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2011年12月26日

落合博満のムッツリ男の美学 

平成231226

 今年(2011年)の春、永く会社経営に携わっていた知人から、引退する旨の葉書を戴いた。知人は15年前の私のお客様で、それ以後は私が氏が営む仕事の客になり、いままでお世話になっていた人だ。氏が退かれた後の事業所は、それまで片腕となって盛りたてていた人が社名を引き継ぎ、その後の私も客の一人として引き継がれて御迷惑をおかけしている。

 68歳で引退された氏は、青年時代から高校野球の審判員として活躍しておられ、往年には何度か甲子園球場で差配されたことなどをポツリ!、ポツリ!と話されるのを、興味深くうかがったことが何度もある。氏の話術は、瞬くまに駆け足で情景が進展していく忙しいテンポのものではなく、どちらかといいば、言葉と言葉の間に充分な休憩時間が入る重厚な野球解説という感じのものであった。今までの数多くの会話の中での、さまざまな試合での公平な判定と差配とを正確に表現する技術があってこそ、少年たちの青春を賭けたスポーツ人生のなかの一時期を豊かなものしているのだと感じ入ったもである。3年間という短い期間の春秋を駆け抜けていく少年たちの晴れの舞台となる試合を取り仕切ることは、社会人野球やプロ野球の審判よりも責任の重い部分があることが、ときおり言葉の隙間から漏れ出てきたことを思い起こしている。

  この秋口にお会いしたときの氏の話しでは、引退後も野球の審判員のほうは続けられているとのことであった。野球に打ち込む少年たちが好きで、「少年たちのグランド上の結果は、彼らがどのくらい練習を繰り返したかによる。たしかに、そのなかのどのチームにも一人くらいは天性の才能を備えた子供もいる。残る大部分の子供たちは、野球が好きで練習の辛さに打ち勝った大勢の部員の代表者だ。あの少年たちには、公平で正確な判定をもち報えなければならない」と、はなされた。本当は、氏ご自身が誰よりも野球がお好きで、熱い息吹がほとばしるグランドへの道を急いでおられるように思えるのだ。

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 いままた、2011年(平成23年)度プロ野球の日本シリーズを思い起こしている1112日(土)に始まり、1120日(日)の7戦までもつれ込み、おおかたの予想通り秋山監督率いる福岡ソフトバンク・ホークスが日本一に輝いた。快調なスタート切った中日ドラゴンズは、最後まで粘りに粘った我慢野球の甲斐もなく、落合博満中日監督としての最後のシーズンが終わった。負けこそしたが、とかく体制側から評判のよろしくはなかった彼のイキザマをみて、ある種の爽快感に浸った野球ファンは少なくなかったのである。

 落合博満が1979年に25歳でロッテオリオンズに入団し、199845歳で日本ハムファイターズを最後に、プロ野球選手を引退するまでの19年間の現役時の記録は華やかなものだった。落合博満の公式タイトルを列記すると、「いくらなんでも一人の選手としては多すぎるのではないか」と、クレームをつけたくなるほである。

 三冠王は、1982年、1985年、1986年の3回獲得は史上最多記録である。

 首位打者タイトルは、1981年、1982年、1983年、1985年、1986年の5回だ。

 本塁打王は1982年、1985年、19861990年、1991年の5回で、両リーグでの本塁打王は史上初めてだ。

 打点王は、1982年、1985年、19861989年、1990年の5回で、両リーグでの打点王は史上初めてで現在でも唯一となっている。

 最多勝利打点は、1982年、1985年、19881989年(特別賞)、1993年(特別賞)の5回で史上最多となっているが、1989年からこの記録は廃止され、セリーグだけは特別賞として2000年まで記録にとどめた。

 最高出塁率は7回で、歴代2位である。                

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 上記の他に表彰を受けたものを並べて見ると、落合博満がいかに突出した選手だったかを再認識させられる。

 MVP  2回(19821985)。

ベストナイン 10[1塁手4回(1983198819901991)、2塁手2回(19811982)、3塁手3回(198419861989]

 月間MVP 6回(1985-91986-51988-81989-81990-51991-8)。

 オールスターゲームMVP 2回(19831995)。

 日本プロスポーツ賞 1回(1982)。

 正力松太郎賞 1回(2007)。

 野球殿堂入り (2011

 セ・リーグ最優秀監督賞(2011

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 自己記録

 シーズン打率 .3671985年)右打者歴代3位。

 シーズン本塁打521985年)右打者日本人歴代最多記録。

 シーズン打点1462985年)右打者パ・リーグ記録。

 シーズン長打率.7631985年)パ・リーグ記録。

 シーズン得点1181985年)右打者パ・リーグ記録。

 シーズン塁打3511985年)右打者パ・リーグ記録。

 シーズン得点圏打率.4921985年)日本記録。

 シーズン打率3割以上11回 右打者歴代1位タイ。

 シーズン打率.360以上 日本タイ記録、右打者唯一。

 シーズン50本塁打以上 歴代2位タイ。

 シーズン30本塁打以上 歴代3位タイ。

 17年連続シーズン100安打以上(1981年~1997年)歴代4位タイ。

 2年連続シーズン50本本塁打以上(1985-1986年)史上初。 

 両リーグ1,000安打以上 史上2人目。

 両リーグ200本塁打以上 史上唯一。

 1試合6四球(1991年10月3日)日本記録。

 5試合連続本塁打(19891010日~1014日)

 通産打率 .31081979年~1998年)右打者日本人最高打率、5,000打数以上の右打者最高打率。

 通産出塁率.4221979年~1998年)歴代2位、右打者歴代1位。

 通産長打率.5641979年~1998年)右打者の日本人歴代1位。

 通産四球1,5751979年~1998年)歴代2位、右打者歴代1位。

 通産350本塁打到達スピード 1,257試合(199058日)史上最速記録。

 通産1,000打点到達スピード 1,284試合(1990612日)史上最速記録。

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 この輝かしい野球人性を歩んだ落合博満が、やれファンが少ない!、球団フロントとの不協和音が鳴りっぱなしだ!、メデアへのサービス精神に欠けている!等の偏見に満ちた報道記事で取りざたされているのはなぜだったのだろう。8シーズンもの期間を中日ドラゴンズ監督として輝かしい戦跡を残した落合博満の、球界に背を向けたかのような言動は何処から来ているのだろうか。膨大なマスコミの報道記事を拾い集めて、勝手気ままに整理してみた。

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 落合博満は1953(昭和28年)129日に、東北地方でも日本海側のなだらかな海岸線を断ち切る男鹿(オガ)半島を独り占めしている秋田県男鹿市で、7人兄弟の末っ子として生まれた。

 1969(昭和44年)に県立秋田工業高校に入学して野球部に在籍したが、野球を特に好きだということでもなく、練習はほどほどに切り上げて映画ばかり見ていた。練習に身を入れないからか先輩は、職業意識を持って落合をしごくのであっさりと退部してしまった。しかし、対外試合が近づくころに同級の部員に説得され野球部に復帰した。復帰を説得されたのは、落合少年が投打ともに野球部員のだれよりも実力が上だったためで、試合では当然のように4番打者としてボックスに立ち、4番打者としての役目をはたした。

 1972(昭和47年)に東洋大に進学して野球部に在籍したが、ここでも体育系の部活慣習には馴染めず退部する。ついでに大学そのものも中退して故郷の帰って、当時ブームだったボーリングに熱中した。高校時代に野球で頭角を現すほどの男の運動神経とスポーツに対するセンスは抜群で、ボーリングの腕もめきめきと上がった。そのころ盛んにプロボーリングの試合がテレビ中継されていて、その連中が自分よりヘタに見えたことから、落合は「よし!オレも!」とプロ試験会場に向ったが、はやる気持ちでアクセルを踏み込みすぎて隠れてみていた白バイにスピード違反で御用になった。30K制限の曲がりくねった田舎道での40Kオーバーの罰金は高く、それを払ったら受験料がなくなりボーリングでの道も早々に断念した。普通の若者なら多少落ち込むとこだが、本人はアッケラカンとして目元だけで微笑んでいた。そのために兄弟連中は、頭の構造に難点があるのではと、陰ながら心配した。

 1974年(昭和49年)に、落合の野球センスを惜しんだ高校時代の恩師の勧めで東芝府中工場に入社する。ここで社会人野球[東芝府中]の選手となり、在籍5年間の公式戦で70本以上のホームランを打ち球界の注目を集めた。

 1978(昭和53年)には、アマチュア野球日本代表に選出された。落合自身は、自分がこれだけできるのならプロでも充分通用すると思っていたが、さすがにそことだけは誰にも話さなかった。

 1978年(昭和53年)のドラフト会議でロッテに3位で指名された落合は、25歳でその球団に入団することに同意した。ロッテの投手出身スカウトの言によれば「変化球に強く、なによりも投手に嫌われるタイプの打者なので、上層部に強力にアピールした」とのこと。なお同年、巨人が落合を2位指名する予定だったが、自称天才の江川卓問題(1977年ドラフトで巨人以外の球団に指名されたが、ノラリクラリと話に乗らなかった。次のドラフト会議前に前回の交渉権が消滅するという規定があり、このドラフト会議前日が会議そのものの準備日としていた慣例により、昨年の指名球団の交渉権が空白日になる。巨人球団と江川は、その空白日を利用して電撃契約した。オソラク、あの目のはれぼったいワタナベの差金だろうが、巨人ファンを含めた全野球ファンが後楽園方向に少量の唾を吐いたという事件)で、人前に顔を出せなくなった巨人がドラフト会議をボイコットしたために、落合の巨人入団のチャンスは消えた。今でこそ落ち目で魅力の欠片もないボロボロ巨人軍だが、当時の巨人に落合が入団していたら長島、王に迫る人気者としてスタンドに歓声の嵐を呼び、その後の中日監督時代のベンチであれほどのトッテモ暗い顔はしなかったかもしれない。

 その後に「この世界は、記録を出せば給料は上がるところだ」などと真実をそのまま発言し、さも個人プレーに徹するようなジュスチャーをとる落合だった。しかし、1976年に高校生から中日入りし、通算338本塁打を打っている宇野勝が「落合さんが中日に来て、初めてチームバッティングの本当の意味を理解した」と、語っているので、彼のスポーツマンとしての資質は、従来の物差しで測ることができないほどの純粋性を秘めていたのであろう。その後もバッターボックスでの落合は、攻撃での状況に応じて安打と本塁打を意識生産してチームの勝利第一をファンとチームメートの前に表明したのである。華やか過ぎる個人記録は、心底からスポーツに捧げる男のうしろからついてきたものであった。あの彼が試合の流れを読み取り、ノーサインで突如の送りバントを成功させて周囲を驚かせてもいる。このシーズン終了後に「あれは勝つための判断」と、その場所の居心地が悪いような笑いを浮かべたのだった。

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 1979(昭和54年)の529落合は、川崎球場の対南海戦に代打で初出場をはたす。次の30日同じ南海の森口益光から初安打を放ち、次の日の31日に同じ南海の山内新一から初本塁打を放ち周囲の目線が落合に集中した。ベンチに戻った本人は「プロだといっているが、社会人野球となぁーんにも変わらないわ!、これは・・・」などと考えていたのか、ムッツリした顔でその後の山内の投球フォームを見ていた。

 入団直後の落合は、山内一弘監督にバッティングフォームを変えるようにいわれた。1960年(昭和35年)前後の球界にあって、レベルスイングでの抜群のバットコントロールで数々の記録を塗り替えたバットマンである山内一弘は、アッパースイングの権化のような落合のフォームを、レベルスイングに改造しようともくろみ「ホースで水をまく感じで打て」などとアドバイスした。だが、そのスイングではボールは飛ばず、同チームのベテラン捕手の手首を柔らかく使いはじき返す打法に注目し、自分の身体にあった我流のスイングとして完成させた。このフォームをことのほか気に入った打撃コーチの高畠康真は、ロッテに移籍したばかりのレベル&アッパーの御本尊様のような張本勲に引き合わせた。現在は「あっぱれ!」などといって他人をたまには褒めることがあるが、現役時代にはついぞ人を褒めたことのない張本が、驚いたことに落合のバッテイングを「素晴らしい!このままのスイングでなら、かなりの数を打てる」と絶賛した。めずらしいこともあるものだ。一方の高畠康真は、1967年(昭和42年)に南海ホークスに入団した当時の鶴岡一人監督に左の強打者として期待される一方で「指導者としてのセンスを高く評価している」といわれている。その後の1973から野村兼任監督の下で打撃コーチとして活躍、数多くの名選手の技術アップに貢献した名コーチであった。偉大な打者は、偉大な打者の値打ちを、いつも見つめているのである。そして、打撃スイングについての考え方に違いはあったが、山内監督と落合の師弟関係はきわめて良好で、山内監督の野球理念は確りと落合にも受け継がれていた。

 偉大な打者に評価された落合のアッパースイング打法を酷評する者もいた。一時代前の球界で程ほどの成績を残して、今はネクタイ姿でテレビ画面で解説をやっている評論家といわれる先生方である。現役当時に偉大な投手だったと誰もが認める南海の前監督の金田正一でさえも、落合を面前にすえてその打撃スタイルを酷評した。それは、社会人として荒波にもまれた落合が「偉大な人からあんな言葉でいわれたら、高校出身の若い選手なら潰れてしまうだろう」といっことでも、常日頃の金田の、人間に対しての思い遣りの欠如を端的にあらわしているように思える。

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 1980(昭和55年)に、5試合連続本塁打でイースタン・リーグ記録をつくった落合は、後期に1軍の戻っての57試合で15本の本塁打を放ちレギュラーを掴み取る。

 この当時に、後に落合の嫁さんになる信子さんのいるスナックに飲みにいき、意気投合したことにより度々店に出入りする。会話の中で、今なにがしたいかと聞かれた落合が「三冠王になって、見返してやりたい人がいる」と答えると、「王様になりたいなら、その歯をなんとかしなさいよ」と、9歳上の彼女から数百万円の歯並矯正と虫歯治療費用を渡された。これで参ったわけではないだろうが、1980年に結婚をした。奥様の突飛なアドバイスなどを噛み締めながらの夫唱婦随での7年後の1987年に、まるまるとした赤ちゃんが生まれた。落合が待ちに待った長男の落合福嗣の誕生であった。福嗣は、中学時代の軟式野球で大型内野手として活躍するも、国士舘高校在学中に野球を断念し、その後には父の知名度を語っては各種メデアを利用して一応は活躍している。彼は特に英語が堪能な現代っ子で父親の秋田弁の影響はなにも受けず、このまま気長に待っていれば親父の財産の半分を受ける権利を持っている。福嗣の著書に[うちのとうちゃんは三冠王だぞ]などがある。手に入れば、是非読んでみたい本である。

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 1981(昭和56年)に、初めて規定打席に達し、首位打者のタイトルを得る。どのようなスポーツでもシーズンを通せば誰にでも来るスランプは、落合の許にも遠慮がちに訪れる。自宅に帰って暗い顔でいた落合を詰問してスランプに悩んでいることを知った信子夫人は、「ストライクはあの狭いホームベースの上を必ず通るんでしょう。じゃあ、あそこを通ったボールだけ打てばいいんじゃな~い」とアッケラカンにいわれた。バッターボックスに立った彼は、そのときの奥さんの顔を思い浮かべると気が楽になり、本塁打を量産していった。その後にスランプの気配がすると、「おい!その辺をウロウロするな!秋山幸二のところに行け!」と追い払った。これは、奥様より効き目があった。

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 1982(昭和57年)に、最年少3冠王に輝くが、打率.325、本塁打32、打点99と数字的には振るわず、口のきき方に難点のある評論家の豊田泰光が雑誌のコラムかなんかで「こんな低レベルでの3冠王は認められない」と言い放った。落合は別のメデアを通して「3冠王になったこのない者にいわれるすじあいはない」といい返した。たしかに豊田は、プロに17年間いて落合の3冠王記録の、打率、本塁打、打点となる数字のどれ一つとして超えたものはなかったのだ。また落合にしても、過去の野球界に貢献した豊田をあしざまにけなしては大人げないと思う。せめて、藁人形を造り五寸釘を打ち込む程度の、ごく軽い反撃でも良かったのではなかったか。

 3冠王を取ったのに、ホームラン数が少ないことを悩んでいる落合に、信子夫人は「いっぱいホームランを打つ人はみんなデブじゃない。あなたも太ればいいのよ」と、次に日からの食事は相撲部屋のチャンコ並みのボリュームとなった。ちなみに本塁打を44本も打つ門田博光の体重は90Kgほどではなかったか。しかし、この飽食の世で大声で「デブ」などというと、傷つくのは門田だけではすまなくなるんよ。

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 1985(昭和60年)には3年前と違い、打率.367、本塁打52、打点146と驚異的数字での2回目の3冠王に輝いた。今度は現役時代3冠王にならなかった評論家も落合の功績を讃えたにとどまった。ただ、19653冠王の野村克也だけは自分を超えた者には甘くはなく、沙知代と二人で酒を飲みながら夜更けまで落合の陰口たたいたが、翌日の朝一で本人にお祝いの電話をした。

 この年落合は、社団法人日本プロ野球選手会の2代目理事長に就く。現役選手としては初めての就任であった。

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 1986(昭和61年)には、ブーマー・ウェルズ、秋山幸二(現ソフトバンクス・ホークス監督)らとのデットヒートの末に、打率.360、本塁打50、打点116で、通算3度目の3冠王をものにした。上々の落合個人の成績に比べてのチーム成績は惨憺たるもので、時の稲尾和久監督は解任される。「稲尾さんがいないロッテに自分がいることもない」と発言して、中日ドラゴンズと4(牛島和彦・川上誠二・平沼定晴・桑田茂)対1トレードが実現する。ここで落合は、日本初の年俸1億円プレーヤーになる。

 落合は、ロッテ時代の1984年~1986年まで監督だった稲尾和久を師と仰いでいる。現役時代の落合が、室内練習場で長時間のバッティング練習を終えたところ、指の感覚を失いバットから離れなくなった。そのとき物陰から姿を現し指をゆっくり一本ずつバットから離してくれたのが稲尾和久であった。監督である稲尾は、落合のバッテング練習を最初から見守っていたのである。落合の稲尾への私淑(シシュク=密かに師と仰ぎ、その人を模範とする)はこのときがきっかけであった。そして、この年のオフの世紀のトレードは稲尾の解任に絡むロッテ球団に対する不信感が原因であった。稲尾のほうもまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに答えて3度目の3冠王に輝いたのだった。

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 1987(昭和62年)には、2年連続3冠王としてのステータスを携え中日ドラゴンズに入団した。ここで初めて落合は、なにかと陽当たりのよろしいセントラル・リーグにデビューすることになった。

 落合が中日にトレードされたその時期に、球団は体育館に手を加えて打撃練習場を急造した。ピッチングマシンで打った球の伸びる方向の突き当たりと両サイドと天上にネットを張りめぐらしたものだが、特に鋭い感性が反映されたものでも、技術の粋を集めたような高価なものでもなかった。それはバッテングの下手な者が打つと、ネットの繋ぎ目からもぐり込んで天上ネットに上るボールで垂れ下がってしまうのである。バッテングをした者がネット上のボールに向かってボールを当てて落とそうとするのだがうまく回収できない。プロ野球の選手が真剣な眼差しで下から上に向けてボールを投げている姿はかなり間が抜けていて、人生の悲哀をそこはかと感じさせられるものだった。それを見ていた落合は「オレがとってやるよ」というと、マシンからの球をバットで打ち、すべてに命中させてネットから落としたという。たまたまセントラルリーグの審判部長だった田中俊幸がそれを見ていて、「まるで魔法のようなバットコントロールで、曲芸かマジックを見ているようだった」と話している。

 落合の打撃練習の場合、ゆるい球を自由に打ち返せれば自分の調整は完了としていた。ナゴヤ球場での打撃練習のとき、審判が試合前の目慣らしのために落合のそばに近づいた。落合に「10本の内、何本スタンドに入ると思う?」と聞かれた。ゆるい球を全力で打っても飛距離は出ないのが常識なので「精々打っても入るのは5本だろう」と答えると、「8本は入るよ」と打ち始めた。10本の内2本は惜しくもフェンス際に落ちてしまったが、残りの8本はスタンドに吸い込まれた。その審判は「信じられない光景であった」と話した。

 1987年の中日は2位に終わった。落合個人も打率3位の.331で、28本塁打、打点85の成績で幕を閉じた。この年から、日本人初の1億円プレーヤーとなり、820に信子夫人の悲願であった待望の長男が誕生し、ベットの母子を覗き込んだ落合は、笑い声を押さえるのに大変苦しい思いをした。

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 1988(昭和63年)の中日は、2年目になる星野仙一監督のもとにスターと切った。スタート1ケ月あたりでは首位に8ゲームも引き離される最下位だったが、暑い夏のさなかには借金2というところまで調子を上げていき、最終的には79勝46敗5分けの勝率.632で逆転優勝をはたす。落合は、打率.293、本塁打32、打点95の成績でリーグ優勝に貢献する。

 1989(平成元年)のシーズン終盤には、安打を連発し打率.321、本塁打40、打点116で打点王に輝き、セ、パ両リーグの打点王に輝いたのは落合が史上初めてだった。

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 1990(平成2年)打率.290、本塁打34、打点102の成績で、本塁打王と打点王に輝き、両リーグ本塁打王は落合が史上初めてである。この年に近鉄に鳴り物入りで入団した野茂英雄につきコメントを求められ「フォークでしか勝負できないんだろう。若いのにオジンくさい投手だ」と答え、この年のオールスター2戦目に対決したとき、野茂は得意のフォークは1球だけで、落合に投げた高めのストレートを狙い打ちされて本塁打となった。まだまだ若い野茂は、簡単に落合の挑発に乗ってしまったわけだ。

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 1991(平成3年)2月、押し付けられた年俸を不服として日本選手初めての調停をコミッショナーに申請する。落合の報酬の桁数が私の感覚に馴染みのないものなのでコメントのしようがないが、前年の1990年の16500万円への上乗せ額が少なかったのだろう。最終的な調整で22000万円に落ち着き、そのことを忘れようと努力しながらペナントに入ったが、球団に対する不信感だけは残されたもようだった。

 同年シーズンの落合は終盤まで3冠王を手にできる位置にいたが、毎回の打席で本塁打を狙ったため打率を落とし、37本塁打で本塁打王のみに終わる。べつの首位打者レースは、最終盤でヤクルトスワローズの古田敦也とデットヒートを演じて、6打数5安打などもあり一時は古田を追い越したが、最終戦に古田がヒットを放ったことで2位の打率で終わる。ヤクルトとの最終対戦では、6四球という日本記録となったが、「こんなレベルで争っている俺が悪い。歩かされたくなかったら、自分が圧倒的成績を残せばよいだけの話だ」と、あっけらかんと話した。ムッツリ落合の度量だけが光る御言葉ではあった。

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 1992(平成4年)の中日は高木森道新監督のもとにスタートを切ったが、終わってみると6070敗の最下位に終わった。落合にしての成績も打率.292、本塁打22、打点71と振るわず、1982年以来の獲得タイトルなしとなった。落合はこの年に、FA制導入賛否問題で選手会トップとの食い違えから選手会を脱退している。

 この年、米国ユニバーサルが中日ドラゴンズをモデルにした野球映画[ミスター・ベースボール]を公開した。主演は[コロンブス][スリーメン&ベビー]のトム・セレックと、中日ドラゴンズ監督役の高倉健で、日米の野球事情の違いから来る食い違えを扱ったコメディーである。この映画ではナゴヤ球場を名古屋市民エキストラーで一杯にして、中日ドラゴンズのユニフォームを付けた俳優が野球試合をする。かなり現実とのズレはあるものの、高倉健の渋さは少しも損なわれることはなかった。

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 1993(平成5年)の落合は、史上初の両リーグ200本塁打を達成した。このオフに導入されたフリーエージェント制度を行使して巨人に移籍している。前年巨人に復帰した長嶋茂雄監督は、落合が少年時代から憧れているヒーローで、彼が21歳のの時の1974年(昭和49年)1014日には後楽園での引退試合をスタンドで観戦している。1992年の長嶋の2度目の巨人監督就任について、落合がコメントを求められ「長島さんがもう一度巨人に戻ったら馬鹿にされますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言して、長島の巨人復帰に反対の立場をとった。それでも巨人入団を決めた会見では「長島さんを胴上げするのにきました」といった。この長嶋は落合について「フィールドに監督がもう一人いるようなもの」と話し、打撃はもとより、投手への的確なかけ声のタイミングや指示内容などを高く評価していた。

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 1994(平成6年)、落合が長嶋監督が率いる巨人軍に移籍してから、その年1994年のリーグ優勝と1996年との2回の優勝に大きく貢献した。移籍した年の優勝を決めた108日の試合は、落合が昨年まで在籍した中日が相手で、しかも同率の対戦となり後々まで[108]とかたり継がれる名勝負となった。調子に乗った長嶋巨人は、日本シリーズでも西部ライオンズを降して日本一になった。

 以前の落合は、「金のために野球をやっている」だとか、「多く金を出すチームにいく」だとか、「金にならない試合にはでない」などと、ほとんどのプロ選手が思っていても口に出さない言葉を記者たちに話していた。ここにきてのFA宣言後の巨人入団に際しても、「一番お金を出してくれるチームだから決めた」と公言し、巨人ファンの間では賛否両論に分かれた。その後のコメントでも「自分の力が巨人で通用するかどうかをためしたかったこともあるが、プロとして金銭面で最も評価してくれるところに行くのは当然」といい放った。落合が今まで話したことはプロとして当然のことをいっているのであって、それらに対する外圧に耐え得る精神力を備えているからこそ偉大なのだ。少なくとも落合は、陰に隠れてファンやチームメートを裏切ったことなど一度もないのだ。

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 1995(平成7年)4月に2000本安打を達成したが、名球会入りを拒否している。415日の414ケ月での2000本安打達成は日本プロ野球史上の最年長記録である。ここまでくると落合のことではもう驚かないが、この2,000安打は阪神の久保康生から本塁打で決めている。もう決して驚かないが、1990年の1,500安打の時も、1987年の1,000安打のときも本塁打なのだ。いつの場合にも本塁打を狙っているのだろうが、節目、節目には特に本塁打にむけて精神を集中できるのであろう。

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 1996(平成8年)に史上7人目の500号本塁打と、史上7人目の通算1,500打点を達成する。シーズン終盤まで打点王を争っていたが、831日の中日戦で、野口茂からの死球で左手首骨折で戦線離脱するも、43歳にもかかわらず打率.302、本塁打21、打点86とした。手の怪我の見通しも良好で、日本シリーズ第1戦から戦線復帰する。このオフの清原和博の巨人入団をみての出場機会を求め、球団に自由契約を申し出る。自由契約になるということは、今までの球団との契約が解除されたり、球団がその選手の保有権を失った場合に[どの球団も自由に契約できる選手]という意味である。これは、他のどの球団とも契約を結ばなかった場合は、実質的な引退となる。

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 1997(平成9年)に、2年契約を提示した上田利治監督下の日本ハムファイターズに移籍する。ここで史上二人目の両リーグ1,000本安打達成するも、打率.262、本塁打3、打点43と、レギラー選手となっての最低の成績となる。この年の44歳での規定打数達成は、現在でも最年長記録となるも体力の衰えは顕著であった。

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 1998(平成10年)には上田ファイターズのビックバン打線が爆発して9月まで優勝争いのなかにあっが、落合の出場機会は少なく、自由契約での現役引退をする。

 落合の通算本塁打は510本で、その内の176本は右翼スタンドへのものだった。初の三冠王に輝いた1982年の32本の本塁打でも実に20本が右翼である。アウトコースへの球を払うように流し打ちで本塁打にしてしまうことから、相手チームはライト方向に飛ぶアウトコースへの投球を少なくしてインコース勝負をする。しかし落合は、「自分の弱点はアウトコースで、俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」といい、「得意なインコースに投げる込んでくる球でヒットを量産した」と、現役を引退してから話していた。

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 引退後の1999年~2001年をテレビ朝日で[オレ流解説]と銘打ち、解説者を務める。その後フリーで九州朝日放送に時々顔を出していた。落合の口数の少ないオガワッパ訛りの解説をゆっくりと味わいば、本当のプロとはどんなものかがわかったように錯覚できた。そんな落合信奉者には、清原和博、愛甲猛、宇野勝、中村紀洋などのスラッガーが多かった。どのチームでプレーしたときでも、マスコミなどがいないところでは進んでコーチ役なども買って出ている。星野仙一なども「彼は大変優しい選手だ」と中日監督の頃を振り返っている。評論家になってからも、技術向上に励んでいる金本和憲やスランプに陥った松中信彦がアドバイスを求めてくるなど、選手からの高い信頼度を持つ。

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 2003(平成15年)オフにこわれて、3年契約で中日ドラゴンズの監督に就任する。就任早々にユニフォームのデザインを変更し、16人の選手の背番号も変更する。補強2人を入れただけで、他のトレードの凍結を宣言する。キャンプ初日に、いきなり紅白戦を実施する。周囲も選手もキリキリ舞させられた。

 2004(平成16年)就任1年でリーグ優勝に導くも、日本シリーズでは3連勝、4連敗で日本一を逸する。

 落合が後々まで鮮明に心の残っていることがある。この2004年春の開幕戦に、3年間1軍登録のない川崎憲次郎を先発させ5失点で降板するも、この試合を逆転勝ちとした。落合監督のこの差配は、補強なしでの持ち駒だけの開幕に際して、横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報漏洩の確認の意味も有ったようだ。川崎は1990年当時の野村監督下のヤクルト黄金期を支えた投手だったが、星野監督下の中日に入団して巨人キラーと期待されるも、肩の故障で低迷しての3年ぶりの1軍復帰であった。その後の登板で大敗して、中日がリーグ優勝を決めた翌日の102日に、落合から戦力外通告を受けた。けれどもそれが、プロ野球選手としての宿命でもあった。

 落合監督の隠された正義感はグランド上にとどまらず、2004年のプロ野球ストライキ前に、井端弘和選手会長を呼び「選手会として、徹底的に戦って来い。優勝や日本シリーズがなくなってもかまわない。世の中にはそれ以上に大切なことがある」といっている。そもそも、この事件の根底にあるのは、1958年ころから燻っている[プロ野球再編問題]である。20046月に近鉄とオリックスが合併すると発表した。これは、プロ野球12球団制の崩壊を内包している将来の球団数消減による1リーグ制移行への試金石ともとれる行為であった。日本プロ野球選手会は、両球団の合併を反対する立場で710日に臨時大会を召集した。「両球団合併を1年間凍結して最良の方法を話し合ってくれ」と「来シーズンに合併を強行したときはストライキ権を行使する」と「球団経営の改善」を決議した。後日の会員752名の投票で、賛成648名、反対7名、無効6名、未開票91名の結果となった。

 さらに選手会は、96日に「合併を凍結できないのなら、9月中の何れかの土日にストライキをする」と通告した。巨人の桃井球団社長は「土日の6試合全部をやらないなら、優勝を決めることはできない」と主張して、暗に落合中日を牽制する発言をした。「どこのフロントにもロクデナシしかおらん」と密かに考えていた落合は、カチンときて「日本シイリーズなどなくなってもいいから、徹底的にやってこい!」発言となったのだろう。たぶん。

 試合中の落合の[ぶっちょう面]は、自分が支配しているチームを含めての野球関係者とメデアと、約3万人の観客全員に「あんたなんかだいきらい!」といわれたような暗い神秘性をもっている。彼はいつも、両チームがプレーをしているグランドの投手と捕手との中間地点あたりに照準のさだまらない視線を合わせて、ムッツリと足を組んでいる。配下選手がバントに失敗しようが、トリプルプレーで一瞬にスリーアウトになろうが顔色一つ変えず座っている。試合中にベンチから立ち上がるのは、億劫そうに空を見上げて投手交代を告げるときだけだ。その心は、「個々のプレーに一喜一憂すると、選手は監督の顔色を伺うようになるので、のびのびとした本来のプレーができなくなる」といものだそうだ。

 また、マスコミの取材に対する極端な省イネ・コメントも有名で、親会社の中日スポーツが落合監督のための[オレ流語録]という枠をつくってまでファン獲得を目論んでいるのに、ほとんどの場合、原稿には一行のみであった。これでは、いくら有能な編集員でも伸ばしようも詰めようもないではないか。球場でも、負け試合の場合には、直ぐに立ち上がり数秒でベンチ裏に姿を消す。他の人の推理によると「現役時代のチーム事情を他チームに話す記者がいて、自分のチーム事情が外に漏れるのを警戒しているのだろう」というが、そんな気持の小さい落合監督ではないと私は感じる。彼にはやることがいっぱいあって、それらの者と話す時間がもったいないのだ。8シーズン中に7回までもクライマックスシリーズに進み、日本シリーズに5回も進出するチームの監督には46時中大小のプレッシャーが団体で押し寄せてくるのだぞぉ!オマエ!。

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 2005(平成17年)は、タイロン・ウッズの殴打事件による出場停止と、交流戦における負け越しが災いして2位に終わる。この事件は、55日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦5回裏に起こった。4番打者タイロン・ウッズの顔近くスレスレの直球を投げた藤井秀悟にウッズは強く抗議した。藤井は特に悪びれもせず舌をだしたので怒り心頭に発した185Cm102Kの黒い鉄の塊がマウンド方向に駆け出した。逃げもせず突っ立っている藤井の右頬に決まったストレートは、黒い肌を誇りにしているウッズの打率3割、打点144点、本塁打47本を叩き出す2本の腕の片方の手からのものだった。ウッズが投じたこのゲンコツ死球が元で、出場停止10試合という痛い判決が下された。このことで落合監督は、ウッズが最低でもひねり出す予定の12本のヒットと、15打点の損失を被った。

 クサクサしていた落合は、この年パリーグ2位だったロッテが日本一になったとき「日本一じゃなく、プレーオフチャンピオンだろう。もし俺のチームが2位で日本一になったって、ちっとも嬉かないよ」といってしまった。はたして、2年後の2007年にリーグ2位で日本シリーズまで進みそれを制したが「リーグ優勝できなかったことには、不満が残る」と発言し、同年の日本一獲得時の胴上げは辞退している

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 2006(平成18年)、監督として2度目のリーグ優勝。日本ハムとの日本シリーズは14敗で、またも日本一になれず。

 この2度目のリーグ優勝を果たした1010日の東京ドームでの勝利監督インタビューでは思わず泣いてしまった。実は勝負を決めたウッズの満塁本塁打の直後から泣いており、生還したバッターを出迎いたこともない落合が、満面に笑みを浮かべてウッズと抱き合っていた。「いったい、今までのムッツリ助兵衛顔は、なんだったのだ」といっていた、匿名希望の選手が一人いた。

球団とはオフに、2年間の監督契約締結した。

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 2007(平成19年)のペナントレースでは優勝を逃がすも、同年導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝して日本シリーズに出場する。昨年と同じ日本ハムに41敗で日本一になる。本人がいう「プレーオフチャンピオン(価値あるリーグ優勝をへていない日本シリーズ優勝の意)」ながらも、公式記録上の53年ぶり2回目の日本一になり、アジアシリーズでもアジアチャンピオンとなった。そして、日本一監督として正力松太郎賞を受賞する。

 2007年度からセントラルリーグにもプレイオフ制度が導入されたが、落合はことあるごとにこの制度に反対の立場をとり「あくまでもリーグ優勝に価値があり、その意味での日本シリーズは今年で最後だと思う」と発言している。

 この111日の日本ハムとの日本シリーズ第5戦で、平田良平が打った犠牲フライでの1点を守りきり、中日球団が53年間達成できなかった日本一を決めた。この試合では、9回まで完全試合ペースで投げ続けた山井大介を九回表に岩瀬仁紀に交代させた采配は、[2007年日本シリーズでの完全試合前の継投]として他球団ファンや在京マスコミを中心にセンセーションを巻き起こした。オフに正力松太郎賞を受賞したが、選考委員長の川上哲治は「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』といっておられた。この日本シリーズでも勝負に徹し、そうゆう強い信念が感じられた」と、選考委員全員が選考に際して、落合の9回からの投手交代を絶賛した。

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 2008(平成20年)は、3位に終わる。監督就任最悪成績のシーズン。福留孝介のメジャー移籍、北京オリンピックで5人の主力選手公式戦離脱などが災いした。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人に1勝したのみで敗退する。

 さきの84日、山本昌が完投で200勝を達成した際に、昨年の日本シリーズを引き合いにして「代えられません。日本シリーズはチームの記録。今日のは本人の記録です」と記者たちの笑いをとった。

 オフに球団と3年間の監督契約締結した。

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 2009(平成21年)2位に終わり、クライマックスシリーズ2ndステージで巨人に1勝したのみで敗退する。落合は一切いい訳はしなかったが、実際のところは、川上憲伸、タイロン・ウッズ、中村紀洋の退団や、谷繁元信の怪我での離脱などが災いした。開幕時より出遅れ失速で後半に巨人に1.5差まで追い上げるが、力尽きて首位に12ゲーム差をつけられた。このシーズン中の記者団のインタビューに際し、親会社が新聞社なのに「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えることはやめた。新聞を読んでいない選手もいるから」と発言する。中日新聞の大島寅夫社長は大変に怒り、落合に[読む野球]というコラム記事を書くように強要した。落合はそれを書いた。ほんのすこ~し。

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 2010(平成22年)は監督として3度目のリーグ優勝達成。打撃陣の不調などで得点力が大幅に低下して首位に8ゲーム差をつけられたが、910日には投手陣の踏ん張りで首位奪還する。その後に巨人、阪神との巴戦を制して143試合目で優勝を決める。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を41敗として日本シリーズに進出したが、千葉ロッテマリーンズに241分けで敗れる。この年に、7年連続指揮監督となり、6年連続監督の与那嶺要と星野仙一を抜き球団歴代1位となった。

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 2011年(平成23年)114日に2011年度野球殿堂入りの件で表彰を受ける。この年は攻撃陣の不調などで前半戦は不調が続き8月上旬には5位に転落し首位ヤクルトに10ゲーム差となるも、9月に入るとリーグトップの投手陣の働きで巻き返してゲーム差をジリッ!ジリッ!と縮めていった。

 この状況の922日に球団から、同年シーズン終了後に監督が辞任する旨の発表があった。意図的に流された退任報道は、実績を残すものの勝利至上主義という批判を受けていることや、ナゴヤドーム観客動員数低下などのファン離れの落合への責任転化や、地元財界との深刻で馬鹿馬鹿しい軋轢や、親会社中日新聞社販売・営業部からの突き上げとか、外様コーチ重用によるOBたちの落合批判などが単純に積み重なった結果のように見える。シーズン中に監督退任発表があっても、落合はじっと沈黙を守っていた。いつものように彼はムッツリとした顔で、なんにもいわない差配に徹して優勝にむけ突き進んで行った。選手の誰もが、監督のためにも勝ちたいし、自分自身のためにも優勝を目指すという強い決意がみられた。こんなチームが優勝できないはずはないのだ。

 チームは、106日に首位に浮上し、1018日の142試合目に監督として4度目の優勝を決め、合わせて球団史上初の2連覇を達成した。

 退任発表後に、世間の見方が変わった。劇的な有終を後押しする声、声・・・。これまでの批判にさらされてきた状況に落合監督は苦笑した。「不思議なもんだな。オレは何もかわっていないのに、今度は褒められるのかよ。ハハハッ」敵地にもかかわらず、スタンドからは万雷の拍手と[落合コール]が降りそそいだ。荒木も森野も、嗚咽が止まらなかった。谷繁が、和田が、目を真っ赤にしていた。激闘8年間、孤高の指揮官は、これほどまでに熱いものを男たちに残していた。

 「猫だって、だれにも見られない場所に行って最期を迎えるだろう。オレもそういうのがいいよな」消え去る者には、去り際の美学がある。

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 落合博満の3年間の監督契約は201110月末日で切れていた。それ以降は、1日、1日ごとの契約更新を積み重ねる方式である。ヤクルトとのクライマックスシリーズも41敗で制し、監督としては5度目の日本シイリーズ出場と、2年連続日本シリーズ出場を果たした。このクライマックスシリーズ最終戦には予定されていなかった胴上げ行われた。その後の日本シリーズが34敗でソフトバンクに負けていたので、落合博満の中日監督としては、これが最後の胴上げとなった。

 1010日にセリーグ最優秀監督賞に選出されたことが発表された。

 1120日、日本シリーズでソフトバンクに敗れたその日をもって、中日ドラゴンズ監督退任となった。

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 監督退任後の[報道ステーション]で、2011年から導入された統一球の影響について聞かれた落合は「全く関係ない。選手は『統一球は飛ばない』といい逃げているが、打てなくなった奴はみんな糞ボール球を打っている。それでは打てないのはあたりまえだ」と述べている。1球団70名で12球団合わせて840人の選手は、何も反論できなかった。

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 他人の懐具合をあれこれと勘ぐるのは大嫌いだが、落合博満が稼ぎ出した金額には多少興味が湧く。

現役時代

197825歳) ドラフト3位 契約金不明

197926歳) 360万円

198027歳) 360万円

198128歳) 540万円

198229歳) 1600万円(三冠王)

198330歳) 5400万円

198431歳) 5940万円

198532歳) 5940万円(三冠王)

198633歳) 9700万円(三冠王)

198734歳) 13000万円(3年契約)

198835歳) 13000万円

198936歳) 13000万円

199037歳) 16500万円

199138歳) 22000万円

199239歳) 3億円

199340歳) 25000万円

199441歳) 38000万円(巨人移籍)

199542歳) 38000万円

199643歳) 38000万円

199744歳) 3億円     (日本ハム移籍)

199845歳) 3億円

                 合計336340万円+1978年契約金

監督時代

200451歳) 1億円(3年契約)

200552歳) 1億円

200653歳) 1億円

200754歳) 15000万円(2年契約)

200855歳) 15000万円

200956歳) 15000万円+出来高(3年契約)

201057歳) 15000万円+出来高

201158歳) 15000万円+出来高

               合計105000万円+出来高分

現役合計336340万円+1978年契約金+監督+合計105000万円+出来高分。

441340万円+ 1978年契約金+20092011の出来高分。

               ・

 プロ野球選手は個人事業主になるので、年収1800万円以上の収入から、必要経費を控除した金額の37%が所得税になる。乱暴な計算だが、落合氏は、25歳から58歳までの33年間に44億円の収入があり、必要経費が17%74800万円と仮定すれば365200万円-税13億5100万円で、現在の総資産額は約23円残っていなければならない。仮に落合氏にもしものことがあれば、信子夫人に11億5000万円がわたり、息子の福嗣氏にも11億5000万円がわたることになる。信子夫人は落合氏より9歳年上の姉さん女房なので、不幸にして、御不幸になられるかもしれない。そのときは、福嗣氏が資産全額をいただける。

 もし、「お金が邪魔で、室内の掃除もできやしない」などの状況が訪れたおりには、御面倒様でも御一報戴ければ、そのお悩みを綺麗に解消する方法がございます。

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