている。

  大坂屋のラーメンの味は、くどくない豚骨スープに会津の太目チジレ麺の[支那そば]味である。春夏秋冬いつ食べてもおいしく食べられるのは、厨房の御主人が季節により微妙に味をコントロールしているのではないかと疑りたくなる。疑り深い眼で厨房を覗くと、体格の良い主人から強く覗き返された。それ以後、何事によらずに疑ることをしない私となった。

[仙台屋]

歴史上に実在した世界3大美女というのがある。世界的に云われるのが、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネである。最後のヘレネはギリシャ神話の[トロヤ戦争]の原因となったスパルタ王の后である。それはそれとして、世界三大美人の人選は、それぞれの国により3人の美人の配列はかなり違うものになる。当然のことだが、中国や北朝鮮が認める世界3大美人は、3人とも自国歴史上の女性か歴代総書記長の奥様である。日本人が認める3大美人はクレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町で、自国の女性を最後に持ってきたのは、国民的な奥ゆかしさからだ。

クレオパトラは紀元前51年にエジプト王となった女性である。彼女は、怒濤の進撃を繰り広げるローマ軍に対抗するために先陣に立ち、ローマ武将に対し己の身体を投げ出すことによりエジプト国の自立を勝ち取った女性である。そんな彼女も、紀元前30年の春、毒蛇の入った篭に右か左かのどちらかの手を差し込み、中にいる蛇の眼を指で挑発することにより自殺した。相手が誰だろうが、故意に眼に指を入れられたら、私でも入替えたばかりの部分入歯を使って腕ごと噛み砕いてやる。

楊貴妃は719年に中国四川省に生まれ、16歳で玄宗皇帝の息子と結婚したが、妻を亡くした義父の玄宗が楊貴妃の美貌に関心寄せた。息子の嫁を我が物にすることは何かと世間体が悪く、息子と別れさせてからの一時期を尼僧にさせて周囲の目をたぶらかした後、楊貴妃22歳のときに結婚する。玄宗皇帝56歳のときである。楊貴妃のその後は贅沢の限りを尽くし、そのことばかりではなかったろうが国そのものが傾くことになる。いつの時代にも野党は存在した。玄宗皇帝の不甲斐なさにシャジを投げた腹心の者が反乱を起こし、この反乱軍の要求により楊貴妃は玄宗皇帝の手により殺された。まったく、勿体無い話である。

小野小町は809年、現在の秋田県雄勝町の小野郷に生まれ、13歳で都にでて風雅を学び、平安時代を代表する六歌仙の一人となった絶世の美女である。福島県田村郡小野町にも小野小町の伝説がある。ここにも[小町湯]という温泉などがあり、美人になる湯として持てはやされているが、近隣のおば様連中と顔をあわせる機会のあった後は、その効能に疑問を持つようになった。世界3大美女のなかで小野の小町だけが殺されもせず、自殺もしなかった。非情に苦しいことだが、ここまでが、福島県田村郡小野町の一軒のラーメン屋を語るための枕の部分である。

阿武隈山系の分水嶺にある福島県田村郡小野町に、名物食堂[仙台屋]がある。店は100年以上続く老舗で、今の御主人が仙台屋4代目となる。100年を4代で継承した店だから25年間が一代かと思われる向きもあるかもしれないが、割り算が当てはまる問題ではない。親子そして孫と続く一家としては、時間が重なって進行する部分が出てくる。先代が80歳までがんばれば、先代が20歳のときに生れた2代目は60歳から始まり、その2代目の持病の神経痛が悪化した2年後に、3代目としての40歳の孫に商売を任せるようなことにもなるわけである。

仙台屋食堂のラーメンは、野菜の甘みと豚骨のこくが程よく調和したスープに、滑らかな手打ち麺がドンブリの縁からこぼれるほど盛られて出てくる。あまりの盛りにスープがテーブルにこぼれるので、気取った若者もこの店のテーブルには肘を着きポーズを取ることはない。ドンブリへのラーメンの盛り加減には、初めての人なら誰でもがシッカリト驚く。女性のほとんどは食べきれなく麺とスープを残す。残さないでスープまで飲み干す女性もたまにはいるが、厨房の人も他のお客も軽蔑や批判の篭った視線を送ったりはしない。むしろ、尊敬に似た思いが店の中に広がる。

[三角屋]

福島県会津若松市の歴史は古い。いたるところにT字路のある城下町には、周辺地域の診療所で手に負えぬ病気にかかったとき担ぎ込まれる[武田病院]がある。今は亡き母がかなり昔、胆石で武田病院に入院した。盲腸になった義兄はこの病院に入院し、必要以上の大きな傷跡をつくった。今は無き別の義兄も、高血圧の薬を一月に一度ずつこの病院で処方してもらった。交通事故で怪我をした甥も、この病院に入院し幸運にも命を取り留めた。会津人のほとんどが武田病院に入院か通院の経験を持つ。武田病院には周辺市町村の全人口の半分が常時入院している。後の半分の人もそれぞれの知人に1カートンのヤクルトを届けるために1週間に1度の割合で見舞いに行く場所が武田病院である。

武田病院の北側の道を西の突き当りまで行くと、信号が必ず黄色になり、通過する隙を見せず即時に赤になる地点がある。この信号待ちをしたとき右に見える建物が三角屋である。このT字路を右折し直ぐの信号をまた右折し、もとの道に戻るとその内側に三角形ができ、その三角形の敷地に三角屋食堂はある。三角屋の創業は大正時代だと聞く。店の構えは気の遠くなるほど古いが、ここで食べるからこそ会津手打ちラーメンなのだ。麺にチジレは少ないが、麺の太さ長短が一本一本異なることなどをドンブリの中で確認しながら食べていると、遠い昔に逝った母を無性にこいしくなる。在りし日に彼女が打った不揃い寸法の蕎麦が思い出されたからだ。

多数の日本人が愛するラーメンの歴史は不明の部分が多い。別名[支那そば]と呼ばれるので中華料理の一種かというと、中国にはそのようなものは無いという。どうやら、日本そばに対して、明治の中ごろに「中国風そば」として日本人が発明したものらしい。最初は午前10時や午後3時ころのオヤツ程度の食品が、改良に改良を重ねて現在のように洗練されてきたもののようである。

難しいことはともかくとして、さっきボリュームある食事をしたばかりなのに、行き付けのラーメン屋の暖簾を見ると新たな食欲が復活する。スーパーのカップ麺売場に並ぶ種類の多さなどから、大和民族によるラーメンという食物の発明は、電気の発明、自動車の発明に匹敵するのではないかなどと考えた。ただし、私はこの考えを誰にも話すつもりはない。

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ガラスの造形師 エミール・ガレ

                                               平成2012

   本箱の隅にエミール・ガレのガラス工芸品の展示カタログみつけた。平成18年春、ガレのガラス工芸展を見るために郡山市立美術館へ出かけたおりに購入したものだ。ページをめくると、今から160年前にフランスのナンシー地方に生れたエミール・ガレの彩色絵付けされたガラス工芸の数々が飛び出してきた。

  以前から、ガラス細工の美しさには心惹かれるものがあった。猛暑の夏の軒先で清純な音を刻む風鈴の想い出や、幼時に年上の優しいガキ大将の下で腕をふったビー玉遊びの想い出などから、どのようなガラス細工にも、思わず手に触れてみたくなるような懐かしさが湧き上がる。

  エミール・ガレは光の魔術師といわれるほど光を自在にあやつり自分の造形品に取り入れてる。その感性あふれる作品のすべてが、観る者を夢の世界誘い入れてくれる工芸家であった。会場の数ある展示作品の中で、私が特にながい時間を見惚れていた物は以下の数点である。会場では、その前を離れ難く、同行者とはすぐにはぐれてしまった。この同行者は私の配偶者でもあるので、いつかはまた会えるものと、あまり心配はしなかった。

1、あざみ文リキュールセット(1880年代)

   洋酒の一種リキュールは、アルコールに甘味料と各種香料や果物の香り等を入れて作る混成酒で、日本での果実酒にあたる。西欧では古くからこの酒を、食前酒や食後酒とし愛用していたようである。昨年オランダ旅行に行った知人から、パッケージにゴッホの自画像が描かれていたアブサントを戴いたことがある。アブサントはニガヨモギをはじめ数種のハーブ加えた混成主で、強いものなると90%以上のアルコールを含むものがある。その酒を水で割ると白濁すると聞いていたので水を加えると、55%のアルコール分が薄まっただけで、そのほかには何もおこらなかった。一時期のヨーロッパでは、アブサントの生産が禁止されたと文献にあったが、画家のゴッホが90%以上のものを生でガブ飲みし、幻覚などが目の前で乱舞したのちに自分の耳を切り取る蛮行に及んだからでないかなどと考えた。勿論そんな事実はなく、おそらくゴッホが耳を切落としたのは、剃刀を使ってピアスの穴を開けようとしたときに、クシャミをしてしまったのではないかなどと推理をしてしまった。

  さて、展示品のあざみ文リキュールセットは、ガラス盆の上にデカンタとグラス6ケが一組になっているもので、どの容器もごく淡い茶色のガラス面に鮮やかな茶色のアザミの茎と葉と蕾が絶妙な配置で描かれていた。一つ一つのグラスが無造作に配置されてはいるが、神の意思のような強い秩序のもとに空間を支配していた。当美術館に所属している学芸委員その他がながい時間をかけて配置したそれは、大昔に夢で観た草原に迫りくる夕闇の向こうにある風景を、充分に髣髴させるものであった。

  アザミはキク科アザミ属の植物の総称である。多数の管状花を春から秋に淡紅色、紅紫色の花を咲かせる多年生草で世界中に自生している。この花の魅力に取り付かれた園芸愛好家により改良種なども数多く作られ、その種類は多い。

  エミール・ガレの生まれ育ったナンシーはロレーヌ地方にあるが、その地方を象徴する花がアザミで、ガレが愛国心の象徴とするものの一つである。彼は自宅の広大な庭に世界に300種あるといわれる各国のアザミ種を栽培していた。彼にとってのアザミは、祖国愛に基づく鉄の意思の象徴と考えていたように思える。アザミは、日本国内でも100余種類が確認されている。そして日本でも、山野に毅然と咲くアザミの花をめでる人々は多い。

2、花器[骨と犬]

  半透明の厚手の容器で、真上から覗くと少し潰れたハート型になっている。その形状は牛骨の切断面をイメージしたらしく、幅3.8cm高さ7.4cmの淡い青みがかった透明の器体には、骨にむしゃぶりつく犬の図柄と、ガレ婦人が書いたといわれる詩文が描かれている。

[詩文  骨と犬]

ある日、一匹の犬が素晴らしい骨を見つけた

食事前のお祈りもしないで、犬は獲物にとびかかった

「私はとっても固いのよ」と、悲嘆にくれた骨がつぶやく

骨は地面に静かに横たわっている今のままでいるのを気にいっていたのです

「心配しないでください」犬が骨に云いました

「私には時間だけはたっぷりあるから、固くとも大丈夫なのです」

  私には、ガレ婦人がどのような思いで上記の詩を書いたのかを、はかり知ることはできない。それをガレが自分の作品の花器に刻み込みだということは、なんらかの意味があるに違いない。この文章は別として、犬が自分の欲望と義務のために魅力溢れる牛骨にかぶりついている図案には、犬本来の素直さを感じる。人間の庇護の下で室内を我がもの顔で走り回る現代の犬の姿は、自分の天命さえも去勢させられた飾り物に見える。原野を駆け回り自分の数倍の獲物を倒し、その腹腔を噛み切り、湯気の立つ塩辛い内臓を引きずり出し食べるのが本来の犬の姿であろう。とはいうもの、首を傾けて飼い犬にみつめらた買主の満足感は計り知れないものと推察できる。その飼い犬の目は、飼い主に対する信頼感に満ちている。飼い犬が忙しく振る尻尾は、飼い主のためなら自身の命を投げ打ってもよいと訴えているのだ。飼い主ににそのようなことをいってくれる者は、他には誰一人いないのであるから。

  ガラス容器に埋められた犬の行為は、忘れかけた骨のある場に戻りムシャブリ喰っている姿であった。犬が骨を噛むのには2つの目的がある。一つは、己の闘争本能を磨くための、獲物の骨格破壊の模擬行為。他の一つは、鋭い犬歯がきしむほどの堅固な骨の中で待つ、濃厚な味の骨髄を獲る為である。

3、海神図花器(ヘラクルスとトリトン)

  高さ8.3cm、幅10cmの器の腰に海水が渦巻き、その中へ足を踏み入れたヘラクレスとトリトンが、互いに棍棒を振りかざして殴り合いをしている図が側面に描かれている。どこの国の神話も柄の悪い内容が積み重なっての物語となっている。ギリシャ神話は特にひどい物語で、現代の道徳観念からは遠くかけ離れている。親を子が追放し、兄弟が憎みあい、男の神は女漁りに夢中で、女の神は節制のない淫らな考えを持ち、そして、それぞれの神が、嫉妬という感情だけで見境の無い非情な行動を起こす。

  ガレのこの海神図花器もギリシャ神話の一文節をモチーフにしている。ヘラクレスは主神ゼウスの子でギリシャ最強の英雄である。トリトンは海神ポセイドンの子である。ゼウスとポセイドンは兄弟なのでヘラクルスとトリトンは従兄弟同士ということになる。二人の神は棍棒を大きく振りかざし、一瞬後にその棍棒は互いの脳天を叩き割ることが必定の位置にある。3人の妖精がそれを止めもせず見ているということは、女が原因の喧嘩らしい。穏健な私としては「まず、お話をしなさい」と助言したいところである。

4、ヴェロニカの実形 香水瓶

  ヴェロニカの実はこんな形をしているのかと思うということは、一度も観たことがないからだ。日本の山野に自生していたコクワの実に似ている茶色の瓶だが、本物はこの色ではないだろう。底から腰の辺りまでヴェロニカの葉と茎と花が咲き乱れている。

  瓶の胸のあたりにピエール・デュポンの詩の一節が書かれている。

    [ヴェロニカ]

     小さな花を求めて

     世のわずらわしさの中を行く

     純真な人たちのために

  一本の茎に無数の青紫色の花を穂状に咲かせるヴェロニカの和名はルリトラノオ。[瑠璃虎の尾]と書けば、「あの花か」と思い当たる人も多いはずだ。

展示されたエミール・ガレの109点の作品は、どれも独創的で、どれも夏の日の夕暮れの優しさが漂う色彩と形状を持つ。これらの作品群を見ていると、なぜか悲しげな感情が涌いてくる。その犯人は、昔々の若かりし頃への郷愁のような気がする。

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門を出れば我も行く人秋のくれ(与謝蕪村)

  平成161115

  芭蕉の生誕から、約100年後の世は連歌形式の俳諧は下火になった。俳人たちのほとんどが、おのれの思いを発句のみで表現しようとした。中でも、俳人であると同時に画家でもあった与謝蕪村は、絵画的な光り溢れた数多くの発句を残した。芭蕉の思想性を表に出す句に対し、蕪村の発句は沸きあがるイメージを言語により喚起することに成功したと云われている。なにやら、私の理解できない世界のようだ。

  [見にしむや亡妻の櫛を閨(ねや)に踏]

  [畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ]

[みじか夜や毛むしの上に露の玉]

  [白露や茨の棘にひとつづつ]

[渋柿の花ちる里と成りにけり]

特に注釈の必要としない簡単明瞭な内容を表した句で、読み返すほどに、一幅の絵画が脳裏に現れてくるそれぞれの句である。いいかたをかえれば、思わず空を見上げたくなるような味わいのある句だと誰もが思うはずだ。きっと。

与謝蕪村は享保元年(1716年)摂津国(兵庫県南東部)に生まれた。この年は、八代将軍吉宗の治政が始まる年で、芭蕉没後23年目に当たる。当時の享保俳壇は、俗化の一途を辿る時期でもあった。蕪村幼少の頃の記録はなく謎に包まれているが、かなりの財産家の出で、幼少時の環境が俳句と絵画的才能を育んだとの説がある。

享保17年(1732年)に江戸に出て、その翌年の享保18年に蕪村の句が初見される。

[哀れなる花見は死出の山路哉] 西鳥(蕪村の初期の号)

元文3年(1738年)23歳で[巴人(宗阿)]の門に入り[宰町]と号を改める。この年に、蕪村の絵が始めて世に出る。蕪村の下絵を版職人が版木にはり、彫り起こした版木で押した版画という形での絵であった。

師匠の巴人[夜半亭一世]が寛保266歳で他界してから、蕪村は「いささか故ありて」江戸を去り、約十年間東国を放浪した。松島、平泉、象潟、出羽、津軽外カ浜への陸奥旅行は宝暦元年(1751年)36歳で京に戻るまで続く。この間、蕪村はおびただしい句と画をものにする。

京には蕪村より7つ年上の池大雅が、己の画風を確立して活動していた。蕪村の京での生活は居心地の良いものではなく、

[中々にひとりあれはそ月と友]の心境であった。

宝暦4年(1754年)丹後宮津の見性寺に滞在する。この地で句、画の毎日を過ごし、宝暦7年(1757年)に再び京に戻り、蕪村の文字通りの画、句ともに黄金時代を迎える。

[はしたてを先にふらせて行秋ぞ]

名を成し経済的にも安定した蕪村は、妻を得て子を生す。この頃の蕪村は48歳で、この時期にはおびただしい屏風絵を描いている。

  明和7年(1770年)[夜半亭二世]を継承し宗匠の列に加わり、俳諧中興の主導力となる。

画は「我に師なし」というように独学で、大雅と並ぶ南画の一家をなした。

  蕪村は天命3年(1783年)1224日に68歳で死去した。

  [門を出れば我も行く人秋のくれ]

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