茶嶺1[茶の原産地]
2012年1月26日
仕事や、他の最低のお付き合いの一環として、他人の家を訪問することは誰にでもある。その訪問が必ずしも歓迎されない家だとしても、いかなければいかないで互いの心情的状況がより悪化しかねないような場合もあるようだ。なるべく玄関先で所用がたりるにこしたことはないが、何回も頭のなかで復習した話の内容によっては、すすめられれば靴を脱いで楓の上り框に最初の一歩を踏み上げることもある。
たいがいの家庭には、訪問客に茶をだす習慣が根づいている。寒い季節には、茶を注ぐ前に白湯(サユ)で茶碗を温めておき、次に注ぐ茶が急激に冷めないような心のこもったもてなしに出会うときなどは、それを戴く前から身体が暖まってくるような気持ちにさせられる。そんな時の茶は、適温で茶のエキスが程よい加減のまろやかさもっていて、茶碗の縁から10m/m前後下の絶妙な位置に湖面がある。
以前、知人との茶談義のおりに、沸騰してから10分も経過したようなやかんの弦(ツル)の部分に雑巾を被せて、そこから煙の立ちのぼるまま急須に入れ、茶をなみなみと注がれた茶碗を出された経験談を聞いたことがある。私は聞きながら想像した。薄での磁器製茶碗にグラグラと沸騰した気泡混じりの湯で茶を点てたときには、3つの茶碗のうち2つまでが茶碗の外側と内側の温度差に耐え切れず弾けとぶ光景を頭に描いたのである。さらに、そんな温度の茶を飲んだとしたら、きっと唇が最初に火傷をおい、次に口の内側の粘膜と舌の表面がシャブシャブの鍋で5分間泳がした米沢牛のように白く変色するところまで思いがはしり、急いで首を2回ほど振り自分の想像力をオフにした。茶は、親の敵討ちの道具に利用するのではなく、少なくとも、もてなしの心を装い、自分の考えを気づかれないように対座した人に勧めるべきである。
[茶は南方の嘉木(カボク=美しい木)なり]は、中国の建中元年(780年)に[陸羽(リクウ)]が著わした[茶経(チャキョウ]という古い書物のなかの巻頭の言葉である。茶経は三巻十章からなり、茶の原産地、品質、効用、茶摘みと製茶方法、煎じ方、飲み方、茶の道具にまでわたる、当時の茶文化の専門書のようなものである。この当時の日本は、貴族文化華やかしき時代の平安遷都(794年)の14年前の宝亀11年であった。
[茶経]を書いた唐代の文筆家[陸羽(リクウ=733~805年)]は3歳くらいのときに、現在の中国湖北省天門市(武漢の西70Km)に捨てられ、竟陸竜蓋(リョウガイ)寺の[智積(チシャク)禅師]に拾われて育てられた。そのころの僧侶を含めた文化人の間に茶を飲む習慣があったようである。陸羽は、もの心つく頃から寺男たちの仕事内容を眼にしていて、主の智積禅師のために茶を煮る先輩たちのやりかたなども見ていたことだろう。禅寺[竜蓋寺]での陸羽もまた、食べるためには仕事をしなければならない。おそらく、茶の煮かたを誰かに習ったのではなく、自然に覚えたのだ。竜蓋寺の智積禅師のために茶を煮たて、茶会の席では給仕もつとめた。茶会の席に集まる人々は陸羽にとり別世界の住人であり、子供にとっては眩しくもあったことであろう。
育て親の[智積禅師]は、ときおり宮廷に顔を出すほどの知識人で、早くに並外れた陸羽の聡明さに気づき学問を仕込もうと思った。陸羽は九歳から学問を始めた。上流社会の子弟であれば遅すぎる歳だが、当初は寺男にするつもりだった智積が、陸羽を僧侶の道を歩ませようと考えたようだ。だが陸羽は独学で儒に傾き、仏法に対し反抗的になっていた。
仏門にいた陸羽は、師が催す度重なる茶会の裏方を務めているうちに、大勢の儒家の弁論を見聞きして別の世界のあることを知っていたので、その世界へ進むことを伝える。智積は長い時間説得に当たったが、9歳の陸羽の仏教と儒家についての大弁論により、師の言葉にことごとく反論して怒らせてしまう。この時の陸羽は「儒家の世界に3つの孝行があり、その1つに自分の跡継ぎをつくることが親孝行です。妻を娶ることを禁じられている仏教の世界で、それが果たせますか」とまくし立てた。以後の[陸羽]には、あらゆる雑役苦役が科せられるも、ますます勉学に励んでいった。最後には寺の先輩寺男の暴力をも受けるようになる。
自分の貴重な時間を寺院の雑用に費やすことの愚をさとり、12歳の陸羽は逃亡をはかった。智積禅師の恩義に報えることができなかったことには悔恨の情が湧きあがる陸羽は、師を恨みに思ったことは一度もなかった。寺院から出た陸羽は芝居一座に飛び込んだが、[陸羽]の顔はマアマアよりかなり落ちたレベルで、ドモリの癖もあったことから主役級の役はもらえず三枚目ばかりだった。この世界でも陸羽の勤勉さは変わらず、どんな雑用も、どんな役も拒まず演じた。後には彼のユーモアのセンスで台本の執筆と舞台監督まで任され、劇団仲間の信頼を得るようになる。
1年後の陸羽に幸運が訪れたのは、地方長官の[李斉物(リセイブツ)]に出会ったことに始まる。李斉物は都で相当の実力者であったが、陰湿な政争の犠牲になり地方長官に左遷された。そればかりか政敵にいつ刺客を放たれるかわからない時期で、それらの緊張を癒すための芝居見物であった。ひと目で二十歳前の陸羽の隠された素質を見抜いた[李斉物]は、火門山の[鄒夫子(スウフシ)]という先生に紹介し、その学費の負担をも申し出た。陸羽もまた、疎外されこの地に赴任してきた李斉物の心情を察し、自分で選んで点てた茶で心を込めてもてなした。この唐の時代から茶は喉を潤すだけのものではなく、既に高い嗜好性を持っていたようだ。
そして天保11年(752年)に陸羽は、元文部省長官から左遷され競陸にきた[崔國輔(サイコクホ)]と知りあう。文人としての両者は対等の付き合いをとおし、文学やお茶の話しで長い時を過ごした。この崔國輔と陸羽とは、終身の友となる。
陸羽は当時から役人になりたいとは思わず、今のままの自由人をのぞんでいた。誰に断わることなく行きたいところに自由に旅立てることを望んでいたのだ。ただし彼は、この当時から他人といったん約束したことは、必ず守った。
755年に安史之乱(安禄山の乱)が起こり、大量の戦争難民の群れに混じり陸羽も南に逃げた。宮廷では、この乱の直前まで、楊貴妃の寵愛が続き、楊貴妃の姉3人も国夫人の称号を受ける陽一族の我が世の春であった。宰相となった楊貴妃の従兄弟を嫌った軍人[安禄山]が反乱を起こし正規軍を破ったのである。陸羽がたどり着いたのは土壌や気候に恵まれた[江南]で、後に名茶の数々を生み出す茶どころであった。陸羽が[茶経]を編んだのはこの土地でだと思われる。[茶経]の大前提は、「茶は、[精行倹徳之人]すなわち、『品行端正で倹約の美徳をもつ人』のような人物にこそふさわしい飲み物である」と謳ったのである。
「漢方は二千五百年。茶は四千年」という言葉が中国にある。世界の医術を圧巻して久しい漢方薬の歴史は二千五百年ほどだが、喫茶の習慣は四千年前の中国に存在したと、いっているわけである。単に渇きを癒す為に茶を飲んだのはない。喉が渇けば井戸や泉の水を汲んで飲めばよいのであって、人々が喫茶に傾いていったのは、手間のかかる喫茶をとおして何んらかの満足感をかないてくれたからだだろう。人々の生活のなかい定着した嗜好は、研鑽の過程を経て文化にまで高まっていったのだ。
今まで茶の原産地については諸説があったようだが、なにかといいば「白髪三千丈」などと気の遠くなるほどの数値を放言してきた中国にあっても、「茶樹が始めて発見されたのは[雲南省と四川省とに近い山の中]だと思う」というような謙虚な表現での主張が受け入れられつつある。
紀元前1050年、周の[武王]が[太公望]を軍師として[殷(イン)]を滅ぼしたが、武王は征伐出陣の直前に西方から馳せ参じた将兵のねぎらいのために「戈(ホコ)をさしあげよ!」と各地方の部族名を呼びかけるくだりがある。このなかで四川から参戦した[蜀(ショク)]は「茶を武王に貢じた」とある。つまり、紀元前1050年代の四川では喫茶の習慣があったということで、山野には野生の茶樹があり、それを育成栽培する技術があったことになる。直接には周の武王によって滅んだ殷は、諸王族の過度の飲酒が原因で弱体化し、滅亡したことになっている。現在博物館などで殷の遺物を見た人に聞くと、ほとんどが青銅器の酒器ばっかりだったといっていた。身に覚えのある者はギクリとするところである。茶樹の原産地を厳密にいいば、中国の西南地区の四川と雲南にまたがる一帯ということになる。
後漢の政治家の末裔で、直木賞作家の陳舜臣(1924年生)著[茶の話]によると、茶をあらわす漢字の変遷や、どの時代の漢詩から茶という文字が載せられているかなどにより、茶の歴史が追求されている。
[茶]という文字の使用は陸羽(リクウ=733~805年)の生きた時代かららしく、それ以前は[荼(ト)]や[茗(メイ)]などが茶樹を現す字として使われていたようである。陸羽が茶の体系化に手をそめたということは、この時代に茶文化の萌芽期が過ぎて成熟期にさしかかったからで、茶は[荼(ト)]や[茗(メイ)]という字の間借りから、やっと[茶]という戸建の字を手に入れたもようである。
喫茶の風習は、茶の原産地に近い[四川地方]に発祥普及して[長江]沿いに至り、茶樹栽培に適した江南地方に広がっていったと思われる。そして南方の人に茶の習慣が広まったとしても、北方に普及するまでは時間がかかったものと思われる。その後の政局の安定と民生の充実があり、全国的に普及するにつれて[茶]という文字も全国区となりえたのだろう。それが整ったのが陸羽の時代である。
[茶]が初めて文章の中にでてくるのは、[王褒]が書いた[僮約(ドウヤク]という文章だといわれている。「前漢(紀元前206~紀元前8年)の世に[王褒(オウホウ)]という文人がいた。彼が紀元前59年に著した[文選(モンゼン)=周代から梁までの千年間ぐらいの代表文学760編を網羅した詩文集で、日本の清少納言等の宮廷人の愛読書でもあった]に、自分の詩を2編収録した詩人でもある。しかし彼は、茶についての記載のある自分の文章[僮約(ドウヤク)]を文選には載せなかった。人間が茶を飲んだという、はっきりとした最古の文献なのだが、そんな重要なものだとは、彼自身が気づかなかったからである。[王褒(オウホウ)]の[僮約(ドウヤク)]は、タイトル通り[僮=使用人]との契約書で、使用人は『次の項目にある仕事をしなければならない』と列挙したものである。王褒は益州(四川省)に住み、地方長官の推薦で都に招かれるほどの人物だが、僮約を書くにいたったなりゆきは、後に文官となる人物としての格調には、ほど遠いものであった。。
[王褒がまだ書生であったころ、故郷から成都(四川盆地の西に位置する四川省の省都)に出て、未亡人である楊恵宅に下宿していた時期があった。その家には彼女の生前の夫が買った便了(ベンリョウ)という奴隷がいた。王褒がその奴隷に酒を買ってくるよう命じると、「私は亡き御主人に『墓の手入れだけをすればよい』という約束で買われました。亡き主人との約束がある以上、ほかの男のために酒を買うことはできかねます」と拒まれた。王褒は大変に怒って、「それならこちらにも考えがある」と未亡人から便了を買取った。そして自分に横柄な態度をとった奴隷を懲らしめるために、厳しい服務規約を文書化した[僮約]を彼に科した。その内容は、早朝に起床させての内外の清掃に始まり、食後の皿洗い、そのあと寝るまでの間に百種類の仕事が書き連ねられてあった。その中には井戸掘りや家の警備まで含まれ、いいつけにそむけば鞭打ち百回というものであった。便了は大変に後悔して、「あの時に素直に酒を買いに行くべきだった」というところで終わっている。]
この文章のなかで便了が押し付けられた仕事に、食事の前後に「荼(ト)を烹(ニ)る」と、犬を連れて鵞鳥を売りながら「武陽で[荼(ト)]を買う」とあるので、少なくとも、この時代から喫茶の習慣があったことが証明される。この故事は、宋代初期に編纂された百科事典のような[太平御覧(タイヘイギョラン)]の契約書という項に入っているという。「これが契約書であったかどうかが疑問である。金銭で売買できる奴隷なら取り決めなど不要だろうし、酷使して疲労死した場合は主人の損になるだけである。これは一種の戯文で、文章の名手王褒が作成したのだろう」と陳舜臣氏は[茶の話]のなかでいっている。
なるほど、これが偽作でなく実際の話だとしたら、[僮約]は無抵抗の奴隷を虐(イジ)めぬくという、鼻持ちならないの文書であるといわざるをえない。むしろ便了は、亡き主人に対しての忠僕の鏡として褒めてやらなければならない。書生の身にありながら昼間から酒を買い、未亡人と酒盛りを始めることのほうが公序良俗に反している。そんな阿呆が、後に文章力を持って宮廷に仕えるほどに出世するのなら、もと元とんだ喰らわせ者である。そのことはともかく、神爵3年(紀元前59年)の日付のある[僮約]の出た時代の四川地方では、少なくとも喫茶の風習があったことがわかり、これが、茶が文献に載った初めとなる。
中国の茶樹は、日本の静岡県の茶畑とは趣がかなり違ってくる。茶木の原産地は、雲南省と四川省に近い山間部だといわれているが、雲南省孟海県の南糯山(ナンジュザン)は、この地方最古の栽培型茶樹と広い茶畑があるところとして知られている。村落は標高1600mの山中にあり、頂上から麓まで樹齢200年前後の茶畑が広がっている。この仙人が5百人ほど住んでいるのではないかと思われるほど広大な風景のなかに、樹齢800年を超えた[茶樹王]とよばれる一株がある。目の高さの苔のむす幹の直径が109Cm、樹高5.48mで、標高1800mにある茶樹王の梢には3家族の木の霊が住みついていて、茶葉の陰から人間界を見下ろしているのである。このような茶の大木は雲南省内に30本確認されているそうで、家の廻りの垣根に毛の生えたような静岡県の茶畑を思い浮かべると、軍備に力を注いでいる今の中国人とは、茶の話をしないほうがよいようだ。あの人たちとは、尖閣諸島全部の領有権は我が国にあるという話しをすべきなのだ。あくまでも毅然として。そして断固として。
日常茶飯事を「ニチジョウチャハンジ」と読んでしまうことが日常茶飯事(ニチジョウサハンジ)になっているのだが、この言葉がいつ頃できたのかさだかではない。少なくとも陸羽(リクウ=733~805年)が世に出た時代には、茶は特権階級のもので、下層階級までは浸透していなかったと思われる。陸羽が捨て子として竜蓋(リョウガイ)寺の[智積(チシャク)禅師]に拾われ、仏寺の中に育ったということが茶の運命にとって重要な意味を持つことになった。南方の嘉木である茶は、唐代では仏門と深くかかわりを持っていたのである。
現代では、金満家が酒を呑みすぎて身上(シンショウ)がたちいかなくなった例はまずない。どんな高価な酒を飲んでも、酒屋から買って飲む分にはたかが知れている。もっとも、瞬きをすれば空中に飛び上がるほどの付けまつ毛をして、マジックペンで目玉スレスレに囲むアイシャドーした女性の傍で飲むだけならまだしも、店の終ってから部屋に誘われ、自分が先になって歩き始めるような体質の紳士の場合は例外である。酒を飲むことの他におこなったことの代償はさまざまだが、際限なくプレゼントをねだられることが多いようだ。図々しい方も中にはいて、車をねだられる場合もあるだろう。彼女たちは、人の心理的欠点を嗅ぎ分けることと、人の財布の中身を推理する名人である。家族に内緒の口座を持っている人の場合には、それは瞬く間に残高が少なくなってゆき、他人の金や勤務先の金は自分のために存在すると考えやすい温床がはぐくまれて、身上(シンショウ)はもとより、何もかもが吹っ飛ぶ。この場合には、切っ掛けが飲酒であっても、その後は己の意志薄弱が原因である。早くから「掃き溜めには鶴はいない」の意味を理解すべきなのだ。
旨い茶を飲みたいために身上(シンショウ)をつぶした人が中国にいる。ある山の、どの斜面の、どの高さあたりの、ある特定の木の、ある部分の茶葉、それも摘む日、時間、気候などの条件を言い出せば切りがない。そんな茶を飲みたいといえば、値段のつけよがない。こんなものを[無価之宝(水や空気や景観のように価値を決めることができない貴重なもの)]という。それを欲しければ、売り手の言い値で買取るしかない。全人類の98%をしめる欲深な売主のいい値とは、当然のように天井がないのである。中国の古典に、茶に懲りすぎて無一文になったこの旦那は、ある大店の茶商に引き取られた。彼のきき茶は正確で茶の等級を決める抜群の味覚が具わっていたので、茶商家にとってなくてはならない人となった。ところで、くだんのきき茶名人を[茶人]とよべるだろうか。陸羽の[茶経(チャキョウ)]には、茶を飲むのにふさわしい人は[精行倹徳之人]といっている。少なくとも、茶におぼれ、家を傾け、家族と親類に迷惑をかけた行為を[精行(世の中の仕組みに長けている)]とはいわない。また、[倹徳(質素な暮らしの倹約家)]の人とは呼べるわけがない。彼は単にきき茶のエキスパートでしかない。陸羽が茶の相手に選ぶ人は、このような人ではないのだ。
陸羽は自伝で、自分を取り立てて叡智の世界へ導びいてくれた人は、[李斉物(リセイブツ)]と[崔國輔(サイコクホ)]だといっている。そして、友人としてはただ一人[釈皎然(シャクコウネン)]を上げている。それは、皎然が真の茶人であったからである。陸羽が皎然と会ったのは、安録山のおり[竟陵(キョウリョウ)]から[呉興(現、浙江省の太湖の南岸)]に移住して、太湖にそそぐ苕渓(チョウケイ)のほとりに結んだ庵(イオリ)のなかであった。
安録山の乱で[玄宗]が退位して[蜀]に逃れ[粛宗(キョウソウ)]が即位したが、粛宗の弟の[永王璘(エイオウリン)]が南京付近で勤皇(天子のために忠誠をつくす)の兵を挙げた。もともとこの異母兄弟は仲が悪く、粛宗が玄宗を追って蜀へ行けといったのに永王璘が命令に従わないので反乱軍として討手を差し向けた。この反乱軍の幕僚として[李白]がいて、討手が詩人の[高適(コウテキ)]であった。756年12月、高適は安陸に兵を集めた。安陸は陸羽の故郷の竟陵(ケイリョウ=現在の湖北省天文県)の近くであり、その近辺はさぞや騒がしいことになったことであろう。戦争が始まるというので陸羽の故郷の竟陵住民が避難のための大移動をはじめた。当時30歳前後の陸羽は、もともと捨子なので実家があるわけでなく、個人財産もなかったので身軽に避難できたことだろう。このときの避難先の[呉興]で隠棲を始めて70歳まで生きた彼は、故郷で過ごした期間より長く住んだことになる。
後の世の詩人(裴迪(ハイテキ=五代後梁の武将)の作だという、陸羽をしのぶ五言律詩(ゴゴンリッシ=5言の句が8句の漢詩)がある。
[竟陵西塔寺陸羽茶泉]
竟陵西塔寺、蹤跡尚空虚
不獨支公住、曾經陸羽居
草堂荒産蛤、茶井冷生魚
一汲清冷水、高風味有餘
詩人到陸羽故居的西塔寺、見寺院一片荒涼、十分感慨。結句明寫茶泉之「清冷」實讃茶人之高風、韻味濃重。
[読み]
[竟陵の西塔の寺の陸羽の茶の泉]
竟陵(ケイリョウ)の西塔寺、蹤跡(ショウセキ)尚(ナ)お空虚
独(ヒト)り支公の住みしのみならず、曾經(カツ)て陸羽の居なりき。
草堂荒て蛤を産み、茶井冷えて魚を生ず。
一たび清冷の水を汲めば、高風 味は余り有り。
[解釈]
[竟陵の西塔の寺の陸羽の茶の泉]
「竟陵の西塔寺には過ってさまざまな人が住んだと聞くが、今は荒れ果てた建物の残骸が残るのみだ。
ここには支公(支謙という後漢の高僧のあざな)が住んだだけではなく、かっては陸羽が住んでいた建物でもある。
(陸羽が智積禅師に育てられたところが竜蓋寺で、そこを飛び出して住んだのが[西塔寺]である。)だが今は草ぶきの堂の到る所に虫が這い回るほど荒れはて、陸羽が茶を煮るのに使った[茶泉]を覗くと、何処から泳ぎよったのか清流に棲むす魚が泳いでいた。
湧き出る冷たい泉の水を手で汲んで口に含むと、陸羽が用いた名水は今も同じく、華麗な風味が口中にひろがった。」
竟陵の西塔寺に[陸羽の茶泉]と云われる遺跡ができたのは、陸羽が茶聖と伝説化されてからであろう。
陸羽が茶人として大成したのは、安録山の乱という動乱のための逃避行した先の湖州で[皎然(コウネン)]と出合ったからである。陸羽は皎然との付き合いを[緇素(シソ=僧侶の黒衣と常人の白衣)忘年(ボウネン=年の差に拘らない)之交(コウ=まじわり)]といっている。陸羽のほうが、かなり年下だ。
皎然の十代前の祖先に、南朝宋の詩人で政治家でもあった[謝霊運(シャレイウン385~433年)]がいる。彼は中国の詩歌に自然美を持ち込んだ人で、こよなく山水を愛した。僧籍にあった皎然も、十代前の謝霊運に似て文章に優れ、[釈門の偉器]といわれたが、謝霊運の性格とは正反対であった。謝霊運は贅沢で[性奢豪、車服鮮麗]と記されるほどで、自分の地位にいつも不満を持っていた。その性格が過多で有ったために非業の死をとげている。皎然は[宋書]や[南史]のような歴史書に登場するような先祖のことを知っていたので、自身をよく修めた倹徳の人であった。[宋高僧伝]のなかで、皎然と陸羽の心の繋がりを[莫逆(バクギャク=心に逆らうところなし)の交]とある。陸羽は皎然のなかに、茶の理想とする倹徳を認めたのだろう。
ある年の重陽(チョウヨウ=5節句の一つで陰暦9月9日)に、皎然と陸羽とが僧院で茶を飲んだ。その時をうたった皎然の五言絶句の詩に[九日、陸処士羽と茶を飲む]がある。
[九日与陸処士羽飲茶] 皎然
九日山僧院
東籬菊也黄
俗人多泛酒
誰解助茶香
[読み]
[九日 陸処士羽と茶を飲む]
九日 山僧院
東籬(トウリ=東のかきね)菊也(マ)た黄なり
俗人 多く酒に泛(ウカ)ぶ
誰か解せん茶香を助(マ)すを
[解釈]
この人里はなれた僧院の東の垣根には、黄色に開いた菊がある。
重陽(9月9日)には菊の花びらを酒に浮かべる風習がある。
菊の花びらを茶に浮かべても豊穣な香りがする。
このことを知っているのは誰もいないが、われらだけが風雅な香りをたのしんでいる。
[注]タイトルの「陸処士羽」というのは陸羽のことで、陸羽は皇太子の役所の官職に任命されたのに就任しなかった。仕官の資格があるのに出仕しない人を[処士]といい、この肩書きを姓と名の間に挟むのが中国のしきたりである。
この詩の二人こそ、[莫逆(バクギャク)の交]であり、[緇素(シソ)忘年(ボウネン)之交(ノコウ)]であろう。当時の文人が詩を送られた場合は、必ずお返しの詩を贈るのが儀礼の一つで、陸羽も当然多くの詩を書いたことだろう。しかし陸羽の詩で現在に残されているのは、たった1編だけである。当時、文学論をしたためるほどの詩歌の理論家である皎然にくらべて、陸羽の詩はかなり遜色があったのであろう。
湖州では陸羽は皎然のほかに[張志和]という隠者と親交があった。彼は16歳で明経科(科挙の試験のなかで、進士科より科目が一つ少ない試験)に及第した逸材で、一度仕官したが直ぐに引退し、[煙波釣徒]と自称して、山水を描くことを得意としていた。酒宴をもようし太鼓と笛で囃子たてたなかで、筆をひとなめしてまたたくまに山水を書き上げたといわれている。[漁父(ギョホ)の歌]の形式の詞は張志和にはじまる。
[漁父歌] 張志和
西寒山前白鷺飛
桃花流水鱖魚肥
青葉篛笠緑蓑衣
斜風細雨不須歸
[読み]
[漁父歌] 張志和
西寒山の前に白鷺飛び
桃花流水 鱖魚(ケツギョ)肥(コ)ゆ
青き篛(ジャク=若竹)の笠 緑の蓑衣(ミノ)
斜風 細雨 帰るを須(モチ)いず
[解説]
ここから見える西寒山の前を白鷺が飛び交っている。
前を流れる水の上には桃の花が流れ、水面に鱖魚(ケツギョ=65Cm程の淡水魚)が跳ねる。
この季節にはいつも若竹で編んだ笠をつけ、雨露をしのぐ蓑(ミノ)きて小雨にけぶる山を見る。
私は風が吹こうと雨にうたれようが、あの策謀の渦巻く官界へ帰るつもりはない。
古来より中国の山深い川のほとりに庵を結び、気のいい仲間を招き寄せたり訪問したして、昼間から酒を呑んだり、茶を喫したりしている隠者は、生活の糧は何処で得ていたのであろうか。皎然のような坊さんは教団の一員でもあるので、檀家や本山よりの還付があっただろう。いざとなれば、雲水姿で門に立ち食を乞うこともできた。張志和の実家はかなり裕福な家柄で、自分の舎弟のために実家の跡取り長男が家を建てたりしている。とりあえず、必用があれば実家に連絡すれば金は届けてくれただろう。
捨て子だった陸羽の場合はどうだろうか。友達がいても、何日もそこで寄宿していれば時には嫌な顔もされるだろう。何もしないで食べていけるとは、おかしな話である。茶の指南がそんなに金になるとも思えないので、陸羽の住居には常時良い茶の蓄えがあったと思われる。茶を自分で飲んだだけでは金にはならない。茶の価値の判る知人に茶を贈り、その見返りに生活必需品を手に入れていたのだろう。陸羽の日常は、良い茶を集めることだったはずだ。
現存する唯一の陸羽作の詩[会稽東小山]には、
月色寒湖剡渓(エンケイ)に入り
青猨(エン)叫び断ゆ緑林の西
昔人已(スデ)に東流を逐(オ)いて去り
空しく見る年年江草斉(ヒト)しきを
剡渓(エンケイ)は天台から流れて杭州湾にそそぐ曹娥江の上流の景色の豊かな地で、陸羽は度々行っていた。
また、剡渓は若い杜甫も遊んだところで、晋代に戴逵(タイキ=326~396年、東晋代の画家で文人)という隠逸の人が住んでいた地で、この人を昔人とさしたのだ。そして剡渓は名茶の産地の一つである。陸羽は住んでいる湖州からかなり離れている剡渓の山道奥まで、茶を求めて踏み込んでいたのだ。
陸羽は誇り高い人物である。倹徳(ケントク=倹約の徳)の支えになっていたものは、プライドであろう。生活は楽ではなく、安定性がうすかったはずだ。陸羽が自伝を書いた10年後に、湖州の新しい刺史(州の長官)として[顔真卿(ガンシケイ)709~786年]が任命されてきた。彼は安録山の乱のとき勤皇の義軍を挙げた人で、書家としての名声も高かった。彼は地方志[韻海鏡原(古今の文献から佳句を収集し韻別に分類するもので、清代に76人学者が8年がかりで編纂した)]360巻という大著作を計画し、地方の文人隠士に固定した収入を得られるように計った。陸羽も皎然もこれに参画した。
顔真卿が湖州の刺史(州の長官)に任命されたのが大暦7年(772年)9月で、着任は次の年の正月で65歳であった。彼は56歳で当時の法相になり爵位をうけ、いかなる者に対しても厳しく弾劾するタイプの閣僚で、時の宰相[元載(ゲンサイ)]を追求しすぎて左遷されたのだ。中央返り咲きの野心もないではなかったが、歳も歳なので「悠々自適の生活もいいかもな・・」と思う気持ちもあったのだろう。波乱万丈の顔真卿にとっての湖州での5年間を陸羽、皎然、張志和との交友をしたことが最も幸せな時期だったことだろう。彼らは[韻海鏡原]編纂の打ち合わせと称し、会飲して詩の応酬を楽しんだはずだ。
陸羽が皎然、張志和ら気心の知れた同士で[杼山(チョサン)]に遊びにいき、参加できなかった顔真卿のために、その山に咲く[青桂花(キンモクセイの一種か?)]を顔真卿に贈っている。杼山には皎然の寺があり、顔真卿が私財を投じて建てた陸羽の隠棲所もあったよだ。陸羽は[韻海鏡原]編纂という定職の他に、住居まで提供されたことになる。唐代の地方長官の行政は、現在のような公私の厳重な区別はなかったのだろう。恐らく、州の刺史(シシ=長官)の任務のなかには、高名な隠士や文士に類する文化人を保護することも含まれていたのだろう。隠士や義人が自分の行政圏内で窮死でもすれば面目が立たなかったはずだ。
当時の陸羽は、自著の[茶経]を10年前に出しているので、当時の文化人である顔真卿もそれを読んでいたはずである。着任早々、隠棲所[三癸亭(サンキテイ)]を建てたのは、以前から茶人陸羽に対して敬意を持っていたのだろう。
[顔真卿(ガンシケイ)709~786年]の名は全国に知れ渡っていた。安録山が河北で叛旗をかかげ洛陽に向け兵を進めたとき、その沿線の地方長官の殆どが降伏した。この状況下でも、平原の太守顔真卿と従兄の常山太守[顔杲卿(ガンコウケイ)]は勤皇の旗をかかげた。従兄の常山太守の顔杲卿のほうは力尽きて捕らえられたが、安録山の前に引き出されてもその叛意をののしりつづけて殺された。顔真卿だけが抵抗を続けていたが翌年には平原を放棄し、[鳳翔(ホウショウ)]にある玄宗の皇太子だった[粛宗(シュクソウ)]の許に走った。顔真卿は、顔杲卿の悲劇の同情なども混じり国民的英雄として讃えられることになった。
安録山の乱以前に 鳳翔にある中央官庁の行在所(アンザイショ=地方にある仮の御所)で、今でいう[法相と検事総長]を兼ねていた顔真卿の人気が高かったのは、常に権臣側と対立し、そこに妥協のなかったことにある。それも半年ぐらいで地方長官に左遷されたのは、顔真卿の宰相連中に対する正義感溢れる発言が嫌われたからである。
なるほど中央官庁での顔真卿の裁定は厳しく、国防次官が酒気を帯びで入朝したこと、閣僚の一人が正式な朝廷の会議で静粛を乱したことを弾劾したため二人とも左遷されてしまった。また、粛宗の長男が長安修復のために鳳翔を発つときに所定の場所で乗馬する前に、侍従長が乗馬してしまった。これを弾劾した顔真卿に対し、粛宗は「朕の子はいつもしきたりを重んじているので失策はなかったが、侍従長は年老いて足も不自由なので、今回は勘弁してやってくれ」と弾劾書を差し戻した。
顔真卿が重んじたのは礼儀作法である。酒気帯び参内。宮中の席に着いたら騒ぐな。古来からの仕来りを軽んじるな。行在所であるから地方官庁を臨時宮殿にしたもので万事粗末な雰囲気だっただけに、立居振舞えもゾンザイで、文書、行事なども簡略化されていたはずである。顔真卿は「こんな非常の際だから、よけい気持ちを引き締めなければならない」と考えたのだろう。
鳳翔における顔真卿の姿勢は、「豪華な場所で茶を飲むのではない。粗末な狭いところで茶を飲む。それだけに礼にかなう振舞いをしなければならない」という喫茶の道につうじている。どの世界にあっても、礼体の弛緩は、あらゆる部分での崩壊をうながすおそれがある。国の体制や政治にかかわることだけではない。一個の人間の人格が破壊される危険が秘められているのだ。
敬遠されての顔真卿の地方勤務も2年で中央復帰がなる。乾元3年(760年)2月、左遷前より1階級下がった法務次官として中央に呼び戻された。だが半年ぐらいで、また蓬州(四川)に飛ばされた。これは、粛宗に信任の厚い宦官(カンガン)の[季輔国]に憎まれたからである。これは、退位して長安の西門にある[興慶宮]にいる上皇玄宗の許に、その西門をとおる廷臣が挨拶に詣でることが多かった。なかには玄宗に復帰を勧める輩もいないではないと考えた季輔国は、玄宗を外部と接触できない[太極宮]に隔離してしまった。季輔国のそんな思いをよそに顔真卿は、百官を引きいて玄宗のご機嫌伺いをした。季輔国自分のためにはならない男と見切りをつけ、早々に左遷してしまったというわけである。
宝応元年(762年)12月、顔真卿は大蔵次官として中央にまた復帰し、またもや法相まで登り詰めた。この4年後に宰相と対立して、またまた地方に飛ばされた。世は粛宗の次の[代宗]の時代で、その寵臣[元載]は「全ての上奏文は各部局の長官から、宰相を通じて奏聞すべきである」とした。都合の悪いものは握りつぶせるからである。顔真卿は、一応それも反対した。彼は峡州(湖北)に飛ばされ、そのあと吉州、撫州を経て湖州刺史となり陸羽たちとの交流が始まったのである。
陸羽、皎然、張志和との5年間の交友のあとの大暦12年(777年)に宰相の元載は処刑され、顔真卿はまた中央に戻った。思いば、峡州にとばされてから11年の地方勤のすえの69歳であった。彼は8年後の77歳のおり反乱軍への勅使とし敵陣へのりこんで、そこで非業の最期をとげる。まったく、忙しい人生もあったものである。
陸羽、皎然、張志和、顔真卿らが山深い山峡の谷川のほとりの庵(イオリ)に集い、茶を喫しながら詩想を練るゆるやかな時を共有するさまを想像するとき、かくのごとくが本当の友人同士なのかと、考えさせられる。一生を通して心を許せる友人は一人か二人であろう。それに比べて、ときにつれての恩人のかずのなんと多いことか。
*陳舜臣著「茶の話」を読んで。
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