豊臣秀吉の酒
平成20年9月24日
羽柴秀吉にとって、主君織田信長が明智光秀に討たれたことにより、天下人へのチャンスが降ってきた。信長が本能寺で自刃した時には、秀吉は彼の命による重大な合戦さなかにあった。しぶとく反抗し続ける敵に対し、気を長く持った水攻めにより最後の勝利を信じていたのだ。
高松城攻めの羽柴秀吉が、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を知るのは、彼の側近長谷川宗仁からの書状が届く6月3日晩である。秀吉は誰はばからぬ、大泣きをする。他人がどう見ようが、それはうれし泣きであった。横にいた黒田官兵衛は重々しく「それにしても、殿は天の加護を得られたわけでござる」という。顔を覆っていた手の指の間から、秀吉の目が官兵衛の顔をうかがった。己の心中を見透かされたと思い、ドキッとしたのだ。
即刻開らいた重臣達との軍議で、対陣している毛利勢が信長の死を知る前に講和を結ぶという結論に達した。6月4日朝、黒田官兵衛が毛利勢陣営に赴き講和話をまとめた。
翌日の5日はそのまま動かず。毛利勢の追撃なしと見ると6日には全軍を動かし、6月7日には一気に80kmを行軍し姫路城に帰った。秀吉側の歩兵は走り疲れて死ぬ者や、脱落する者が続出したといわれる[中国大返し]の始まりである。
秀吉の次の行動は、姫路城にある全部の金銀を傘下部将に分け与え、全部の米を足軽に分け与えた。自らは頭をまるめて信長の弔い合戦という形を整えて、6月13日山崎の合戦に間に合うように25,000の兵が200Kmを5日で移動したのだ。この信じられない移動速度の秘密は、甲冑や武器弾薬は別働隊が運び、褌ひとつの身軽な兵はひたすら走りつづけたことにある。
羽柴秀吉は、自分の頭脳と行動力には絶大な自信を持っていた。だが、最高峰に近づくにしたがって、自分の容姿についての貫禄のなさを嘆かずにはいられなかった。背が低く、頭は禿げ上がり、奥目で鼻が低く、口元は乱喰い歯でところどころ欠けていた。
彼は自分の貫禄のなさはもとより、誰がどのような陰口を叩いているかも承知していた。なりあがり者の自分に対する織田家譜代の家臣団の態度は、事あるごとに不愉快でもあった。それらの人々をいなしたり脅したりした末に、強力な不満分子とは合戦も辞さず連戦連勝で制圧していった。
その後も秀吉の機知に富んだアイデアにより、周囲の戦国大名たちを次々と傘下におさめていった。2~3のしぶといやつらもいたが、秀吉の権力が増大していくに従い、それらも次第に自分の動きがニッチもサッチも立ち行かなくなっていった。当時の秀吉の底力は、これ以上反抗すれば、怒涛のような騎馬武者が山野の果てから押し寄せる夢を毎夜見なければならいほどに強大なものであった。
秀吉が最後の締めくくりとして全国の諸大名に心服を誓わせたのは、聚楽第に後陽成天皇を迎えることにより、自分の権力を見せ付けたときである。
聚楽第に後陽成天皇を迎えた折の酒宴では、しきたり通り大杯を順繰りに一同に廻された。その一巡を[一献]と呼び、その席では7献まで廻されたが、この席での秀吉は最初の一献で上気し、後は適当にごまかしたとのことである。秀吉の場合、傍にいる女性次第で酒がはずむことがあっても、真から酒好きではなかったようである。
女性の方は、正室北政所(寧々)の他に主だった側室を14人即座に数えることができる。どれも容姿端麗で教養も高く、おそらくは、ときおり毛筆で和歌などをしたためていたのでは、などと、勝手に想像した。
側室:淀殿 (茶々)織田信長の妹お市の方の娘。
側室:加賀殿(摩阿)前田利家の娘。
側室:松の丸殿(京極 龍子)夫が秀吉軍に殺されたあとにお世話になる。
側室:三の丸殿 信長の六女。
側室:三条殿(とら)会津藩主蒲生氏郷の妹。
側室:姫路殿 秀吉が姫路城にいた当時の側室。
側室:広沢局 名護屋城主の娘 秀吉(56歳当時)最後の側室。
側室:月桂院(嶋女)足利喜連川頼住の娘。側室の化粧料として3,800石を貰う。
側室:甲斐姫 武蔵国忍城主成田氏家の娘。
側室:南の局 鳥取城主 山名豊国の娘。
側室:香の前(お種の方)秀吉と伊達政宗の家臣の茂庭綱元と賭け碁をして秀吉が負け、茂庭に下賜(カシ)された側室で、茂庭の元へ移動の途中に正宗の子を孕んだ。まったく、いい加減な人達だ。
側室:南殿 秀吉の近江長浜時代の側室。
側室:備前殿(おふく)五大老の一人で岡山城主宇喜多秀家の母。正式な側室ではない。
秀吉は、主君の子供であろうと、家来の奥方であろうと、かっての盟友の子供だろうと、美形には見境の無い人だった。この他にも、当然に、記録されていない多くの女性がいたはずだ。
このように、歴史のところどころを振り返るとき、なぜか、現代の各国大統領や宰相の粒が小さく見えるときがある。
秀吉の後半生は、茶の湯に強く惹かれていく。茶道への憬れは、千利休を傍らにおきその道を極めたことでもうかがい知ることができる。しかし、最後に利休に切腹を強要したことに、何の意味があったものやら。現代にはびこる千利休物語は理屈ばかりがくどく、その辺のところがさっぱり理解できない。
豊臣秀吉の居城、大阪城のどこかに次の一文が掲げられていたらしい。
「飲める者は相応に飲め、しかし、飲めない者が強いて付き合い酒に酔うことはない」
ここに一筆書き加えるならば、当然「運転前には絶対飲むな!」だろう。
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