心と体

草野心平が富士山とうたっている

平成20518

  私は不動産関係の仕事に携わっている。お金の勘定は苦手で、それにまして物を売る技術はすこぶる低いレベル上にある。必然的に楽な暮らしには縁が薄く、結果的につれあいは時々ボヤク。

  御客様に不動産売買の御世話をするのには、その御客様に売買契約をして戴く必要がある。御契約を戴くためには、その母体となる現物を御見せしなければならない。御見せするためにはその不動産を御客様の自宅に運び込むわけにはいかないので、その所在地に御案内する必要がある。この現地案内業務が営業マンの労力の一番重い部分である。

  関東圏に住む御客様が勤務先の停年退職等を期に、第二の人生をすごすために東北地方や信越地方へ眼を向けられることが多い。東北地方の場合、東京に近い福島県の人気は高い。青森、秋田、岩手県のような所に入り込むと、関東圏に残る子供たちのところまで引き返す時に手数がかかるとの理由からである。

  福島県の中央を南から北に流れる[阿武隈川]があるが、この大河と平行して東側に[阿武隈山系]が横たわっている。この山系の村々に住みたいという人たちが多く、現に多数の人たちが各町村に移り住んで地方での生活を嬉々として堪能している。空気と水が美味しく、塵埃の少ない大気を通しての夜空には、アンドロメダ銀河の渦巻きさえ肉眼で見えるほどだからである。人間にとり、これ以上のものは何も必要ではないのだ。もっとも、有っても邪魔にはならないお金を別だ。

  私が神奈川県在住のNK氏とお逢いしたのは今年(H20)2月であった。福島県田村郡内の町村がつい最近合併して田村市となった。そのなかの寂れた集落のはずれにある土地建物への2度目の御案内時は、列車でおいでになった氏を[郡山駅]までお迎えし、片道1時間の距離を車で往復した。3月なかばのことであった。

  車中の会話で「田村市の隣の川内村に草野心平の[天山文庫]があり、毎年7月16日にそこで催される天山祭に来ているうちに阿武隈山系の自然が好きになった。それから、暇を見つけては夫婦でこの付近の山に登り、引退したらこの地方に住みたいと考えていた」と、話された。実は、私もまた草野心平の詩とその生き様に傾倒している一人で、話は限りなく続き、ややもすると自分自身の仕事を忘れてしまうほどであった。

  草野心平は、明治36年(1903)福島県いわき市小川町で生まれた詩人で、さまざまな土地での職業遍歴の中で詩作を続け、壮大で、繊細で、ニンゲン臭い数え切れぬ作品を残した蛙である。氏の故郷のいわき市小川町にある[草野心平記念文学館]には年間を通し、素朴な文体の中に快い切れ味を持つ詩や小説や随筆を慕う大勢の少年少女、青年男女、壮年二人ずれ、そして若くして草野心平に触れ、今にいたった老年のファンが後を絶たない。

  一方、草野心平は、昭和28年に福島県双葉郡川内村の平伏沼にモリアオガエルを見にいき、3年後にこの平伏沼畔に歌碑が建立されたことを記に川内村の名誉村民となる。そして昭和41年、草野心平の名誉村民の章として[天山文庫]が建設され、氏を慕う大勢の人々が四季を通し川内村の村道奥に分け入ってくる。NK夫妻は、特に草野心平の富士山をうたった詩を好まれる様子であった。

[富士山 作品第参]  草野心平詩集から

劫初(ゴウショ)からの。

何億のひるや黒い夜。

大きな時間のガランドウに重たく座る大肉体。

ああ自分は。

幾度も幾度もの対陣から。

ささやかながら小さな歌を歌ってきた。

しかもその讃嘆の遥かとほくに。

遥かとほくに。

ギーンたる。

不尽の肉体。

厲(ハゲ)しい白い大精神。

  誰知らぬ者のない富士山は、70万年(旧石器時代初頭)に噴火活動が始まり、紀元前1000年頃までに6回あまりの大きな噴火のあと、ほぼ現在の容姿が形成された。そして、その後にも数十回の部分的噴火や噴煙が続く底力を秘めた現役の活火山である。

  富士山頂の海抜は日本一の3776.224mで、この秀麗さは広く世界的に知られ、多くの絵画や文学の題材となっている。この優美な姿を草野心平の目と心で見つめると、他の先人と異なる独特の神々しさが加算され、極力短い文章の中に富士山の内なる姿を描き切っているように思える。

[富士山 作品第拾質]

千年万年億年ののち。

何十何百億年のはて。

地球の生物は悉(コトゴト)く死ぬかもしれぬ。

樹木も草も鳥も蛙も人間も。

或ひは悉く苔もなまこも死ぬかもしれぬ。

青い氷のギザギザや襞(ヒダ)。

すべてはそんなに変わってしまふ。

しかしながらその後もしばらく富士はするどく坐っている。

火の時代にもなかつたなんたる凄い美しさだろう。

日本民族の幽霊は。

そこに集まり氷結し。

白い炎を。

頂にふき。

天はしずかにこの宗教を見におりてくる。

  [草野心平の詩を読むと、人間が好きになる。

会ったこともない人たちも、遠い村、遠い国に住む人たちも、今は亡き人たち、これから生まれくる人たちを含む人間全体が好きになる。

そして、人間のつづきとして動物も植物も、だから地球も、だから宇宙も。

草野心平は蛙の詩人、富士山の詩人と呼ばれているが、そんないいかたでくくれるような詩人ではない。私は心の中で彼を「ニンゲンの詩人」と呼んでいる]

  上記の文は、生前の氏と親交のあった詩人[吉原幸子]が書いた草野心平詩集巻末解説の中の文節である。

  私の御客様NK氏は、阿武隈山系の小集落はずれの古い農家住宅に興味を示され、通算3度も足を運ばれた。御家族の反応もわるいものではないが、住宅内外の改修費用の点で思考の限りを尽くされている。

  田舎道を一諸に走行しながら、愛すべき蛙の家族の話や、1億年近く前から存在する富士山の話をした人に対し、私は早急な返答を迫るつもりはさらさらない。ここはひとつ、かっての草野心平がはぐくみ、もちつづけた、十億年の孤独を味わうのには良い機会かもしれない。

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故M氏を偲ぶ会と蕎麦の味

平成2055

  平成20429日は祭日[昭和の日]であった。かねてより出席を予定していたので、自宅を9時に出て、[KM氏を偲ぶ会]の会場である福島県西白河郡I村のM家へ向かった。昨年(H19)の77日に急逝したM氏の人望ゆえか、この日が2回目の会である。出席者は、故人が生前所属していたボランティア団体の方々を中心に、故人の親しい友人と故人が経営していた企業の社員を合わせて約30名であった。建築業に付随しての不動産業協会での役員や、地元中小企業の経営者組織の運営、各種ボランティア活動への積極的参加、どの場合でも決して手を抜かない故人の人柄を慕う人々だった。

  この会の前身は、生前のM氏の企画で開かれた野外パーティーであった。当時数回に渡り開かれていたボランティアの仲間や、同村に移住して来た関東圏からの新しい仲間を交えて、自分たちで周囲の野原から採取した食材で、それぞれの担当者がテンプラや豚汁を作り全員で味わうというものであった。

  数箇所に炊かれた簡易カマドの上にそれぞれの大鍋がかけられ、大量の薪が投入されて盛り上がっていく。テンプラ、豚汁の他には、焼肉用鉄板に野菜や厚切り牛肉や荒挽ソーセージが煙を上げて焼きあがっていく。泥つき筍が数本焚き火の中に投げこまれて、炎につつまれていった。

  テンプラの具は、数人の採取班が敷地内で採ったウド、タラの芽、タンポポ、コシアブラ等と、シイタケや筍で、揚げあがった順から塩を振り手掴みで口に運ぶ。豪快にぶった切ったウドのテンプラのほろ苦い味が口の粘膜を刺激する。

  今回は、故人と親しかったI村のHK村長が今朝4時から捏ね上げ断ち切った蕎麦が主菜だということで、出席者の期待はドンドンと高まっていった。大鍋で豪快に渦巻く湯の中で茹で上がった蕎麦を手際よくすくいあげ、冷水でヌメリを流す作業をしているのが故人の夫人であるYM女史である。女史は故人が起業した建築会社を引継ぎ現在の代表取締りの職にある。

  冷水で晒され引き締まった蕎麦は、市販の[麺ツユ]を水で半分に割ったものにひたし口に入れた。それぞれの人がみな顔を見つめ合った。そして、大鍋をかき廻しているHK村長の背中に視線が注がれた。美味しいのである。少なくとも私にとり、今までに食べたどの蕎麦よりも美味しいものであった。

  蕎麦とは、蕎麦という穀物の実を原料とした蕎麦粉を練り上げ(打つ)、延し棒いうもので板状にしたものを駒板に移し、定規を当てて蕎麦切り包丁で2m/m程度に切断して茹であげる。それを特性のツユに浸けて口の中にすすりこみ、あまり噛まずに喉の奥に運んでしまうのが粋な食べ方である。

  蕎麦粉を麺の形状に加工するようになったのは16世紀末だときく。蕎麦粉を練った[蕎麦掻き]と区別するために[蕎麦切り]とよばれていたが、現在ではたんに[蕎麦]と呼んでいる。この蕎麦が、17世紀中期以降に江戸を中心に普及していき、庶民の日常的な食物となっていった。

  蕎麦屋の起源はさだかではないが、17世紀の後半に幕府が出した防火対策上の禁令の対象に[うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売]が入っているので、このころに屋台形式の蕎麦屋が繁盛していたのであろう。

  江戸の庶民は、蕎麦を食べることを[手繰(タグ)る]といい、「夕方早く独りで蕎麦屋により、蕎麦を肴に酒を飲む」ことが粋とされる風潮が広まったりした。

  当時の江戸っ子は以下のような蕎麦に対するこだわりを持っていたようだ。

1、もりの場合、蕎麦の先だけツユにひたして喰う。蕎麦を丸ごとツユに浸けて喰うのは無粋な行為として軽蔑された。しかし、粋を通した者も死の床で「一度でいいから、ドップリとつゆに浸した蕎麦を喰いたかった」と、いったとか。

2、口にいれたらあまり噛まずに飲み込んでしまう。「蕎麦は喉越しで味わうべし」というわけである。

3、塗り箸は手繰る時に滑るので、割り箸で喰う。

4、大きな入れ物にたっぷり蕎麦を盛り付けるのは野暮なことで、少し盛り付けたものを数枚喰うのが通の喰い方である。

5、蕎麦屋で酒を飲まないのなら、さっさと喰ってひきあげるのが粋とみなされた。

  古典落語の[時そば]を噺させたら右に出るものがいないといわれたのが、[5代目柳家小さん]である。蕎麦屋に勘定を払うときに、16文の代金を1文銭で店の親父の掌に1、2、3、と数えながら乗せていき、8まで数えたときに時間を聞く。親父が「9つ」と答えると、その後に1011、とつづけて1文ごまかす。これを見ていた与太郎が次の日にそれを真似する。前日より店に早く行き過ぎて、逆に多く支払うという単純な筋書きなのだが、この話を噺家が語ると芸術際参加作品までたかまっていく。語りは語りとして、小さんの芸は[蕎麦を手繰るしぐさと、蕎麦を口に啜り込む音声の部分]である。薫り高い蕎麦を、さも美味そうに口に運び、喉の奥に消えていく様を全身で表現するのである。噺を聞く人が、思わず唾を飲み込んでしまうほどに真にせまる芸なのである。あの牡丹餅のような顔が、この上なくたのもしく見える瞬間ではあった。

当日の午前4時起床で自ら打ち上げた蕎麦を[M氏を偲ぶ会]の野外会場で振舞ったのは、[日本一貧乏村][信号機の一つもない村]などといわれながら、村民一体になって財政再建に取り組んでいる福島県西白河郡 I 村のHK村長であった。村長の打ち出す再建案は奇策を弄しての一過性のものではなく、「借りた金は、貸してくれた者に返済しなければならない!」という当たり前のことを推進したに過ぎない。前任村長時代の68億円の負債を5年間で返済するのために6800人の村民に対し協力を請うことからはじまった。厳しい予算削減案には、I 村議と村職員、そして6800人の村民全員が従った。破損道路の修理は村職員がスコップを手に部分的にアスファルトを打つことから始まって、売れ残り造成宅地の完売と、空き地の多い工業団地への企業誘致に全力で当たっていった。東京を始めとする関東圏からの一般客を観光バスで村に呼び込み、各種イベントを開催しての I 村のアピール。村長自宅から銀座までの徒歩による踏破には、多くの福島県民の目が注がれた。I 村村民と村長の地道な努力は、周囲の予測を超える大きな成果をもたらした。なにより村外の多くの人々が I 村に対し、自然で暖かい応援を繰り広げてくれることだけでも、村長の望むものが達成されたように感じられる。村長の打った蕎麦の味に触れた出席者全員を感動させたのは当然の事で、I 村村民と福島県県民と全国の人々への心よりのメッセージが込められている食物が不味かろうはずはないのである。

  始終笑顔を絶やさないNH氏はこの会の主催者の一人で、以前は優良企業の代表取締役を永く勤め上げた方である。現在はフリーの立場での企業経営に関する講演や、各種ボランテア団体を立ち上げての社会奉仕に活躍されておられる。「現役時にさんざん悪事を重ねてきたので、その罪ほろぼしに社会の役にたつことをしようと考えている」とある人に語ったそうだが、氏は誰知らぬ者のない人情派経営者だった人で、当時の各部署のスタッフから今でも相談を受ける立場にある方でもある。渋い銀髪の下にある笑顔は、この席でも周りを明るく照らし出していた。

  十年近く前に I 村に移り住んできたKM氏は、日本国でよりイタリア、アメリカ、メキシコの地で名の知れた彫刻家である。故M氏とは兄弟のような信頼関係にあった人で、鉄屑を自在に加工しては、決して安くない金額で売り飛ばし、のんびりとした生活を楽しんでいる。M氏他界後しばらくは沈み込んでおられたが、今年(H20)のはじめから猛烈な制作活動を展開されておられると聞いた。氏の両手を[ゴットハンド]と呼び、鉄屑の中からガスバーナーと溶接機で美を拾い出しては、信じられない値段で依頼者に引き渡す錬金術師の手なのである。

  筍の丸焼きと鉄板焼肉を担当したのがKO氏である。氏は I 村の隣町に4年ほど前に関東圏から移住してきた数学者である。氏の住む家はお隣のY町の住所になっているが、その敷地に入る前面道路は I 村が管理しているもので、非常に特異な環境の中での生活といえる。この道路の反対側に住む農家は隣村の人で、回覧板などはどのような経路で届けられるかなどと余計な心配までしたくなる。O氏は、4年前に念願の農業従事者という素晴らしい資格を得て、ストローハットを頭に載せ畑の土を掘り返している。

他の出席された方々も自分の役目を果たすことで、偲ぶ会を明るい雰囲気のまま閉会まで進行させた。全員での野外パーティーに使用した道具の片付けと、鍋カマを含む食器類を洗っての散会となった。それぞれが、名残おしく会場を後にした。

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讃岐うどん店の思い出

平成20331

ある道を車で通ると、いつも同じ事を思い出す。4年も前の夏の昼食時であった。我が街にできた讃岐うどん専門店に立ち寄ったときの、ある出来事を思い出すのである。そこに入ったのは、たしか、その日が2度目のときだった。

讃岐とは四国香川県の旧国名だと記憶していたが、讃岐という単独名詞としては日常あまり使われてはいないように思われる。しかし、[讃岐うどん]という言葉となると、言葉として知ってはいる。また、讃岐の金毘羅様となると一時代前の浪曲や時代劇映画を通して知っている人も多い。

ちょっと古いが、広沢寅蔵という浪曲師がいた。この人は、昭和30年代の芸能人としてのトップの座を永く維持した人である。当たり演目に一連の清水次郎長ものがある。金毘羅様が出てくるのは、清水次郎長の子分の森の石松が、親分の代参で金毘羅様に刀を奉納するために四国へ旅する話のなかでである。金毘羅詣の帰路の三十石船内での会話の中に、あの有名な台詞「江戸っ子だってね、寿司喰いねー、お茶飲みねー」がでてくる。その後の石松は、人が良いばかりに親分に渡すべき100両の金を騙し取られたばかりか、殺害されてしまい清水港には帰らなかった。この後のストーリが面白いのだが、時間がない。

讃岐うどんに限らず、うどんは腰が強いことが命であろう。硬い柔らかいの違いでなく、腰の強弱は別の食感だ。とにかく、うどんの特性は腰が強いということに尽きる。その道の通がおっしゃるのには、うどんは「噛み切ることはあっても噛み砕くことはない」といわれる。つまり、噛まないでツルツルとまる呑みしてしまうのである。かくゆう私は、通ではないので良く咀嚼して長い時間をかけて味わうことしている。粋な立居振舞いを追求するあまり、自分の身体を壊してもつまらないからである。

諸外国には、[すする]という食物の食べ方はないと聞く。カップヌードルのコマーシャルに以前出ていたアーノルド・シュワルツネーガーに代表されるナマッチロイ人種をよく見ていると、カップからラーメンを口に入れるときに、すすり込まないので別の食べ物を喰っているような違和感が残る。ちっとも美味そうには見えない。彼らの歴史の浅い食文化では、到底到達できない奥の深い領域なのだ。

少なくとも日本人がラーメンを食べるときは「ズー、ズー、クチャクチャ」と音を立てて食べるはずだ。食べる合間に「ハー」という深呼吸をまじえながら、箸を持った右、あるいは左の手の袖で顔の汗をぬぐうしぐさなどを合わせると、なお雰囲気が出てくる。

この、[すする]という日本古来の作法を、軽蔑して顔をしかめる人がいる。私は「かまわないでください、あなたに真似をしろとはいってはいないのですから」と心の中でつぶやき、上品な作法の客を無視して音を立てて口にすすり込み、音を立てて食物を噛み砕き、ドンブリを持ち上げ縁に口を添えて音をたててスープを飲干し、そのドンブリがバウンドするぐらいの強さでテーブルにおろす。お望みなら、どんぶりの縁を割り箸でたたいても良い。まさかここまではやらないが、こちらの勝手だろう。行儀のよい麺類の喰い方はマナーに反する。

上品な方々が好む麺類を食べる様子を目にすることがある。少しばかりのスパゲティを食べるにしても、時間をかけて、先の尖ったフォークと呼ぶ小型の堆肥散らし(農具)に細めのウドンを巻きつけ、口の奥まで運びこむ。そんな時、私は「何を気取っている」と、心の中でいつも絶叫している。あれは、非能率的な最たる食べ方だ。

一口で[すする]といっても、ラーメン、蕎麦、うどんでは微妙にすすり方が異なることに気づいた。それぞれを音で表現すると、ラーメンはやっぱり「ズー・・、ズー・・」だろう。うどんの表現としては「ツルツル、ポン!」が伝統に裏付けされた正統派だろう。蕎麦となると古典落語で名人噺家が何十人も演じ続けているので、慎重にならざるをいない。「シー・・。シー・・。」という音に23種類の重い濁音をまぶしたような音だと思っているが、これらの表現法にはもう一工夫が必要だ。

さて、4年前に2度目に立ち寄った讃岐うどん専門店内に戻るが、店の特徴としてはセルフ方式で、[かけ][盛り][ざる]の違いと、普通か大盛かを申告した後に、好きなおかず(なすのテンプラ・ごぼうの掻き揚げ・納豆)を盆の上に乗せ、先に清算してしまう。その後はテーブル、または座卓に座りうどんが茹で上がるのを待つのである。

  店の中には、ほどほどの客が出入りしていたが特段繁盛しているように見えなかった。讃岐うどんの看板をみて、ものめずらしさに暖簾をくぐる客がほとんどだ。店内は座敷に座卓2脚、コンクリート土間にテーブル2脚。入り口横奥にはゆったりとした厨房があり、これがその店の総てである。

この日は、どのテーブルにもそれぞれに客が座っていた。うどんをすする者と、これからできるうどんを待つ客とがいた。そこに、老齢の夫婦がはいってきた。店の者が「しばらくお待ちください」と言ったように聞こえた。先客を優遇するという意味合いでの言葉だったと思ったが、4つのテーブルには計5人が居るだけである。

畳敷きの座卓で食べていた40歳代の企業制服を着た紳士が、突然どんぶりを持ちあげ立ち上がり、土間へ降り私の座っていたテーブルの向かいに移動したのである。その紳士は、特に誰に何を言うのでもなく、そこで充分に味わってうどんを食べ終え、何事もなかったように店を出て行った。席を譲られた老夫婦も、他の客も、出て行くその紳士に目礼をしたように感じた。出て行った人も、見おくった人も、ともにスマートなマナーをこころにはぐくんでいたのだ。

その昼食を終えた後の半日は、珍しく心豊かな半日となった。

  そして、その3ケ月あとには、その店の暖簾は下ろされていた。

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愛すべき古代生物アブドラー・ザ・ブッチャー

平成20328

  有名な月刊雑誌20083月号に意外な人の記事が載っていた。[リングから見た日本人の品格]という記事であった。ノンフィクション作家K[アブドラー・ザ・ブッチャー]から聞き取り取材した形をとっている記事で、このブッチャーは今年67歳(H20-1-11現在)の現役レスラーである。

  今でこそ記憶も意識も薄れつつあるが、青年の頃の私も当時のプロレス繁栄期に生きていた。1953年(昭和28年)日本プロレスを設立した力道山は、みずからの好のみで招聘した大勢の白人レスラーをリングに並べておいて、得意の空手チョップを振りかざしてマットに打ち倒していた。それらの試合を他人の家のテレビ前に座り込み、傍らのテーブルを興奮の余り打ちたたきながら観戦した記憶が生々しく蘇る。力道山は、外人コンプレスックに固まっていた戦後の日本国内で、白人レスラーをバッタバッタと薙倒すことにより日本人のヒーローとなった男である。中でも1963年(昭和38年)524日のデストロイヤーと戦ったWWA世界選手権は64%の視聴率を記録している。プロレス茶番劇に免疫性を持たない当時の年配者が、興奮の余り脳血管がブッチ切れて試合会場から運び出される姿が度々テレビ画面に映されていた。特に正義感旺盛な御年寄りにいたっては、プロレス中継中のテレビの前で即死する場合もあったと聞いた。

力道山は、デストロイヤーとの世紀の一戦のあった年の1963年(昭和38年)128日、赤坂のキャバレーで複数の美女と一緒に飲酒をしながら自分の強さを極力謙虚に話している時に、自分の足に触った男に感情を極力抑えて喧嘩を売った。売られた相手は勝ち目の無いことを知ったのか、常時携帯している一番切れ味の良い登山ナイフで力道山の腹を刺した。力道山はその傷が元で、同1215日に弟子のアントニオ猪木の前で息をひき取った。日本プロレス界の父といわれた力道山はこの時39歳で、登山ナイフを常時携帯しているような物騒の男の為にあっけなく死んでしまったのだった。その死に様を思うと、彼の生涯が、少なくとも尊敬に値するとも思えない。最も、誰がどのように生きようと私には微塵の異議もない。

  力道山死後の日本プロレスは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎等に引き継がれて盛大な興行を打ち続けた。1970年(昭和45年)8月興行に参戦したのが、日本では無名のアブドラー・ザ・ブッチャーである。日本マット界での初戦に、猪木とタックを組んだアバラ骨の浮き出た大男の馬場をフォールしてしまった。筋書きにはなかったフォールであったが異議を申し立てるわけにもいかず、己を知った馬場のその後には、力の入ったトレーニング続いたという。一方ブッチャーのダーテーファイトの試合運びが当時のプロレスファンの度肝を抜き、彼の出場する試合のチケットはいつも完売で、ダフ屋の群れが走り廻るほどであった。かたき役に徹したブッチャーの人気は鰻屋の煙のように上りはじめ、あれよあれよと見ている間に日本マット界の目玉興行ワールドシリーズの常連におさまってしまった。

私がブッチャーの登場する試合を最後に見たのが1972年(昭和47年)で、彼が31歳当時のファイトであった。試合の度に相手の頭突きや拳での強打により額が割れ、大量の血が流れない日はないブッチャーの試合は受けに受けた。自分の指先に画鋲が刺さり、傷口から血が一粒滲みでるさまを見ただけで卒倒するようなヤサ男でも、ことブッチャーの試合では「もっとやれ!」と拳を振りかざして応援するなどで、常時満員の日が続いた。誰でも他人の身体から流れ出る血液には痛みはともなわないので、比較的冷静にもなれる。この人気に気を良くしたブッチャーもブッチャーであった。あろうことか、相手に傷つけられない日は自分自身の額を隠し持ったスプーンで傷つけて、血だるまの顔でニタリと笑ったりして観客にサービスした。まったく、どうしようもない怪物だと、私は思った。それが原因ではないにしろ、私はその年、プロレス観戦を引退した。

  アブドラー・ザ・ブッチャーは2008年の2月に、36年ぶりに雑誌の記事を通して私の前に立ったことになる。彼が始めて私の前に現れた頃は、観客の関心を引き寄せることができるのなら、身体に流れる血を外に取り出して観客に見せてやろうという露骨な作為を感じた。「それが銭になるのなら、こんなに簡単な労働はない」という風に、リングに上がるたびに顔面を自分の血で染めるファイトを繰り返す彼を、私は好きではなかった。今年67歳になる現役レスラーのアブドラー・ザ・ブッチーを月刊誌紙面で見つけたのだから驚いた。

  アブドラー・ザ・ブッチャーがこの紙面で語った内容は以下のようなことだった。

  [私は日本が好きだが、最近の日本は変わってしまった。以前はどの日本人も親を大切にしていたことに私自身も幸福感を味わったものだが、現在は親をないがしろにするようなニュースが流されることが度々で悲しくもあり憤りさい感じる。38年前に始めて日本に来た頃は、東京の街が清潔なことに驚かされた。道に物を棄てる人はいなかったし、街で騒ぎ立てる人もいなかった。その頃の日本人はみなリラックスしていたような気がする。

日本でまず気に入ったのが風呂だった。大きな風呂に家族や友人たちと一諸に入るのがたまらない。アメリカでは、狭い場所でシャワーを浴びておしまいだが、日本の風呂の場合は肌が触れ合うほど近づき、仲間と話をしたことなどが楽しく思い出される。

  今の日本人はどうだ、十代と思える若者が道に座り込み煙草や酒を飲んでいる。何をそんなに話すことがあるのか携帯電話で、のべつささやき合っている。以前は演歌という日本古来の歌の形式が持てはやされていたのに、アメリカ人のように踊ってポップスをうたう日本人ばかりではないか。アメリカの悪いところばかり真似る若者ばかりだ。

人前で手をつないでイチャイチャしながら歩く気持ちの悪い男女。他人が横を通る道端でキスさえしている者もいるが、人の見ているテーブルの上で交尾する銀蝿を思い出す。素晴らしい黒髪をピンクやグリーンに染めている若者は何を考えているのやら、不細工な顔の頂点を何色に染めてもその不細工さは損なわれるものではない。黒人になりたかったからか、顔を真っ黒にして唇を白く塗る娘を見たときにはこの世の終わりを感じた。今時のケニヤの田舎でももっと気のきいた化粧をする。ジーパンをつけて毛羽毛羽しい服からチェーンを垂らしている男も見かけるが、何をしようというのだ。あれでは、金属探知機に感応して信号機がすべて赤になってしまう。派手な服装で肌を見せている女性も多いが、チョットだけ見せて後は想像にまかせる方が有効であることを学習していないようだ。

  ひきこもりの話を聞くと、親の世代の腑抜けさ加減に腹が立つ。「俺の家にゴロゴロしているな! 直ぐに外に出て働け!」と、外にたたき出せばよいのだ。簡単な仕事などこの世にはないことを子供に対して自分の身体をはって教えろと云んだ! バカ親メが!

  私は20歳の時に、生き延びるためにプロレスの世界に入った。その時からファイトマネ-の一部を、両親が死ぬまで渡し続けてきた。私のトレードマークの額のギザギザを両親はどのように思っていたかは知らないが、そのことについては一言も話題にしなかった。二人を失った時に、一緒に過ごす時間をもっと持つべきだったと悔やまれて成らならなかった。

私は現在、アメリカと韓国でレストランを経営しているので、とり合えず食うには困らない。しかし、この仕事をやめたいとは思わない。仕事をしていると自分を高めることができる。私はいつまでも「ここにブッチャーがいるぞ!」とファンに云われたいと思い続けて、そのための努力もしている。楽をすれば筋肉は直ぐにどこかに隠れてしまうので、トレーニングを休むわけにはいかないのだ。

  この仕事からの引退を考える時、私にはこんな夢がある。

私は観客で身動きできないほどの大きな会場で試合に臨んでいる。互いの死力を尽くしたフアイトで私も対戦相手もダウン寸前の状態だ。相手の隙をつき私は得意技のエルボードロップを決める。そのままフォールに持ち込む。スリーカウントをとったレフェリーが私を抱き起こして勝者の手を上げようとするが、その時私は死んでいる。

私は、最高に幸せな人生の終局だと考える]

  上記のブッチャーの話として紹介した中には、私の考えていることが多分に追加されている。ドサクサに紛れて人の悪口をいうのは、ストレスの解消にはてきめんだ。心配なのは、私に対してのブッチャーのエルボードロップだけである。

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横綱は誰が造る

平成2022

平成20127日の日曜日、大相撲初場所15日目夕刻430分に帰宅。優勝が白鵬と朝青龍に絞り込まれた相撲を観るためにテレビの前に陣取った。千秋楽なので、取組はいつもより30分ほど早い進行となっている。当然のように酒を請求したが、「まだ時間が早い!」という理由で強く拒否された。

近年は外国出身力士が多くなってきた。その中でもモンゴル出身力士の活躍が目覚しい。平成20年初場所の番付を観ると、幕内力士総勢42人中モンゴル出身者7人で、そのなかに白鵬と朝青龍との東西横綱の2人がいる。その他の国ではロシア2人、韓国1人、ブルガリア1人、グルジア1人、エストニア1人の6人がいて、総勢13人が外国出身力士となる。

決して外国人力士に偏見を持っているわけではないが、20031月に65代横綱貴乃花が引退して以来、今年で満5年間も日本人横綱のいない場所が続いた。5年と一口にいうが、この世に誕生した子が両親と二組のジジババ連合軍を喜ばせながら幼稚園に入り、時々親のできない英語の発音で朝夕の挨拶をして両親の眼頭を熱くさせるまでに成長する時間である。私は決して外国人力士に偏見を持っていないが、日本国出身横綱がこんなに長く出現しないことに寂しさを感じる。しかし、横綱の下に位置する4人の大関のなかには、なんと、3人もの日本国出身力士がいるので、無理にでも機嫌を直さなければならないだろう。ものは考えようなのである。

大相撲最高峰の横綱になるのには、まず大関に昇らなければならない。日本中の大相撲ファンで誰知らぬ者のない大関に魁皇がいる。魁皇は今まで何度も何度も横綱に王手をかけておきながら、精神的弱さからか諦めの強さからか、その都度しっかりとコケてしまう在位45場所の大大関である。

魁皇は1972年(S47)福岡県に生まれる。初土俵は1988年(S633月で、大関昇進は2000年(H125月で、現在(H20)まで5回の幕内優勝がある。

2000年(H125月場所141敗で優勝、翌7月場所114敗で大関昇進。

2001年(H133月場所132敗で優勝、翌5月場所4勝56休場で角番

2001年(H137月場所132敗で優勝、翌9月場所0411休場で角番

2003年(H157月場所123敗で優勝、翌7月場所78敗で角番

2004年(H169月場所132敗で優勝、翌11月場所123敗準優勝

2005年(H171月場所45敗6休角番、同7月場所519休角番、同9月場所0411休角番、

2006年(H189月場所16敗8休で角番

2007年(H199月場所159休で角番

まったくの話し、無駄とムラのある男の鏡のような戦跡であった。けれども、なぜか、底の深い魁皇ファンは多いのである。私を含めて。

横綱昇進規定には[2場所連続優勝、またはそれに準じる成績を収めた大関を、理事長は横綱審議委員会に対し、横綱昇進について諮問する。この諮問を受けて横綱審議委員会が審議し、出席委員の3分の2以上の賛成があれば横綱推挙を理事長に答申する。答申を受けた理事長は臨時理事会を招集し、この理事会で横綱昇進につき決議、正式に昇進が決定される]という手続きがある。この理事会では、「横綱審議委員会の答申を尊重する」ために、事実上は横綱審議委員会の答申が最終決定となる。

この魅力的かつ名誉ある横綱審議委員には、理事長から委嘱された[相撲に造詣が深い有識者]が座る。[有識者]とは、名の売れた学者や、名の売れた作家や、有名大学の学長などの他に、スポーツ界を何かと掻き回す新聞社の社長や、部下の教育も満足にできない某国営テレビ会長のようなマスコミのトップまでをさす。このマスコミトップの場合は、大相撲取組に厳然存在するといわれる八百長試合が、「問題になりそうになった時の歯止め用」だなどと悪口をいう人もいる。悪口をいうのは決まって、横審になりたいのに誰も声をかけてくれない有識者の一人だ。

現在の横綱審議委員は12人で、そのなかには作曲家の船村徹や映画監督の山田洋次なども入っていて、この任期は一期2年で最長5期までとなっている。横綱審議委員とは、あらゆる策謀を屈指して最高の地位に到達した大手銀行の頭取に「最も嬉しかったことは、横審に推挙されたときだった」といわしめたほどの、成功者たちの夢の領域なのである。

話し元に戻して魁皇の場合、優勝場所の次場所成績が振るわず、今だに横綱に到達していない。おかげで、日本中の相撲ファンと財団法人相撲協会の関係者がやきもきしていた時期もあったが、最近は話題にすることを避けているかのように見える。ある相撲解説者の一人[元横綱北の富士(仮名)]はいう。「幕内優勝5回もして、横綱になれなかった力士は彼のほかにはいない」と吐き棄てる。北の富士(仮名)は、その性分ゆえに、顔をそむけるほどのじれったさをかんじたのであろう。

魁皇にも過去に1度だけ横綱昇進のチャンスがあった。幕内5度目の優勝をした平成169月場所前後の成績が横綱昇進規定にピッタリと合っているのである。合っていなかったのは、横綱審議委員会と理事会の考えだけだった。魁皇の最も充実していた時期は、平成15年7月場所で4回目の優勝をした次場所で78敗と負け越した後にきた。

平成1511月場所10勝、161月、3月、5月、7月と10勝以上の成績で来て、9月場所13勝で優勝したのである。次の11月場所では123敗の準優勝であった。ファンは、平成1611月場所後に横綱になるもとばかり思っていた。この7月、9月、11月の3場所通算成績は369敗である。そして、優勝のあとの場所は準優勝なのであった。

この成績の何処に文句があったのだ!

どうして理事長は横審に諮問しなかったのだ!

誰が魁皇の横綱昇進に反対したのだ!

以上の言葉は誰がいったのでもなく、当時の私の口から出た言葉である。

ここに歴代横綱の横綱昇進以前3場所通算成績の表がある。

武蔵丸は平成117月に、過去3場所の成績347敗で横綱昇進を果たした。

それ以前の横綱の若乃花、曙、旭富士、北勝海は揃って369敗で横綱になっている。

これで3度もいうが、平成1611月までの3場所の魁皇の勝敗は369敗である。まったく、セキニンシャを呼んでもらいたい心境である。もっとも、その後の魁皇は、負け越しと勝ち越しを交互にくり返し、6回の角番を経験している。この辺のところを協会理事も横審委員も読んでいたとしたら、恐ろしい人たちである。確かな眼力を持ってはいるが、人を疑うことしかできない人たちだと思った記憶がある。

まあ、日本国出身の横綱はいないけれども、3人の大関はいるし・・・、幕内力士42人のうち外国出身の13人を除き、残り29人は日本国出身の幕内力士がいるのだ。一応、数の上では、まだ負けてはいない。

本当のところは、外国人、日本人と区別して思考するのが間違いで、歳若くして異郷の地の封建的相撲界に入門し、先輩諸氏のあらゆる道具を屈指しての情操教育の間を這い上がり、誰もが認めざるを得ない現在の地位にあることを敬うことが、彼らを受け入れた側に立つ我々ファンの勤めでもある。大相撲の十両と幕内の力士の身体は、それぞれの個性を内に秘めた理想的形ができあがっている。そこからは、絶えず健康的な光が四方に放射されている。彼らは、永い期間の苦しみに耐えて来たからこそ、爽やかな男気と鍛え抜かれた身体の持主になれた集団だ。

相撲の取組前に、懸賞がかかっていることを知らせる幕が土俵を廻る。人気力士が絡む取組や、実力が伯仲している力士同士の取組の場合により多くの懸賞が付く。この懸賞幕の中に、愛用しているエンスタントお茶付パッケージの柄に似たものがあるので身を乗り出すのだが、テレビ画面では企業名を判読することが出来ない。懸賞幕が廻りだすとテレビカメラが引かれるので、肝腎の懸賞提供企業名を読み取ることは出来ない。なんというけち臭いNHKのしわざか。私は、三役力士、大関、横綱の絡む取組等だけではなく、本数はともかく満遍なく総ての取組に懸賞を付けるべきだと思う。その懸賞金額ゆえに、取組する各力士の勝負にかける意気込みは違ってくるはずである。お金を嫌いだという人はこの世にいないと、ひそかににらんでいる。

取組前に土俵を廻る懸賞幕そのものは、希望する企業が1本につき8万円を相撲協会に納めることにより自社企業のエメージを織り込んだ懸賞幕が出来上がる。これらの企業は、最低1場所に5本以上の懸賞を提供する約束を迫られ、シブシブ首を縦に振った。

取組前にまわる懸賞1本の金額は6万円である。そのうちの5000円は、取組掲載料や放送料の名目で相撲協会の財布に入る。そして25000円は賞金を得た力士名で積み立てられる。力士に全部渡すと「税金のことを考えずに消費してしまう」との、親心からだろう。残る3万円の現金が熨斗に入れられ、行司より勝力士へ渡される。

平成201月場所の懸賞金獲得五傑は、白鵬279本(1534.5万円)、朝青龍151本(830.5万円)、稀勢の里92本(506万円)、琴光喜63本(346.5万円)、安馬52本(286万円)となる。

全部の力士それぞれに魅力を感じられるようになって久しい。見ていると、どの力士も素晴らしい力量であることがわかる。努力努力の連続で今の地位を維持している力士はとりわけ魅力的ではあるが、天性の才能だけで本割に力を発揮する力士を見るにつけ「この力士が、あの力士ぐらい稽古に励めば横綱を張れるのだが」などと、生意気にも谷町的思考にはしるのも楽しい。それぞれの力士の、それぞれの個性があっての大相撲の醍醐味なのである。

相撲の取組の勝敗は、勝つか負けるかのどちらかである。自分の取組に38本の懸賞がかかったとしても、負ければ懸賞金209万円は対戦相手の物になる。本場所15日間の対戦で8勝すれば一応喝采を浴び、7勝、6勝で惜しかったといわれ、5勝以下の場合は「来場所があるさ!」と慰められる。そして、番付はしっかりと落とされる世界である。

平成201月場所の千秋楽最後の一番、両横綱同星決戦は白鵬が制し、準優勝に終わった朝青龍は優勝より大きなものを手にした。様々な中傷や冷たい視線に言い訳一つせず、2場所に渡るブランク後の必死の土俵で、世界中の相撲ファンの信頼を取り戻したからだ。

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WG翁の現在進行形の九十余年

平成2015

昨年(H19)の暮が押し詰まった日、御無沙汰していた会津若松市WG翁宅を訪問した。翁は、30数年前に私どもの媒酌人を御願いした方で、一昨年の夏に御会いして以来の1年半ぶりの訪問であった。奥様には14年前にさきだたれ、以来、ずっとお一人でのお暮らしであった。

朝の起床時、3度の食事時、外出前、帰宅後、就寝時の折々には御仏壇上の奥様の御写真に話しかけられての生活は、寂しい一人暮らしには程遠い充実した毎日のように感じられる。お一人といっても、同市内に嫁がれている御嬢様が定期的に翁の許にたちよられ、何かと手をさしのばされていることが、室内の隅々に漂っている。

一時期、道の脇に落ちている空き缶を拾い道路の美化につとめる傍ら、それを古物屋に売り、その金銭を市に寄付するという御一人だけでのボランティア活動を長く続けられていたと人伝にお聞きしたことがある。現在は付近の路傍の雑草とりや、近くの神社境内の清掃や、知人の畑の手伝いをしたりして健康管理につとめられているご様子。お顔の色は、すこぶる良好であった。

翁の社会奉仕の姿勢は旧国鉄勤務時から一貫し、各地で起こるいたましい災害被災者への義援金を送り続けていたことを私達は知っていた。14年前に亡くなられた奥様の通夜の最後列席に、当時の会津若松市長(O氏)の普段着姿をお見かけしたとき、翁の日頃の行動と精神を見ていて下さる方はおいでになるのだと、そのことでも胸が熱くなったことが思い出される。

翁は6年前に周囲に勧められ老人ホームに入園したことがある。園内の単調な生活に暇を持て余し、園内外の草むしりをしたという。その際、職員に「自分達の仕事だから止めるように」いわれ、「こんな草むしりもできないところにはいられない」と自宅に帰ってしまったことから、また一人暮らしが始まったわけである。

日本国有鉄道経営形態を分割民営化する営業が、昭和6241日から開始された。この民営化により、職場を去らなければならなかった旧国鉄職員の数は少なくはなかった。すでに退職されて久しかった翁の、そのときの苦しそうなお顔が、今でも私の脳裏に蘇るときがある。

  「今年は知人の葬儀が多かった」と、翁がいわれた。慰めの言葉のつもりで「お寂しく、なられますね・・・」と、つい、口が滑った。「寂びしくはない。見送るのは、生きる者の勤めだ。なにも、その人が俺の心の中から消えてしまうわけではない。それより、向こうの世界は想像もできないくらい広いところだそうだ。見つけることができるだろうか」

  翁のお歳は、何度数えても90歳をかなり前に超えておられるはずだが、正確なお歳を今だ知らない。今回も「おいくつになられましたか」と、さりげなくいってみた。

翁には、今回もまたはぐらかされた。

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