矢と弾丸
平成23年1月30日
2010年(平成22年)1月26日のニュースに、アメリカのフロリダ州の片田舎で、拳銃の早撃ち練習をしていた50歳の男性が、拳銃をホルスターに収める際に誤って引き金を引いて自分の足の甲を打ち抜いたというものがあった。おそらく彼の手にした拳銃は、S&W(スミスアンドウェッソン)ダブル・アクションだと思われる。ダブル・アクションとは引き金を引くだけで撃鉄が起きるとともに落下し、撃鉄先端にある撃針が薬莢のお尻を突くことにより雷管内に小爆発を起こさせて発射薬燃焼を誘発する。その燃焼圧力で銃身内の窮屈なライフル旋条を通過する弾丸に回転が加わり、解き放たれたバカ犬のように銃口から飛び出していくので、地面の上にある自分の足の甲を打ち抜くには持って来いの拳銃だといわれている。可哀相にもこの男は、地元の保安官に非尊敬的眼差しで見つめられながら病院に運ばれた。病院では吊り下げられた足に看護婦が故意に2度も洗面器をぶっけて、その度に彼は2度とも大きな叫び声を上げることになった。あげくのはてに、退院後、これまで7年間付き合っていた彼女にも以後の交際を断られた。これらのことを総合分析すると、その男は、銃社会だといわれているアメリカでも飛び切りのマヌケ男と認定されたらしい。
アメリカの人口は3億1500万人(2008年現在)であるが、国内には個人所有銃器が2億5千万丁あるといわれている。これは、5人のアメリカ人のなかで4人が拳銃を所持している勘定になる。彼の国で小学校に入学してからは、本物の拳銃に実弾を込めて西部劇ごっこでもするのだろうか。子供のお遊びはさておいて、アメリカでは猟銃や護身用拳銃は身分証明書を銃器店に提示するだけでだれでも手にはいる。勿論、銃の購入を希望した者の犯罪暦調査のために約5日くらいの時間を要するが、21歳以上の人間ならジーパンの右ポケットからつまみ出した10ドル札5枚程度で中古品なら手にはいる。しかし、観光ビザでの滞在者は対象外なので、私がいま考えているよなヨカラヌことを考えないようにしたいものである。以前から私は、コーラーのビンを並べておいて右側から順に撃ち砕いて見たいという強い欲求を持っている。
十年一昔とはよくいったもので、むかしむかしの約23年前に、ナケナシノ金をはたいてグアム島ツアーに混ぜてもらい、江ノ島よりはマシな島に上陸したことがある。1日目の島内観光で日本軍がアメリカにメッタメッタにされた洞窟や切立った断崖に案内された。2日目のオプショナルツアーでは、細い腕に入墨をした海兵隊あがりのキャップテンの操るクルーザータイプ釣船でトローリングに漕ぎ出した。幸運にも2.8m(最初に人に話した時は2mぐらいだったが、23年の歳月は獲物を80Cm成長させた)のカジキマグロを5人がかりで引き寄せた。このトローリングの実行上の誤りでボートが航行不能に陥り、別の船に救助され出航した港に運ばれてたので、その日の予定時間が大幅に余ってしまった。
帰国すれば妻も子もある男どもは悪餓鬼に変身し、上唇を舐めながら射撃場に飛び込んだ。我々に何らかの不信な翳りでもあったのか、一人に一人ずつのインストラクターがピッタリ脇に貼り付いた。彼らは我々が使用する拳銃の回転式弾倉に弾丸を込めると、両手で握って撃つように指示してから渡してくれた。鋼鉄の鈍い光沢を放つ45口径リボルバー・シングルアクションだった。身が引き締まるような重量感に酔っていると、突然左側の仲間が引き金を引いたらしく、肉厚鉄板を大きなハンマーで力任せに叩いたような爆発音をさせた。その方向から、煙と一諸に酸っぱい火薬の焦げる臭いが押し寄せてきた。私も両手で構えて、的に向け引き金を引いた。発射の反動から銃が上方に跳ね上がったが、落下時に辛うじて静止させた。2発目からは落ち着きがでて、つごう12発の弾丸を撃った。隣の射場で同胞女性が18口径を発射していた。弾丸の威力の違いからか低いトーンの発射音だった。
仕事一筋の真面目人間だと思っていた仲間の一人が「こんどは、マグナムをやってみよう!」といった。ダーティーハリ-でクリント・イーストウッドがノベツ撃ちまくったヤツだ。ポリネシアとアメリカンのハーフとおぼしき唇の厚いインストラクターは、自分の腕を叩いた手で私を指差し「アブナーイ~」といった。私たちは、聞き分けの良い子に戻った。それにしても、銃とは、なんと魅力に溢れている鉄の塊なのだろうか。密かに自宅自室の内側から鍵を掛け、模造拳銃の製作に励んだ警察官の話が新聞に載った記憶が蘇ったが、誰がそのことを110番したものやら・・・。純粋な趣味の世界を取り上げてしまうとは、罪つくりな人だ。通報者の社会的良識を疑うところである。
銃犯罪の多いアメリカでは、護身用に銃を手元に置いておくことが一般的なのである。多くの人は、銃を携帯するのは国民の権利だと思っているふしもある。これは、個人の自由や権利は自ら護らなければならないという歴史的観念が根付いているからであろう。複数の成年男性への「あなたはどのような死に方が望ましいと思うか」の質問に対して、5人に1人が「銃で撃たれて死にたい」と答えている。まったく、驚いた国民性ではないか。彼の国では、建国前からインデアンを銃で追い回すことに始まり、現在まで一貫して拳銃を打ちまくった。そしてライフルを撃ちまくり、機銃を撃ちまくり、バズーカ砲を撃ちまくり、ミサイルを撃ちまくり、日本の国土上に2発も原爆を落っことした。本当に悪い国だ。そして私は、日本軍を七面鳥狩のごとく撃ち倒すハリウッド製映画を、ことのほか堪能しているという矛盾に苦しんでいる。
どの国のどの地域にあっても、個人と個人、個人と大衆、民族と民族間には、様々な人間愛のようなものが存在している。しかし国家と国家との交流においては、きめこまやかな駆け引きと様々な思惑を隠し持っての表面的友愛に満ちた対話あるのみに思える。両国首脳は、記者団のカメラを意識しての健康的で大らかな握手をする。相手の掌を握りつぶしてやろうとでも思っているような力強い握手をしたあと、両国民にも世界の国々の人々にとっても、毒にも薬にもならない便秘薬のような共同声明を発表するのが常である。やくざ国家の朝鮮民主主義人民共和国(仮称)の神を恐れぬ言動に対して、お二人がソフトな共同声明で「遺憾の意を表明」しても、彼の国の幹部連中のヘノツッパリにもならないのは明白な事実なのだ。
あのニコヤカな顔をお持ちのオバマ大統領の胸のうちにしても「この、ヒタイに大きなホクロのある能無しは救い難い。確固たるビジョンというものを持たないばかりか、俺の云うことを笑顔で受けて大きく頷くくせに、俺の望む反対のことばかり推し進める。わがアメリカに不利なことは、日本にとっても不利なことだという不変の真理を理解していないのだ。あの政党は今後2年以内で政権を明け渡す運命だとのCIAの報告があったが、報いは確実にこの男に下されるだろう」と、考えているに違いない。いくらなんでも、日本の最高責任者をそのように考えることが失礼とは思わないのか。発言しなくとも、それを考えただけで国家転覆幇助罪に該当する。それにしても、彼はいとも簡単に我が国の第一級国家機密を読み取っていたことになる。ホワイトハウスの家族用食堂で雑種犬の顎の下を撫で上げながら、我が国の国会中継を観ているとしか思えない。
化学の進歩は何時の場合でも、自然破壊と人間の生命を奪う軍需目的で開発されるケースがほとんどだ。人を含む生物の生命を奪うために考案された銃器は、その最たるものといわねばならない。鉄砲が入ってきて以来その威力をたてに我が国の歴史上の為政者もまた、自分と国家との野望を築く行為を加速していった。敵や、やがて敵になる危険をはらむ同胞を抹殺するために、そちらに銃口を向け引き金を引き続けてきたのだ。
わが国に鉄砲が入ってきたのは、1543年(天文12年)薩摩の国の南端沖にエンドウマメの鞘のように浮かぶ[種子島(タネガシマ)]の最南端の[西村の小浦]という浜辺からである。そこに今までの日本での常識を超えた大船が流れ着いたことに始まる。この船を発見した島民は無投票で3期つとめた村長に報告し、村長は種子島家の時の当主[種子島時尭(タネガシマトキタカ)] に報告した。時尭は大船を港に引き入れ、語学に堪能だといわれる男を召しだして乗組員の検分を命じた。ポルトガル人が主体の100人ほどの船員の中に明国人がいたので筆談で意思の疎通ができたことは幸いであった。
乗組員に混じり油断のならない眼つきをした二人の商人がいて、手には3尺ほどの鉄の棒を持っていた。この棒の先には穴が開いていて底は閉じられている。それが鉄砲という物で、日本人として初めて眼にした瞬間であった。種子島時尭は鉄砲を二挺買った。当時の種子島には良質の砂鉄が大量に産出していて精錬の技術も発達していたので、種子島時尭はその複製を造ることを考えた。鉄砲の製造を部下に命じたが、この連中ときたら軒並み化学の単位不足の輩ばかりで、マニュアル本の収集の要請などを執拗にくり返すばかりで、1年過ぎても本題に入ることはなかった。漢字は読めても西洋式横文字を観ただけで、ミンナ熱を出してしまうからだった。うまい事には、次の年の1544年(天分13年)に再度ポルトガル船がやってきた。今度は理屈ばかりホザイテは実行力に乏しい事務方を退け、[八板清定]という刀工にポルトガル商人から鉄砲製造の技術を習わせた。彼は鉄を焼いては叩き、叩いてはまた焼くことを繰り返して、念願の国産第一号の鉄砲を造り上げた。
鉄砲製造の技術が紀州に伝播し、やがて紀州の根来(ネゴロ=和歌山県那賀郡岩出あたり)が鉄砲の生産地として広く知られるようになる。さらに紀州の雑賀地方(サイカチホウ)も鉄砲の産地となり、戦国最強の鉄砲傭兵集団[雑賀衆(サイカシュウ)]を生んだ。
同じ1544年(天分13年)ころ、鉄砲鍛冶の八板清定の許に[境(サカイ)]の商人[橘屋又三郎=鉄砲又]が訪ねきて、その技術を持ち帰る。そして、のちの自由都市[境]は鉄砲生産においての最大の都市となったのである。
同じ1544年(天分13年)ごろ将軍足利義晴が種子島への鉄砲伝来を知り、各地の金大工(鍛冶屋)を集めて近江の国坂郡国友村で鉄砲を造らせた。後日、この国友村の鉄砲生産が信長の知るところとなり、[長篠の戦]のおりの鉄砲隊の一隊として[国友鉄砲衆]が参戦することになる。
鉄砲が始めて合戦に使用されたのは、1549年(天文18年)薩摩統一の折の嶋津家と肝付(キモツキ)・蒲生・渋谷の連合軍との戦い[黒川崎の戦]からだといわれている。
鉄砲3000挺という大量を持ち出した戦いは1570年(元亀元年)の[野田・福島城の戦]からであった。これは後に参戦した石山本願寺側の雑賀衆(サイカシュウ)や根来衆(ネゴロシュウ)が大量の鉄砲を撃ちながら、織田信長に勝利した戦いである。この時に負けた信長は、鉄砲の有利性を再認識したのであろう。彼は、転んでも只では起きなかったのだ。
[長篠の戦]は1575年(天正3年)5月21日に[三河国=愛知県]の長篠城の近くの[設楽ケ原(シダラガハラ)]で行われた。織田信長・徳川家康連合軍が3000挺の鉄砲を3列に並べて三段に分けて連続撃ちをし、武田勝頼軍1万5000を打ち破ったといわれている。しかし現代で科学した結果、大部分がフィクションだといわれている。戦国時代絵巻を語るときには必ずといっていいほど、織田信長の戦上手(イクサジョウズ)の例として[長篠の戦]が登場する。怒涛のように押し寄せる天下無双の負け無し全勝、各個人平均打率3割7分代の武田騎馬軍団を、三段に構えた家康軍&信長軍の鉄砲隊が1分間隔で1000挺ずつ3列に並んだ時間差攻撃で1千騎を馬ごと横倒しにしたシーンがそれである。
長篠の戦に至る背景は、およそ馬鹿馬鹿しい理由からであった。[甲斐=山梨県]と[信濃=長野県]を差配する武田勢は今川氏領国の[駿河=静岡県]にチョッカイ出し、元亀年間には三河方面にまで足を伸ばすに至った。その当時の織田信長は上洛して足利義昭を盛り立てていた時期なので、武田勢とも友好的関係にあった。おりしも、織田信長と足利将軍の間の溝が深まる1572年(元亀3年)に、将軍側が反信長勢力をケシカケて自らも挙兵した。この時勢を逃さず、武田信玄は信長の同盟国徳川家康の三河を本格的に侵攻してきた。この武田側の行為により、武田と織田の友好関係は手切(テギレ=袂を分けること)となった。
当時、実力ピカイチの武田勢の怒涛の西上も、信玄の突如の脳溢血による死により求心力が減少した。武田勢の撤兵に乗じた信長は、当然の戦法として徹底的に反撃して敵を蹴散らした。信長は自分に爪をむいだ足利将軍も都から追い落とし、自身が天下人としてその空所に座り込んだ。一方の家康はこの時に力の衰えた武田領内に攻め込んだが、その後に信玄の後継者の武田勝頼は近江と三河への再侵攻を図り、1575年(天正3年)5月21日には長篠・設楽ケ原で武田勢と信長・家康連合が激突したのだった。よくもまあ、明けても暮れても喧嘩ばかりしている連中もいたものである。
そもそも長篠の戦は、2年前の1573年(天正元年)4月の信玄の死により、武田側の奥平信昌が一族郎党を引き連れ徳川方に寝返る事件が起きたことも原因の一つかもしれない。当時の家康が、手に入れたばかりの長篠城を奥平信昌に預け、対武田勢との最前線に配したことに端を発した。それから2年後のこの長篠の戦いには、武田勝頼軍1万5000騎が裏切り者の奥平信昌の護る長篠城を包囲したのだ。
長篠城を護る兵は500人程度だが、200挺の鉄砲と大筒などもあったために、その抵抗は熾烈をきわめた。しかし兵糧倉が落とされたことで、数日以内に援軍がこなければ落城は必定であった。その窮状を岡崎城に伝えるために鳥居ナニガシが城を抜け出した。家康はすでに信長に援軍を要請していたたてめに、5月13日には信長軍3万が岐阜を出て岡崎城に到着していた。鳥居は途中で武田勢に捕らえられたりしながらも、「援軍はまもなく来る」との報告をして長篠城内の士気を大いに高めた。
信長軍3万と家康軍8000は未明に長篠城の手前の設楽ケ原(シダラガハラ)に現われ、大小の丘陵の連なる地勢を巧みに利用して防御陣を築いた。現地の川を挟む両方の傾斜の土を削り取り以前よりも斜面角度を強くし、三重の土塁に馬防柵を据えるという信長流の野戦築城だった。信長は、護りに弱い鉄砲隊を柵の後ろに並ばせ、武田騎馬軍団を向かえ打つ策をとった。
当時の信長の勢いは、信玄の生前時から始められた[尾張=愛知県西部]、[美濃=岐阜県南部]、[南近江=滋賀県]、[北伊勢=三重県]、[山城=京都府南東部]侵攻をさらに発展させ、ジワリジワリと手を拡げていた時期で、武田勝頼が巻き返しをはかるも力の差は歴然としていたのだ。
織田信長側から観ると、武田と直接事を構えなくともジックリ待てば持つほど、有利な流れとなる要因だけが目立つところであった。それは、信長が陣頭に立つことで家康に対する義理は達せられ、合戦そのものも長篠より勝頼を追い出しさえするば良いわけで、武田勢が押し寄せてきそうな所に陣城を整えて待っていたにすぎない。別に武田勢がこなくとも、一服の時間が永くなるだけの話である。
徳川家康側の思惑は、信長のいる内に武田を徹頭徹尾叩いておきたいところであった。事実、この戦いの後に徳川領付近での武田勢との長年のゴタゴタが解消され、三河全郡を掌握している。
通説では、織田・徳川連合軍は3万8000といわれ、武田軍1万5000となっている。しかし信頼できる文書によると、織田軍1万2000、徳川軍5000、武田軍8000だといっている。また武田軍の損害が1000、連合軍600が、より現実味のある説だ。日本人の悪い癖で、後日にその家で自慢話を書き連ねる場合などは、飲むほどに数字が上昇していったものと推察される。つまり、合戦での敵味方の人数の過剰申告は普通であった。そのことはまた、現代人も自戒せねばならないだろう。特に政治家は。
織田・徳川連合軍が武田勢に向けて一方的に火縄銃をブッパナシタという話も信用できないというものが現われている。長篠の戦い時点で、武田勢が鉄砲に無知であったということは無く、相当量の鉄砲を持ち込んでの戦いで、包囲された徳川側の長篠城の外壁は武田軍の弾丸でザルのように穴があいていたという。
歴史家は武田騎馬軍団の脅威そのものもフィクションだったといっている。当時の戦闘は騎馬武者一人一人が、ある程度の数の足軽雑兵の直接の統率者であり、矢面に立つ足軽雑兵の指令塔である。この騎馬だけを集めて走り回っては、全軍を統率することはできない。また、現代の映画撮影用のサラブレッドと異なり、当時の日本の馬はモンゴルにいるような小型のもので、その体力では馬上で重い鎧をつけて戦場を自在に走り回れるようなことはできない。当時の馬は去勢をしていなかったので、軍団を組んで一斉に突き進むような集団行動にむいていなかった。つまり、その一物をつけた馬は、リング上のレスラーのようにレフリーの指示を無視し続けるからだ。
定説では、信長勢が鉄砲3段撃ちをして、以後の戦での鉄砲の新戦術として定着されたかに見えるが、この戦術もまた、フィクションだったという。長篠の戦での実際に戦闘のあった[設楽ケ原]は、大小の丘が連なり織田・徳川軍と武田軍の間には川が流れている折曲した地形なので、一斉突撃も、一斉射撃もなんら意味をなさない。また、火縄銃は裸火を操作するので、密集しての連続射撃は身方同士を危険に晒す作戦であるといわねばならない。
当時の鉄砲の武器としての評価は、近距離では無類の破壊力を持つが、命中精度は弓よりも低く、自己防衛性(反復攻撃性)は極めて低いという欠点をもっていた。利点としては、初歩段階の習熟時間が短いために、非力なものでも使用できるという点があった。これらを総合すると、弓より総合力は低いが、購入調達の資力を前提とし、有力防備の槍や弓と組み合わせて使用すれば未熟練の兵士を集めて短期間に大軍を編成できる武器ということになる。しかし、多数の鉄砲を使用した戦国時代後期の戦闘でも、鉄砲による死傷者は思いのほか少なかった。良くて弓矢での殺傷力と同じくらいであったろう。
それでも、鉄砲の真の威力は凄まじいもので、火縄銃の殺傷射程距離(発射弾が飛行し着弾を受けたとき、ある程度のダメージを受ける距離)は90mで、有効射程距離(最低限の命中率50%以上を保てる最大距離)は60m程度といわれている。[低伸弾道距離]とは、発射された弾丸が曲線飛翔に移る前の直進距離をいうが、火縄銃の場合は約30mぐらいらしい。この距離以内の破壊力は他の飛翔兵器(投石・投げ槍・弓)に比べようも無いほど強力である。江戸時代[続雑兵物語]では、[4匁5分筒(ヨンモンゴブヅツ)=1発17グラムの鉛玉を発射可能な火縄銃]で、2寸(6.6Cm)の欅板を3枚重ねたものを射抜いたと載っている。この際の射程距離は15間(27m)であったとある。
戦国時代の火縄銃の構造と発射までの手順は、概ね以下の順序となる。
火縄銃の構造は、全長130Cm、銃身長100Cm、口径2匁半ぐらいが標準的な鉄砲隊の持つ火縄銃で、総重量4Kg、有効射程距離は100mぐらいあった。
1、火縄に火を点けておく。火縄は木綿製と木の皮の繊維をヨジッた物があり、後者のほうが火持ちが安定した。
2、銃口から一定量の火薬を注ぎ入れ、次に筒先に噛まし布を乗せて丸い鉛の弾丸を包み込むように入れる。噛まし布は銃身内部と弾丸の間に隙間ができるので弾丸を固定し命中精度を上げるためのものである。
3、[かるか]という木製の細い棒で、銃口から弾丸を奥まで突き送る。
4、込めた弾丸の後ろの火薬が詰まっているあたりの銃身の横にある火皿を引き出し、そこに適量に黒色火薬を乗せる。
5、火挟みに火の付いた縄を挟む。
6、的に向けて構えて引金を引くと火挟みが落下し、火縄の火が火皿の黒色火薬に点火、銃身内の火薬に引火して炸裂、その力で弾丸が飛び出していく。
おおよその目標までの距離は、標的(敵兵)の眼の白黒が見分けられるくらい。的中率を高めるために身体の中心に狙えを定めて引き金を引く。
一方、鉄砲が国内に入る前の飛び道具の主役の弓矢の威力は、現在でも和弓の射流し(通し矢)では200mをゆうに超えている。明治以前では四町(432m)を記録したとあるので、弓矢の威力は昔に遡るほど強力であったわけである。鉄砲が普及してからの戦国時代の合戦でも弓は主力武器で、鉄砲と同じぐらいの効果をあげていた。
弓の材料は木と竹を組み合わせたもので、戦国時代のものは太さと長さが桁外れで、現代の者では引くのは難しいといわれている。
戦国時代の弓の強力さは木と竹からなる本体は弦(ツル)をはずした状態でも湾供しているが、使用しない時には、その湾曲を反対側に無理やり湾曲させて弦をはっておいたという。いざ合戦場に赴く前には、本体を2人で正常な方向に湾曲させて、弦を張る役目めの者がもう一人いた。現在の弓道でも熟練者は射距離28m程度なら時速に換算して200Kmを上回る高速をつくりだすようだ。
古代から近世までの弓の進化は、合戦の進化と符合するようだ。石器時代からしばらくの間は、その辺の手ごろな木を切り取り皮を剥いただけで乾燥して材料にしていたが、竹と木の合板に変わり、木を竹でサンドイッチイにしたものに、戦国時代には竹サンドの具まで縦に合わせた強力なものが出来上がった。いずれの合板も膠(ニカワ)で接着してその上から糸を満遍なく巻き上げて最後に漆仕上げをした。弦もまた強力でなくてはならない。植物繊維のカラムシや麻をヨッテつむぎ、漆や松脂で固めて強靭さを加えた。
日本には、他国に例を見ない身長より長い7尺5寸の弓がある。通常は、弦を張ったときに弓の中心部と弦との距離が長いほど矢は良く飛ぶ。弦を引き絞れば引き絞るほど大きな推進力を得られる理屈だ。しかし人間である以上力の限界は出てくる。一定の力で最大の威力を生むには、弓を長くして弓の中心部と弦との距離を確保する方法がある。日本の弓の長さは中世以来7尺5寸(2.3m)が標準サイズだ。
矢の長さは90Cmで、本体部分は篠竹で先に鏃(ヤジリ)が付けられ、矢の後ろには矢羽を付ける。鏃は狩に使用(狩矢)するものと戦闘用(征矢)とでは形が異なる。人間に向ける場合には先の尖ったもので文字通り[射抜く]のが目的の鏃で、狩猟用のものは先の平べったいナイフ状の鏃で[射切る]ための鏃であった。
矢羽もまた戦闘用と狩のものとでは付け方が異なる。人体を射抜くためのものは矢を回転させる必要上[三立羽(ミタテバ)=等形の三枚羽]になり、狩に使用するものは射切るためには回転しては不都合なために[四立羽(ヨタテバ)=長い羽を2枚一直線に、短い羽を長い羽にクロスするように2枚付ける]とした。
テレビや映画のなかでは、絶対的権力を持って上座でふんぞりかえっているお殿様だが、本当のところの戦国大名の地域における立場はどうだったのだろう。戦国大名は必ずしも絶対的支配者ではなく、各地域の小中領主に担ぎ出されて頂点に立っていたにすぎない。小中領主もまた、領民に安住を保障する代わりに地域支配を認められていたにすぎないという。テレビや映画での合戦絵巻風の刀や槍を持っての白兵戦はフィクションで、どうしても、敵味方が互いに損害を最小限に押さえるために遠くから矢を射掛けたり時々鉄砲撃ちかけたりして相手の逃げるのを待つような戦いだったと予想される。今までの戦国時代の男のロマンは崩れ去るが、本当のことでは仕方がない。
上記での、各地域のまとめ役の小中領主を[国人領主(コクジンリョウシュ)]と呼ばれていた。戦国大名は、合戦の必要があった場合に傘下の国人領主に戦闘参加と、その人数や持参武器にかんする触れ[参陣督促状]を出す。仮に「親族や同心を集め本人を含め28人参加させよ。弓、鉄砲の数。着用具足。持鑓(ミチヤリ)の寸法と形状指定。1丈2尺の旗を背負うこと。」等その他の指示が来る。各地域の国人領主が、それぞれ28人の同心・親族団を編成すれば、総人員が仮に300程度となる。その内訳は騎馬20%、大小鑓40%、弓10%、鉄砲10%、幡10%、歩者10%ということになるだろう。
戦場での武器の配列は、鑓―鉄砲―弓―持鑓の順になる。刀は誰でも持っていたが、これで敵陣に切り込むようなことはなく、あくまでも護身用であった。また刀は自分の戦場成績の証明となる自分の倒した敵の首を掻きとるための道具でも合った。
あまたの合戦の中で、鉄砲による傷が確認されるようになってきた永禄6年(1563年―家康と信長が清洲で同盟を結んだ)あたりから合戦負傷者の負傷原因は、鉄砲45.2%、矢傷17.3%、槍傷15%、石礫15%、刀傷4%、自分で転んで頭を打ったものが3.5%という統計がある。鎧兜に身を固めた武者が、敵の投げた石が顔のど真ん中に当たり、鼻血を出しながら落馬したような光景は、かなり間の抜けたことに思える。
御存知のように映画やテレビでの合戦シーンのように、騎馬武者同士に足軽連中が混戦して、避けた槍を左手に右手の刀で切り伏したあとで眼を見開いてアップで映るような戦いは稀で、遠く離れて盲めっぽうに鉄砲や弓を射る遠戦が一般的であった。だからといって効率の悪い遠く離れた敵を撃っていたのでは当たる確立は低いので、鉄砲なら18mぐらいまで引き寄せてから撃っている。弓矢も近ければ近いほど当たる確立は大きいので、敵の額の皺が見えるような距離なら理想的だ。
総合的に考えると、比較的近距離で弓や鉄砲を使用し、さらに近くまで来た敵とは石を投げあい、眼の前に迫りつつある敵とは槍で叩き合う。それらの武器がなくなると刀で相対する。倒した敵の首を切り離すのはやっぱり刀が有効だった。
合戦とは、なにやら子供時代の各地域ごとに団体で戦った石の投げあいの様相に似かよっている。今思うと、危険極まりない喧嘩方式だが、双方に怪我人が出るのは稀であった。
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コメント
火縄銃の有効射程圏と殺傷圏って逆なんじゃないでしょうか
有効射程圏っ、基準目標にたいして50%以上の命中率を出せる距離だから殺傷圏より有効射程圏のが短いはずですが
投稿: 通りすがり | 2011年8月22日 (月) 18時32分