ジュディ・ガーランドとライザ・ミネリ
平成19年11月8日
私のビデオコレクションの中のライザ・ミネリ主演映画[ステッピング・アウト(1991年)]を再度観た。このカセットをビデオデッキに押し込むのは、何回目になるだろうか。心が沈み、気分を変えたいときにはいつも、古い映画の世界に逃げ込むのが私のライフスタイルである。
過去のアメリカでの実力のある女優で歌手の一人ライザ・ミネリは、映画監督のビンセント・ミネリと女優のジュディ・ガーランドの間に1946年に生れた。この両親から生まれたミネリはわずか2歳で映画にデビュー、その才能はめざましく成長しつづけて1963年(S38年)17歳でブロードウェイにデビューした。この2年後にトニー賞(主演女優賞)を受賞している。1972年(26歳)公開の[キャバレー]では、アカデミー賞主演女優賞に輝くほどの演技力と歌唱力を併せ持つまでに成長した。
[ステッピング・アウト(1991年)]は、ミネリ扮するダンス教師と、ダンスレッスンのピアノ奏者とを中心に、ダンス教室の8人の生徒との心温まる物語である。人生に自信のもてない中年の男性一人を含む8人の生徒は、事情の相違はあるが単調な現実に飽き足らずに、それぞれの仕事の終わった後にダンススクールに集まってくる。ここで云うダンスとはタップダンスのことで、物語は当然のことにダンスを踊ったことのない初心者を根気良く教えて市主催のチャリティーショーめざして練習に励むということになる。紆余曲折の末のショー出演では、それなりの評価を得て満場の拍手でのアンコールもあり無事終了する。この打ち上げのパーテー会場でミネリ扮する先生は、8人の生徒から真新しいタップシューズを贈られる。教室そのもの運営は楽なものではなく、彼女のシューズが限界に来ていることを知っている生徒からの贈り物を胸に抱き、先生は云う「ありがとう。皆さんにもう一言だけいいたいことがあるの!」8人生徒は聞き耳を立てる。「来年もこのショーに出ましょう」大拍手がいつまでも続く。
そして1年後のチャリティーショーに出演したミネリ扮する先生と8人の生徒、伴奏の一人としてレッスンの伴奏を受け持っていたビアニストも一緒である。この一年で腕を上げたみんなのダンスショーがこの映画のラストを締める。見所は、8人の生徒のダンス教室での何もできないという演技である。アメリカのショービジネスの素晴らしいところは、ダンス人口の層が広いということにつきる。8人の生徒役のエンデングショーでのステップの確かさには、見ている者の眼が涙で湿ってくる。同じ映画を何回観ても、同じ場面で涙は出てくるのである。
ライザ・ミネリの母親[ジュディ・ガーランド]は、1922年(大正11年)生れの歌手で女優である。ボードビリアンの両親の影響で、2歳のとき2人の姉と一緒に歌った[ジングル・ベル]が評判を呼び、その後3人は[ガム・シスターズ]の名で舞台とラジオ番組で人気者になる。1935年ジュディ・ガーランド13歳の時にMGM社の短編映画[サンタバーバラ祭]出演がきっかけとなり同社と専属契約を結ぶ。数本の映画出演後の1937年[踊る不夜城]で歌った曲が注目され、子役スターの座を不動のものにした。その後はMGM社のドル箱スター[ミッキー・ルーニー]の相手役として基盤を固めていく。1939年ジュディ・ガーランド17歳での[オズの魔法使]のドロシー役として抜擢され、主題歌[虹の彼方へ]のヒットにより子役としてのアカデミー特別賞を受賞しMGMのドル箱スターの仲間入りをする。
歌って踊れて演技もできるジュディ・ガーランドは、ミッキー・ルーニー、ラナ・ターナー、ジン・ケリー等との競演での数々のヒット作品を生み、40年代のMGM黄金期を代表する女優の一人となる。
当時のジュディ・ガーランドの撮影は一日18時間にもおよび、撮影合間の少しの時間にも睡眠薬を投与されて眠り、撮影の準備ができると神経刺激剤で活性化を図り撮影が始まるという具合であった。結果として、彼女の身体は薬物に蝕まれ始める。
ジュディ・ガーランドの最初の結婚は1941年18歳であったが、相手のオーケストラ指揮者とは1945年23歳に離婚している。この年、映画監督のヴィンセント・ミネリと再婚し、翌1946年にライザ・ミネリが生れている。この頃には神経症の悪化等から薬物依存度が大きくなり、撮影の現場への遅刻などが多くなる。
フレッド・アステアと競演した1948年[イースター・パレード]は大ヒットを放つが、ジン・ケリーと競演した1948年[踊る海賊]では大敗する。その後も撮影の遅刻や出勤拒否がかさなり、後の名作の一つにかぞえられたることなった数本の役から降ろされてしまう。MGMは1950年にジュディ・ガーランドを解雇する。翌1951年ヴィンセント・ミネリと離婚、1952年に3番目の夫となるプロジューサー[シド・ラフト]と結婚する。
シド・ラフトの介護の末に、活動の場を舞台に向けたジュディ・ガーランドは水を得た魚のように復活してきた。彼の製作による1954年映画[スタア誕生]に再起を賭けたジュディ・ガーランドの熱演が評価され、アカデミー主演女優賞の候補に挙がるが、[喝采]のグレース・ケリーに奪われてしまった。グレース・ケリーと競演したビング・クロスビーとウィリアム・ホールデンという当時の2大俳優の力もあっただろうが、この映画での彼女の演技には眼を見張るものがある。
ジュディ・ガーランドのその後は、キャバレーやコンサートを中心の活動となるが、私生活ではアルコールと睡眠薬の量は以前より多くなり荒れる一方であった。1969年シド・ラフトと離婚、その後の彼女は俳優のマーク・ハーロンとデスコ経営者との二度の結婚をした。1969年睡眠薬の誤飲で、47歳の若さでこの世を去る。
この47年の年月に疲れきって死んでいったジュディ・ガーランドこそ、ライザ・ミネリの母親である。天才的歌と踊りと演技の才能が確実に子供に受け継がれていたことが、親子にとりおおきな救いとなっている。
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