鯨と赤銅色の男組
平成20年11月23日
海に住むクジラの中でも最大級のシロナガスクジラには、体長34m、体重190tonの個体記録を持ったのがいた。彼らは深さ3,000mまで潜って、90分もの長い時間潜水できる能力を持っている。「こんな途轍もない動物が、いったい、どこから来たのであろうか?」などと思ったことがあったが、「この、傷つきやすい自分は、これからどのような道をたどるのか?」という差し迫った問題のために、クジラに対する疑問は先送りになったままだった。
偶然にも、[鯨類資源生物学]という学問を修めた大隈清治先生の著書[クジラと日本人]を眼にする機会があった。クジラとは、始末にならないほどの巨体を持つものばかりと思っていたが、イルカやジュゴンのような比較的かわいらしいものや、海岸に遊ぶ動物を海に曳き摺りこむ獰猛なシャチなどを含めて、現在82種のクジラが地球上の水溜まりの中を泳ぎまわっているとう。
人類と同じ哺乳類に属するクジラも、中生代ジュラ紀(約2億1200万年~約1億4300万年前)の恐竜類全盛のころは、その恐竜に踏み潰されないように忙しく木陰を走りまわっていた野鼠大の原始哺乳類か永い時を経て進化したものだという。
元々水の中で発生した生物だが、その一部が永い進化の過程のなかで水中から陸地に這い上がり、そこに生活の場を確保した。だが、この新たな環境にも満足できず、また水の中に戻ったものもいる。海亀類や鰐類のような爬虫類などである。同様な理由で水中に戻った哺乳類には、ジュゴン、セイウチ、オットセイ、トドなどとともにクジラ類がいた。
クジラの祖先は、[アンボロセタス]という水かきの付いた4足をもつ両棲哺乳類で、5400万年前の古い時代の地中海に注ぐ大河河口付近の泥の中で、カバのような生活をしていたらしい。水中にある餌を追うあまり、より深いほうに足を延ばし、次第に水への依存度が大きくなった思われる。
恐竜が絶滅したころのクジラの祖先は、天敵が少なくなった海のなかで徐々に自分の体の機能を改良していった。まず、太くて短い尾の先端が水平な尾鰭となり、うしろ足が退化してなくなった。その後の3500万年前には、歯を使い捕食したり、口をスポイトのようにして餌を吸い込んだりする[ハクジラ類]と、動物プランクトンや小さな魚を群れごと大きな口で飲み込み、海水だけ体外に吐き出す機能を備えた[ヒゲクジラ類]の二つの系統に分かれていった。
最初の水中から陸にあがる進化の過程で、水中で酸素を取り入れる器官の鰓(エラ)を棄て去る代わりに肺を得たクジラは、自分の都合でまた水に戻るときに、また鰓をねだったが、偉大なる造成主はそれを許さなかった。このため、クジラは水中で生活することになっても、頻繁に海面に出て大気から酸素を取り入れなければならなかった。
クジラの身体が大きくなるにつれ、呼吸をするための鼻を顔の先端から頭の上のほうに徐々に移動させ、身体を水面に出さないでもすむように鼻孔を髄意筋で開閉して水を吸い込まない構造を得た。最高1時間30分も潜水できるのは、深海から水平尾鰭で水面に浮上し短時間で効率の良い呼吸をするために、肺の酸素交換能力を増強するなどの工夫がなされているからだ。
クジラが水中で生活するには水の抵抗を少なくするために、魚のような流線型の体を持つ必要があった。それは、口が体の先端に出て尖り、ミミタブを消失させ、首のくびれ部分を隆起させ、尾を平たく伸ばし尾鰭とした。前足は胸鰭に、不要な後ろ足を捨て、背中の肉を隆起させ背鰭とした。気の遠くなるほどの永い時の中での進化の果てに、この流線型の身体を獲得したのだった。
クジラの体温は約36℃で一定である。身体を取り巻く水温は-2℃~28℃で体温よりかなり低い。陸上にあったときの体毛(毛皮)は、熱伝導率の大きい水中での保温には適さない。そこでクジラは、毛皮に代わりに部厚い皮膚細胞の中に熱伝導率の小さい油をいっぱい蓄えることにより、体温維持の面を克服した。
シロナガスクジラで最大のものには、体長34m、体重190tonもある。この体重で水に浮くのは、体の体積に相当する水の重力で体重を押し上げる浮力のせいである。さらに、クジラの脂皮と筋肉と内臓と骨には、大量の脂肪が蓄えられているために、クジラ全体の比重は水よりも小さいために水面に浮くための助けとなった。
陸上にあっては体重の大きい動物ほど動作が鈍くなり生存競争に即さなくなる。しかし海の中では、この巨体を持つクジラでも素早い行動ができ、そこには天敵は皆無だ。まてよ・・・。「今までのところ、人間以外の天敵はいない」という表現にしておくほうが正確かも知れない。
クジラが巨体を維持できるのは、海には餌になる動物プランクトンやこれを食べる魚が豊富なために、食料に不自由しないことが上げられる。さらに、エコーロケーション(反響定位)機能を発達させたクジラは、餌になるサカナやイカのいる方角と距離と餌の性質までも把握できるようになり、高効率に食料を捕捉できることなども大きな助けとなっている。
これら大型クジラの場合には、暖かい繁殖海域で出産と交尾を果たし、その後に育児に専念する。一方、冷たい索餌海域では集中的に餌を食べることに専念し、エネルギーを脂肪として体内に蓄える。この2点間を、優雅に汐を吹きながら季節によりゆっくりと回遊し、次世代の養育にあたる。ホエールウオッチングの遊覧船を横目に、のんびりと泳ぐクジラは呟く。「人類が消滅すれば、この地球は楽園惑星なのだが・・・」と。
人類は有史以前から、あらゆる物を見境なく口に入れて噛み砕いてきた。陸上の草木の果実や種子に始まり、葉っぱを喰い、根っこを掘り起こし喰い、動くものが居たら取り合いず棍棒を振り上げる生活が永かった。ある者は水中の貝類や動きの遅い海老類では満足できず、もっと機敏に動く魚の味を覚えた。そして川より大きな海の中には、より大きな食物があること知った。小さな獲物を一日中追いかけまわしているより、一発大きなもの獲れば3日ぐらいは喰いつなぐことができることを発見したのだ。しかし、そんな彼をみていた奥様は「何時掴まえられるか判らない獲物より、今日の夕飯に間に合うモグラでも蛇でも獲ってきて!家族の為に、そんなギャンブルはやめて下さい」という。いつの時代の奥様も、亭主の男のロマンの追求には、ものすごく批判的であった。
コツコツと堅実な労働を強いられた男も、息抜きは必要だった。男は岸に近づく魚を釣ることを覚えた。餌にはゴカイ類が最適なことも知った。この魚釣では、数えて三歳になる自分の息子の方が依り多くの釣果を上げ、心の中で舌打ちしたりもした。けれども、沖を猛スピードで泳ぐイルカ類には、まだ人類の実力が追いつかなかった。
ある日、浅瀬に打ち上げられている巨大な魚を見つけた。体長13.8mのツチクジラだったが、当時はクジラの名前が普及していないばかりか、長さの単位メートル法も発明されていなかったので、名の知れぬ海の主が来たと思った。
まだ生きている怪物を取り囲み、思案しているところに長老が来て「コンナコト、ムカシィ~イチドアッタ」といい、大きくても味は豚の姿焼きと比べて遜色はなく、小さく刻んで口にすれば充分に喰えることを皆に知らせた。
石斧や石のナイフで部厚い皮を剥ぎ、中の肉を曳き摺り出そうとしたが、あまりの皮の厚さに時間がかかりすぎ、待ちきれなくなった子供が皮にかぶり付いた。他人の子供なので黙って見ていたが、特に下痢や腹痛は起らなかった。子供の身体を脇に寄せて喰ってみた大人も、その味に満足した。とどのつまりに、家からドブロクを持ってこさせる男まで現れる始末。その後はその海辺には近郷近在からの人間で、蟻の行列のような賑わいであった。
当初「ギャンブルはやめて~」といっていた奥様連中も、クジラの[尾の身の刺身]を口にしてからは何もいわず、自分の亭主を尊敬のマナコで見る奥様も現れた。夫婦の円満は、当時でも、子供の最高の情操教育となっていた。
時が流れ幾度もの夏と冬が来て、次第に海辺の住民の学習もかさねられ、入り江に迷いこんだクジラを集団で捕獲して食用にすることが一般的になっていた。それはやがて、近海を泳ぐクジラを見つけると、数隻の船で追跡し、直近まで近づき手で銛を打ち込むという積極的漁法に変わっていく。
960年代の日本には武士階級が台頭してきた。戦争が商売の武士の勢力が増せば戦乱はどこまでも広がる。海に囲まれた国土を持つ我が国では、必然的に武士の一団が船を自由に操る水軍を構成するようになる。水軍の別名は海賊であるから、[他人の物は自分の物、自分の物は自分の物]が、彼らの原則的な道徳感である。で、あるから、当然のことに略奪、人攫い、暴行、殺人等のほんの小さな悪事は口笛を吹きながら行った。
武士や兵隊や自衛隊の本来の仕事は戦争である。他国の戦場に応援に出向き、流れ弾にあたって死んでも責任を追及できないのが、辛いところだ。はなしを戻し、当時の武士団が海上での戦闘を頻繁に起こせば、海上での戦闘で使用する武器にもめざましい進歩が伴う。そして、命知らずの一団が航行すれば、当然のことに潮吹くクジラに近づく機会は多い。クジラの脂っこいベーコンを喰ったことのある者なら、クジラが傍を泳いでいれば槍で2~3度突付きたくもなるのが人情であろう。いつしか戦闘用の武器は捕鯨の漁具に転用され、次第に捕鯨技術が向上していく。室町時代の末期(1480年代)には、捕鯨従事者の組織化が始まり、捕鯨技術の向上とともにクジラ食品生産品も一般に浸透し、今に残る当時の宮廷献立表にも多数の鯨料理が載ることになった。
突き取式捕鯨は、1573年(武田信玄が死んだ天正元年)の知多半島先(愛知県南知多町師崎)の海で、7~8隻の船が一団となるチーム漁法として開始され、ここが捕鯨産業の発祥地とされている。この技術が改良伝播され、1592年(秀吉の天下統一が終わった文禄元年)には三浦半島近海でも見られ、またたく間に磐城(福島県)まで達している。
槍、刀、軍船などの発達にともなう兵法の発達から、統率力を必要とする大規模捕鯨産業が戦国時代の終わりごろに確立されていく。戦国時代の終わりころには、リストラされた大勢の武士階級が捕鯨現場に職を求めたものと推測される。
考えて見れば、適当におだてられながら鉄砲玉が飛び交う戦場に駈り出され、命がけで戦って勝ったとしても、ヒーローはいつも安全な所で軍配を振り「カカレー!」と喚き散らすだけの大将だけだった。「カカレー!」の言葉を真に受けて敵の陣営に切り込んでもNHKの大河ドラマ準主役のようには行かず、運がよくとも太ももに鉛球が貫通し跛のなるのが相場のサムライ家業だった。そして、給料は生残った者にだけに支払わられるのが一般的であった。たとえ生残ったとしても、負け戦なら、[残党狩]の名目で竹槍を持った農家のジイサマに追いかけられるのだ。ヤットコサこの状況から逃げ切ったとしても、以後の夢の中では、充血した眼を見開いた農家のジイサマの竹槍が背中に触れるばかり迫ってくるのだ。
それよりは自分の意思で、[白鯨]に主演したグレゴリー・ペックのように壮絶な死を選んだほうが家族や親類の受けが良いのではないかと考えたわけである。それらの推測はともかく、いつの場合にもクジラ漁に携わる男組みは、自分で撰んだ世界で溌剌と己の役目を全うしたとの、多くの記録が現在にのこされている。
網取式捕鯨は、1675年(4代将軍家綱死の4年前)に太地(和歌山県)の和田頼治が、クジラに網をかぶせて行動を鈍らせた後に銛で突く漁法を考案したことに始まる。この漁法は遊泳速度の速いシロナガスクジラまで捕獲できる捕鯨法であり、急速に西日本の捕鯨場に伝播して行った。この網取式捕鯨組は、当時の世界でも特異な企業体であった。
網取式捕鯨一つの網元は六つの組織からなる。
[本部]―捕鯨企業の中枢で、船の確保から人員の募集や漁全般の経費の捻出、漁で得た売り上げの分配まで手掛ける事務所兼指令塔である。
[大納屋]―捕鯨用具の整備や保管の建物で、漁が終わってから次の漁が開始されるまで、それぞれのプロが漁具、船の手入れ補修を行う。
[番船と山見]―探鯨と操業指揮をする部門で、海を見渡す海岸近くの丘の上に物見櫓を築きクジラの姿を見つけるのが山見である。海岸線の決められた複数の岬に待機しているのが番船で、山見の狼煙や反射鏡の合図でクジラの位置と進行方向を確認し、沖合部門の行動の円滑化をはかる。
[沖合]―捕鯨の直積操業に従事に従事する部門で、番船と山見の複雑な合図によりクジラの進行方向に網を張る[網船]または[双海船]と、クジラの背後と側面から網の方向に追う[勢子船]とに別れて捕鯨作業する。網を被せてクジラの自由を奪い、銛や槍でクジラを仕留めるのもこの部門である。
[鯨始末]―捕獲した鯨の解体と処理部隊で、浅瀬に曳き上げられたクジラの皮の先端にロープを通し大勢で引っ張り皮を剥ぐ。その下の肉や内臓を切り刻み、貯蔵する納屋に運び用途別に選り分ける部門。
[筋士]―鯨の筋をあつかう部門で、何十tonものクジラの体内に張り巡らされて筋は膨大な量である。これを取り出し乾燥させて、必要とする職人に売る問屋に出荷する製品を作る部門。
通常、海上部隊450~700人、陸上部隊が150~300人の総勢600~1000人が一つの網組みを経営するのには、年間数千両(現在の1億円以上だという人もいる)の資金を要する。これだけの事業を遂行するのには資金力と統率力を併せ持った大網元が必要である。
かくて、赤褌一丁の男どもが乗り込む40隻の男船が巨大鯨を追う。
クジラの自由を奪う巨大な網を被せた鯨体に這いのぼった男に、得物が投げられる。
柄の短い銛は、クジラの脳髄を正確に探り当て、深く刺しこまれた。
クジラの顎と腹の下に数本の丸太が固定され、無数の縄が結ばれた。
クジラを曳く船の艪を操る男どもの声が聞こえる。
ホゥオー・ホゥオー・ホゥオーの掛け声が一段と高まる。
クジラを曳く船の上に赤銅色の男どもの姿が見えてきた。
舳先からの波しぶきに濡れた、赤銅色に光る男たちの身体が見えてきた。
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