茶嶺3[抹茶紀行]
2012年2月8日
「今の相撲取りは、酒(日本酒)を飲まずにウィスキーやブランデーばかり飲んでいる。相撲取りは酒を飲まなければ、お客様を惚れ惚れとさせる肌の色を造れない。相撲取りは相撲取りらしい肢体を土俵上で示すのもサービスの一つだ。体力維持と技の向上のための必死の稽古も大切だが、この世界に受け継がれてきた日常的な食習慣なども無視してはならない」大相撲第45代横綱[初代若乃花]が1962年に引退し、1976年(昭和63年)~1992年(平成3年)の相撲協会理事長時代に、相撲界の風潮に苦言ともおもわれる言葉をもらしたことがある。厳しい相撲界で苦しい修行に耐え抜いた外国出身の優秀力士の台頭は賞賛に値するものだが、平成の世に入り平成24年初場所までに在位した日本出身の横綱は5人で、貴乃花が2002年(平成14年)2月に引退して以来、日本出身横綱は出現していない。また、日本出身力士の優勝は2006年1月場所の栃東の優勝以来36場所にわたり影をひそめている。国際色豊かな力士が土俵上で繰り広げる取り組みも魅力溢れるものだが、同民族が培ってきた相撲取り魂が小さく縮んでいく昨今の流れを見ていると、テレビ前面空間に霞のような、そこはかとした哀愁が漂ってくるのである。武士の情けとしての星の貸し借りは昔からあったのだから、ファンとしても、そんなに悪いこととは思っていない。警察官や検察官や宗教法人内部の人々や、世界中の有名大学の法学部の教授連中も味わっている賭博の痺れるような魅力を、日本古来の花札賭博が最も似合う相撲取りに「やめろ!」と押さえ込むという行為は間違いである。国や地方自治体が胴元になり大規模に運営している競馬、競輪がある以上、些細な楽しみの良否を問うべきではない。むしろ、ラスベガスやモナコやマカオに出かけて大負けをしている日本人が絶えないのなら、国営の総合賭博場を列島太平洋沿岸に、間隔をとり5箇所ほど早急にオープンすべきである。なにをどれだけ賭けようと、人間は自己責任の範囲内で生きているのだ。自分のことを棚に挙げていうのだが、相撲取りが十両にあがるのも、幕内にあがるのも、三役にあがってそれを維持するのも、安定した成績を積みあげて大関にあがるのも、2回連続で優勝してそれなりの人格も磨き上げて横綱を締めるのも、繰り返す稽古によって身心を鍛え、稽古によって反射神経を身につけて絶対の自分だけの攻撃と護りの型を身につけることに尽きるようだ。身につけた型を磨きこむのも、さらに厳しい連続した稽古であろう。そして、武士の情けを実践しても、野球の得点を賭けの対象にしようが、相撲ファンの前では全身全霊からの謙虚さの演出は必用であろう。どうも、自分でなにをいっているか、ほとんど判らなくなってきた。
ダイコンの漬物と、焼秋刀魚をおかずにして、ナメコと豆腐の味噌汁をすすり、米の飯を喰っていた子供のころの幸せな夕餉のときを懐かしく思い浮かべることがある。食事のあとで飲む熱すぎるお茶が、なんと旨かったことか。こんな懐古趣味は、私ばかりかと思っていたら、知人の一人も同じようなことを話していた。3度の食事の後や、午前10時ごろと午後3時ごろに熱い茶を飲むのは日本人ばかりと思っていたら、イギリスを含めたヨーロッパの国々でも同じ習慣があるという。もっとも彼らが飲む茶が紅茶だという違いはある。冷たくなった茶は、お年寄りが食事の続編として口にする7種類もの病院お勧めの錠剤を飲むとき以外は歓迎されないものである。脳味噌が乾いてしまうほどの真夏でも、熱い茶は万人に喜ばれる飲料である。冷たい飲料が氾濫している現在ではあるが、冷たくなくてはならないのはウィスキーのオンザロックとビールぐらいで、その他の冷えた飲料が身体に悪影響を及ぼさないはずはない。消化器官を冷やすことは、その機能を低下させ、嵩じれば総合病院の待合ホールで延々と順番待ちをする常連になりさがってしまうだろう。
「緑茶、抹茶、烏龍茶、紅茶の違いはなんなのだろう」と時々考えていたが、たいした問題ではないので、疑問におもうのをその都度忘れていた。
[緑茶]の定義は[摘み取った茶葉を加熱処理して発酵を停止させたもの。もしくは、それに湯を注ぎ、精分を抽出した飲料をいう。日本では、日本茶と同意に使用されている]となる。厳密には、煎茶(センチャ)、ほうじ茶、抹茶なども緑茶であり、発酵を止めるために茶葉を蒸している。または、発酵止めに釜炒りの方法をとる銘柄もある。上記の蒸すと炒るとの他の発酵止め方法としては、火に炙る、日光に晒す、などもある。
日本での緑茶の種類は、
①[抹茶(挽茶→茶道に使用)] 碾茶(茶葉を蒸したものを乾燥したもの)を石臼で挽き微小な粉末にしたもの。[濃茶(黒味を帯びた濃緑色)]と[薄茶(鮮やかな青緑色)]がある。茶道での濃茶は、茶杓(サシャク)3杯の抹茶を少量の湯で練りあげるように点てる。薄茶の場合は、茶杓1杯の抹茶に柄杓(ヒシャク)半分の湯を茶筅で撹拌して点てる。
②[粉抹茶]は、抽出した液体をフリーズドライ(真空凍結乾燥)した粉末と、茶葉そのものを粉末にしたものがある。抹茶より粗い粉末で、ティーパッグや御菓子の材料にする。
③[煎茶→煎茶道の材料にする] [玉露(福岡県八女市で多く生産される)]もその一つで、狭義の[煎茶]は最も一般的な茶をいう。
[烏龍茶]は、「茶葉の発酵途中で過熱した半発酵のもの」
[紅茶]とは「摘み取った茶葉を発酵させ、さらに揉み込み完全発酵させた茶葉。もしくは、それをポットに入れ、沸騰した湯を注ぎ抽出した飲料」をいう。茶の発酵は微生物の力を借りたものではなく、茶葉に含まれている酵素による酵素発酵である。紅茶はヨーロッパで広く飲用され、特にアイルランドでは朝昼晩のほか午前と午後のティータイム時には、カップを持ったほうの小指を立てて飲むようである。
陳瞬臣著の[茶の話]によると、雲南省(ラオス、ベトナム等の国境に近い中国南部)のある地方に取材で行ったおり、茶樹の枝を手折り火にさっと炙り、それを熱湯に投げ入れ煮たてたもをの御馳走になったとのことである。戴いた陳氏も、さぞや野趣のある豪快な茶の飲みかただと思ったことであろう。味のほうは、「口に含むと、なんとなく茶のような味がする」程度のものだったとの感想であった。そもそも、人間が茶の味を覚えたのは、このようなところからだと想像できる。また、雲南からラオス、ビルマ北部では、野菜のように茶を食べる習慣もあるという。
中国の三国時代(中国内に魏、蜀、呉の三人の皇帝が成立していた220~280年)以前は、茶葉をそのまま煮て飲んでいる。ただし、茶葉は天日に干し、貯蔵できるように加工されていた。魏晋南北朝時代(280~589年)以降には[餅茶(ヘイチャ)]という、乾燥した茶葉を圧搾して固形にするのが一般的であった。飲む時はこれを斫(キ)り刻んだあとに、炒(イ)ったり煬(アブ)ったりしてから臼で搗(ツ)いて粉にした。つまりは、末茶にしたわけである。茶葉を煮て飲む方法も続いていたが、7世紀の隋(ズイ=581~618年)唐(618年~907年)以後は末茶が主流になった。[茶経(チャキョウ)]を編んだ陸羽が飲んでいたのは、おもに末茶で、これが日本の茶道の原型でもあろう。
陸羽の[茶経]には茶の種類として、[觕茶(ソチャ)]、[散茶]、[末茶]、[餅茶(ヘイチャ)]の4つを上げている。
1、[觕茶(ソチャ)]の觕は「粗」の意味で、「くず茶」のこと。
2、[散茶]固形茶に対する葉茶をいい、觕茶より上質のもの。
3、[末茶]は、餅茶を臼で搗(ツ)いて粉にし缶に蓄えたもの。ただし、茶葉を直接粉にしたものもあった。日本では[抹茶]とか[挽き茶]とよんでいる。
4、[餅茶(ヘイチャ)]は乾燥茶葉を圧搾固形にしたもの。
明(ミン=1368~1644年)の代になってからの[団茶]という固形茶は、陸羽の生きた唐代のものより贅(ゼイ)をつくしたものだった。唐代の固形茶[餅茶]は搗いて粉にして固めたものだが、[研膏茶(ケンコウチャ)]という北宋(960~1126年)代の固形茶は、茶葉を研って粉にしてあるので、より細かい粉末になる。この粉になったものを固形化するのに、竜の鋳型の銀板で圧えて固形化したものを[竜団]とよんだ。蒸した茶葉を[膏(コウ)]といい、これを研って粉にしたのが[研膏茶]である。
宋(北宋960~1126年・南宋1127~1279年)は繊細さが尊(タット)ばれた時代である。宋の歴代皇帝のいずれもが一流の文化人で、特に北宋末期の[徽宗(キソウ)]は、画家としても書家としても超一流の人物だった。したがって、宮廷には洗練された趣味人が集い、彼らの舌は茶の味に敏感であった。彼らの欲求を満たすために、つぎからつぎに上等の茶がつくられ、福建で固形にした表面が蠟のようにすべすべした[蠟面茶(ロウメンチャ)]が朝廷に進貢された。さらにこれを超える[竜鳳茶(リュウホウチャ)]が、福建の茶産地の特別な地を選び[北苑]と名づけられたところで作られた。北苑では、朝廷への献上茶だけを栽培し、竜と鳳の型にいれて団茶にした。[竜鳳茶]の[竜茶]は天子に献上され、天子から親王(シンノウ=嫡出の皇子)や長主(天子の姉妹)と、執政に下賜(カシ)された。その他の皇族や重臣たちに下賜されるのが[鳳茶]である。さらに、竜鳳茶より高級な団茶が出現した。宋の書の4大家の一人[蔡襄(サイジョウ=1012~1067)]が福建の租税運輸官時代に創製して献上した[小竜団]を、[仁宗]がいたくお気に召された。
蔡襄は福建の出身で豊富な産地知識を持っていた。福建から中央の職に転じたときに、仁宗より茶についての下問をうけた。彼がその内容をまとめたのが[茶録(1051年頃でた茶書)]である。仁宗は小竜団をこよなく愛し、宰相級の家臣にも下賜(カシ)しなかった。一度だけの例外は、2つの政治最高機関の8人に対し2個下賜したことがあった。4人で1個であるから1個を4等分に切断して持ち帰ったのだろう。そんな高価な物を持ち帰っても家臣たちが削って茶を点てるわけではなく、家宝として飾っておき知人の訪問を受けたときなど手に触らせたりして自慢したに違いない。権威ある帝から下賜され、飾っておくだけの置物は茶とはよべない。茶は飲むものであるから、そんなものを陸羽は一番嫌っていた。今から40年も前の話だが、ブランデーの銘柄でナポレオンというものをどなたかに贈られて、封も切らずに永くサイドボードに飾っていた人物がいたが、そのボトルと人物ともに、尊敬することはできなかった。よく私も、そんなことまで覚えていたものである。
家宝になるような小竜団だったが、元豊年間(1078~1085年)にできた[蜜雲竜]に首位を奪われた。さらに、徽宗(キソウ=1082~1135年)の大観年間(1107~1110年)に[御苑玉芽]、[万寿竜芽]、[無比寿芽]の3つの茶が作られ蜜雲竜の上にランクされた。ついで宣和2年(1120年)に、転運使(唐・宋代の地方官名―物資運輸業務を司った)の[鄭可簡(テイカカン)]により[新竜園勝雪]が作られ、最上位にランクされた。これは、厳選された熟芽の上皮をはいで、芯の一筋だけを残し、これを清水につけ、白い銀の線のようにしたものを材料にしている。聞くだけで、素晴らしい味だろうと思うが、これはチットやりすぎだと関係者がいったという。茶には小芽、中芽、白合、烏帯とがあり、小芽は非常に小さく鷹の爪のようである。歳貢中最初につくられる[竜園勝雪]は、この小芽を用いる。まず蒸熱して、それを水盆の中に浸し、わずか針のように小さな蕊(ズイ)だけほじりだして造るそうだ。
靖康元年(1126年)女真族(満州族)の金が、宋の首都[開封]を陥し、欽宗と退位していた父の徽宗を北地へ連れ去り、宋王朝は滅びる。欽宗の弟[趙構]が南に逃れ、杭州に首都をおく[南宋1127~1279年]として再建した。北半分をとられ、淮河(ワイガ=淮水ともいう)以南を保つのみとなった南宋と区別して、これまでの宋を北宋とよんだ。
北宋滅亡の原因は、保守派と革新派との党争が国家活力を弱めた原因の一つだった。争いは国家財政の逼迫(ヒッパク)をまねき、この逼迫は朝廷の贅沢も原因の一つとなる。茶の品質を追い求めて、金に糸目をつけぬ姿勢が亡国につながったのである。それは、陸羽のいう倹徳のおしえにそむいた報いであると、陸羽ファンが毒づいた。
[綱]という字の意味は大量に貨物のことなので、[茶綱]とは献上茶を大量に運ぶことをいう。北宋末期の[綱]の評判が悪かったのは[花石綱]のためである。中国は南の豊富な物資を北に運び、全体のバランスをとっていた。食料や必需品になっていた民衆が消費する茶などもその中に含まれていた。小竜団のような極上品は全体からいいば微量である。[茶綱]といっても大部分は庶民用の廉価なものだ。ところが、芸術家皇帝の徽宗(キソウ)は、黄河圏の首都開封で、江南の風物を楽しもうとした。北方にない江南の名木、名花、奇岩、珍岩などを大量に運搬させたのが[花石綱]であった。奇岩で最も珍重されたのが、かって陸羽たちがほとりに住んだ太湖の水底からとれる[太湖石]であった。ダイナマイトもクレーン車もない時代に水底の岩石の切り取り引き上げは、いかばかりだったか。この非生産的な労力は民間人の手になるものだ。茶の芽の上皮を剥ぎ取る作業での労働は、太湖石採取に劣るものではなかった。[綱]は宮廷御用達なので、運搬道中に威張り散らしたという。この[綱]のお通りには民衆は大いに迷惑を被った。[水滸伝(中国1368~1644年の明代に書かれた歴史伝奇小説)]の物語は、このような時代を背景にしている。南宋になってからは首都は杭州だったことと、北宋の常識はずれの消費指向を見知っていたので、なにごとによらず、慎重な行政が続いた。
中国に末茶がすたれた原因は、明の初代皇帝[洪武帝(コウブテイ=1328~1398年)]が1391年(洪武24年)に団茶の進貢をやめて、葉茶にすることに改めたことにある。団茶は手間暇がかかるもので人民の労力を省くために廃止した。素朴主義者の洪武帝の趣味にも合わなかったともいわれている。
宇治市は京都府の南部に位置し、鎌倉時代前期から現在に到るまでブランド緑茶生産地としての名を維持してきた。現在の宇治市を中心とした抹茶生産工程のあらましは、次のとおりである。
1、新芽が伸びる4月下旬から茶園に[よしず]を拡げ、10日間にわたり木漏れ日程度に日光を緩く遮る。その後は[よしず]の上に何回にも分けて[わらふり]と呼ばれる作業のワラで均等に覆っていく。新芽は日光を遮ることで光の方向に薄く伸びながら葉緑素を蓄え、鮮やかな緑になっていく。この過程で、旨味の素になるアミノ酸が蓄積されることになる。新芽は、20日以上に渡り、直射日光と霜の害を防ぎながら育てる。
2、日光遮断育成のために薄く成長した茶葉の茶摘は、5月中旬から人間の手によって進められる。抹茶原料となる[碾茶(テンチャ)]用茶葉の収穫は、特に一番茶を年一回だけとして、品質の管理をしている。
3、摘まれた茶葉は強力な蒸気で蒸しあげる。これは茶に含まれるビタミンCを分解してしまう酸化酵素の働きを抑え、発酵を止めるための作業である。
4、蒸された茶葉は、ほごしながら散らす機械にかけられ水分が取り除かれ、乾燥炉の中で乾燥される。この段階の茶葉を[碾茶(テンチャ)の荒茶]という。
5、乾燥された荒茶は、茶箱に密閉されて冷蔵保存され、そこから必要分だけ出庫されて次の精選加工工程にまわされる。
6、出庫された荒茶は均等の大きさに切断され、唐箕(トウミ)の風の力で茎や葉脈を採り除く。選別された柔らかい葉肉を[ねり]という仕上げ乾燥をすることより茶独特の香りが強化される。この段階の茶葉は静電気を帯びていることを利用して、高圧電器選別機で混入している古葉や藁くずを取り除く。
7、出来上がった[碾茶(テンチャ)=抹茶原料]は検査工程にかけられ、外観、味、香り、水色、かす色をみきわめられる。
8、様々な視点からの構成要因をチェックされた碾茶は、品質の均等化を図るためのブレンドがなされる。
9、ブレンドされた碾茶は、石臼で時間をかけて木目細かに挽かれる。化学万能の世でも、ミクロの単位の粒子を得る石臼を超える機械は、いまだかって造られていない。
日本に茶を伝えたのは、770年に27歳で渡唐した平安初期の僧侶[永忠(ヨウチュウ)743~816]だと、定説になっている。それまで遣唐使や日本からの留学生が帰国の際に、唐からの御土産程度に茶を持ち帰り、家族や友人に試飲させた、だろうことは十分に想像される。だが、在唐35年にも及ぶ永忠は、喫茶の習慣を含めた先進国である唐の文化を日本に紹介することを真剣に考え、茶樹の種子や苗木を携えて帰国したのである。
62歳の永忠(ヨウチュウ)は、805年(延暦24年)に[空海]や[最澄]が渡唐した折の[遣唐大使の藤原葛野麻呂(フジハラノカドノマル=奈良・平安時代の貴族)]が役目を果たし帰国する船に便乗して帰国している。この同じ船で[最澄(サイチョウ=日本天台宗開祖767~822年)]も帰国したが、[空海(クウカイ=弘法大師として知られる真言宗の開祖774~834年)]は長安にとどまっている。永忠の帰国前には、31歳の空海に35年の在唐生活を語り、様々な助言などを含め語り明かしたことであろう。
永忠(ヨウチュウ)が帰国した805年は、唐年号で貞元最後の年で、茶聖といわれている茶経著者の陸羽が死去した年だった。そこには、[倹徳の茶]がいきいきと息吹く時代があった。平安時代の[日本後紀(平安初期に編まれ、840年に完成した勅撰史記)]には、「嵯峨天皇が梵釈寺大僧都[永忠]から、中国唐伝来の団茶を奉納された」との記述がある。この頃の茶の傾向は、ごくうすいものを口にしていた。この喫茶の習慣がこうじた平安時代の貴族は、お茶の産地銘柄を当てる闘茶のような遊びをする華やいだものであった。
永忠が持ち込んだ茶は、平安朝の宮廷人の間に浸透して日本国土に定着したかに見えたが、喫茶の習慣は宮廷内より一歩も外には出ず、一般庶民には縁の薄いものだった。そのうちに、菅原道真(平安貴族で政治家で、今でも学問神として崇められいる。845~903年)の進言などにより遣唐使制度そのものが廃止され、唐風のしきたりは次第に日本から消滅していった。いつしか、基盤の弱かった宮廷貴族茶は廃れていった。
その後の中国内の茶も大きく変わり、北宋の歴代皇帝の茶に対する飽くなき追求は、[新竜園勝雪]を頂点とする絶品の数々を生んだ。この茶に対する過剰な追求は、陸羽の謳った「心を清め、質素、倹約を旨とする」の倹徳の精神はどこにもなかった。驕り高ぶった宮廷内の悪しき習慣は、北宋を滅亡へと導いていった。[栄西]は、このような時勢の南宋に渡り、茶の産地の[浙江(セッコウ=東シナ海沿岸の省)]の諸寺を訪ねたのだ。
南宋には、北宋滅亡への反省があったからだろうが、北宋代には多数の茶書がだされたが南宋代に入ると茶書は一つも見られなかった。唐代の険徳の精神まで戻ったとも思われないが、社会経済万事にわたり慎重な行政が続いた。栄西は控えめになった南宋の茶を、それも素朴をたっとぶ禅寺の飲み方を会得して日本に帰った。日本で茶が下火になった時期は、北宋の狂乱期にあたっていた。それをやり過ごすようにして、栄西がたおやかで深みのある茶を日本に持ち込んだのである。すでに、この時期に仏教は庶民に浸透していたので、かっての平安期の茶のように貴族間での一時の華美な流行と異なり、広く深く根をのばして定着したのだ。
[栄西(ヨウサイ=臨済宗の開祖1141~1215)]の2度に渡るの渡宋(南宋期)の2回目は、後鳥羽天皇の1187年(文治3年)から5年間であった。永忠らが持ち込んだ茶樹をもとにした日本の茶園が荒れていたこの時期に、栄西が新しい茶の種子や苗木を持ち帰ったのである。平安初期の永忠(ヨウチュウ)の帰国から、源頼朝が鎌倉幕府を開く前年に栄西(ヨウサイ)が帰国するまで、実に386年が経過していた。宋代の中国に渡り禅宗を学んだ[栄西(ヨウサイ)]は、帰国後の1191年(建久2年)にその教えを広め、日本臨済宗の開祖となっている。鎌倉時代の[喫茶養生記(1214年に栄西が編んだ我が国最古の茶書)]に「栄西(ヨウサイ)、源実朝(頼朝の子で、12歳で鎌倉幕府第三代征夷大将軍)に抹茶を献じる」とあり、禅宗寺院に[茶礼(サレイ=茶の湯の作法)]が定着していたことをうかがい知ることができる。それは、日本茶道の祖といわれる[南浦紹明(ナンボジョウミョウ)鎌倉後期の臨済宗の禅僧]が、宋代(1260年)の中国から茶道具と共に茶会の作法なども取り寄せるなどして、主人と客との精神的な交流を重視した華やかな茶の湯に発展していった。
室町・北山文化時代(足利3代将軍時1358~1408年)には、足利将軍の[会所=身分差を気にせず、皇族、公卿、殿上人、僧、同朋衆(ドウボウシュウ=将軍のそばで絵師など芸能に当たった者)などが集う場所]では、唐絵、花瓶、香炉、文房具が飾られ、会所では懐石(食事+酒+茶)が振舞われた。華やかな上層階級だけの茶会であった。
室町・東山文化時代(足利8代将軍時1436~1490年)には、会所は同朋衆により、座敷飾り、唐絵・唐者の管理・鑑定・連歌等が行われ、同朋衆の中から[能阿弥]、[芸阿弥]、[相阿弥]が登場し、会所を通じ[唐物荘厳の茶(美術品の鑑賞をかねた茶会?)]が大成された。
一方、この時代の[村田珠光(ムラタジュコウ1422~1502年、浄土宗の僧侶)]が、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求した結果、侘び茶の基盤を築いた。今まで公家や武家や寺社などの大広間の会所で行われていた茶会から、珠光創出の4畳半まで縮小された茶室での無言の会話の世界へ移行していった。その弟子である古市澄胤(フルイチチョウイン)による淋間茶湯(風呂+茶の湯)、武野紹鴎(タケノジョウオウ)による和歌の思想による和風化も追求され、さらに紹鴎の弟子[千利休]は[侘び茶]を大成し、草庵を1畳半茶室まで深化させた。そこでは、「花は花のように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心をつけけよ」という、自然に逆らわず、万物すべてを慈しみの対象とする深い精神の会話がなされたのであろう。この時代の巷にも、社寺門前のような大衆が集う場所に茶売りが登場するなど、庶民への一服一銭(路傍の茶)の茶売りが始まった。それは庶民の住む一戸一戸に茶の文化が浸透するきっかけとなった。
安土桃山時代(織田信長京都上洛1568年~豊臣秀吉死去1598年の時代)の[会所の茶]は、信長、秀吉による同盟者や配下の武将を集めての政道の茶となり、古田織部の[織部茶碗]や小堀遠州[きれいさび]などの[大名茶]になっていった。一方での禁中では、後水尾天皇による[禁中の茶(茶の湯+遊宴)]が始まり、常習院宮(皇族が宮廷や私邸に集う?)による[茶の湯]の伝承が行なわれていた。他方、千家の[侘び茶]は子孫に伝承され、千宗左(表千家)、千宗室(裏千家)、千宗守(武者小路千家)となって、現在まで伝承されている。
江戸時代(徳川家康が征夷大将軍になった1603年~明治時代に移る1868年)には、裏千家において[侘び茶]の手前作法として[七次式]が創案され、その作法は後世まで伝承された。七事式とは侘び茶の手順で、[茶かふき]、[廻り炭]、[廻り花]、[炭座]、[花月]、[一二三]、[員茶]で、それぞれに厳しい様式があてられているようである。
一方、織部、遠州、などの系譜をもつ大名茶が、片桐石州により4代将軍家綱へ献茶されたが、このころになると利休の[侘び茶]にたちかえる傾向なども見られる。そして、松平不味(松江藩7代藩主で江戸時代有数の茶人)の[古今名物類聚(茶の湯名物道具の書)]を経て、井伊直弼(江戸時代末期の彦根藩藩主)著[茶湯一会集]に到達した。茶書である茶湯一会集には、茶道の理念である一瞬、一瞬を大切にするという意の[一期一会]を通し、客と主人の心構えをあらわしている。
明治時代(1868~1912年)には、明治維新により茶の湯などを含めた日本伝統文化が否定されて衰退していったが、千家の侘び茶は力強い家元制度のもとに伝承されていた。一方大名茶と禁中茶は、政界財界の裕福な人たちによる[数寄者の茶]として統合された。現在の世に、西の光悦会、東の大師会としてつづいているようだ。数寄者の意味は、社会的に名を成した裕福な[趣味人]と、中小企業経営者タイプのそこそこの金持の[道楽者]とに分けられる。
大正時代(1912~1926年)には、千家の侘び茶は学校茶道を展開し、女性の茶の湯として定着した。これは、和ダンスに収納されていた和服の着用機会を増やした。一方、数寄者の茶は、岡倉天心(明治期に活躍した文人で思想家)の[The book of TEA(茶の本)-1906年]により、米国ニューヨークの上層階級に紹介され[茶の湯]の国際展開がはじまった。
昭和時代(1926~1989年)には、女性の嗜みの一つとして、[茶の湯]が大衆化して今日に到っている。花嫁修業の一環としての茶の湯だったが、夫になった人が奥様の茶の湯を口にしたという話は、ついぞ聞いたことがない。
平成時代(1989年~)には、村興し、町興しのために市町村がこじ付け開催する、観光イベントのために、テント張りのなかで点てた抹茶をふるまう光景が特に目に付くようになった。事前に茶の予約券を求めて椅子に座って待っていると、テント奥の茶釜前に座った横幅のある着物姿の60代の妙齢な女性が茶の湯作法どおりのしぐさで茶を点てる。スーパーの瀬戸物コーナーに並んでいる茶碗とは雰囲気の異なる抹茶茶碗を持った別の女性が、椅子に座った客の前に静々と運んでくる。客は茶碗を両手で持ち、底のほうの申しわけ程度の分量の濁り水を口に含むのである。この場合の茶の湯は茶の歴史のどの点前にも当てはまらず、主催者へのお義理の、気のすすまないお点前と、他方の客としても侘びや寂とはかけ離れた、単なる時間つぶしだった。
これを[お互いさまの茶の湯]と命名する。
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