五島昇の大東急物語
2012年5月5日
「罰が当たったんだ!」、2011年(平成23年)3月11日以降の福島第一原発事故に際しての石原東京都知事のマスコミ向けのお言葉である。石原知事は決して津波に続く原発事故から逃げることのためパニック寸前の福島県民に対して発言したのではないだろう。おそらく、過失事故の当事者であり福島県民、日本国民、全世界人類に対しての加害者である東京電力と日本政府に向けての発言だったのであろう。そして、過去に土地を提供して原発を誘致した地方自治体をも含んでいるのかもしれない。石原慎太郎氏は1972年(昭和47年)~1995年(平成7年)の23年間、自民党の衆議員議員の身分にあった。その自民党、政府の方針で創りあげた原発に関しては、訳のわからないないことをテレビでまくし立てる自称原子力専門家などよりは受注、建設、運転、保守管理の裏の裏まで知り尽くしているはずだ。原子力村の連中と一緒にたんまりと握り締めた、どなたかに向けて発した「罰が当たったのだ!」だっのかも知れないが、時期が時期だけに不用意な発言だったと、福島県民のもっぱらの感想であった。
現在都知事の石原慎太郎氏(78歳)は、1956年(昭和31年)に24歳の若さで[太陽の季節]をひっさげて彗星のように文壇に登場した慎太郎刈りといわれた髪型の作家だった人である。彼の頭脳からほとばしる才気は幾多の作品を世に送り出し、またたくまに柴田錬三郎に拮抗する流行作家として文壇に確固たる地盤を築き上げた。1967年(昭和42年)に新聞社の調子のよい口車に乗せられ、特派員としてベトナム戦争の取材にいった。そこまでは頼まれていないのにベトコンが蛇の冬眠のようにたむろした集落まで足を伸ばし、よせばよいのに無口で目の鋭い男にインタビューまでしてしまった。帰路に石原氏が乗ったジープが襲撃され、耳元を中国製の鉄砲弾が不気味な音を立てるのを経験している。恐怖のなかで神の啓示でもあっのか、翌年の1963年(昭和43年)の36歳で参議院選挙自民党公認全国区で立候補し、300万票のトップ当選をはたす。1972年(昭和47年)40歳で参議院から衆議院に鞍替えして無所属当選をはたす。当選後、セオリー通り自民党に復党し、渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一と徒党を組み、タカ派的政治集団[清嵐会]を党内につくり、声を涸らして憲法改正と金権政治打破を叫びまわった。この4名中、現在生きているのは石原氏と浜田先生だけだ。良い人は早死にするといわれているが、まんざら嘘とも思えない。
1975年(昭和50年)春、衆議院議員を辞職して東京都知事選挙に出馬し現職の美濃部亮吉にメッタメタに負けた。1976年(昭和51年44歳)の衆議院選で国政に復帰、福田赳夫内閣の環境庁長官となる。5年後の1981年(昭和56年)に、無節制飲酒が原因で大動脈瘤が破裂した2つ下の弟裕次郎を気遣い、視察中の小笠原諸島まで自衛隊飛行艇を手配して東京の病院へ駆けつけた。野党から「公私混同だ!飛行機の燃料代は160万円かかっているのだぞ!」などと叩かれたが、公私混同しない議員などいるわけはなく、質問した議員にいたっては公私混浴で有名な男で、まもなく国会議場の椅子がなくなった。自動車や飛行機は燃料だけで走るわけでなく、まずベラボウに値段の高い飛行機本体が存在しなければならない。飛行機を飛ばすのには、パイロットの他に機内に乗務する人間も必用だ。そんなわけで、もろもろの実費まで計算すると大変な金額になるので、ここでは金勘定をしないほうがよいようだ。なにはともあれ、自衛隊は国民的スターの石原裕次郎の延命がかなったことで、国民に対して今までで一番わかりやすい貢献ができたのだから、詳細についてはいいっこなしにするべきだ。
廻りの同僚議員が馬鹿ばっかりだとでも思ったのか、石原先生は1989年(平成元年)の自民党総裁選に出馬して海部俊樹にあっさり負けた。次の年の1990年の衆議院選で息子石原伸晃とともに親子当選するも、5年後の1995年(平成7年)に議員在職25周年(参議も含む)表彰の国会演説で議員辞職を宣言してサッサと国会議事堂から自宅に帰ってしまった。
1999年(平成11年)また東京都知事選に出馬して、こんどは当選した。以来2011年までの都知事4選をはたし現在にいたる。
以上エッセー集[老いてこそ人生]の著者石原慎太郎氏の今までの歩みだが、特別に御本人を尊敬しているわけではない。ただ石原氏の文壇や政界での実績は素晴らしいものだったと誰もが思っている。特に、おりにふれ石原氏が発するナショナリズムが反映される小気味よい発言には、その都度溜飲をさげさせていただいている。しかし、ときおり見せる世相批判のなかに混じるブルジョア的視野での発言には、庶民的例えで恐縮に思いますが、鰯の小骨が喉にひっかかったような不快感が湧くのである。
石原慎太郎著の[老いてこそ人生]に登場する魅力あふれる人物群の紹介部分には、ひと時のやすらぎを味わった。石原慎太郎氏であったが故に、ここに登場する人物たちとの素晴らしい心の交流が醸し出されたのであろう。過って300万人もの人々が投票用紙に石原氏の名を記したのは、その欠点も利点も、裏も表もひっくるめての支持票だったのだろう。
人は好むと好まざるにかかわらず、その人のもつ分相応のレベル帯を生きていくことになる。1932年(昭和7年)に生まれた石原氏が生きた社会的レベル帯では、日本という国や世界の未来にまで影響力のある人々との交友がなされた。その大勢の中のお一人である五島昇氏は、石原慎太郎氏より16年上である。
五島昇氏は1989年(平成元年)3月に、73歳で他界した東急電鉄会長である。強引な企業拡張策にあけくれたことで、強盗慶太と別称された東急グループの創始者五島慶太の息子である五島昇氏は、父とは正反対の性格を持つ類なき現代的な感覚の持主であった。
若手文化人で結成した[若い日本の会]の発起人の一人である28歳の石原慎太郎氏や劇団四季の創設者浅利慶太氏らは、自分たちの活動の場としての劇場建設案を持っていた。一方、関西から東京進出計画を持つ日本生命社長弘世現が建設予定の自社ビル内に劇場を創る計画を持っていた。弘世現氏から相談を受けていた五島昇氏が、双方を引き合わせてたことで1968年(昭和43年)10月20日にベルリンオペラを招いてこけら落としまでもっていったという[日生劇場]の誕生秘話がある。これは経済界での五島昇氏の影響力なしでは実現しなかった文化的事業である。また、今は閉鎖されているが、当時は日本で一番贅沢なテニスクラブであるとまでいわれた田園調布の[玉川ラケットクラブ]や、日本で一番高級感のあるゴルフ場[茅ヶ崎のスリーハンドレッドクラブ]のような施設を、鋭敏な感覚で時点時点の世相を吸いあげて現実の形にしてしまうのが五島昇氏であった。
五島昇氏は1954年(昭和29年)に東急電鉄社長就任をはたしたが、それ以降、毎年四月末から始まるゴールデンウィークの1週間は、午前4時に下田東急ホテル近くのハーバーから高速クルーザーの舵輪を握る五島昇氏が飛び出していく。このホテルに着いた東急グループ主要企業の社長20余人は、総帥の船出を直立不動で見送る。それから夜の8時までの18時間を太平洋上でカジキマグロを追いかけるのだ。関連企業の社長連中はひたすら帰りをまつことになる。少数のゲストの乗船を許して沖に出た五島昇氏とクルーたちは、ひたすらカツオ鳥の群れを捜し終日海を眺め漁業無線に耳を傾ける。疑似餌を泳がした釣り針のついたワイヤを引き摺るクルーザーの後方100mの波間に、体長3mはあろうかと思われるカジキが跳ね上がった。それを引き寄せる手間ひまが忘れられなくて、来る日も来る日も海原の果てに舳先をあわせるのだ。
夜ともなると釣り上げたカジキやマグロの刺身を肴として、全員での酒盛りが始まる。特に議題があるわけではなく、全員出席が原則の会合は互いの雑談ばかりだ。315社8法人ある東急グループには社長会というものがない。この飲み会が総帥の考えを推し量る唯一の機会なのだ。五島昇は、何気ない人生訓のようなことをポッリという。「これに重要なことが含まれているだよね」と、それを聞きもらすまいと誰もが耳だけは立て五島昇の方に向けている。
日常は財界活動に大部分をさいている五島氏のほうもまた、自分の城下の雰囲気を直に感じとる時でもある。和気あいあいの遊びを名目にしながらも、東急首脳陣の神聖な儀式なのだ。ここは絶対服従の忠誠を確認する場で、東急の支配体制は絶対天皇制だということである。五島昇氏は子会社の役員以上はすべて自分が指名する。そのかわり[まかせっぷりはいい]との評判だった。各部門のどのような大型プロジェクトにも五島昇氏が口を挟むことはなく、各部門が業績悪化に陥ったとしても経営責任を問うことはない。
日本で初めて本格的クルーザーを進水させたのも五島昇氏であった。戦後10年ほど経過した1955年(昭和30年)代に入ると、一部の人間の間にヨット熱が高まった。その火傷の心配のない熱いものは、モーターボートにも点火された。五島昇氏が岡本造船所に大型クルーザー[キティ号]を発注したのが、こんな時期であった。東京向島の料亭でのキティ号進水パーティーの席上で五島氏は、造船所所長に「岡本君、日本もこれからは船上で重要会談をする時代がくるよ」と、さりげなく話しかけた。五島氏が見越した通り、その次の年に岡本造船所は産経新聞社社主水野成夫から超大型モータークルザー[アルション号]を、神奈川県の内山岩太郎知事から大型ヨット[やまゆり号]を受注建造し引き渡した。
1962年(昭和37年)に、石原慎太郎氏の[コンテッサ2世号]が日本人初の外洋ヨットレース[第一回チャイナシーレース(香港~マニラ)]に出て完走した。このレース中に翌1963年(昭和38年)の世界海洋レースの桧舞台である[トランス・パシフィックス・レース(ロサンゼルス~ホノルル)]に挑戦することを決めた彼らは、帰国後すぐに準備にかかった。岡本造船所は石原裕次郎の[コンテッサ3世号]の建造を開始した。翌1963年(昭和38年)春に新山下ヨットハーバーで、慎太郎、裕次郎兄弟と若きヨットマンのクルー立会いのもとで進水式をおこない、これで[トランス・パシフィックス・レース]に参加した。石原慎太郎氏は年齢(年の差16)を超えたマリンスポーツの仲間として、五島昇氏との交友があり、「五島氏との交際はこの世の中での最高のソフィスティケイション(都会風な洗練された雰囲気)を感じさせるものだった」と、彼の著[老いてこそ人生]の中で、カタカナ語をもって当時を回顧している。
[東急不動産㈱のパラオ・リゾート開発]
フィリピンのミンダナ島沖の東約800Kmにあるパラオを含むミクロネシア地域は、スペイン、ドイツの植民地の時代を過ぎた第一次世界対戦後に日本の委任統治領(敗戦国ドイツ領だった非独立地域を国際連盟に委任された国が統治する制度)となった。日本統治の拠点になったのがコロール島で、当時のこの島の住民約34,000人の内の約25,000人が日本人だった。第二次世界大戦の激戦地となったミクロネシア地域は、戦後アメリカ統治時代を迎えるが、このような状況の中でもパラオはきわめて親日的国民生を保ち続けた。つまり、東南アジア諸国同様、勝った側のアメリカよりも負けた日本に対しての親近感が途絶えなかったのである。それは、人の物を我が物顔で根こそぎ奪いセッセと自国に搬送する欧米諸国の横暴と異なり、日本委任統治時代には積極的なインフラ整備を行ったことと、第二次大戦時に当地にあった日本軍は、激戦地となった同地域の住民の安全を極力配慮した記憶があったからである。
東急不動産が独立まもないパラオ共和国にリゾートホテルをオープンしたのは、1984年(昭和59年)だった。この開発前の現地は、大小の島々から流出する土砂汚泥により海中は悲惨な状況下にあった。しかし、生態系をつぶさに調査した東急スタッフの力の結晶が、開発と環境保全の両立を勝ち取ったのである。これは、父五島慶太より事業を引継いだ東急不動産初代社長五島昇氏の、[北米経済圏]、[欧州経済圏]に並ぶべき[環太平洋経済圏]の構築という壮大な発想からのものであった。その一環として五島氏が成したことは、環太平洋への具体的投資としてのホテル開発であった。
五島昇氏が南太平洋に眼を向けるようになったのは、1953年(昭和28年)あたりからである。当時も、ハワイに移動するのには船か飛行機かを選ばなければならなかった。いつ着くかわかったものでない船旅はビジネスには向いていないので飛行機ということになるが、ハワイ便はプロペラ機で航続距離が短いためにあっちこっちの島々に立寄り燃料補給をしながらの時間にこだわらない飛行であった。
東急グループが東亜国内航空という航空会社を経営した背景には[環太平洋経済圏構想]があってのことだろう。環太平洋地域のそれぞれのポイントにシティホテルやリゾートホテルを建設すると同時に、それらの点を繋ぐ航空路を開拓することで人の流れを創生できれば、それぞれの国々が潤う経済システムが可能だと五島昇氏は考えた。
国内リゾート開発でも環境問題を強く意識されることが稀であった1980年(昭和55年)代前半に、東急のパラオ・リゾート開発計画において環境という側面を最優先に据えたのは、五島昇氏が考える以下の理由からである。「欧米型の開発事業では、優れた場所でもリゾート地として30年もたてば俗化して本来の環境が破壊させれてしまう。もっと息の長い観光開発を目指していた1968年(昭和43年)、フィジーのラツ・マラ首相に会う機会があった。彼は『ザ・パシフィック・ウェイ(平和で穏やかな未来)』という言葉で、環境保全を最優先した範囲内開発だけしかみとめられない考えを繰り返し説明され、かの地域での価値観に衝撃を受けた」と振り返っている。つまり、五島昇氏がミクロネシア地域に生きる人々に啓発された部分が大きいのだ。
事業地に決定されたパラオの土地は周囲の海はかなり汚染された状態にあった。現在その海は、ホテル前面の海域が州条例により海洋生物保護区に指定され、多様生物観察可能なシュノーケリングエリア(シュノーケルを着けて水面近くから水中眼鏡で海底を観察できるところ)となっている。2007年には旅行業界の[ワールドトラベルアワード]という格付による[ベスト・ダイビングリゾート・イン・アジア]を受賞している。
五島昇氏も当然のこととして年をとっていった。あるとき石原慎太郎氏がパラオでのダイビングの話しをしたとき、「おい、その齢でまだもぐっているのか、もう考えたほうがいいぞ。あれをやっていると耳にくるんだよ、齢より早く耳がとおくなるってさ。だから俺は止めちゃったよ」と、半分ヤキモチぎみにいっていたそうだ。五島氏が老いのもたらす病で倒れたのが石原氏が運輸大臣に就任した1987年(昭和62年)11月ころで、石原氏は豪壮な五島邸に挨拶に行った。来意をつげると車椅子で出てきた五島氏が開口一番、「なんだいおい、運輸大臣なんて柄の悪い商売を始めたようだな」といわれたものだった。五島氏の役人嫌いは有名で、特に電鉄業に関わり深い運輸省が最も嫌いだったそうだが、それでも石原慎太郎氏在任中は、おりにつけ重要な情報をさりげなく流してくれたそうだ。
五島昇氏の東大時代は野球部のレギラーでキャッチャーとして活躍していたが、もうひとつ身を入れて打ち込んだのがゴルフで、全日本アマの決勝までいったシングルの腕前だった。のちに東急は、五島昇氏の設計により数箇所にゴルフ場をつくることになった。
[スリーハンドレッドクラブ]は、日本一エクスクルーシブ(排他的で閉鎖的で高級とでも訳されるのだろうか?)なゴルフクラブだという。1961年(昭和36年)当時のゴルフ業界では通常20~30万円で会員募集していたが、ここは220万円で募集開始している。名門[程ヶ谷CC]でさえ年会費12,000円だった時ここでは10万円で、当時から一般ゴルファーとは縁のない閉鎖的ゴルフクラブと考えられていた。思いまするに、プレー代が安いの高いのと頭の中で考えるような御仁がおられるのなら、東北地方の奥にある韓国企業経営のゴルフ場が雪に埋もれる直前のコースに出て、自分でバックを担ぎながらプレーすべきなのだ。ただしここでは、ゴルフによる充分な満足感は保証されてはいない。
スリーハンドレッドクラブ開発にさきがけ、五島昇氏の設計で砧(キヌタ)と多摩川に2コースを創りあげていた。1957年(昭和32年)ごろの父慶太の時代に持ち込まれ、茅ヶ崎北部開発の一環としてのゴルフ場計画は存在していた。それは、父慶太の他界した1959年(昭和34年)に五島昇氏の手で着工され、用地を買い増ししながらの開発であった。実際のレイアウトのアウトラインを五島昇氏が決め、設計部の黒沢長夫が施工図に仕上げた。そして、砧Gのグリーンキーパー宮沢長平がグリーンとバンカーを詳細設計図に仕上げた。二人はその後に、確かなコース設計者に成長していった。そして現在、東急グループが関係しているゴルフクラブは、世界規模で120コース前後にのぼる。
スリーハンドレッドクラブのコースは、1962年(昭和37年)9月23日に東急電鉄が神奈川県茅ヶ崎にオープンした18ホールのゴルフ場と、そこによるベリ-・プライベートなメンバーズクラブである。このゴルフ場名の由来は、入会金平均300万円で当初会員定員300名だからだと思われている。実際には、運営上の予算確保からか、一番多かった時の会員数が346名まで膨らんだことがある。
入会基準としては、政治家は首相と外相経験者だけで、生臭い大蔵大臣や自分の金のことばかり考えている経済産業大臣その他は除外される。しかし、日本在住の外国大使にいたっては入会金なし、予約ありのフリーパスである。財界人の場合の基準は、一部上場企業で50歳以上と、こちらも厳しい制約がつく。なお、年会費の10万円については、納付した10万円から来場時の消費額を償却してゆき、それを使い切りそうになったところで、にさらに10万円を追加納入するシステムがとられている。クラブの経費はメンバーが支えるという気骨のある米国のプライベートクラブ方式が採用されているからだというが、私にかかわることは絶対にないからか何らの疑問も湧かない。
なお、この入会基準はワシントン郊外にある[大統領のゴルフ]といわれている名門[バーニングツリーゴルフクラブ]に倣ったようである。ここは、アイゼンハウアー大統領と岸首相が安保協定について、おのおのが自国民のしたたかさをそれとなく匂わせながら、吉田茂が締結した安保条約の改定会議をしたといわれるクラブである。これをモデルにした設計者の五島昇氏が、スリーハンドレッドクラブのプライドをどの辺に置いたかが伺われる。
スリーハンドレッドクラブのコースは、日本のゴルフ場グリーンとしては初めて[ペンクロスクリーピングベントグラス]が採用されている。
4mm以下に刈り込みできる匍匐茎をだす寒冷地にも強い3種類の芝の親株を交互に植栽し無作為交配して生産される一代交雑種の芝を使用するペンクロスクリーピングベントグラスは、今でこそ国内ゴルフ場の70%で使用されているグリーン芝であるが、当時の目が粗くボール制御に難のあるコウライグリーン使用の日本では画期的な芝生であった。当時、ここで使用されたものの値段は、他のベントグラスの12倍だったそうだ。
開発時の土工事は、自然地形の高低をなぞるような設計で進められたために、18ホールの造成完了までの土量移動は12万リューベだけであった。そのために谷筋にかかわった9番ホール手前の深い窪地を埋める土がまにあわなかったために深い谷をそのまま利用した。このためもあって、幸か不幸か、今でも最高の戦略ポイントとして人気を集めているという。この9番と、それに続く10番ホールの戦略的地形を生涯愛した設計者の五島昇氏は[この2ホールは永久に改造してはならない]と遺言したといわれている。10番ホールは、ハウスかたわらの高見から谷の狭間を打ちおろす440ヤード、パー4である。9番ホールと併せたこの2ホールが、スリーハンドレッドクラブのアーメンコーナー(ゲームの行方の鍵を握るコーナー)である。
スリーハンドレッドクラブの所在地は神奈川県茅ヶ崎市甘沼441で、18ホール、6875ヤード、パー72である。コースレートが[未査定]で、コースレコードが[なし]と記載されているところが、キングの鷹揚さが漂っているところであろう。「ここでは、下々のように勝負にこだわってはいけませんよ」とでもいいたいのであろう。
ところで、ゴルフのプレー中継中にびたびでてくる[パー]という言葉は、どんな意味なんだろう。
「やがて五島昇氏は癌に冒されての手術のあとは、今までのように好きなゴルフに打ち込むこともままならず、時おり自分の手で作り上げた茅ヶ崎の[スリーハンドレッドクラブ]にきてハーフをこなした後はテラスや暖炉のあたりのロッキングチェアで毛布に包まって午睡をとっていた。そんな姿は姿で、いかにも五島昇氏らしく洒落(シャラ=粋)に見えたが、以前から絢爛としていた氏を知る者には、『あのアポロもついに老いたのだなあ』と感慨もひとしおだった。陽だまりのロッキングチェアでうつらうつらしながら五島氏は何を考えていたのか、彼の胸に去来するものは何だったのか、はたから眺めて思うだけで心に迫るものがあった。しかしなお五島昇というダンディはダンディらしく老いて、かつ病みながらも瀟洒(ショウシャ=すっきりとあか抜けている)なものだった。あれも男の晩年の一つの理想の姿かもしれない。無類のダンディの五島氏にしても、老いて死を前にしながら自らの過去を思い浮かべてすべて満足ということはなかったに違いない。事業家という人間の欲望の限りが奈辺にあるのかは私にはわからないが、これが政治家となると欲望の対象が何であれその成就のためには権力が不可欠だからもっとあざといものになる。政治家になった限りその是非をいっても栓ないことである。」と、石原慎太郎著[老いてこそ人生]の五島昇氏のコナーは閉じられていた。
[五島昇氏の歩み]
1916年(大正5年)東京駿河台に五島慶太の長男として生まれる。学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学に入学。野球部に入部したが途中でゴルフ部に鞍替。
1940年(昭和15年)東京帝国大学経済学部卒業後に東京芝浦電気(現東芝)に入社。戦時中は陸軍大尉として軍務に服す。
1945年(昭和20年)東京急行電鉄に入社。
1948年(昭和23年)新発足した東急横浜製作所、京浜急行電鉄の取締役となる。
1954年(昭和29年)東京急行電鉄社長に就任。
1956年(昭和31年)東急観光設立。
1959年(昭和34年)武蔵工業大学(現東京都市大学)理事長に就任。東急建設を設立。
同年の父五島慶太の死去の際、東急は東洋精糖の買収工作中で激しい企業紛争中にあったが、息子五島昇はすぐにさま撤退に着手し慶太死後27日後に完全撤退をした。さらに傘下の東急くろがね工業(現日産工機)を清算し、東映を分離するなど拡大したグループの再編をはかる。また、グループ経営の方針に合わせ、航空事業、ホテル事業、リゾート開発部門の新設拡大を図り、最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた。
一方、父慶太が立案した、伊豆急行の建設と田園都市線の延伸といった鉄道施設とその沿線の宅地開発に関しては、父の意思を忠実に実行しそれをやり遂げている。特に現田園都市線の二子玉川から渋谷にあたる[新多摩川線]については、全線地下鉄となり建設費の調達に至難を極めたが、田中角栄が社長を務める越後交通が一時期東急グループに属していたことから政界に顔が利き、鉄建公団が私鉄の路線建設を肩代わりする[鉄建公団P線方式(国が建設資金を出し私鉄側が一定期間で償還する方式)]を成立させ、この制度を始めて利用して新玉川線の建設をはたした。現在、この田園都市線は混雑問題を孕んでいるが、混雑するほど利用者が多いということは商業的な成功といわねばならない。
1960年(昭和35年)五島美術館開館。
1961年(昭和36年)東急エージェンシーを設立。
1964年(昭和39年)日本国内航空を設立。
1967年(昭和42年)東急百貨店本店を開店。
1968年(昭和43年)
東急ホテルチェーンを設立。
1978年(昭和53年)
東急ハンズ渋谷店開業。
1982年(昭和57年)たま東急ハンズ渋谷店を開業。
1983年(昭和58年)東急有線テレビを設立。クレジット・イチマンキュウ(現東急カード)を設立。
1984年(昭和59年)日本商工会議所会頭に就任。これは、友人である当時の中曽根康弘首相に乞われて1984年から1987年まで務めた。
1986年(昭和61年)東急総合研究所を設立。
1987年(昭和62年)東京急行電鉄会長に就任。死去するまでのあいだ、東急グループ各社の会長もしくは相談役に就き、さらに東急の衛星企業であった京王帝都電鉄(現京王電鉄)、小田急電鉄の取締役の他、松竹、歌舞伎座の相談役なども歴任した。
1989年(昭和64年=平成元年)に死去する。
2007年12月急逝した東急建設社長、東急電鉄取締役を務めた五島哲は五島昇氏の長男である。
1998年(平成10年)に東急グループのトップに就いた清水仁は、バブル崩壊後に徹底したリストラを敢行し、無駄な肉を省いた新体制を築き以前と同じ業績に戻してから相談役となり、その後を野本弘文が引継ぎ、東京急行電鉄㈱代表取締役社長になった。
2011年3月現在、255社8法人で構成されている東急グループの、2008年3月期の総売り上げは2兆5,937億円であった。
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