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茶嶺2[陸羽の茶経]

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 現世の自称進歩的な家庭では、急須や湯呑みのような茶道具の備えがない割合が多いと聞く。喉が渇いたら夫婦子供がうちそろって、ペットボトルをラッパ飲みして渇きをいやす。家庭内には冷蔵庫と炊飯器と電子レンジとポットが備わっていて、冷凍食品を電子レンジで解凍してから暖め、スーパーのプラスチック容器ごとテーブルに並べる。インスタント味噌汁や、各種インスタントスープが食器棚一杯に詰め込まれている。スープに具が少なすぎるのが気になる時には、ポテトチップスを掌で砕いて投げ込むと結構歯ごたえのあるジャガイモの微塵切りのようになるらしい。味噌汁を味わう機会は奥様の実家にいったときだけだ。したがって、包丁や俎板や瀬戸物雑器はなにもない。実にシンプルな文化生活のひとコマだ。まもなく、この社会から[日常茶飯事]という熟語は消滅し、それ以後は[日常即席飯事]とでもなるのだろうか。

 スーパーやコンビニの商品ケースの中には、ネジ蓋付きプラスチック製ペットボトルに入った緑茶や烏龍茶の種類が増える一方だ。酒のメーカーや食品メーカーが供給元になっているのは頷けるが、電機メーカーや住宅メーカーや農機具メーカーや原子力メーカーまでもが手を染めているのはなぜだろう。運転中に昼食の時間がないときなど、コンビニに駆け込んでおにぎりを買うときは、必ず茶のボトルをセットのごとくレジに差し出す。なるほど、米の飯には茶以外は似合わない。多くの製造元で造るボトル茶は、順調に消費されているようである。

 茶樹の原産地は中国南部の四川省と福建省の山奥で、そこには太古から20mにも育つ自然木があったようだ。4000年も昔のことなので断言はできないが、初めは飢饉のときなどに柔らかそうな茶葉を鍋にぶち込みぐつぐつと煮て食用にしたと想像できる。灰汁(アク)抜きのために何度も煮汁を捨て、新たな水に換えて煮込んだあとに塩ででも味を調えたのかも知れない。お腹が空きすぎたあまり半分白目になっている家族に、今まで捨てていた茶の煮汁を、とりあえず飲ませてみた賢い奥様が現われたと、仮に想像してみた。しかし、まず、それを飲んだ者の身体に悪影響がないかどうかを試さなければならない。奥様はためらわずに、最近とみに物忘れの激しくなった舅の前に煮汁の入った素焼きの碗を置いた。早めに起きた次の日の朝、死んだように寝床に横たわる舅の身体を恐る恐る覗いていた奥様は、長めの薪で舅の横腹を突いてみた。舅は小さく寝返りをうって己の生存を証明した。どうゆうわけか前日は寝床に入っても眼が爛々と輝きだして眠ることができず、本格的な眠りにはいったのが白々と夜が明け始めた時刻だった。その時代にはまだ発見証明されていなかったカフェインによる覚醒作用が働いたのであろう。

 安心した奥様は、その日の朝食から煮汁を薄めて家族の数だけ食卓に添えたが、生まれて半年の夜泣の激しい3男坊には与えなかった。もうそんなに先はないと思っていた舅が飲んでいるのを見た姑も、7人家族の世帯主の夫も、共にお代わりまでしたのだ。1ヶ月が過ぎたころには周囲のお年寄りも興味をしめして茶の煮汁を飲み始め、この荒削りな野生の味の改善法を積極的に模索した。一人の男が茶葉を鍋に入れる前に枝についたまま炎で炙ってから煮た。その男の煮た茶汁は、喉越しのまろやかさと、熟れたグミのような風味が備わっていたので、瞬く間にその村の全戸に普及した。その男は2年任期の村長に推薦され、以来、無投票の4期目の任期満了の5日前に老衰でなくなった。61歳の厄年だった。

 [陸羽(リクウ=733804年)]1232年前の建中元年(780年)に著わした[茶経(チャキョウ]は、「茶は南方の嘉木(カボク)なり」の言葉から始まっている。嘉木(カボク)とは、「美しい木」、「価値のある木」、「非常に有用な木」などの意味をもっているが、茶樹は温暖な気候を好むので中国南部の福建省や雲南省あたりが現在でも最大産地となっている。茶樹の日本での最北端は福島県最南端の東白川郡矢祭町だと認識している。この矢祭町に5年ほど前の晩秋に立ち寄ったときに、陽当りの良い南斜面に何列にも重なった生垣状のもを眼にしたので尋ねると「茶の木だ」と教えられたので間違えない。私はそのとき初めて茶樹を見た。日本の茶の産地の静岡県あたりの茶園は茶畑という表現がピッタリくるが、中国の四川省や雲南省の茶園の茶樹は、一人の両手では廻りきれないほどの幹の太さで、樹高は6mを超えるものもあるというので、茶の森林と形容すべきものであろう。

 陸羽の生きた中国の唐時代は安禄山の乱などもあり、玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃が756年に殺害されたりしている頃である。当時23歳前後の陸羽は、地元で起こった安禄山の乱の戦火を逃れて江南に逃げ、4年後に呉興(現在の浙興省)に移り他界するまでの44年間を過ごしている。建中元年(780年)に最古の茶書[茶経(チャキョウ]を著したのは48歳前後だったはずだ。捨て子の陸羽の生まれた年が不明なので、前後とか約とかを数字の前後につけているわけである。

 最古の茶書[茶経]103巻からなり、以下の項目について何のことだかさっぱり判らないように表記されている。

[一之源] 茶の起源について。

[二之具] 製茶に使う道具について。

[三之造] 製茶工程について。

[四之器] 茶を点てる茶器について。

[五之煮] 茶の点て方、水と火の良否について。

[六之飲] 飲料について。茶関連の主要人物。当時の茶の種類。悪しき飲み方。

[七之時] 茶経以前の茶に関する書物について。

[八之出] 茶の産地、産地の優劣について。

[九之略] 略式の茶の作法について。

[十之図] 茶席には図解入りの茶経を軸にして掛けておくべきこと。

 [茶経の内容]としては、オリジナルは当然のこととして漢文で書いてある。漢字の羅列の中には常用漢字でないものも多数混じり、悪くいいば時代遅れの字、謙虚に表現するならば自分の手に負えない字で書かれてある。どの漢字もこれ以上線と点を増やせば線同士がくっいてしまう。これを太く削った硬度B鉛筆で書いたりしたら、大きな黒い染みを一個造ることになるだけではないか。こんな厄介なものを拾い出してたのでは手間ひまばかりかかるので、自分の知っている数少ない漢字だけで綴る方式の現代語もどきで表現する。従って、格調と品位に欠ける低級なものになるのは致し方ないことである。

 [一之源]  [茶樹は中国南方の優れものの木である。樹高は60Cm3mぐらいまでが一般的だが、四川省南部から湖北省南部に到る山間部の野生のパンダが棲むような山奥には、二人の大人が手を廻しても、一人の右手の中指と、もう一人の左手の中指の間に10Cm前後の隙間ができるほどの大木もある。人々は、その木の枝をナタで豪快に切り落としてから茶葉を摘むのだ。茶樹の幹は日本でいう苦茶(ニガチャ)という木に似ていて、葉は梔子(クチナシ)の葉に似ている。茶樹の花は白バラのようで、そこに稔る実は棕櫚(シュロ)の実に似ている。実と枝をつなぐ蔕(ヘタ)は丁香(チョウジ)のそれに似ていて、根は胡桃(クルミ)の根に似ている。

 茶樹にとり最も適した土壌は、古生層の水成岩の岩盤が風雨に晒されて崩れかかったようなところで、ゴビの砂漠から風に運ばれた黄土が露出しているような土地はあまり良くない。茶樹の種子を撒いて発芽したものから苗木を作ろうと思っても、または野生の枝を挿し木したり移植しよう思っても、それを根ずかさせるのには高い知識と技術が必用である。それでも種子から育てたいといいだす僭越な希望者には一つだけアドバイスする。たとえば、瓜の種をまくような慎重な方法で管理育成すうるのなら、撒いた種子の3%ぐらいの確立で、3年ぐらいで茶葉を摘むことができるだろう。たとえ全滅したとしても、子供や奥様の過失だと喚きちらさない潔ぎよい精神の持主だけが、茶を作る資格があるのだ。来年はキット成功するだろう。

 品質は野生の茶樹の葉が最上品である。人間の手が加わり過ぎる日本の静岡県内茶農家のものはかなり劣る。京都嵐山あたりの土産物店で売っている茶は信用してはならない。そこで、珍しさのあまり小壷に入った玉露を買ったが、自宅で味わってみたがタンニンの渋さが強かったので失望させられた。急須に高温の湯を注いだせいかも知れないので、販売元へのクレームの電話をこらえたのは正解だった。

 野生の茶樹でも栽培されている茶樹でも、陽の当たる崖の陰にできる林のなかで、葉の色が紫のものが最上級とされる。単に濃い緑のものは次の等級に入る。茶葉の形は筍のようものが上で、道を通る人に見境いなく吼えかかる雑種犬の歯磨きもしたことないような黄色い犬歯のような形は、どの場合でも最悪の品質となる。また、葉が内側に巻いてあるようなものが上質とされ、化粧のりの悪い中高年の奥様連中の肌のように延びきった茶葉は最悪品である(出典―キミマロ)。茶葉には日照も重要な条件で、日陰の山や谷底にはえたものは採るに値しない。そんなものを採って飲もうものなら口のなかや、食道や、胃や十二指腸あたり一面が凝りとどこおり、内臓全体に癌細胞がしこりと共にひろがっていくだろう。茶には以上のような効用と弊害を及ぼす性質がある。生産者に感謝しながら茶の風味を楽しむゆとりを持ち、この飽食の時にあっても人間社会を冷静に見極めて、スーパーやデパートの安売り日に駆け込んで、不必用な物を買い物籠に入れないような強い精神の持主こそ、茶を嗜むにあたいする人物である。

 茶の効用を具体的にいいば、お隣どうしの奥様が原発事故にかかわる放射線量に関しての話をしたあと、その実行犯の無責任さに激昂してたために熱がでて無性に喉がかわいたとき。また、スーパーの売り場隅の壁際に置いてある石焼き芋の大き目のやつを買い、それを一人で食べきって胸やけがおこったとき。または、家庭の収支簿に今日一日の数字記載を始めると必ず起こる頭痛のとき。そして、厳冬の季節に、暖房の効いた市町村施設の村民コーナーに備付けの小説を閉館まで読んでいたために眼がかすんだとき。さらに、普段トイレに行くときだけしか自分の脚を使わないのに、新聞記事にあおられ紅葉の名所に出かけ、3Kmにもおよぶ湖の周囲を急ぎ足で一周した後で手足がだるくなり、間節がガクガクした時などに。あまり安すぎない茶をわずか5口もすすれば、新聞の一面全部を使い宣伝している鮫脂の錠剤を呑んだときのように、また、テレビ画面でイチローが勧めているユンケルを飲んだ時のような効果がジワリ!、ジワリ!、と顕われて、やがて前記の諸病が回復するだろう。しかし、茶摘の時期を誤ったり、勝手に組合員の預金を引下ろしてパチンコに注ぎ込んだとの噂のある農協職員の指導で生産された茶や、野草や枯葉の混じった茶を飲めば、総合病院のどの科にいっても、とりあえず胃薬5日分をだされるくらいの重病におちいるだろう。

 茶が災いとなるのは、ちょうど薬用人参の品質のみたてを誤るのと似ている。最高級の人参は北部中国の山西省長治市で採れ、中級品は韓国で採れ、極悪品質は北朝鮮で採れることは誰もが知っている。茶もまた、茶に適さない寒冷地の中国北部で採れるものなども出回っているが、そんな粗悪品は薬用にならないばかりか、万病のもととなるのが関の山なのである。ましてや、茶葉に似ているソバナのような偽物などが出回っているが、そんな物を服用したとしたら、病原菌の培養器具と化した人体に住む、あまた病気の一つとして治すことはできないであろう。]

 [二之具] 製茶に使う道具[茶摘みから始まり、売り出すがための製品にするための製造道具一式を説明をしている。必用に応じて、次の三之造のところに表記する。]

 [三之造] 製茶工程[ここでの製茶法は一般家庭用のそれではなく、陸羽が模索完成した最高級の茶の製造法だと思われる。

 [茶摘] 茶葉の収穫は太陽暦の35月ころで、最高級の筍(タケノコ)形の茶葉が採れる茶樹は、石灰岩や砂岩が風化したような土壌にはえている。芽の長さは12cm15Cmで、その形は蕨(ワラビ)が初めて芽を伸ばした形に似ている。茶の芽は葉の叢(ム)らがる上に出て、35芽ぐらい固まっているので、そのように抜きんでた枝を選んで採る。茶摘は、朝霧を踏むような早朝から始めるが、雨の日やくもり空の日には休んだほうがよい。

 [殺青(サッセイ=青味をとおる)と揉捻(ジュウネン=茶葉を揉みしばく)] 摘まれた茶葉を竈(カマド)に刃釜(ハガマ=鍔つきの鍋釜)をかけ、素焼きの蒸篭(セイロウ)で蒸し、柔らくなった茶葉を臼にいれて杵で搗(ツ)きあげる。

 [成形] [承(ショウ)]という木か石製の台の上に布巾を敷いたところに[規(キ)]という型を置き、型に搗きあがった餅状の茶葉を詰めて形を造る。成形には相当の圧力が必要なので、動かないように[]の半分を土に埋めて固定する。[]という型はさまざまな形のものがあり、厚手の絹の布巾は一回ごとに取り替えて餅状の茶の水分をとる。

 [乾燥] 成形後の固形茶を、竹の葉を網代に編んだものを二本の竹の間に張った筵(ムシロ)に並べ天日乾燥する。次に固形茶に穴を開けて竹の串を通し、[]という半地下の乾燥炉の中で炭火で最終乾燥をする。

 [保存、熟成] 乾燥された固形茶は[]という保存箱に入れ、木製の枠に竹で編んだ壁に紙を張り密閉して、熱い灰を入れた火桶で温度管理して熟成を待つ。地方によっては、梅雨時に火を焚いて湿度を追い出すところもあるが、乾燥した固形茶の熟成にかかわることなので、とりわけ慎重な作業となる。

 上記の製法で出来上がったものは[蒸青緑茶][固形茶]と呼ばれるが、表面が粗く茶葉の痕跡を留めているものか、茶葉の痕跡の見えない[落雁(ラクガン)状]のものかまでは、茶経の文面から汲み取ることはできない。なお、出来上がった固形茶の等級を8階級に分けて、その一つ一つをこと細かく記載されているが、非常に難しく旧式な漢字を使用して、さらに難しい表現法なので何のことやらわからないので、パス。

 辛うじて、ウエーブサイト[中国茶講座][光と黒さで凸凹しているものを嘉という人は、鑑定のうまくない人である。皺と黄とで凸凹をもって佳というものは、鑑定をするべきでない人である。もし以上に挙げた条件をみな嘉とし、またみな不嘉とする人は鑑定の上手な人である。その理由は、精分を外に出しているものは光があり、精分を内に含んでいるものは皺があり、一晩経ってから作ったものは黒く、その日の内に出来上がったものは黄色であり、蒸して押さえることで凸凹が少なくなり、緩めると凸凹になる。これらのことは茶でも他の草木の葉でも同じである。突き詰めれば、茶の良否は口伝(クデン)による他にはないのかもしれない]とあった。

 上記の記述では、固形茶の良否は外見からでは判断できず、それぞれの状況に立ち個々の製品を見て判断する以外に方法がない。結局のところ、茶は飲んでみて一番うまいと思ったものが一等賞で、値段や銘柄にまどわされてはならない。] 私に限っていいば、急須に茶葉を思い切り放り込み、熱くない湯を時間をかけて注ぎ、湯呑み茶碗の縁から3分の2ほど注がれた茶を一番うまいと思っている。

 [四之器] 茶器 [湯を沸かすためのカマドに始まり、釜、湯をかき回す箸、湯を汲み上げる柄杓、水を入れる容器などの、茶を点てる道具が列挙されているが、その一つ一つの道具名が画数の多い字なので面倒になり、パス。] 

 [五之煮] 茶の煮だし方、水と火の良否 [茶葉のあぶり方は、風の強い日には炎が上って均等な乾燥ができないから、その動く炎に差し出してはならない。茶葉を火に近づけて度々裏表を返していると蝦蟇(ガマ)の背中のような色合いになる。その頃合を見計らい15Cmほど火から離し、板状の茶を巻いてはほごしてあぶり続ける。火で乾燥した餅茶なら気が熟したらやめ、日で干したものなら柔らかくなったらあぶるのをやめる。最初から葉が新しい場合は、蒸して熱いうちに搗(ツ)き始めると、茶葉が爛(タダ)れてたようになっても牙(ガ=牙状の葉)の形や笋(シュン=タケノコ状の葉)の形はそのまま残る。たとい力自慢の人が普通の杵より重いものでついたとしても、牙や笋を爛れさすことはできない。これをあぶると、その節が乳児の力の抜いた腕のようになるので、熱いうちに紙の袋に入れて茶の精分の散越を防ぐ。粉末にするのは冷えてからであるが、上等な粉末は米粉のようで、品質の落ちる粉は菱の実のような凝りがある。

 茶の釜煎(カマイ)りに使う火は炭火が一番である。ただし、一度使った生臭いものや油でよごれた炭はよろしくない。炭の次によいのはクヌギやナラの硬い薪である。薪の場合は、特に柔らかい材質の木や樹脂を多く含んだ針葉樹や、古い家具や解体現場から持ってきた放射性物質が付着した材木を燃やすなどは、もってのほかである。

 水は山の水が一番で、次に川の水で、井戸の水はその次にくる。山の水のなかでも、途絶えることのない泉の水が一番で、綺麗な石に囲まれた池から緩やかに流れ出る水も良い。大量に落ちたぎり急流を駆け下るような水を永く飲んでいるのはよろしくない。こんなものを永く飲み続ければ、おそらく首の病気にかかってしまうだろう。

 複数の谷間から流れ込んで溜まっている水は、それぞれが清流だったとしても捌け口がないわけだから、4月から10月末までは飲まないほうがよい。そんなところには竜が棲みついて水中に毒を残している恐れがある。これを飲もうと思うのなら、溜まっている水の堰(セキ)を開いて溜まり水を空にして、新しく湧き出す水を汲みとるようにしなければならない。河の水を使う時には人家から遠く離れた水を汲み、井戸水は多くの人が頻繁に汲み上げているところなら安心できる。

 水を火にかけて時間がたつと沸き始めるが、魚の目のような気泡が立ちのぼり微かな音がしてくる。このあたりが湯の沸く一段階あたりである。釜の内側に沿って忙しく真玉白玉が立ちつづけるのが二段階である。沸き立つ波が音を立てるようになれば第三段階であり、それよりあとは水が悪戯に老化の道をたどり、飲むに耐えなくなる。

 第一段階の沸き始めに水の分量にあわせて、味を調えるために塩を入れる。

 第二段階の沸き加減を見きわめたら2合ほどの湯を汲み出しておいてから、竹で作った混ぜ棒で釜の湯の中心をくるくるとかき回しておいて、計った茶の粉末を中心に落とす。しばらくすると湯の威勢が波の飛沫をはねるようになるので、先に汲んでおいた湯を釜に戻して湯の威勢を沈める。これが湯の精華を壊さないための点(タ)てかたである。

 沫(マツ)と餑(ホツ)とは湯の華のことだが、湯の華の薄いものを沫(マツ)といい、厚いものを餑(ホツ)といい、細かで軽いものは花という。花は、あたかも棗(ナツメ)の花がふわふわと円い池の水面に漂うようであり、河の淵や渚に青い水草が初めてはいでてきたようでもあり、晴れ渡った爽やかな空にうかぶ鱗雲のようでもある。沫(マツ)は、緑の苔が水辺に浮んでいるようであり、菊の花びらが杯のなかや膳の上に降りかかったようでもある。餑(ホツ)のほうは、よどんだ水を煮て湧き上がるときに、湯の華も沫も共に重なるように白々と雪が積もったようでもある。このことを、ある詩人が「煥々(アカアカ)と積もる雪の如し、輝かし春の花房のごとし」と詠んでいる。

 釜の水が沸き立ったころ、湯の表面が黒い雲母のようになってきたら、それを掬い上げて捨てる。試しにそれを飲んでみることもよいかもしれないが、それは本当の茶の味ではない。最高の湯は、何にものにも比類しないほど旨いのである。それをさめないようにとっておき、湯の精華をはぐくみ沸きかたを促すときに利用することもある。 最初の一碗から二碗、三碗と続けても、第四、第五碗以外は、よほど喉の渇いたとき意外は飲むべきではない。大よそ一升の水を沸かし、汲んで五碗に分けるのがよろしかろう。もし十人もが一同に集うようなことがあれば、炉のほうを2つにすればよいわけである。茶碗を渡されたら熱いうちに飲み干すべきだ。重苦しく濁りがちな部分は下のほうに溜まりやすく、精英な部分は上に浮き上がってくる。一たん冷めかけた茶には、精英な部分が消えうせてしまう。そんなものを飲んだとしても、なんの足しにもならない。茶の性質をズバリといいば、倹(ケン=むだや贅沢をしない)ということになるだろう。たっぷりと広くいきわたるべきではない。たっぷりと飲めば味はうすくなる。一碗をなみなみと満たして飲めば、その半分を啜っても味はうすくなる。そしてそれが沢山あるときはなおさらのことである。茶の色は浅黄色である。その香りは美しいと表現するにたりる。その味は甘かったり苦かったりするのはよろしくなく、飲み口は苦くとも喉越しで甘さを味わうのが茶というものである。]

[六之飲] 飲料。茶関連の主要人物。茶の種類。悪しき飲み方。[翼のあるものは天(アマ)かけて、体毛あるもの(けもの)は地上を走り、口先三寸で生きるもの(人間)は絶えず言葉を発する。これらの生物はみな天地の間に生まれ飲みくいして今をいきている。そして、なにかを飲むという行為も源は遠くにあるのだ。喉の渇きをとめるのにはおも湯を飲み、憂いや怒りを静めるのには酒を呑み、眠気を払うには茶を飲んできた。

 茶が飲料に供されるようになったのは、神農氏(シンノウウジ=紀元前2740年ごろ120歳まで生きた古代中国の伝説の皇帝)に始まり、魯(ロ)の周公により世間に広まった。斉の晏嬰(アンエイ=紀元前550年頃の斉に生きた、身長140Cmで国家采配を振るった宰相で、狐の毛皮の一チョランの衣服を30年間着続けたという伝説的倹約家)や、漢の世の揚雄(ヨウユウ=紀元前10年前後の前漢末期の文人)や、呉の韋曜(イヨウ=270年ごろの呉(ゴ)の政治家で儒学者)や、晋の帳載(チョウサイ=南北朝時代の西晋の詩人)なども皆な茶を愛飲した。かくて時移るにそって広く各戸にも染みとおり、特に唐朝になってからは盛んにもてはやされるようになった。

 茶を飲むといっても、粗茶(ソチャ=荒茶のことで、摘んだ茶葉を蒸して乾燥したものをいい、茶の茎や粉や硬葉の混じった くず茶)、散茶(サンチャ=形茶に対する葉茶をいい粗茶よりは上等のもの)、末茶(マッチャ= 餅茶を臼で搗(ツ)いて粉にし缶に蓄えたもの。ただし、茶葉を直接粉にしたものもあった。日本では[抹茶][挽き茶]とよんでいる)、餅茶(ヘイチャ=乾燥茶葉を蒸してから圧搾固形にしたもの)などの種類があって、それらを切ったり、炒ったり、臼でついたりりしたものを瓶や缶にたくわえて、必用分量を湯を注いで飲むものをイン茶という。ときには、葱(ネギ)や棗(ナツメ)や柑橘類の皮、その他を混ぜて煮て飲料にする風習が今も続いているが、そのようなものはどぶに捨てる雨水に等しいものだが、一向にやめようとはしない。困ったものである。

 天が万物をつくり育むのは、すべてそれぞれがこの世に必要だからだ。人間に知恵があるといっても、たかだか占い箸をジャラジャラもじって易占いをするぐらいではないか。身を覆うのは確りとした家で、身に着ける衣服は精緻にできている。飽きるほどある飲食物で味の追求にも怠りはない。しかし茶を飲むのには九難があるのだ。即ち、一難が製造、二難が鑑別、三難が茶器、四難が火、五難が水、六難が炒り加減、七難が粉末、八難が煎じ方、九難が飲み方と、最後まで難はついてくる。

 曇りの日に茶を摘んだり、夜焙(ホウ)じたりするのは製法にかなってはいない。茶を噛んで味をみたり、匂いをかいだりしするのは鑑定法にかなってはいない。なまぐさい鍋や釜や水を入れる缶などは茶器ではない。油じみた薪やかまどにのこる炭は、火とはいいない。早瀬や溜まり水は、水ではない。表面だけ火が通り内部が生では、炙ったとはいいない。藍色(アイイロ)の塵や、暗い紺色の粉は抹茶ではない。まごまごした手順や、慌しいくかき回す動作は、煎じるというものではない。興味本意に夏に初めて、冬になろうとしたころ止めるのでは、茶の道を覗いたとはいい難い。

 もし珍しい茶で新しく香りの高いものを点てたときは三碗、それに次ぐときは五碗。もし座の客が五人ならば三碗を使い、七人なら五碗、もし六人以上ならば碗の数を決めない。ただ一人だ欠けた時にはそのままにして、その欠いた一人分により、茶の意味深長な味を補うことになる。]

 [七之時] 茶経以前の茶に関する書物。茶に関することが載っている書名をもって、延々とさかのぼって説明している。切りがないので、記載しない。

 [八之出] 茶の産地。産地の優劣。陸羽が知る限りの茶の産地を延々と並べて、等級をつけている。上記七の理由で、パス。

 [九之略] 略式の茶の作法。[茶を難しく考えないで、製茶の七つ道具を使わないで立てることもある。野の寺や、山の茶園に茶を摘み、蒸し、搗き、火にかけて炙って乾きさえしたら、とりわけ道具にこだわることはない。そして煮る容器を石を並べた上におけば、かならずしも竈(カマド)は要らない。涸れた薪や、有り合わせの釜などを持ちえるなら、とくに茶器などを準備することもなかろう。もし、泉の真前にいたり、谷川の岸に座を構えたりした時には、水を汲み置く一切の茶器も必要ない。その時の一座が五客以下なら茶の旨みを充分に堪能することができ、茶を漉(コ)す道具などもいらない。必用に迫られて藤つるに頼ってよじ登ったり、木の根をたぐって崖を踏み越えて、洞窟を潜って進むような場合には、山の入口あたりで火にかざして粉末にしたものを、紙に包んだり箱にいれたりして持ち帰れば、粉末にする臼などもいらないことになる。ただし、都のお城の中や、王侯の邸宅ないでの茶席では、茶器のどれが欠けても客に対しての礼に反する。]

 [十之図] 茶席には茶経を軸にして掛けておくべき。[絹地の六幅ぐらいの大きさの白い布地に、一から九までを図面のように書きとめ茶席の隅にでも掛けておけば、茶に関する全ての項目が一目でわかるだろう。この備えがあれば、茶経の始めから終わりまで理解することができるであろう。]

[茶経の解読について]

 中国の国土面積964K㎡のなかでの5000年間の潮流に揺られて、多くの国が勃興して消えていった。茶聖陸羽が編んだ1232年前の茶経という書物のなかの地名などは、当然のことに現在の地名と異なり、時代ごとの地方朝廷や中央朝廷が、必ずしも同じ文字を使用したのではない。今に残るそれぞれの漢字の誕生は、日曜日の夕ぐれどきに始まるテレビ番組[笑点]の一コーナーで、メンバーの発想から産まれる奇抜な当字と変わらないだろう。古代中国文字は筆数が多い上に複雑な意味が込められているのは、既存の字に別の意味の字を節制なく添え過ぎた結果による(と、思う)。ある中国古典の複数の解説本に眼を通すと、ところどころに解読できない字がでてくるらしく、自分のあるだけの知識を屈指して推理したものを「・・だろう」と、自信なげに記載している。字の解釈上で、同じ結論に達する人と、そうでない人とがでる。こつこつと時間をかけて、楔形文字で書かれたハンムラビ法典の解読に携わった一人ジャン・ボテロ(アッシリア学研究者)らの功績を聞くにつけ、古代文字の解読は動植物化石を基にして、数十億年前の生物の姿を復元する作業と同じように思える。どちらにしても、素晴らしい夢の世界に代わりはない。

 茶経の著者である陸羽は、現在の中国湖南省天門市で、3歳くらいのときに捨てられたのを禅寺の僧侶に拾われて育てられた。そのころの仏門では茶を飲む習慣があったようで、陸羽を育てた僧侶も特に茶に詳しい人だった。陸羽に茶の入れ方を指導したところ、またたくまに腕を上げ、寺主催の茶会の段取りをまかせられるまでなった。育て親は、ときおり宮廷に顔を出すほどの知識人で、並外れた陸羽の聡明さに仏門に帰依させようとはかったが、彼はキッパリと儒学の世界に進むみたい旨を伝える。僧侶はなおも説得に当たったが、9歳の陸羽の大弁論は僧侶を怒らせてしまうことになった。以後の陸羽には、あらゆる雑役苦役が科せられた。苦役のあいまに独学を続け知識の蓄積は順調だったが、僧侶の指示があったのか先輩寺男に暴力を振るわれるようになる。貴重な時間を雑用に費やすことに耐え切れずに12歳の陸羽は禅寺から逃げ出した。

 寺院から出た陸羽は芝居一座に飛び込んだ。陸羽の顔はお世辞にも美男子とは呼べず、重度のドモリの癖もあったことから三枚目の役ばかりだった。いつしか台本の執筆と舞台監督まで兼任するようになり、劇団員の信頼を得るようになる。1年後に地方長官の李斉物に出会った。李斉物は、政争の渦中のまっただなかにあり、反対勢力にはかられて地方長官に左遷されたのだ。さらに、政敵の放った刺客に命を狙われるような時期で、それらの緊張をほごすための陸羽の一座の芝居見物であった。陸羽の素質を認めた李斉物は、高名な先生の塾に紹介し、学費負担を申し出た。陸羽は李斉物の精神的な緊張をほぐすために、心を込めた茶でもてなした。

 752年(天保11年)、元文部省長官で左遷され競陸にきた[崔國輔]と知りあい、両者は対等の付き合いで文学やお茶の話をして長い時を過ごした。この崔國輔とは終身の友となった。755年に安史之乱が起こり、陸羽も南に逃げた。陸羽がたどり着いたのは土壌や気候に恵まれた[江南]で、名茶を産する茶どころであった。

 当時の雲南省のある地方の茶の出し方は、茶の木の枝を手折り火にさっと炙り、それを熱湯に投げ入れ煮たてたもをの飲むという豪快なものだという。中国の三国時代以前は、茶葉をそのまま煮て飲んでいる。ただし、茶葉は天日に干し、貯蔵できるように加工されてはいた。

 魏晋以降は[餅茶(ヘイチャ)]といい、乾燥した茶葉を圧搾して固形にするのが一般的であった。飲む時はこれを斫(キ)り刻んだあとに、炒(イ)ったり煬(アブ)ったりしてから臼で搗(ツ)いて末茶にした。茶葉を煮て飲む方法も続いてはいただろうが、7世紀の隋唐以後は末茶が主流だったので、陸羽が飲んでいたのも末茶だったと思われる。

 唐宋代には末茶が主流だったが、現代の中国には末茶はない。しかし茶文化の輸入元である日本には、確りと残されている。その他でも、中国で消滅したものを数えると、日本に残っているものは沢山あるようだ。茶聖陸羽は804年に没しているが、その険徳の精神だけは1208年後のこの日本の、ごく限られた人々に受け継がれているにとおどまるようである。

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