« 地震、海鳴、放射線 | トップページ | 茶嶺1[茶の原産地] »

天皇の七人の侍

2012115

 [[ときは戦国、ある山間の小さな村に侍の墓が四つ並んだ。

 野心と功名に憑(ツ)かれた狂気の時代に、全く名利をかえりみず哀れな百姓達のために斗った七人の侍達の話。

 彼らは無名のまま風の様に去った。

 しかし、彼らのやさしい心と勇ましい行為は今猶(イマナオ)美しく語り傳えられている。

 彼らこそ侍だ!]

 1954年(昭和29年)、東宝映画[七人の侍]を一般公開するにあたって、この映画を監督した黒澤明が予告編のために記した文章である]]

                  ・

 [七人の侍]1952年(昭和27年)に黒澤明によって企画され、1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)にかけて黒澤監督で東宝が製作し、1954年(昭和30年)4月に公開されたものである。 

 太平洋戦争終結の9年後に公開された当時の世相としては、連日各新聞紙上に掲載された 1954年(昭和29年)31PM342分にアメリカがおこなったビキニ環礁での水爆実験の話題で持ちきりだった。これは、ミクロネシア連邦マーシャル海域のアメリカが設定した危険水域外で、日本国籍の這い縄マグロ漁操業中の第五福竜丸ほか数百艘にのぼる漁船と、それらの乗組員被爆者と周辺島々の住人あわせて2万人と、漁獲マグロが死の灰に汚染されるという大事件であった。この時期に[原爆マグロ]が流行語になった。

                  ・

 [羅生門][生きる]で脚本を執筆した橋本忍(脚本家で映画監督)は、1952年(昭和27年)[生きる(志村喬主演の現代劇)]の撮影中の黒澤明に、次回作の時代劇脚本の準備を依頼された。まず最初に、二人の話し合いのなかで[侍の一日]と仮題された物語を、思い付いた。

 黒澤と橋本で練り上げた[侍の一日]の粗筋は、[徳川初期(1600年の「関ヶ原」の10年ぐらい後)のある藩の、家格(禄高)120石ほどの一人の侍が、朝に目醒め、月代(ツキヤキ)を剃り、髪を結い、朝食をすませ、大小をたばさんで登城する。職場である勘定組の仕事部屋では、何事もなく昼飯の時間がおとずれようとしていた。昼飯時にはいつも、幼友達で馬廻り組にある友人と弁当を食べながら子供時代のことなどを語りあうのが常であった。だが、午後の書類整理の仕事中に、その侍自身に関する思いがけない不祥事が発覚する。藩領山林の木材運び出しをめぐり、この侍の不注意による重大な計算違いがあったのだ。侍は家老に報告すると共に、みずから進み出て切腹を申し出る。彼は自宅庭の満開の桜の下で割腹するのだが、彼は馬廻り役の友人を介錯人として指名する。・・・]

 黒澤と橋本の[侍の一日]の構想では、1952428日にGHQのあらゆる統制が解かれ日本が主権回復したいま、これまでの検閲下では通らなかった切腹シーンを撮るという、思い入れがあった。彼らは、切腹という行為を、武士の名誉を賭けた究極の自己表現として描いてみたかった。だがこの企画には、思いがけない欠陥が隠れていた。

 元禄期(1688年)以前の日本には昼食という習慣はなく、朝と夜の一日二食が当然とされていたことが判明したのだ。二人は活路を開くために歴史文献を読みあさりもしたが、二人の親友の昼食場面は全体の複線になる大切な部分なので削るわけにはいかない。さればといって、その時代に昼食の習慣がないのに、この歴史的大前提を覆すこともできずに[侍の一日]は廃棄された。

 黒澤が次に橋本に提案したのが、[剣豪たちの列伝]であった。橋本が手がけたものは、正徳年間(1711年~1716年)に天道流の達人[日夏弥助繁高]により執筆された[本朝武藝小傳]という書物を元に、[上泉伊勢守秀綱][塚原卜傳][宮本武蔵]といった剣豪の逸話をオムニバス形式で作ろうというものであった

 [本朝武藝小傳]内の[上泉伊勢守の逸話]の一つを記すと、こんな塩梅になる。

 [上泉伊豆守が諸国修行のおり、民家を囲んで村人が大騒ぎをしているところに行き当たった。民家の中に、役人の手から逃れた盗人が幼児を人質に立て篭もっているという。子供を危険に晒すので無理押しするわけにもいかず、村人も困りはてていた。伊豆守は「私がなんとかしよう。そこの坊さん、その袈裟(ケサ)を貸してくれぬか。そこで泣いているのは子供の母親か、剃刀と握り飯を2つ急いで持ってきてくれぬか」、伊豆の守は頭を水で湿らせて髪を坊さんに剃ってもらい、その坊さんの袈裟を着けると盗人が立て篭もっている民家の入り口に近づき、「なかの者、そんな罪も無い子供を泣かしてどうする。子供に握り飯を持ってきたから喰わせてやれ。お前の分も一つあるぞ。ここを開けるからさわがずにそこにおれ」、恐怖で泣き叫ぶ盗人にかまわず玄関の戸を引き開けて、「ほら、わしは坊主だ。お前に危害は加えんぞ。ほれ、これをその子供の喰わせなされ。もう一つはお前の分だぞ」と罪人の手に握らせるやいなや、その手を取って引きつけ子供をむしりとり、盗人を押さえつけた。その後に村人が盗人を打ち殺した。子供を母親にわたし袈裟を坊さんに返すと、「おぬしの深い思慮と、その行動力こそ、まさしく武士(モノノフ)の誉(ホマレ)だ。真(マコト)の武士は、かくあるべきなり」と坊さんが言葉をかけてた。伊豆の守は、だまって、何事もなかったようにその場を立ち去っていった。]

 [本朝武藝小傳]にはこのような逸話の数々が何十人分も載っていて、戦前より講談本や現代の小説家たちの種本となっている。橋本忍はこれらの逸話を数珠繋ぎに並べて、最後に[榊原健吉(幕末から明治にかけての剣豪)]で閉める構成を脚本化した。この脚本を見た黒澤は「これはだめだ!ここにはクライマックスだけが一杯で、その前の起承転結がない」と感想を洩らし、またもや不採用とになった。

 困り果てた黒澤と橋本は、本木荘三郎([生きる][七人の侍]などの製作者)を交えて知恵を絞っていたが、会話の中で戦国時代の武者修行についての話しに移った。本木は「戦国時代の治安は、ほかの時代と比べて非常に悪かった。進軍途中の足軽や、戦の後の落ち武者が頻繁に農民集落を襲うので、百姓は自衛のために、[腹いっぱいの飯を食わせる]という条件で、浪人たちを雇い入れたようなことがあったらしい」と話した。黒澤と橋本は本木ににじり寄った。[腹一杯の飯を報酬として百姓に雇われる浪人]を切り口として、今までにない時代劇が作れると直感したのだ。そして「七人の喰い詰め浪人が百姓に雇われ、野武士の集団に戦いを挑み全滅させる」という大筋が出来上がった。

 黒澤と橋本は、もう一人の脚本家[小国英雄(戦中マキノ正博の脚本を担当していた売れっ子脚本家)]を招き入れ、熱海の旅館に閉じこもって脚本執筆が開始された。このとき黒澤が持参した分厚い大学ノートには、すでに作ろうとする映画の中心となる七人の侍の人物像のあらかたが、木材を鑿(ノミ)で彫り刻むごとく書き込まれてあった。

 橋本は橋本で、いままで苦労して書き上げて没になった[剣豪列伝]の挿話を、この物語にそっくり使えると判断した。それは、これまで時間軸に並べてきた剣豪たちの挿話を、水平軸に並べなおせばよかったのだ。かくて、熱海での二ケ月余の缶詰の後に、半ベラ(200字詰原稿用紙)で504枚の脚本が残された。誰もが、この物語が映画として実現した時には、前代未聞の規模と長さになることを予感して、三つの胸は早鐘のように高鳴った。

                 ・

 黒澤明、橋本忍、小国英雄の手によって完成された[七人の侍]の脚本内の粗筋は、以下のようなものだった。

[[時は天正初期(1574年~)、織田信長の目の上の腫れ物のごとき武田信玄が死に、時勢は信長の絶頂期にあった。度重なる戦乱のなかで敗者となった侍や足軽のなかには、野武士となって盗賊に身を沈める者も少なくなかった。

 早春のある日の午後、山裾から湧き出すように15騎ほどの野武士集団が小さな集落を見下ろす丘の上に姿を現した。この村は彼らが昨年の秋に襲った村で、少なくなったアジトの食料の補充のための下見にきたのだ。村がまだ、麦の穫り入れ前であることを確認すると「穫り入れの終った時期にまたこよう」と走り去っていった。奇しくも物陰で野武士どもの会話を聞いていた一人の村人が村長にしらせ、たちまち恐怖は村中に広がっていった。恐れおののく村人たちのなかの有志数名は、また指図を仰ぐために水車小屋に住む長老の許を訪れた。

 「戦うべし!腹の減った侍を雇い入れ、その者どもと一緒に自分たちも最善をつくすべし!」長老の言葉で4人の村人が町に出て侍捜しをはじめる。強そうな侍を見つけると「腹いっぱい食べさせるから、野武士からおらが村を守ってくれ」と声を掛けるも、誰一人として村人の言葉に耳を傾ける者はいなかった。途方にくれた村人は、一人の侍の奇妙な行動を目にする。その侍は自分の頭の髻(モトドリ)を躊躇なく小柄で切り落とすと、傍らの坊様が剃刀で侍の頭をそり落とした。村人から渡された握り飯を両手に持った坊主頭の侍は、子供を人質にした盗人の立て篭もる民家に近づいていった。なにやら盗人と言葉を交わした思ったら、突然民家内に走りこみ子供を取り戻した。村人はこの侍をおいて相談できる者はないと悟り、誠心誠意を込めて説得にあたった。この初老の侍は勘兵衛と名のり村人の窮状を黙って聞いていたが、差し出された白米の飯椀を握り「お主たちのこの飯を、決しておろそかには喰わぬぞ!」と、承諾の言葉を返した。自分を入れて七人の手練(テダレ)が必用という彼は人選を始めたが、喰うだけで他に報酬の無い命がけの仕事を引き受ける者など簡単に見つかるはずもなかった。

 若年の[勝四郎]が名のりをあげたが、実力も経験も少ないので「お前には無理だ!」と相手にしなかった。この少年は、盗人から子供を助けだすの見て以来勘兵衛から離れようとしないので好きなようにさせておいた。

 最初に仲間に入った穏やかな性格の[五郎兵衛]は、「わしは百姓のためではなく、気に入ったお主のために戦う」と勘兵衛の顔を見て微笑んだ。

 あらくれ浪人に無理に勝負を挑まれ、自信過剰なその男を一刀のもとに切り捨てた冷静沈着な浪人[久蔵]を、勘兵衛が説き伏せて仲間に入れた。

 茶屋での飯代の代わりに身体で返すといって薪割をしていた陽気な浪人[平八]を見つけたのは、五郎兵衛だった。

 勘兵衛の昔からの相棒の[七郎次]が偶然通りかかり、6人が揃った。

 村人より受けあってから時間が経ちすぎてしまったので、あと一人は諦めることにして出発したが、勘兵衛が子供を助けたとき以来なにかと付きまとっている粗野な浪人[菊千代]が「仲間に入れてくるよ!」と執拗に6人の後をついてきた。村に到着した一行を待っていたのは、警戒心のために物陰に隠れた村人たちだった。菊千代の型破りな機転で、村人の警戒心が解けたのを見て、平八は勘兵衛に「これで七人がそろったな!」といった。

 勘兵衛らは村の内外を見て廻り、脆弱な村全体の防備を固める計画を立てた。そして村人たちも、侍たちの根気よい指導のもとで竹槍の稽古に励み、少しずつ逞しさをましていった。南側の出入り口である橋を決戦前に落とし、その川の南に広がる田圃には水を張り騎馬で近づけないようにした。橋を落とした内側には材木を組んだ防護柵を作った。東側にも柵を作ったが、川の外側にある民家は守りきれないので、防護の整った内部に避難するよう指示した。西側は急傾斜地の自然の要害だ。北側だけは、あえて野武士の目を引くように、騎馬が通れるほどの隙間を開いておいた。ここから1騎ずつ誘い込んで、一人ずつ倒していく作戦である。

 麦の収穫が終わったころ3人の野武士の物見が、南側に回り込み柵に近づいてきた。だが、不用意な菊千代の声に気づき森に逃げ込んだ。すぐに久蔵と菊千代が裏手の森に分け入り、3人の物見を倒して3頭の馬を手に入れた。勘兵衛は奪った馬と村人の馬を合わせた4頭を使い、明け方前に野武士のアジトの様子を探ることを指示した。平八、 久蔵、菊千代、そして案内役として村人の一人の[利吉]が選ばれた。彼ら4人は、山奥の野武士のアジトの寝込みを襲い火を放った。逃げ出す野武士の何人かを切り殺したが、野武士の銃弾に平八が倒された。そして、さらわれて野武士の頭領の情婦になっていた利吉の妻は、利吉と顔を合わせた途端に炎の中に身をおどらせ焼死した。

 次の日の真昼どき、態勢を立て直した野武士団の襲撃が開始された。柵と堀で騎馬は防ぐことができたが、村の防護柵の外にあった3軒の農家は火を放たれ消失した。最後まで動こうとしなかった長老と、それを連れ戻しにいった息子夫婦が野武士の餌食になった。かろうじて手負いの嫁が抱いて出た赤ん坊は、嫁が絶命する瞬間に菊千代の手に渡された。その日の夜から朝にかけて勘兵衛の思うとおりの作戦が功を奏し、野武士団の人数は15人までに減っいたが、五郎兵衛と村人の多くが死んでいった。追い詰められた野武士との決戦の前夜、互いに惹かれあっていた勝四郎と村娘が結ばれた。

 次の日の早朝、折からの豪雨を押して13騎の野武士の群れが、地鳴りのような蹄の音を轟かせて村のなかに押しよせてきた。久蔵が、民家に潜んだ野武士の頭領の鉄砲に倒れた。それを見た菊千代が、無防備で頭領に近づき至近から鉄砲で撃たれた。最後の力を振り絞った菊千代は、野武士の頭領を泥の海と化した路上に追い詰め、その身体に刀を深く沈めた。そして、野武士の最後の一人の呼吸が止まった。だが菊千代の目も硬く閉ざさられ、二度と開くことはなかった。

 初夏の爽やかな空の下に村じゅう総出の田植えが始められた。賑やかな笛や太鼓の音が聞こえる丘の上に立つ勘兵衛、七郎次、 勝四郎の3人の前には、それぞれに刀の突き刺された4つの土饅頭があった。

 「また生き残ってしまったな。今度も負け戦か。」「え!」と振り向く七郎次に、「勝ったのは百姓たちで、わしたちではない」勘兵衛のしずかな声が返った]]

                 ・

 [七人の侍]1953527日に撮影が開始された。会社側には、8月一杯で撮影と編集を終了して、秋に一般公開という胸算用があった。黒澤明のほうは始から会社側の予定など歯牙にもかけず、予定した75日の撮影期間は4倍にも膨れ上がっていた。会社側の上層部は危惧を抱いた。製作打ち切りか続行かと意見が二つに割れ、撮影は中断された。

 内容の細部に懲りすぎて予算を食い潰していく黒澤のやり方に異議を唱える会社側は、黒澤に話し合いを申しでた。たっぷり詰問された黒澤は、その場に役員向けの試写を用意していた。それは、物語の導入部に始まり、七人の侍を集め、村の防護を固め、野武士が山の斜面から怒涛のごとく駆け下りてくる場面でフイルムは止まった。騒然とする役員の一人に「これの続きは!」と詰め寄られた黒澤は「ここから先はひとコマも撮っていません」と答えた。ハッタリではなく、黒澤は本当のことをいったのだった。会社側と黒澤は、そのまま予算会議に移行した。必用な予算をつけてもらった黒澤は、いつ終るかも予測のつかない撮影をまた開始した。

 ロケ地では馬にけられる俳優が続出したり、弓矢が俳優の身体に本当に刺さったりで、撮影はたびたび中断した。その他いたるところに顔をだす障害のために日程は次々に遅延し、スタッフと出演者の誰の身体にも疲労が覆い被さっていった。最終的には、当初3ヶ月の撮影予定期間は1年チョットまで延びに伸びたのだった。

 撮影遅延の最大の原因は、この映画の舞台として黒澤が心に描いていた理想的集落を発見することができなかったことにある。北の裏山には深い森があり、東から南に小川が流れていて、その間の狭い平地に十数軒の農家が建ち並び、小川のむこう側が一面の田で、村の東側に何軒かの農家と水車小屋があるところなど、見つかるはずがなかったのだ。妥協することを知らぬ黒澤は、[七人の侍]の舞台はこのような山間の地形の上の集落でなければならないと、確信していたのだ。だが、日本と連合軍との長い戦争は国土を疲弊させ、労力の不足は畑を荒れ放題にさせた。さらに政府の政策での無計画な伐採により、日本じゅうに禿山が顔を覗かせていた。

 焦りが渦巻いていたところに、ロケハンの一斑が伊豆半島の付け根の[下丹那(シモタンナ)]に黒澤原案に近い村落を見つけてきた。だがそこは、民家群が傾斜の多い所に建ち並び、村内の戦闘を含む総てのシーンをそこで撮影することは不可能だった。窮余の策として、この集落の全景は、野武士集団が崖上から百姓集落の全景を見下ろす冒頭部分だけに使用し、別に伊豆や御殿場や箱根などの七箇所のロケ地を使い分けて撮影することになった。つまり、それぞれに撮影された数々のカットは、あたかも一箇所の集落内外でのシーンとしてフイルム編集時に組み立てることにしたのだ。また、このロケ地の撮影とは別に、集落内の広場のオープンセットは東宝撮影所内に作られ、侍が寄宿する農家、水車小屋、冒頭の木賃宿などのセットも、そこに別々に作られた。

 野外のシーンが多い作品の場合での映画では、一箇所の舞台周辺として複数の空間に分散して撮影し、異なる場所の映像を編集するのには神経をすり減らす作業が付いて回る。離れた土地でのそれぞれのカットを、虚構の統一空間にもとずき物語ったときに、それが観客の眼に違和感を覚えさせてはならない。そのためには、地形の位置と登場人物の動作の向きや、カメラの位置などをめぐって細かな打合せが必用だった。特に異なる場所で取った天候の違いは重大であり、カメラと証明の担当者に大きな負担を強いることになる。

 ほとんどの俳優たちが馬に不慣れで、圧倒的な迫力で馬が迫ってくると、百姓役も侍役でさえもが自分の演技を放棄して逃げ腰になってしまった。また、馬を乗りこなせる野武士役を捜すのも難しく、調教された馬を捜すのはもっと難しかった。当時はどこの農家でも、戦時中に軍馬として供出したので良馬を見つけ出すことはむずかしかった。ジョン・フォードの西部劇を信奉する黒澤としては、それらのことことごとくに激怒して、スタッフを意味なく怒鳴りつけた。そして容赦なく怒鳴られた馬は、必要以上に荒れ狂った。

 黒澤はいつの場合でも移動カメラでの撮影を好まず、その代用として望遠レンズをわずかに振ることで撮っていた。混戦の戦闘場面や火事の撮影のように、二度と撮り直しのきかない撮影のときは迷わず複数のカメラを同時に廻した。当時3台のカメラが常時使用されていたが、カメラ8台を同時に使用したこともあった。七人の侍での水車小屋の炎上シーンなどでは、燃え落ち方が気に入らないと三日間にわたって3回撮り直した。

 大変な困難が絶えず押し寄せた撮影も終わり[七人の侍]は完成した。最後のショットが撮影されたのは、撮影開始から294日後の1954316日であった。最初の予算は7000万円だった製作費は、すべてが終わって計算してみると3倍の21000万円となっていた。それは、一般の劇映画なら7本製作できる額であった。会社側の役員は、黒澤に隠すこともせずに唇を噛締めた。

                  ・

 [七人の侍]が公開されたのは、1954年(昭和29年)426日からのゴールデン・ウィークであった。別の配給系の劇場では、オードリー・ヘップパーンの[ローマの休日]や、岸恵子と佐田啓二(中井貴一の父)が主演した[君の名は(第三部)]であった。また、大手映画会社のチャンバラ映画の黄金期は続き、長谷川一夫の[酔いどれ二刀流]、高田浩吉の[人肌千両]、東映御子様ランチ映画[笛吹き童子]などなどが犇きあっていた。上記のような安くて早く製作される平和的環境のなかへ、突然巨大スケールの[七人の侍]が割り込んできたのである。

 金のかかった分を早めに回収したいと思った東宝の宣伝部では、交差点の角の雑貨屋の窓ガラスに貼り付ける泥絵具のポスーターだけには頼らず、公開10日前のポスターには、三船敏郎が大きく刀を振りかぶっている絵の横に[世界に誇る巨匠が西部劇に敢然挑戦][堂々三時間半『風と共に去りぬ』を破る興奮と感動!]と、1954415日の朝日新聞紙上に大きな広告を載せた。

 さらに東宝は、公開3日前の23日には、侍一人ひとりの性格を紹介したり、[粘り屋の黒澤明がネをあげたという苦闘の結晶]といってみた。さらに、公開当日の夕刊には[この映画を見ない人は映画を語る資格なし!]とまでいったが、さすがに言い過ぎたと思ったのか、東宝宣伝担当者は朝日新聞の記者と会ったとき、急いで物陰に隠れた。予想に違わず大入りが続き、公開翌日27日の朝日新聞評に[西部劇をしのぐ迫力]と題する、匿名の記者が書いたと思われる投稿記事などもあり、大ヒットした。このチョウチン記事を匿名で投稿したたくだんの記者は、臨時収入を手にクラブに繰り出し、大酒飲んだ。

 ある映画評論家の1960年代後半の講演で[七人の侍は自民党の内部で大好評であった。前年警察予備隊から格上げになった「自衛隊」の必要性を説いた映画で、黒澤も自衛隊論者だ]といい、本人をいたく腐らせた。そればかりか、自衛隊の本元から直接、七人の侍の中で勘兵衛が採用した戦術の出典の問い合わせがあったという。なんとも、心細く、「大丈夫ですか!」と励ましてあげたいほどの兵隊さんだった。お蔭さんで今では、朝鮮半島の南北の国と、中国やロシアを対象とした積極的な作戦立案を自前でできるまでになっている。

                  ・

  [七人の侍]の、公開3日前の23日の広告での[侍一人ひとりの性格の紹介]は、こんな感じであった。

 [島田勘兵衛(シマダカンベエ)―志村喬]

 七人の侍の頭領格の50歳に手の届くと思われる歴戦の武士で、敗け戦続きで浪人となっている。白髪が目立つ頭を、劇中での人助けのためにそり落とし、その丸坊主の後頭部を撫ぜるのが癖になっている。野武士から村人を守る仕事には消極的だったが、木賃宿での村人を贔屓する人足の言葉や、村人のひたむきな態度を見て話しにのることになる。野武士との戦いでは侍と村人を効率よく動かす頭脳的作戦を持って、最後には野武士団を壊滅に追いこむ。弓の達人で、雨の中の最終決戦では正統派の弓扱いで馬上の野武士を次々に射落とす。身に着ける衣装は、平造合口拵(ヒラズクリアイクチコシラエ)の短刀に打刀拵(ウチガタナコシラエ)の太刀と、戦国時代後期の初老の武士の正統的衣装を着けている。

 [菊千代(キクチヨ)―三船敏郎]

 勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてくる野生的な言動の男。長すぎる刀を担いで浪人を装ってはいるが、勘兵衛に百姓出であることを見破られる。型破りな血の気の多い男だが、危機にあっては百姓と侍を取り持つ仲介役としての能力を発揮する。また隠された優しさを感じた子供たちの人気者でもある。野武士との戦いでは川沿いの守りを任され、最後に野武士の頭領と差しちがえで倒し、自らの命も落とす。

 [岡本勝四郎(オカモトカツシロウ)―木村功]

 育ちの良い郷士の子だが家を飛び出して浪人になる。まだ前髪も下ろさない半人前のメンバー最年少者で、勘兵衛の立ち得振る前に魅了され弟子入りを願い出る。実戦経験はなく、野武士との戦いでは伝令役をこなし、この闘争事件そのものを若々しい敏感な感性で受けとめる役。

 [片山五郎兵衛(カタヤマゴロベエ)―稲場義男]

 勘兵衛がメンバー集めのために物陰に勝四郎を隠し、入ってきた者を薪で打ちかかり腕試しをしようとした考えを、入口の外で感じ取れるだけの武道の腕を持つ。勘兵衛の、村人の窮地を助けようとする心に打たれ助成を申し出る。もの柔らかな侍で、経験豊富で軍学をたしなみ、勘兵衛の参謀役として野武士団と戦う。

 [七郎次(シチロウジ)―加藤大介]

 勘兵衛の最も忠実な家臣で、勘兵衛が古女房と形容している侍。過去の戦場で離ればなれになってしまったが、物売りとして道を歩いているとき偶然に勘兵衛と再会する。野武士との戦いでは西口の守りに着く。

 [林田平八(ハヤシダヘイハチ)―千秋実]

 どんな苦境の中でも深刻にならない愛想の良い浪人で、茶屋での飯代を薪割で返している最中に五郎兵衛に誘われる。野武士との戦闘前に士気高揚の旗を作ったが、野武士のアジトに先制の夜襲をかけたときに銃弾で死亡する。

 [久蔵(キュウゾウ)―宮口精二]

 修行の旅を続ける無双の剣客で、自分の腕だけをたよりに生きる侍。彼の決闘を見ていた勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」と評価したが、木賃宿の勘兵衛を訪ねてきて協力を申し出る。他の6人と異なり、野武士との決戦には何の防具もつけずに北の山側の防御に着く。

                  ・

 七人の侍のほかには、村人のなかには、黒澤作品常連の[藤原鎌足][左卜全][津島恵子]がいて、野武士の一人として[上田吉二郎]がいる。野武士団の頭領役の[高木新平]は、ダグラス・フェアバンクスの[怪傑ゾロ]の日本版といわれる[怪傑鷹]に主演した、大正から昭和初期には自分のプロダクションを持って製作監督も手がけた無声映画時代のスターであった。また黒澤作品では、[蜘蛛の巣城][用心棒]にも出演している。

 仲代達矢は、勘兵衛と村人が町の道路を行き交う人物を物色しているとき、浪人者の一人として道路を歩いていくが、その役でも黒澤に何度もNGを出され、「あの目玉ばかりギョロギョロしている男は使い物にならない」といわれ、クレジットに名前も載らなかった。若い仲代達矢も口にこそ出さなかったが、黒澤明を積極的に高い評価をしなかっだろうと推測できる。だが、仲代達也が他の監督の映画出演でめきめき名を上げてきた頃に、[用心棒]での「三船敏郎に対抗できるのは彼だけだ」という黒澤ジキジキの出演依頼が入る。仲代は固辞したが結局出演して、その後の[椿三十郎][天国と地獄][影武者][]と黒澤作品の主役として定着し、話題にもなった。

 [七人の侍]には、もう一人すごい俳優が出ている。ダグラス・フェアバンクスの[バクダツトの盗賊]で敵役のモンゴル王子役の[ソウジン=上山草人]である。勘兵衛らが泊まった木賃宿の最初のシーンに、琵琶を掻き鳴らしていた痩せて陰気な琵琶法師がそうである。1920年前後のハリウッドでは知らぬ者のいない迷脇役で、演技しなくとも背筋が冷たくなるほど壮烈な人だった。

                 ・

 1954年(昭和28)に日本で公開された西部劇に[荒野の七人]がある。この内容は正式に黒澤明監督の七人の侍の映画化権を取得したアメリカ俳優により製作されたものである。1950年代半ばから1970年代半ばにかけて、頭をつるつるに剃り上げたハリウッド映画俳優がいた。1920年にロシアのウラジオストックに生まれた[ユル・ブリンナー]である。[十戒(1956年―36歳)]でモーゼ役のチャールトン・ヘストンの敵役のエジプト王や、[王様と私]のシャム王役で押しも押されぬ大スターとなっていた彼は、黒澤監督の[七人の侍]をみるや八方手を尽くし、アメリカでの翻訳映画権を買い取り[荒野の七人]を撮ったわけである

 戦国時代の日本を西部時代のメキシコに舞台を代えて、七人の侍は七人のガンマンにされている。大筋はそのままだが、多少ストーリに改良の後がみられる。ここでも、七人のガンマンの魅力的な性格付けが見所となった。事実、この映画で評判をとり、元々ビックスターだったブリンナーは別として、映画公開以後にスター街道を驀進していった者が6人いる。

                  ・

 ジョン・スタージェス監督の[荒野の七人]のストーリーで7人のガンマンは、以下のとおりである。

 [クリス・アダムス       →  ユル・ブリンナー]

 七人の侍での勘兵衛に当たる役で、七人のガンマンのリーダー。ガンマンと村人のまとめ役で、どうゆうわけか、帽子から靴、靴下まで真っ黒け。頭だけがツルッ禿げだ。

 [ヴィン        →  スティーブ・マックイーン]

 七人の侍での五郎兵衛と七郎次を混ぜたような役で、軽妙洒脱な性格。早撃ちの名手でありながら、拳銃が幅を利かす時代は過去ったと自覚している。マックイーンはこの後ビッグスターとなり、3年後に同じ監督の[大脱走]にでて人気を不動のものにした。だが、胸の内側の癌が原因で50歳のおりに他界する。

 [チコ          →  ホルスト・ブッフホルツ]

 七人の侍での勝四郎と菊千代を混ぜ合わせたような役で、メンバー内で最年少。リーダーのクリスに憧れを持ち、「ついてくるな」といわれても村まで跡をつけてきた。ホルスト・ブッフホルツは1933年にドイツに生まれて、15歳ころから舞台に立っていた。1950年代には[ドイツのジェームス・ディーン]として人気を得て、1960年代のハリウッドに進出した。数多い作品に出演して、200370歳の折に肺炎で亡くなっている。

 [ベルナンド・オライリー → チャールズ・ブロンソン]

 七人の侍での平八に当たる役で、メキシコとアイルランドの混血ということを隠している。バーの裏手で薪割をして、クリスにスカウトされる。愛想が良いわけではないのに、素朴で心が温かい面を嗅ぎ分けられたのか、村の子供たちに好かれる。ブロンソンもまた、この後ビッグスターとなり、3年後に同じ監督の[大脱走]で呼びもどされた。

 [ブリット         →  ジェームズ・コバーン]

 七人の侍での久蔵に当たる役で、ナイフ投げの達人である。寡黙かつ求道的な性格で、口数が少なく実行力があるのでチコから慕われている。彼もまた、この後ビッグスターとなり、3年後に同じ監督の[大脱走]に呼びもどされた。お世辞にも美男子ではないが、主演映画の数は非常に多い。

 [ハリー・ラック     →   ブラット・デクスター]

 七人の侍にはないオリジナル・キャラクターで、山師的に報酬にこだわりを持つ。自分の20ドルの報酬は建て前で、どこかに黄金が隠されていると最後まで思っている。一度袂を分かったが、その黄金を目当てに戦闘にもどってくる。デクスターは1917年ネバタ州に生まれ、1950年の[アスファルト・ジャングル]他のギャング映画に出演していたが、1960年の荒野の七人で一躍有名になり、以後順調な俳優生活を続けて2002年の85歳で他界した。

 [リー           →   ロバート・ヴォーン]

 七人の侍にはないオリジナル・キャラクター。腕の立つ賞金稼ぎでクールな皮肉屋でもある。拳銃の腕が落ちてきたことで自信消失気味で、自分が殺した犯罪者の亡霊に怯えたりする。ヴォーンは、1960年代のTVシリーズ[ナポレオン・ソロ]で人気を博し、荒野の七人で一躍有名になった一人である。20121月現在で、荒野の七人の出演者の中で唯一の生存者である。今年80歳になっているはずだ。

                 ・

 [七人侍]を監督した黒澤明は、1910年(明治43年)323日に現在の品川区東大井に体育教師の44女の末子として生まれた。小学校を経て1928年(昭和3年)に京華中学校を卒業するまで、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲネーフなどをロシア文学に親しみ、人生観と論理観形成に大きな影響を受けている。初め画家を志した黒澤は日本プロレタリア美術家同盟に参加し、その後に洋画家の松本唐貴(漫画家白土三平の父)に師事して、二科展で入選をしている。当時の黒澤は、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなどのルネサンス期の絵画と彫刻に心酔していたという。

 1936年(昭和11年―26歳)ころ画業にみきりをつけた黒澤は、高倍率の難関を潜りPCL映画製作所(1937年東宝と合併)に入所した。しばらくは山本嘉次郎監督の下で助監督として映画製作の下積を重ねた。このころ書いた脚本は映画化されることはなかったが彼の力量が評論家の間で評判となり、監督たちの注意が向けられるようになる。

 1943年(昭和18年―33歳)に黒澤は、[姿三四郎]で監督デビューを果たす。太平洋戦争終結後に立て続けに[素晴らしき日曜日(1957年―37歳)][酔いどれ天使1948年―38][野良犬(1949年―39歳)]と社会派ドラマの佳作を発表し、東宝の看板監督の一人に名を連ねる。この当時、黒澤が師と仰ぐ[山本嘉次郎監督]のオーデションに来ていた[三船敏郎]に一目ぼれし、山本は「三船は役に合わないから、採用しない」といったが、頼み込んで三船をパスさせた。三船のデビュー作品[銀嶺の果て]は、黒澤の助監督時代の盟友[谷口千吉]が監督しているが、この脚本は黒澤が書いている。

 1950年(昭和25年―40歳)東宝の労働争議(この結果、新東宝ができた)のゴタゴタを嫌い、東宝を退社して大映で[羅生門]を撮り公開された。これが1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、黒澤の映像感覚が世界の映画作家に注目されることになった。

 1952年(昭和27年―42歳)[生きる(志村喬の主演)]が公開され、2年後の1954年ベルリン国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。そして1954年に発表した[七人の侍]で、大ブレークを起こした。その後も三船敏郎主演で[蜘蛛巣城(1957年―47歳)][隠し砦の三悪人(1958年―48歳)][用心棒(1961年―51歳)][椿三十郎(1962年―52歳)][赤ひげ(1965年―55歳)]と続いたが、これを最後に三船とは決別した。その決別の原因は誰も知らない。ある人はいう、「黒澤と三船の決別ではない。戦後映画の世界との決別で、このあと別の世界が始まったのだ」と。

                   ・

 1920年、中国の山東省青島生まれた三船敏郎は、1997年(平成9年)1224日未明77歳で亡くなった。黒沢明は三船敏郎の死を知らされてこう語った。

「亡くなったことを聞き驚いています。まさか僕より早く亡くなるなんて思いもしなかった。最近、三船君のことが気にかかり、いつか会いたいと思っていた。会って、“三船君、本当に良くやったなあ”と、褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません。僕が葬儀委員長を引き受けたいのだが、足が弱り表に出られません。三船ちゃん、お疲れ様とだけ言いたい。」

 黒沢明もまた、三船敏郎が亡くなった翌年の1998年(平成10年)96日に亡くなられた。88歳であった。向こうの世界で三船敏郎と再会し、肩を抱き合っている姿が浮かんだのは、この監督の死を知ったときであった。

 [七人の侍]で黒澤明に付き従ったスタッフの誰もが、彼を[天皇]と呼んだ。会社の製作費と製作日数を平然と無視して完全主義に徹する天皇。芸術の実現のためには、いかなる犠牲をも受け入れようとする天皇。彼が苦悩し怒号を発すればするほど、日本人はそれを芸術的道徳の現われであると了解した。

 誰もが思う。過去ってしまった自分の少年期と壮年期を[古き良き時代]だと。

                                      ・

*四方田犬彦著[「七人の侍」と現代]を読んで。

|

« 地震、海鳴、放射線 | トップページ | 茶嶺1[茶の原産地] »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/468194/43757171

この記事へのトラックバック一覧です: 天皇の七人の侍:

« 地震、海鳴、放射線 | トップページ | 茶嶺1[茶の原産地] »