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オールマン・リバーとポール・ロブソン

平成22715

 阿武隈川は福島県の中通りを南から北へ流れている。白河市西隣の西郷村甲子高原を源流として、福島県を縦断し宮城県の岩沼市で太平洋という水溜りに注がれている。

 日本一は信濃川の367Km(長野県の千曲川と下流の新潟県の信濃川を合わせて)で、その後に続くのは順次、利根川322Km(群馬県・栃木県・茨城県・埼玉県・千葉県)、石狩川268Km(北海道)、天塩川(テシオガワ)256Km(北海道)、北上川249Km(岩手県・宮城県)、がある。阿武隈川の239Kmは日本で6番目であるが、川は長ければ偉いというわけではなく6番目ぐらいがちょうど良い。

日本一の信濃川でも高高367Kmで、実に情けない距離である。どうも日本の川は、降った雨を特に噛みもせずに、急いで太平洋か日本海に運んでしまう下痢症状が強いようである。その点、外国の名の知れた河川はとてつもなく長く広い。

全世界的を見回すと、日本ではお目にかかったこともない1000Km以上の川が155本ある。日本以外の国の人人は日本の一番長い信濃川を小川と呼び、「まだ小学校入学前の子供にメダカすくいをやらせるのにはちょうど良い水量だ」と、楽しそうに笑い声をあげる。このジョークを私に届けたのは、ヨーロッパ旅行から帰ってきた親類家族だ。その家族は、時々オシッコに糖の混じる私への土産に、帰国着陸した成田でチョコレート買ってきた。うすうす感じてはいたが、私は好かれてはいないようだ。

世界の三大河川は、[ナイル川6,695Km(アフリカ大陸)][アマゾン川6,516Km(南アメリカ大陸)][ミシシッピ川6,019Km(北アメリカ大陸)]となり、これは最も有名な3つの川という意味にとられている。なぜなら、中国の[長江(チョウコウ=日本では揚子江(ヨウスコウ)のほうが通りがよい)6,380Km]がミシシッピ川より長く3番目に入るからである。これは、社会主義国家を意識的に除外したのではなく、ナイル・アマゾン・ミシシッピと並べると恵比寿ビール黒ラベルのコマーシャルに使いたくなるような、抜群の爽やかさが感じられるからだと思う。人人は、決して社会主義国家を嫌っているわけではない。事実日本国民は、餃子等の中国製加工食品をスリルとサスペンスを持って楽しんでいるし、北朝鮮の国営テレビでニュースを読み上げる女性キャスターの肩を上下させるアクションを心から楽しんでもいる。また、キューバ野球チームの投手が、身体ごとキャッチャーミットに飛び込んでいくような時速200Km近いボール放つ姿には、興奮のあまり左足脹脛(フクラハギ)のスジがつり、腰から下が痙攣を起したほどだ。

 川の長さ決めるのには[源流]と、最終放流先の大海に至る[河口]を特定しなければならない。川の長さ測定の多くの場合は、同一水系を基本とするからだ。つまり、その水系の部分により川の名前が変わっても一つの川とみなされるわけである。河口から最上流まで辿ると本線に数多くの支流が合流しているが、多くの支流の中で河口から一番遠いところに源流を持つものが撰ばれる。

世界で4番目に長いミシシッピ川は、北米最大の川である。その最上流にある支流ミズーリ川源流のミネソタ州北部のイタスカ湖より、ミネソタ・ウィスコンシン・アイオア・イリノイ・ミズーリ・ケンタッキー・アーカンソー・テネシー・ミシシッピ・ルイジアナと延々10個の州5,859Kmを経て、ルイジアナ州最大の都市[ニューオリンズ]にたどり着く。川はここで終わるわけではない。ニューオリンズを横に見て、その先160Kmにも及ぶミシシッピデルタ(上流の土石を川の水が運び、河口付近に蓄積して海が埋められ陸地となったところ)の最南端でメキシコ湾に注がれる。気の遠くなるほどの永い年月をかけて運ばれてくる泥や砂が堆積された海底が、地殻の変動等で隆起したのではないかと思われるが、この長さが160Kmにも及ぶと世界地図上でもその形状がはっきりわかる。北米大陸の南端に囲まれた西洋梨の形をしたメキシコ湾最深部に、幼児のオチンチンのようなものが出ているのがミシシッピデルタである。特に云わなくても良いのだが、アメリカ人の大人のソレに相当するのはフロリダ半島だろう。

 蒸気機関車が敷設される前のアメリカでは、南部と北部とを結ぶ全長6,019Kmのミシシッピ川が物流の最大ルートとなっていた。広い川幅と膨大な水量に満たされた川には、大型の船舶が上り下りしていた。その中には、流域各地に娯楽を提供する船舶や、船内で賭博を開帳する船までが蒸気機関の力で走り回っていた。この当時のアメリカでも賭け事を取り仕切るのは、イカサマの上手な覚醒剤を愛用する無法人種で、そのイジキになるのは金は持っているが節制を持たない男達であった。当時も今と同じく、財布がカラッポの人は賭け事に混ぜてもらえなかったので被害に遭う心配はなかった。多くの船舶の中では、ミシシッピ川の流域の都市間を順繰りに回り、演劇や歌や踊りを人人に提供する集団もいた。

 欧米の演劇スタイルの中に「ミュージカル」という分野がある。芝居、歌、ダンスが一体となり演劇効果を高めるのがミュージカルである。

[ショウ・ボート]というミュージカルは、ジェロム・カーン作曲、オスカー・ハマースタイン2世の作詞で、1927年(昭和2年)にニューヨークで初演され大喝采を浴びた演劇だ。これをユニバーサル映画が1929年(昭和4年)に同名で映画化し、大ヒットさせている。入れ込みの激しい人は海の向こうにもいて、ユニバーサル社主の[カール・レムリ]はこの映画の芸術性に多々不満があった。1935年(昭和10年)当時の社長で有ったカール・レムリの息子が、親の意思を継ぎ1936(昭和11年)年に同名同内容の映画を製作した。配役は、1927年にニュウヨークで初演された舞台の俳優すべてを出演させての製作であった。その中に黒人船員ジョー役の[ポール・ロブソン]がいた。しかし、この映画制作に関わる予算オーバーが理由で、ユニバーサル社主のレムリ親子は会社から追放されてしまった。その後に、この映画は興行的な大記録をつくり、ミュージカル映画史上の金字塔となったのである。勿論、レムリ親子は復帰した。

 ショウ・ボートの筋書きは単純で、寄港する地域の町でショーを提供する一座の団長は、この船の持ち主でもある。座長の娘は一座の花形スターの女優に憧れをもち、自分でもスターを目指していた。そんな折に一座に加わったギャンブラーと恋に陥り、その男と一座を離れていく。二人で楽しく過ごした時のはてに、男の賭博のツキもやがて衰えて苦境に立つ。そして子を宿した女の前から姿お消す。女はまた父母の一座に戻り女の子を出産し、その子を一座全員が育てる。

 子供が寄港地の桟橋で独り人形と遊んでいるところに、父である男が姿を現す。子供との会話の中から自分の子だとわかり胸に抱きしめる男を、過っての恋人が涙交じりで見つめている。家族に対して、今までの無責任な生活を棄ててショーの世界で生きることを誓い、ハッピーインドとなる。

 歌と踊りが交差するこの映画の中で、黒人船員役のポール・ロブソンの歌う[オールマン・リバー]が圧巻であった。オールマン・リバーとは[全能の]という意味ででもあるのか、ミシシッピ川のことらしい。この物語当時のアメリカは奴隷制度の盛んな時代で、黒人奴隷のどうにもならない悲しみを歌い上げている。その歌詞は、おおむね、以下のような内容である。

[[オールマン・リバー]]

[オールマンと呼ばれるミシシッピ

そんな川のように悠々と生きたいものだ

何が起ころうととも悠然としているオールマン

俺たちに自由のかけらもないこの地上を

今日もオールマンは流れ続ける

オールマン・リバー父なる川よ

あなたは地上の総てを見てこの俺たちを知っている

この岸辺に嘆き悲しむ俺たちがいるのに

あなたは口を固く結び決して語ることはない

ただ俺たちのそばを流れてゆくだけだ

このオールマン・リバーは

俺たちのようにジャガイモも綿も植えることはない

朝から夜まで苗を植えた俺たちはやがて忘れられるのに

オールマン・リバーはただ流れてゆくだけ

ただ下流に向い果てしなく流れてゆくだけ

俺たちは汗を流して果ての無い重労働に耐える

身体は悲鳴をあげて苦しみだけが覆いかぶさる

俺たちは舟をひいて重い荷物を上流に運ぶ

気を緩めて酒にでも酔ったら最後だ

暗く冷たい監獄につがれ鞭で延々となぶられる

心も身体も疲のために動こうともしない

明日こそはと生きてきたがもう疲れはてた

生きることに疲れ果てたが死ぬこともできない

暗く深い死の渕に近づくことが恐ろしいのだ

オールマン・リバーはそれでも流れてゆく

ただ果てしなく流れてゆく

何も見なかったように悠然と流れてゆく]

 1936年(昭和11年)の映画[ショウ・ボート]の中で、動力で水をかく船(外輪船)の水車の傍らでポール・ロブスンはオールマン・リバーを歌っていた。その重厚なバスは、あくまでも低くミシシピーの水面を対岸まで這っていくようだった。ポール・ロブソンは、ニューヨークの舞台で1927年(昭和2年)に初演されて大喝采を浴びた時の出演者の一人である。ロブソンは映画ショウ・ボートの中で、白人に隷属している黒人の苦悩をミシシッピの流れに対比させて歌い上げて多くの人人の心を揺すぶった。実在の彼もまた、当時の他の黒人とともに、過酷な人種差別の波を掻き分けての一生涯であった。

 1898年(明治31年)4月9日ニュージャージー州のプリンストンに生まれたポール・ロブソンは、努力家の父を見て成長した。奴隷の子として生まれた父親は15歳で親元から逃亡し、自分の力で大学を卒業した後に牧師となった男である。

 彼もまた並外れた努力家であった。彼は白人と共学出来る小中高を卒業し、奨学金の出るラトガーズ大学に進み、アメリカン・フットボール選手では大学史上初のオール・アメリカンに選抜された。大学卒業式には総代としてのスピーチを述べ、その後に弁護士としての道を選んだ。

 黒人としての彼は、学生生活でも卒業後の弁護士としての生活にも人種差別という過酷な運命を背負わされた。当時の黒人弁護士に弁護の依頼をしてくれる白人はいなかったし、最下層の黒人がトラブルに巻き込まれても弁護士を雇うお金がなかった。彼は弁護士としては、生きられなかったのだ。

ニューヨークのハーレムで活動していた劇団から、俳優としてのオファーがあった。主役だった。学生時に同劇団の舞台には何度かアルバイト出演した。その時に彼の才能を認めていた人人が主役の仕事を彼に割り振ったのだった。この劇中で歌ったニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)が高く評価され、彼は歌手としてもデビューを果たす。ニグロ・スピリチュアル分野の著名研究家の引きでの、[コンサート会場でのライブ]は、ニグロ・スピリチュアル史上黒人としては初めての快挙であった。

 1927年(昭和2年)にニューヨークで初演されたショウ・ボートは、1928年(昭和3年)4月に海を渡り、イギリスのロンドンで公演されることになった。ポール・ロブソンもイギリスに渡った。そして、舞台で彼が歌った[オールマン・リバー]は、スタンダード・ナンバーとして永遠に残ることになった。

 彼自身が白人に高い評価を得ても、ホテルも列車もレストランでも、彼を含めた黒人は、いつも差別の対象になっていた。ロブソンは差別の緩やかな当時のイギリスに拠点を移し、ヨーロッパ中心の活動をするようになる。

当時、モスクワ公演のための移動中の乗換地点ベルリンで、ナチスドイツ軍に取り囲まれた。それらの兵士の眼はまさに、ミシシッピ州公演時のアメリカ人暴徒の憎悪に光る眼だった。ファシズムの恐怖を味わった彼は、1936年(昭和11年)のスペイン内乱の時にはファシズム政権フランコ軍に対立する共和国軍への応援のための様々な活動に身を挺した。

 1939年(昭和14年)のイギリス映画[誇り高き谷間]に出演したポール・ロブソンは、過酷な労働を強いられる炭鉱労働者の実態に触れた。黒人同様に白人労働者もまた大きな苦しみの中に生きていることを感じたのであった。イギリス永住も可能だったロブソンだったが、黒人同胞が苦しんでいる祖国アメリカに帰る道を撰んだ。

 1939年(昭和14年)にアメリカに帰国したロブソンは、同年115日ニューヨークのSBSラジオで

[[アマリカ人へのバラード]]という曲を歌った。

 [白人は決して自由にはなれない

兄弟の黒人が奴隷でいる限りは

ごまかしの、罵声や嘲りの中から

無駄口や、憂国的な熱弁の中から

不安や、疑いの中から

旅行かばんや、たんつぼの中から

きっとまた生れてくるだろう

われらの行進曲が

はやり歌のように素朴で

谷間のように深く

山々のように高い調べ

それを作った民衆のような力強い曲が

いつでもどこででも湧き上がってくるだろう

・・・・・・・]

この歌は延々と10分間にも及ぶ歌だった。

 アメリカの歴史を叙事詩的に歌い上げたこの曲を聴いたスタジオ内の観客の拍手と、全国に流されたラジオの聴衆からの電話が殺到した。

その後[アール・ロビンソン]作曲のこの曲は、アメリカの新しい国歌のように歌い継がれた。

 しかしポール・ロブソンは、白人の一部のインテリからの支持はあったが他の黒人の支持は得られなかった。彼の歌はジャズのように、黒人が共感できるものではなかったからだ。そして、[赤狩りの時代]ではそのレッテルを貼られてしまった。アメリカ大衆は彼を執拗に追及し、彼のパスポートまで取り上げて海外への出国が阻止された。公民権運動の資金集めのコンサートを企画しても徹底的な妨害に遭い、舞台は破壊され、彼自身はリンチの危険に晒されたことも度度あった。

1958年(昭和33年)に8年前に無効とされたパスポートを裁判により取り戻した。社会的名誉を取り戻した彼は、1976年(昭和51年)123日に77歳でこの世を去った。

 ポール・ロブソンや他のアフリカ系アメリカ人がアメリカ社会に訴え続けた人種差別の撤廃は、元々民主社会の基本となる部分で、最初からそうあるべきことであった。この人道を無視した黒人への差別待遇の根底にあるのは、弱者を人馬のように売り買いする奴隷制度に端を発する。

 奴隷は有史以前から存在した。

旧約聖書そのものが奴隷制度のバイブルのようなものであった。

 ギリシャの古代都市国家アテネには、市民15万人を支えるために10万人の奴隷がいた。奴隷となったのは、戦争捕虜や、自国の犯罪者や破産者、親たちに売られた子供などであった。

 古代ローマの民衆の娯楽であった剣闘士同士の殺し合いは、殺人という特殊な技能を持った奴隷がいて成り立つものであった。ここでも戦争捕虜や生まれながらにして奴隷であった者が、市民生活基盤部分のあらゆる労働に従事していた。

 中国の三国志当時の魏志東夷伝での邪馬台国の卑弥呼に関する記述には「王は常時[碑(ヒ)=女の奴隷]1000人はべらせていた」とある。当時の外交的貢物にはこれらの奴隷が贈り物とされていたようだ。

 奴隷は古事記や日本書紀にも[奴(ヌ)][奴婢(ヌヒ)]という奴隷についての記述がみられる通り、古代の日本にも厳然と存在している。

 奴隷貿易の先駆者はなんと云ってもイスラム教徒であろう。アラビア人奴隷商人は、アフリカにおける部族間抗争による敗者の捕虜を買い入れては、白人の奴隷などと混ぜ合わせてバリエーションを持たせ、せっせとバザールに供給していた。過去1400年間で2800万人のアフリカ人がイスラム教徒により奴隷として売買された。

 ヨーロッパで最初に奴隷貿易に手を染めたのはポルトガル人である。1430年(日本では南北朝合38年後あたり)代にアフリカ西海岸のボハード岬(現モーリタニア)の海岸から10数人のアフリカ黒人を捕らえて帰国した事が始まりとなった。

 当時労働力不足のポルトガルは奴隷への関心が高まり、アフリカにおける奴隷狩りが始まった。1447年(日本での戦国時代が始まる20年前)までに927人に達し、15世紀末までには3万人にものぼった。

 イタリア人冒険家コロンブスがスペイン政府の支援を受けて西インド諸島のサンサルバドル島を発見したのが1492年(日本では一休宗純88歳で死亡の11年後)10月で、その後に付近一帯を探検しては勝手に島島の発見を繰り返し、南米の先住民であったインデオ6人を手土産にスペインに帰国した。その後は、われもわれもと西インド諸島や南米大陸の国々に乗り込み自国の領土とし、先住民のインデオへの虐待と虐殺を繰り返した。

 1545年(日本ではポルトガル船が種子島に鉄砲を持ち込んでから3年後)にボリビアに銀鉱山が発見されると、インデオを強制労働にかり出し、1660年(徳川4代将軍家綱の世)までの115年間に16,000tonの銀と、185tonの金を産出しスペインに搬入した。これらの過酷な採掘労働により17世紀までにインデオ人口は700万人も激減した。スペインは、同じ事をキューバでも、ジャマイカでも、ハイチでも行い、彼らがその地方に持ち込んだ伝染病の蔓延などもあり、インデオは次ぎ次ぎと倒れていき、やがて全滅していった。

1531年(ポルトガルが種子島に鉄砲を持ち込む12年前)フランシスコ・ピサロは180人の兵士と37頭の馬を乗せた船でパナマを発ち、ペルーのサン・マテオ島で騎馬隊を下船させ侵攻を開始した。彼らは人間が考え得る限りの殺戮を繰り返し、インカ帝国は1570年(本能寺の変の12年前)には完全に滅亡した。それに先立つ1521年には、スペインの仕業によりメキシコのアステカ帝国も滅亡していた。

 16世紀以後、アメリカ大陸やカリブ海の島々へのヨーロッパ人の移住が開始される。タバコ、コーヒー、砂糖、綿花、ココアを栽培する大農園の経営に当たったのだ。アメリカやカリブの島々ではインデオの減少による労働力不足を補うために、アフリカ西海岸から黒人奴隷の輸入を計画する。

 最初は制海権を握っていたスペインが奴隷貿易に手を染めた。フランス、オランダが続き、最後に加担したイギリスは1673年(日本では英国船が長崎に来航し通商を迫る)に[王立アフリカ会社]を設立し、国の事業として奴隷貿易を大々的に行った。この会社は、それからの10年間に89,000人の奴隷を他国の植民地へ供給する実績をあげた。1730年(日本では紀国屋文左衛門66歳で死ぬ4年前)頃の最盛期には、ロンドン、プリストン、リバプールの奴隷船母港から84隻の奴隷船がアフリカ大陸に向かい、年間250,000人のペースでアメリカ大陸の自国の植民地を含む、フランス植民地に納品した。以前の数字を加算すると、1500万人の奴隷が荷卸しされたことになる。奴隷船内での運搬法は劣悪そのもので、多くの者が船内で死亡し海に棄てられた。

1人の奴隷を目的地に運ぶためには、5人の奴隷が途中で死んだ」といわれる。それは、85%の死亡率である。生きてアメリカ大陸に着いた奴隷の労働期間は平均7年ぐらいで、使い物にならない奴隷は廃棄され、新しい奴隷が補充されるのだった。

 アフリカからの奴隷貿易は19世紀末まで続き、イギリスが奴隷貿易禁止令を出したのが1808年(日本ではイギリス船が長崎に入港、薪や水を只でよこせと強要)で、奴隷制度を廃止したのが1830年(日本では外国船打払令を出してから5年後)である。そして、アメリカが奴隷制度廃止をしたのが1863年(日本ではイギリス軍艦鹿児島砲撃する)である。

 奴隷貿易にはヨーロッパのほとんどの国が手を染めた。それは皆、敬虔なキリスト教徒国であった。当時のヨーロッパ社会には、奴隷貿易を人類の罪悪とみなす神は存在しなかったのである。

 シャルル・ド・モンテスキュー(フランスの啓蒙主義者で奴隷制度廃止論者)は1748年出版[法の精神]の中で、「黒人が人間だと考えることは不可能である。彼らを人間であると考えれば、我々がキリスト教徒でないことを認めざるをえなくなる」とし、暗に当時の世相を皮肉っている。

 アメリカ人の親玉の一人であったジェファーソンが起草し、大陸会議において1776年(日本では平賀源内がエレキテル完成)7月4日に可決された[独立宣言書]のなかで

「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪われがたい権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、我々は自明の真理であると信じる」といっているが、

冒頭の「すべての人間」には、黒人、インディアン、エスキモー、チャイナ、ジャパニーズ、そして白人の女性は除かれているわけである。白人女性は良いとしても、肌の色合いを持ってして差別されるほうはたまったものではない。

 そして、アメリカが奴隷制度廃止をしたのが1863年(日本では明治になる5年前)である。その後も陰に隠れた奴隷は存在し、肌色が違うだけでその人間を蔑視し、特に黒人に対しては、つい昨日まであらゆる差別がなされた。

そして日本政府が「国連常任理事国になりたい」と再三申し上げているのに、年に2回も3回も新総理を製造して政府専用機で太平洋を越えて大統領に会いに行き、今後も変わることのない日米安全保障条約についてのお約束しているのにもかかわらず、「そのことは、また別な問題だ!」と、真っ先に猛烈に反対演説をするらしい。云ってしまうと、ミモフタモなくなるので、まもなく生れる新総理には発言しないで戴きたいが、地球上でアレコレと事あるごとに、5つの既存常任理事国よりも多額の国連分担金を拠出しているほか、世界各地を忙しく飛び回るアメリカ軍兵士の過剰勤務手当を含む給料から、トイレットペーパ代にいたるまで負担しているのがこの日本国だ。

この事は、アメリカには、面と向っては云わないほうが良いかもしれない。あの国は感情的に不安定なところがあり、すぐに軍隊を動かす癖がある。

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