アメリカン・プロ・フットボールの父ロンバルディ
平成21年10月31日
過去に、ミスター・プロ・フットボールと呼ばれた男がいる。今でもフットボールファンのあいだの語り草になっている[ヴィンス・ロンバルディ(1913~1970)]がその人である。
ヴィンス・ロンバルディは生前こう云ったそうだ。「男たちにとって最高のときは必死で戦い、疲れ果て、その戦いの場に満ちたりて横たわったときだ」と。
ロンバルディは、1959年(昭和34年)~1967(昭和42年)までの9シーズンをNFL(ナショナルフットボールリーグ)の[グリーンベイ・パッカーズ]のヘッドコーチを務め、[ポストシーズン(予選リーグの上位チーム順位決定のためのプレーオフ)]での通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグ優勝と第一回と第二回[スーパーボウル(NFLの優勝チームとAFL=アメリカンフッツトボールチームの優勝チームの対抗戦)]の勝者となった。ロンバルディの知名度と人気は、当時の大統領のリチャード・ニクソンをしのぐほどだった云う。
発足当時と異なる[現在のNFL]は、旧NFLを母体した[NFC=ナショナル・フットボール・カンファレンス]と、旧AFLを母体とした[AFC=アメリカン・フットボール・カンファレンス]の2つのリーグの総称として呼んでいるようだ。そして、アメリカンフットボール最大のプロリーグで、アメリカ野球のメジャーリーグやアメリカ国内のプロバスケットリーグをはるかにしのぐ人気は、眼を輝かせたファンの途絶えることのない群れを日曜日のスタジアムに向かわせるのである。
ヴィンス・ロンバルディはイタリアのナポリ生れの父ヘンリー・ロンバルディとブルックリン生れの母マチルダ・イッツォとの間に1913年(大正2年)に生れた。誕生の地ニューヨークのブルックリンで育ち、パブリックスクール(公立学校)に8年間通った後の1928年(15歳)にカソリック神父の養成校に入学する。2年後に神父への道を断念、[サン・フランシスコ・プレパラトリースクール]に転校した。ここで彼は、アメリカン・フットボールと出会い、その選手して活躍した。
1933年(昭和8年)ロンバルディはフォーダム大学(ニューヨーク市の北端ブロンクス区にある)のヘッドコーチ[ジム・クロウリー]の下でプレーするためにフットボール奨学金を獲得した。体重83.8Kg、身長172.7Cmの彼の体格はフットボール選手の中では小粒だったが、[花崗岩の7個の塊]と呼ばれたフロントラインの一員としてフォーダム大学の25連勝の強力な推進力となった。ロンバルディは学業でも優秀な学生で、1937年(昭和12年)にビジネス博士号を取り優等生として卒業している。
ロンバルディのコーチングキャリアは、1939年(昭和14年)ハイスクールでのアシスタントコーチが手始めだった。当時26歳のロンバルディは、フォーダム大学時代のチームメートであるヘッドコーチの下でのアシスタントコーチとして選手の育成に参加したのだ。
このニュージャージー州にある[聖セシリア・カトリックハイスクール]での彼の生活状況は、生徒にラテン語、科学、物理学を教えての年収が1,800ドルで、下宿屋の一室の家賃は週額1ドル50セントだった。おそらく、この部屋には彼のほかに南京虫なども同居していたに違いない。
1940年(昭和15年)に、フォーダム大学でのチームメートの従姉妹(イトコ)の[マリー・プラニッツ]と結婚し、二人は楽しく短い夜を過ごした。その2年後の1942年(昭和17年)から、この[聖セシリア・カトリックハイスクール]のヘッドコーチとして5年間を過ごし、1947年(昭和22年)に母校フォーダム大学に行き新入生担当のコーチとなった。この翌年には同大学代表チームのアシスタントコーチとなる。翌1948年(昭和23年)のシーズンには、ウエストポイントの陸軍士官学校のアシスタントコーチも兼ねるようになった。
ウエストポイントでは名将の誉れ高いヘッドコーチ[アール・ブラウン]のもとで[オフェンシヴラインコーチ(ゲーム進行中にボールに触れることができないスクリメージラインにセットする7人の侍の為のコーチらしい)]を務め、名将[アール・ブラウン]の采配する[実行力を重視するスタイル]をマスターした。それが後のロンバルディ率いるNFLチームの一貫したスタイルともなった。ロンバルディはこの陸軍での5シーズンのコーチの後に、NFL[ニューヨーク・ジャイアンツのアシスタントコーチ]に就任する。こうして、1954年(昭和29年)ロンバルディ41歳の時に、プロフットボールコーチとしての彼のキャリアが開始されたのだった。
NFLニューヨーク・ジャイアンツでの彼は、[オフェンスコーディネーター(攻撃時の得点を得るための作戦立案と試合時の攻撃パターンの指示をする役らしい)]のポジションに就いた。このジャイアンツ3年目の1956年(昭和31年)のシーズンには、若くて有能な[ディフェンシヴコーディネーターのトム・ランドリー]らと共に自軍をチャンピオンシップチームに導き、シカゴ・ベアーズを破りリーグタイトルを物にしている。当時の強力な選手の中でも、ロンバルディが特に頼りにした選手の中にはハーフバックとしての[フランク・ギフォード]がいる。この選手が、1956年シーズンにフットボール界で最も権威のある[AP通信NFL最優秀選手賞]を手にしている。
なお、AP通信NFL最優秀選手賞の最多保持者が私の好きな黒人俳優[ジム・ブラウン]で、1957年、1958年、1965年の3回に渡りこの賞を手にしている。彼はまもなくして映画界に転進し、数多くの大作に出演したなかには主演作品も少なくない。西部劇映画[100挺のライフル(1968年)]に主演したおりには、人気白人グラマー女優の[ラクエル・ウェルチ]と濃厚なラブシーンを演じ、当時の社会的物議の対象になった。黒人男性と白人女性のラブシーンが、自由の国と自らが呼んでいるアメリカの男性に不快感を抱かせたもようである。この映画には、あの[バート・レイノルズ]が脇役で出演している。
フットボールの本筋に戻り、
1959年(昭和34年)45歳のヴィンス・ロンバルディは、前年シーズン成績1勝10敗1分の[グリーンベイ・パッカーズ]にヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャとして招かれた。フロント陣に対し、「金は出しても、口は出すな!」という約束を取り付けての就任であった。
ロンバルディのヘッドコーチ就任の立役者は、[ジャック・ヴァイニシ]という若くて、有能で、ハンサムなパッカーズの人事部長だった。彼は成績不審の自チーム改革のために、ロンバルディに白羽の矢を立てた。事前に、リーグ中の有力コーチやウエストポイント陸軍士官学校のヘッドコーチに彼の人間性やフットボ-ルのセンスを聞いて回り、どのコーチからも「現在の彼は、NFL最高のヘッドコーチを務める用意は調っている」との確証を得ての上での招聘であった。ロンバルディがヘッドコーチ就任時にグリーンベイの有力者たちに「金は出しても、口は出すな!」という条件をださせたのは、このジャック・ヴァイニシのアドバイスがあってのことである。事あるごとにチーム外の有力者が口を出していたのでは、チーム再建がおぼつかないことを彼が一番知っていたのだった。このジャック・ヴァイニシは、33歳のときに心臓病が原因でこの世を去った。有能で、純真で、美人である人ほど薄命なのである。しかし、まもなく70歳になろうとしているこの私は、身体的になんら不安はない。たぶん最後まで生きつづけるだろう。なんとなく、複雑な気持ちである。
ロンバルディは就任後の手始めに超ハードなトレーニング案を作成、自分に対しての絶対服従を全選手に科した。パッカーズ就任開始のシーズン成績は7勝5敗であった。
[ロンバルディタイム]という言葉がある。彼の傘下のチーム関係者は、つねに予定の10分から15分早く指定の場所に到着しなければならなかった。この言葉は「それより遅れれば遅刻とみなす」という明快な彼の理念が反映する言葉なのだ。
ロンバルディの最初のミーティングで感極まったチームのQB[バート・スター]は、ミーテンィグが終った途端に電話機に飛び付き「ハニー、僕らはまた勝てるようになる!」と奥様に電話した。
パッカーズ就任2年目の1960年(昭和35年)ロンバルディは、自軍を率いてNFLチャンピオンシップゲームに駒を進めた。しかし、このゲームは僅差で敗北した。ヴィンス・ロンバルディは「このチャンピオンシップゲームでの敗北は、受け入れ難い!」と云い放ち、「負けたのではない。時間が無くなっただけだ」結んだ。
パッカーズはその後の9回のポストシーズンゲームを勝利し、彼の指揮する期間には2度と敗戦の悲哀を味わうことはなかった。
ロンバルディ云う「勝利が総てではない。それが唯一なのだ」と。
ある時のロンバルディが「勝敗は関係ないというなら、彼らはなぜあのように必死にスコアをつけるのだ?」と、マスコミに問いかけたことがある。
勝敗にこだわるといわれたロンバルディだが、自チームの選手の試合中の悪質反則を眼にしたときは有無を云わせずベンチに戻し、その選手が謝罪しないかぎり試合に戻すことはなかった。
プロ・アメリカンフットボール初期のアメリカは、強い人種差別の波の中にあった。当時のロンバルディは、フットボールの才能のある選手を見つけると肌の色にかかわらず登用する度量の持主だった。事実、ロンバルディ采配下のパッカーズの中には、どのチームより黒人選手の数が多かったし、パッカーズヘッドコーチ就任2年目には「もし黒人選手の入店を拒む店があれば、そこには我がチーム選手の全員を出入りさせない」というメッセージをグリーンベイの総てのレストラン、酒場、床屋、マーケットまで送りつけた。
ロンバルディ率いるパッカーズの戦いの中で、最も有名な試合のひとつに[アイスボウル]と呼ばれたものがある。1967年(昭和42年)12月31日のNFL決勝戦は、前年に同じく[ダラス・カウボーイズ]をパッカーズのホーム[ランボー・フィールド]に迎えての一戦であった。
外気温-25度Cで、強い北風が容赦なく吹込むフィルドでだった。
これは現在までのNFL試合上最低の気温で、観客席のファンには多数の凍傷者がでた。地下埋設されたヒーターは故障し、フィルドは硬く凍り付いていた。
ロンバルディは、戦いを有利にするために自分が指示してヒーターを使えなくしたと、敵に思われるのではないかと、心配した。
当然テキサスカウボーイズは、この世のものとも思えない寒さにビックリコした。
迎える地元パッカーズの選手の誰もが、試合の延期を神に祈った。
それぞれの思惑は別として試合は開始され、パッカーズは前半始に14点のリードを奪った。後半になり息を吹き返したカウボーイズに14-10と追い上げられてのハーフタイムとなる。後半に入ってもカウボーイズに攻撃権が支配されるも、パッカーズは4点のリードのまま第4クォーターにいたる。しかし、カウボーイズのTD(タッチダウン)パスで14―16と逆転された。
残り時間4分50秒、自陣32ヤードからパッカーズの最後の攻撃。QBスターはショートパスを立て続けに通し敵陣奥にボールを進めた。敵陣1ヤードでの1stダウン、2ndダウン、3rdダウンともにRBへのランは止められ、残り20秒で最後のタイムアウトをとる。
QBのバート・スターは、ゴール前の凍結を理由にFB(フルバック)へのハンドオフをやめて自身のQB(クォーターバック)スニークを提案した。これは、スナップを受けたQB自身が、すぐに前に突進してボールを進めるプレーである。
ロンバルディはスターの提案を承認し、選手たちをフィルドに送り出した。選手はそれぞれの役目を果たし、スターは、この試合2個目のTD(タッチダウン)を奪いパッカーズは勝利した。
記者団に囲まれたロンバルディは「我々は賭けに出て、そして勝った」と、短く答えた。
永くパッカーズの黄金期を支えてきたスター選手も年とともに衰えが目立ち、あるものはケガで、ある者は己の限界を悟り引退するものも出てきた時期である。過去での圧倒的な実力とはほど遠いチーム状態の中で掴み取った勝利であった。
身体中に生傷を貼り付け、極限のプレッシャーに耐えながらの自分の役目を全うしての永い道のりの果ての 気温-25度C、強い北風の吹き込むフィルドでの勝利。それを凍傷にさいなまれながら固唾をのんで見守っていたファンの歓声。フィルドに雪崩れ込んできた大勢のファンの群れ。フランチャイズ史上で最も幸せな瞬間に総ての者が酔った。
2週間後、パッカーズは第2回スーパーボウルにおいてオークランド・レイダーズを破り優勝した。これがロンバルディのグリーンベイ・パッカーズを率いての最後の試合となった。
ロンバルディは1967年(昭和42年)のシーズンが終わるとパッカーズのヘッドコーチを退いた。この年、グリーンベイ・パッカーズのホームスタジアム[ランボー・フィールド]のある[ハイランド・アベニュー]が[ロンバルディアベニュー]に改名された。
ロンバルディは翌1968年シーズンGM(ゼネラルマネージャー)としてパッカーズにとどまった。彼は、後任のヘッドコーチとして、いままで彼のアシスタントコーチだった[フィル・ベングトソン]を指名したが、このシーズンの成績は6勝7敗1分に終わる。
1969年(昭和44年)シーズン、[ワシントン・レッドスキンズ]のヘッドコーチに就任したロンバルディは、それまでの連続14シーズン負け越しのチームを率いて7勝5敗2分の戦跡を残した。ロンバルディ流に改良されたチーム[レッドスキンズ]は、1970年代のヘッドコーチ[ジョージ・アレン]の下でめざましい成功を収めることになる。
1970年6月レッドスキンズ2年目のトレーニングキャンプに入る前に、ロンバルディは大腸癌との診断をくだされる。これまで消化器系の不安を抱えながら病院を避けていたことが災いし、癌は大腸から肝臓、腹膜、リンパ腺までも蝕んでいた。
1970年(昭和45年)9月3日、ヴィンセント・トマス・ロンバルディは別の世界に旅たった。1913年(大正2年)7月11日に誕生しての57年2ヶ月間弱の太くて短い生涯であった。
過ってロンバルディの下で戦った名LB(ラインパッカー)[デイヴ・ロビンソン]は、自分の父親を亡くした時と同じ深い悲しみに襲われ、後日「白人の葬儀で涙を流したのは、あの時だけだった」と、もらした。
ロンバルディの葬儀は、1970年9月7日ニューヨークの[セント・パトリック大聖堂]で行われた。名誉棺側付添人には[バート・スター(1966年NEL最優秀選手賞のパッカーズのQB)]、[ポール・ホーナング(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)]、[ウィリー・デイビス(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)]、[トニー・キャナデオ(プロフットボウル殿堂入のパッカーズ選手)]、[ウェリントン・マーラ(フォーダム大学時代の友人で、当時ニューヨーク・ジャイアンツのオーナー)]他がつき、大勢のファンが参列した。
ロンバルディは、ニュージャージー州ミドルタウンの小さな墓地の、両親と彼の妻の隣に埋葬された。
ロンバルディの死後の1970年9月、NFLは毎年のスーパーボウル優勝チームに与えられるトロフィーを[ビィンス・ロンバルディ・トロフィー]と名づけた。
[ビィンス・ロンバルディ・トロフィー]は、ニューヨークの宝石店ティファニーがデザインしたもので、このアメリカンフットボールをかたどった銀色に輝くトロフィーは、毎年、命知らずの最強の男たちにあたえらられる。
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