徳川家康の酒の肴
平成20年10月4日
戦乱の世に信長、秀吉と続いた新体制づくりを受け継ぎ、幕藩制を布くことに成功したのが家康である。この徳川幕府を頂点とした統一国家は、以後264年保たれる。
一般的日本人は判官贔屓の傾向が強く、途中で挫折した人に対して理屈ぬきで深い同情を寄せる。その結果、功を成し、名を上げたものに対して非常に点が辛い。家康は、何事によらず信長、秀吉と比較されては、けなされることが多かった。
考えてみると、いつの世の為政者も批判の対象にならなかった者はいないし、その者にしても、部下や国民を心底から好いていたわけではない。底知れず品位の落ちる論法ではあるが、一般的個人であっても何らかの意味で他人の批判を受け、自分自身もまた、自分以外の周囲の人々に絶えず批判的な視線をあてている。突き詰めれば、誰も信用できないのだ。こんな世のなかでは、玄関外へ客を見送るときでも、玄関ドアは確りと施錠しなければならない。
後世の人が家康を忍耐力の強い人間に見ているが、乱世を生き抜くためには、その他の選択肢がなかったようにも思われる。自藩の安泰を第一義として長生きしたことにより、総ての幸運が家康の許にころがり込んできた、という見方もできる。
信長、秀吉が健在のころからの我慢比べの習慣からか、家康はおもだった重臣の意見を尊重し、おのおのの考えで充分に議論させて事を決めていた。それぞれの重臣達には、主君の信頼を得ているという安心感があり、戦国時代と徳川幕政時代を通して謀反や裏切りが少なかった。家康はそれらの家臣団に報えるために、徳川氏親族大名を親藩、関が原以前からの家臣を譜代大名、関が原以後の家臣を外様大名と呼び、徳川氏中心に幕府運営に当たらせた。
信長が杵で搗き秀吉が丹念に我が手でこねあげた湯気が立ち昇る天下餅は、1600年の関が原の後に家康の手中に転がり込んだ。1603年江戸に幕府が布かれることで徳川家は磐石のものとなり、1615年大阪夏の陣により豊臣家そのものも完全に姿を消した。奇しくも、秀吉が織田家からもぎ取った方法で、豊臣家から徳川家へ政権が移されたのだった。
徳川家康は、天文11年(1542年)12月26日に、三河国岡崎城主松平広忠の嫡子(幼名竹千代)として生れる。松平広忠は政略的な理由で妻を離縁したことより、竹千代2歳のおり継母が代わりに入る。
その頃から、尾張の織田信秀(信長の父)が三河国にさかんにチョッカイを出してくるので、松平広忠は今川家に援軍を依頼した。この援軍要請の代償に今川家が松平家に要求した人質が、竹千代である。ところが、ところが、人質として駿河の今川家へむかう途中で、継母の父(義祖父)が義孫である竹千代を織田信秀に売り払ってしまった。
今川家に送られるはずの6歳の竹千代は、周囲の人々の想定外の出来事として、尾張織田家の人質となってしまった。1534年(天文3年)5月生れで8歳年上の織田信長と竹千代は顔を合わせ、信長の後から山野を駆け回る付き合いをした。
竹千代8歳のおり、まだ織田家人質中に父親松平広忠が死ぬ。この時期に、織田信秀の長子織田信広の居城を攻めた今川義元は、信広を殺さずに人質とする。今川家の人質交換の申し出を受け、織田信秀は竹千代を今川家に渡し、息子信広を取り戻した。
竹千代は、それから10余年の人質生活を今川方で送ることになる。人質中の弘治3年(1557年)1月に、今川義元の姪、後の築山殿を娶る。
永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、元服して竹千代から元康と名を改め、今川軍の先鋒隊として従軍していた。今川義元が討たれた時刻の元康は、先鋒隊のつとめとして、ずっと先の大高城のあたりで小競り合い中であった。
今川義元の死の知らせで今川全軍は駿河方面に退却していくが、元康一行は岡崎城のちかくで物陰にかくれた。今川軍最後の一人が峠の向こうに消えたころに這い出してきて、12年ぶりに自分の城である岡崎城に入いった。
その後の元康は、織田家や今川家に喰い荒らされた三河国内の平定に専念する。三河国を整えるために、まず、信長に同盟を申し入れる。美濃や近江への攻略を目指していた信長が永禄5年(1562年)清洲城で攻守同盟を結んだのは、自分にとっても大きなメリットがあったからである。戦国時代としては異例のことに、この清洲同盟は、信長が本能寺で倒れるまで一度も破棄されることがなかった。織田家、松平家のこのあたりは、秀吉と違い、何代も続いた大名としての品格が滲みでた部分であろう。
永禄6年(1563年)7月、今川家との決別とともに義元から押し付けられた[元]を棄て松平家康と改めた。そして、三河を平定した永禄9年(1566年)12月に自らを徳川家康と名乗る。
家康は、立場上から公式の場での酒はほどほどに口にしている。飲みすぎることが無いばかりか、酒席に長く座っていることも好まなかったようだ。酒に対する家康の考えは、非生産的な行為の最たるものと思っていたふしがある。
食事なども、贅沢なものより質素なものを好んだ。しかし、雪の下から掘り起こしたウドの芽を所望したり、銘酒製造時に出る酒粕使用の海魚の粕漬けを好んだり、肴に対するこだわりも持っていた。家康75歳での死の原因は、鯛のテンプラの食中毒という説もあるので、単に質素だけとはいい切れないところがある。もっとも、当時の世界での長者番付上位の人でもあるので、当然といいば当然の所産ではある。
徳川家康は、生涯を通し酒の醍醐味を知らずに一生を過ごした人かもしれない。その代償に、日本国の隅々まで彼の意思が浸透していった。
1616年、家康は75歳でなくなった。以後の徳川幕府は、1867年264年間の幕を閉じ、明治の世に移行する。
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