織田信長と明智光秀と酒
平成20年9月21日
世にいう戦国時代は、[応仁の乱(1467年)]が発端で始まった。そもそもは、将軍足利義政の後継者問題がこじれ、東軍(将軍派)と西軍(反将軍派)とに別れ、日本全土を巻き込み10年間に及ぶ争いとなったものである。この乱による国土荒廃と治安悪化により、足利将軍の権威は失墜の一途をたどる。我にもチャンスありとふんだ全国津々浦々の豪族、大名、小名が見果てぬ夢に向かい突き進んだ結果を戦国時代と呼んだ。
織田信長は、1534年(天文3年)5月、智勇に優れ[尾張の虎]として豪勇を馳せた織田信秀の3男として尾張那古野城に生まれた。
うつけ者と噂された織田信長少年の天才性をいち早く認めたのは、父信秀であった。1551年3月、流行病により42歳で急死した父親織田信秀 は、信長18歳で家督を継ぐためのレールを引いて置くという先見の明をも持っていた。
信長の尾張内の統一、桶狭間の合戦以後の政治的軍事的手腕は、科学的合理性にもとづくものであった。昔ながらの合戦術を絶えず改良して作戦の近代化を図り、次々と他国を制圧していく姿は革命児そのものであり、混沌の世に送りつけられた時を司る神の申し子であった。だが、織田信長の天才が故の非情な決断力と行動力に対し、その頃から織田家臣団の中にも危惧を抱くものは多かった。
織田信長の戦国トーナメント戦への実質的デビューは、永禄3年(1560年)桶狭間で今川義元を破ったときであろう。
駿河、遠江、三河三国の太守である今川義元は、上洛の道筋にある尾張を踏みにじるために軍を進めていた。阻止しようとする織田信長軍は、農家の年寄りを引き出しても5千の軍を揃えるのがやっとだった。
この時の信長方将兵の誰一人として、今川軍に勝てると思っている者はいなかったのだ。しかし、誰一人として敵に内通する者も戦線離脱する者もいなかったことは、当時としては驚異に値する事でもあった。おそらく、信長に対しての未知数的な魅力を誰もが抱いていたのかも知れない。「死なば諸とも」「生きていいればメッケ物」というような心境だったのであろうか。
この信長ストーリの詳細は、小説、映画、芝居、テレビにより、ウンザリするほど繰り返されている。主人公がメキメキ頭角をあらわしていくスペクタル・アクション・サムライムービーは、いつの世でも受け入れられ易い素材であった。
織田信長の時代を読む卓越した才能と己に有利に働く幸運がなければ、歴史的空間に忘れ去られるその他大勢の脇役でしかなかった。さしずめ、NHK大河ドラマでの2月の第3日曜日ごろの放映分中ほどで、弟が率いる弓部隊が放った矢の雨を身体に受け、ヤマアラシの毛皮のような最後をとげて、以後は時々の回想シーンに顔を出す程度であったであろう。
桶狭間の戦いでの勝利は全国の武将連の度肝を抜く事件であり、大多数を占める民衆に信長の名前を刻み込む特大のニュースとなった。我こそはと自分の道を模索していた戦国大名たちも「ナンダー! コリャー!」と尾張方向に眼を向けたのだった。
信長の非凡さは、桶狭間の合戦の2年後に結んだ徳川家康との同盟にある。この同盟により、自国を取り囲むあまたの戦国大名を外側から牽制することに成功したのだ。このあと信長は本格的に自分の描いた計画を実行に移していく。永禄10年(1567年)に斉藤道三の孫に当たる斉藤竜興を滅ぼし、岐阜城の主となったことで天下取の一歩を踏み出す。
当時の日本を訪れたポルトガル宣教師ルイス・フロイトの著書[日本史]の中には、1569年に織田信長に会った印象をこう述べている。
「身長170Cmほどの長身痩躯で髭は少なく、その声は500m先からでも聞こえるほどかん高く、武技を好む粗野な性格であった。また、正義や慈悲の行いを好むことと、傲慢で名誉を尊ぶ心をあわせ持ってもいた。ことが起れば決断力に富み戦術は巧みで、従来の規律を無視し、部下の進言に従うことはほとんどなかった。部下の前では酒は飲まず、周囲の人々からは異常なほどの畏敬うけていた」
実際の織田信長は、酒は非常に強かったようだ。当時の天皇や将軍との宴では、かなりの量を口にしたとのことである。大部分の大人がそうであるように、彼もまた、酒を殺して飲めるタイプだったのだろう。ただし、戦陣においては、一切酒を口にしなかったそうだ。かの桶狭間で、思い上がった今川勢の酒宴の最中に奇襲をかけて義元を打ち取ったことが、逆に彼の教訓になっていたのであろう。
それは、部下たちの酒宴でも気を許すことはなく、自分は余り飲まないように心がけ、部下にはとことん飲ませるのが好きであった。彼は、相手を酔わせておいて本心や下心などを観察することの好きな、酒飲みにとって最もいやなタイプの人間でもある。幸いなことには、気を許しての酒席での悪意のない言動を、さも会社に対して悪意を持っているかのように、上役に報告されることだけはなかった。報告しようにも、当時の彼には上役はいなかったのである。
織田信長の短気な性格も、また有名である。酒宴の席で、自分が飲めといった相手が飲まないと、すぐに機嫌を悪くする。
信長の家臣の一人に下戸(ゲコ)で有名な明智光秀という部将がいた。彼は、室町幕府第13代将軍足利義輝に信任の厚い朝倉義景に仕えていたが、縁あって信長の禄をはむことになった人物である。以来、仕事の上では信長の信頼を裏切ることのない完璧に近いものであった。だが、酒の席での信長の無理難題は、明智光秀に向けられる場合が多かったのである。
イジメられっ子の明智光秀は、傘下部将連の力強い勧めもあり、全軍の先頭に立ち信長の投宿先本能寺に駒をすすめることになった。本能寺内に就寝中の信長は、周囲を揺るがすどよめきで眼を醒まし事の重大さを知る。信長は「是非に及ばず」と云ったというが、「なんで光秀が・・・」と思ったことであろう。
織田信長は、火を放った本能寺の奥で自らの身体に刀を突き入れた。1582年(天正10年)織田信長48歳の生涯はあっけなく終わった。信長の遺体が発見されなかったことから、さまざまな憶測がはびこり現在にいたっている。実地検証が甘いからである。
信長譜代の家臣団を別にすれば、明智光秀と豊臣秀吉の有能さは拮抗するものであった。ただし、計算ずくめとも思われる大らかさを持つ秀吉とは異なり、光秀の性格は融通が利かなかった。並外れた頭脳と統率力を持って一度は天下を手にしたかに見えたが、真面目さが災いしてか戦国時代の時流に即しなかった。ここでも、詰が甘かった。
信長の死から12日後の山崎の合戦で豊臣秀吉に破れ、生まれ故郷に逃れる途中で土民の持つ泥の付いた竹槍に刺し連ねられ殺害される。1582年(天正10年)、明智光秀56歳のことであった。
武士と生まれたからには天下人の夢を抱かない者はいなかったであろう。だが、光秀の場合は、主に対し直接手を加えたことで、一般大衆の印象は良くはなかった。そして、後世まで「3日天下」などと不名誉な言葉がつきまとうことになった。蔭で光秀をそのように仕向けたのは、秀吉だとも、家康だとも、疑う者は沢山いた。
見方にもよるが、さまざまな階層に悪いやつらは満遍なく張り付いている。中の下程度の悪者は、事件を起こしテレビカメラを向けられると、決まって自分の掌でレンズを覆い隠す仕草をする。これらは小物だ。いつの時代にも本当に悪い奴らは別にいる。
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