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細川護熙の潰れ茶碗

20101021

 

 平成21916日に民主党、社会民主連合、国民新党の3党による連立政権の鳩山内閣発足により、自民党が野党になって間もなく14ケ月になる。平成5年(19938月から11ケ月ほどの連立政権の細川内閣、羽田内閣に譲ったことがあるので、今度で2度目だと記憶している。戦後の5分の3世紀間も自民党の一党独裁的な天下が続いたのだから、この政権交代で汚れがちな部分浄化の期待感が一時的に盛り上がった。「やっと日本にも、二大政党時代が来たか」と、親しい知人は云ったが、なんのことだかいまひとつピンとこない私は東シナ海で常時発生し、いまや彼の海域の特産物になっている大型台風の進路等の話題に、さりげなく誘導した。

 民主党は徐々にコツを覚えてきたようだが、今まで国会内で声が涸れるほど野次りまくっていた集団が初めて経験する与党なので浮かれに浮かれ、この14ケ月弱の内に鳩山内閣、菅内閣と早やくも2人の首相を製造してアワヤ3人目の首相誕生かとも思われた。

 平成22914日の管直人と小沢一郎との民主党代表選について、哲学者で大学教授でエッセストの土屋健二(仮名)氏はこんなことを云っている。[新聞は、この度の民主党代表選に「民意を反映させろ!」などと書きまくるが、代議制を採用している日本は国民が国会議員を選び、その国会議員が首相を選ぶように昔からなっている。その首相を選ぶのに民意を反映させろと書く新聞は「国会議員にそのような判断を任せるな!」というのだろうか。我々が候補者に一票を投じるのは、すくなくともその者は自分より政治を知っていて、「もしかして、お国の繁栄に向けて邁進してくれるかも知れない」と、思うからである。そもそも日本が代議制を取っているのは、ちゃらちゃら日替わり思考する民意そのものが信用できないからだ。今や政治家は信用できない人種の代名詞になってはいるが、民意はその政治家よりもっと信用できないのだ。ソクラテスを死刑(70歳の紀元前399年にアテネの牢獄で毒人参ジュースを飲んだ)にしたのは、50人の市民の投票で決定されている。多くの場合、一般市民は選挙のたびに爽やかな顔の人をまず選ぶ。そして口先で「子供手当は際限なく出します」などの美味いことをいう党に一票を投じる。しかし、首相を選ぶということは人気投票ではない。少なくとも我々よりは政治のプロである個々の議員に任せるべきだ。国民がいかに好い加減な思考の持ち主かは、確りと内面の調査もしないで印象を優先させ選んだ結婚相手だからこそ、互いに相手の裏切りのせいだと罵って離婚していく芸能人の多いことでも伺われる。その問題では、一般市民のほとんどが後悔している]と。私には23理解できない部分はあるものの、そんなものか・・と漠然と思った。

 とある日、コンビニの書籍台にある一冊の週刊誌をパラパラめくっていたら、若さだけを売り物にしている女優の写真の次のページのある男の写真に眼がとまった。自分の記憶力が低いアイドリングの後にゆっくりと動き出すのを根気よく待ち、誰だったかをやっと想い出した。その写真の男は、17年も前に日本国の総理大臣になったことのある細川護熙(モリヒロ)氏ではないか。私を含む一般大衆から忘れ去られている人が、どうしてここに取り上げられているのか興味があったので代価を払った。細川護熙氏は平成元年から平成2210月現在で、3番目に短命な日本国の首相であった。日本ほど国家の代表者がコロコロコロコロ変わるのも世界に例を見ない。まったく、彼らは汚職をやる暇もないではないか。昭和の時代まで遡るわけには行かないが、平成に入ってからの短命内閣ベストセブンは以下の通りである。

1、羽田孜氏64日間  (1994/4/28~1994/6/30

2、宇野宗佑氏69日間 (1989/6/3~1989/8/10

3、細川護熙氏263日間 (1993/8/9~1994/4/28

4、鳩山由紀夫氏266日間(2009/9/10~2010/6/8

5、麻生太郎氏358日間 (2008/9/24~2009/9/16

6、福田康夫氏365日間 (2007/9/26~2008/9/24

7、阿部晋三氏366日 (2006/6/26~2007/9/26

上記の細川護熙(モリヒロ)内閣は、263日間という短命内閣3番目の栄誉を勝ち取ったが、なにを隠そう、彼こそは南北朝時代には北朝足利幕府方の重臣として名を馳せた細川氏頭領の直系のお殿様である。私の手にある週刊誌のグラビアにある内容は以下の通りである。

 特別企画[細川護熙(モリヒロ)の世界]と銘打った写真をメーンにした14ページに及ぶ記事の内容は、『1993年(平成5年)と1994年(平成6年)の二年間を第79代内閣総理大臣として務めた細川氏は、1998年(平成10年)に政界を引退してからは陶芸、茶人として活躍、神奈川県足柄下郡湯河原町宮下の邸宅に[不東庵]を構えて、執筆活動の傍ら陶芸製作にあけくれている。そして、気が向けばときどき自分が造った茶碗などを並べての個展等を催す。17年前に自民党から政権を勝ち取った頃は、現在の民主党より数倍困難な政治局面のなかで政権運営を成し遂げた宰相であった。細川護熙氏の現在は、文字通り晴耕雨読の日々を過ごしている』であった。

 記者の取材には「細川家代々の当主は、地位や栄達に恬淡(テンタン)としていた。その生き様は、私に影響しているのかもしれない」と答えている。首相当時の17年前より数段落ち着きのある目許で話されると、記者だって「この人の持つ3つの欠点には触れずに、[欲はなくそして怒らず、1日玄米三合と・・・]を前面に押し出してまとめてやろう」という正義感が湧き上がってくるのだろう。殿様である彼が、よれよれのジーパンに、地元農協主催の地産地消キャンペーンの野菜即売会を催した際にカボチャを3ケ以上買った人に配られた無地のTシャツを着て話されると、そのような心情に陥ってしまうはずだ。そして本人も、それを充分に意識しているようにも見える。

 細川護熙氏が総理辞任の際に想起したという、陶淵明(トウエンメイ=400年代の南宋で田園詩人と呼ばれた人)の漢詩の一節がある。

[帰去来の辞]

帰去来兮 (カイリナンイザ)
請息交以絶遊(コウマジワリヲヤメテモッテユウヲタタン)
世與我而相遺(ヨトワレトアイノコルニ)
復駕言兮求 (マタガシテココニナニヲカモトメン)」

 このさも難しそうな漢詩を現代語訳する。と、

「さあ帰ろう。世人との交友と謝絶しよう。私と世間とは相容れないというのに、再び仕官して何を求めようというのか」このようになるといっている。

 [帰去来の辞]は、少なくとも「私はあなた方に失望したので生まれ故郷に帰ります。首相になどなりたくないといっている私に「どんなことがあっても協力するから」と、大勢でムリムリ祀り上られたから気の弱い私は「それならやってみようかな・・・」と心が動いて引受けた。それが私の座った大きすぎる椅子が暖まりもしない内に「ソコヲドケ」とは何事ですか。私はあなた方政治家という人種が大嫌いだった。これは独言だからオフレコにして欲しいのだが、オザワが私の10m以内に近づくとジンマシンがでたくらいだ。連立内閣だから弱いのではない。誰もが大臣になりたいというのが困るのだ。特に総理大臣になりたいのはわかるが、こんなにコロッコロッと首相が変わってばかりいては、大学生だって総理大臣の名前を覚えきれないと思う。私は、あんたがたにウンザリしたからやめるが、心にもない儀礼的な引きとめは迷惑だ。私はきっぱりと首相をやめ、国会議員をやめ、あしたから国民健康保険に加入するのだ。私は、国から給料を貰らわなくとも、収益の上がる企業をいっぱい持っているのだぞ!』というような意味ではないように思えるのだが。

 細川護熙氏の記事は続く、『60歳を期に政界を引退し、東京から湯河原に居を移し、早朝から畑を耕し、庭の花を手折っては活ける。日中は轆轤を回し、絵を描き、疲れれば茶室でひとり茶を点てて寛ぐ。暮れれば自宅の温泉に浸かり、蜩の声に耳を傾け至福の時を楽しむ。そして、寝る前には書に親しむ』とある。それは誰もが夢に見て、誰でもが成し得ない生活である。この生活が一番金のかかるものだからである。

 細川護熙氏と焼き物との出合いは、「友人の個展を見て自分でもやってみたくなった」といっている。陶芸教室で習うのではなく、陶芸の本を見ていて「この陶芸家に弟子入りしよう」と勝手に決め、辻村史郎(彼の造る茶碗1ケが35万円する)氏の奈良の山奥の工房を訪ねた。一月の3分の2をそこで修行する日々が始まった。「人に勝りたいと思ったら、人の倍の時間を打ち込まなくてはならない」と、細川氏は語る。「陶器は、何百という中から、ある時、突き抜けた一つが生まれる。夥しい作品の中から本当の偶然が重なって、まれに100点くらいの突き抜けるものが生まれ出るのです。楽家初代の長次郎にしても、たくさんの器を焼き、失敗を重ねたことでしょう。その中から土の神と火の神の冥加(ミョウガ)によって名品が生み出されたのだと思います」

 ネットで細川護熙を検索したら、20103月にパリ三越エトワールで開催された[不東庵創作の軌道-細川護熙展]のパンフレットが出てきた。そこには、大き目の壷を窯で焼成する途中に、崩れ落ちて片方がひしゃげて斜め横になっている壷状の物が写されている。それは、大きく口を開いて腹腔内をさらし出している作品であった。なんと安らぎの湧き上がる姿であろうか。きっとこれは、窯の中で正座していた細川護煕氏の作品に、土の神と火の神とが語りかけた跡のように思える。幾重にも交差する炎が踊った様々の窯変の跡がある。その神々しい光沢に、万物の母なる菩薩の姿が彷彿される。本来なら無造作に砕かれ、穴窯の脇に廃棄されるべき物へ向けた細川護熙氏の眼を細めた横顔が脳裏に浮かんできた。

 「日本の美意識の極みというか、桃山の頃は、茶器一つで一国一城の価値を見出した。そこまで珍重されるのには、なにか、それなりに意味があったのだと思います」は、細川護熙の特集記事上にある言葉であった。

 細川護熙氏のルーツをたどれば、徳川家よりもっともっと遠くに始まる。

 茶聖千利休の高弟7人を指し[利休七哲(リキュウシチテツ)]とよび、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、蒲生氏郷、高山長房(南坊)、牧村利貞(兵部)となるが、筆頭の細川忠興こそ細川護熙氏の19代前の祖先にあたる。忠興は父細川藤孝と共に足利将軍家、信長、秀吉、家康に仕え乱世を乗り切った戦国武将である。秀吉の怒りにふれた利休が、自刃の場に赴く姿を見送ったのも織部と忠興の二人であった。代々の祖先は文化を尊ぶ気風を持ちながら、闇雲に主に仕えるのではなく武将としての気骨をも兼ね備えていた。

 古来よりの焼物産業は、一般庶民の使用する茶碗や蕎麦粉や小麦粉の練鉢や水瓶、または漬物や魚の盛り皿のような生活雑器のために発展したものだった。日本の文化のほとんどは大陸より渡ってきたようだが、ある時期に中国より伝播した茶の習慣が様式化され、茶の湯にまで発展していった。貴族階級で始められた茶の湯文化に沿いながら焼き物も発展し、より華美な傾向に走っていったようでもある。

 日本茶道の祖[南浦紹明(ナンボジョウミョウ)鎌倉後期の臨済宗の禅僧]が、宋代(1260年)の中国から茶道具や茶会作法などを取寄せたことに始まり、客の接待に精神的な交流を重視する華やいだ茶の湯に発展していった。室町中期の公家や武家が催す茶会では、唐物とよばれる中国の高価な道具が用いられたが、[村田珠光(ムラタジュコウ1422~1502年、浄土宗の僧侶)]が能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し、侘び茶の基盤を築くことになる。それまでは公家や武家や寺社などの大広間会所の茶会から、珠光創出の4畳半まで縮小された茶室での無言の世界へ移行していった。天目茶碗や青磁がもてはやされてた時流の中で、質素を旨とする[珠光茶碗]を称美して使用する風潮に移行していった。つまり、[ひえかるる]美学にかなえば粗末な道具でもよしとする茶の湯精神が生まれ育っていったのである。この珠光の生前には自分のめざす詫び茶は完成されず、約80年後に利休が完成する侘び茶文化の開花をまつことになる。

 単なるお茶に、初めて侘び茶という思想を加えたのが珠光で、紹鷗(ジョウオウ)が受け継ぎ、利休が完成したといわれている。ある人が「茶の湯のような掴みどころがないものをつかみどころのないままに、そのつかみどころのなさを究めていったのが利休である」といった。利休は、茶を飲みながら飲み方にこだわり、お茶の味にこだわり、お茶でのもてなし方を究めながら、茶碗、釜、炭火、花、掛け軸、お茶室、路地、飛び石などなど、それらが複雑にひびきあうものを創りあげていったという。

 新古今和歌集の編纂者の一人である藤原定家の歌に、[みわたせば 花ももみじもなかりけり うらのとまやの秋の夕暮れ]がある。千利休の茶の湯の師匠の武野紹鴎は、この歌こそ侘び茶の真髄だといっている。こんな難しい理屈を考え出した武野紹鴎は、十四屋宗陳(モズヤソウチン)に学んだ茶を、さらに茶道として確立した人でもある。

 武野紹鴎(タケノジョウオウ-境の皮革商1502~1555年)の茶の湯の弟子の中に、中世末期より戦国時代と安土桃山時代を通して、[茶の湯の天下三宗匠]と云われた者たちがいる。[今井宗久(イマイソウキュウ-1520~1593)][津田宗及(ツダソウギュウ-生年不詳~1591年)][千利久(1522~1591年)]である。この弟子3人はともに境の豪商で、ともに信長、秀吉との密な関係を築き、政商として力を蓄えた者たちでもある。

 [侘び茶]の完成者として知られる千利休のもう一つの顔は、境の[魚屋(トトヤ)]という屋号を持つ納屋衆(倉庫業)の主人(巨大な資本を動かす企業経営者)である。利休は、17歳ごろから同じ境の商家の主人でもある武野紹鴎に茶の湯を師事するかたわら、境の南宗寺に参禅して本山の大徳寺とも交わりを持った。そして、境が信長の直轄領となった折に彼の茶頭(サドウ)となり、その死後には秀吉の茶頭にも取り立てられた。

 いまに伝わる3つの千家と他の数多い家元世襲制の茶の湯、それはそれとして、一人もくもくと、掴みどころのない土くれの中から精神の総てを集中して汲み上げたものを、慎重に窯にいれ神に祈りながら火を放ち寝ず番をする人がいる。ある一つが焼成過程で崩れ落ち、ひしゃげて、横になって腹腔内をさらけ出した。哀れな姿となった陶辺を愛おしいそうに抱き上げる細川護煕氏を想像したとき、朝靄立ち込める暗い茶室の中で長次郎の茶碗を見つめている利休の姿を思う。その姿にはひとかけらの意匠もない。無人の邸宅跡に無秩序に繁茂する庭木の陰、陽が当たらなくなった池の石積に張り付いた瑞々しい苔の輝き。

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