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かって、田中角栄ありけり

平成2036

田中角栄に関する本は、過去に何十冊も世に出た。田中角栄を書けば少々眉唾であっても売れた時代があった。しかし、あの田中角栄の素晴らしい人間性を表現することなど、誰一人できなかったように思えた。

田中角栄は大正754日、新潟県刈羽郡大字坂田で生まれる。様々な障害多き道を辿って、昭和22年第一次吉田内閣解散による第23回衆議院議員総選挙で第1回目の当選をはたし、政界へデビューした男である。

かくいう田中角栄は、敗戦を朝鮮半島のある工事現場で迎えた。勿論、人の下で鶴嘴を振り下ろしていたのではなく、暖かな眼を部下に注ぎながら荒い言葉で工事を急がせるのが仕事であっただろう。部下として使用していた者を含め、周囲の者が戦勝国の国民となった朝鮮からの脱出は並大抵のものではなかったはずだ。遠くは倭寇に苦しめられ、太閤秀吉の時代にも日本国に虐げられ続けた朝鮮国民にも、日本人以上に暖かい血が流れていたことも彼に幸いした。田中角栄は、幸運にも帰国を果たすことが出来たのである。

帰国しても天性の土木人の田中角栄は、建設会社を運営し続けた。後に「コンピューター付ブルトゥザー」と呼ばれた人物が若いときに馬力がない筈はなく、周囲の信用とお金をかき集めたことは容易に想像できる。当時、彼の会社顧問に戦前から国会議員をやっていた男がいて、田中の名で政治的なお金を自分を含めた政治家に用立てることがつづいた。献金することが政治行動と呼ぶのなら、これが最初の政治的な行動である。田中の会社の顧問だった議員の勧めで、衆議院総選挙に立候補する。周囲の裏表ありの裏切りが元で、結果は落選。一年後の昭和224月の総選挙に出て初当選した。その時、田中は28歳であった。

田中は初当選の3年後の昭和25年頃から、議員立法活動に精力を傾けるようになる。田中の政治活動の一貫した理念は、裏日本の民衆を貧困から解放することにあった。それは、全国民が平等の生活安定を図かるために国土の再編成をすることにより、日本列島の再利用を目指すことであった。なにやら、すごく難しい土木的なことを考えていたようだ。

田中は法案提出者の代表となり、昭和25年から同28年の4年間に、なんと21の法律を成立させたのである。内容は国民生活の基本となる住宅、道路、国土開発や、弱者の救済に関する立法である。

「仕事すれば、批判や反対があって当然。何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、あ、あ、田中は仕事をしているのだと、まぁこう思っていただきたい」彼は後年、人の前でこういっている。

後年成立した[住宅金融公庫法][公営住宅法][道路法][道路整備費の財源等に関する臨時措置法]の法律は、少なからず田中の力によるものである。

「私はね、理想がないわけじゃないが、理想を求めて果てしない旅を続けていく性分じゃない。今日は今日、その日にタイムリーにものを片付けるんです。明日でも来年でも、同じ問題に対して別な解決法が出てきたら、政策の転換をすればいい。だから、判断は非情に早いんだ」昭和45年の幹事長時代に田中が言った言葉である。

田中は昭和4775日、総裁公選決戦投票で第64代自民党総裁に選ばれた。このときの対抗馬は、以前から確執のあった現在の総理大臣福田康夫の父君福田赳夫である。国会での首班指名を受けて内閣総理大臣に就任したのが田中角栄54歳のときであった。後年、安倍晋三という人が52歳で 総理大臣になったが奇麗事をいい続けた末に立ち行かず、「アソーにはめられた」との失言を残し一年後に退陣した。本当の意味での政治家は、したたかさを持つてシッカリと安倍をはめた方だが、もしも私に首班指名の一票があったとしても、この方には投じない。その点、田中角栄の場合、前総理大臣に「お前はこの次だ」といわれたのにもかかわらず、当然総理大臣に納まるべき福田赳夫に戦いを挑み、総理大臣の椅子に滑り込んでしまうという、[何でもありバトル]を作り出すという政治的なセンスを持っていた。

幹事長時代の田中角栄に、100万円の金策を依頼した者がいた。その人は300万円の入った三越デパートの買物袋を渡された。その袋の底には1枚の田中のメモが目に入った。「100万円で借金を返せ、100万円で家族と従業員にうまいものを食わせろ、100万円は貯金して置け、以上返却は一切無用」であった。田中軍団の根底に流れていたものは、トップに対し持ち続ける強い憧れのようなものだったのかも知れない。

田中は日本の現職宰相として始めて中国を訪問し、時の周恩来総理との日中共同声明により国交正常化を図った。田中角栄が首相就任後84日目に成し遂げた、戦後27年目の日中国交正常化であった。聞くところによると、「過去にいろいろあったが、今後は仲良くやろう!」という意味の言葉だけで、過去の戦争責任や領土問題などは一切口にせず、周恩来の手の骨が折れるにではないかと思われるほ強く握り続けたということである。もともと土建屋である田中の握力は並はずれで、誤って石を強打したアイアンの曲がりを、両手で簡単に元に戻したとい伝説がある。私は「まさかそこまではないだろう」と密かに思っている。

日本列島改造論が根底にある田中角栄の政策が軌道に乗るかに見えた昭和4810月、オイルショックは起こった。原油輸出元のアラブ諸国が、喧嘩相手のイスラエルの肩を持つ西側へ対しての制裁策をとったのである。原油の生産を制限し、その価格を常識の枠から噴出するほどの値上げをした。国内の道路に溢れるほど自動車を走らせていた日本人はオッタマゲて、狼狽の末にトイレットペーパを買いあさったりした。

経済大国の日本を任された田中は、資源海外依存度の高さを誇る国の有るべき姿を、エネルギー資源確保の国際的協調以外にないと考えた。このことが外交に反映され、首相在職の2年5ケ月間に8回も海外にでて、延べ20ヶ国を訪問している。

昭和4911月ロッキード疑惑で追い詰められての退陣表明をした後も、田中軍団の勢力は衰えなかった。総裁公選前の昭和475月の旗揚げ時、田中派は衆院、参院合わせて81人だった。それが最終的に141人まで膨張した。この田中派も、昭和6274日の竹下派独立により消えていく。角栄は怒った。眞紀子も怒った。直紀は物陰に隠れた。

「創業ということが、いかに難しいかは誰でも知っている。先達が作った会社を継承し、業績をあげるのは難しいことではない。初めて仕事を起こすときは、実績がないので銀行が金を貸してくれないし、友達も協力してくれない。創業者に敬意を払い、敬慕の情を持つのは、お互い当然のことである」ある大手企業創業者の一周忌法要参列時に田中角栄が話した内容である。

そして、平成512月、田中角栄は75歳で永眠した。

  いま考えると、田中角栄の長所でも短所でもあるバンカラには胸の奥が暖かくなるような人間性が秘められていた。当時、靴下で下駄を履くことをたびたび試したが、身体だけが前に行き下駄はその位置を動かないほうが多かった。靴下を履いたまま下駄を引きずるのが似合った人は彼をおいて未だに無い。

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