スポーツ

アメリカン・プロ・フットボールの父ロンバルディ

                                                         平成211031

過去に、ミスター・プロ・フットボールと呼ばれた男がいる。今でもフットボールファンのあいだの語り草になっている[ヴィンス・ロンバルディ(1913~1970]がその人である。

ヴィンス・ロンバルディは生前こう云ったそうだ。「男たちにとって最高のときは必死で戦い、疲れ果て、その戦いの場に満ちたりて横たわったときだ」と。

  ロンバルディは、1959年(昭和34年)~1967(昭和42年)までの9シーズンをNFL(ナショナルフットボールリーグ)の[グリーンベイ・パッカーズ]のヘッドコーチを務め、[ポストシーズン(予選リーグの上位チーム順位決定のためのプレーオフ)]での通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグ優勝と第一回と第二回[スーパーボウル(NFLの優勝チームとAFL=アメリカンフッツトボールチームの優勝チームの対抗戦)]の勝者となった。ロンバルディの知名度と人気は、当時の大統領のリチャード・ニクソンをしのぐほどだった云う。

  発足当時と異なる[現在のNFL]は、旧NFLを母体した[NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]と、旧AFLを母体とした[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス]の2つのリーグの総称として呼んでいるようだ。そして、アメリカンフットボール最大のプロリーグで、アメリカ野球のメジャーリーグやアメリカ国内のプロバスケットリーグをはるかにしのぐ人気は、眼を輝かせたファンの途絶えることのない群れを日曜日のスタジアムに向かわせるのである。

  ヴィンス・ロンバルディはイタリアのナポリ生れの父ヘンリー・ロンバルディとブルックリン生れの母マチルダ・イッツォとの間に1913年(大正2年)に生れた。誕生の地ニューヨークのブルックリンで育ち、パブリックスクール(公立学校)に8年間通った後の1928年(15歳)にカソリック神父の養成校に入学する。2年後に神父への道を断念、[サン・フランシスコ・プレパラトリースクール]に転校した。ここで彼は、アメリカン・フットボールと出会い、その選手して活躍した。

  1933年(昭和8年)ロンバルディはフォーダム大学(ニューヨーク市の北端ブロンクス区にある)のヘッドコーチ[ジム・クロウリー]の下でプレーするためにフットボール奨学金を獲得した。体重83.8Kg、身長172.7Cmの彼の体格はフットボール選手の中では小粒だったが、[花崗岩の7個の塊]と呼ばれたフロントラインの一員としてフォーダム大学の25連勝の強力な推進力となった。ロンバルディは学業でも優秀な学生で、1937年(昭和12年)にビジネス博士号を取り優等生として卒業している。

  ロンバルディのコーチングキャリアは、1939年(昭和14年)ハイスクールでのアシスタントコーチが手始めだった。当時26歳のロンバルディは、フォーダム大学時代のチームメートであるヘッドコーチの下でのアシスタントコーチとして選手の育成に参加したのだ。

このニュージャージー州にある[聖セシリア・カトリックハイスクール]での彼の生活状況は、生徒にラテン語、科学、物理学を教えての年収が1,800ドルで、下宿屋の一室の家賃は週額1ドル50セントだった。おそらく、この部屋には彼のほかに南京虫なども同居していたに違いない。

  1940年(昭和15年)に、フォーダム大学でのチームメートの従姉妹(イトコ)の[マリー・プラニッツ]と結婚し、二人は楽しく短い夜を過ごした。その2年後の1942年(昭和17年)から、この[聖セシリア・カトリックハイスクール]のヘッドコーチとして5年間を過ごし、1947年(昭和22年)に母校フォーダム大学に行き新入生担当のコーチとなった。この翌年には同大学代表チームのアシスタントコーチとなる。翌1948年(昭和23年)のシーズンには、ウエストポイントの陸軍士官学校のアシスタントコーチも兼ねるようになった。

  ウエストポイントでは名将の誉れ高いヘッドコーチ[アール・ブラウン]のもとで[オフェンシヴラインコーチ(ゲーム進行中にボールに触れることができないスクリメージラインにセットする7人の侍の為のコーチらしい)]を務め、名将[アール・ブラウン]の采配する[実行力を重視するスタイル]をマスターした。それが後のロンバルディ率いるNFLチームの一貫したスタイルともなった。ロンバルディはこの陸軍での5シーズンのコーチの後に、NFL[ニューヨーク・ジャイアンツのアシスタントコーチ]に就任する。こうして、1954年(昭和29年)ロンバルディ41歳の時に、プロフットボールコーチとしての彼のキャリアが開始されたのだった。

NFLニューヨーク・ジャイアンツでの彼は、[オフェンスコーディネーター(攻撃時の得点を得るための作戦立案と試合時の攻撃パターンの指示をする役らしい)]のポジションに就いた。このジャイアンツ3年目の1956年(昭和31年)のシーズンには、若くて有能な[ディフェンシヴコーディネーターのトム・ランドリー]らと共に自軍をチャンピオンシップチームに導き、シカゴ・ベアーズを破りリーグタイトルを物にしている。当時の強力な選手の中でも、ロンバルディが特に頼りにした選手の中にはハーフバックとしての[フランク・ギフォード]がいる。この選手が、1956年シーズンにフットボール界で最も権威のある[AP通信NFL最優秀選手賞]を手にしている。

なお、AP通信NFL最優秀選手賞の最多保持者が私の好きな黒人俳優[ジム・ブラウン]で、1957年、1958年、1965年の3回に渡りこの賞を手にしている。彼はまもなくして映画界に転進し、数多くの大作に出演したなかには主演作品も少なくない。西部劇映画[100挺のライフル(1968年)]に主演したおりには、人気白人グラマー女優の[ラクエル・ウェルチ]と濃厚なラブシーンを演じ、当時の社会的物議の対象になった。黒人男性と白人女性のラブシーンが、自由の国と自らが呼んでいるアメリカの男性に不快感を抱かせたもようである。この映画には、あの[バート・レイノルズ]が脇役で出演している。

  フットボールの本筋に戻り、

1959年(昭和34年)45歳のヴィンス・ロンバルディは、前年シーズン成績1101分の[グリーンベイ・パッカーズ]にヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャとして招かれた。フロント陣に対し、「金は出しても、口は出すな!」という約束を取り付けての就任であった。

ロンバルディのヘッドコーチ就任の立役者は、[ジャック・ヴァイニシ]という若くて、有能で、ハンサムなパッカーズの人事部長だった。彼は成績不審の自チーム改革のために、ロンバルディに白羽の矢を立てた。事前に、リーグ中の有力コーチやウエストポイント陸軍士官学校のヘッドコーチに彼の人間性やフットボ-ルのセンスを聞いて回り、どのコーチからも「現在の彼は、NFL最高のヘッドコーチを務める用意は調っている」との確証を得ての上での招聘であった。ロンバルディがヘッドコーチ就任時にグリーンベイの有力者たちに「金は出しても、口は出すな!」という条件をださせたのは、このジャック・ヴァイニシのアドバイスがあってのことである。事あるごとにチーム外の有力者が口を出していたのでは、チーム再建がおぼつかないことを彼が一番知っていたのだった。このジャック・ヴァイニシは、33歳のときに心臓病が原因でこの世を去った。有能で、純真で、美人である人ほど薄命なのである。しかし、まもなく70歳になろうとしているこの私は、身体的になんら不安はない。たぶん最後まで生きつづけるだろう。なんとなく、複雑な気持ちである。

  ロンバルディは就任後の手始めに超ハードなトレーニング案を作成、自分に対しての絶対服従を全選手に科した。パッカーズ就任開始のシーズン成績は75敗であった。

  [ロンバルディタイム]という言葉がある。彼の傘下のチーム関係者は、つねに予定の10分から15分早く指定の場所に到着しなければならなかった。この言葉は「それより遅れれば遅刻とみなす」という明快な彼の理念が反映する言葉なのだ。

  ロンバルディの最初のミーティングで感極まったチームのQB[バート・スター]は、ミーテンィグが終った途端に電話機に飛び付き「ハニー、僕らはまた勝てるようになる!」と奥様に電話した。

  パッカーズ就任2年目の1960年(昭和35年)ロンバルディは、自軍を率いてNFLチャンピオンシップゲームに駒を進めた。しかし、このゲームは僅差で敗北した。ヴィンス・ロンバルディは「このチャンピオンシップゲームでの敗北は、受け入れ難い!」と云い放ち、「負けたのではない。時間が無くなっただけだ」結んだ。

  パッカーズはその後の9回のポストシーズンゲームを勝利し、彼の指揮する期間には2度と敗戦の悲哀を味わうことはなかった。

  ロンバルディ云う「勝利が総てではない。それが唯一なのだ」と。

ある時のロンバルディが「勝敗は関係ないというなら、彼らはなぜあのように必死にスコアをつけるのだ?」と、マスコミに問いかけたことがある。

  勝敗にこだわるといわれたロンバルディだが、自チームの選手の試合中の悪質反則を眼にしたときは有無を云わせずベンチに戻し、その選手が謝罪しないかぎり試合に戻すことはなかった。

プロ・アメリカンフットボール初期のアメリカは、強い人種差別の波の中にあった。当時のロンバルディは、フットボールの才能のある選手を見つけると肌の色にかかわらず登用する度量の持主だった。事実、ロンバルディ采配下のパッカーズの中には、どのチームより黒人選手の数が多かったし、パッカーズヘッドコーチ就任2年目には「もし黒人選手の入店を拒む店があれば、そこには我がチーム選手の全員を出入りさせない」というメッセージをグリーンベイの総てのレストラン、酒場、床屋、マーケットまで送りつけた。

  ロンバルディ率いるパッカーズの戦いの中で、最も有名な試合のひとつに[アイスボウル]と呼ばれたものがある。1967年(昭和42年)1231日のNFL決勝戦は、前年に同じく[ダラス・カウボーイズ]をパッカーズのホーム[ランボー・フィールド]に迎えての一戦であった。

外気温-25Cで、強い北風が容赦なく吹込むフィルドでだった。

これは現在までのNFL試合上最低の気温で、観客席のファンには多数の凍傷者がでた。地下埋設されたヒーターは故障し、フィルドは硬く凍り付いていた。

ロンバルディは、戦いを有利にするために自分が指示してヒーターを使えなくしたと、敵に思われるのではないかと、心配した。

当然テキサスカウボーイズは、この世のものとも思えない寒さにビックリコした。

迎える地元パッカーズの選手の誰もが、試合の延期を神に祈った。

  それぞれの思惑は別として試合は開始され、パッカーズは前半始に14点のリードを奪った。後半になり息を吹き返したカウボーイズに1410と追い上げられてのハーフタイムとなる。後半に入ってもカウボーイズに攻撃権が支配されるも、パッカーズは4点のリードのまま第4クォーターにいたる。しかし、カウボーイズのTD(タッチダウン)パスで1416と逆転された。

  残り時間450秒、自陣32ヤードからパッカーズの最後の攻撃。QBスターはショートパスを立て続けに通し敵陣奥にボールを進めた。敵陣1ヤードでの1stダウン、2ndダウン、3rdダウンともにRBへのランは止められ、残り20秒で最後のタイムアウトをとる。

  QBのバート・スターは、ゴール前の凍結を理由にFB(フルバック)へのハンドオフをやめて自身のQB(クォーターバック)スニークを提案した。これは、スナップを受けたQB自身が、すぐに前に突進してボールを進めるプレーである。

ロンバルディはスターの提案を承認し、選手たちをフィルドに送り出した。選手はそれぞれの役目を果たし、スターは、この試合2個目のTD(タッチダウン)を奪いパッカーズは勝利した。

  記者団に囲まれたロンバルディは「我々は賭けに出て、そして勝った」と、短く答えた。

  永くパッカーズの黄金期を支えてきたスター選手も年とともに衰えが目立ち、あるものはケガで、ある者は己の限界を悟り引退するものも出てきた時期である。過去での圧倒的な実力とはほど遠いチーム状態の中で掴み取った勝利であった。

  身体中に生傷を貼り付け、極限のプレッシャーに耐えながらの自分の役目を全うしての永い道のりの果ての 気温-25C、強い北風の吹き込むフィルドでの勝利。それを凍傷にさいなまれながら固唾をのんで見守っていたファンの歓声。フィルドに雪崩れ込んできた大勢のファンの群れ。フランチャイズ史上で最も幸せな瞬間に総ての者が酔った。

  2週間後、パッカーズは第2回スーパーボウルにおいてオークランド・レイダーズを破り優勝した。これがロンバルディのグリーンベイ・パッカーズを率いての最後の試合となった。

  ロンバルディは1967年(昭和42年)のシーズンが終わるとパッカーズのヘッドコーチを退いた。この年、グリーンベイ・パッカーズのホームスタジアム[ランボー・フィールド]のある[ハイランド・アベニュー][ロンバルディアベニュー]に改名された。

ロンバルディは翌1968年シーズンGM(ゼネラルマネージャー)としてパッカーズにとどまった。彼は、後任のヘッドコーチとして、いままで彼のアシスタントコーチだった[フィル・ベングトソン]を指名したが、このシーズンの成績は6勝7敗1分に終わる。

  1969年(昭和44年)シーズン、[ワシントン・レッドスキンズ]のヘッドコーチに就任したロンバルディは、それまでの連続14シーズン負け越しのチームを率いて752分の戦跡を残した。ロンバルディ流に改良されたチーム[レッドスキンズ]は、1970年代のヘッドコーチ[ジョージ・アレン]の下でめざましい成功を収めることになる。

  19706月レッドスキンズ2年目のトレーニングキャンプに入る前に、ロンバルディは大腸癌との診断をくだされる。これまで消化器系の不安を抱えながら病院を避けていたことが災いし、癌は大腸から肝臓、腹膜、リンパ腺までも蝕んでいた。

  1970年(昭和45年)93日、ヴィンセント・トマス・ロンバルディは別の世界に旅たった。1913年(大正2年)711日に誕生しての572ヶ月間弱の太くて短い生涯であった。

  過ってロンバルディの下で戦った名LB(ラインパッカー)[デイヴ・ロビンソン]は、自分の父親を亡くした時と同じ深い悲しみに襲われ、後日「白人の葬儀で涙を流したのは、あの時だけだった」と、もらした。

  ロンバルディの葬儀は、197097日ニューヨークの[セント・パトリック大聖堂]で行われた。名誉棺側付添人には[バート・スター(1966NEL最優秀選手賞のパッカーズのQB][ポール・ホーナング(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)][ウィリー・デイビス(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)][トニー・キャナデオ(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)][ウェリントン・マーラ(フォーダム大学時代の友人で、当時ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー)]他がつき、大勢のファンが参列した。

  ロンバルディは、ニュージャージー州ミドルタウンの小さな墓地の、両親と彼の妻の隣に埋葬された。

  ロンバルディの死後の19709月、NFLは毎年のスーパーボウル優勝チームに与えられるトロフィーを[ビィンス・ロンバルディ・トロフィー]と名づけた。

  [ビィンス・ロンバルディ・トロフィー]は、ニューヨークの宝石店ティファニーがデザインしたもので、このアメリカンフットボールをかたどった銀色に輝くトロフィーは、毎年、命知らずの最強の男たちにあたえらられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イチロー3000本安打と張本氏の野球魂

平成20731

  若かりしころは、スポーツに全く関心がもてなかった。30歳なかばになると、スポーツ中継や、新聞のスポーツ欄に親しむようになった。さまざまなスポーツに興味を持つに従ってそれらの知識も徐々に身についてきた。いまでは、素晴らしい資質を備える各界の選手たちが華麗な試合を繰りひろげていることを見聞きし、心からスポーツを楽しむようになった。もはや私の身体に、擬似戦争であるスポーツに参加するエネルギーは残されてはいない。いずれにしても、戦いは、他人に任せるに限る。

  平成20年(2008年)729日(日本時間30日)メジャーリーグのマリナーズ所属イチロー(鈴木一朗34歳)外野手が、米テキサス州アーリントンでのレンジャーズ戦で日米通算3000本安打を放った。この記録達成時期につき、以前からさまざまな話題が飛び交ってはいたが、彼にとっては必ず到達する記録でもあった。

  日本プロ野球選手での3000安打達成は、3085安打の記録を持つ張本勲氏(元東映・日拓・日本ハム・巨人・ロッテ)に次ぐ2人目だというが、メジャーリーグではピート・ローズ(元シンシナティ・レッズ、67歳)4256安打記録が最高で、彼の地にはそれに続く3000安打達成者が27人もいる。改めて、本場アメリカの層の厚さには驚くほかはない。

  イチローは愛知県愛工大名電髙から平成4年(1992年)オリックス入団、その2年後にプロ野球初の200本安打を記録する。その後の平成12年までの7年間を首位打者の位置にあり、日本プロ野球界での1278安打を記録した。

  メジャーリーグのマリナーズに入団した平成13年(2001年)のシーズンに、242安打で首位打者と盗塁王となり、MVPと新人王に輝く。そして平成20年(2008年)の今期は、8年連続のオールスターズ出場をはたした。このイチロー34281日での3000安打は、その先で達成されるであろう数々の記録へと続く私たちの夢の通過点でもある。

  メジャー歴代1位(4256安打)ピート・ローズ氏の、イチロー3000安打に対するコメントがある。

「日米通算3000本は、大リーグ記録と単純に比較することは難しい。単純に227本ペースで6年間打ち続ければ私を抜くことができる計算だが、それまで現在の脚力を維持できるだろうか。それはともかくとして、彼はもっと強いチームでプレーすべきだ。彼はなんの為にヒットを打っているのだ。チームが勝つためじゃないのか。強いチームに移籍して、全米のもっと多くのファンの前で、今のプレーを見せて欲しいものだ」

この4256安打というもの凄い記録の持主ピート・ローズ氏は、全選手時代を通しての全力プレーの姿から[チャーリー・ハッスル]の愛称を得た伝説の男である。

  オハイオ州シンシナティ生れのピート・ローズが地元球団[シンシナティ・レッズ]に入団し、二塁手としてメジャーデビューをはたしたのが1963年(昭和38年の22歳)であった。このシーズンの打率は.273、ホームラン6本、41打点で新人賞に輝き、その5年後に首位打者を獲得、次の年も首位打者の位置にいた。彼は27歳の時に史上最年少での3000本安打を放ち、1984年(昭和59年の43歳)には史上2人目(もう一人はタイ・カッブ)の4000本安打を達成している。しかし、1989年(平成元年の48歳)シンシナティ・レッズ監督の立場にありながら、自身のチームが絡む野球賭博に加担して球界から永久追放を受けて現在にいたっている。深い事情があったにしろ、まさに[堕ちた偶像]といわなければならない。だが、歴代1位の通算安打4256、通算試合数3562、通算打数14053の彼のメジャー記録を、いまだに誰も乗り越えてはいない。

  我が日本プロ野球界では3085安打記録を持つ張本勲氏(68歳)以外にも、偉大な記録を積み上げた選手は多い。野村克也氏(元南海、ロッテ、西部、現在楽天監督73歳)2901安打で2位、王貞治氏(元巨人、現在ソフトバンク監督68歳)2786安打で3位、長嶋茂雄氏(元巨人、72歳)2471安打で7位となっている。 

張本勲氏は昭和15年(1940年)広島市で生れている。昭和20年(1945年)氏が5歳の時の夏、アメリカが故意に落とした原爆の爆心地から2.5Kmのところで被爆した。爆心地と張本家の中間に位置する標高70m[比治山]が、幼少の張本氏を死の熱線から遮断してくれたのだ。

  一貫してガキ大将だった張本少年は他の少年たちの先頭にたち、当時の広島カープの本拠地[広島総合球場]の塀を乗り越えては野球試合のタダ見をしていた。たまたま覗き見した、巨人軍宿舎の食事風景が張本少年のその後の人生を変えた。当時の物資不足の折での野球選手は藁草履のような大きさの肉にかぶりつき、複数の生卵を茶碗に放り込んで食べていたのだから「野球をすれば、少なくとも喰うものには困らないのだ・・」と、少年は思った。

  中学時代はエースの4番バッターとして広島県大会で優勝。野球名門校の広島商業か広陵高校を強く希望したが、元来の健康優良児的元気さを大人は[素行不良]と判断し、入学を拒否された。即入学できる松本商業高校定時制に進学したが、ある日起こした部内暴力事件が原因で11学期に退学処分をうける。それでも、彼の正義感溢れる精神を惜しむ周囲の力により、大阪の浪商高校への転校手続きがなされた。かげでの努力はやがて芽を出し、彼が2年生になるとメキメキ頭角をあらわす。秋の近畿大会では13戦し打率5割6分、11本のホームランを打った。3年生夏の甲子園を前に部内暴力事件が発覚したが、この時は珍しく暴力事件に係わらなかった。どういう訳か、張本少年を退部させるという条件でチームの甲子園出場が認められた。いつの時代のどこにでも、汚い人間はいたことになる。しかし、プロ野球関係者の間には「東の王、西の張本」と、その名が知れ渡っており、張本少年をプロのスカウト連が見逃すはずがなく、各球団からの勧誘が殺到した。張本少年は巨人への道を熱望したがかなわずに、東映フライヤーズに入団する。

  昭和34年(1959年、19歳)の東映入団で、天才的指導者松本健次郎打撃コーチと巡りあったことで、張本氏の一軍登録が早まった。シーズンが終わってみると、打率.275、ホームラン13本を放ち堂々の新人王獲得、2年目から3割台をキープして、以後3年の例外はあるが、3割以上の打率を昭和53年(1978年、38歳)まで持続した。昭和56年(1981年、41歳)で引退するまでのプロ22年間の安打数3085(歴代1位)、生涯打率.319(歴代3位)、打数9666(歴代2位)、得点1523(歴代3位)、試合2752(歴代3位)ホームラン504(歴代7位)他が張本勲氏の勲章である。

  張本勲氏は日曜日の朝840分ごろ、サンデーモーニングという番組に出演し、大沢啓二親分を立てながら、球界御意見番的なトークを聞かせてくれる。他の出演者がワイシャツの胸元を大きく開けたり、セーターを背中にだらしなく背負ったりする中で、何時の場合にもシャツの一番上のボタンまでキチンとかけての生真面目な発言には魅力を感じ、それを聞きたいがばかりに840分にはテレビの前に座る。大沢親分のスポーツ界への優しい思いやりと、張本氏の後輩に対する厳しい発言の絶妙な寒暖入り混じるコメントは、お二人以外には醸し得ない爽やかなスポーツ讃歌だと思っている。

  もはや年齢的に無理ではあるが、今までの有り余る時間の中で、張本氏ほどの悦材を監督として招聘しなかった日本プロ野球界の体質に義憤を覚える。偉そうに映像に写しだされる彼等のやったことは、金の力で労働者の将来を踏みにじった行為だけではないか。一流のスポーツマンは、決して己の口から社会一般の不合理を口にしない。サウナ室以外では汗を流したことも無い各球団首脳陣の方々は、張本氏に恥ずかしいとは思わないのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[私を野球に連れてって]と野球観戦

                                                                                           平成191113

  地上波テレビでのメジャーリーグ実況放映件数は年々増え続けている。日本人メジャーリーガの数が増え続けることもあり、国内野球ファンの目が海の向う岸での日本人選手の活躍に向けられることはいかんともし難い。必然的に各テレビ局は好カードの試合放映権のために莫大な円を支払うことになる。テレビに飽き足らない連中は、現地球場での現場観戦の為に観光会社の組む観戦ツアーを利用するようである。なんともうらやましい限りである。

私が海外に最後に行ったのは、10余年前のサイパン島である。それも、現地入国の際に暴力団扱えをされるは、ホテルに泊まれば同室の者にイビキが強烈だと嫌味をいあわれるは、食事は縦横無尽の筋が90%も含む巨大ステーキにより便秘に陥り、観光どころではなかったのだ。それに比べて、今の若い者の贅沢さ加減にはあきれ果ててしまう。たかが野球見物だけのために飛行機に乗りヤンキースタジアムに直行するとは、何という罰当たりか!、この歳まで働き通した私が、どうしてそこに行けないのか!、一度に多くのことを考えると、いつも支離滅裂の状態になってしまう私なのである。

  暇があっても金のない者はテレビで応援するしか方法はないようである。しかし、テレビでひいきチームを声援し、または相手チームをヤジリ飛ばしている絶対多数のファンがいるからこそ、この野球界の繁栄があるのだ。ぞ!

大リーグのどの試合でも共通するが、試合中の7回裏の攻撃前に観客全員が立ち上がって、ある歌をうたう場面である。それは、球場がはじけんばかりの大楽唱となる。アメリカ映画でのなかでは度々おめにかかったシーンではあるが、テレビ画面とはいい自分がリアルタイムでメジャーリーグを観戦していることに、単純にも胸が熱くなったりもする。この場面で歌われるのが[私を野球につれてって]である。

[私を野球に連れてって(テイクミアウトザボーゲム)]2番(球場ではこの部分のみを歌う)の歌詞はこうである。

私を野球に連れてください

(テイクミアウトザボーゲム/)

大勢の仲間のいるところに連れて行ってください

(テークミアウトザクラーゥ/)

大好きなピーナッツとクラッカージャックを私の手に渡して

(バイミサン/ピーナッツァン/クラッカージャックス/)

私はここから離れて家になんか帰りたくない

(アーイドン/ケーフアイ/ネーバァゲッバッレッミ/)

さあ皆でホームチームの応援をするのよ

(ルールッ/ルフォーザ/ホームチーム)

もし私のチームが勝たなかったら悲しいけれど

(ゼードンウィン/イッツァスェーム/)

ワン、ツー、スリーストライクでアウトが

(フォーイッツ/ワン!/トゥー!/スリーストライクスユーアー/)

昔ながらの野球ゲームなのだから

(ゥアッザ/オー/ボール/ゲーム/)

観客全員は、この歌5行目歌詞のホームチームの部分に、各自のひいきチーム名を挿入してうたっている。また、最後から2行前のワン!ツゥー!スリーストライクのとき、右手の指を一本、二本、三本と立てて表現している人が多かったことに気づく。

[私を野球に連れてって]は、1949年(昭和24年)の同名のミュージカル映画のなかで歌われた。主演はフランク・シナトラとジン・ケリーで、その後の人生で悪の匂いが漂うシナトラと品行方正なケリーの人気は、ともにながく持続した。

シナトラは1953[地上より永遠に]でアカデミー助演男優賞を獲得し、映画と歌の世界で常にトップを維持し続けた。一方ケリーは、映画「雨に歌いば」での雨の中でのダンシングで世界中の女性のハートを鷲掴みにし、以後の映画では数多いヒット作に主演、監督、製作と異才を放ち続けた。

  昨今は一時期隆盛を築いた映画のレンタルビデオ業は下降線をたどっている。使い古されたビデオテープが、リサイクルショップの汚れた籠の中に並べられ、100円均一で販売されている時代である。私は、そのような魅力あるコーナーを素通りするほど、忙しい人生を送っているわけではない。永い時間をかけて2~3本のビデオテープを選び出しては持ち帰る。たまたま持ち帰った中にアメリカ映画[外野クリーク狂奏曲]があった。

  映画[外野クリーク狂奏曲]の登場人物は、野球場で一番奥のセンターの後方席に陣取る。彼らは三度の飯より野球の好きな連中で、あることないことが仲間同士の賭けの対象となり試合の進行を楽しむ。負け続ける地元チームの応援のためには手段を選ばず、相手チームを野次り倒すことでゲームミスを誘う徹底振り。相手チームの打者の打ったホームランボールが周辺に落ちると、すかさずグランドへ投げ返す。「こんなボール、ケタクソ悪くって持っていられるか」というわけである。

仲間どうしの賭けの胴元的な役を演じた[ブラット・ギャレット]は、この付近に座る仲間が応援しているダメチームの相手チームに賭け続け、いつも大金を稼ぐ役を好演している。つまり、映画だと解っていても憎たらしくなるほどの好演なのである。

[マット・クレイブン]の演ずるめくらの野球ファン役が良い。杖を頼りに外野席中断近くまで下りてきて笛を吹くと、仲間がここだと声で場所を知らせる。おもむろに席に座ると、カバンからグローブを取り出し左手を差し込み、二三度右こぶしでグローブの調子を整える。味方チームの打ったホームランが、眼の見えない自分のグラブに納まる確率に備えているのである。

[ウェイン・ナイト]の演ずる病的な賭け事好きの中年男には痺れる。賭け事を話している仲間のそばを通りかかりざまに、賭けの内容を聞きもせず「あんたの方に乗った!」というのである。この男が近くにいたモデル業女性の姿を見上げているところを、中継中のテレビカメラに映し出される。たまたまそれをテレビで観ていた奥様が外野席に乗り込んできたことで話はメッチャ複雑になってくる。「私の稼いだお金がどのように使われているかを見に来たのよ!」と奥様は云い、しまいには旦那様の反対に同額をかける始末。旦那が負ければ自分は勝つということで、家庭経済の安定をはかったのである。

  [ピーター・リーガート]は、舞台出身の名脇役で多くの映画に脇役として出演することにより、作品にキリッと山葵を利かせる俳優である。この映画では中心的な登場人物となり、野球の楽しさ、友人に対する思いやり、親子のありかた等を表現した。知ったかぶりの映画評論家は三流映画と呼ぶが、この映画こそ、複数の演技力の確かな俳優の個性がぶつかり合う本物の映画だったのである。

  平成17年に発足した楽天イーグルスを応援する東北人は多い。宮城県仙台球場がホームグランドと云うこともあり、野球がより身近に感じられるからでもあろう。楽天が勝利すれば歓声を張り上げ、まければまけたで「次は頑張れよ!」と一人一人の選手に声をかけるシーンを何度も眼にした。いつの日にかリーグを制覇し、日本シリーズの何試合かを仙台球場に運び込み、東北地方の各家庭からの大歓声が湧き上がる日がきっと来る。ファンは応援するチームの勝利をねがってはいるが、最後にはどちらかが負けるのがスポーツの試合である。負け続けるチームを永く応援し続ける土壌が熟成されて始めて、この日本国に文化としての野球が定着するのであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (3)