スポーツ

私のアメリカンフットボール入門

平成211227

私のビデオコレクションの中に[エニイ・ギブン・サンデー(とある日曜)]というビデオテープがある。ホームセンターの通路の平台に並んでいるレンタル落ちのテープで、100円で買ったものだ。

[プラトーン][ウォール街][JFK]等の監督で知られる巨匠オリバー・ストーン監督が1999年に完成させたアメリカン・プロ・フットボールの世界を描いた大作である。

  広大なフィールドのわずか1インチ(2.54Cm)を争う、骨がきしみ肉の振動が聞こえるような壮絶な戦いを主題にしている映画である。

  この映画の内容は

[[4年前にはリーグ優勝をはたしたことのあるプロ・フットボール・チームのコーチ役[アル・パチーノ]は、敗戦続きの成績に苦悩している。父親から譲られたプロ・フットボール・チームのオーナー役を演じる[キャメロン・ディアス]の商売優先の考え方に閉口しながらも、チームの立て直しに躍起になっている矢先にベテラン選手が負傷でチームを離脱した。代役に起用した無名選手の予想外の活躍で、その後の試合は連戦連勝の進撃が続いた。

  スタープレーヤーとしての人気に酔いしれていく新人クォーターバック。だがチームは身勝手な黒人クォーターバックが原因での内部崩壊の危機に直面していた。

「ゲームは人生そのものだ! ただ、勝てばいいというものではない! 男として、チームの一員としてプレーすることが大切なのだ。まわりを見てみろ!一緒に1インチを進むために必要な信頼できる仲間の顔がある。もしも俺にもまだ選手としての人生が残されているとしたら、たとえ1インチ先に死があっても、その場から逃げたりはしない!」

  決勝進出を決める試合前のコーチの言葉で一丸となったチームは、大量得点を許している状況から奇跡的勝利に向かい、突き進んでいくのだった。]]

  主演の人情味を隠し持つクールなコーチ役が[アル・パチーノ]で、オリバー・ストーン監督の熱烈招聘に対して、パチーノが快く承諾することにより実現した名作である。女性オーナー役の[キャメロン・ディアス]は、パチーノに一歩もひけをとらぬ演技(マッ裸の男がウジャウジャたむろする選手の控え室に、激励の為に彼女が入っていくシーンには度肝を抜かれた)で、この物語をより重厚なものした。

無名選手から、針の穴のようなチャンスをものして行く役を演じたのが、テレビ畑のコメディアン出身の[ジェイミー・フォックス]であった。彼は、ジャズピアニストであり歌手でもある[レイ・チャールズ]の伝記映画[レイ(2004]で、盲目の天才音楽家レイ・チャールス役をあますことなく演じたことより、アフリカ系俳優では3番目のアカデミー賞主演男優賞に輝いた芸達者である。

知ったかぶりは悪い癖だが、アフリカ系俳優でアカデミー賞を手にした他の二人は、[シドニー・ポワチエ(野のユリ1963][デンゼル・ワシントン(トレーニングデイ2001]である。

  女性オーナーの母親役に[アン・マーガレット(シンシナティ・キット1965年)]や、コミッショナー役の[チャールトン・へストン(ベン・ハー1959年)]、コーチ(アル・パチーノ)の参謀役にジム・ブラウン(100挺のライフル1969年)らの往年の名優たちが脇を固めている。

  オリバー・ストーン監督は熱く語る。

「アメリカン・フットボールは儀式化された形式の闘争だ。日曜日の宗教儀式であると同時に、ローマ帝国の剣闘試合のバイオレンスなアメリカ版である。選手がフィールド上で野蛮人になれるところが魅力にひとつだ。選手がヒーローになれるのは、この野蛮きわなりない儀式を、肉体的、精神的に大きなダメージを負いながも切り抜けるからだ。この世界でも、過大評価されたスタープレーヤーがいて、その影に大多数の実力が評価されない選手がいる。スポットライトを浴びるのはスタープレーヤーだけで、人々はチームという観念を忘れている。しかし、フィールド上で戦った男たち総てが偉大であり、それは勝者となった[チーム]というものの存在の中に含まれる偉大さでしない。個人個人は現れては消えていく存在だ。偉大なチームは偉大な映画と同じで、分部より全体が素晴らしいのだ。」

  以上の記事は[]さんという方が主宰する映画解説サイトからの受け売りである。私は、プロ・フットボールの世界など全然知らない。この[エニイ・ギブン・サンデー]を何度鑑賞しても、オリバー・ストーンの云わんとしていることが伝わってこないのだ。そこで、[アメリカンフットボール]についての知識を大急ぎで詰め込んでから、もう一度観てみようと思った。

  [アメリカンフットボール]11人ずつの2チームが、楕円形ボールを互いに相手陣営の[エンドゾーン]に向けて前進させて得点を競うスポーツである。

  [2チーム][オフェンス(攻撃側)][ディフェンス(守備側)]に分かれ、攻守を交代しながら進行し、得点する機会は攻撃側だけにある。

  総てが[セットプレー]で、両チームむかい合った静止状態から一つの[プレー]が始まり、[タックル]などによりボールの前進が止まったとき当該[プレー]は終わる。[1プレー]は超短時間で終わり、また次の[プレー]を開始し、それらの積み重ねでゲームは進行する。

  [フィールド]内で試合をする11人の選手は、自由交代制で一度交代した選手がまた戻ることができる。

  選手は[ポジション]ごとに明確な役割分担が敷かれ、それぞれの[ポジション]に応じたパワー、スピード、スタミナ、捕球力などが要求される。

  [プレー]の結果により、試合時間がそのまま進行する分部と、停止する分部とが明確にされていて、時計との勝負と云われるスポーツである。

[フィールド]

  [アメリカンフットボール]は、120ヤード(107.73m)の[サイドライン]と、53ヤード(48.78m)の[エンドライン]を持つ[フィールド]内で戦われる。

  両端の[エンドライン]内側10ヤード(9.14m)のところに[エンドライン]と平行して[ゴールライン]が引かれ、この10ヤード×53ヤードの帯状の分部を[エンドゾーン]と呼ぶ。

  両端[ゴールライン]の真ん中50ヤード(45.72m)に引かれた線を[ハーフウェーライン]と呼び、このラインが2つの陣地の境界線となる。

  [フィールド]両端の[エンドライン]上中心に[ゴールポスト(高さ3m×幅5.6m]が設置されている。

[試合時間]

  試合時間60分を前後30分の分け、それを、さらに15分ずつの節[クォータ]に分け4分割し、第一クォータ、第二クォータ、第三・・・、第四・・・と呼ぶ。実質的な試合の間は時計が進められ、それ以外は時計が停止される。さらに、前半と後半の間に15分程度の[ハーフタイム(休憩)]などもあり、試合開始から終了するまで3時間以上になる場合が多い。

[チームの人数]

  [フィールド]上に上るのは11人であるが、[プレー][プレー]の間であれば何人でも交代でき、一度退いた選手でも再度[フィールド]上に戻ることができる。NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)ルールでは、[フィールド]上と控え選手あわせて1チーム53人まで登録できる。

[審判の人数]

  審判の人数は、[レフリー][アンパイア][ヘッド・ラインズマン][ライン・ジャッジ][バック・ジャッジ][フィールド・ジャッジ][サイド・ジャッジ]7人で、各ポジションにより呼び名が変わるが、反則の指摘等の権限は平等に持っている。

[コンタクト(タックルとブロック)]

  [アメリカンフットボール]での[コンタクト]とは、[オフェンス(攻撃側)][ディフェンス(守備側)]との接触をいう。この[コンタクト]は互いの身体に強烈な力が加わり、即負傷につながるので、厳しい規制が設けられている。

  [コンタクト]は、ボールを持っている相手チーム選手(ランナー)の前進を阻むために、身体やジャージを掴んだりする[タックル]と、相手チームの身体やジャージを掴むことなく自らの身体を使って相手チームの進路を妨害する[ブロック]に大別される。

  原則的に、ボールを持っていない選手の身体やジャージを掴む[タックル]には[ホールデング(反則)]が科せられるが、守備側が[ランナー][タックル]をするために他の選手を払いのけるために掴むことは例外となる。

[装具]

  [アメリカンフットボール][装具]とは、選手の[ヘルメット]や身体各部の負傷軽減を目的とする[プロテクター]と、チーム識別のための[ユニフォーム]に大別される。

  装着が義務付けられている装具は以下の通りである。

[ヘルメット]は頭部を保護するもので、表面はプラスチック製、内側はウレタン性パッドとゴムチュ―ブ(口で空気を送り込むことにより、己の頭蓋骨にフィット感を調整できる)が内蔵されている。ヘルメットは顔面を保護する[フェスマスク]と、顎にあててヘルメット固定する[チンストラップ]があることが必須である。この[ヘルメット]は、1㎡当たり1tonの衝撃に耐える。

[ショルダーパッド(プロテクター)]胸と背中と肩を保護するもので、各部を保護する[パッド][プラスチックカバー]で覆い繫ぎ合せたもので、それぞれのポジションにより異なる形状を持つ。

[ニーパッド]は膝を保護する。[サイパッド]は大腿前部を保護する。[ヒップパッド]はおしりを保護する。これらは、ユニフォームのパンツ(ズボン)の下に装着される。

[マウスピース]は頸部への衝撃を緩和するもので、[スナップ]する直前に装着する。過去における未装着時代の事故には頚椎損傷による死亡等の重大なものがあり、現在でもその規定が年々厳しくなる傾向にある。

[ユニフォーム]は自分がどのチームに所属しているかの看板である。自チームの持つスタジアムでの試合に着用する場合のチームカラーを重視した物を着用する。一方、他のチームの[ホームスタジアム]への乗り込んでの遠征時は、白を基調とした色(ビジター用)が原則である。これは伸縮自在の素材を用い、様々な防具の上から羽織る。

[セレモニー(コインスト)]

  [セレモニー]とは、試合開始直前に両チームのキャプテンと審判がフィールド中央に集まり、試合上の注意を受けたあとの[コインスト]をおこなうこと。

[コインスト]とは、試合開始前にボールと陣地の所有権を決めるもので、[ジビター(遠征チーム)]側がコインの裏表を選択したあとに審判がコインを投げる。

[コインスト]の勝者は、[どちらかの陣地を選択か]か、[どちらのチームがキックするか、又はレシーブするか]かの、どちらかを選択できる。[コインスト]の敗者は、この勝者が選択しなった選択権を行使できる。つまり、[コインスト]の勝者が、先に攻撃権を得るために「自チームがレシーブする」ことを選択すると、相手チームは自動的に[キック]する側となり、さらに自チームの陣地をどちらにするかを選択できることになる。

[レディー・フォー・プレー]

  [レディー・フォー・プレー]とは、審判が[プレー]の開始を宣言すること。宣言前には各チーム共にプレーを始めてはいけない。また、この宣言がなされてから25秒以内にプレーを開始しなければならない。

[スクリメージ・プレー(ボールの前進)]

  [スクリメージ・プレー]とは、攻撃側が[フィールド]内の相手側[エンドゾーン]に向けてボールを前進させるために行う個々の[プレー]を総称して云う。ボールが設置され、攻守の間に[スクリメージライン]が存在する状態からのプレーを指す。

  [スクリメージライン]とは、各[ダウン(4回の攻撃権の11つ)]の攻撃開始地点を示す仮想の線で、セットされたボールの先端を通り、[エンドライン]と平行に[フィールド]を横切る線を云う。

  [プレー]は、攻撃側の[スナップ(地面に置かれたボールを、後方の味方選手に渡すこと)]により開始する。この[スナップ]時には、両チームの選手は[スクリメージライン]よりそれぞれ自陣側に位置しなければならず、そのラインを中心に攻守の選手が向かい合う形となる。なお、攻撃側の[スナップ]時には少なくとも1秒間静止しなければならない。

ボールを前進させる方法は[ランプレー][パスプレー]とがあるが、それぞれの[プレー][アサインメント(事前に決められた動き方)]に従った行動となる。このあらかじめ決められた戦術書を[プレーブック]と呼ぶ。

  [スクリメージ・プレー]の前に両チーム選手はそれぞれに集合し、[ハドル(次のプレーの戦術確認)]をする。[ハドル]の多くの場合は、[チームリーダー(通常はクォーターバックの役目)]が状況判断し、他の選手に次の作戦を伝える。

[ダウン][シリーズ]

  攻撃側のチームには、当初4回のプレーを行う[ダウン(権利)]が与えられる。順に[ファーストダウン][セカンドダウン][サードダウン][フォースダウン]というが、この4回のダウンの間にボールを10ヤード(9.14m)以上進めると、[ファーストダウンの更新(あらためて4回の攻撃権を獲得する)]となる。もし10ヤード進めることができない場合は、攻撃権は相手チームに移り、前回のプレーの最後にボールのあった地点から相手チームの[ファーストダウン]が開始される。

この攻撃開始から、攻守交代までの一連のプレーを[シリーズまたはドライブ]と呼ぶ。

[ランプレー]

  [ランプレー]とは、[ハンドオフ(手渡し)]または[バックパス(後方へボールを投げる)]でボールを受けた選手が走って前進をする[プレー]で、比較的短い距離を確実に前進するために行う。

  この場合の[ランナー]になるのは[ランニングバック]であるが、適当なパスの受け手が見つからない場合に[クォーターバック]が自分でボールを抱えて[ランプレー]により前進する場合がある。これを特に[スクランブル]と呼ぶ。

  [ランナー]はあらかじめ決められたコース上を走るのが一般的で、[ランナー]以外の攻撃側の選手は、[ランナー]の走路確保のために、[ランナー][タックル]する守備側の選手を[ブロック]する。[ランナー]は、試合の流れの中で自分の判断で走るコースを任意に変更することもできる。

  [ランプレー][獲得距離表示]は、プレーが終了した時点で、[スクリメージライン]よりボールが最も前進した地点までの距離を現し、そこから守備側に押し戻された距離はマイナスされない。ボールが最も前進した地点から、次のプレーが再開される。

  [ランプレー]中に[ファンブル(ボールを落とす)]すると、落ちたボールは守備側と攻撃側の総ての選手が[リカバー(確保)]して前進することができる。攻撃側が[リカバー]した場合は攻撃シリーズが継続され、守備側が[リカバー]した場合には[ターンオーバ(攻守交代)]する。

  [ランプレーによるタッチダウン]は、[ランナー]が抱えたボールが[ゴールライン]を通過した瞬間に成立する。

[パスプレー]

  [パスプレー]とは前方(相手チームのエンドゾーン方向)へパスを使ったプレーの総称である。この[パスプレー]1プレーにつき1回だけ認められる。

  [パスプレー]は、空中を凄まじい回転により1直線に進むボールを、攻撃側の選手がノーバウンドで捕球したときに成立する。キャッチしたボールの位置がフィ-ルド外にあっても、捕球した選手の片足がフィールド内に着地すればパスは成立し、相手チームの[エンドゾーン]内で補給すれば[タッチダウン]となる。

  大気を回転力で切り裂いて進むボールを補給した選手が、そのボールを抱え込みさらに前進することを[ラン・アフター・キャッチ]と呼び、[パスプレー]による獲得距離はプレーが終了した地点で、[スクリメージライン]からパスを捕球してから前進獲得した距離が記録される。

  空中を突き進むボールを攻撃側の選手がキャッチに失敗して地面に落とした場合は、[パスインコンプリート]となりプレーが終了し、時計は止まる。この場合には攻撃側は前進されず、[パスプレー]前の元の[スクリメージライン]から次の[ダウン]となる。

  [センター][クォーターバック]への[スナップ]後、通常2人の[ワイルドレシーバー]は様々なプレーにより定められたコースを走る。[クォーターバック]は1歩後退して守備側の状況をおしはかり、捕球確立の高い方の[ワイルドレシーバー]に向けてパスを投じる。

  [クォーターバック]の適切なスピードと適切な距離と適切なタイミングでのパスが[ワイルドレシーバー]の類稀なる捕球技量とによりパスプレーは成功するが、成功の確率は低い。攻撃側の周囲の選手は、[クォーターバック]が正確なパスを投じるまでの時間を稼ぐためと、[クォーターバック]が侵入した守備側のタックルを受けないようにするための[ブロック(防御)]にあたる。特にオフェンスラインの選手はパスを受けることができず、また[クォーターバック]のパスする手からボールが離れるまでは[スクリメージライン]を超えることができないので、[クォーターバック]を護るのに専念することになる。

  パスされたボールが守備側の選手の手に捕球されることを[インターセプト]と呼び、この瞬間から[ターンオーバー(攻守交代)]となる。捕球した選手は相手側の[エンドゾーン]に向け[リターン(前進)]することができ、[ボールデット]後に[リターン]したチームが[ファーストダウン]獲得する。当然のこととして、[リターン]した選手が[ボールデット]前に敵陣の[エンドゾーン]に駆け込めば[タッチダウン(リターン・タッチダウン)]が認められる。

[ボールデッド(プレーの終了)]

  以下の場合は[ボールデッド(プレーの終了)]となる。

  *ボールを持った選手が倒れた場合。厳密には足の裏および手のひら以外が地面に触れたとき。

  *ボールを持った選手が相手チームに取り囲まれ、それ以上前進できないと審判が判断したとき。

  *ボールを持った選手がサイドラインの外に出た[アウト・オブ・バウンズ]とき。

[パスインコンプリート(パスの不成功)]

[タッチバック]

  [タッチバック]とは、パスの不成功の時と得点の時を除き、ボールが守備側ゴールラインを超えて[ボールデット]となることで、[タッチバック]が成立すると守備側の20ヤードラインから守備側の[ファーストダウン]が獲得される。

[タッチバック]には次の場合が当てはまる。

  [パント(攻撃側のボールを地面に設置させないで蹴ること)]または[フリーキック]のボールが、レシーブ側の選手に触れずにゴールラインを超える。

  *捕球した選手がエンドゾーンでタックルを受ける。

  [ニーダウン(ボールを持った選手が意図的に膝を付き、ボールデットすること)]する。

  *ゴールライン後方で[アウト・オブ・バウンズ]となる。

*攻撃側が[ファンブル]した」ボールが、守備側が触れることなく守備側のゴールを超え

て、守備側の選手が[リカバー]して[ボールデッド]となる。または[アウト・オブ・バウンズ]となる。

  [インターセプト]したプレーヤーが、守備側の[ボールライン]手前で[ボールデッド]となる。

[パント]

  [パント]とは、攻撃側がボールを地面に接地させないでボールを蹴ることで、攻撃権を失う代わりにボールを大きく前進させることができる。[フォースダウン]で、ゴールまでの距離が遠い場合には、相手の攻撃をできるだけ不利な位置(自陣エンドゾーンから離れたところ)から開始させるために、通常は[パント]する。

  [パント]する場合、[スクリメージライン]上に[ロングスナッパー]と呼ばれる選手を、また、後方約14ヤードに[パンター]と呼ばれる選手が配置される。[パンター]を守るために数ヤード前に選手の一人を配置し、残された他の選手は[ロングスナッパー]を挟んで[スクリメージライン]上に1列にセットする。

  [ロングスナッパー][パンター]にボールをスナップすることでプレーは開始され、ボールを受けた[パンター]は軽く助走しながら前方にボールを離し、地面に落ちる前に高く蹴り上げる。

  蹴られて空中に舞い上がるボールをレシーブ側の選手が受けた場合、その選手はボールを持って[リターン(前進)]することができ、リターン終了地点で[ファーストダウン]を獲得する。当然のことに、リターンの結果に相手チームのエンドゾーンに達すればタッチダウン(パントリターン・タッチダウン)となる。

  パントのボールにレシーブ側が触れなかった場合はボールが止まった地点か、[アウト・オブ・バウンズ]地点でレシーブ側の[ファーストダウン]が獲得される。また、パント側チームの選手がボールに触れた場合は、触れた地点でレシーブ側の[ファーストダウン]が獲得される。

  [パンター]以外のパンター側選手は、パントに必要な時間を確保するためにレシーブ側選手の侵入を防ぎ、パント後はレシーブ側のタックルに向う。

  [リターン]の距離を少しでも短く抑えるには、できるだけ早くレシーブ側の選手に近づかなくてはならない。そのためには、パントは遠くにまで飛ばすだけではなく、できるだけ滞空時間(ハングタイム)を伸ばすために高く蹴り上げる必要がある。

[4th(フォース)ダウン・ギャンブル]

  [4thダウン・ギャンブル]とは、4thダウンで[パント][フィールドゴール]しないで、[ランプレー][パスプレー]で次の[ファーストダウン]の獲得を目指すギャンブル性の高いプレーを云う。

  [4thダウン・ギャンブル]の結果にファーストダウンを獲得すれば攻撃権を継続できるが、失敗した場合はボールデット地点で相手側のファーストダウンを獲得すためリスクは高い。

  [4thダウン・ギャンブル]を選択する状況は、ファーストダウンまでの獲得距離が残り少なく、フィールドゴールの得点やパントでは満足できない場合である。通常は、敵陣に入ってから[4thダウン・ギャンブル]を選択する。

[ダウン&ディスタンス][チェーン]

  攻撃側の状況は[ダウン&ディスタンス(ダウン数とファーストダウン獲得に必要な前進距離)]で表す。つまり、ファーストダウンを獲得した時点では[1st&10(ファーストダウン・テン)]と表示され、「現在ファーストダウンで、次のファーストダウン獲得までの残り距離は10ヤード」という意味となる。

[2nd5(セカンドダウン・ファイブ)]は「セカンドダウンで残り5ヤード」となり、[3rd3(サードダウン・スリー)]は「サードダウンで残り3ヤード」ということになる。

[攻守交替]

  以下の場合に攻守交替になる。

  [ターンオーバー(ファーストダウンに失敗したとき)]。これは、フォースダウンが終わった段階で10ヤード前進ができなかったか、シリーズ中に[ファンブル・インターセフト]が発生し、守備側がボールを確保してプレーを終了したとき。

  [フィールドゴール]に失敗したとき。

  [パント]をして、レシーブ側がボールを確保したとき。

  [タッチダウン]の後の[ポイントアフタータッチダウン]のプレーが終了したときと、フィールドゴールで得点したときの次のプレーは、得点したチームのフリーキックとなるために事実上は攻守交替となる。

[得点の方法]

[タッチダウン(敵陣エンドゾーンまでボールを運ぶこと)]の得点は6点。

(イ)自軍の選手がボールを持って敵陣のエンドゾーンに入る。

  (ロ)敵陣エンドゾーン内で味方からのパスを捕球する。

   *タッチダウン後には[ポイントアフタータッチダウン]という攻撃権が与えられる。

  [フィールドゴール]の得点は3点。

  *スナップ後のボールを地面に置きキックし、敵陣ゴールポストの間のクロスバー上方を通すこと。

  *スナップ直後にボールを前方に落とし、地面に付いた後にキック(ドロップキック)して敵陣ゴールポスト間を通す。

  [フィールドゴール]を狙うプレーには、[スクリメージライン]上に[ロングスナッパー]と呼ぶ選手を配し、後方7ヤードに[ホルダー]と呼ばれる選手、さらにその後方うに[キッカー]を配し、その他の選手は[ロングスナッパー]を挟んで[スクリメージライン]上に一列にセットする。

  *プレーは[ロングスナッパー][ホルダー]にボールをスナップすることで開始され、ホルダーは受けたボールを素早く蹴りやすいようにボールを立てて支える。スナップと同時に助走をはじめた[キッカー]は敵陣ゴールポストめがけて思い切り蹴り上げ、ゴールポストを通過すれば3点が加算される。

  *他の選手は[スクリメージライン]付近でブロックし[ホルダー][キッカー]を保護し、キックまでの時間を稼ぐ。プロは、40ヤード以内の[フィールドゴール]はほとんど成功するようだ。[フィールドゴール]が失敗に終わった場合には、相手側の攻撃にかわる。

  [トライ]とは、[タッチダウン]の後に、敵陣ゴール前2ヤード地点から1回だけの攻撃権が与えられ、その結果[タッチダウン]なら2点、[フィールドゴール][セイフティ]1点か加算される。

  [セイフティ]は守備側に得点(2点)が入る特殊ケースで、攻撃側が自陣ゴールラインの後方で[ボールデッド]となる。次の場合が[セイフティ]に当てはまる。なお、[セイフティ]後は得点を与えた側による自陣20ヤード地点からのフリーキックとなるために、攻撃権も相手側に移ることになる。

  *ボールを持つ攻撃側選手が、自陣エンドゾーン内で守備側のタックル等で倒れる。

  *ボールを持つ攻撃側選手が、自陣のゴールライン後方から[アウト・オブ・バウンズ]に出る。

  *攻撃側が[ファンブル]したボールが、自陣ゴールライン後方から[アウト・オブ・バウンズ]に出る。スナップを取り損なってエンドラインを割ってしまった場合や、パントがブロックされてボールがエンドラインを越えて転がって行った場合などを云う。

  *攻撃側が、自陣エンドゾーン内でホールディング等の特定のファウルを犯す。

  [インテンショナル・セィフティ] ボールを持った攻撃側選手がエンドゾーン内で意図的に膝をついたり倒れたりする。

[フリーキック(キックオフ)]

  [フリーキック]とは、前半後半のそれぞれの開始時と得点後の試合開始時行われるプレーをいう。キック側の選手は、自陣30ヤード上の地点から[キッキングティー(プラスチック製のボール立て)]のボールを蹴る。

  キック側選手はボールが蹴られるまではボール後方にいなければならない。

  レシーブ側選手はボールが蹴られるまでは、蹴る前のボールの位置から10ヤード以上自陣側にいなかればならない。

  ボールを敵陣に向けて蹴ることによりプレーは開始され、蹴られたボールはレシーブ側選手に捕球(レシーブ)されて、ボールを持ったままキック側陣(敵陣)に向けて走る(キックオフ・リターン)。タックル等のためにリターンが終了した時点でキックオフのプレーも終了する。勿論、レシーブ選手が敵のブロックを巧みに突破し、ボールを持ったまま敵陣エンドゾーンに到達すればタッチダウン[キックオフ・リターン・タッチダウン]となる。

  キック側の選手は、レシーブ選手が10ヤード前進するまではボールに触れてはならず、相手選手を[ブロック]してはならない。以上のような制約があるので、通常はレシーブ側のチームの攻撃となるプレーである。

[攻撃側の反則]

[オフサイド]ボールがスナップされる前に、攻撃側選手がニュートラルゾーンに侵入すること(5ヤード罰退)。

[フォルス・スタート]センターがスナップする前に、攻撃側選手が攻撃開始と同じように動くこと(5ヤード罰退)。

[イリーガル・モーション] センターがスナップする前にバックスが2人以上動くこと。またはモーションする以前に前方に動くこと(5ヤード罰退)。

[イリーガル・シフト]スクリメージメンがシフト後1秒以上静止しないこと(5ヤード罰退)。

[イリーガル・フォーメーション] スクリメージラインに6人以下の選手しかいないこと(5ヤード罰退)。

[無資格レシーバーによるダウンフィールドへの侵入]パスプレー時、エンド以外のラインメンがスクリメージラインより3ヤード以上前にでること(5ヤード罰退、さらにラインメンがパスにタッチした場合は、15ヤード罰退)

[不正なフォワードパス] スクリメージラインよりより前から投げられた前方へのパス、または一回のプレーイで二度目の前方へのパス、パントやフリーキックのリターン側による前方へのパス(5ヤード罰退)。

[ホールデン]ブロックの際に不正に手や腕を使って相手側をブロックすること(10ヤード罰退)。

[パス・インターフェアランス]ボールではなく、パスを捕ろうとする選手に対して妨害すること(15ヤード罰退)。

[インテンショナル・グランディング]サックを避けるために、故意に誰も捕れないボールを投げること(5ヤード、またはパスを投げた地点まで罰退)。

[クリッピング(腰から下を背後からブロック)、イリーガル・ブロック(背後からのブロック)、スピアリング(故意にヘルメットなどで体当たりする等の危険な行為)]不正なブロック(15ヤード罰退)。

[キックオフのアウト・オブ・バウンズ]キックオフされたボールがプレーヤーに触れられることなくサイドラインを割ること(キックオフ地点から30ヤード進んだ地点でのレシーブ側のファーストダウン)。

[守備側の反則]

[オフサイド]ボールをスナップする前に攻撃側選手に触れたり、ボールがスナップされた時点でニュートラルゾーンに侵入すること(5ヤード罰退)。

[ランニング・イントゥ・ザ・キッカー]パントを蹴り終えた直後のキッカーに接触すること(5ヤード罰退)。

[パス・インターフィアランス]ボールが投げられた後、ボールでなくパスを捕ろうとする選手に接触する(反則のあった地点からファーストダウン)。

[イリーガル・コンタクト]スクリメージ・ラインから5ヤード以上越えた地点でレシーバーに接触すること(5ヤード罰退)。

[ホールディング]ボールを待った選手以外を掴むこと。リシーバーがコース上を走れないように掴んだ場合など(5ヤード罰退とファストダウン)。

[パイリング・オン]ボールデットになった後に、攻撃側選手の上にどのような状態であろうと乗っかること(15ヤード罰退)。

[ラフィング・ザ・キッカー]キックの後でキッカーにタックルすること(15ヤード罰退)。

[ラフィング・ザ・パッサー]パスプレーにおいて、パスを投げた後の選手(必ずしもクォーターバックとは限らない)にタックルすること。合法的なタイミングであっても、必要以上の乱暴行為(ヘルメットにヘルメットで当たる。抱え込んで投げる等)があった場合(15ヤード罰退)。

[攻撃側と守備側の双方に適用される反則]

[ディレイ・オブ・ゲーム]時計開始から15秒以内にスナップを行わないこと。守備側においては大声を出してスナップカウントを邪魔したり、時計が進んでいるのにボールを抱え込む等の著しい遅延行為をする(5ヤード罰退)。

[不正なプレー参加(交替違反)]1チーム12人以上の選手がフィールド上にいること(15ヤード罰退)。

[グラスピング・ザ・フェイスマスク] フェイスマスク(ヘルメットの網の部分)を掴むこと(15ヤード罰退)。

[アンネセサリー・ラフネス]明らかにサイドライン外に出た選手にタックルする等の、必要以上に乱暴なプレー(15ヤード罰退)。

[アンスポーツマンライク・ラフネス]相手選手や審判に対しての暴言を吐く等の非紳士的行為(15ヤード罰退)。

  以上の説明では、アメリカンフットボールのルールの何パーセントも言い尽くせないが、様々なルールを書けば書くほど頭の中が混乱してくる。これらの知識の総てを会得するのには、自分自身が防具をまとってフィールド上に駆けあがる以外にはないのかもしれない。

鼻血や脳震盪にはじまり、頭蓋骨陥没、大腿部複雑骨折、頚椎及び脊髄損傷などを、一通り経験すれば、きっと、アメリカンフットボールは完全に私のものになるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アメリカンドリーム[NFL]

平成211227

  アメリカンフットボールは過酷なスポーツがある。

  フィールド内で試合をするのは11人の選手だが、体重の少ない選手でも80Km以上、とりわけ大きい選手の体重は120Kg以上にも及ぶ。これらが激突すれば骨折もするし、頚椎や脊髄の変形などは日常茶飯事の世界である。動けない選手はサッサと担架で運び出し、、それに変わる選手が補充され、延々と試合は続けられる。

  120ヤード(107.73m)のサイドラインと、53ヤード(48.78m)のエンドラインを持つ[フィールド]内で、様々な役割を持つ11人ずつの2組のチームが火花を散らす闘いをくりひろげるスポーツがアメリカンフットボールである。

  フィールドは、両端の[エンドライン]内側10ヤード(9.14m)のところに[ゴールライン]があり、この10ヤード×53ヤードの帯状の分部を[エンドゾーン]と呼び、互いに相手側のゴールラインを越えたエンドゾーン内にボールを持ち込むことにより、規定の点数が加算される仕組みになっているスポーツであるが、これがなかなか容易なことではない。

  アメリカンフットボールの歴史は、1867年にイギリスからアメリカに渡ったサッカールールのフットボールに機縁しているようである。このスポーツは、大学対抗試合の歴史の中で複数回のルール改正がなされ、1874年ごろからラグビールールの大学シリーズ戦がなされるようになったとの記述がある。その後さらなる改良がなされ、眼に涙を浮べて命乞いをする牛を殺傷してはフライパンで焼くヤンキー好みの現在のアメリカンフットボールとして大学スポーツの花形となっていった。

そして、188593日にプロフェッショナル・フットボールゲームの幕が上げられ、頚椎や脊髄損傷の歴史が始まったのだ。

  現在のアメリカではNFLを頂点として、カレッジフットボールが後につづき、各地方にはハイスクールのリーグがあり、日本やドイツを筆頭に世界中にその人気は波及している。

  アメリカでのアメリカンフットボール試合は、金曜日にハイスクールの試合、土曜日にカレッジの試合、日曜日にプロのNFLの試合が行われる。そして、その週の最も注目されるカード1試合か2試合を月曜のプライムタイムに [マンデーナイトフットボール]と呼び放映されるが、どの試合も毎回高視聴率を上げている。

現在の[NFL=ナショナル・フットボール・リーグ]とは、プロフットボール発足当時の旧NFLを母体した[NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]と、旧AFLを母体とした[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス]の2つのリーグの総称としての呼ばれているマンモス組織である。これがアメリカンフットボール最大のプロスポーツリーグで、野球のメジャーリーグやアメリカ国内のプロバスケットリーグやアイスホッケーリーグを大きくしのぐ人気を博している。

[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス][NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]ともに全アメリカを東・西・南・北の4地区に分け、AFCNFCがそれぞれの地区の、別々の都市に4チームずつ配置する形をとる。一つのカンファレンスの東・西・南・北地域で16チーム(16の都市)、もう一つのカンファレンスに16チームがあるので、合わせて32チーム(32都市)でしのぎを削る闘いが毎日曜日(月曜日に行われる試合もある)ごとに16のフィールドで展開されることになる。雨が降っても、槍が降っても、雪や霰やその他のどんなものがフィールド上に降り注ごうと試合は予定通り行われる。

毎年9月になると、2つのカンファレンス32チームともに、開幕戦に始まるレギュラーシーズンがアメリカ全土で開始される。

2つのカンファレンスともに、レギラーシーズンの試合の組合せとローテンションは以下のように進められる。

①同一カンファレンス内の同一地区内チームとホーム・アンド・アウェー(両ホームでの試合)による2試合ずつの総当りとしての6試合。

②同一カンファレンス内の決められた別地区内チームと、一試合ずつの4試合。

対戦するチームは1シーズンごとにローテーションするため、3シーズンで1周期となる。

③別カンファレンス内の決められた地区チームと、1試合ずつ総当りする4試合。

対戦する地区は1シーズンごとにローテーションするため、4シーズンで1周期となる。

④同一カンファレンス内で対戦のない2地区内による、前シーズン地区順位が同じ2チームとの1試合ずつの2試合。

*上記の試合の組合せで行くと12シーズン(12年)ごとに、対戦相手がローテーションする。

  ポストシーズンでのプレーオフ進出するのは、レギラ-シーズンの成績で2つのカンファレンスごとの地区優勝4チームと、それ以外の勝率上位2チームの計6チームとなる。

  プレーオフは、2つのカンファレンスごとに、レギラーシーズン成績によるトーナメントが組み分けられる。

①地区優勝チーム中の成績上位2チームが、2回戦にシードされる。残された4チームが1回戦(ワイルドカード・プレーオフ)を戦う。

②2回戦(ディビジョナル・プレーオフ)は、1回戦に勝ったうちの下位のチームと第1シードチームが戦い、第2シードチームと1回戦に勝った上位チームが対戦する。

  3回戦は[カンファレンス・チャンピオンシップ]と呼ばれ、カンファレンス内の優勝を決める対戦となる。

1回戦からカンファレンス・チャンピオンシップまでの試合は、レギラーシーズンでの成績のよかったチームのフランチャイズ(ホーム)で行われる。

  観衆がすずなりになっているスタジアム中心に対戦する2チームの戦士が駆け込み、そして11人ずつの2組の先発選手がフィールド内に登場する。

  試合開始直前に両チームのキャプテンと審判がフィールド中央に集まり、試合上の注意を受けたあとにセレモニーが行われる。

セレモニーとは、試合開始前にボールと陣地の所有権を決める[コインスト]のことで、[ジビター(遠征チーム)]側がコインの裏表を選択したあとに審判がコインを投げる。

コインストの勝者は、[どちらかの陣地を選択か]か、[どちらのチームがキックするか、又はレシーブするか]の、どちらかを選択できる。コインストの敗者は、この勝者が選択しなった選択権を行使できる。つまり、コインストの勝者が、先に攻撃権を得るために「自チームがレシーブする」ことを選択すると、相手チームは自動的に[キック]する側となり、さらに自チームの陣地をどちらにするかを選択できることになる。

  試合は、守備側チームは自陣30ヤード地点から、ボールを相手陣めがけて蹴る[キックオフ]により始められる。この[フリーキック]は、前半後半のそれぞれの開始時と得点後の試合開始時に行われるプレーで、キック側選手はボールが蹴られるまではボール後方にいなければならない。レシーブ側選手もまたボールが蹴られるまでは、蹴る前のボールの位置から10ヤード以上自陣側にいなかればならない。

  蹴られたボールはレシーブ側選手に捕球(レシーブ)されて、ボールを持ったままキック側陣(敵陣)に向けて走る(キックオフ・リターン)。タックル等のためにリターンが終了した時点でキックオフのプレーも終了する。勿論、レシーブ選手が敵のブロックを巧みに突破し、ボールを持ったまま敵陣エンドゾーンに到達すればタッチダウン[キックオフ・リターン・タッチダウン]となる。

  キック側の選手は、レシーブ選手が10ヤード前進するまではボールに触れてはならず、相手選手を[ブロック]してはならない。以上のような制約があるので、通常はレシーブ側のチームの攻撃となるプレーである。

  キックオフプレーの終了地点に引かれた仮想スクリメージラインを挟んで攻撃側と守備側の選手が相対し、審判の[レディー・フォー]の宣言後25秒以内にプレーを開始される。

  [スクリメージ・プレー]とは、攻撃側がフィールド内の相手側エンドゾーンに向けてボールを前進させるために行う個々のプレーの総称をいう。ボールが設置され、攻守の間にスクリメージラインが存在する状態からのプレーを指す。

  プレーは、攻撃側の[スナップ(地面に置かれたボールを、後方の味方選手に渡すこと)]により開始する。このスナップ時には、両チームの選手はスクリメージラインよりそれぞれ自陣側に位置しなければならず、そのラインを中心に攻守の選手が対向する形となる。なお、攻撃側のスナップ時には少なくとも1秒間静止しなければならない。

  攻撃側のチームには、当初4回のプレーを行う[ダウン(権利)]が与えられる。順に[ファーストダウン][セカンドダウン][サードダウン][フォースダウン]というが、この4回のダウンの間にボールを10ヤード(9.14m)以上進めると、[ファーストダウンの更新(あらためて4回の攻撃権を獲得する)]となる。もし10ヤード進めることができない場合は、攻撃権は相手チームに移り、前回のプレーの最後にボールのあった地点から相手チームの[ファーストダウン]が開始される。

 

  NFLは、[MLBメジャーリーグベースボール][NBAバスケットボール][NHLアイスホッケー]のアメリカ4大スポーツリーグのなかで最も健全な運営をする組織である。

  アメリカの経済誌[フォーブス]2004年に掲載した、4大スポーツリーグ中の各クラブチームの資産格付けランキング上位には、NFL所属32チームが33位以内に占めている(ベースボールのヤンキースが33位内にある)。

1位の[ワシントン・レッドスキン]11400万ドル、33位の[アリゾナ・カーディナルス]55200万ドルと算定されている。

  2007年の各リーグ別チーム資産価値の平均は、

NFL95700万ドル(1053億円)、

MLB43100万ドル(474億円)、

NBA(全米バスケットボール)37200万ドル(409億ドル)、

NHL(全米アイスホッケーリーグ)2億ドル(220億円)となっている。

  NFLのリーグ運営の理念は[スポーツの魅力は、最高のレベルでの戦力の均衡したチームが繰り広げる競争状態にある]で、そのために、戦力や資金力が特定のチームに偏らないための戦力均衡策が導入されている。

  [レベニュー・シェアリング]とは、プロスポーツにおける戦力均衡を保つための利益公平配分制度である。

NFLはテレビ放映権料と入場料収入の収益をリーグ全体がプールして、所属32チームに均等に配分している。この配分収入は、1チームの総収入の70%にも当たるという。

  テレビ放送権料は、レギュラーシーズンとポストシーズンの全試合の放映権交渉をNFLが一括して行っている。公式試合でない(全国放送はされない)プレシーズンだけが、各チームが個別にテレビ放映契約をできることになっている。

  入場料収入は、各試合のチケット収入の40%がリーグ全体の売り上げとしてプールされ、残りの60%がホームチームの収入になる。

  [サラリーキャップ]とは、プロスポーツにおける戦力均衡を保つために、NFL所属全チーム内の全選手の年俸総額上限金額を設ける制度である。

  FA制で移籍してくる特定選手年俸の高騰を抑制し、均等な戦力で試合することを目的に1994年設立された制度で、毎年リーグ主催者の総収入をNFL参加チーム数で割った金額が各チームのサラリーキャップとなる。一般的には最高年俸選手から数えて51人目までの選手の合算年俸が対象になり、オーバーすると罰金とドラフト指名権が剥奪される。この制度には下限も定められていて、

  [ウェーバー方式]とは、プロスポーツにおけるドラフトに用いられる制度で、選手の指名要領の規定である。

1、 シーズン終了後の成績順位を元に、最下位のチームから順に選手を指名する。

  2、指名は独占交渉獲得権を意味し、たのチームとの競合は起こらない。

  [テレビ放映権] は、レギュラーシーズンとポストシーズンの全試合の放映権交渉をNFLが一括して行っている。ただし、「試合開始72時間(3日)前までにチケットが完売されない場合、そのスタジアムから75マイル(120Km)以内のエリアでの放送をしない」という特別ルール[ブラックアウトルール]がある。

  トップクラスの選手の年捧は約14億円ぐらいだと思う。

  NFL所属各チーム参加選手の一人一人の収入はリーグが保証してくれる。

  選手は最高級のアパートに、美人の奥様と頭脳明晰に育つと予感される子供たちと共の住む。これら選手たちは毎週持ち回りで豪華なパーティーを開き、酒や料理を楽しむ。なかには吸引すると気持ちの良くなる白い粉なども持ち込み、鼻の頭につけたりして楽しむ選手もいるかも知れない。アメリカという国は、バレなければ何をしても罪にはならないのだ。

  使い切れない金は貯蓄に廻されることが多い。そして彼らは、選手引退後に、今まで住みたかった別の世界に踏み込んでいく。

彼らこそ、死と隣り合わせの過激な世界で、その過酷な労働に見合った収入を得ている一握りの男の集団なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最強の男どもの闘い[第43回スーパーボウル]

平成211219

  NFL2009年度のレギラーシーズンも明日の日曜日(12/20)が15週目となるが、AFC南地区のコルツ14戦全勝、西地区チャージスが10勝で群を抜いている。

一方のNFCは北地区のバイキングズ11勝、南地区のYセインツの13勝に絞られてきたかに見える。しかしドッコイ、プレーオフのあるNFLならでは、現在の順位は単なる参考資料で、来年2010年2月7日の第44回スーパーボウルに、どのチームが進出するかはわかったものではない。

昨年2008年度の第43回スーパーボウルは、200921日(2月の第1日曜日)フロリダ州タンパの[レイモンド・ジェームス・スタジアム]で開催された。

  2008年度NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)のレギラ-シーズンの成績で各カンファレンスの地区優勝4チームと、それ以外の勝率上位2チームの計6チームによるプレーオフを勝ち抜いてきたのは、AFC代表[ピッツバーグ・スティーラーズ]NFC代表[アリゾナ・カージナルス]だった。

  このスーパーボウルに進出できるのは、9月に始まり12月末までの日曜日のたびに、同じカンファレンス内の同地区を中心として戦う16回試合と、同カンファレンスでの優勝をきめる最低2試合のプレーオフ戦を勝ち抜かなければならない。

現在の[NFL=ナショナル・フットボール・リーグ]とは、プロフットボール発足当時の旧NFLを母体した[NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]と、旧AFLを母体とした[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス]の2つのリーグの総称としての呼び名である。これがアメリカンフットボール最大のプロリーグで、野球のメジャーリーグやアメリカ国内のプロバスケットリーグを大きくしのぐ人気を博している。

[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス][NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]ともに全アメリカを東・西・南・北の4地区に分け、AFCNFCがそれぞれの地区の、別々の都市に4チームずつ配置する形をとる。一つのカンファレンスの東・西・南・北地域で16チーム(16の都市)、もう一つのカンファレンスに16チームがあるので、合わせて32チーム(32都市)でしのぎを削る闘いが毎日曜日(月曜日に行われる試合もある)ごとに16のフィールドで展開されることになる。雨が降っても、槍が降っても、雪や霰やその他のどんなものがフィールド上に降り注ごうと試合は予定通り行われる。

毎年9月になると、2つのカンファレンス32チームともに、開幕戦に始まるレギュラーシーズンがアメリカ全土で開始される。

NFLテレビ放映権は、レギュラーシーズン、ポストシーズンともに全試合がNFLと放送局との直接契約となっている。NFLはテレビ放映に関して、試合開始前72時間(3日)前までにチケットが完売されない場合、その試合の行われる75マイル(120Km)以内の地域での試合放映・放送はしない[ブラックアウトルール]が適用される。これは、ファンに取っては情け容赦なく、NFL側に取ってはヒジョーニ魅力的なルールではある。

2つのカンファレンスともに、レギラーシーズンの試合の組合せとローテンションは以下のようになる。

①同一カンファレンス内の同一地区内チームとホーム・アンド・アウェー(両ホームでの試合)による2試合ずつの総当りとしての6試合。

②同一カンファレンス内の決められた別地区内チームと、一試合ずつの4試合。

対戦するチームは1シーズンごとにローテーションするため、3シーズンで1周期となる。

③別カンファレンス内の決められた地区チームと、1試合ずつ総当りする4試合。

対戦する地区は1シーズンごとにローテーションするため、4シーズンで1周期となる。

④同一カンファレンス内で対戦のない2地区内による、前シーズン地区順位が同じ2チームとの1試合ずつの2試合。

*上記の試合の組合せで行くと12シーズン(12年)ごとに、対戦相手がローテーションする。

  ポストシーズンでのプレーオフ進出するのは、レギラ-シーズンの成績で2つのカンファレンスごとの地区優勝4チームと、それ以外の勝率上位2チームの計6チームとなる。

  プレーオフは、2つのカンファレンスごとに、レギラーシーズン成績によるトーナメントが組み分けられる。

①地区優勝チーム中の成績上位2チームが、2回戦にシードされる。残された4チームが1回戦(ワイルドカード・プレーオフ)を戦う。

②2回戦(ディビジョナル・プレーオフ)は、1回戦に勝ったうちの下位のチームと第一シードチームが戦い、第二シードチームと1回戦に勝った上位チームが対戦する。

  3回戦は[カンファレンス・チャンピオンシップ]と呼ばれ、カンファレンス内の優勝を決める対戦となる。

1回戦からカンファレンス・チャンピオンシップまでの試合は、レギラーシーズンでの成績のよかったチームのフランチャイズ(ホーム)で行われる。それ故に、チームに取りホームで戦うメリットは大きく、そのためにもレギラーシーズンの成績が最も重要になってくる。

  AFCNFCの優勝者が激突し、全米王者を決定するのが[スーパーボウル]である。

[スーパーボウル]は、毎年2月の第1日曜日に開催される。

  試合(スーパーボウル)は、全米はもとより世界各地で中継放送され、毎回米国テレビ放映では年間最高の視聴率をあげることになる。

  スーパーボウルの試合会場は、オーナー会議により数年先まで決められていて、そのスタジアムのある都市には、試合当日一週間前あたりからマスコミ、チーム関係者、そして数少ない確立でチケットを手に入れた幸運な観客が押し寄せてくる。

  スーパーボウル会場選定の要件は、

  ①収容人員6万人以上のスタジアムであること。

②温暖で雪の心配のないこと。あるいは屋根つきのスタジアムであること。

  ③スタジアムに押し寄せてくる観客を収容できる宿泊施設と、その移動に支障をきたさない交通施設が整っていること、等々である。

  NFLレギラーシーズンチケット入手も簡単ではないだけに、独特な方法で販売されるスーパーボウルのチケット入手は至難の業なのである。

チケットは一般に販売されることなく、

約6万席の約20%ずつをその年のスーパーボウルで対戦するそれぞれのチームへ、

開催するスタジアムのある州に所属する全チームに合わせて10%程度、

所属する全チーム1%ずつ(30%)、

残りをNFLの取引先、代理店、スポンサーに販売する。

配分を受けたチームもまた一般には販売せず、スポンサーやシーズンチケットを持つファンに優先販売する。

このようにチケット入手確立の低い販売法であるため、比較的な裕福層の特権「お金はいくらでも出す!」を持ってしても手に入りにくいチケットでもある。そのために、この1枚のチケットと、超高級仕様のクルザーやヨットや別荘の使用権との交換を申し出る人が後を絶たないという。

  2008年度 NFCのアリゾナ・カージナルスのレギラーシーズン成績は97敗だったが、同カンファレンス所属チームの実力伯仲が幸運を呼び、この成績でも西地区優勝をはたすことができた。

そして、その後のプレ-オフで、

アトランタ・ファルコンズ戦を30-14

カロライナ・パンサーズ戦を33-13

フィラデルフィア・イーグルス戦を32-25で制し、スーパーボウル進出を果たしたのだった。

  レギラーシーズン成績97敗のチームがスーパーボウルまで駒を進めたのは、パサディナ(毎年元旦のカレッジリーグ決勝戦のローズボールが行われるロサンゼルス北東部にある)での第14回(1980年)スーパーボウル出場のロサンゼルス・ライムズ以来19年ぶりの快挙であった。

アリゾナ・カージナルスの躍進の要因の1つは、QBカート・ワーナー(37歳)の活躍が大きかった。

彼は、パス獲得ヤード4,583ヤード、30タッチダウンで、インターセプト(パスの中間で相手に奪われること)はわずか14回という驚異的な数字をもって、QBレイティング(パス成功率・パス平均距離・TD率・披インターセプト率を定式で数値化したもの)はNFCトップの96.9であった。

  その他に特に目立ったアリゾナ・カージナルスの選手は、

ラリー・フィッツジェランド(96回キャッチ・1,431ヤード獲得・12タッチダウン)、

アンクワン・ポールディン(89回キャッチ・1,038ヤード獲得・11タッチダウン)、

スティーブン・プレストン(77回キャッチ・1,006ヤード獲得・3タッチダウン・パント/キックオフリターン900ヤード獲得)で、

ベテラン選手の燻し銀のような地道な活躍もあり、オヘェンス陣はリーグ4位にあたる1試合平均365.8ヤード獲得、リーグ3位の422得点をあげたのだった。

  ディフェンス陣は数多くの失点を相手チームに贈ったが、

ラインマンのバートランド・ベリーは5サック(相手QBにタックルし攻撃開始位置より相手チーム側で止めること)、2ファンブルフォース(相手選手が持つボールをその身体から離すことだと思うのだが・・?)、

ラインバッカーのカルロス・ダンスビーは4サック、2ファンブルフォース、またチーム最高の119タックルという素晴らしい数字をシッカリと残していた。

  2008年ピッツバーグ・スティーラーズのレギラーシーズン成績は124敗で、AFC2シードとしてプレーオフ進出をはたし、その後の7回目のスーパーボウル出場を目指した。

  スティーラーズのディフェンス陣は、相手チームに1試合平均13.9点・237.2ヤードしか許さず、51サックを相手QBからもぎ取った。

ディフェンスラインのアーロン・スミスは6サック、60タックル、

ディフェンスプレイヤー・オブザーイヤーに選出されたジェームス・ハリソンにいたっては4サック、133タックルを上げている。

  また、オヘェンス陣のQBベン・ロスリスバーガーが3,301ヤード、17TD15インターセプト(相手選手のパスを奪うこと)の成績でチームの要となり、

パスターゲットであるハインズ・フォードは1,000ヤード以上のレシーブ、81キャッチ1043ヤード、7TDをあげた。

  プレーオフでのスティーラーズは、

サンディエゴ・チャージャーズ戦には37-24で勝ち、

ボルチモア・レイブンズ戦では23-14で勝ち、

NFL史上最多の7回目のスーパーボウル進出を果たした。

  AFC代表[ピッツバーグ・スティーラーズ]NFC代表[アリゾナ・カージナルス]は、2009126日にタンパ入りした。

ラスベガスのブックメーカー(なんでもカンでも賭けの対象にしたがる男どものために、スポーツ・経済・芸能ゴシップとなんでもカンでも賭けの対象として扱う胴元)は、スティーラーズ6.5ポイント有利のオッズあげた。

  ホームチームとなったカージナルスが赤のジャージ、スティーラーズが白ジャージ着用で試合すること等が決められた。

  43回スーパーボウルは200921日(2月の第1日曜日)に、フロリダ州タンパの[レイモンド・ジェームス・スタジアム]で開催された。

  試合前のセレモニーは[ジェニファー・ハドソン]の国歌[星条旗]独唱により始められた。

このジェニファー・ハドソンはアフリカ系アメリカンの歌手で、2006年の[ドリームガールズ]ではアカデミー賞助演女優賞でオスカーを胸に抱いた女優でもある。同映画で主演したシンガーソングライターで[最も優雅で、最もホットな女性]ジョンセ・ノウルズを完全に喰ってしまった女性としても名高い。

  セレモニーでの恒例のファンサ-ビスの一つに、過去のスーパーボウル優勝チーム元選手のコインストがある。

この大会では[1982年第23回の優勝サンフランシスコ・フォーティナイナズのロジャー・クレーグ][1999年第33回の優勝デンバー・ブロンコスのジョン・エルウェイ]らがコインストを行った。

  試合は、第2クォーターにジェームス・ハリソンがスーパーボウル史上最長の100ヤードインターセプトリターンタッチダウンをド派手に決めるなどして、スティーラーズが前半を17-7でリードした。

  前半戦終了後には恒例のハーフタイムショーが準備されている。ショーは東京に本社のあるタイヤメーカー[ブリヂストン]提供の、アメリカを代表するロックン・ローラー[ブルース・スプリングスティーン]のミニコンサートであった。Eストリート・バンドと一緒に登場したスプリングスティーンは、12分間に[凍てついた十番外][明日なき暴走][グローリ・デイズ][ワーキング・オン・ア・ドリーム(新曲)]を歌った。と書いたが、私はこれらの歌を聴いたこともないし、ブルース・スプリングスティーンの名もはじめて聞いた。何か空しい。

カィーデナルスは一時7-20と引き離されながらも驚異的な巻き返しをはかった。しかし、スティーラーズはベン・ロスリスバーガーからのパスに、サントニオ・ホームズがエンドゾーン右コーナーぎりぎりで跳びついてのキャッチによるタッチダウンを成功させた。残り時間は35秒だった。点差27-23のピッツバーグ・スティーラーズ6回目の優勝であった。

  43回スーパーボウルMVPに輝いたのは、決勝のタッチダウンレシーブを含めて9本のレシーブ、131ヤード獲得のサントニオ・ホームズだった。

  宝石店テファニーで造られたヴィンス・ロンバルディー・トロフィーは、第28回スーパーボウルでコインストを行った[1969年第3回優勝ニューヨーク・ジェッツのジョー・ネイマス]の手によってピッツバーグ・スティーラーズに渡された。

  優勝チームの選手とコーチ陣の全員に[スーパーボウル・リング]が与えられた。この指輪を持つことがNFL選手の最高の名誉なのである。

  43回スーパーボウルのテレビ中継はNBSが放映権を取得して、その試合の全容は全世界に流された。実況はアル・マイケルズ(エミー賞スポーツ実況部門を6回受賞したアナウンサー)、解説はジョン・マッデン(2006年、プロフットボール殿堂入りしたアメリカンフットボールの元指導者で現解説者)が担当した。

  全米視聴率は42.1%、推定視聴者数は約9540万人と推定される。

  [スーパーボウル]の命名は、AFLの創始者でAFL所属のカンザスシティ・チーフスのオーナーでもあった石油王の[ラマー・ハント(1932年~2006年)]が、自分の子供が児童用玩具[スーパーボール]で遊んでいるのを観て、思い付いた名だといわれている。

他愛のない発想からの命名ではあるが、来年2月の第一日曜日にマイアミで行われる第44回スーパーボウルでは、また男たちの誇りと友情をかけての試合が展開される。

そして、興奮した高血圧症のジイサマたちの何人かは、休日当番病院に担ぎ込まれるのだ。その中には、毎年のスーパーボウルの観覧席をズ~ット上の方に確保する人もいるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

球場から野村克也のボヤキ声が聞こえる

平成211129

  2009年(平成21年)の秋ほど東北地方野球ファンを喜ばせたことはなかった。

仙台市[クリネックスタンド宮城]をホームグランドとする[楽天ゴールデンイーグルス]がパシフィックス・リーグの雄を決定するクライマックスシリーズに進出したからである。

  レギラーシーズン2位の楽天はソフトバンクとの第一ステージに2連勝し、日本ハムの待つ第二ステージに駒を進めた。日本ハムとの対戦は14敗で日本シリーズ進出は果たせなかったが、2004年(平成16年)のシーズンオフに設立された新球団の5シーズン目にして手にした銀色の輝く大きな星であった。

  2005年(平成17年)シーズンの楽天は、プロ野球始まって以来のワースト記録39971分けを打ち立てた田尾安志監督であった。新球団1年目のチームの大敗を記した楽天の田尾監督のために一言添えておくが、「このシーズンのチーム事情では100敗は免れまい」と野球有識者が考ていたチームであった。東北地方の野球ファンを別とした一般の人たちが、この事情を理解したとは思えないので、田尾退陣を悲しい思いで見送ったことが思い出される。田尾安志氏は一言の言い訳をもせず消えていったのだから、なおさらである。

その後を受けて、このチームを引き受けたのが野村克也であった。

  新監督野村克也の2006年(平成18年)シーズンの楽天の成績は、47854分の2年連続の最下位に終わった。

2007年(平成19年)シーズンは67752分で最下位脱出の5位。

2008年(平成20年)シーズンは65763分で最後の試合に勝っての最下位脱出での5位で、野村監督の育成した選手が日に日に力をつけてきていた時期でもあった。

そして、この2009年(平成21年)シーズンは77661分で2位に浮上し、クライマックスシリーズに進出したのだった。

野村監督は素質のある人間を見つけ出しては、それを磨き上げる。また、少しの素質しか無い人間の良質分部を増殖して、それを最大限に引き出す名人である。人は不機嫌な顔を横に向けグジグジとボヤいてばかりいる暗い人間と誤解しているが、その考えの一部は正解である。彼の陰気さは深い本質分部から湧き上がるもので、それゆいに陰と日向を通してボヤき続ける人間である。ただし、ボヤきながら絶えず野球のことを考えているからこそ、彼の後ろにはゾロゾロと輝かしい記録がやかましいくらいの音を立てて引き摺られてくるのだ。

  野村克也は1935年(昭和10年)629日に京都府に生れている。幼いころからラジオから流れる読売巨人軍の出る野球中継を聞きながら育ち、他の大多数の少年と同じく巨人軍のファンであった。

  野村家の家業は食料品店であった。周囲に裕福な家が連なる地域の中で、野村家だけが例外的に貧しかった。貧しさは、子供に劣等感を植え付けるのにはもってこいの状況をつくる。3歳の時に父を亡くし、病弱の母を助けるために小学1年生から兄とともに新聞配達をして一家の経営に参加していた。中学2年に野球部に入り、兄の強い勧めで峰山高等学校に進み野球を続けた。しかし、この野球部はことのほか弱く、野村克也自身もプロ野球、社会人野球、大学野球からお呼びがかかるような選手ではなかった。

  1954年(昭和29年)19歳の野村克也は、自主的に南海のテスト生としての入団試験に臨む。このテストには落ちたが、キャンプ前に合格者の一人が入団辞退をしたため、繰り上げ入団した。そんなわけで、当然のように契約金は一銭も出なかった。

  鶴岡一人監督の南海は、毎年優勝争いに絡んでいるチームだった。野村克也のプロ初打席は代打での三振で、このシーズン9試合出場するも11打席無安打であった。当然のことに、シーズンオフに戦力外通告をされた。クビということであったが、野村の運の付き始めは、秋季キャンプ中に正捕手が交通事故を起して病院へ担ぎ込まれたことだった。2番手捕手のトレードは決定済みで、3番手捕手も怪我をするという、嘘のような事態が重なった。このような捕手不足をチャンスと思い「残してくれなければ、親会社の南海電鉄の電車に飛び込み自殺する」とまでいった。まんざら嘘とも重いない野村青年の気迫に圧倒された担当マネジャーには「残ってもお前の活躍する機会はないのだぞ!今なら間に合うから、頼むから別の人生を選べ!俺の目は確かだ!」と、自信をもっていわれる始末。それでも野村は、当時の大らかな野球界に喰らえ付いた。

  野村は肩が弱く、プロとしての捕手には適していなかったために1塁手に廻された。1塁手には球界でもこの人ありの選手がいるので、当分そのポジションは空かないはずである。一塁手としてのレギュラーは無理という結論に至り、野村は人知れず己の弱点である肩の強化に努めた。寝る間を惜しんで握力、筋力のトレーニングを積んだことが認められ、2年目の秋季キャンプで捕手として再コンバートされた。そして、3年目の1956年(昭和31年)シーズン晴れて1軍正捕手に抜擢された。現在の野村克也からは思いも及ばないが、当時の野村青年の眼から一筋の涙が流れた。

  1940年(昭和15年)代のメジャーリーグのレッドソックスに、打率4割を打ったテッド・ウィリアムスとうとんでもない男がいた。彼は優れた体力と視力の他に驚異的な記憶力の持ち主で、その日の試合での相手投手のボールのコースと球種とスピードのことごとくを憶えていて、この総てをノートに記録していたという。引退後には当然のように殿堂入りし、引退後に書かれた著書に[バッティングの科学]がある。この中に「投手は投げる前に球種を決めていて、球種により身体の動きが微妙に変化をする」という部分があった。

野村克也は[バッティングの科学]を手にし、相手投手のクセを徹底的に頭の中に記録することにより、高打率をキープすることができたという。野村もまた、抜群の記憶力を備えていたのだった。

  野村克也は、1957年(昭和32年)並いるパリーグのスラッガー(毎日の山内和弘・西鉄の中西太等)を抑えて本塁打王に輝き、以降毎年打撃のタイトルに絡むようになる。

南海は1959年(昭和34年)、1961年(昭和36年)、1964年(昭和39年)、1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)にリーグ優勝を果たし、このうち1959年(昭和34年)、1964年(昭和39年)には日本一になっている。この南海ホークスの黄金時代を築いた一人が野村克也であった。

  当時の賑やかな野村の個人タイトルは以下の通りである。

  1962年(昭和37年)、パ・リーグ本塁打シーズン記録44本。

  1963年(昭和38年)、プロ野球本塁打シーズン記録52本。(翌年の1964年、王の55本で更新された)

  1965年(昭和40年)はパ・リーグ三冠王(戦後はじめて)とパ・リーグ8年連続本塁打王。

  けれども、セ・リーグで華々しい活躍をしていた王や長島の陰に隠れてしまい、世間一般の話題にのぼる機会は少なかった。

  1975年(昭和50年)513日、野村克也が史上初の通算2500本安打を達成したときの球場観客数は約6000人で、拍手をしたのが10人で、そのうちの5人は野村が入場券を郵送したためにいやいや球場に足を運んだ親類筋の人だった。

  この試合後に野村は「王や長嶋が太陽の下のヒマワリなら、私は、ひっそりと日本海の浜辺の月の下に咲く月見草だ」と記者たちにコメントした。この名言には、記者たちもシッカリと乗せられた。翌朝のスポーツ紙は勿論、5大新聞(読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・聖教新聞だったかな?)のスポーツ欄にまでこのコメントが載せられた。しかし、この新聞報道の規模は、後年、野村沙知代夫人経営企業の所得隠しが表面化しての逮捕報道には、遠く及ばなかった。

  捕手としての役目は、打者がどのような球種を望んでいるかの心理を読み、自軍投手に打者の予想しない球種を要求し、打者の読みをいかに覆すかだろう。それには、刻々と変化する自軍投手のエネルギー残量を推し量り、弱気になりがちな投手の心理状況を知り絶えず自信を高揚するサインを発信することも捕手としてのもう一つの役目だ。反対に、投手の根拠の薄い自信過剰を沈静させるための説得術も捕手には必要な資質である。

  捕手としての野村克也が考え出したものに、バッターボックスに立つ打者にささやきかけることで、打者の集中力をかき乱すという作戦がある。

当初は「次の球は頭に来るぞ~」などとの脅迫まがいのものだったが、あまりしつこい脅迫の対抗手段として、相手チーム監督が打席にいる野村の身体に故意にぶつける投球を指示したため死の危険を察知したのか、相手チーム選手のプライバシーに関するささやきにトーンを落とした野村だった。

  野村のささやき戦術が通じない選手もいた。張本勲選手は、ささやきのお返しに空振りと見せかけて野村の防具をつけた頭をバッターで思い切り殴った。長嶋茂雄選手にいたっては野村の言葉を好意のアドバイスと受け取り、ささやきの直後に豪快なホームランをブチカマした。打席に立った瞬間から、廻りの騒音が一切耳に入らなくなる王貞治選手には、最初から声をかけなかった。

  1970年(昭和45年)に、野村克也はフロントから監督と選手を兼任する[プレイング・マネージャー]を仰せつかる。野村が極最近に打ち明けた話の中で「当時は5億円貰っていた」といったそうだ。果たして本当かどうかはわからないが、それが本当だとすると、今から約40年前の野村は涼しい顔をして5億円を受け取ったことになる。理由のイカンにかかわらず、許せないように私は思う。

1969年(昭和44年)に最下位だったチームの監督を1970年に引き受けて、1973年(昭和48年)にはリーグ優勝を果たしているのだから、その高額年俸も頷けるものなのかも知れない。また、選手としての野村も、39厘の打率、28本塁打、96打点でMVPに撰ばれているので、南海としてはダシスギという認識はなかったのだろう。まあ、人の金の勘定ほど馬鹿馬鹿しいこともないわけだ。

  監督野村勝也が野球界に残した発明の一つに[クイック投法]がある。

  阪急ブレーブスの外野手の福本豊は、今から22年前の1988年(昭和63年)に引退したのにもかかわらず、今でも[史上最強の一番打者][世界の盗塁王]の異名を持つ選手だった。

  現役通算2543安打、208本塁打、1065盗塁、115三塁打を記録した福本豊は、1970代の阪急黄金時代の主力選手として活躍していた。この福本豊の盗塁対策として、野村克也が編み出したのが[クイック投法]である。投手の投球動作を最小にして素早く投球することのより盗塁を防ごうというものである。

  当時の野村の持論に[盗塁阻止3秒説]なるものがあった。

「投手がモーションに入って捕手ミットに到達するのに1.1秒、捕手が二塁送球して走者にタッチするのに1.8秒の合計3秒なら盗塁した福本を刺すことができる」というものだった。

1973年にクイックモーションを多用した南海はリーグ優勝をはたし、この技術は次第に他のチームにも広がる。その後に[スライドステップ]と呼ばれて、メジャーリーグにも取り入れられた。野村は他にも福本盗塁対策のために「福本の足にボールを当てろ!」を含めて様々なことを考案したが、福本はその上の対策を立てたために、やがて通用しなくなった。

  1977年(昭和52年)928日に野村克也は南海ホークス監督を解任された。シーズン終了まで2試合を残して、リーグ成績2位の時点の出来事だった。

理由は、後に野村夫人になる沙知代の公私を混同してのチーム干渉を、野村本人が止めることができなかったことだった。この沙知代の人間を犬と思うような行為のおかげで、日本中の夫婦喧嘩が一時停戦となった。世の御主人方が自分の喧嘩相手の夫人を「少なくともあの女よりは増しだ」と思ったためだった。

  多くの友人と、多くの敵に球界引退を進言された野村克也だったが、1978年に以前から声がかかっていたロッテに選手として移籍した。ロッテ金田監督の下での1シーズン終了後に自由契約になった野村だったが、ロッテフロントから極秘に監督要請されるも辞退する。金田に対する遠慮からだった。

  1979年(昭和54年)に西部に移籍し、マスクをかぶる。1980年シーズンは控えに廻ることが多かったが、全パ西本監督の推薦で通算22回目のオールスターゲームに出場した。

  1980年(昭和55年)81日、前代未踏の3000試合出場を果たし、同年1115日に選手引退を表明する。引退を決意したのは、1980928日の阪急戦だったという。

自分の打順にプロ入り始て代打を送られた時だという。正確には「その代打要員の失策を念じたことにある」と後日語った。チームの一員である者が、勝利を目指すチームと反対のことを考えたことに恥じての引退決意だった。

実労26年間、以前彼が育てた心ない相手チーム選手から「年寄りは引っ込め!」などと罵声を浴びることもあった45歳での引退であった。

  野村のための引退セレモニーは、西部全選手が1塁と3塁間に横1列に並び、ピッチャーマウンド上のマイクで一つの短い言葉を野村克也に贈った後で、チャッチャーズボックスで野村が構えるミットへ感謝を込めて投球するものだった。

  1981年(昭和56年)から1989年(平成元年)までテレビでの野球解説では、 [ノムラスコープ]を操りバッテリと打者との駆け引きを説明した。これは、次に投球される球種とコースを予測して、打席の選手が振るバッターに当たればどの方向に飛ぶかまで予測するものだった。それが良く当たるので、視聴者は度肝を抜かれた。

  ヤクルト球団社長の相馬和夫氏が野村克也の野球解説を観ていた。野村は1989年(平成元年)ヤクルト監督就任を要請された。南海の監督としての地位を剥奪されて以来、解説者として冷静に野球を観て考えていたことを実戦で試したいとの思いの野村は、即時に承諾した。

  野村が監督に就任した当時のヤクルトには、野球的素質とそのセンスに恵まれた選手が大勢いた。この人気選手の多い明るいチームカラーのヤクルトは、その仲良しクラブ的甘さから、長年にわたりBクラスに停滞していたのだ。こうした中での野村の監督就任は、必ずしも内外の人々から歓迎されたわけではなかった。仲良しクラブを動かす暗い性格の監督を危惧していたのである。

  1990年(平成2年)野村は、日頃のデーターを重視する[ID野球]という理論を引っ下げてチーム改革に着手する。過去に打者として輝かしい成績を残した野村の打撃指導は、 元々素質のある選手の身体に吸収されて、個々のアベレージは徐々に上っていった。

野村は、ドラフト2位で入団した古田敦也をレギュラー抜擢し、正捕手だった秦真司を外野手へ、控え捕手の飯田哲也を二塁手にコンバートするという思い切った手を打った。しかし、1年目のシーズンには花開かず、5位に終わった。

  1991年(平成3年)のシーズンには、若手の躍進があり、Aクラスの3位まで登った。

  1992年(平成4年)のシーズンは、投打がかみ合った理想の展開で混戦を制してのリーグ優勝。7戦まで戦った日本シリーズは惜しくも西部に敗れた。

  1993年(平成5年)のシーズンもまたリーグ優勝。こんどは西部との日本シリーズを、ものにした。

  1994年は4位で、1995年(平成7年)にはリーグ優勝、オリックスとの日本シリーズでは、イチローを封じ込めることで日本一となる。

その後の1996年は4位、1997年は日本一、1998年は4位と、ヤクルト監督の野村克弥は、勝つことだけでなく負けることも知っていた名将だった。

  1999年、ヤクルト監督辞任直後に阪神監督に付く。この電撃就任には阪神球団内部は動揺する。ヤクルト球団も、隠すことなく非難を浴びせた。

  過去14年低迷を続けてきた阪神は、野村の携えてきた[ID野球]により69日に単独首位に立った。最後には中日に優勝を奪われるが、めざましい躍進であった。

こんな時に野村の100万円の純金像が発売されて、関西の落語家月亭八方が最初に購入した。月亭八方は、あるスポーツ紙のファン投票の[監督にしたい人物]に名前が挙がるほどの狂的な阪神ファンである。

  阪神チームの投手力不足から、新庄剛志外野手を投手兼任にする案や、遠山投手と葛西投手をスイッチさせ、どちらかが1塁を守り、ある時期に抑えにあがってもらう案などで、一応、話題にはなった。その後にも苦し紛れのアイデアを出して話題をさらったが、3年目の2001年(平成13年)もまた最下位。おまけに、野村沙智代夫人が脱税容疑で逮捕され、辞任せざるを得なくなる。

3年間最下位での阪神監督の野村克也を評し、「ヤクルト時代は、単によい選手がいたから優勝できたのであって、本当は理屈ばかりの実力ゼロの監督だ。自分のカカァーの管理もできずに、何が[ID野球]だ!オオバカが!」などとささやかれた。(注)この最後の2行の台詞は、野村ファンである私(匿名希望)が付け足したものである。

  実際のところ、この3年連続最下位は野村克也だけが悪いわけではなかった。野村が何度欠点を指摘しても「我が道を行くだけ・・・」の阪神の主力選手。何かと陰から選手を煽る、暗い野村と同じぐらい暗い岡田二軍監督の存在。ダッグアウトまで平気でノコノコ入ってきて、頼みもしないのに選手にアドバイスしたがる、10年前に引退したはずのOB達の存在。どう見ても、現代野球においては役に立たない選手を優遇する、仏の心を持つフロント内部の連中が、自由気ままにあらゆる事を発言した。

  野村克也は阪神監督就任以来、戦力補強の必要性をフロントに進言し続けた。当時の阪神オーナーは本当のバカで、「よそのチームの4番バッターやエースを銭で買い叩く巨人のようになれというのか!4番バッターを育てるのは監督の仕事だ!」などと、野村の言葉に取り合わない。「もうし上げるが、阪神60年の歴史の中で育った4番バッターは掛布だけだ。次の掛布が現れるのには、同じ時間待たなければならない。4番バッターだけは、天性の才能との巡りあいなのです」といった野村の心のなかは、やがて空しで一杯になった。

  星野を次期阪神監督に推薦したのは野村であった。

2001年シーズン終了後に星野仙一は阪神タイガ-ス監督に就任した。

星野監督は中日監督時のブレーンの何人かを引き抜き、チーム改革に着手した。

「ここまで低迷したのは、あなたの責任です」と星野はオーナーにいった。

退任前の野村に腹の立つほど同じ進言された久万俊二郎オーナーは、崖の上に立たされた。

  星野就任前4年連続最下位だったチームは、4位に浮上した。同オフ、選手の大量解雇、トレードを断行し、星野は以前野村が考えていたことを実行に移した。それを埋めるために引き入れたのが、金本知憲、アメリカ帰りの伊良部秀輝、中日からの久慈照嘉、日本ハムから下柳剛と中村豊その他であった。

星野タイガースは、2002年開幕と同時に7連勝。次の2003年には開幕以来首位独走し、チームは18年ぶりのリーグ優勝をはたしたが、日本シリーズには大敗する。

星野は健康上の理由から監督を退任し、生え抜きの岡田彰布が後任監督となる。

  阪神を2001年(平成13年)オフに辞任した野村克也だったが、5年後の2006530日、甲子園球場でのセ・パ交流戦[楽天阪神戦]に赴いた楽天監督しての野村克也に、地元阪神ファンの暖かい拍手が湧き起こった。およそ節制に縁のない私は、その時、楽天ゴールデンイーグルスと阪神タイガースとの両方のファンになった。

  2002年秋に野村克也は社会人野球チームのシダックス野球部の監督兼GMに招聘された。

野村は弱小チームを徹底改革して、就任後数ヶ月で[社会人ベーブルース大会]に優勝し、史上初のプロ・アマ両方の日本一監督となった。

2003年の都市対抗野球では、野村采配を観たさに東京ドーム押しかけたファンが4万人達し、満員札止めとなった。それ以後も数々の社会人野球大会に優勝し、社会人野球で育てた数人の選手をプロの世界に送り込む。

200510月シダックス監督を辞任する旨を発表した野村に、その貢献を讃える[2005年社会人ペナント特別賞]が日本野球連盟より贈られた。なお、シダックス野球部は、世の流れゆいに2006年シーズン終了後に廃部となった。

  野村の、楽天ゴールデンイーグルスの試合中を通してのボヤキながらの采配は、日本野球界の名物となった。スポーツ紙記者は、その日の野村のコメントを聞き逃すまいと接近しすぎるあまり、野村の身体から発する加齢臭をタップリと嗅がされるのだった。

  私は、沙智代夫人が製造販売する幾多の危機を乗り越えてきた人間野村克也氏のファンである。と共に、球界から「体制側の代弁者」などと取りざたされる張本勲氏のファンでもある。このお二人の仲が非常に悪いので、いつも小さな胸を痛めている一人でもある。

  冒頭で[捕手としての野村克也が考え出したものに、バッターボックスに立つ打者にささやきかけることで集中力をかき乱す作戦がある]と書いたが、当時の張本勲選手は「ささやきのお返しに空振りと見せかけて野村の頭をバッターで殴った」と、自分が出演するテレビで何度も話している。

  そのことを根に持ってか、なにかの折にスポーツ記者たちの前で野村は「選手だったころ、張本と一緒に風呂に入ったことがある。片時も油断無く前を隠している張本のタオルをサッーと剥がしたことがあった。張本が隠している一物が規格以下に貧弱だったのだよ。その時の彼は烈火のごとく怒ったよ。その後の試合で、張本がバッターボックスに立ったときに『お前、態度は大きいがアレは小さいのーー』とささやいたら、空振りに見せかけてバットで頭を思い切りドツかれたよ」と、野村氏が話している。ニタッと笑って「痛かったのーー」と、頭をなでる仕草までしたのである。

  この言葉が野村氏の虚構であり彼一流のユーモアであるなら、そのタイミング的には良く出来ている話だと思った。たとえ、そうでなくとも、そのイチモツの大小で人間の価値が評価されるわけではないので、私は、お二人に今後は仲良くして戴きたいと、ひたすらに思うわけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アメリカン・プロ・フットボールの父ロンバルディ

                                                         平成211031

過去に、ミスター・プロ・フットボールと呼ばれた男がいる。今でもフットボールファンのあいだの語り草になっている[ヴィンス・ロンバルディ(1913~1970]がその人である。

ヴィンス・ロンバルディは生前こう云ったそうだ。「男たちにとって最高のときは必死で戦い、疲れ果て、その戦いの場に満ちたりて横たわったときだ」と。

  ロンバルディは、1959年(昭和34年)~1967(昭和42年)までの9シーズンをNFL(ナショナルフットボールリーグ)の[グリーンベイ・パッカーズ]のヘッドコーチを務め、[ポストシーズン(予選リーグの上位チーム順位決定のためのプレーオフ)]での通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグ優勝と第一回と第二回[スーパーボウル(NFLの優勝チームとAFL=アメリカンフッツトボールチームの優勝チームの対抗戦)]の勝者となった。ロンバルディの知名度と人気は、当時の大統領のリチャード・ニクソンをしのぐほどだった云う。

  発足当時と異なる[現在のNFL]は、旧NFLを母体した[NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]と、旧AFLを母体とした[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス]の2つのリーグの総称として呼んでいるようだ。そして、アメリカンフットボール最大のプロリーグで、アメリカ野球のメジャーリーグやアメリカ国内のプロバスケットリーグをはるかにしのぐ人気は、眼を輝かせたファンの途絶えることのない群れを日曜日のスタジアムに向かわせるのである。

  ヴィンス・ロンバルディはイタリアのナポリ生れの父ヘンリー・ロンバルディとブルックリン生れの母マチルダ・イッツォとの間に1913年(大正2年)に生れた。誕生の地ニューヨークのブルックリンで育ち、パブリックスクール(公立学校)に8年間通った後の1928年(15歳)にカソリック神父の養成校に入学する。2年後に神父への道を断念、[サン・フランシスコ・プレパラトリースクール]に転校した。ここで彼は、アメリカン・フットボールと出会い、その選手して活躍した。

  1933年(昭和8年)ロンバルディはフォーダム大学(ニューヨーク市の北端ブロンクス区にある)のヘッドコーチ[ジム・クロウリー]の下でプレーするためにフットボール奨学金を獲得した。体重83.8Kg、身長172.7Cmの彼の体格はフットボール選手の中では小粒だったが、[花崗岩の7個の塊]と呼ばれたフロントラインの一員としてフォーダム大学の25連勝の強力な推進力となった。ロンバルディは学業でも優秀な学生で、1937年(昭和12年)にビジネス博士号を取り優等生として卒業している。

  ロンバルディのコーチングキャリアは、1939年(昭和14年)ハイスクールでのアシスタントコーチが手始めだった。当時26歳のロンバルディは、フォーダム大学時代のチームメートであるヘッドコーチの下でのアシスタントコーチとして選手の育成に参加したのだ。

このニュージャージー州にある[聖セシリア・カトリックハイスクール]での彼の生活状況は、生徒にラテン語、科学、物理学を教えての年収が1,800ドルで、下宿屋の一室の家賃は週額1ドル50セントだった。おそらく、この部屋には彼のほかに南京虫なども同居していたに違いない。

  1940年(昭和15年)に、フォーダム大学でのチームメートの従姉妹(イトコ)の[マリー・プラニッツ]と結婚し、二人は楽しく短い夜を過ごした。その2年後の1942年(昭和17年)から、この[聖セシリア・カトリックハイスクール]のヘッドコーチとして5年間を過ごし、1947年(昭和22年)に母校フォーダム大学に行き新入生担当のコーチとなった。この翌年には同大学代表チームのアシスタントコーチとなる。翌1948年(昭和23年)のシーズンには、ウエストポイントの陸軍士官学校のアシスタントコーチも兼ねるようになった。

  ウエストポイントでは名将の誉れ高いヘッドコーチ[アール・ブラウン]のもとで[オフェンシヴラインコーチ(ゲーム進行中にボールに触れることができないスクリメージラインにセットする7人の侍の為のコーチらしい)]を務め、名将[アール・ブラウン]の采配する[実行力を重視するスタイル]をマスターした。それが後のロンバルディ率いるNFLチームの一貫したスタイルともなった。ロンバルディはこの陸軍での5シーズンのコーチの後に、NFL[ニューヨーク・ジャイアンツのアシスタントコーチ]に就任する。こうして、1954年(昭和29年)ロンバルディ41歳の時に、プロフットボールコーチとしての彼のキャリアが開始されたのだった。

NFLニューヨーク・ジャイアンツでの彼は、[オフェンスコーディネーター(攻撃時の得点を得るための作戦立案と試合時の攻撃パターンの指示をする役らしい)]のポジションに就いた。このジャイアンツ3年目の1956年(昭和31年)のシーズンには、若くて有能な[ディフェンシヴコーディネーターのトム・ランドリー]らと共に自軍をチャンピオンシップチームに導き、シカゴ・ベアーズを破りリーグタイトルを物にしている。当時の強力な選手の中でも、ロンバルディが特に頼りにした選手の中にはハーフバックとしての[フランク・ギフォード]がいる。この選手が、1956年シーズンにフットボール界で最も権威のある[AP通信NFL最優秀選手賞]を手にしている。

なお、AP通信NFL最優秀選手賞の最多保持者が私の好きな黒人俳優[ジム・ブラウン]で、1957年、1958年、1965年の3回に渡りこの賞を手にしている。彼はまもなくして映画界に転進し、数多くの大作に出演したなかには主演作品も少なくない。西部劇映画[100挺のライフル(1968年)]に主演したおりには、人気白人グラマー女優の[ラクエル・ウェルチ]と濃厚なラブシーンを演じ、当時の社会的物議の対象になった。黒人男性と白人女性のラブシーンが、自由の国と自らが呼んでいるアメリカの男性に不快感を抱かせたもようである。この映画には、あの[バート・レイノルズ]が脇役で出演している。

  フットボールの本筋に戻り、

1959年(昭和34年)45歳のヴィンス・ロンバルディは、前年シーズン成績1101分の[グリーンベイ・パッカーズ]にヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャとして招かれた。フロント陣に対し、「金は出しても、口は出すな!」という約束を取り付けての就任であった。

ロンバルディのヘッドコーチ就任の立役者は、[ジャック・ヴァイニシ]という若くて、有能で、ハンサムなパッカーズの人事部長だった。彼は成績不審の自チーム改革のために、ロンバルディに白羽の矢を立てた。事前に、リーグ中の有力コーチやウエストポイント陸軍士官学校のヘッドコーチに彼の人間性やフットボ-ルのセンスを聞いて回り、どのコーチからも「現在の彼は、NFL最高のヘッドコーチを務める用意は調っている」との確証を得ての上での招聘であった。ロンバルディがヘッドコーチ就任時にグリーンベイの有力者たちに「金は出しても、口は出すな!」という条件をださせたのは、このジャック・ヴァイニシのアドバイスがあってのことである。事あるごとにチーム外の有力者が口を出していたのでは、チーム再建がおぼつかないことを彼が一番知っていたのだった。このジャック・ヴァイニシは、33歳のときに心臓病が原因でこの世を去った。有能で、純真で、美人である人ほど薄命なのである。しかし、まもなく70歳になろうとしているこの私は、身体的になんら不安はない。たぶん最後まで生きつづけるだろう。なんとなく、複雑な気持ちである。

  ロンバルディは就任後の手始めに超ハードなトレーニング案を作成、自分に対しての絶対服従を全選手に科した。パッカーズ就任開始のシーズン成績は75敗であった。

  [ロンバルディタイム]という言葉がある。彼の傘下のチーム関係者は、つねに予定の10分から15分早く指定の場所に到着しなければならなかった。この言葉は「それより遅れれば遅刻とみなす」という明快な彼の理念が反映する言葉なのだ。

  ロンバルディの最初のミーティングで感極まったチームのQB[バート・スター]は、ミーテンィグが終った途端に電話機に飛び付き「ハニー、僕らはまた勝てるようになる!」と奥様に電話した。

  パッカーズ就任2年目の1960年(昭和35年)ロンバルディは、自軍を率いてNFLチャンピオンシップゲームに駒を進めた。しかし、このゲームは僅差で敗北した。ヴィンス・ロンバルディは「このチャンピオンシップゲームでの敗北は、受け入れ難い!」と云い放ち、「負けたのではない。時間が無くなっただけだ」結んだ。

  パッカーズはその後の9回のポストシーズンゲームを勝利し、彼の指揮する期間には2度と敗戦の悲哀を味わうことはなかった。

  ロンバルディ云う「勝利が総てではない。それが唯一なのだ」と。

ある時のロンバルディが「勝敗は関係ないというなら、彼らはなぜあのように必死にスコアをつけるのだ?」と、マスコミに問いかけたことがある。

  勝敗にこだわるといわれたロンバルディだが、自チームの選手の試合中の悪質反則を眼にしたときは有無を云わせずベンチに戻し、その選手が謝罪しないかぎり試合に戻すことはなかった。

プロ・アメリカンフットボール初期のアメリカは、強い人種差別の波の中にあった。当時のロンバルディは、フットボールの才能のある選手を見つけると肌の色にかかわらず登用する度量の持主だった。事実、ロンバルディ采配下のパッカーズの中には、どのチームより黒人選手の数が多かったし、パッカーズヘッドコーチ就任2年目には「もし黒人選手の入店を拒む店があれば、そこには我がチーム選手の全員を出入りさせない」というメッセージをグリーンベイの総てのレストラン、酒場、床屋、マーケットまで送りつけた。

  ロンバルディ率いるパッカーズの戦いの中で、最も有名な試合のひとつに[アイスボウル]と呼ばれたものがある。1967年(昭和42年)1231日のNFL決勝戦は、前年に同じく[ダラス・カウボーイズ]をパッカーズのホーム[ランボー・フィールド]に迎えての一戦であった。

外気温-25Cで、強い北風が容赦なく吹込むフィルドでだった。

これは現在までのNFL試合上最低の気温で、観客席のファンには多数の凍傷者がでた。地下埋設されたヒーターは故障し、フィルドは硬く凍り付いていた。

ロンバルディは、戦いを有利にするために自分が指示してヒーターを使えなくしたと、敵に思われるのではないかと、心配した。

当然テキサスカウボーイズは、この世のものとも思えない寒さにビックリコした。

迎える地元パッカーズの選手の誰もが、試合の延期を神に祈った。

  それぞれの思惑は別として試合は開始され、パッカーズは前半始に14点のリードを奪った。後半になり息を吹き返したカウボーイズに1410と追い上げられてのハーフタイムとなる。後半に入ってもカウボーイズに攻撃権が支配されるも、パッカーズは4点のリードのまま第4クォーターにいたる。しかし、カウボーイズのTD(タッチダウン)パスで1416と逆転された。

  残り時間450秒、自陣32ヤードからパッカーズの最後の攻撃。QBスターはショートパスを立て続けに通し敵陣奥にボールを進めた。敵陣1ヤードでの1stダウン、2ndダウン、3rdダウンともにRBへのランは止められ、残り20秒で最後のタイムアウトをとる。

  QBのバート・スターは、ゴール前の凍結を理由にFB(フルバック)へのハンドオフをやめて自身のQB(クォーターバック)スニークを提案した。これは、スナップを受けたQB自身が、すぐに前に突進してボールを進めるプレーである。

ロンバルディはスターの提案を承認し、選手たちをフィルドに送り出した。選手はそれぞれの役目を果たし、スターは、この試合2個目のTD(タッチダウン)を奪いパッカーズは勝利した。

  記者団に囲まれたロンバルディは「我々は賭けに出て、そして勝った」と、短く答えた。

  永くパッカーズの黄金期を支えてきたスター選手も年とともに衰えが目立ち、あるものはケガで、ある者は己の限界を悟り引退するものも出てきた時期である。過去での圧倒的な実力とはほど遠いチーム状態の中で掴み取った勝利であった。

  身体中に生傷を貼り付け、極限のプレッシャーに耐えながらの自分の役目を全うしての永い道のりの果ての 気温-25C、強い北風の吹き込むフィルドでの勝利。それを凍傷にさいなまれながら固唾をのんで見守っていたファンの歓声。フィルドに雪崩れ込んできた大勢のファンの群れ。フランチャイズ史上で最も幸せな瞬間に総ての者が酔った。

  2週間後、パッカーズは第2回スーパーボウルにおいてオークランド・レイダーズを破り優勝した。これがロンバルディのグリーンベイ・パッカーズを率いての最後の試合となった。

  ロンバルディは1967年(昭和42年)のシーズンが終わるとパッカーズのヘッドコーチを退いた。この年、グリーンベイ・パッカーズのホームスタジアム[ランボー・フィールド]のある[ハイランド・アベニュー][ロンバルディアベニュー]に改名された。

ロンバルディは翌1968年シーズンGM(ゼネラルマネージャー)としてパッカーズにとどまった。彼は、後任のヘッドコーチとして、いままで彼のアシスタントコーチだった[フィル・ベングトソン]を指名したが、このシーズンの成績は6勝7敗1分に終わる。

  1969年(昭和44年)シーズン、[ワシントン・レッドスキンズ]のヘッドコーチに就任したロンバルディは、それまでの連続14シーズン負け越しのチームを率いて752分の戦跡を残した。ロンバルディ流に改良されたチーム[レッドスキンズ]は、1970年代のヘッドコーチ[ジョージ・アレン]の下でめざましい成功を収めることになる。

  19706月レッドスキンズ2年目のトレーニングキャンプに入る前に、ロンバルディは大腸癌との診断をくだされる。これまで消化器系の不安を抱えながら病院を避けていたことが災いし、癌は大腸から肝臓、腹膜、リンパ腺までも蝕んでいた。

  1970年(昭和45年)93日、ヴィンセント・トマス・ロンバルディは別の世界に旅たった。1913年(大正2年)711日に誕生しての572ヶ月間弱の太くて短い生涯であった。

  過ってロンバルディの下で戦った名LB(ラインパッカー)[デイヴ・ロビンソン]は、自分の父親を亡くした時と同じ深い悲しみに襲われ、後日「白人の葬儀で涙を流したのは、あの時だけだった」と、もらした。

  ロンバルディの葬儀は、197097日ニューヨークの[セント・パトリック大聖堂]で行われた。名誉棺側付添人には[バート・スター(1966NEL最優秀選手賞のパッカーズのQB][ポール・ホーナング(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)][ウィリー・デイビス(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)][トニー・キャナデオ(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)][ウェリントン・マーラ(フォーダム大学時代の友人で、当時ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー)]他がつき、大勢のファンが参列した。

  ロンバルディは、ニュージャージー州ミドルタウンの小さな墓地の、両親と彼の妻の隣に埋葬された。

  ロンバルディの死後の19709月、NFLは毎年のスーパーボウル優勝チームに与えられるトロフィーを[ビィンス・ロンバルディ・トロフィー]と名づけた。

  [ビィンス・ロンバルディ・トロフィー]は、ニューヨークの宝石店ティファニーがデザインしたもので、このアメリカンフットボールをかたどった銀色に輝くトロフィーは、毎年、命知らずの最強の男たちにあたえらられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イチロー3000本安打と張本氏の野球魂

平成20731

  若かりしころは、スポーツに全く関心がもてなかった。30歳なかばになると、スポーツ中継や、新聞のスポーツ欄に親しむようになった。さまざまなスポーツに興味を持つに従ってそれらの知識も徐々に身についてきた。いまでは、素晴らしい資質を備える各界の選手たちが華麗な試合を繰りひろげていることを見聞きし、心からスポーツを楽しむようになった。もはや私の身体に、擬似戦争であるスポーツに参加するエネルギーは残されてはいない。いずれにしても、戦いは、他人に任せるに限る。

  平成20年(2008年)729日(日本時間30日)メジャーリーグのマリナーズ所属イチロー(鈴木一朗34歳)外野手が、米テキサス州アーリントンでのレンジャーズ戦で日米通算3000本安打を放った。この記録達成時期につき、以前からさまざまな話題が飛び交ってはいたが、彼にとっては必ず到達する記録でもあった。

  日本プロ野球選手での3000安打達成は、3085安打の記録を持つ張本勲氏(元東映・日拓・日本ハム・巨人・ロッテ)に次ぐ2人目だというが、メジャーリーグではピート・ローズ(元シンシナティ・レッズ、67歳)4256安打記録が最高で、彼の地にはそれに続く3000安打達成者が27人もいる。改めて、本場アメリカの層の厚さには驚くほかはない。

  イチローは愛知県愛工大名電髙から平成4年(1992年)オリックス入団、その2年後にプロ野球初の200本安打を記録する。その後の平成12年までの7年間を首位打者の位置にあり、日本プロ野球界での1278安打を記録した。

  メジャーリーグのマリナーズに入団した平成13年(2001年)のシーズンに、242安打で首位打者と盗塁王となり、MVPと新人王に輝く。そして平成20年(2008年)の今期は、8年連続のオールスターズ出場をはたした。このイチロー34281日での3000安打は、その先で達成されるであろう数々の記録へと続く私たちの夢の通過点でもある。

  メジャー歴代1位(4256安打)ピート・ローズ氏の、イチロー3000安打に対するコメントがある。

「日米通算3000本は、大リーグ記録と単純に比較することは難しい。単純に227本ペースで6年間打ち続ければ私を抜くことができる計算だが、それまで現在の脚力を維持できるだろうか。それはともかくとして、彼はもっと強いチームでプレーすべきだ。彼はなんの為にヒットを打っているのだ。チームが勝つためじゃないのか。強いチームに移籍して、全米のもっと多くのファンの前で、今のプレーを見せて欲しいものだ」

この4256安打というもの凄い記録の持主ピート・ローズ氏は、全選手時代を通しての全力プレーの姿から[チャーリー・ハッスル]の愛称を得た伝説の男である。

  オハイオ州シンシナティ生れのピート・ローズが地元球団[シンシナティ・レッズ]に入団し、二塁手としてメジャーデビューをはたしたのが1963年(昭和38年の22歳)であった。このシーズンの打率は.273、ホームラン6本、41打点で新人賞に輝き、その5年後に首位打者を獲得、次の年も首位打者の位置にいた。彼は27歳の時に史上最年少での3000本安打を放ち、1984年(昭和59年の43歳)には史上2人目(もう一人はタイ・カッブ)の4000本安打を達成している。しかし、1989年(平成元年の48歳)シンシナティ・レッズ監督の立場にありながら、自身のチームが絡む野球賭博に加担して球界から永久追放を受けて現在にいたっている。深い事情があったにしろ、まさに[堕ちた偶像]といわなければならない。だが、歴代1位の通算安打4256、通算試合数3562、通算打数14053の彼のメジャー記録を、いまだに誰も乗り越えてはいない。

  我が日本プロ野球界では3085安打記録を持つ張本勲氏(68歳)以外にも、偉大な記録を積み上げた選手は多い。野村克也氏(元南海、ロッテ、西部、現在楽天監督73歳)2901安打で2位、王貞治氏(元巨人、現在ソフトバンク監督68歳)2786安打で3位、長嶋茂雄氏(元巨人、72歳)2471安打で7位となっている。 

張本勲氏は昭和15年(1940年)広島市で生れている。昭和20年(1945年)氏が5歳の時の夏、アメリカが故意に落とした原爆の爆心地から2.5Kmのところで被爆した。爆心地と張本家の中間に位置する標高70m[比治山]が、幼少の張本氏を死の熱線から遮断してくれたのだ。

  一貫してガキ大将だった張本少年は他の少年たちの先頭にたち、当時の広島カープの本拠地[広島総合球場]の塀を乗り越えては野球試合のタダ見をしていた。たまたま覗き見した、巨人軍宿舎の食事風景が張本少年のその後の人生を変えた。当時の物資不足の折での野球選手は藁草履のような大きさの肉にかぶりつき、複数の生卵を茶碗に放り込んで食べていたのだから「野球をすれば、少なくとも喰うものには困らないのだ・・」と、少年は思った。

  中学時代はエースの4番バッターとして広島県大会で優勝。野球名門校の広島商業か広陵高校を強く希望したが、元来の健康優良児的元気さを大人は[素行不良]と判断し、入学を拒否された。即入学できる松本商業高校定時制に進学したが、ある日起こした部内暴力事件が原因で11学期に退学処分をうける。それでも、彼の正義感溢れる精神を惜しむ周囲の力により、大阪の浪商高校への転校手続きがなされた。かげでの努力はやがて芽を出し、彼が2年生になるとメキメキ頭角をあらわす。秋の近畿大会では13戦し打率5割6分、11本のホームランを打った。3年生夏の甲子園を前に部内暴力事件が発覚したが、この時は珍しく暴力事件に係わらなかった。どういう訳か、張本少年を退部させるという条件でチームの甲子園出場が認められた。いつの時代のどこにでも、汚い人間はいたことになる。しかし、プロ野球関係者の間には「東の王、西の張本」と、その名が知れ渡っており、張本少年をプロのスカウト連が見逃すはずがなく、各球団からの勧誘が殺到した。張本少年は巨人への道を熱望したがかなわずに、東映フライヤーズに入団する。

  昭和34年(1959年、19歳)の東映入団で、天才的指導者松本健次郎打撃コーチと巡りあったことで、張本氏の一軍登録が早まった。シーズンが終わってみると、打率.275、ホームラン13本を放ち堂々の新人王獲得、2年目から3割台をキープして、以後3年の例外はあるが、3割以上の打率を昭和53年(1978年、38歳)まで持続した。昭和56年(1981年、41歳)で引退するまでのプロ22年間の安打数3085(歴代1位)、生涯打率.319(歴代3位)、打数9666(歴代2位)、得点1523(歴代3位)、試合2752(歴代3位)ホームラン504(歴代7位)他が張本勲氏の勲章である。

  張本勲氏は日曜日の朝840分ごろ、サンデーモーニングという番組に出演し、大沢啓二親分を立てながら、球界御意見番的なトークを聞かせてくれる。他の出演者がワイシャツの胸元を大きく開けたり、セーターを背中にだらしなく背負ったりする中で、何時の場合にもシャツの一番上のボタンまでキチンとかけての生真面目な発言には魅力を感じ、それを聞きたいがばかりに840分にはテレビの前に座る。大沢親分のスポーツ界への優しい思いやりと、張本氏の後輩に対する厳しい発言の絶妙な寒暖入り混じるコメントは、お二人以外には醸し得ない爽やかなスポーツ讃歌だと思っている。

  もはや年齢的に無理ではあるが、今までの有り余る時間の中で、張本氏ほどの悦材を監督として招聘しなかった日本プロ野球界の体質に義憤を覚える。偉そうに映像に写しだされる彼等のやったことは、金の力で労働者の将来を踏みにじった行為だけではないか。一流のスポーツマンは、決して己の口から社会一般の不合理を口にしない。サウナ室以外では汗を流したことも無い各球団首脳陣の方々は、張本氏に恥ずかしいとは思わないのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[私を野球に連れてって]と野球観戦

                                                                                           平成191113

  地上波テレビでのメジャーリーグ実況放映件数は年々増え続けている。日本人メジャーリーガの数が増え続けることもあり、国内野球ファンの目が海の向う岸での日本人選手の活躍に向けられることはいかんともし難い。必然的に各テレビ局は好カードの試合放映権のために莫大な円を支払うことになる。テレビに飽き足らない連中は、現地球場での現場観戦の為に観光会社の組む観戦ツアーを利用するようである。なんともうらやましい限りである。

私が海外に最後に行ったのは、10余年前のサイパン島である。それも、現地入国の際に暴力団扱えをされるは、ホテルに泊まれば同室の者にイビキが強烈だと嫌味をいあわれるは、食事は縦横無尽の筋が90%も含む巨大ステーキにより便秘に陥り、観光どころではなかったのだ。それに比べて、今の若い者の贅沢さ加減にはあきれ果ててしまう。たかが野球見物だけのために飛行機に乗りヤンキースタジアムに直行するとは、何という罰当たりか!、この歳まで働き通した私が、どうしてそこに行けないのか!、一度に多くのことを考えると、いつも支離滅裂の状態になってしまう私なのである。

  暇があっても金のない者はテレビで応援するしか方法はないようである。しかし、テレビでひいきチームを声援し、または相手チームをヤジリ飛ばしている絶対多数のファンがいるからこそ、この野球界の繁栄があるのだ。ぞ!

大リーグのどの試合でも共通するが、試合中の7回裏の攻撃前に観客全員が立ち上がって、ある歌をうたう場面である。それは、球場がはじけんばかりの大楽唱となる。アメリカ映画でのなかでは度々おめにかかったシーンではあるが、テレビ画面とはいい自分がリアルタイムでメジャーリーグを観戦していることに、単純にも胸が熱くなったりもする。この場面で歌われるのが[私を野球につれてって]である。

[私を野球に連れてって(テイクミアウトザボーゲム)]2番(球場ではこの部分のみを歌う)の歌詞はこうである。

私を野球に連れてください

(テイクミアウトザボーゲム/)

大勢の仲間のいるところに連れて行ってください

(テークミアウトザクラーゥ/)

大好きなピーナッツとクラッカージャックを私の手に渡して

(バイミサン/ピーナッツァン/クラッカージャックス/)

私はここから離れて家になんか帰りたくない

(アーイドン/ケーフアイ/ネーバァゲッバッレッミ/)

さあ皆でホームチームの応援をするのよ

(ルールッ/ルフォーザ/ホームチーム)

もし私のチームが勝たなかったら悲しいけれど

(ゼードンウィン/イッツァスェーム/)

ワン、ツー、スリーストライクでアウトが

(フォーイッツ/ワン!/トゥー!/スリーストライクスユーアー/)

昔ながらの野球ゲームなのだから

(ゥアッザ/オー/ボール/ゲーム/)

観客全員は、この歌5行目歌詞のホームチームの部分に、各自のひいきチーム名を挿入してうたっている。また、最後から2行前のワン!ツゥー!スリーストライクのとき、右手の指を一本、二本、三本と立てて表現している人が多かったことに気づく。

[私を野球に連れてって]は、1949年(昭和24年)の同名のミュージカル映画のなかで歌われた。主演はフランク・シナトラとジン・ケリーで、その後の人生で悪の匂いが漂うシナトラと品行方正なケリーの人気は、ともにながく持続した。

シナトラは1953[地上より永遠に]でアカデミー助演男優賞を獲得し、映画と歌の世界で常にトップを維持し続けた。一方ケリーは、映画「雨に歌いば」での雨の中でのダンシングで世界中の女性のハートを鷲掴みにし、以後の映画では数多いヒット作に主演、監督、製作と異才を放ち続けた。

  昨今は一時期隆盛を築いた映画のレンタルビデオ業は下降線をたどっている。使い古されたビデオテープが、リサイクルショップの汚れた籠の中に並べられ、100円均一で販売されている時代である。私は、そのような魅力あるコーナーを素通りするほど、忙しい人生を送っているわけではない。永い時間をかけて2~3本のビデオテープを選び出しては持ち帰る。たまたま持ち帰った中にアメリカ映画[外野クリーク狂奏曲]があった。

  映画[外野クリーク狂奏曲]の登場人物は、野球場で一番奥のセンターの後方席に陣取る。彼らは三度の飯より野球の好きな連中で、あることないことが仲間同士の賭けの対象となり試合の進行を楽しむ。負け続ける地元チームの応援のためには手段を選ばず、相手チームを野次り倒すことでゲームミスを誘う徹底振り。相手チームの打者の打ったホームランボールが周辺に落ちると、すかさずグランドへ投げ返す。「こんなボール、ケタクソ悪くって持っていられるか」というわけである。

仲間どうしの賭けの胴元的な役を演じた[ブラット・ギャレット]は、この付近に座る仲間が応援しているダメチームの相手チームに賭け続け、いつも大金を稼ぐ役を好演している。つまり、映画だと解っていても憎たらしくなるほどの好演なのである。

[マット・クレイブン]の演ずるめくらの野球ファン役が良い。杖を頼りに外野席中断近くまで下りてきて笛を吹くと、仲間がここだと声で場所を知らせる。おもむろに席に座ると、カバンからグローブを取り出し左手を差し込み、二三度右こぶしでグローブの調子を整える。味方チームの打ったホームランが、眼の見えない自分のグラブに納まる確率に備えているのである。

[ウェイン・ナイト]の演ずる病的な賭け事好きの中年男には痺れる。賭け事を話している仲間のそばを通りかかりざまに、賭けの内容を聞きもせず「あんたの方に乗った!」というのである。この男が近くにいたモデル業女性の姿を見上げているところを、中継中のテレビカメラに映し出される。たまたまそれをテレビで観ていた奥様が外野席に乗り込んできたことで話はメッチャ複雑になってくる。「私の稼いだお金がどのように使われているかを見に来たのよ!」と奥様は云い、しまいには旦那様の反対に同額をかける始末。旦那が負ければ自分は勝つということで、家庭経済の安定をはかったのである。

  [ピーター・リーガート]は、舞台出身の名脇役で多くの映画に脇役として出演することにより、作品にキリッと山葵を利かせる俳優である。この映画では中心的な登場人物となり、野球の楽しさ、友人に対する思いやり、親子のありかた等を表現した。知ったかぶりの映画評論家は三流映画と呼ぶが、この映画こそ、複数の演技力の確かな俳優の個性がぶつかり合う本物の映画だったのである。

  平成17年に発足した楽天イーグルスを応援する東北人は多い。宮城県仙台球場がホームグランドと云うこともあり、野球がより身近に感じられるからでもあろう。楽天が勝利すれば歓声を張り上げ、まければまけたで「次は頑張れよ!」と一人一人の選手に声をかけるシーンを何度も眼にした。いつの日にかリーグを制覇し、日本シリーズの何試合かを仙台球場に運び込み、東北地方の各家庭からの大歓声が湧き上がる日がきっと来る。ファンは応援するチームの勝利をねがってはいるが、最後にはどちらかが負けるのがスポーツの試合である。負け続けるチームを永く応援し続ける土壌が熟成されて始めて、この日本国に文化としての野球が定着するのであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (3)